うきよの月 0
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正確にいえば、少女小説ではなく、「文例」なんだけど、その文例そのものが手紙文ストーリーになってるんだよなあ。***先生私(あたし/以下同)は平安な微笑を思うて此のお話をお届けいたします。先生私は灯すころ河岸に沿うて家へと帰路に急ぎました。あの時、先生はまだ奥様と御いつしよに恐らくあのバルコンの上から私の後ろ姿を見送りながら何かのお話しに耽つてゐらしつたと思ひます。瓦斯が青くボツーと燃えてゐる街道にゆくまで私は裏道を歩きました。小さい流れ、それを囲んで生活してゆく人々の群は夕暮の仕事に追はれて居りました。丈夫さうなおかみさん達がてんでに赤ん坊をおぶいながら河端で、銀色のお釜をサラサラと洗つて居りました。私は静かに謙譲な心を此の時持つ事が出来ました。小さいながらも私といふ少女にとつては最善な幸福でしたらう。「おかみさん今晩はたいそう御精が出ますね」と私は笑ひながら挨拶を致しました。あの人等は非常に驚いたといふ事は、あの人達が此の時みんな眼を見はつて此の未知の少女の姿をうす闇に見出そうと勉めて誰一人それに対しての返答を致した者はございませんでした。私は微笑ました、心から彼等を愛しますゆゑ、夕暮れの河に洗物をするおかみさん達もまたなつかしい人までこの博い静かで平和な愛は私の胸のおだやかさをそゝりました。愛さうといふ事はぢつとして心を広げることだと仰しやつたでございませう。ほんとうに彼女達はなつかしい人達に相違ありません。やがて――父にも母にも兄妹にも私はこの博大な静かな愛の温みをそゝぐ事が出来ませう。愛する心それのみ幸なりと。純にして貴いしかも和らかい胸と熱とがたがふ隙のなき迄合さるまでに私(わたし/以下同)はほんとうの自分の持つ美くしい霊魂の在所をたづねゝばなりません。愛といふ静かに光る真珠の鍵を握り得た私はこれから探します、霊魂のありかを。この次先生と奥様にお目にかゝりますまでに。……うんそれは、唐突に普段そんなこと言わない様なちょっと変わったお嬢さんが唐突に声かけてきたから「何じゃこりゃ」と皆目を点にしてただけだと思うよ……さてこの文章は『少女ペン書翰文 鈴蘭のたより』(宝文館 大正13年)の最後の文章です。一応まるまる。この「書翰文」/手紙文例集という奴を、吉屋信子はワタシの知る限りではこれと、あとは『主婦之友』のふろくで2回出してます。この2回はどっちも中原淳一表紙です。文例集ってのは要するに「……の時に」と手紙の例文を載せてあるものでして、「時候の挨拶」とか「戦地に赴く従兄へ」とかシチュエーションを決めて「こういう風に書くといいですよ」フィクションです。……少なくとも吉屋信子はそうです。特に後の2回は。そんでもって同一の世界観の中で書かれているので、これはこれで一つの作品と見ていいんじゃねえかと。ですが。『鈴蘭~』は、どーも違いまして、確かに「電話開通のしらせ」とか「転宅のしらせ」とかもあるんですが、あくまで「少女」ですので、「六三四は武蔵に通じてね、その内一度見にいらつして頂戴。」などとやっぱり「少女」らしい言葉で書かれてる訳です。で、その長いものとなるともう。「コスモス」なぞは吉屋信子といやこれ、の「花物語」にも収録されている程。「悲しき手紙の一束」は、「千代」さんが「妙子」さん宛に手紙で打ち明けたら「私もお慕ひしてゐたのですの」と返ってきて有頂天――だけど実は「妙子」さんは別のひと(A様)を思っていたのを知って、「さようならしませう、さようなら、さようなら 寂しき我に戻れる 千代子 過去の思ひ人 妙子様」で終わっているという。えーと。これはもう、かんっぜんに文体を書簡にしただけの小説ですね。で、最後の2作「地平線のかなたへ」「きのふの愛を捨てんとて」は「先生」宛。ただ前者で「先生いまぞこの信子は唯一條白銀の焔と燃ゆる信念を抱いて遠き地平線の彼方に真珠一顆の如く輝くホープに向ひ進まんと幼き順礼となり小さくさびしい遍路を辿りゆきます――」とあるんでちょっとこれが創作なのか、自分の決意表明なのか、その辺りが迷うとこで。無論決意表明だったとしても、それはそれで創作なんだけど。同じ口調で「きのふの~」も書かれておりまして、筆者なのか? どうなのか? と迷うのは「少女」という言葉でして……吉屋信子自身の決意表明の後の気持ちがこうこうだった、というのだったら、アナタ「少女」というには二十代半ばでそれはないだろうと……一応「少女書翰文」だからそうしたとしても、……なあ。まあいずれにしてもイタい文章です。とりあえず「彼等を愛す」なんてことを軽々しく使う辺りにやっぱりその「おかみさん」達への上から目線が……まあお嬢様ですから。何だかんだ言っても吉屋信子は郡長さんの娘ですから。
2019.02.20
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「ありがとうございます―― わたし、学校の先生のお気持ちはよくわかりますの―― ただこまるのは父の気持なのです。父はごぞんじのように、ただの職業でございません、牧師です。そして、信仰への熱情は、わたしたち子供へも、あまりに多くの理想をもとめすぎています。でも、父としてはそれも無理がないと、わたしはわかります―― でも、妹の性格には少しおもにがすぎるのです―― こんども、少女歌劇にはいることを、もし、学校の先生方が御理解下すつても、とても、あの父はと―― 思います。もし、父のはんたいで、妹の希望がくじけたら、妹の性格は、なおさら、悪い方向へと――」 「賛美歌176」昭和15年に宝塚歌劇団の『歌劇』に連載された少女小説です。 引用は昭和22年11月発行『乙女の曲』(『少女の友』連載時は「少女期」と題された作品)に同時収録されてます。『歌劇』はまずワタシの居る地方では簡単に戦前バックナンバーなぞ見られませんので、同時収録でラッキー!! でした。 帯広の教会に生まれた姉妹のうち、妹が少女歌劇に親(特に父)からの反対を受けつつ入団。そこでの親友を作るんですね。 城木さんには、留加子の、美少女というよりは、いつそ、美少年型といつていゝ、目鼻立ちの彫りの深い小麦色の引きしまつた皮膚、きりつとしたくちびる、そのいし強くさつそうとしている感じに、心からひかれて、留加子をすうはいし、大好きな同性の友としたう心が、いつとなく芽生えているようだつた。 孤独ではげしくひたむきな留加子にとつても、城木さんはたゞ一つの心のやすらいであり、母にも姐にも妹にもかわる愛情のあいてだつた。 ……さすがにこの時期にこういうおはなしを載せられるのは宝塚雑誌だからでしょうな。 あからさまな女性同性愛ものとして、昭和12年に『新女苑』で一年間「蝶」を連載していましたが、これ以降はなりを潜めてます。ちょうど支那事変が始まって、吉屋信子も大陸派遣された頃でしたしね。 でまあ、この二人(そもそも同郷です)、仲は良いのだけど、天分の差もあってか、留加子さんは大役に、輝子さん(城木さん)はモブのまま、という感じで。 さすがに輝子さんも故郷から帰って来いとの声に逆らえず。そんな折りの東京での舞台『南欧のローマンス』の千秋楽で、こんな場面が。 留加子さん演じるクレオが、輝子さんが(たまたま)代役となった女中から手紙を受け取るシーン。ここでこの手紙に輝子さん別れの言葉を書く訳ですよ。 で、舞台で留加子さん、その手紙を見て。 いつものように、白い紙を読むふうをしながら、その紙の上の字に、びつくりしして、眼をおとしたが、そのしゆんかん、顔色がかわつたらしかつた。そして、くちびるがぶるぶるふるえるように――ふるえるように――クレオのせりふをさけぶのだつた。「おゝ――カリーナ、美しいあなたの姿は、きよう限りわたしの眼に見られないと言うのか、カリーナ、愛する輝坊……」 留加子はのクレオは、とうとう、輝子の名を涙ぐんでさけんでしまつた。クレオのまわりにいた踊り子姿の人たちが、びつくりして、きよとんとして、なかには、ふきだしたひともいた。 無論ここは愛するカリーナ、と言うべきところです。 ……長閑ですな。今だったら考えられない…… 小説でも無理でしょ。 まあ実際、当時の宝塚スター同士の「友情物語」だの写真物語だのは婦人雑誌で結構掲載されておりまして、それこそ半公認「カップリング」状態だったようです。 まあ「さわやか」男女記事はそうそう載せなかったですからね…… 〆としては、病気になった父のところへ留加子さん戻ってきて、教会で歌います。で、その声を誰とも知らず耳にした父が「天のみ使いの声」と感じたりすることで、ようやく親子の仲も修復、ハッピーエンドという。 ちなみにこれは吉屋信子の話の中では「正直だよなー」と思う作品です。長篇の中では「蝶」が一番ですが。 どうしても男女恋愛を書かせると、このひとのそれは嘘くさいというか、感情の実感が無え、というか、「ねばならない」「べき論」に凝り固まってしまって「何だかな」状態になるんですね。 まあそれはおいおい(そればっか)。 に対して、女ばかりの集団の話を書くと、生き生きするという。 ワタシは最終的に「大奥」だの、男女別れて住んでいた平家の娘達の話に行ったのは当然だよな、と思うわけです。 そういえば吉屋「大奥」は女学校だ、とweb上で見たことが……
2019.02.20
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ちなみにこの転載は2015年あたりに3カ月くらい書いてたアメーバのほうからのものです。*** いかん、こっちの紹介とかをずいぶんご無沙汰してた。 全てはこの暑さがいかん。 ということにしておこう。 この『級友物語』は、昭和30年頃に、『女学生の友』に一年連載したもの。本はポプラ社から。 ……しかし内容きついぞ。さすが戦後。「松浦澄江さんのこと」 もの凄くお金に厳しい松浦澄江さん。クラスメートにお金を貸したら利子を取るほど。 そんな彼女はアパートの階下のおばーさんの手伝いで集金作業もやっている。 ある日ミシンの月賦用の金を借りた母子家庭のお金を病気だからと立て替えてやる。 母からはたしなめられるが、おばーさんから「良いことをした」とばかりに笑顔。 吝嗇家と言われる少女の一面。「うそとばら」 戦争で両親を失った谷村祐子さんが毎日ばらを学校へ持ってくる。皆大騒ぎ。 それは過去英国大使館付海軍武官の祖父が作っているもの。 ただしこれは庭師として。大きな家の庭師として、かつて教わったばら作りの腕を生かしているのだ。 だけどつい見栄をはって自分の家の、と言ってしまう。実際はその屋敷の傍の小さな家に祖父母とこぢんまりと暮らしているのだ。 その後友達が来ると言って大慌て。 当日、家が英国人に貸す話があり、その話自体は事実だったので、今後は小さな家で、ということとなり、何とかつじつまがあうが、もう嘘はこれごりだと祐子さんは思う。「わが母の悲しみ」 田上悠子さんは学校の「母の会」(PTAのことらしいが、どうやら「父母会」ですらなかったらしい)にでも、何でも学校行事にやってくるのは父。 母が洋裁店で夜働いて、父が売れない絵描きで、家のことを何でもやっているから。 だが父が事故に遭ったとき、悠子さんは両親の知り合いの案内で、母の本当の職業を知る。キャバレーのダンサーだったのだ。 ずっと娘に本当のことを言えなかった母を、悠子さんは責められない。 その後、父の絵が入選。タイトルは「無名画家の妻」。ダンサー姿の妻が疲れて椅子で休んでいる図。「若い祖母の話」 不二子さんは夏休みに東北の祖母のところへ「アルバイト」に行く。 そこでアッパッパで迎えてくれた祖母の、高等女学校時代のロマンスを聞く。 少女雑誌のことだの、Sのことだの……「そのころ、上級生や下級生の仲よくなるのをS(シスターの略)といっていたがね、わたしは、その人のSにもなれないで、ただかげながら好きだったんだよ。わたしなんかは村からかよってくる子で、どこかやぼだったんだろうね(略}「秋の日はみじかいから、練習のおわるころは、すっかり校庭がくらくなって、秋の夕風がふくのに、長いあいだの練習で、からだは気持よく汗ばんで……じぶんのすきな美しい人と、テニスのおかげで、そうして放課後も長い時間いられるのだと思うと、しみじみそれが幸福だったね……」「こけし人形」 村田ゆきえさんはある日からこけし人形を学校に持ってくるようになった。 数学のテストの時も机に出しておくので、さすがにその理由を先生から問われた。 それは朝鮮戦争の終わり際不景気で一家心中をした友人が彼女へ向けた手紙の上に乗せておいたものだった…… 以下原文引用です。(ポプラ社刊・昭和31年初版/34年4版)「清子さんの家は、戦後、鉄板の工場をやっておりましたが、それが朝鮮の戦争が終わったころから不景気になって、工場がつぶれてしまいました。 そのうえ、おとうさんは、借金がたくさんできていたそうでした。 清子さんは長女で、したに弟と妹が四人もいて、いちばん下は赤ちゃんでした。 そのころ、わたくしと清子さんは、来年中学にいっしょにあがるために、毎日いっしょに勉強していたのですが、ある日、清子さんは学校を休みました。 その翌朝、清子さんの家の戸がいつまでもあかないので、近所の人がはいってみると、おとうさんとおかあさんと、清子さんたちみんな、お正月のような着物を着て、まくらもとにお線香をたてて、一家心中をしていたのでした。 おとうさんの工場がつぶれ、借金がふえて、どうにもならなくなって、家じゅうの者とそんな悲しい自殺をされたのです……」 クラスの人はしんとしてきいていました。 そういう話はほんとによく新聞に出ていましたから、いまさらおどろきは しませんでしたが、それが、じぶんたちの仲間の村田さんのお友だちの家におこったということが、やはりみんなの感情をそそったのです。 菅先生も、なんにもおっしゃらず、おどろいたようにだまってきいていられました。「清子さんの勉強机のうえに、こけし人形と書きおきがのっていたのです…… 『先生、みなさま。おとうさま、おかあさまといっしょに楽しい天国にまいります。けれども、わたくしはやっぱり学校へ行きたかったのです。でももう、おとうさま、おかあさまのおっしゃるとおりにします。みなさま、さようなら』……」 ……この本の挿絵に赤インクで落書きがしてあったのが怖すぎたんですが。「クラスの盗難」 クラスのお金と江藤さんのパーカーの万年筆が教室で盗まれる。 4000円。出産する先生への贈り物へと、一人百円ずつ徴収したものだった。 そこでクラス内では、「一番貧しいから」と、満州からの引き揚げ者である中島さんが疑われる。 だが江藤さんは彼女の普段の生活を知っているので疑わない。弟妹と一緒にそば屋に行っても自分は食べずにいるような子なのだ。 江藤さんは母に相談する。すると「あなたの管理が悪かったのだから」とクラスメートを疑うことはせず、お金を出してくれる。 その後本当の泥棒が見つかり、嫌な噂も無くなった。*** 時期的に吉屋信子の最後の少女小説なんですが、昔の面影があるのが、あくまで「おばあさんの昔話」ということがまず何というか切ないですねえ。 おばあさん、だから夢は夢で、ちゃんと結婚して孫がいる、という現実がベースにあるし。 好きだった先輩、とかもエスも、あくまで遠い昔のこと、ということで。 それで現実の少女達は、と言えば、それどこじゃあなく。 吝嗇家・両親を戦争で亡くす・嘘つき・母がダンサー・不況で一家心中・満州からの引き揚げ者・盗難…… 何というか、もう実に寒々しく毒々しい程に現実的。いやその現実をさらにパワーアップという感じで。 と同時に、当時のステレオタイプの考え方が出てるんですよね。*「母の会」というあたりに、学校にやってくる保護者イコール母親、という図式。まあ父母会、とか父兄会、という言い方は結構その後も長かったですがね。*満州からの引き揚げ者「だから」盗難犯人と疑われるということ。「貧しいから」でもよし。*朝鮮戦争で景気は良くなったとしても、戦争が終わるにつれ、不況とそのしわ寄せが来たこと、そして「一家心中」というパタン。 別冊マーガレットでも、木内千鶴子がこういう類の話、良く描いてたこと思い出しますよ。 何かいつも「木内枠」みたいのがあって、そこで社会問題絡めた話が、ボンド遊び・競馬で持ち崩した父を諫めるための入水・お嬢さんのフリした詐欺・赤ちゃん取り違え等々…… 吉屋信子のこの話は、ワタシが読んだ別冊マーガレットと15年くらい差がありますが、相当つながるものが。 ということは、やっぱり吉屋信子のドラマってのは、少女マンガやその流れの中に組み込まれていくものなんかなあ、と。 しかしホントにあの赤インクの落書きは怖かったわ。 頼むよ怖い絵をさらに怖くしないでくれい。
2019.02.20
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美緒ちやん、ユミは飯村久美子になりました。いまは、これを打明けて、学校でも、幼い日からのお友だちの貴女とまた仲よく肩を並べられるのです。うれしくてなりません。いつか学校でユミでない久美子として押し切らうとしてゐたときの、暗い悲しい気持は二度と繰り返ずにすみます。明日は、新しい父と母に連れられて、この海岸から帰京し亡くなつた久美子さんのお墓へお詣りし、お花を捧げて、久美子さんの身代りとして、御父様と御母様によい娘になることを誓ひます――、いづれおめにかかつてからお話いたします。ユミのほんたうのお母さんと、ユミの弟は、ユミが久美子になつて仕合はせに暮らすことをよろこんでもらひ、そのうち、会へるのです。いま新しく生まれた久美子といふ少女は、これから飯村家の娘として、この家庭の善い清い星になる決心でございます。 さて「少女期」です。 戦後には「乙女の曲」という題名で発行されてます。 これは『少女の友』で吉屋信子が最後に書いた戦前長篇少女小説です。昭和16年1~11月。 普通は1年連載だろう! キリが悪いから打ち切りでぱないか? と邪推(笑)。 いや実際、この時期ですから。 まあ一応話の中では時局を示すものとしては、新しい父母が「南進日本のために」ジャヴァに居るということですが。あいにくこの部分、戦後版で「ブラジル」と置き換えても通用しますんで。 んで内容。 貧しい家に生まれ、眼の悪いお母さんんがマッサージをやって生計を立ててます。お父さんはいません。弟が一人。三人家族です。 ユミは頭がいいけど、さすがに女学校には行けず、尋常小学校を卒業したら「丸の内の或るビルヂングの地下室の食堂の給仕少女」になります。「月にいちど定休日が貰へる」のは果たして当時としても働きすぎではないかと思いつつ。 その職場で飯村夫妻に「養女に」と乞われる訳です。 まあそこではユミちゃん、自己犠牲の気持ちで断る訳です。 これから帰る、おの大川端の長屋の奥の家――、そこに姉のかへりを待ちわびるいぢらしい弟――姉弟を育てるために、この夜も、人の家を次から次へとまわつて、お客の肩をもんだり足をさすつたりしてゐる、眼の不自由な母の姿を瞼に浮かべると――あゝどうして、じぶん一人の幸福のために、母と弟を離れて、よそのお家の養女になれよう――たとへ、憧の女学校に通へても! と、思ふのです。 ですが母親の方が説得して、結局養女に出ることに。 ところがそこで条件が。「(……)どうか、家に来た日から、首尾よく女学校を卒業する時までは、実のお母さんに会はず、我慢して欲しい、それね当人の為、私どもが、本当の親心になるため必要だから、ユミ子さんも、お母さんも、承知して貰ひたいが、どうでせうか」 で、行ってみると、いきなり部屋は用意してある、家具も服も道具も何もかも揃ってる。 だけど昔の友達にも手紙を出してはいけない。 色々不思議な事情に夢の中に居るようなユミちゃんですが、タネをあかすと、つまりは亡くなった孫娘の身代わりだった訳です。 飯村夫妻は、蘭印/現在のインドネシアに出稼ぎに行っている娘夫婦から孫を預かって育てていた訳です。 たけど、その孫娘――久美子は女学校に入る少し前に病気で亡くなってしまったと。 そんな時に「十年たって落ち着いたからいったん帰国して娘の顔を見たい」という手紙が。 孫を亡くしてしまったことを知らせる勇気がない、と二人は身代わりを捜して――ユミに出会ったということでした。 で、ユミちゃん、「自分から努力して」「久美子になろうと」する訳です。 で、女学校に編入したんですが、そこで友人の美緒ちゃんに再会してしまうんです。 だがしかし正体は明かせない。そこでユミちゃんだんだん疲れて行きます。 それに追い打ちをかけるように、実の家族の消息。「で、私たちは、あなたのお母さんと相談の上、あのお母さんに、あすこを引っ越して貰ふことにしました。いまあなたのお母さんと弟は、前のあの大川端のお家よりも、よいお家に越してゐます。私の方からも、月々生活費を差し上げて、もうお母さんんがマツサージで、夜遅くまで稼ぎ歩かないでもすむやうにしてあるから、たとへ、母娘会はないでもねお母さんや弟さんのことは、安心してゐておくれよ、久美子」 ちなみにこの辺りの地の文ではユミは「久美子」になっていたりします。「ユミの久美子」だったりも。 で、ユミちゃん思うのです。 また会へるまで――もう新しい久美子は、いよいよこゝで決心して暮さねばならぬのです。そして、また、そんなにしてまで、久美子としふ孫娘の幻影をつくつておきたい、飯村氏夫妻の――老祖父母の心境を思ひやるとき、新しい久美子は、いま、じぶんが新しい久美子となり切って生きることは、この老夫婦と、また久美子の父と母と、四人のひとへの(よろこび)のもとになり得るのだと、しみじみおもひました。 一つの善い目的のためにの、装へる久美子――ユミは、じぶんのおびえやすい心に、烈しく鞭打って、これから、いかに完全に、美しく優しい少女の久美子となり得るか――やれるところまで、神のこれを許したまふ日まで――久美子になり切ろうと思ひました。 しばらくしてさて飯村さんの娘夫婦がやつてきました。で夏休みに海水浴でホテルに泊まったりしまして。 あんまりいい人ばかりなんで、どんどん自分が偽物であることが心苦しくなっていく訳です。 で、とうとう夜中に抜け出して、美緒ちゃんのところへでも…… と思うんですが。 追いかけてきた「お母さん」。実は知っていた、と。で、今は「しんから可愛くなって」「幸福な母と娘で暮したい」という訳ですが。 だけどそこで「はい?」と思うのが。「お祖父さんは、貴女にも久美子の心を持たせるために、少し女の子には重荷のやうな、その身代り役を頼み込みました。そして、あなたが久美子になり切ってくれるのを望んだのです」(……)「貴女を私は、ほんとの久美子と思つて愛します――だから、安心して、このまゝ、私たちの可愛い久美子になつてゐて下さい――そして、さあ、いまから、貴女もほんたうのお母さんと思つて、(お母さん)と心から呼んで頂戴」(……) ユミは、自づと久美子の気持ちになつて、ふるへる声で泪ぐんで、さう小さく呼ぶのでした。「久美ちやん! 私の大事な久美ちやん、もうどこへも黙つて行かうとするのぢやありませんよ。さあ、お部屋へ帰りませう」 で、冒頭の美緒ちゃんへの手紙でもってめでたしめでたし、となるんですが。 本当にめでたしかあ? まーぶっちゃけ最初に吉屋信子に疑問を持ったのはこの作品でした。 出典は『日本児童文学大系6巻』ほるぷ出版。ちなみに吉屋信子の欄担当は田辺聖子ですが(笑)。何で伝記ではこの作品無視すんですか。 まあそれはともかく。 なーんかこの「めでたしめでたし」妙だよなあ、と思った訳です。 で、今になればまあ見えてくるものが。 まあ当初から「何でだ?」と思っていたのが、実の母親への感情の薄さ。いくらしっかりした子でも、状況がどうあれども、一度決めたら「お母さん……」と夜中に恋しがることもまるで無いんでしょーか。無論そこまで追いつめたから憔悴してしまったとかあるんですが。 それでも描写が無さすぎる。特にこの最終回の締め、「今どうしているのかしら」的な部分がさっぱり無い。無論飯村氏によって保護されている、というのは信じているから、と言ってしまえばおしまいだけど、それでも。 で、もう一つ。 何と言っても「ユミの否定」なんですよ結局は。何で名前を消してしまうんだ、なんですよ。 その名前で呼び続ける限り、ユミちゃんの存在は宙に浮いてしまうんじゃないですかね。少なくとも飯村の人々は、ダブルバインドの視線で見続ける訳ですよ。 もし「ユミ子」を認めてくれるなら、そのままの彼女だけど、「久美子」になってくれ、というんじゃ。 そこんとこにずーっともぞもぞしたものを感じてたんだなあ、と思うざんす。 名前は大事だってば。 ユミちゃんが今後アイデンティティの危機に陥らなければいいんだけど。
2019.02.20
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昌吉は応接間の硝子戸に仄さし込む冬の朝の光のなかに、この文字の一つ一つを、暗んずるまで幾度も読み辿つた。 始発の電車のひびきが、都会の朝の沈黙を破つて、ゴーッと鳴る――それが太平洋の――南海の――北海の――海の潮鳴りと昌吉の耳にひびいた――青い波――行く船――マストの上の日の丸の旗――汐風――昌吉の瞼の裏に幻想の船が浮かんだ。(少年海員、泉昌吉! おーい、来い、早く! 待ってるぞ!) 遠く遠く海からわれを呼ぶ声が聞こえる…少年の総身の純な血は熱くたぎつた。 青少年日本男子は船員として軍に続き御稜威を護れ! この言葉は昌吉の前に、天の声――海からわれを呼ぶ声とひびいた。 友の晋一は海善く征く軍艦に武人として――われは同じ海征く商船に船員として、友に続かん、いざ! 昭和19年4月発行、『海の喇叭』です。ジャンルとしては少年小説なんでしょうか。 雑誌掲載の気配はとりあえず見つかっておりません。この時期ですので、当局から依頼されて書いた斡旋小説とも考えられます。 ちなみに伝記ではこの時期は「ほとんど書いていない」「書けなかった」的な記述がされてますが、まあ実際のとここういうものは書いてます。とりあえず要求には応える形です。 おはなしとしては。 まずこの主人公の昌吉くん。裕福ではないので、国民学校の尋常科を出たら商家へ奉公に出つつ、夜間商業に通うという暮らしをしています。その奉公先で、古新聞の整理をしていた時、海員養成所のことを知り、「官立宮古海員養成所」の一ヵ年課程に入ります。 もともと幼馴染と一緒に江田島の海軍兵学校に行きたかったので、海に関係する学校に行けるというのでうれしくて仕方ないです。 ちなみにこの養成所、管轄は逓信省のようです。意外。 そして航海科に合格。寮生活となりまして、機関科の伸之助くんという友達もでき、厳しくも楽しい訓練生活を送ることに。 ただ故郷のお母さんはさすがに心配で、宮古まで一度見学に来たりもします。だけどそこでの生活と目的に感動し、自分も子を送り出す心もちにならないと、と考え直します。 まあこのあたりは吉屋信子の当時の本心だと思われます。 彼女は「個人の情」より、「理性や公」の方を母親というものに求める傾向がございまして。 だからここではこの母親に結構マジでこう言わせていると思うのです。「だけど、昌吉安心しておくれ、おつ母さんはさつきから所長さんにああして連れられて、お前たちのすること為す事見せてもらつてゐるうちに――もうお前を連れて帰らうなどと思つたのが、ほんとに親のそれこそ利己主義とやらで――まちがつた考へだとわかつてきたのだよ――だからさつきくも所長さんに、しんからお辞儀をしてあやまり、どうぞあの子を立派な少年海員に仕立ててお国の役に立てて下さいませ――とお願ひし、ほかの教官様にも改めて御挨拶してお頼みしておいたんだよ―――ああ、ほんとに昌吉――たいした勉強だねえ、おつ母さんはほんとに何から何まで感心してしまつて――早速東京へ帰つたらお父さんにもよく話してきかせます。どうぞみつしり勉強しておくれよ、おつ母さんは安心してかへるからね――」 で、最後は卒業後、実際の軍用貨物船に乗った昌吉くんと伸之助くんの連名の手紙。後輩に向けてのものです。攻撃とかあったようですが、何とかなったことを。 まあ何というか、実にじーっと読まないと、吉屋信子の吉屋信子らしさというものが見当たらない文体と文章です。 いやまあ、あちこちに感激だの感動だのしている人々が出てきますが、「この時期だしなあ」と思って読めば、ありがちな文体に見えてしまいます。 ただここで、やっぱり吉屋信子だよなというのが、その「母」の取り扱い。 情におぼれた利己主義だなんだというのは、彼女が嫌う所でして。思うに、この時期の人々の心情は大っぴらに吉屋信子の美学に合うものだったんじゃねえのかと。 「そうでなければ自分が救われない」とでもいう感じに。 とはいえ、正直この話、「つくりもの」「宣伝小説」としては非常にうまいと思うのですよ。何か「好きなものが書けない」時期だったらしいですが、こういう要求に応じた小説のほうがうまかったんじゃねえか?とつい思ってしまうんですが。
2019.02.20
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