野呂美加さんの講演会 2 - 1
http://youtu.be/gUTlMdX4brc
……なるんですけれども、そういう汚染された家からいろんなものを盗んでく人もいるので、そうすると、その物を持ち出すと、その汚染がまた広がっていくわけですね。で、それを防止するために最初はそういうことをやってました。
これはもうそういう手が回らなくなって、放置された廃村ですね。
大体どのぐらいから廃村になるかというと、 0.4 マイクロから 0.5 マイクロで廃村になってる村がいっぱいありました。
皆さん、えー、そんな程度でって思うかもしれないけど、子どもたちが具合悪くなって、それで政府の調査団がやってきて、それで廃村という形ですね。子どもの体をカウンターがわりにしてつぶしていきました。
例えば、このホットスポットというのは、 150 キロ、 200 キロ離れた地域でも、近い地域でもあるんですけど、隣の村は大丈夫なのにこっちの村はものすごく汚染されてるとかいうことは、やっぱり雨とか風の関係で起こってきます。
だから、現在、飯舘村がすごく強いんだけど、その地域の横の隣は大丈夫だといってるのは確かにそういうことなんですね。
ただ、食べ物の汚染は防ぎ切れないので、そこら辺はどうなのかなと思います。
これは、事故のとき 30 キロ圏内に住んでた家族なんですけれども、まだこのお姉ちゃんが 3 歳のときに事故が起こって、ここだけは旧ソ連を評価できるかなと思ったのは、事故の後、急に 3 日分の食べ物と着替えを持って集まりなさいみたいな感じで言われて、バスに乗っけられて、旧ソ連ですから何の自由もないので、何だかよくわからないけど、 3 日たったら戻ってくるんだからってバスに乗っけられて、家族ごと別の村にぼとんと落とされた。 150 キロぐらい離れたところに。
で、その後、二度と戻ることはできなかった。でも、そういう形で無理無理引き離さない限り、今、日本で起こっていることも同じです。いつ帰れるんだろう、帰りたいという思いが断ちきれないし、そういうことを許さない国だったので、政府のやることに一切反抗できない国でしたし、 3 年たってから、事故があって、汚染されてて、また汚染されたところに移されたんだということがわかった感じですね。
で、このお姉ちゃんは後でかけはし(野呂さんのNPO)に保養に来て、大きくなってお医者さんになりました。いとこが小児甲状腺がんになってるのを見て、自分もお医者さんになろうって決めて。
これは、この先生に最初、私も汚染地に入ったときに、「日本人は何てことしてくれたんだ」とこの先生に涙ながらにすごい噛みつかれまして、その先生の心の痛みというか、一体何があったんだということがわかったときに、まあ、申し訳なくて、しかも、人の民族のところにまで行って何てことしでかしてくれたんだっていう、申し訳ないっていう、取り返しのつかないことをしてくれたと。その 10 年間救援入らなかったというのはとっても痛かったんですね。
それで、国連の中の力関係でいいますと、WHOは国連のIAEAの許可なしに勝手に放射能のことを発表してはいけないということになってるそうです。
ですから、私たちが非汚染の食料、子どもたちに汚染されてないベビーフードを救援物資で入れてくれということで、ユニセフとか、そういうところに、当時、世界中の救援団体がお願いしたんですけども、被害は出てないので救援できないという、そういう建前主義ですね。それで子どもたちの救援が本当に遅れました。
まず最初に、ウラジミール先生は体育の先生だったので、何かおかしいぞと、子どもたちに、この地域はチェルノブイリから 150 キロから 200 キロのエリアの地域なんですけど、その事故のことは先生は何も知らないわけですよね。
でも、何か子どもたちがおかしいぞというのは、子どもの顔色がすごく悪い、で、これは写真だからわかりにくいんですけど、この先生の顔色とこっちの子どもの顔色と全然違うと思うんですよね。同じ白人でもやっぱり元気だとこんな感じなんですよ。これだと、もう、向こう風にいうと、顔色悪いというか、ねずみ色というか、まだちょっと保養から帰ってほっぺた赤い部分もあるんですけれども、目の下にクマが入って、顔色が悪くなると。
それから、走っても走り続けられなくなるんで、サッカーなんか全然できないですね。 5 分か 10 分ぐらいしか走れなくなって、特に心臓が痛い、痛いってみんな言い出します。
詳しい体の症状は後でもうちょっと説明するんですけど、それで先生は、おかしいなということで、日本人が来てくれたから、どうもその事故があったらしいということで、すごい助けてもらえると思ったんですね。
で、もう 1 つ重大なことは、何が起こっていたかというと、さっきのこれは埋め立てられた村のすぐ隣ですね、道を挟んで。ここで小麦が作られているんです。この家は、もちろん埋め立てなきゃいけなかったんですけど、もう経済的に力尽きて、これは残してるんですね。
で、残してると何が起こるかというと、ドアをはぎ取ったり、窓ガラスをはぎ取ったりして、それをよそに持っていって売ったりする人がいるわけですね。自分のうちの建築に使ったり。ものすごい高濃度の汚染がまた広がっていくんです。
で、ここで作っている小麦は何のために作っているかというと、子どもたちの学校給食用に作ってます。安い値段で売られていきます。
これはベラルーシの人たちが最初、何で、子どもたちをお預かりして、 1 カ月保養させると、ものすごい元気になるんですね。で、何で移住しないんだろうって、子どもたちがこんなに汚染地にいるだけで具合悪くなるのに、親は何をやってるんだということで、それで私たちはよくベラルーシに通うようになったんですけれども、行ってみると、ほとんど経済的に余力のある人はもう移住しましたね。最初の 10 年間でほとんどみんな自力で移住しました。
で、残っているのはほとんど農民です。知識階層、学校の先生とか、看護婦さんとか、何か職業ある人はよそに行っても食べられるので、何とかお願いして自主的に移動していきました。で、そういう障がい者とかの家庭であるとか、子だくさんだとか、農業関係者だけが残ってたんですね。そうすると、もう動けない、そういう人たちは。
それで、コルホーズというのは、集団農場、今でも旧ソ連が崩壊してもその体制は維持されてるんですけど、集団農場に属すると、こういう家を 1 軒もらえるんですね。 1 年間家族が食べていけるだけの畑もくっついてくるんです。もらえるといっても無料で貸し出されてるような状態ですけど、そうすると、まきも自給自足、食べ物も自給自足で、家もあれば、人間、お金なくても生きていけるんですよね。
私も行って、価値観がぐちゃぐちゃに壊れました。自分たちで家を建ててローンを組んでとか、そういうのもばからしいとも思ったし、自給自足して、北海道よりも緯度が上のとこですからね、食べていけるんだっていうのをまず、もう何が何だか、でも、そこが放射能で汚染されたら駄目だしとか、価値観がもうぐちゃぐちゃになったんですね。
もう一瞬です。汚染されたら一瞬でもう全部無価値になっちゃってるんです。みんな捨てて逃げさせられたのを見たときに、もうその今までの価値観が。
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