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つまり人間という乗り物の中に置くのか
魂と人間の間に置くのかによって物事の感じ方はかなり異なる。
私がこのことに気付いたのは人間としての苦しみから逃避する
為だったのかも知れない…。
このことに気付く為に私の中に苦しみが用意されていたとも
考えることが出来る。
私の意識が魂の側で活動している状態が「太乙」で
意識が肉体の側にある時は苦しく辛い人生を送っている状態である。
ただ、このことに気付けた私はある意味幸運なのかも知れない。
何故なら人生の苦渋などは本来の自分のほんの一部分が
狭苦しい肉体に閉じこめられた状態で味わっているに過ぎないのだから。
勿論、幸せで楽しい人生を送れる方が良いに決まっているのだが、
何不自由なく、順風満帆の人生の中ではあまり進歩が得られない
タイプの私にはこの人生が相応しいようだ。
喜びは人の半分以下、苦しみはすべて一人で背負う…。
普通なら耐えきれない気持ちになるのかも知れないが、
私はそんなことはない。
多くの方と同じように、苦しみをそのまま味わい、
気分は落ち込み…。
しかし、私はそこで終わらず、一人の人間としての役に
はまり込んで限界に近づいた所で
丸でそれが現実であるかのように思いこみ
苦しむ自分を観察して必要な体験を終えたら、
役に没頭しすぎている自分を見て苦笑いしてしまう…。
「人生とは一場の芝居のようなものである。」
生きている間に何度も我に返るという体験は面白いものです。ただ、その体験は人とは共有できないので
気付いた者はやはり異端者と言うことになるのかも知れない…。