我が家にあった昔の札幌の写真です。



札幌市 中央舘(かつて南3西2にあった映画館、現ニコービル)、トモエカン百貨店の一部

ネットで探してみましたが
<かつて札幌にあった映画館>として名称だけはありましたがその写真がありませんでしたので
背景として写っているものですが参考までにアップしました。(2014/6/24)
(当時のエンゼル館を意識した外観のようです)
中央舘〜「セントラル劇場」〜「三条東映」〜中央映画劇場〜ニコー劇場(ニコ–ビル)
私の記憶では中央映画劇場(中劇)の向かって右側の方を大看板の保管場所として使用されていた
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

サイレント時代、白黒の動画でコメント画が入いる映画や活動写真弁士が付いてその内容を語りで表現、
内容によっては楽団が生演奏していたらしい。
活動大写真 は明治・大正期における映画の呼称。

フイルムに音の波を焼き付ける原理で音声も入るようになる、
「トーキー」(昔の映画フィルムの端の方に音声波形を焼き込む方法)

カラー映画、総天然色
当時の劇場広告看板には「総天然色、活動大写真」等の表記が誇らしげであった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この頃は 何とか館、とか、かんとか座 ト言うような公共の施設名称の最後に舘(館)、座を付けるのが流行したようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/エンゼル館
によると
大正末年の1920年代には、札幌市内の 活動 映画舘は、
エンゼル舘、錦座、帝国舘、中央舘、金春舘、遊楽舘、松竹舘、美満壽舘、八二舘の9館が存在した。

とありますから4番目の映画館です。

活動常設 錦 座 札幌市南四條西二 (南四條西三 ?
    帝国館 札幌市南三條西一 →帝国座(狸小路1丁目  (昭和4年の地図では盛賑舘
活動常設 中央館 札幌市南三條西二 →中央劇場(中劇)
活動常設 遊楽館 札幌市南二條西三         (昭和3年 南三條西二 
    札幌劇場   南四條西一(昭和3年 (札劇)
    三友館(のちの日活館)札幌市南四條西三 (昭和3年 南二條西五
    松竹館 札幌市南四條西三
 美満壽館 札幌市南五條西三丁目 日活会社北海道本部(昭和3年
松竹キネマ直営 エンゼル館  札幌市北二條西三
    金春館 札幌市北三條
    八ニ館 札幌市豊平町

 豊平館、金市館、五番館、帝国座、松竹座、

 https://ja.wikipedia.org/wiki/札幌東宝公楽

 札幌東宝公楽(さっぽろとうほうこうらく)は、かつて存在した日本の映画館である。
開館 1921年
所在地は札幌市中央区南5条西3丁目、北海道東宝株式会社が経営・運営した。
旧名称美満壽館(みますかん)、札幌大映劇場(さっぽろだいえいげきじょう)、
東宝公楽劇場(とうほうこうらくげきじょう)、札幌東宝劇場(さっぽろとうほうげきじょう)。

当時は名称が変わったり所が変わったりしたようです。

1927年(昭和2年)
札幌市内の映画館は、
札幌東宝公楽、九島興行の中央館、遊楽館、三友館(のちの日活館)、
および盛賑館(帝国座)、松竹座、エンゼル館、別当興業の美登喜館、八二館の9館が存在した。

1932年(昭和7年)中央館、遊楽館、三友館、盛賑館(帝国座)、松竹座、エンゼル館、美満壽館、美登喜館、八二館が存在した。


東寿司の裏手に日活(南三條西三)東向き、(当時のHBC三条ビルの斜め向かいの位置中通りにも面していた)、 
保全病院の西向かい側にたしか、大映(南四條西二)北向き、もあった

東寿司 破産のニュース 2016.11.1
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ガキの頃の記憶を思いつくままに書いてみましょう、
当時HBC三条ビルはまだ無く空き地でコンクリの基礎のような物が残っていて雑草が生えていた、ここでよく遊んでいた
上記の中央映画劇場=「中劇」にも遊びにいった『札劇』や『帝国座』もあったなー(帝国座は後に火災ですっかり無くなった半丁丸焼けだった)
(そうそう夜遅く、近くが火事ダ!に気が付き見に行ったんだ、私が行った時、帝国座の右となり角が河村布団店でその2階の奥に火の気が見えた
んだ今考えると帝国座の奥から出火したのだろうか布団店だけに火は瞬く間に広がっり翌朝半丁すべて丸焼けで残ったのは鉄の大金庫だけだったね
私の見た火災のなかでナンバーワンでしょう多分、情報によると1975年暮れ午前2時頃出火)
写真を撮ってアップされている方がいた!http://kenchikudanten.way-nifty.com/photos/izumiphoto/sscan10154.html

車に当て逃げされ保全病院に担ぎ込まれた事があったらしい本人は至って元気で台の上で何でも無い!何でも無い!とバタバタしたらしい。
皇太子様(現 天皇陛下)が札幌市内をオープンカーで廻られた時あまりの混雑で父とはぐれ南一条交番に保護される,電話番号を告げ無事帰る。
中山ミシン南三條西三にはミシンを踏み続ける人形、観察しにいった(小型のモーターで動かしていた)
この通りには他に、郵便局、千葉県物産ビル、深井家具店、等が記憶に残っている、向かい側には千秋庵
北光幼稚園に通っていた、ちなみに「ゆり組」、
通り道には金市舘やそうごデパート、セトヤ、丸井、
向かい側には日劇、STV札幌放送局があったし、角には市営交通の発券場があった
西1丁目の横道に入ると水産関連、氷屋、革屋、蒲鉾屋さん質流れ屋さんとかが並んでいました
狸小路1丁目には、じじばば(一銭店屋宮沢さん)山十ふせ(瀬戸物屋)がありました、
はんこ屋さんは今も頑張っていますね(佐藤さん、斉藤さん、昔はもっとあったようですよ)。 
(はんこ屋さんがなぜ1丁目に出来たかト言うと、とテレビで解説していた、昔々、創成川が物流の要であったので荷の受領にはんこを使用していたから。)
食器や衣類、家具や建具、生活必需品のお店が並ぶのも頷ける

丸井さんの『とうまん』をつくるマシンを良く見に行った、今より大きなシステムでつくっていた。ニュースで京都に似たマシンがあった。
狭かったけれどエスカレーターも完備、エスカレーターで上がると4階か5階正面にマジックのコーナーがありよく見に行った記憶がある。
扉がユニークなエレベーターもありました。

サンデパートは未だ無かったが、出来てからはよく遊びにいった4階?だったかな
ナショナルの電化コーナーの太陽電池で動く列車の模型がお気に入りでした、
スイッチを入れると上にある正方形の中に付けられた4灯の電球が下方に輝きます、
その下にある太陽電池のパネル9枚(3×3)に光が当たるとその周りに回されたレールの上を電車が廻りだす仕組みです
その太陽電池の1セルは10センチ角位の中に500円玉位の青色のセンサーが9個(3×3)並んでいました
興味津々でしたねー 光でモーターが動くなんてビックリ!でした
昭和30年代の話

しかし半導体で世の中相当変化しました!電球や照明まで半導体に置き換わってしまいました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

SLの整備中の写真でしょうか?

この他にもあります、
C57201 三菱 昭和22年 第534?良く見えない!
C58408 機関士が窓から顔を出し、後ろの乗降口にもう一人同じく前方を見ている人がいる。前方下から見上げる感じで板バネが9枚かな蒸気も見える。
C58409 楕円の中央に汽車會社、上にマーク下に2行の細かい字、本体つり上げ中で車輪が丸見え、クレーンに40Tと書いてある。
C58409 動輪の連結ぼうが外され下に置いてある工場内部の上方に「吊ったグレーンに身をかわせ」
C58409 本体持ち上がり向こうのSLの開いた前扉のナンバープレート8673が見える横のプレートから58673と確認できる、
上に「作業だあたりに」と一部だとおもいますが書いた横看板が見える、その向こうに捲揚能力40tの横看板が見える。
 操作室のような部屋22本のレバーが並んでいて、
係の方が左足を10番レバーにかけながら11番のレバーを引いている写真である(クレーンの操作なのか?)
奥の天井付近の壁に「昭和二十六年度 能率を上げる運動 札幌??管理局、鉄道だろうか?鐵道?のような雰囲気にも見える
電話も見えるが箱にベルが付いてラッパがついた、調べました「デルビル磁石式壁掛電話機」が見えます。

 あと、客車内部、内装作業中、コートや帽子を掛ける金具を付けている様子、座席は無くまだ背もたれの板のみ
照明は白色の逆さプリン型、中に電球が使われる暗いタイプと思います。

おまけ (見る方が見れば何型かわかるのでしょうね)私には??
動輪 迫力満点です!





© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: