うきよの月 0
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練習するんだ、見ていかない?とある放課後、カナイはカバンを抱えてピアノ室に行こうとする俺を誘った。「練習?何処で?」「駅近くの『サウンドマニア』って楽器屋知ってる?」 俺は即座にうなづいた。登下校の道だ。そのくらいは知っている。「あんまり大きくはないところだよね」「うん。入り口にポスター張りまくりの店」「あああそこね」「そこの二階にさ、狭いんだけど一応防音効いてるスタジオがあんの。俺は知らんかったけどさ、今原がそこの楽器屋の会員でさ」「へえ…」 俺は気のないあいづちを打った。 どういうつもりなんだろう、と俺は奴がピアノ室にやってくるたび思う。 ここのところ、毎日のように奴は俺をバンドに誘って、そして毎度断られている。まるでそれは最近のあいさつか、会話に入る前の枕詞のようだった。「どーせ暇なんだろ?お前文化祭、何も参加する予定はないっていうし」「調べたの?」「調べたも何も。最近うちのクラスの連中の中で、掃除が終わったらさっさと教室からカバン持って出てくのってお前くらいなもん」「そうだっけ?」 そらとぼけて見せる。でも、ま、実際、暇は暇だったのだ。「そういう君は、最近はライヴハウス行ってんの?」「んにゃ」 カナイは両手を上げて目を閉じて、お手上げポーズを取る。「行ってる暇というか、資金がございません。俺は別に楽器新調しなかったけれどさ、その代わり、とか言ってスタジオ代が大きくのしかかって…」 そこで俺はピン、ときた。眉を寄せる。「もしかしてさ、君、俺にもその一端担わせようって思ってない?」「あ、ばれた?」 やれやれ。カナイは露骨に照れくさそうな顔になった。「…一体一時間いくらな訳よ」 はあ、とため息をつく。結局俺は成りゆきという奴に弱いのだ。 スタジオの中は、むっとした空気が漂っていた。ピアノ室のあのただっ広い、乾いた空気とはまるで逆だ。 果たしてそこに常備してある楽器に対してこの環境はいいのか!と熱弁を震いたくなるような場所に、野郎五人も集まったのだ。むさ苦しいったらありゃしない。「ほんじゃやろっか~」 気の抜けたような、ここの会員になっているという今原の声で、練習が始まった。 俺は「場所のスポンサーの一人だからねっ」とカナイに言われて、スタジオの隅に陣取っていた。広さは六畳か八畳か…そんなところだ。その中に、むさ苦しい男子五人。そして備え付けのドラムスに、ギター用ベース用のアンプが各一台。 ギターを握っていたのが、さっきの俺との会話の中にも出てきた今原だ。ベースは木園という奴が、ドラムは西条という奴が演っている。どれもクラスメートなのだが、情けないことに、顔と名前が一致したのは今日が初めてだ。 それにしても。 この間から奴が言った通りだった。確かにひどい。雑音騒音というものはどうものか説明せよ、と問われれば、今の俺は迷わず、この連中の出す音だ、と答えるだろう。 だが成りゆきとは恐ろしいもので、俺は結局この日、連中の練習に二時間、延々付き合っていたのだ。 曲数は三つ。古典的なUKパンクが一曲と、日本のその系統のバンドの名曲が二曲だった。 どう見てもパンクとは縁のなさそうな奴ばかりが揃っているのだが、選んだ理由だけはさすがの俺でも露骨に判る。コード数少なく、単調で、カッティングもそう難しくはない。 楽譜も、使っているのは、音楽雑誌の中に採譜されているもので、わざわざ「スコア譜」として買ったものではなさそうだ。おそらくは本当のスコアよりはずっと単純化されたものだろうと思われた。 それでいて、全くもってスローでスローでスローなテンポから始まることしかできない。パンクロックであるにも関わらず! 楽器隊は実にゆっくりゆっくりとスピードを上げていった。なかなか真面目な姿勢だった。そういう所が結局あの学校の生徒なのだ。練習というものの基本は掴んでいるらしい。 その甲斐あってか、三十分も同じことを繰り返していれば、ある程度形になってきた。合わせるのは初めてだと言っていたが。「それじゃ、合わせよーぜ、仮名井よぉ」 今原が奴に目線と声を送った。ああ、と奴も簡単に答えた。「んじゃ、行くよ」「どれ?」 今更のように訊ねる奴に、これこれ、と今原は譜面のコピーをびらびらと振る。英語曲かよ、とカナイはやや情けない顔になる。 西条が間延びした声で、ワン、ツー…とステイックを合わせる。さてどうなることやら。 だが次の瞬間、俺は本気でびっくりした。 四小節のイントロの後、ヴォーカルが入る。 その声、が。 何って言ったらいいんだろう?天災のような声、だった。 天才ではない、天災だ。地震・雷と同じ類のものだった。 俺は思わず目を見開いていた。 こんな声、してたんだ。 普通に喋っている分だったら、その声は普通よりはやや通る、という程度のものに過ぎない。なのに、マイクロフォンを通すと、急にその声は力を放った。 そういう声が時々居ると聞いたことがある。
2005.09.11
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「やっぱりこういう手じゃないと、ベースって弾けないかなあ」 思わずぼそっとつぶやいた。「そんなことはないさ。だってブラスの女の子なんてお前よりずっと小さくって細い手だって居たし。それでもかなりぼんぼんいい音出してたしね」「ふーん…じゃあトモさん、中学がブラスで、高校でバンド?」「まあね」「そんな時期に始めても、そんな上手くなれるんだよね…」「やってみたい?」 彼はチューニングを既に終えてある別のベースを指した。深い赤のベースは、確か彼の三番目ぐらいのものだった。まずステージで使うことはない。「いいの?」 彼はうなづいた。 …正直言えば、俺はベース自体には興味がある訳ではなかった。何だろう、と後になっても考えたのだが、はっきり言ってそれは、「成りゆき」である。強いて言えば、彼がやっていた楽器だから、自分もできたらいいな、と考えたのかもしれないが… 今まで生きてきて、俺の選択は、どんなことにおいても、大体において「成りゆき」だった。ピアノを始めたのも、それが好きになったのも、高校がこちらになったのも、BELL-FIRSTのメンバーと仲良くなったのも。 そして彼とそうなったのも。 言っておくが、俺にはその趣味はない。 …いや違う。趣味が無い以前に、考えたことすらなかった。 思考の範疇外、というか、アウトオブ眼中、というかそのあたりは適当だが、とにかくそれが良い悪い珍しい珍しくない正常だ異常だ、ということを考える以前に、俺の世界の中には無かったのだ。 そして、無いからこそ、そこには規制というものがない。 確かに、彼のことを好きなのか、と訊かれれば、俺はそうだと答えるだろう。何故と言われても困る。好きは好きで、理由はない。結局理由なんて、後でつくものであって、好きという感情自体には理由なぞないのだ。 ただそこに欲望があったかと言うと、果たしてどうだか。 自分から誘っておいて何だが、そもそも俺は、これまで女の子にすらそういう感情と言うか欲望と言うか…を持ったことがないのだ。要は未熟なのだと思う。 だから自分でも自分の行動が不思議だった。 ただ、これまでが、そういった欲望を押さえつけてきたのではないか、という感じはしなくはない。 それでも人の噂は、気にしない振りをする程度には気にする方だったのだ。小さな小さな村社会の中で、どうしても見られがちになる生活は、知らず知らずにうちにそういう傾向を与えていたのかもしれない。 こちらへ出てきてから、俺はひどく背中が軽くなった様な気がしたものだ。つまりこれが「羽根を伸ばした」という感じなのか、とも思ったりした。 そして彼に関しては。 何がどう好き、と訊かれると、非常に困る。本当に、「何となく」好きなのだ。 無理矢理理由づけをしてみれば、俺よりはずいぶん高い背とか、ベースを弾くごつい手だとか、穏やかな声とか視線とか…そんなものが何となく心地よいのだ、ぐらいしか言いようがない。 だけどそれは、結局現在持っているこの感情の説明にはならないのだ。 俺はそんな揺れている感情は出さずに彼に訊ねる。「今から始めて、ステージに立てるようになるかな?」「努力次第ってところかな」 ほんのさわりの部分を教えてもらうと、やっぱり左手の指がすぐに悲鳴を上げた。ピアノはピアノで手だの指だの手首だのに力は要るのだが、弦を押さえる時のように一点集中的に力がかかることはない。「努力次第~?」「そりゃそうだろ。だけどお前、譜面読めるし、手の力強いだろ?それは結構大きいよ」「…さっき女の子でもって言ったくせに…」「それはそれ。できるということと有利ということは別だろ?」 確かに、と俺はうなづいた。「マキノはステージに立ってみたいの?」「…うーん…判らない」「確かお前の学校って、結構文化祭とか盛んだった気がするけど?そういう時に演るって手もあるよな」「知ってんの?うちの学校」 そう言われるとは思わなかった。彼は俺の制服をつついてその種明かしをする。「ダークグリーンの制服は有名どころだからね。俺も昔、高校生の頃、遊びに行ったことがある」 「へえ」「秋だったよな」「だと思うけど。でも俺、別に文化祭はどうでもいいんだけど」 へえ、と今度は彼の方がやや驚いた。「何で?結構楽しいじゃない」「楽しいのかもしれないけれど…」 何って言うんだろう。俺は言葉を捜した。嫌いじゃあないのだ、お祭り騒ぎという奴も。ただそこに向かう熱いエネルギーという奴が、俺にはどうにも何かしら欠けているのだ。「トモさんはどうだったの?」「俺?俺は最初のステージが学園祭。まあお前の所ほど有名どころじゃあないけど、それなりに、楽しいものだったし」「高校の時?」「高校の時。まあ正直言って、そのせいで電気なしのベースから電気ありのベースに心変わりしてしまった」 ありがちなパターンだろ、と彼は笑った。「じゃあそれからずっと」「うん。そん時バンド組んだ奴が、どういう訳か、同じ大学行く羽目になってね。まあ二人とも最寄りの学校選んだってこともあるんだけど」「近いの?」「実家?大学と近かったよ」「そうじゃなくて、その人と」「ああ」 穏やかな笑みが、彼の顔を覆った。「近かったよ。だから高校の時も大学入ってからも、どっちがどっちの家か判らないくらいにお互いの家に入り浸っていたな」 …でもそんな家を出たんだ。 その問いは俺の口からは出てこなかった。 BELL-FIRSTの他のメンバーから聞いたことがある。彼の実家は都内だと。 だからそれを聞いた時俺は思った。別にわざわざ一人暮らしをすることもないのに。何かと費用もかかるだろうに。「それじゃ、トモさん、その人とは今でも仲良し?」「そうだね」 そしてまた彼の顔を穏やかな笑みが覆った。 嘘だ、と俺は直感的に思った。 ベースの方は、それから加速度的に上達していった。 実際始めてみると面白かったし、ピアノをやっているから、ベース音というものが何なのか、理解するのが早かったらしい。 彼は彼で、俺が目に見えて上達するのは楽しいらしかった。 昔使っていたという教則本を引っ張り出してくれたり、判らないフレーズがあると、それこそ手取り足取り教えてくれた。 ライヴのある日でもない日でも、俺は彼の所へ出かけていった。私服の時もあるが、制服の時がほとんどだ。 いつ行っても彼は文句の一つも言わなかった。誰かが来ている様子もなかった。 そして、そういう時の何回かに一回は彼は俺と寝てくれた。だけど彼が自分から手を出すことはなかった。 決して。
2005.09.10
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「だから、あん時俺が無事だったのは、ベルファストのおかげでトモさんのおかげなんですからあ」「ベルファストじゃなくて…」「どっちだっていーですよ」 どうしてそう言っているのか、俺は自分でもよく判らなくなっていた。「確かにあの時通りかからなかったら、大変だったね」「そーですよ。俺絶対にこまされてたもん」「…」 さすがに彼は言葉を失った。そして逆に俺は言葉を飛ばす。「本当ですって。だってあの連中言ってたもの。聞こえたもん。野郎でも綺麗さんだからいいって。ねえトモさん、俺綺麗さんですかねえ」「綺麗だと思うよ」「本当に?」「うん。猫みたいで、可愛い」「じゃあトモさんも、俺をそぉしたいと思う?」 俺は手を伸ばした。彼の顔を下からのぞきこむ。視線が絡む。「おい…」 何を言っているのか俺はよく判らなかった。そして自分が何をしたがっているのか、何をさせたがっているのか。理性の俺はもうすっかり眠っていた。 そして俺は知っていた。理性が眠っている時に勝手に出る言葉は。「好きなんです」 どうしてそんなことを言ってしまったのか、さっぱり判らないのだけど。「嫌いですか?」 距離という奴は。 そして成りゆきという奴は。 ものごとは、紙一重なのだ。 *「それにしても上手いなあ。ねえマキノ、今度の文化祭の時に、うちのバンド手伝ってくんない?」 放課後になると、たびたびカナイはピアノ室にやってくるようになった。 苦笑いしながら俺が、バンドの練習はいいのか、と訊ねると、まだその段階じゃあない、と奴はそのたび言った。一体いつそういう段階になるやら。 そんな調子で文化祭に出られるのだろうか、と思った矢先の奴の言葉だった。「君のバンドのやる曲には鍵盤が入るの?」「んにゃ。まだそうとも限らないんだけど」 グランドピアノにもたれながら奴はふらふらと手を振る。「基本的にはお祭りバンドだしね。俺達結局、まだ初心者も初心者の集団だもの。だから、少しでも上手い要素が入ったら恩の字でしょ?」「だめだめ」 俺は奴の真似をしてふわふわと手を振った。「あまり俺はそういうの、好きじゃあないの」「バンドが?それとも文化祭のステージって奴が?」「んー…」 俺は言いよどんだ。 *「ああ、やっぱりすじがいい」 彼はあの日、そう言った。 最初に彼がベースを教えてくれたのは、あの次の日だった。 太陽はもう高かった。朝と言ったら殴られそうな時間帯に、のそのそと起き出した俺は、適当に羽織ったシャツのまま、ぼぉっとして昨夜の続きで、そこいらの雑誌を繰っていた。 別に内容全てが理解できるという訳ではないけれど、彼と自分が共通して好きである情報というものに目を通しているという事実だけでも、結構楽しかった。 単純だ。好きな人と同じ趣味があるというだけで嬉しいのだ。 彼はそんな俺を見て、くすくすとあの穏やかな笑いを浮かべながら言った。「猫みたいだな、本当に」 そう?と俺は問い返した。 彼はテーブルの上に大きなマグカップを置いて、自分のためにはブラックを、俺にはカフェオレを入れた。「ねえトモさん、俺そんなに子供に見える?」「充分子供だよ。俺に比べればね」「じき大きくなるよ」 そうだね、と彼は笑った。だけど入れてくれたカフェオレは俺の好きな甘み入りだった。 彼は前日ライヴで使ったベースを取り出すと、チューニングを始めた。黒地に、虹色?玉虫色と言うのだろうか?それとも貝殻を使っているのだろうか。そんなきらきらした不思議な色の細い曲線で、彼の黒いベースは飾られていた。 これが彼のメインベースらしい。ステージで、よっぽと変わった曲でない限り、彼はこのベースで通している。 俺はカフェオレをすすりながら訊ねた。「何でベースなの?」「何でって?」「ギターとかじゃなくて。ベース選んだ理由」「ああそういう意味か。もともとね、低音楽器って好きなんだ」「低音楽器」「小学校の鼓笛隊では小型のスーザフォンかついでたしね、中学校もすんなりチューバとかに行って。だけどそこでコントラバス弾いてしまったのが悪かったな」「ああ」 確かにそれはあり得る、と俺は思った。 コントラバス。ウッドベースと言った方が早いかもしれない。ロカビリーのバンドなぞ、これをつかうことも多いのだ。 ブラスバンドでも、何故かコントラバスだけは弦楽器なのに入っていることもある。「ちょうど俺の年には、入部者が多くて人が余っててね。なのにあれを志望する奴がいなくて。で当時は先輩だった人の一人が、『お前ならできる』なんておだてるからついつい」 俺は笑った。「ま、今となっては感謝してるけどね。チューバじゃ応用は効かないけど、コントラバスは俺にこの指をくれたし」と言って彼は左手を開いて見せる。大きな手だ。指先が固くなったごつい手だ。俺はその手を取ると、自分と見比べた。指の太さなんて、俺の1.5倍はある。
2005.09.09
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そしてまず、最初に時計を見て騒いだのはヴォーカルのノセさんだった。あの妙に存在感のあるいい声で叫んだ。「おおっ!やばいみんな、もうこんな時間だ!」 おっ、と慌てて他の者も、ポケットに入れた時計(ステージに上がる際には時計は外しておくらしい)を取り出してみて、ヴォーカリストと似たかよったかの悲鳴を上げた。「終電…行っちゃったな」とナシマさんは力無い目で俺の方を見た。ふう、と俺も肩で息を大きくついた。どうしたものやら。何やらずいぶん眠いなと思ったら身体は正直だ。やっぱり遅かったのか。「じゃ、俺のとこ来る?」 穏やかな声の方を向くと、視線の向こうには、煙草に火を点けかけたトモさんが居た。 俺は即座にうなづいていた。 実際俺は、終電を逃すと始発まで行き場所はなかったので、困っていたのだ。 初めて訪れた彼の部屋は、決して広くはなかったが、かと言って、とんでもなく狭くもなかった。彼の態度や物腰同様、そこは実に穏やかで、落ち着いた空間だった。 不自然でない程度に、同じ系統の色でまとめられている。清潔感はあるが、何処もかしこも整っているという訳でもない。雑誌なんかが所々に置かれて、時にはページが広げっぱなしになっているものもあった。 適当に座って、と言われたので、俺は部屋の真ん中に置かれた黒いテーブルの近くにあった、大きなマーブルのクッションにもたれた。それは下手すると、子供の布団じゃあないか、と思えてしまうくらいの大きさだった。「何ですかこりゃ」 上半身を埋めつつも、さすがにあきれて俺は彼に訊ねた。「あ、これ?友達が誕生日にくれたんだよ」「誕生日に?」「そう。学生の頃さ、友達と、お互いの誕生日にはどれだけ相手を驚かせることができるか、ってことをしてて」「…驚いたんですか?」「まあ一応。だってなマキノ、学校から帰ってきたら、いきなり母親があんた一体何これ、だよ?何だと思ったら…」「はあ…ちなみにその時トモさんはその人に何あげたんですか?」「ん?…高校の卒業旅行の時に大韓航空機からパクってきた食器セット」 何ですかそれは、と俺は乾いた笑いを立てた。 その大きなマーブルのクッションに身体を預けながら、俺は何となしに、出しっぱなしになっていた大きなグラフ誌を手にした。 すると不思議とそれが、俺が知りたがっていた情報がよく載っているものだったりする。偶然と言えば偶然なのだが、何となくその偶然が妙に嬉しかった。「何か面白い記事でも載ってる?」 彼は片手にコーヒーのポット、片手にカップを二つ持って、隣にあるそう大きくもないキッチンから戻ってきた。うん、と俺はうなづいた。「あまりこういう雑誌って見たことがなかったから」「そう?」「うん。俺の住んでたとこって田舎だから」「そういうものかな」「そういうものだよ。だってトモさん、ずっと東京でしょ?」 まあね、と彼はうなづいた。「田舎って損だよ。そこにいるだけでペナルティあるって思うもん」「そうかな?」「そうだよ」「でも田舎はのんびりしていいと思うけどな」 ぶんぶん、と俺は手を振る。「田舎には田舎のせせこましさってのあるよ。だってさ、俺ピアノやってたでしょ?そうすると、俺がどういうレッスンやって、どういうコンクールにどういうふうに行って、どういう結果だったか、っての、結構一日で町中広がっちゃうんだよ」「へえ?ピアノ」「あ、俺言わなかったっけ?」「初耳」「やってたんだ。今もやってるよ。一応音大志望だもん。…でね、だけどさ、そういう噂広がるんだけど、結局、俺が誰の何の曲弾いたか、なんて誰も知らないんだから。片手落ちだよね」「なるほどね。今度聴かせてくれよ」 うん、と俺は即座にうなづいた。 初夏の夜は、何故かそれから眠くならなかった。いや、それまでは確かに眠かったのだ。ところが、俺の中の何かがマヒしてしまったのだろうか?この部屋に入ってから、全然眠くなくなってしまったのだ。 週末という安心感もあったのだろう。俺と彼は、とりとめの無い話をそれからも延々としていた。 それでも三時を越える頃には、俺も頭の中が次第に朦朧としてきていた。眠いとは決して思っていないのに、だ。妙に陽気になる。そして口の方も。勝手にべらべら回る。深く考えずに言葉を出してしまうものらしい。「…そう言えば、あん時って、すごく偶然だったですよねー」「あん時?」 眠気は起こらなかった。起こっていると考えられなかった。コーヒーのせいかな、とも思った。眠くはないのだ。 だが、思考はおかしくなってくる。考えがとりとめなくなり、あっちこっちへと飛び始める。「俺がトモさん達と、ベルファストの皆さんと初めて会ったとき。もしあん時、ちょうどベルファストさん達が出てこなかったら、俺どーなってたかわかんないし」「ベルファストじゃなくて」 トモさんは全く平気なようだった。さすがに大人はこういう夜に慣れているんだか。だけど俺は基本的に昼型のただの高校生なのだ。それもど田舎出身の。「はいはいベルファーストでしょ?あん時も言われましたもん、よく知ってますよ」「マキノ…お前酔ってない?」「酔ってませんよ。だってトモさんは俺に飲ませないじゃないですか。どーして俺酔えるんですか」 そして俺は彼に詰め寄った。それは半分嘘である。言っておくが、アルコールなどなくとも人間は酔えるのだ。状況というものに。 頭の表面だけが妙にかりかりとせわしなく動いているような感触があった。俺は半ば座った目で、彼に近付くと、平然としている穏やかな顔を上目づかいに見据えた。
2005.09.08
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さて、とある放課後、旧校舎東棟の、一階の突き当たりにある大食堂で、俺とカナイはうどんをすすっていた。 ちなみにこの大食堂は、、天井は高いし、実に…美術の教師によるとアールヌーボーだかアールデコだか言っていた…装飾も所々に残っていたりするような歴史のあるシロモノだというのだが、長年のうどんやそば、カレーにカツ丼親子丼、と言った実に庶民的かつ馴染み深い香りや染みがこびりついているので、建てられた当初の優雅さなど、果たして何処へ消えたのだろうか?と問いたくなるくらいの場所になっている。 頭上からコーラス部やオーケストラの練習の声が聞こえてくる。優雅なBGMの中、ずるずる、と俺達はうどんをかきこんでいた。 カナイと食堂で会ったのは偶然だった。 俺がここで食事をしていくことは多かった。自分の部屋に帰って一人で食べるよりは、ここで食べていく方が好きだったのだ。 夕方に何故学食が、と思われるかもしれないが、もともとクラブ活動が盛んな時期、こういった文化祭シーズンには、食堂も夕方まで営業されるらしい。食べ盛りの高校生である。あって困るということはない。「何、今日はバンドの練習?」 ずるずる、と俺は天ぷらうどんをすする。傍らにはブリックパツクの甘ったるいコーヒーがある。食堂入り口に何台か並んだ黄色と赤と白の三色に彩られた自動販売機で買ったものだ。 いんや、とカナイはきつねうどんをすすりながら答えた。奴の所にはさらに甘い「フルーツ」牛乳のパックがあった。「担任から呼び出し」 ったく、と奴はつぶやく。「こんな時間までかよ」「こんな時間、ってお前もいるじゃん。お前こそ何よ」 箸で指すな、と俺は目を細めた。「俺はピアノ室」 あ、そうかと奴は納得してうなづく。「何、お前んちってピアノ無いの?あんな上手いんだから、絶対あると思ってたけど」「アプライトぐらいならあるよ。だけどここの音響って凄くいいからさ。ほら、校舎古いだろ?鳴りがいいんだ。そういうとこで弾くと気持ちいいだろ?」「そういうもん?」「そういうもんだよ。カナイもバンドやろうってんだろ?少しは音のことくらい考えろよ?」 うーむ、と奴は少しだけ真剣な顔になる。俺は少々意外に思った。「ところで何で呼び出しくったんだよ。君別に悪いことしたようには見えないけどさ」「だから、バンドやるから」「は?」「サエナが言ったのはそうそう間違いじゃねーなあ、全く」 さすがに俺も話が見えなかった。「あのさカナイ、サエナって会長さんのことだよね」「二人と居るかよ、そんな妙な名。何かさ、一応この学校、そのへんは寛大なように見せているんだけど、実のところ、結構せこいの」「それって、バンドやると教師の心証悪くするって奴?」 世間一般ではありがちな話だ。少なくとも俺の郷里ではそういう雰囲気があった。「そ」「自由な校風が自慢の学校じゃないの?」「まあね。だけど、うちって大学も願書一発で行けるようなとこだろ?ところがそういうことすると、それが難しくなるとか何とか」「はあ」「それであいつ、俺に今度の文化祭の申し込み、出させまい出させまいとして追っかけ回してたの。全くお節介なんだからさ」「へえ。おねーさん代わりとしちゃ?」 そういう意味があったのか。「いや、ウチとあいつんち、昔っから近いの。親同士仲いいし。ま、その程度の幼なじみだけどさ」「あ、それでここに入ったんだ」 すると奴はひらひら、と手を振る。 「はずれ。ウチはもともと、親父も兄貴もここだったから、まあ別にそれは良かったの。…って言うか、逆。俺は外部じゃないの」「あ、もともと居たんだ」「そ。小学校からここ。ここはそういう奴が大半でしょ。だけどサエナはそーじゃない。あいつはお前と同じで、高校からの外部生」「そりゃすごい」 思わず俺は自分のことを棚に上げてそう言っていた。それに気付いたのかどうなのか、奴はやや苦笑する。「すごいだろ?そういう女だから、この学校で最初の女子生徒会長なんかにもなっちまう。なりたいと言って、なっちまった。ついでに何を考えてるのか、俺にまでちょくちょく生徒会に立候補しろってうるさいうるさい」 OH,MY,GOD!とばかりに奴はお手上げポーズを取った。へえ、と俺は目を丸くした。生徒会とカナイ…いまいち俺の印象ではつながらないものなのだが。「あれ?」 奴は不意にまだうどんが半分引っかかっていそうな箸を俺に向けた(するな!)。「そういう所、お前猫みて。目、でかいし」「え?」「あれ、言われたことない?」「…あるけど」 * 猫みたいだと。 それは、ごくごくありふれた週末の、ライヴ後の食事を済ませた後だった。 五月の半ば。 俺はライヴ前に拉致されると、そのまま食事にまでひきずられて行くことが多かった。 だから、その日も、ごくありふれたそんな日だと思っていたのだ。 だいたい彼らがよく行っていた店は、11時には閉まる。そこで彼らは「閉店を告げられるまでは居る!」をポリシーにしているのだが、たまたまその日は「いつもの店」が休みだった。 そこで近くの別の店へ行ったのだが、やはり勝手が違う。そこが深夜二時までやっているということに誰も全く気付かなかったのだ。
2005.09.07
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「大丈夫か?」と穏やかな声が耳元で響いた。ふっと目を開くと、大きな手が視界に入った。顔を上げると、さっきステージで釘付けになってしまった姿があった。「あ…」 BELL-FIRSTのメンバーだった。そのくらい判る。まだ目に焼き付いていた。 それが、彼だった。 確か左側で黙々と弾いていた堅そうな髪が短いベーシスト。春も終わりだと言うのに、黒のハイネックに黒のジャケットなんか着ていて、しかも汗一つかいていない。大きな手はさらさらしていた。「大丈夫です」 そう言って、俺は彼の手を借りて立ち上がった。楽器をかついだ彼は、俺より頭一つくらい背が高かった。「あー、ここすりむいてる」 やっぱり楽器をかついでいた長い金髪の人がつん、と俺の頬をつついた。痛、と俺は自分がいくつかのすり傷をこしらえていることに気付いた。「ねえトモ君、この子、ケガしてるよ」「そうだな、ちょっと戻ろうか」 そんなことを言って、彼は俺の手を引っ張った。引っ張られて、結局俺は、出てきたライヴハウスにまた戻る羽目となってしまった。「あらあんた、どうしたの!」 裏口から中へ入ると、さっき俺を外へ出したカウンターの女性が高い声を出した。「何、ナナさん、この子知ってんの?」「ううん、別に。ただ、この子、さっき、閉店まで何かぼけーっとして居残ってたから…あらあら大変。ケガしてるじゃなあい。綺麗な顔なのに!」 彼女は早口でそれだけ言うと、あたふたと救急箱を捜してくるから、と立ち上がり駆け出した。そして残された俺は、メンバー達の質問責めにあってしまった。「何、今日のステージ見てくれたんだ」「あ、あの…」「どぉだった?」 俺はステージの配置を思い出す。確かこの金髪の人は右側に居たギターの…「良かったです…あの、俺、こういうの見たの初めてで…」「初めて!」 ギターの人は、へええ、と珍しい物を見た、というような顔になる。「でも!その初めて見たのが、えーと…ベルファストで良かったと思います!」「ベルファスト違う。それじゃ地名じゃないの。BELL-FIRSTよ」 チチチ、と年齢不詳ファニイ・フェイスのヴォーカルの人は人差し指を立てて振る。はあ、と俺はうなづくしかなかった。 そして俺はその時、彼の名前も知った。 彼は吉衛智則という名だったから、「トモ」とか「ヨシエさん」と呼ばれていた。後者だとまるで女の子の名前のようだから、と彼は俺には前者を呼ばせた。 そしてそれ以来俺は、地名のベルファストならぬ、BELL-FIRSTのメンバーとお知り合いというものになってしまった。 何故かこのメンバー四人が四人とも、俺のことを気に入ってしまったらしく(おそらくは今日び珍しい純粋培養少年とでも思ったのだろう)、その結果として、俺は本格的にライヴハウスに通うようになってしまったのだ。 ACID-JAMは、基本的にドリンク券さえ買えば、そこのステージを何でも見られるタイプの気楽なライヴハウスだったし、BELL-FIRSTのメンバーは俺を外で見つけると、ほとんど人さらいの要領で楽屋へ連れ込んだ。 このバンドを一言で言えば、「業界には実によくウケるバンド」だった。 とにかく上手い。テクニックはある。曲も悪くない。そして何か埋没してしまわないだけのセンスやプラスαもある。 だが、このバンドのメンバーは全員が全員、基本的に「音楽さえできれば人生楽し」という態度の人だった。そのために、「売れる」もしくは「知名度を上げる」という部分が大きく欠けていた。 だが、皆その腕のせいか、バンド以外の副業を音楽で持っていたようだった。 ギターのナサキさんは、楽器屋でギターの講師をしていたし、ヴォーカルのノセさんは時々レコーディングなどのコーラス隊でレコード会社から呼ばれる。ドラムのハリーさんもそうだった。いいドラマーというのは人口が少ない。サポート・ドラマーの時もあるし、結構カラオケとかのドラムは量できるからいい収入になるのだとも言う。 そしてベースのトモさんは。 俺をあの時助け起こしてくれたあの人は。 結構落ち着いて見えるので、二十代も半ばかと思ったら、まだ二十三だった。去年大学を卒業したばかりなのだと言う。 だがそう見えてしまうのも不思議でない程、彼は落ち着いた、穏やかな人で、笑うと、二重なのだがあまり大きくはない目が更に半分になってしまった。 そんな彼らは、ライヴ前の人さらいだけでなく、よくライヴ後の打ち上げ、というか食事に連れて行ってくれた。 新しい発見と新しい出会い。春の終わりは、楽しい日々の始まりのような気がしていた。 そのはずだった。
2005.09.06
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「結構玄人受けする音でさ」「うん、バンドとしてはメジャー行ってなかったけどさ、個人個人はプロのスタジオミュージシャンもやってて…」 詳しいな、と奴は感心する。そりゃそうだ。 この夏までは。 * 今でも時々ふっとその情景が浮かび上がる。 ライヴハウスだ。「ACID-JAM」。 天井の低い、空気も良くない、地下室のライヴハウス。煙草のけむりだらけの店内。焼き板で作られたような重い木の扉を開くと、そこにはそれまでの俺にとっては縁の無かった世界があった。 大人しく待ってろよ、と彼の大きな手が俺をフロアの隅に押しやる。 そんな光景が、初夏の時分に繰り返された。 彼に最初に出会ったのは、春先だった。 郷里に居た頃、俺はそんな所に出入りしたことはなかった。出入りしたことない程真面目、というのではない。出入りしたくとも、無茶苦茶な田舎というのは、そういう所が無かったのだ。 顔なじみの女性の店員が、飲物でもどぉ?と、押すとぺこっと音がするような、メーカーの名が白く入った使い捨てのコップ一杯になみなみとオレンジジュースを渡してくれる。 そんなたび俺は、ありがと、と受け取って、カウンターの一つの椅子を陣取っては遠目にステージを眺めていた。 そのバンドの客は多くも少なくもなかった。決して満員ということはないのだが、聴いて踊るにはちょうどいい程度の人数をいつもキープしていた。 最初に来た時も、そんな感じだった。 東京へ出てきたばかりの俺は、所詮ただの好奇心旺盛なガキだった。目に映るもの全てが不思議で目移りしていた。そして昼間だけでは足らず、ピアノの練習もそっちのけに、夜の街を散策することが多かった。 もともと田舎に居た頃から、夜出歩くことは好きだった。ただ、昔のそれが、星を見るとか、仲間達と秘密の場所で待ち合わせとか、そういうものであったのに対し、都会に出てきたばかりのお上りさんのすることと言えば。 星ではなくネオンの瞬く街。ものすごく陳腐な表現だけど、俺にはそう見えた。 俺の郷里では夜はとても暗いものだった。月の無い夜には「闇」が確実にあった。そしてそんな夜に、坂道をブレーキをかけずに自転車で疾走する時の恐怖と快感は、とうていこちらの人間には判るまい。 だがこちらはこちらでまた別の恐怖と快感が待っていたという訳だ。 …と言うのも。 俺はもともと大きくはないし、これからもあまり大きくならない質らしい。別にそれを気にしたことはないし、これからもする気はないが、俺の思惑などお構いなしに、気にする奴はいるらしい。 ACID-JAMに最初に足を踏み入れたのは四月の終わり頃だった。 俺は別に何もそこがライヴハウスと知っていた訳じゃない。ただ、人がずいぶん集まっているな、と思ったから興味を持っただけ。 そして当日券を買って入ったら、そこは既に大音響だった。 水しぶきが頭の上から勢いよく降ってきたような気がした。 夏の暑い日に、近くの川に飛び込んで遊んだ時の水しぶきだ。あれにも似た感触で、音は、俺に降りかかってきた。降ってきた音は、俺の頭の芯を一気に揺さぶっていた。 情けないことに、全ての演奏が終わった後にも、なかなかフロアから動けずに居た。 どのくらいそうしていただろう? もう閉めるわよ、と店のカウンターの女性が声をかけた時にはもう誰もいなかった。 出てからもしばらくは頭の芯がくらくらしていた。足どりもおぼつかなく、ふらふらふらふらしていたらしい。店の名にふさわしく、何かに酔っているかのようだった。 だから、そんな時に不意に取られた手に、即座に反撃できるはずもない。 出てきたライヴハウスの前の道を歩いていたら、急に手を掴まれた。 慌てて振り向くと、にやにやと顔一杯に笑いを浮かべた野郎が三人でつるんでいた。色を抜きまくった短い髪、眉毛は何処へ行ったんだ?だらんとしたサスペンダパンツは、そんな短足がやるもんじゃない!ピアスも付けすぎで、お前はバインダーか!と言いたくなるような耳だった。 明らかに流行をはき違えたように身につけている、頭悪そうな(!)男達は、それでも身体は大きかった。俺はやや怖くなったが、それでも負けん気もなくはなかった。「何か用?」 なるべくきつい声でそう言うと、手を掴んでいた男は、驚いて目を広げた。あいにく声は、きっちり変わり時を過ぎているのだ。「何でえ、野郎じゃねえの。どぉする?」 どうやら俺は女の子一人歩きと間違われたらしい。 何となくかっとなって手を振り払う。無視して早く帰ろうと思った。 だが、三人というのはなかなか厄介な数だ。前へ進もうと思うと前に居て、振り返れば振り返ったでまたそこに一人居る。取り囲まれた、という方が正しい。「野郎でもいーじゃん。綺麗さんだしさ。ちょっとそこまで付き合ってくんない?」「やだ!」 俺は即座に答えていた。無論そんなこと言ったらどうなるか、など目に見えてたけど。「何ぃ?もう一度言ってみろ!」「いやだ、と言ったんだよ!」 その後はと言えば、もういきなり殴られ蹴られ…そういう時のことはいちいち細かく記憶したくないものだ。 そして、そこが一応、往来だったことに俺は感謝した。 俺はどうすることもできずに、ずっと目をつぶったままじっとしていた。 と、いきなりその攻撃が止まった。何だろう、とゆっくりと目を開き、顔を上げると、四人連れの男達が三人組相手にすごんでいた。 おぼえていろ、と逃げる時の常套文句を投げ捨てると、彼らは走り去って行った。
2005.09.05
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もっとも、その参加は強制ではない。 ただ、「結果的に」全員参加してしまいたくなってしまう雰囲気が、この長い歴史を持つ私立の学校にはあるらしい。小・中・高一貫だから、OBなり何なり、客の数も多い。有名だからか、外部からの客もまた然り。 そしてどうやら、今年の生徒会長は、この文化祭に異様に力を注ぎ込んでいるらしい。 まあ噂だ。ぴいちくぱあちくクラスの女子がさえずる類の。 全員参加ねえ。俺は内心つぶやく。 さてどうしたものやら。 やがて、校内にはポスターが公式非公式問わず貼られ、休み時間であるなしを問わず、皆、自分の所属する文化祭団体のチケットを売りさばくことに熱心になった。 俺は、と言えば、何処に属するでもなく、ふらふらしていた、というのが正しい。別にクラス名簿に○を打って参加不参加の確認を取る訳ではないのだ。誰かに誘われた時に拒む気もないが、自分からそれをやろう、と言う気も起きない。成りゆきまかせだ。 今のところ俺の財布の中には、「喫茶店」と「お化け屋敷」と「アンティークライヴハウス」のチケットが一枚づつ入っていた。 講堂で行われる催し物は、基本的には生徒会主催である。祭自体は金・土・日と三日間なのだが、そのうちの一般開放の土・日に、大がかりな発表会が行われる。 どうやら「土曜の午前は真面目な音楽」とか「日曜の午後は演劇」というように分かれているらしい。そう出場者募集を兼ねたポスターには書かれている。「何見てんのマキノ?」 カナイが背後から来襲してきた。ぐわし、と俺の肩を掴み、その向こう側のポスターを見た。「あ、俺もこれに出るのよ」「君が?」 思わず俺は振り返っていた。「そんな意外そうな顔せんでもいいでしょ?バンド組むの、バンド」「バンド!君、バンドやるの?」「そ」「だけど君、何か楽器できたっけ」 そういう話は今までクラスでも聞いたことがない。確かによく奴が、他の男子生徒とわいわいとロックの新譜がどーの、と話しているのは聞いたことがあるが、楽器の話は。「あ、俺はいーの。俺は歌うたうの」「あ、なるほど」 あからさまに納得するなよ、と奴は笑った。「でも君声がいいから、いいかもな」「お世辞?でもサンキュ。じゃ見てくれよな。そう言うんなら」 別にお世辞ではなかった。 そうこうするうちに、俺は時々カナイとは話をするようになっていた。 奴は基本的に誰にでも気さくであったし、整った顔の割には、妙に人好きさせる笑いを浮かばせることもできる。クラスの内外、奴を好きな子は多いらしい。 だが奴自身はそれを知ってか知らずか、飄々とした態度で、誰とも付き合ってはいないらしい。 一度、意外に思って訊ねたことがある。すると奴はこう答えた。「だって今はまだ面倒じゃん」 そして逆に俺が聞かれた。「お前こそ、そういうのってないの?」「俺?どうかな」 あ、ごまかすなんてずるい、と奴は俺を後ろから羽交い締めにした。ごまかしたつもりはないのだが。確かにそういう相手は現在はいないのだから。いないような気がする。「そう言えばさ、マキノ、一度お前に聞いてみたかったんだけどさ」「何?」 廊下の、背の低い二段組のロッカーから教科書や辞書を取り出しながら奴は訊ねた。「お前、『ACID-JAM』に行ったことある?」「あしっどじゃむ?」「…いや、知らないならいいけど」「…行ったことあるよ。中町のライヴハウスだろ?」 俺は古語辞典と世界史年表をロッカーの上に置きながら答える。「あ、やっぱり」「何で?」「何か俺さ、何かお前どっかで見たような気がしてたんだけど…やっぱりあれ、お前だったんだ」「…へえ…いつの話?」 奴は奴で、日本史地図と用語集を出し、ロッカーをばたんと勢いよく閉める。「今年の春の終わりから夏。特に夏休みだったかなあ。俺よく観に行ったからさあ」「夏はね。今はそうでもない。夏休みは結構通ってたよ」「へえ。俺はさ、正直言えば、…マキノ、『RINGER』ってバンド知ってる?」「名前くらいは。だけどまだあそこって、あんまり知られてないよね。君よく知ってるね」「だって俺はファンだもん」 ほー、と俺は声を立てた。確かに意外だったのだ。結成してからは結構経っているらしいけど、目立ってライヴに精出すようになったのは最近だというところ。そういう実にマイナーなバンドに奴が目をつけるとは。「バンドの?それともプレイヤーの?」「ギタリスト。あそこのギタリストの音聞いた時に、もう、わーっ!って感じだった」「へえ…」 わーっ、と言いながら彼は手を広げてみせた。その拍子に手にしていた用語集が通りすがりの女子に当たる。 慌ててごめん、と奴は平謝った。そして照れ隠しに笑いながら、俺に話の続きをする。「マキノは何か、あそこでそういうお目当てでもあったの?」「俺?ああ、一応は」「誰?何処?」「君、いつのライヴで俺を見かけた訳?」「あ…」 そうか、と彼は記憶をたどり始める。俺は奴に言われる前に、その目的を口に出した。「『BELL-FIRST』観に行ったんだ」「…ああそうそうそこそこ。あそこの演奏って渋いし上手かったよなあ」「うん」 本当にそうだったと思う。
2005.09.04
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しばらく奴はそれを黙って聴いていたが、やがて俺のそばにまで近付くと、譜面の置いてないことに気付いたらしい。「…何って言ったっけ、その曲?何かひどく重いけど」「さあ…タイトルまでは。忘れた」「…そういうもの?」「まあね。結構手が覚えてるものだし」 それは本当だった。タイトルはともかく、その曲は結構昔から練習した中にあったはずだ。だからこそ、勝手に頭の中で鳴り響くのだろう。「…ま、いいさ。とにかくかくまってくれてありがと」「どう致しまして」 俺はひらひら、と手を振る奴に、そう返した。そしてカナイはピアノ室の扉を開けると、一度きょろきょろと辺りを見渡し、そしてそっと扉を閉めた。意外にデリカシイはある奴らしい。 帰ろうとしたら、掲示板の内容が変わっていた。 俺達の学校には、赤いフェルトが貼られた大きな掲示板が生徒昇降口の横にある。その右半分を教師が使い、左半分を生徒が使う。 ちょうど両方とも張り替えをしているところだった。右側には、この間の中間テストの結果、左側には、生徒会のメンバーが大きなポスターを取り付けている所だった。 中には、さっき煙に巻いてしまった生徒会長の福原紗枝奈嬢も居た。 サエナ会長は、何だかんだ言っても、目を引く。ポスターの端を持ってぴっと止める姿も、丸まった紙を伸ばす仕草も、一つ一つがぴしっとしていた。「あ、すごーい、会長、またトップですよぉ!」 確かあれは会計の女の子だった。彼女は右側の掲示を見てサエナ会長の肩を叩く。そしてその賛美の言葉と表情に対しては、会長は実に見事な笑顔を返す。「ありがと。さ、こっちもさっさとやってしまいしょ」 全校生徒の前でマイクなしで話しても通ると言われている声が、耳に飛び込んできた。ふーん、と俺はさっきのカナイの声を思い出していた。 存在感のある声、という奴だ。そういうのは誰もが誰も持てる、という訳ではない。天性のものだ。幼なじみと言っていたが、おそらくあの二人が口げんかなどしたら、無茶苦茶やかましいものになるだろうな、と俺はふと思った。「あら、さっきの」 ポスターを貼り終えた会長は、昇降口の横をすり抜けざま、出ようとした俺に気付いた。 肩よりやや長い髪。色は抜いたり付けたりはしていない。自然のまま、黒く流れている。無茶苦茶美人という訳ではないが、涼しげな目と上げた前髪が彼女を理知的に見せていた。スカートも最近の流行よりはやや長めに取っていて、流行よりは自分の好みを尊重するのだな、と思わせた。 背は結構高いから、162センチしかない俺をやや見おろす形になる。すらりとした足が綺麗だ。「さっきはピアノをお邪魔してごめんなさい」「探していた人は居ましたか?」「ううん、見つからなかったわ。仕方ないわね、全く」 会計の少女が彼女の袖を軽く引っ張る。「それではさようなら。帰り、気をつけてね」「どうも」 なるほど「姉貴づら」ねえ。 何となくカナイの言いたいことは判った。 だが俺は、カナイのことをそうそう知っている訳ではない。いやカナイだけではない。俺はそうそうこの学校のクラスに知り合いという者も多くはなかったのだ。 この学校は伝統ある私立校という奴だった。小・中・高と、望む者はエスカレーター式に進学できる。カリキュラム自体も、一貫教育の気があり、途中から入ったものにやや不利であるので、外部入学のラインは高い。 俺はそんな学校の、高校からの外部入学者だった。 郷里は田舎である。ひどい田舎である。どのくらい田舎か、と言うと、高校に入るということイコール実家を離れること、というくらい田舎である。 車だの電車だの、どんな交通手段を使ったにせよ、実家から高校に毎日直接通うことができないのだ。その場合、親戚を頼るか、そうでなければ、学校に近い所に下宿するか、寮住まいである。 だがそうなってくると、何も郷里の学校でなくともいい訳である。 うちは幸い(と言うか)、結構家には余裕があった。旧家と言っても間違いではない。しかもそこの、跡継ぎがどうとか、とはあまり関係ない三男坊だったから、両親も俺には、外で自分を生かせることを見つけた方がいいだろう、と東京の学校へと出すことに反対はしなかった。 まあ名目は、「音大受験のため」だった。 とりあえず俺は、伝統ある私立の学校に外部入学できる程度の成績ではあったし、実際「生かせること」の一つとしてピアノもあった。三つの頃からやっているのだ。 最初からピアノの音は嫌いではなかったから、真面目にやっていたので、飛び抜けはしないにせよ、ある程度の腕はある。生かせるものなら生かしてみても悪くはないな、と親も、俺自身も思える程度に。 ふっと思い立って、もう既に貼り終わって、人気の無くなった掲示板に引き返してみた。右側を眺める。そこには上位二十名が学年別に挙げられていた。 俺の名は入っていないはずだ。入学した頃ならともかく、半年は経った現在は、可もなし不可もなし、という感じで、二十位未満、五十位以内のあたりをキープしている。 一番下に掲示してあった一年の部を、二十位から逆に目でたどってみる。 と、十二位にカナイの名前があった。大したものだ、と思った。 そしてその上に貼られた二年の部。確かに、あの会計の少女が口にしたように、サエナ会長はトップだった。 まあ珍しいことではない。だが、やや出来すぎだな、と思わずにはいられない。学業優秀。スポーツも…鈍という噂は聞かない。どちらかというと、チームプレイの際の頭脳役とも言われている。そして見栄えも声もよく、先生達の覚えよろしく。 …出来すぎでなくて何だというんだ、と言いたくなってくる。 そして左側には、文化祭のポスターが貼られていた。彼女があの綺麗な手でぴっと止めたポスターは、掲示板の枠と綺麗に平行線を描いていた。 「全校生徒の参加を望みます」。そう書かれている。基本的にここの文化祭は、全員参加するものなのだという。
2005.09.03
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BGM代わりにTVをつけておいたら、いつの間にかニュースの時間になっていた。 割と近くの駅前で、バイクが酔っぱらい運転の車を避けようとして、ガードレールに突っ込んだらしい。飛ばされたバイクの運転者は即死だったという。昨夜の事だ。 そんな画面を眺めながら、宅配の、シーズン限定のキワモノピザとチェリトスをコーラで流し込む。俺はなまけ者になりつつあった。 きっと彼が、こんな今の俺を見たら、あの優しいけれど妙にきっぱりとした口調で、もっとマトモなものを食べろよ、と言うだろう。近くに居れば。 すぐそばに居てくれれば。 *「何してんの?」 それが奴に対する俺の第一声だった。「ああ助かった、マキノ…?だよね。居て良かった~!」 奴は大きく上に押し上げた窓に軽くよじ登ると、あっさりとピアノ室の中に入ってきた。 放課後四時過ぎ。 いつものように俺はピアノ室を占領して、好きな曲を弾き飛ばしていた。この時期、この時間にこの部屋を使う奴はそうそういない。コーラス部もブラスバンドも、それぞれの音楽室を使っているし、音大を目指す生徒は、この秋口には、こんな所で練習する余裕があったら、自宅で好きなだけ弾き続けるだろう。 だから、俺はその時、かなり驚いたのだ。窓は外から叩かれたのだから。 ピアノ室のある三階の窓の外は、ベランダになっている。北側の新校舎のクリームを塗ったくったようなコンクリートの壁ではないが、そこはそこなりにしっかり作られ、ベランダに出たからと言って、危険なことがそうそうある訳ではない。 だが、そこに生徒が溜まるのは、学校側としてはそう好ましいことではないらしい。 従って扉は基本的に閉まっている。通行は非常事態に限られる。「頼むマキノ、かくまってくれ!」 そして、そんなベランダから来たクラスメートは、どうやら非常事態らしい。どうしようかな、と俺は黙って首をかしげた。 だが奴は、そんな俺の対応など気にもしないように、さっさとグランドピアノの下にもぐり、ずるずるとした黒いピアノカバーの陰に隠れた。 何から隠れているんだろう?年季の入ったわが校を体現している、緞帳のような黒いピアノカバーを俺は眺める。俺だったら好んでこの下に隠れたくはないものだ。 やがて、扉の外から音を立てて、人のやってくる気配がした。 俺はつとめて冷静に、ピアノの続きを弾き始めた。何となく今日は弾きたい曲があったのだ。朝、目が覚めたら、一つの曲が頭の中でぐるぐる回っていた。こういう時にはちゃんと、頭の中からその曲を出してやらなくてはならない。 がらり、と引き戸が開く。俺は驚いて手を止めるふりをする。入り口からは、にこやかに、だけどよく通るきっぱりした声が聞こえてきた。「お邪魔してごめんなさい。こっちに男子生徒が一人やって来なかったかしら?」「さあ…」 俺は素気なく、それだけ言った。 彼女は一歩、中に入ると、そう広くもないピアノ室の中をぐるりと見渡した。そして、ごめんなさいね、と一言残すと立ち去った。 そして彼女の足音が遠ざかっていくのを見計らったように、奴の声がした。「…助かった、ありがとう」「それはどうも」 奴はもぞもぞとピアノの下からはいだして来る。だが俺のピアノの手は止まらない。「素気ないなあ…ま、最もその素気なさのおかげで助かったんだけどさ。…それにしても、お前上手いなあ…」「うん?」 俺は手を止めた。「ピアノがさ」「ああ…小ちゃい頃からやってはいるから」「へえ…すげえの」 俺は会話しながら、この妙に気さくなクラスメートが誰だったのか、記憶を探っていた。 確かに見覚えはある。妙にきちんきちんとした所があるこの学校の生徒の中で、こんな、ネクタイをだらんと緩め、無造作に腕まくりしている奴はそういない。 クラスメートということは判るのだが、名前が思い出せない。整った顔立ち。結構人気のある奴だということは覚えているのだが… そんな俺の様子を見て取ったのか、奴は苦笑しながら訊ねた。「もしかしてマキノ、俺のこと、忘れた?」「ごめん」 さすがに俺も素直にそう言う。「覚えていてくれよなあ。クラスメートなんだからさあ。カナイだよ、カナイ」「あ、…ああ、そぉか。仮名のカナイ君だったよなあ」「そ、仮名文字のカナイ君でもいいのよ」「OK、記憶した」 俺は手を挙げる。「ところでカナイ君、今君を追いかけていたのは、我らが敬愛する生徒会長ではないかい?」「俺の名知らなくとも、あいつの名は知ってるのね。悲しいわっ」 うるうる、と奴は顔を手で覆い、泣き真似までしてみせる。俺は呆れて肩をすくめた。「…そりゃあな、この学校初の女子の生徒会長だったら、嫌でも覚えるだろ?」「まあね」 奴は顔から手を外した。へらっとした笑顔がのぞいた。「それに優等生。こないだの中間テストでもいい手ごたえとか言ってたしなあ。狙ってるのがお茶(の水)よお茶!」「詳しいじゃないの」「幼なじみなんよ。向こうが一つ上なんで、姉貴づらしてさあ」 奴はピアノの上に片ひじをつくと、やや気怠そうにあーあ、と声をもらした。おや、と俺は耳を澄ませた。妙に耳に飛び込んでくる声だった。「心配してくれるのは判るのよ、だけどなあ…」 カナイはそこで言葉をにごし、黙り込む。俺は再びピアノを弾き始めた。まだ曲は終わっていなかったのだ。
2005.09.02
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それから一ヶ月くらいしたとある水曜日の昼間、集合をかけられて「フェザーズ」事務所に居た俺に紗里が電話してきた。 どうやって探し当てたかなど一言も言わず、彼女は開口一番、こう言った。『あんたこないだごはんおごるって言ったわよね?』「え?」『例の件、あたし何とかなったからね。来なさいよっ』 例の件とはなんだったろうか。俺は会社かららしく、早口で要点だけ言う彼女の言葉を慌ててメモに書き付けた。何だ何だ、とメンバーは取り次いだ事務員嬢のデスクの電話に注目する。「女のひと?」とカナイが無邪気を装って訊ねる。ケンショーはふうん、という顔になり、マキノは別段表情も変えず、お茶をすすっている。「何だよもう。紗里だよ紗里。ケンショーお前知ってるだろっ」「ああ紗里ちゃんか。最近俺ずっーと会ってないからなあ…元気?」 そう言ってリーダー殿は無責任に言い放つ。俺はぽりぽりと頬をひっかきながら負けず劣らずの悪い目つきでケンショーをにらんだ。「…元気だよ。無茶苦茶元気」 へー、とカナイが興味深げにその続きをうながした。「何、オズさんのガールフレンド?」「何だよ。友達は友達だがな」 こいつは俺にマキノとのことをけしかけたくせにこんなことを言う。果たしてマキノは何かをカナイに言ったのかどうか、さっぱりそのあたりは判らない。また訳の判らない友人関係である。 マキノは相変わらず平然と茶をすすっている。「最近好きな奴ができたから、それが上手くいったら紹介する、って言ったんだよ。だからそのことだろ」「ああなるほど」 ぽん、とカナイは手を打つ。全くこいつは。「暮林さん…社長、今日遅くまで俺達かかります?」「いや、特別そういうことはないよ。夕方からのバイトのことも今はまだ考慮できるし」「そういう訳じゃないんですけど」「ま、特別今日は急ぐ用事ではないしな。ちゃんと君も曲出しに参加してるようだし」「最近はいいモデムが手に入ったんですよ」 俺はそう言うとマキノをちら、と見た。ケンショーはどうゆう風の吹き回しやら、と聞こえる程度の声でつぶやく。カナイは肩をすくめる。 そして当のマキノは、朋香さんお茶おかわりちょうだい、とこれまた平然と言っていた。ちなみに朋香さんというのは、お茶出しが実に上手い事務所の女の子のことである。「何で俺まで来なくちゃならないの?」と植え込みのコンクリートに座ったマキノはややふくれっ面で訊ねた。「…仕方ないだろ、お前連れてくれば、俺あいつらにおごらなくてもいいんだから」「あいつら、ってことは二人以上」「そ。お前一人におごるぶんなら、俺自分のぶんとお前ので二人分でいいけど、あいつら二人だから…」 なるほど、と奴はうなづいた。「でも何で俺なのよ」「…そういう奴なの。綺麗な男の子を見るのは好きなんだと」「紗里さんが?」 さすがにあれだけケンショーが連呼していれば、名の一つ二つ覚えるらしい。半年クラスメートの顔を覚えなかった奴が進歩なものだ。「まあね」 マキノはへえ、とうなづいた。 紗里は結局電話で、場所と条件と時間を一方的に指定して、「理由」を一言だけ言うと、さっさと切っている。「とりあえず座って待てば?何か変だよあんた」 マキノはそう言って俺の手をいきなりひっぱった。バランスを崩して植え込みに倒れ込みそうになる俺を見て、この猫は、くっくっ、と楽しそうに笑う。何となく俺は選択を誤った気がせんでもない。 だが最近、確かに奴は変わってきた。 何よりも、本当に楽しそうに笑うようにはなった。別に特別なことをしている訳じゃない。週末になると奴はうちに来ては、他愛のない話をしたり、ぽろぽろとキーボードを弾いたり、置いてあるマンガを見ては笑ったり、一緒に寝たり、そんな程度のことだ。 だけど確かにそれだけのことなのに、以前とは違うのだ。俺はそれを見ていると自分でも奇妙なほど嬉しい。本当に不思議だ。 あれ、とマキノが顔を上げた。「ねえオズさん、あのひとあんたの名呼んでない?」 陽気な声が、いつもよりオクターヴ高い。俺は糸で引かれたように声の方向を見た。紗里がそこに居た。 さて何ってこいつを紹介しよう? 俺は彼女とその連れに向かって手を振った。
2005.09.01
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「俺はさマキノ、頭の中で、こう、ぼんやりと何か音や情景が流れていることはあるんだ。今みたいにさ」 マキノはうなづく。「だけど俺には、それを外に、形にして引き出すためのものが俺にはないんだ」「だけど、俺には判ったよ?…間違っていないのだったら、オズさんが、どんな情景を見て、どんな音を組み立てたがってるのか」「見えるのか?」 奴はふら、と首を横に振る。「そうじゃない、と思う。でも、何となく、判るんだ。ほら、あの、俺がピアノを入れたとこ、あそこは俺は、夏の夕方とか、考えてたんだけど…あのピアノの音は、あれはビアホールだよ。だから音が狂ってても平気なんだ。そんな時のピアノは、弾くんじゃなくて、叩くんだ。調子っぱずれの歌声に負けない程に」「…そうだよ」「そんな情景なの?やっぱり」「うん」「どうして判るんだろ?すごく不思議だ。だって俺、結局彼に関しては、全然判らなかった。すごく知りたかったのに、結局最後まで彼が何考えてるのか、全然判らなかったのに」「マキノ…」「どうしてオズさんは、判るんだろう?」 マキノは首をかしげる。俺は、何となく自分がその理由を知っているような気がしていた。だけど、やや話をそらしてみる。何となく、その言葉の向こうには。「…でもワルツにされるとは思わなかったな」「俺結構好きだよ。ピアノ曲にも結構あるし」「でもワルツと言ってて、ワルツっぽくない奴も結構あると思うけど…お前さっきショパンやったろ?犬の奴って無かったっけ?何かガキの頃、音楽の授業か何かで聴いた気がするんだけど」「『子犬のワルツ』?…だよね。ああ、あれはずいぶん音符が動き回っているから…」と言って、キーボードを引き寄せると、マキノは音を「抑えたピアノ」に変え、細かく指を鍵盤に走らせた。 確かに左手のベース音は、三拍子を奏でている。だが右手の軽やかさが、それに気付かせない。 ふっと音に合わせて身体が動く時、一拍、背中に残るような感覚がある。それに気付いた時、ああこれはワルツだったかな、とやっと思い出すのだ。「何か不安定でしょ」 そんな俺の気持ちを見すかしたかのように、奴は手を止めた。「何かね、こうゆうのって、彼と居たときに、時々感じていた気分と、ちょっと似てるんだ」 やはり話はそこに振り返すのか。「ワルツと?」「俺さ、前、彼と居た時、何かね、いつももう一人が、そこに居るような気がしてたんだ。もうそこには居ないはずの人なのに」「居ない人」「俺と会うずっと前に、死んでしまった彼の友達」 ああ、そういう人が居たのか。「そういう感情が、彼にあったかどうかは、結局俺には本当には判らなかったけれど」 嘘だ、と俺は思った。「でも死んでしまったからこそ、その人は、ずっと彼にまとわりついてた。もちろん幽霊がどうの、というんじゃないよ?確かにそんなことが、そんな人が、居たんだ、っていう、影みたいなもの」 三拍子の、最後の一拍が、耳の後ろに聞こえてくる。「何か、結局、俺はそのひとに勝てなかった気がする」「そんなこと」「そんなことって、オズさん判るの?」「…判らないけど」 猫の瞳が、俺を見据えた。真正面から。昨夜と状況は、似ていた。だけど、昨夜とは明かに違う。 俺は大きく息をつき、覚悟を決めた。「でも、そんなことは、俺は、どうだっていいと、思う」 今度は、逃げない。「オズさん?」「俺にだって、そのまとわりついてる何か、がお前の後ろに見えるよ」「…」「もちろん目に見えるってのじゃないよ。だけど、お前の後ろに、誰かが居るのは、見えるんだ。でも俺は、そんなことはどうでもいいんだ」 何となく猫の瞳は困ったように細められる。俺は手を伸ばした。ぴく、と触れた頬が震えるのが判った。「俺だって聞きたいよ。どうして俺の中の『音』が見える?」「判らないよ。だけど判るんだ。たぶん俺、そういう腕はあるよ。誰かが望めば、あんたのような言い方じゃなくても、断片をちゃんと聞かせてくれれば、それを音にすること、できると思うよ。だけど、それが『見えた』のはあんただけだもの。俺が聞きたいよ」「それはなマキノ」 俺はそういうと、奴を引き寄せた。昨夜と立場は逆転した。猫の瞳は大きく一瞬開いたが、すぐにそれは伏せられた。条件反射のように奴の細い腕は俺の首に回された。「…そうなんだ」 …息を大きくつきながら、奴は離れた唇から言葉を滑らせた。「俺を、欲しがってる?」「ああ」「あのひとは、俺を、欲しがってはなかった?」「それは俺の知ることじゃないよ」 奴はううん、と首を大きく振った。「違うよ俺は知ってたんだ。知らないふりしてた。あのひとは俺を欲しがってはいなかった。俺が欲しがるから応えてくれていたけど。だから俺は、あのひとの音を見つけることができなかったんだ」 俺はいきなり感情的に、上ずっていくその声を、黙って聞いていた。それは、奴にも止められない何かが、声を奴の中から押し出しているようにも感じられた。「あんたは俺を、欲しがってる。だから、俺には判るんだ。俺にはあんたの音が見つけられるんだ。俺に向けられた、何かが、あんたにはあるから」 そうだよ、と俺はうなづいた。そうだったんだ、と奴は回したままの腕に力を込めた。勢い余って、俺は背中から床に倒れ込んだ。 大丈夫?と奴は訊ねる。俺は大丈夫、と同じ言葉を返す。くくく、と奴は笑った。「…昨夜の続き、しない?」「続き?」 なるほどそれも悪くはないな、と俺は一瞬思った。 だが。「なあマキノ」「何?」「したくないって言ったら嘘になるけど…俺達これからは、もっと、そうじゃないことでも、遊ぼう」「嫌なの?」「嫌じゃない。ケンショーがああいう奴だから、俺は別にそういうのは平気だと思う。けど、俺は、あいにくよくばりだから、そういうお前以外とも、やってきたいんだよ」「普通に?寝るだけじゃなくて」「週末に来ればいいさ。あんな所で誰か待ったりせずに、ここに。だけど寝るだけじゃなく、もっといろんなことしよう。普通に食事したり、適当にどうでもいい話したり、一緒にTV見て馬鹿な批評したり」「それに、曲作ったり?」「そう」 そだね、と奴は言って、くすくすと笑った。 正直言って、奴の後ろに居る「あのひと」、吉衛さんのことが全く頭に無い訳ではなかった。だがそれは、消せと言われて消せる訳じゃない。 だから俺は、それもまとめて抱きしめようと思った。 抱きしめる俺の力が強ければ、「それ」はいつか消えていくかもしれない。消えないかもしれない。 だがそれはどうでもいいことなのだ。ここにこうやっている、この相手が手の中にあるのなら。「…あ、バイト」 マキノは思い出したようにつぶやいた。俺はあ、と声を立てた。
2005.08.31
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「ねえオズさん、どういう情景が浮かぶ?」「情景?」「うん。その音が絡まってる、風景。もちろん俺の思う景色と音と、あんたが思うのとは違うだろうけど」 情景。そうだ。目の裏に、情景はいつも浮かんでいた。音と一緒に、それは俺の頭の中にいつも。 ただひどくそれは曖昧で、形があるのかどうかも判らないものだったので、いつも言葉にしたこともなかったのだ。 音も同じだ。浮かんでいる。だけどそれを外に表すだけの、変換器というか…そういった「道具」が俺には足りない。 それでも俺は、自分のボキャブラリイを駆使することにした。奴はその何か、を求めているのだから。「…白いんだ」 俺は両手で大きく顔を覆い、光から隠された視界に映ったものを奴に告げた。「白い?」 ずるり、と指を額から目、頬と次第に下ろしていく。浮かんだ情景。「曇っているのよりは明るいんだ。だけど晴れてもいない。雨が降るのかもしれない。だけどとりあえず午前中は降らないだろう、って空の色」「それはもしかしたら、休みの日の土曜日とか、日曜日じゃあない?そうでなかったら、半ドンの土曜日の午後」 俺は半ば閉じていた目を弾かれたように開けた。「…うん。特にすることがある訳でもなく、音もなくて、誰かがやってくる訳でもなくて、静かな」「部屋の中?」「そう、部屋の中。外へ出ようかどうか迷ってる。中に居て一日を終えてもいい。外へ出て何となく楽しく過ごしてもいい。どっちでも、いい」「…じゃあ、この音は?」 奴は、一つの音を選び出した。ハモンドオルガンの音だ。うん、と俺はうなづいた。「ねえこれを、三拍子にしたら、どう?」「ワルツ?」「別に三拍子全てがワルツじゃあないよ」 奴はくすくす、と笑った。俺はキーボードの側に近づいた。「それで、最初に言ったコード進行で、こう降りて…」 やや安っぽい音が、広がった。如何にも電気音です、と言いたげにビブラートがかかっている。不安定な、音の流れ。「うん、で、ややサビ…盛り上がって」「こんな感じ?ちょっとありがちじゃあないかな」 音が上がっていく。「うん、一度目のサビならそれでいい。…Aメロは二回繰り返して」「じゃあ1コーラス、こういう風にまとめられるね」 奴は通してそのコードを流した。俺はうなづいた。「2コーラス目は、Aメロ一回。で、そのさっきのサビを入れて…間奏」「間奏部分はも少し後で考えようよ。そのサビがBメロとして、ちょっと毛色の違った…もしかしたら、雨が降るんじゃないかな、という感じのでしょ?」「空がちょっと暗くなってくるんだ」「…でもコードはメジャーのまま」「そう」 俺は頭の中に何やら明るいものが広がっていくような気がした。どうしてこうも判るんだろう?「ねえ明るいメロディの方が、哀しいよね。明るいんだけど、そう簡単に、空は晴れることなんかないんだ。だけど何となくずっと明るくて」 妙に奴の表情は楽しそうなものになっていた。俺は口元に手を当てる。「…で、またAメロを一回…で、大サビ。Bダッシュ。思いきり盛り上げて…」「音を思いっきり上げようか。大人しくまとめないで」 奴はその前までのBメロより、その部分の音を、二度ほどあげた。 ぞく、と背中を走るものがあった。「…うん、そのまま、もっと盛り上げよう。大団円、って感じに…」「じゃあこうだ」 奴はそのまま指を動かした。「へえ…」 俺はすっかり感心していた。「ちょっと通しでやってみるね」 ああ、と俺はうなづいた。穏やかな音のかたまりが、ゆっくりと部屋の中を満たしていく。 目を開いていても、頭の中に、「その情景」が広がる。 人の声もしない。車の音、外の喧噪、TVの音、ラジオの声、そんなものが何一つ聞こえない。 その音が、沈黙を作り出していた。少なくとも俺の頭の中で。 急にその中に、夕暮れの光が差し込んだような気がした。ハモンドオルガンの音が、急にピアノの音に変わったのだ。 それは使い込まれた、だけどそうそう調音をしていないような、やや狂いかけた音を思い出させた。オクターヴ違いのユニゾンがあの大きくはない手から叩き出される。 そしてまたサビにと戻っていく。「…最後に、ピアノの…」 俺の口は、ふっとそんなことを告げていた。奴は軽くにっと笑った。上がりきったオルガンの音の、まだ余韻も残った中に、ピアノの音が絡む。そうだ、そんな感じだ。 …最後の一音が消えた瞬間、俺は思わずキーボードを越えて、奴に抱きついていた。「…苦しいよ」 奴はそれでも俺を振り解くでもなく、そんな言葉をつぶやいていた。俺は俺で、そんな言葉は耳に入ってなかったらしい。「…すげえ。何で、判るんだよ?俺の、欲しかった音!」 何でそうしたかは判らなかった。ただ無性に嬉しかったのだ。そして、紗里とは違う、また別の感触に、俺は少しばかり驚いた。昨夜は逃げた、あの。 どのくらいそうしていただろう。はずみで、鍵盤が音を立てた。俺はそれを耳にした時、ようやく我に帰った。腕を緩め、キーボードを横に避けた。 微かに上気した顔で、奴は俺に訊ねた。「本当に、あれで、いいの?」「ああもちろん。驚いた。どうしてお前、判るんだ?」「…俺だって判らないよ、どうしてか、なんて。だけど、何となく、こういう感じかな、ってふっと思ったんだ。ねえオズさん今まで曲作ったこと、本当に、ないの?」「ない」 俺はきっぱりと言った。情けないことだが、本当に、無い。
2005.08.30
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「…ところでオズさん、キーボード持ってたんだね」「…あ?ああ」「結構意外だな」「そぉか?」「だってオズさん、ドラム以外は興味ないように見えるもん。何で持ってんの?弾けるの?」 俺は渋すぎる茶を飲み干したような顔になる。ああ弾けないんだね、と奴は壁に貼り付いた猫の笑いを見せる。俺だって、弾ける奴にはあまり説明したくない、ということはあるのだ。 これでも一応頭の中で鳴っている音を引っぱり出してみたい、と思ったことはあるのだ。だが所詮徒労に終わった。「でもずっと放っておいたら楽器が可哀想だよね」 そう言って、奴は再びぽろぽろと指を走らせた。すると、俺はふと自分のことから、一つの疑問を思い出していた。「マキノはピアノ弾けるんだよな」「うん。この程度にはね」 きらきらした音が、流れていく。「どうして曲は書かない訳?」「どうしてって言われても…」 奴はふらりと首を傾ける。器用なことに、指は止まらない。「…時々カナイが言うんだけどさ」「うん」「音が頭の中で勝手に鳴るんだって。それを奴は、歌えるから、そのまんま声にして引っぱり出してるんだって」「…ああ、ケンショーの奴もそういうことは言ってたな」「でしょ?何か曲を作れる人ってのは、そういう風に、ふわふわそうゆうものが頭の中で浮いてる、って言うか、漂ってるものってあるらしいんだけど…俺にはそういうのがないの」「へ?そう?」 うん、と奴は大きくうなづいた。「そう。俺はね、基本的にプレーヤーな人なの。ピアノでもベースでも、そういうの、結構会得するの上手いらしいんだけど、そういうの、がないの。だってさ、カナイなんか俺がどれだけ教えてもベースもギターもピアノも全然できないんだよ?なのに奴は曲作れる。そういうこと」「…ああ」 俺は数回重ねてうなづいた。楽器のできるできない、は関係ない、ということか。「だからオズさんも何か作ってるのかなあ、っと思ったんだけど」「…浮かんでるものはあるんだけどね」 指が止まった。ぴん、と彼の顔が僅かにこちらに向いた。「だけどそれが、何かどうしても音にならないんだ」「ならない?」 視線は、今度は完全にこちらを向いていた。「つながらない、というか、音に変換できない、って言うか…とりあえず音の見本があれば、どうかなって思って、キーボードなんかも買ってみたりしたんだけど、やっぱり」「カナイはメロディそのものが浮かぶって言ってたけど」 俺は頭を横に振った。そうじゃなくて…「メロディじゃないんだ。もっと曖昧で、漠然としたものなんだ。メロディが浮かぶんなら、俺もまあ鼻歌でも歌って、それをケンショーに何とかしてもらうってこともできるんだけどさあ…」「どういうものが浮かぶの?音じゃないの?」「いや、音は音なんだ。だけど、具体的な音じゃないんだ」 マキノはどういうことかな、と腕を組んだ。「…じゃ、そうだなオズさん、『こういうかんじ』、とかそういう…すごく…」 いや違う、と彼は頭を振る。手を軽く閉じたり開いたりする。俺はそれを見ながら、自分自身言いたいことが上手く見つからないことが、やや苛立たしかった。 その自分の見えるもの、感じるもの、鳴っているものを説明できる言葉が上手く見つからなかった。「…断片」「断片?」 ようやくそれらしい言葉を一つ投げると、奴はそれを繰り返した。「何って言うんだろう…一部分の、色だけが、ほんのちょっと見えてるって感じなんだ。ヒントととも言いにくい。ほら、覚えている夢の、最後の瞬間って感じ」「…ああ」 彼は大きくうなづいた。「…もしかしたら、判るかも、しれない」 そして少しだけキーボードのヴォリュームを上げた。「このくらいは大丈夫だよね」「…お前何するつもりだ?」「オズさんには、その断片、というか、ふわふわしたものが、あるんでしょ?」「?ああ」「だったらその断片を言ってみて。何か、判るかもしれない。具体的でもいい。全然具体的でなくてもいい。断片でいい。言葉の端っこ。そしたら俺はそれを音に変えられるかもしれないから」「…そんなことできるのか?」「さあ」 彼は首をふるふると振る。「でも、今何となく、そうしたいって思ってしまったから」 「成りゆき」が信条の奴はそう口にした。指がぽろぽろ、と幾つかの和音を鳴らした。ある場所に来た時、俺の口は自然に動いていた。 ふっと弾けたものがあった。「…今の音」「メジャーのAのコードだよ」 ピアノを真似た音が軽く、部屋中に響いた。明るい和音。だけど何処か切ない。「そこから降りていく感じで…」 マキノは俺の言った通りに、鍵盤を押さえる。こう?と時々ちら、とこちらを見る。俺は首を横に振る。「いや、少し上がって…」「じゃあこういう感じ?」 ぽろぽろ、と奴はそこから座りのいいコードを並べる。「うん、でも少し昔っぽい感じで」「昔っぽい?ちょっとそれって難しくない?もう少し…もやもやしたものでいいから、言葉付けてよ」 何って言うんだろう。 頭の中で、その音楽は、鳴っているのだ。ただ形にできないだけで。「どういう種類の音?」 奴はキーボードの中に記憶されている音をいろいろ変えてそのコード進行を奏でる。色々あって面白いね、といろんな組み合わせを試してみる。
2005.08.29
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俺が自分の部屋に戻ったのはもう昼近くだった。午後からはバイトだ。 あれから俺は彼女の部屋で、うだうだと夜が明けるまで喋っていた。だがさすがにいくつかの駅を歩いた後だったので、急に襲ってきた眠気には勝てなかった。気がついたらすっかりと明るい部屋の中で、俺の上には毛布が掛かっていた。 紗里は自分のベッドの上で、すやすやと眠っていた。地震が来ても起きそうにはなかった。そのくらい彼女の眠りは深いように俺には見えた。 よく考えたら、彼女はいつも生理中はひどくだるくなる体質なのだ。昼間でも眠くて眠くて、仕事中でもまぶたが重くて仕方がないのだという。 それなのに休みの日の夜明けまで起きてつきあってくれたのだ。全くいい奴だ。 起こさずに行こうかな、とも思った。だがそれはまずい。彼女はそういうのは嫌うのだ。横向きで、やや身体を丸めて眠っている彼女の背を俺は軽く揺さぶった。紗里、と名前を呼ぶ。「…んー…」「俺、帰るから」「そぉ…」「ありがと、な」「うん…」 半分しか目が開かない状態で、身体を起こすことなど全然できそうにないような感じだったが、彼女はそれでももぞもぞと手を伸ばそうとした。「何?」「…鍵…」 彼女の指の方向を見ると、ベッドの端の小さなチェストの上に、確かに鍵が置いてあった。「掛けとくよ。新聞受けから入れておけばいいか?」「んー…後で電話する…」「うん」「今度食事おごってよ…」「うん」 俺はうなづくと、光がまぶしいとでも言うようにややうつぶせた彼女の頭をくしゃ、とかき回した。彼女は鬱陶しそうにううん、と声を立てた。俺は苦笑し、彼女の部屋を後にした。 だが鍵を新聞受けに入れた時、俺はふと、自分の部屋のことを思い出した。 そういえば、自分の部屋を飛び出した時に、俺は鍵を…かける間は無かった。 戻ってみると、案の定、鍵は開いていた。だが予想と違っていたのは、その中にまだ客は居たことだった。「…マキノ」 奴は入り口から見える部屋の真ん中で、両耳にイヤホンをつけて、キーボードに指を走らせていた。その音が大きいのだろうか、扉の開いた音にも、俺が発した声にも気付いた様子はない。 驚いた俺が、ドアノブから手を離したら、扉は音を立てて閉まった。開ける音より閉める音の方が大きい。さすがにそれは響いたらしい。キーボードから手を離し、ぱっと音の方を見た。そして胸の前の線をひっぱり、両耳のイヤホンを外した。「あ、お帰り」「…ただいま…居たのか」「来いって言ったのは、オズさんでしょ。勝手に帰ったと思った?」 思っていた。あの状況では。「帰るったって、あの時間じゃ、電車も通ってないじゃない」「でももう…」「とにかく座ったら?」 言われるままに、はい、と俺はキーボードの前に座り込んだ。 そういえば、うちにはキーボードがあったんだった。今更のように俺は思い出した。ずっと部屋の隅に、ファンの子がくれたエスニック調のベッドカバーでくるんで立てかけておいて、忘れてた。そんなものを見つけだしてくるなんて、よほど暇だったのだろうか。「…何弾いてたの?」「***」 さらさら、とその口から意味の判らない数字交じりの単語が流れる。え、と俺は問い返した。「…まあ練習曲みたいなもんだよ。そうゆうのはだいたいあんまり曲、っていう感じのタイトルはないの」「へえ」 何となく感心して俺はうなづく。ちら、と俺の方を向くと、奴はイヤホンのプラグをキーボードから外した。途端に奴の手が触れる鍵盤から、きらきらとした音が流れ出した。ピアノに似せた音だ。「あとはこんなの…」 ヴォリュームを少し落として、奴は指を軽く動かした。「…ああ。何かCMで聴いたことある」「ショパンだよ」 くす、と奴は笑った。胃腸薬か何かのCMだったので、そんな曲が使われていたのか、と俺は妙に感心した。「そう言えばお前、音大志望だったっけ」「音大?まあね。うん、一応その方の勉強もしてる」 マキノはキーボードを弾く手を止めた。「一応?」 俺は言葉の端を捕らえて問い返す。「あのさ、俺ときどき、大切なものがいくつか出てきた時、どっちが大切だか判らなくなるの。だからそういう時には、とりあえずどっちも用意しておいて、もう最後の最後で、成りゆきにまかせることにしてるの」「成りゆき?」「…つまり、例えば受験当日にちゃんと俺が受験会場に行くかどうか、とか…」 何じゃそりゃ。「それって結構大胆じゃないか?」 奴は違うよ、とふらふらと首を横に振る。「優柔不断なんだ。直前まで決められないんだ。本当に大切なものは特に」「とりあえず」「そ。別にしておいて悪いものじゃないしね。もしも俺がバンドだけ、を選んだとしても、カナイは楽器全然だめだし。俺ができて悪いもんじゃないし」「そうだな」 確かにそうだった。用意周到、とカナイは言ったがそういうところが確かにありそうだった。
2005.08.28
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「昔よく、港や浜で会ったよね」「そーだったよな」 港と言っても、横浜やそこらの小綺麗なものを思い浮かべてはいけない。 潮の香り、というよりは、打ち上げられた魚のにおいが染み着いているところである。乾いた貝殻がコンクリートの上にうず高く盛られている。時には鳥が落としたのではないかと思われるような小さな魚が、乾いて死んでいる。 そういう土地の、浜辺にテトラポットがたくさん置いてあるような所。大きな船ではなく、小さな漁船が群をなしているような所だ。沿いの道路には、未だに土曜日の夜になると暴走族が走り回っている。 俺達の郷里は、そういうところだった。「ああいう所は好きだったのよ。ほら、空とか、ここよっか、ずっと綺麗じゃない。星も見えるし」「蚊とかも多かったけどな」「そーよ。だって同僚の子なんて、蚊柱知らないのよ?」「げっ!街育ちってそんなものかね」「そういうもんでしょ」 夏の夜。蚊に食われながら、それでも浜辺の、あまり族の方々の来そうにない、砂混じりの板張りの床の小屋でよく二人で会った。ぽりぽりと太股を引っかきながらの逢い引きなんぞムードもへったくれもなかったが、それでも楽しかった。 だけど、それだけだった。 それだけで全て、満足できたなら、お互いそのまま楽しく何年か過ごして、あの土地で不自然なこともなく結婚して、もしかしたら今の年には、子供の一人二人いてもおかしくなかったかもしれない。実際、時々来る郷里の友人からの電話には、そういった話も出るのだ。 だけどそうはいかなかった。俺はドラムが叩きたかったし、彼女はそこだけで完結しない、広い世界を見たくなった。 そして郷里の友達からしてみれば、きっと俺達はまだ子供の延長をしているのだろう。いい大人が何をしているのか、と言われるだろう。 だけどそれは決して間違った選択ではないと思うのだ。「…ところで聞いてもいい?」「はい」「どういう子なの?」「…聞きたいの?」「そりゃそうだよ」 まあそうかもしれない。彼女にはその権利はあるだろう。「…驚かない?」「驚くような人なの?」 うーん、と俺は麦茶の残りを飲み干した。「猫みたいな奴なんだ」「まあ確かにあんた猫は好きだもんね。ノエちゃんもそうだったし」「小柄で、華奢で、目が大きい」「最近にしては珍しいよね。だいたいいつもある程度の起伏があった方が最近は好きだったくせに。それでもさらに大きくしようなんてあたしには言ったくせにさ」「…黙りなさい。年は下。…六つ下、かな?」「高校生?」 彼女は軽く眉をひそめる。俺はうなづく。「…もしかしてオズ、…それって、まさか、…」「え」「あの子?こないだ駅前で」「あーっ!」 俺は頭を抱える。「…そーなんでしょ」「…言うなーっ!」「ああそうなんだあ。…ほー…まあ確かに驚くわよねえ」 俺はばたばたばたと手を振り回す。こうまで照れることはないのじゃないか、と思いつつも、そうせずには居られない。耳まで真っ赤なのは、耳たぶから感じられる熱で丸判りだ。「まあ確かに可愛いけどさあ。あんたの趣味も変わったわね。『だから』手を出せない?」「…という訳でもない」 何せ周囲が周囲だ。ケンショーという実に好みに性別を超越するいい例を俺は知っている。何をどうするのかも知らない訳でもない。 紗里も一応顔馴染みなので奴の傾向も知っていた。「じゃあ何オズくん?女の子には手が結構早かったくせに」 困った。 さすがに困った。紗里に訊ねられれば答えなくてはならないのは判っていても、答えられることと答えられないことがあるのだ。「何が引っかかっているっていうの?その、誰でもいいってところ?」「まーね…」「そのへんが、引っかかってる?」「…のかもしれない」 少なくとも奴は、嫌いでなければ、誰とでも寝られるのだ。それを考えた時、俺は妙に胸が痛んだ。見ていられなくなる。「…たぶん俺は、『特別』になりたいんだ」「『特別』ね」 紗里はうんうん、とうなづく。「その上でそういうことになったとしたなら、いいんだけど、…そうでないとすれば、所詮俺も、あいつを引っかけてたあの駅前の連中と同じかなって…思ってしまうんだ」「真面目ね。ま、そういうとこは好きだけどさ」 紗里はふっとため息をついて、俺の頭を抱え込んで頬に軽くキスをする。「そう言ってくれる?」「まーね。だってさ、あんた手が早いって言われてたちょっと前も、そん時はそん時で熱心だったじゃない…そりゃ高校の頃とは違うけどさ」 そうなのだ。「今の」問題はそこにもある。 何と言っても、奴は同じバンドのメンバーなのだ。「ケンショーさんは、どおだったの?やっぱりメンバーに恋人が居た訳でしょ?」「めぐみが居た頃?…でもケンショーと俺って、そもそも好きになるポイントが違うだろ?奴はそもそも声に惚れるんだし」「じゃあんたは、何処に惚れたの?」「…」 彼女は呆れたように肩をすくめた。「また黙る。その点だけははっきりさせた方がいいわよ。何となく、なら、何となくなりに」「…はいはい。進展があったらまたご報告するよ。ところで紗里、お前はそういう相手ないの?」 矛先が自分に向けられるとは思っていなかったらしい。彼女はぶ、と麦茶を吹き出しそうになった。「…いきなり何聞くのよ」「あ、お前もそういうの、あるんだ」「…悪かったわね…上手くいったら紹介するから、黙って見てなさい!」 了解、と俺は手を上げた。
2005.08.27
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「あんたは思いすぎると、訳判らなくなるんだよ。考えすぎて、何も判らなくなるんだよね。お馬鹿」「そう馬鹿馬鹿言うなよ」「だって本当に馬鹿じゃない。端から見ててじれったかったよあたしは」「お前そんなこと思ってたの?」「そりゃまあ、あん時にはあたしにも別の奴が居たけどさ」 結局紗里はそっちと別れた訳だが。彼女は自分のためにも麦茶を注いだ。「でも端から見ててさ、あんたの態度はかーなーりじれったかったよ。…最もあたしも結局はあの子には残酷なことしてしまったんだろうけどさ…今頃どうしてるかも知らないけどさ。でも、だから、同じこと繰り返しちゃいけないよ、オズ」「繰り返してる?」 うん、と彼女はうなづいた。「繰り返してるよ。そういうふうに、大事に守っているだけじゃ、通じないことだってあるんだよ。あの子は本当に好かれているのか、それが判らなかったって言ったもん。もうあまり確かに覚えてる訳じゃあないけどさ…それだけはちゃんと覚えてるよ」「そういうものなのか?」「あたしはそういうタイプじゃないからね。だからあんたは気楽なんだよ。あたしも気楽だよ。あたしにとってもあんたは何も気を使わなくてもいい。馬鹿呼ばわりできる。だけどそういうタイプの子だって居るんだよ?その迫って来た子のこと、どう思ってるの?」「…だから」 俺は口ごもる。そして言葉を探す。紗里は黙っている。言うまでは自分は喋らないとでも言うように、黙々と麦茶を口にしている。「…俺も判らないよ。ただ、あれを見てると、危なっかしくて、見てられない…だけど、見ずにはいられない…」 は、と彼女は肩をすくめた。「それは本物よ。だからあんた、その相手に全然手を出せないんだよ。あんたはそういう奴だよ。あたしにはこーんなことしようとしたくせにね」 ぐっと俺は言葉に詰まった。紗里はどん、とコップをテーブルの上に置いた。「間違えるんじゃないわよ」「紗里」「それでもあんたは、その子を抱きたいんだよ。別の何かにすり替えないで」 彼女は正しい、と俺は思った。 確かにそうだった。どうごまかしても、結局自分自身はだませない。俺は他の誰でもなく、マキノをそうしたいのだ。 もちろん放っておけない、とか守ってやりたい、とかいう気持ちも持っているのだが、それと平行して、俺の中には、あの華奢な身体を抱き取りたいという気持ちが、欲望が、確かに存在するのだ。 そうでなければ、あの時逃げ出したりはしなかった。 そのままでは、そのまま行ってしまいそうな気がしたから、自分の身体がそう動きそうな気がしたから、俺はその前に逃げ出したのだ。「だからね、もうあんたとは寝ないよ、オズ」「紗里?」「そういうのは、駄目だよ。すり替えてる。ごまかしてる。あんたがそれで結局、その相手に振られたなら、その時は、またそうすることもできるよ。でも言うまでは、気持ちに決着がつくまでは、駄目」「…それは結構…」「苦しい?でもねオズ、そうしたい時に相手がいないというのもきついもんだよ」 ぐ、と俺は再び言う言葉をなくした。確かに彼女には言う権利があるのだ。「きつかった?」「あったり前じゃない」 彼女は声を張り上げた。「あたしだって生身の人間なんだから。少なくとも、あん時のあたしはまだあんたに恋してたんだから」 ずきん、と胸が痛んだ。 その頃のことを紗里は滅多に話さない。どんなことがあって、どんな思いをして、どう変わったか、とか。彼女のプライドにかけて、それは口に出せないことなんだろう。 そんなことはどうだっていいのよ、と彼女は再会して、殴る代わりに俺に蹴りを入れたあと、そう言っていた。「辛かった?」「当然のことを聞くんじゃないわよ、馬鹿」「ごめん」 俺は白木のテーブルの上に頭を突っ伏せた。本当に、今更だが、それしか言葉は浮かばなかった。紗里は首を横に振った。「今更謝られても、時間は戻んないわよ。それに、あんたがそうしたからこそ、あたし大学に行こうとか言う気にもなったんだし」「それはそれで良かった?」「少なくとも、知識は増えたもの。視点が広がったよ。ねえ考えてみなよオズ。あのままずるずると、あたし達、あたし達の郷里にいたら…」「どうなってたと思うんだ?」「そうね」 んー、と彼女は頬に人差し指を当てる。「高卒で就職するとね、だいたいまず三年目に恐るべき波が来るのよ」「波?」「結婚。半径十メートル以内の、そういうつき合いかもしれないし、そういう話が来るのかもしれないけど」 俺は思わず麦茶を吹き出しそうになった。「げ…二十一でかよ」「だってうちのよりこさんもそのくらいだったでしょ?」 彼女は自分の姉の名を出す。そう言えばそうだった。 「で、その不吉な年を乗り越えると、次がそのまた三年か、五年後かな。今度は周囲の圧力がかかるわね」「…あんまりいい光景じゃあないな」「でしょ?でもね、お勉強しに上京すると、確かに状況は変わるのよ」「そういうものか?」「少なくとも、親元にいないというのは」「そりゃ確かに」「ねえ」 顔を見合わせて、俺達はうなづいた。俺達の共通項だ。郷里は嫌いではない。自然や気候や、そういった人間のいない自然に関しては好きなのだ。嫌ったことは一度としてない。
2005.08.26
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まずい、と俺は思った。紗里はのぞき込むようにして、突然黙り込んでうつむいた俺の表情を伺おうとする。近づく気配。シャンプーの香り。 まずい。「…ちょっと!」 俺は紗里の身体を引き寄せていた。彼女はバランスを崩して俺の方へ倒れ込む。急な行動に彼女はもがいた。何か、頭の芯が妙にしびれているような感覚があった。抱きすくめた彼女の襟をずらしてそこへ顔をうずめた。深い赤に、季節的にまだ日焼け前の白い肌が目を打った。 彼女はもがいた。やめてよ、なんて言葉が耳に飛び込む。 だが俺は止まらなかった。今まで彼女にそんな、突然に何かしようなんて、考えたこともなかったのに。それは高校生の頃でも、今になっても。 最近だって、時々は寝ることもある。だけどそれは、こんな何かに急かされたものではなかった。 …長くも短くもない髪が、カーペットの上に広がっている。彼女は右の手を、押さえ込まれている中から思い切り引っぱり出した。そして顔を歪めて、いっぱいに伸ばした。そして何かを手にした。頭に血が昇っている俺は、それが何なのか、その時まで判らなかった。 彼女は何やら力を込めてぐるんぐるんと手にしたものを揺さぶっていた。 そして次の瞬間、俺は一気に頭を冷やされた。 彼女はまだ半分ほど中身の残っていたペットボトルを、俺の頭上に持ち上げ、勢いよく中身を回転させ、まだ液体が回っているまま、下を向けたのだ。 うずを巻いた液体は、素晴らしい勢いで俺の頭を直撃した。 …何かの発明関係のTVで見たぞ。確かこれは、びんに入った液体を勢い良く出す方法だ。 記憶は正しかった。「何すんだよ!」 俺は飛び上がった。 頭からスポーツドリンクをかぶってしまった状態というのが判っていただけるだろうか。結構これには糖分も入っているのだ。髪からシャツから、ややべとついた液体が流れ落ちる。カーペットにも落ちる。リスク込みでこんなことするなんて。 …だが頭を冷やすには、十分だった。目の前には、俺を突き飛ばして涙目になっている。そんな表情を見るのも、長いつきあいだが、初めてだった。「やめてよ、って言ってるのに無理矢理やろうって奴は頭冷やさなきゃ駄目に決まってじゃない!」「そんなに、嫌だったのか?」「そうじゃなくて!」 紗里はふう、と息をつきつつ首を大きく横に振り、開けかけた襟を閉じた。「変なのは、あんただって気付いてんの?」「俺が?」「別にさ、あたしは、別にそこに好きだ何だってのが多くなくともあんたが、あたしと寝たいなら、いいよ別に。でも違うんだよ、今のは。あんたはあたしと寝たい訳じゃないじゃない!」「…え?」 俺は左手で、左の首筋に手を当てた。「それに、今日はどっちにしたって駄目だよ」「…あ…ごめん」 彼女は会社に持っていくバックの中から、丸々と膨れているコットンのポーチを取り出して指した。 そう言えばそうだ。そういう日だ。彼女はそういう時によく着るパジャマをつけているじゃないか。最初から彼女は無言でそう言ってるじゃないか。 だから俺も、そういうことを、デリカシーがないよ、と言われつつも、俺はちゃんと彼女には訊ねていたのだ。それが友達の礼儀みたいなものじゃないか、という気がして。 だとしたら、本日の俺は、友達失格だ。そんなことも気付かないなんて。「…ごめん俺、どーかしてる」「ホント、どーかしてるよ!風呂場行って来な!ついでに抜いといで。本当の相談事あったらそれから聞くから!」 本当に身も蓋もない。 だが友達としての彼女のアドバイスは的確だ。とりあえず頭は洗わなくてはならない。シャツはびしょぬれだし、下半身は完全にテントを張っていた。 …熱病が、やってきたのか?それも彼女ではなく。 バスルームから出ると、スポーツドリンクのこぼされた後に、ぞうきんが二、三枚乗せられていた。「好きな色のカーペットなのに…タオルは使ったら洗濯篭に入れておいて」 ぶつぶつとつぶやく声が聞こえた。怒ってはいるようだが、完全に深刻ではなさそうなのに、俺はややほっとする。 戻ってきた俺の頭を、紗里はべし、とはたき、彼女がよく好きで着ている、男もののTシャツを放った。「ホントに馬鹿」「馬鹿馬鹿言うなよ」「本当に馬鹿だもん」 俺はタオルを首に掛けたまま、ぞうきんの置かれている付近に腰を下ろした。髪が瞬く間に乾くほど短い訳ではないので、まだ水滴が時々落ちるのだ。「全く男ってのはやあね。こらえ性がなくって」 そして彼女ははい、と麦茶を手渡した。甘みも素っ気も無いが、今呑むにはちょうど良かった。「アルコールは駄目よ。真面目にお話しましょ」「真面目にね」 そうだ、と彼女はうなづいた。ここでアルコールを入れて、またなし崩しに同じことを繰り返してはいけない、と暗にその麦茶は俺を非難していた。「ねえオズ、あんたは、その子が好きなんだよ」 紗里は単刀直入に言った。うん、と俺もストレートに答えた。間違いではないのだ。ただ、その「好き」がどの「好き」なのか、どうしても自分自身にも説明がつかないだけで。「すごく好き?」「…かどうかは判らない。本当にそういう意味で好きなのかどうかも判らない。だけど、放っておけないんだ」 ふーん、と紗里は興味深げにうなづく。「珍しいね、あんたにしちゃ」「うん。俺もそう思う」「趣味が変わった?」 訊ねてから、彼女はああ、と何かを思い出したようにぽんと手を打った。「ノエちゃんだよ」「…え?」「忘れたなんて言うんじゃないわよ。あんたの最初の彼女」 ああ、と俺はうなづいた。そうだ確か最初の彼女はそういう名だった。すっかりそれは俺の記憶の奥底に沈んでいた。「あん時もあんたそうだったじゃない」「何が」「訳わかんなくなってるの。あの子はあたしの友人でもあったからさ」「そうだったっけ」「そうだよ。あんたは大事にしすぎると何もできないんじゃなかったっけ」 そう言えば、そうだ。
2005.08.25
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終わったことがはっきりした時、屋上でぼーっとしている俺に、紗里はあんた馬鹿か、と素っ気なくも容赦なく言った。 言いながら何故か、金網ごしに遠くに見える海を眺めている俺の背中をその温みと重さで襲撃した。そして何となく、俺達はそういう関係になった。 関係を持ってから、恋人になった。熱病のような感情がはじまったのだ。妙なものである。 卒業して俺が家を飛び出すまで、その関係は続いた。関係を終わらせたのは、俺だ。 そして彼女は今はまた、友達なのだ。 頭が混乱している。そんな時に頼れるのが彼女しかいないというのは何やらひどく不思議だった。実際、他の誰に頼れるというのだろう。 ケンショーを初めとして、音楽関係の界隈に、俺はそんなところは見せたくはなかった。 無論人間だから弱いところなぞ山ほどある。だが、それは、今現在楽しみつつも戦っているその場では、見せたくないものなのだ。 紗里はそれとは別の次元で生きている、だけど俺のかけがいのない友達だった。俺の情けない所を知り尽くしている、唯一の友達だった。 チャイムを鳴らすと、やや眠そうな顔をして、彼女は扉を開けた。もう風呂には入ったらしい。髪が半分濡れていた。「…遅いよ」「しょうがないだろ。歩いてきたんだ」「いいけどね」 早く入んなよ、と彼女は俺の肩越しに扉を大きく開いた。近づく身体から、体温と、シャンプーの香りが感じられる。既に眠る準備態勢だったのだろう。深い赤に、端だけがアイボリーのパジャマの上下を着ていた。「何があったの?」 何かあったの、ではない。何かがあったことなど、言わなくても判るのだろう。当然だ。扉が閉まる。チェーンがかかる。 いつものように、俺はワンルームの彼女の部屋の、きちんと片づいた丸い白木テーブルのそばに座った。紗里は綺麗好きだ。俺もそうちらかす方ではないが、彼女の方がまめに掃除や整頓はする。趣味が無いからよ、と彼女は言うが、それだけではないだろう。 ほい、とテーブルの上にまずコースター、そして大きなガラスのコップが置かれた。自分の分も置いたあと、冷蔵庫からペットボトルを出しながら彼女は言葉を投げた。「明日が休みで良かったよねあんた」 全くだ、と俺は思う。週末なのだ。もう日付はあれから変わっていた。もうあと三時間もすれば夜明けが来る。 昼間のOLである彼女は、夜そう強くない。ペットボトルのスポーツドリンクを抱えて座り込みながらも、何やらいつもより気だるそうに首を回しているし、生あくびばかりしている。「本当にごめん」「ごめんと言う気があるなら、白状なさい。何があったの」 とぷとぷと音をさせてドリンクを注ぎながら彼女は訊ねた。だが俺は口ごもった。とりあえずは彼女が注いでくれたドリンクを飲み干すことで時間を稼いだ。無論そんなものは、一分にも満たない。「あたしだって聖人君子じゃあないからね。ちょっとは怒ってるんだよ?聞く権利くらいあるとは思うけど」「…うん。悪い。…だけど」 だけど?と彼女はその言葉を繰り返した。俺は頭の中を整理し始める。 つまりは。「迫られたんだ」 はあ、と彼女は乾いた口調でうなづいた。「迫られて、逃げ出したの?」 そういうことに、なるんだろう。俺は素直にうなづいた。「何で」「何でって…」「別にあんた、据え膳は拒まないじゃないの。どういう風の吹き回し?」「お前なあ…俺そんな、誰でもいいって訳じゃないぞ」「知ってるよ。でもあんたがこの時間、行くとこが無いなんていうんじゃ、その子はあんたのうちに居るんでしょ」 ぴく、と俺は自分の頬がけいれんするのを覚えた。全く筋道立てて考える女っていうのは。「外で、誰かバンドのファンやらおっかけやらに迫られるぐらいだったら、あんたのことだから家に帰って寝ちゃえばおしまいじゃない。あんたがわざわざ外に助けを求めるなんてさ」 おそらく眠いせいなんだろう。彼女の言葉はいつも以上に辛辣だった。 でしょ、とそして彼女は俺に同意をうながした。ああ、と俺はうなづいた。間違ってはいないのだ、彼女の予想することは。…ただ一点をのぞいて。「…嫌いじゃあないんだ」 俺は重くなりそうな口を開いた。「でも好きという訳でもない?」「判らない。そもそもそういう感情で見たためしが無いんだ」「ふうん」 そうだ。実際そんな目で見たことはないのだ。確かに可愛いとは思う。最初からそう思っている。うちの猫と何処か似ている。俺は猫好きだ。 だがそれはあくまで雰囲気とか、そんな問題であり、それだからどうだ、というところまで考える問題じゃあないのだ。「じゃあどうしてあんたが迫られるのよ。その子はあんたのことが好きなんじゃないの?」「…別にそういう訳じゃないだろ」「普通は好きじゃないと迫るまではしないわよ」 紗里はきっぱりと言った。そして喉が乾いたとばかりに、一口、ドリンクを口に含む。俺はその様子を正面に目にしながら、違うよ、と付け足した。「違わないわよ」「違うよ。だって奴自身がそう言ったんだ。週末に居る人がいないと寂しいからって」「つまりは誰でもいい、ということ?」 再び心臓が飛び跳ねた。それだけではない。背中の血が一瞬引いた。 それは初めから知っていることだ。なのに、何故そんな言葉でそんな感覚が起きるんだろう。「そうじゃあないの?」 彼女は追い打ちをかけるように問いかける。俺は左の手で、自分の左の首筋に手を触れた。回された手。触れられた乾いた唇。あの触感が、伝わった熱が、突然思い起こされた。「…オズ?」
2005.08.24
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どうしたっていうのよ、と受話器の向こうで紗里は訊ねた。俺は電話ボックスの壁にべったりと背中を付けて、視界が次第に下に降りていく様を妙に冷静に見ていた。「いいから、今から行ってもいいか?」『いいも何も…来れるの?』 え、と俺は問い返した。あんた何時だと思ってるの、と紗里の声は俺に問いかける。流行りの携帯どころか、俺は時計すら持っていなかった。『最終はもう行っちゃったんじゃない?』「歩いてくよ」『…馬鹿かあんたは』 全くだ、と俺は苦笑する。濃いグレイの電話の本体が既に見上げる位置に来ていた。蛍光灯の灯りがしらじらしい。外には飛び回る羽虫の気配がする。扉を閉めた内部はすぐにうっとおしい湿気で一杯になる。 だが受話器を置いた俺はなかなかその場から立ち上がれなかった。はあ、と息をついて軽く髪をかき回す。 何だったというんだろう。 あれは、せまられた、というべきなんだろうか。俺は先刻自分の部屋であったことを頭の中で反芻する。猫の瞳が目の前にあった。 濡れているように色合いは綺麗なのに、触れた感触は、乾いていた。濡れていたのは、その奥だ。 だが俺はその状態を数分続けたあと…数分続けてしまった…自分の部屋を飛び出してしまった。自分の部屋を、だ。一体何をやっているというんだ。 ショックは受けている。それは嘘ではない。理性とか、モラルとか、そんなものがいきなり頭の中で旋回している。昔乗った、遊園地の飛行機のように、一つの出来事を中心として、くるくると回り続けている。 不意打ちをくらったというのだろうか。俺は自分に別の可能性を訊ねた。 だが、いやそうではない、とやはり俺が答える。 確かにその予感はあったのだ。そもそも、どうして俺はあの時、あの駅前で、マキノを引き留めてしまったんだろう?奴が一人で帰る、一人で眠ると言うなら、そうさせてやれば良かったじゃないか? 確かに俺はそうするつもりは無い、と言った。 だが奴は残酷だと言った。 確かにそうなのだ。それを求めている奴に、何もせずにただ居ろというのは、残酷なのかもしれない。 だけど俺は。 ピー、と音がした。切れた受話器をいつまでも手にしていたら、いい加減戻してくれと泣き出した。 コンクリートのざらざらする床に手をつくと、俺は奇妙に重い体をよっこらしょ、と声を立てて立ち上がらせた。がちゃん、と音を立てて受話器が在るべき場所におさまった。 紗里の部屋までは電車で二駅分の距離がある。歩いて行けない距離ではない。貧乏人は体力勝負には強いのだ。 馬鹿だねあんた、と眠そうな声でながらも、紗里は待っててやるよ、と俺に告げていた。 歩きながら俺は、最初に寝た相手のことを思い出していた。 高校生の時だった。それが果たして早いのか遅いのかは、比べられる問題ではない。興味が無かった訳じゃない。ただそうしたいと思える相手がそうそういなかっただけだ。 紗里は最初の相手じゃない。彼女も俺が最初ではない。たぶん最初の相手だったら、今こうやって友達つきあいなんかやっていない、と俺は思う。 どんな子だったろう。無言で歩いていると、自問自答ばかりが繰り返される。辺りが暗くて、目に入るものが少ないと、記憶ばかりが頭に浮かび上がって、止まらない。 確か、小柄な子だった。髪は天パで、口が悪かった。よく笑った。決してグラマラスではなかった。むしろ、やせていた。 胸もさほど無かった。平面とか陥没とかそういうのではないけれど、豊かという言葉とは無縁そうに見えた。 制服のブラウスのたっぷりした袖の中で、腕はその存在すら疑わせるくらい細かった。華奢で、抱きしめたら折れてしまいそうなほどだった。 だから俺は、手を出すのをためらった。そうしたら、全てが終わってしまいそうな気がしたのだ。彼女に触れたかった。その折れそうな身体をきつく抱きしめたかった。 だけど俺はいつもためらっていた。そしてとうとう彼女の方が業を煮やした。 彼女は華奢な身体の中で、唯一ふっくらとしていたとも言える丸い顔の中の大きな目を、午後の屋上で、怒りできらきらさせて、俺に詰め寄った。どうして何もしないの、と。自分を好きではないのか、と。 違う、と俺は答えた。その時もそうだった。俺は何と答えていいのかさっぱり判らないまま、背伸びした彼女の腕が自分の首に回るのを感じていた。 俺は立ち止まった。 …同じじゃないか。 その夜彼女は俺の部屋へこっそりとやってきた。やり方も大して知らないまま、灯りを消した部屋の中、カーテンの隙間から漏れてくる常夜灯の灯りだけで、ひどく危なっかしい手つきで俺は彼女を抱いた。彼女も初めてだったらしく、事が済んだ時、何かひどく、お互い奇妙に気恥ずかしくて、何も言えなかった。 その彼女とは、だけど、長くは続かなかった。紗里と関係を持つようになったのはその直後だ。 紗里は彼女とは全然違ったタイプだった。少なくとも、最初の彼女の十倍は生命力があるように見えた。頭の回転はいいし、要領も悪くない。なのに、いつも何かに不満を持っているようにも見えた。エネルギーを持て余していたのだろう。今思えば。 俺達は最初友達だった。お互い友達の恋人、という感じで知り合った。俺の友人の彼女だったのだ。実際俺自身、出会った当初は、その最初の彼女とつきあっていたのだ。 だけど最初の彼女は、ある日いなくなった。 いなくなった、のだ。ある日、いきなり。学校からも、家からも、急に。 探し回る彼女の親や教師達の中で、俺は、何かただ、驚いて、唖然としていたことだけを思い出す。何も、気付かなかった。 結局彼女は戻ってきたが、その時に関係は終わった。
2005.08.23
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でもさ、とマキノはつぶやく。「ある日それが、突然終わりになってしまったから、俺の身体の方が、全然納得してないの」「…」「むこうが飽きたとか、俺が嫌いになったとか、何かそうゆう理由だったらさ、何か、納得できるじゃない…その時どれだけ哀しくても悔しくても、辛くても。だけど、何か、…拍子抜けしてしまった感じで」「拍子抜け?」 思いがけない単語が出てきたので俺は問い返す。マキノは首を軽く傾げる。「俺の言い方まずいかな?だけど、そういう感じ。…何って言うんだろ?何か、ものすごく一生懸命、細かくがんばってできあがったばかりの積み木で作った要塞が、ほんの軽い地震で崩されてしまった時のような感じ?何って言うんだろ…俺説明悪いな」「…いや、お前はよく説明しているよ」 俺は首を横に振る。俺にはそんな言葉は出てこない。さっきから、何を言っていいのか、ずっと考えているのに、言いたいことがあるような気がするのに、上手い言葉一つ切り出せないでいるのだ。 だから、結局こんな言葉しか出なかった。「だからお前、誰かと週末だけは、寝たいんだ?」「ストレートだね、オズさん」 俺は眉を寄せ、ぐっとあごを引く。かっと頬が熱くなるのを覚える。どうせ単純だよ俺は。 だが他に事実を指摘する言葉が見つからなかったのだ。マキノはくす、と笑うと、すっと腕を伸ばした。その指が、軽く俺のやや赤くなっているだろう頬に触れた。だが俺は反射的にそれから逃げた。マキノは奇妙に表情の失せた目で、その指先を眺めた。「…別に、誰かれ構わずって訳じゃあないよ」「俺にはそう見えた」 奴はゆっくりと手を下ろしながら、首を横に振る。「でも人は、選んでる。嫌な奴とは視線は合わせない。捕まるような真似はしない。吐き気のするような奴となんてできないよ、いくら俺だって」「…」「そういうつもりはない、って言ったよねオズさん」「…ああ」「でも、連れてきた。どうして?」「…バンドのメンバーがそんなことしてちゃ、放っておけないのは当然だろ」「優しいねえ」 カナイと同じ言葉だ、と俺は不意に思い出していた。だがその口調は、カナイよりはるかに辛辣だった。奴は軽く身体を俺の方へ乗り出した。「でもそうゆうのって、何か残酷だと思わない?」「そうなのか?」「あんたは判っていないよ。今日は週末で、明日は何も無くて、あんたは少なくとも俺を嫌っていない」 そうだろ、とマキノは続けた。「…ああ」 確かに嫌ってはいない。だがそれとこれとは違うのだ。そもそも、俺は野郎にそういう感情は持ったことが無い。無いはずだ。ケンショーとは違うのだ。ケンショーは、そもそも恋愛に性別があること自体忘れているのではないか、と思われた。 だが俺は。 いつのまにか、奴の手が再び俺の頬に触れていた。 俺はその手を掴んで、外させた。何で、というように大きな目が俺を見据えている。黒目がちの瞳が、奇妙にぎらぎらとしている。 だが俺は、基本的に、そういうものとは無縁だ。無縁のはずなのだ。 郷里でも今でも、そんな、寝たいとか思うような相手は、あくまで女だったのだ。胸があって、身体のところどころの線があくまで丸みを帯びた、女。 俺とは別の性を持った生き物、のはずなのだ。そして俺は、そんな相手を、自分からその手の中に入れて、抱きすくめるのが好きなのだ。そのはずだ。 だから、今目の前で起こっているような、こういう事態がおきた時、どうしていいのか、俺にはさっぱり判らなかった。 おいマキノ、と口は動こうとした。だが、それは言葉にはならなかった。 相手の目が、ひどく近くに見えた。猫の目だ。夜の夜中に、不意にライトを当てられた時の。どうしてこんなに近くに見えているのか、俺はなかなか理解できなかった。 いつの間にか、腕が、首に巻き付いていた。交差した腕の先は、体温を上げたまま、俺の耳元を動いていた。 そして瞳を大きく開いたまま、奴の顔が至近距離にあった。…いや至近距離、じゃない。それ以上だった。いつの間に。俺にはさっぱり判らなかった。 明らかに皮膚の上が感じるものと、頭が理解できるものとは別なのだ、とその時俺は初めて気付いた。事態の訳のわからなさが、俺の表面上の感覚を妙に尖らせていた。 固い指先が、それでも細かく耳の後ろを叩いた。ちょっと待て、と俺は喉の奥で言おうとする。だが無論その声は、相手に吸い込まれていたのだ。
2005.08.22
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結構広いじゃない、と入るなりマキノは感想を述べた。古いからな、と俺はありがちな言葉を返した。「どのくらい経ってるの?」 そう言いながら奴はあちこちを不思議そうに見渡す。確かに広いが、広いだけで何の備え付けもない。珍しいのだろうか、奴はその大きな目でぐるりと全てを視界に入れようとしているように見えた。「少なくとも、お前よりは上」 へえ、とマキノは声を立てた。 実際その部屋は、都内における家賃の割には広かった。 六畳二間にキッチンがささやかながら付けられている。この広さなら、普通、俺程度のバイト代では暮らせない。暮らしていけるのはひとえにここの古さと、何もなさのせいだった。 実際住むだけにはそうたくさんのものは必要ないのだ。 「便利」なものは世間にあふれているが、一体その中のどれだけが本当に必要なんだろうか。俺は自分にとって訳のわからないものを受け入れることは苦手だった。そういう時に、どうそれを表せばいいのか判らなくなるのだ。 例えば気持ち。例えば音楽。形の無い、それでいて、確かに「在る」もの。 例えば音楽。 プレーヤーの自分ではなくて。「ま、適当にしてろや」 奴は肩をすくめた。どうしていいのか戸惑っているのは、どうやら俺だけではないらしい。正直言って、連れてきたはいいが、何をどうするという訳でもない。話をすると言っても大してネタもない。 と俺がうだうだと、入ったばかりのところにあるキッチンで考えているうちに奴は居間の、ざらざらとした灰色のカーペットの上までさっさと踏み込んでしまった。 何か空気悪いね、なんて言って勝手に窓まで開けてしまう。 そしてふらっとそのへんに落ちているリモコンを拾うと、ほとんど無意識の動作でスイッチを入れた。TVの画面から声が、音が流れる。 俺はそれに奇妙にほっとするものを覚えていた。 冷蔵庫の中から、声をかけてからコーラを一つ放ると、奴はあぶないなあ、と言いながらも、器用にそれを受け止めた。「それに結構揺さぶってない?」 …少なくとも本物の猫はこんな嫌みは言わないと思う。ま、いいか、と言いながらプルリングを押し込むと、案の定、勢いよく中身は吹き出した。だがそれがかかったのは俺の方だった。 あはは、とマキノは笑って、近くにあったスコッティのティッシュケースを俺の鼻先に突きだした。 全く性格の悪い奴だ。「…好きでやってる訳じゃないよ」 中身が2/3になってしまったコーラを、それでも缶を拭きつつ奴は口にする。そして一番最初に俺が聞きたかったことに、話を自分から戻した。「じゃあ何で」「別に。何となく」 そういうのは好きでやってると言うのではないか、と俺は思ったが、言葉には出さなかった。「見ただけ、じゃないよね。カナイが何か言った?」 ああ、と俺はうなづいた。だろうね、と奴は缶を頬につける。 こういうことは隠しても、会っていればいつかばれるものなのだ。だったら最初から言った方がいい。「心配してた」「だろうね。言われたことはあるもん」「だったらどうして」 ふらふらと奴は首を横に振る。「そんなの、俺だって判らないよ」「お前のことだろう?」「俺のことだって、俺にだって判らないことはあるもん。だいたいそうゆうのは、誰かが俺に言うまで、俺は絶対気付かないんだ」「決めつけるなよ」「だってそうだったからね」 誰が?という言葉は俺からは出てこなかった。奴は付けっぱなしにしているテレビの画面を時々眺める。俺はそんな奴の横顔をぼんやりと眺めた。夜時間に見るとこいつの猫度は余計に高まる。 郷里に居る頃、猫が好きで飼っていたのは家族の中で、他でもなく、俺だった。どちらかというと、家族の他の者は、犬の方が好きだった。だが住宅事情は俺に味方し、家には猫がいつも入れ替わり立ち替わりに一匹居た。 別にその猫を特別可愛がったという記憶は無い。だが愛想の無さとか、気紛れなところが俺は好きだった。 それでも猫も嫌いではない家族の他の者が、追いかけ回して無理に抱き上げようとすると、するりとその手の中から逃げ、俺のひざに何故かちょん、と乗ってくる。そういうところが好きだったのだ。 そんなことをぼんやり考えていたら、不意にマキノはこちらを向いた。俺は慌てて視線をそらした。「何」 奴は軽く目を細めた。「…いや別に」 ふうん、と奴はつまらなさそうに首を傾げる。俺はその様子につられたのは何なのか、思わず大きなあくびをしてしまう。実際昼間の疲れや、駅前の緊張からか、眠気がさしてきていた。「オズさん寝ないの?明日もバイトあるんでしょ?」「午後からだよ。まだ大丈夫」「別に俺なんかにつき合わなくたっていいんだよ」「じゃお前も寝ちまえ」 奴はそれを聞くと、再び首を軽く傾げた。そして、やや厚めの唇がこう動いた。「一人で?」 俺は、ああ、と声を立てた。他にどう言いようがあると言うのだ。「連れてきて、それでそういう訳?」「そういうつもりはない、って最初から言っただろ?」「言ったよ。だけど、眠れないんだ」 おいマキノ、と俺の口は動こうとした。だけど何か、固くこわばってしまって、上手く動かない。「別に普通の日はいいんだよ。誰もいなくても、大丈夫。明日やらなくちゃならないことがたくさんある。大丈夫。だけど、週末は駄目なんだ。明日何をしたらいい?そんなことを考えてるうちに、何かよく判らないけど、冷たいものが身体の中を通り抜けて行って、あのひとにはもう会えないんだ、ということが浮かび上がってくるんだ。あのひとと会っていた日々が、楽しかったから、余計に」「あのひとって…ベルファのベーシストだったあのひと、か?吉衛さんか?」「そうだよ。よく知ってるね」 ひどくそれは、平たい言葉だった。そこには嫌みは無かった。「週末には、俺よく押し掛けて行った。ねだれば抱いてくれた。ねえオズさん、俺って変だと思う?」「変って」「別にそれまで、そういうの、女の子ともしようと思ったことないのにさ、俺が積極的だったんだよ。俺が彼に迫ったんだ。彼自身が俺に手を出したことはなかった。本当は彼は別にどっちでもよかったのかもしれない。あのひとは優しかったから、俺がそうして欲しいからそうしてくれただけかもしれない」 でもそんなこと、今その当人に聞く訳にはいかない。何と言っても、その当人は既に居ないのだから。「何かそれって、俺的にもすごく不思議だった。でも俺は楽しかったんだ。それまでになく、楽しかったんだ。居心地がよかった」
2005.08.20
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「あのさカナイ、お前ケンショーと何かあったの?」「ん?」「いやさっき、ケンショーの話出たし、だいたいあいつは声に惚れる奴じゃん」 ははは、とカナイは乾いた笑い声を立てた。「何かあった訳?」「…ああ、俺、奴にこまされたんだってば」「は?」 カナイは軽く、同じ言葉を繰り返した。おそらくそれは、言葉の通りだろう。「…いつだよ」「先々月の終わりくらいかなあ。衣替えの前だったから。…ったく何考えてんだ、と思った」 そう考えるのは実に妥当だ、と俺は思った。とても妥当だ。非常に妥当だ。「…じゃ、いいのか?そういう奴とバンド組むことにして」「さてそこが大問題」 ふ、とおどけて奴は両手を広げ、「自嘲のため息」という奴をつく。「あいにく俺、ケンショーのギターはもう最初っからすげえ好きだったの。はっきり言や、ファン」「あららららら」「普通だったら、腹立ちまぎれにそんなことされたら百年の恋も冷めると思うじゃん。実際腹立ち紛れにされたんだし。まあ俺も結構怒ってたからしゃあないと言えばしゃあないけど…ところがだよ全く」 うん、と俺は勢い負けしつつうなづく。「俺ときたら、もう情けないことに、『それでも』あの馬鹿のギターは好きなんだもの」「…それは難儀なことで」「全く難儀なことで。いい加減俺、自分は何てお人好しなんだろうって思うもん。もしくはあの馬鹿のギターが本当に無茶苦茶いいのか」 俺はうんうん、とうなづく。だとしたら、当初からタメ口になっていた訳が判る。ここ最近こそ俺にもタメ口を訊くようになっていたけど、それまでは俺にはまだ敬語交じりだった。「…だよなあ。あの男、問題は色々あってもギターだけは文句言わせねーんだからなあ」「オズさんずいぶん苦労してきたでしょ」「多々」「多々ね」 くくくく、と俺達は顔を見合わせて笑った。「…でも二回目は、させてやってないもんね。そう簡単にはさせないから」 げ、と俺は喉の奥から声を立てる。「何、お前、二回目があってもいいと思ってんの?」「ま、しゃあないでしょ。そこは臨機応変に」 臨機応変と言われても。「奴のこと、好きは好きだし。俺もやられっぱなしってのも性には合わないけどさ」「ちょっと待て!」 カナイはにやりと笑う。何か今、俺は実に恐ろしいことを耳にしたような気がする。「ま、その時はその時。あいにく俺、物事は前向きに考えるようにしてんの」 前向き、ね。確かにそうだ。 * しかし、言われてしまうと気になるというのが人間の哀しい所だ。 その週末、俺はバイト帰りにまたあの駅の辺りに出向いてみた。もちろんそこに奴が居るとは限らない。別の駅の場合もあるだろう。 だから今度は実に運が良かったとも言える。 冷たい色の光の中で、奴はやっぱり、ぼんやりと誰かを待っているように見えた。今度はコンクリートの植え込みに座って、膝を片方抱えて、視線は何処とも知れず宙を漂っている。 偶然を装ってもよかった。だけどそれでは、意味がないような気もしていた。 とは言え、そこで声をかけても、俺には何をするという目的も無かった。そもそもここで奴を拾ったとして、俺にどうしろというのだ。 俺には基本的にはその趣味はない。ない筈だ。 だけどそんな個人的葛藤の中に居るだけでは物事は進まない。カナイではないけど、前向きに… そんなことをうだうだ考えているうちに、何やら一人の男が奴に近付いてくる。考える前に、身体が動いた。植え込みを踏み越える。芝生に入ってはいけませんという看板なんか見ないふりで。「おいマキノ!」 弾かれたように奴は振り向いた。正面には、俺と大して変わらないくらいの年頃の男が露骨に表情を変えていた。「…オズさん?どーしたの?」 おりしも、奴は相手と交渉を始める所だった。交渉と言うと聞こえが悪いか。会話だ。「悪いけど、先約なんだ」 俺はマキノの肩を後ろから強く掴むと、相手をにらみつけた。それならそうと言えばいいのに、と相手は軽く言い残していく。そう悪い奴ではなかったようだ。だが。「あーあ、行っちゃった」 マキノは軽い失望の色を言葉の端に浮かべる。「行っちゃった、ってお前なあ」 離してよ、と奴は肩を掴む俺の手を除けた。「痛いんだってば」 そう言って俺の方へ奴は向き直った。 俺は植え込みから降りた。座ったままのマキノは、上目づかいに俺を見た。また心臓が飛び上がる。出会ってから初めて見る表情だった。 確かに猫のようだ。夜の、瞳が大きくなった時の。「せっかく今日の相手が来たと思ったのに」「今日の相手ってお前…」 あーあ、とかつぶやきながら奴は、さらさらした髪をかき上げた。そして時計をちら、と見る。「…もうこんな時間じゃさ、そうそういい人は来ないんだよ?それともオズさんが、今日はそうしてくれるっていうの?」「…おい!」 俺は反射的にそう返していた。 そして半ば期待していた。冗談だよ、とその口が返してくるのを。信じたくなかったのだ。俺は。「…遅いんだ。帰ったほうがいい」「女の子じゃないんだよ俺。ついでに言や、あんたのものでもない。俺に命令しないでよ」 やや挑むように視線を投げかける奴に、俺は言葉に詰まった。言い出すべき何かが見つからないのだ。 いつもそうだった。何か言いたいのに、上手い言葉や、形になる何かにすることが上手くいかないのだ。 奴はその大きな瞳で俺をじっとにらむように見据えている。そのまま逃げ出してしまいそうな気もするのに、俺は指一本動かすことができなかった。 だがその緊張を解いたのは奴のほうだった。その大きな目を伏せ、ごめん、と消えそうな声が、するりと耳に届く。「あんたに言っても仕方ないよね。俺帰る。今日は」「帰るって…」「心配しないでも、一人で帰るよ。一人で寝るから。大丈夫」「ちょっと待てよ」 何、と弾かれたように奴は顔を上げた。俺は反射的に背を向けようとしたマキノの腕を掴んでいた。「何だよ」「だから、待てよ」「命令しないでって言ったよ、俺は」 俺は慌てて早口になる。「じゃ命令じゃない。お願いだ。今日は、うちに、寄ってかないか?寄ってくれ」 大きな目が再び開く。形のいい眉が片方だけ上がる。 そして腕を引いて、俺の手を軽く払い、冗談はよしてよね、と奴は言った。「冗談じゃないよ」「だってあんた、さっき、そんなことはできないって言ったじゃない。俺、からかわれるのは嫌だからね」「からかってなんかない。そういうことはしない。ただ遊びに来ないか、と言ってるんだ」「…遊びに?」 そう、と俺はうなづいた。
2005.08.19
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「ま、それはそれでいいんですよ。確かにあいつには覚えるに値しないような奴が多かったんでしょうから。だけど奴は、当初から目立っていたし、…あいつは自分で全然気付いてないけど…春先からよくピアノ室に居るのは知ってたから」「音大志望だっけ」「と言ってはいたけどね。果たしてどうだか…ま、とにかくそれで俺はよくACID-JAMにも通っていたんだけど、ある時突然、奴の姿がそこから消えた訳。そこでカウンターのナナさんに奴はどうしたのか、と訊ねて、その時初めてトモさんが亡くなったこと知った訳」「…消えた?」「ああ、もちろん学校は来ている。それも実に平然とした顔してね。だから俺、近付いてみた訳よ。そしたら案の定、何処か切れてたな。忘れてた」「忘れてたって何を」「そのこと自体を。あいつは事故の確認に行ってるんだよ?」 事故。そう事故だった。ベルファのベーシストのトモさんは確か秋の雨の日、バイクの事故で亡くなったと聞いた。「俺ちょうど、文化祭とかあったし、もともとバンド誘いたかったことあるし、ちょこちょこ友達つき合い始めた訳よ。で、ちょっとづつかまをかけてみた」「かまを?」「好きなバンドは何、とか、ACID-JAMは知ってるか、とかベースは誰に教えてもらったとか」「それで」「聞かれたことにはちゃんと答えたし、言っていることも間違ってない。だけど、その時点、その事故のあった日のことや、何で自分が付き合ってた人が今そばにいないのか、とかどうして最近ACID-JAMに行かないのか、とかいうことを無意識に抜かしているんだ」「…それって」「そ。つまり、忘れていたの。忘れたくて。でもさすがにあのベースを渡された時には、思い出したらしいね」 カナイはやや嫌そうに目を伏せた。奴にとってもあまり思い出したくないことらしい。「見覚えがあると思ったんだ…」「うん。あれはトモさんのメインベースだったからね。でもそれだけ?オズさんが本当に俺に聞きたいのはそっちでしょ?ナナさんも知らないこと。ナナさんには知られたくないこと」 …本当にこいつは。「駅前で、見たんでしょ」 俺はうなづいた。 十一時過ぎの、駅前のロータリー。ぼんやりと奴は花時計の煉瓦の枠に座って、誰かを待っているように、見えた。常夜灯の緑の明かりの下で、ひどく気怠そうな奴の姿は、今までに見たことのないものだった。 俺は声を掛けようかと思った。だが先客が居た。俺は情けないと思いつつも聞き耳を立てていた。 三十代ぐらいの男だった。彼は奴に近付くと、一人?とか今暇?とか言う言葉を投げていた。と言うことは初対面だ。 それに対して奴はこう言った。 暇だよ。遊ばない? …俺はよほど飛び出してやろうかと思った。 なのに、身体が動かなかった。「あれは、何だ?」 俺はカナイに訊ねた。そういう訊き方しかできなかった。なのにカナイは容赦なく、俺の質問に続きをうながす。「何に見えた?」「…ナンパされてる」「…優しい解釈だね、オズさん」 そりゃそうだ。言いたくはない。売ってるなんて。「ま、言い方なんて何でもいいよね」「…まさかあれがバイトだなんて言うんじゃないだろうな?」「いえいえ」 ひらひら、と手と首を同時に振る。「あれは、バイトじゃないよ。結果的にそうなってしまっていても、奴にはそういう意識はないから」「どういう意味だ?」「単純に、あれは人恋しいの。…全く、滅多に人を好きになることもないくせに、一度壊れるととことん引きずってる」 どうしたもんでしょうね、と奴はややおどける。「どうしたもこうしたも」「止められるものなら止めてるって。俺としては、奴がああいう生活になってるのはもちろん嫌なんだよ」 それはそうだろう。「だけど奴は奴で、結構頭回る奴だから、そういうことを絶対に、金曜とか土曜とか、とにかく昼間の生活に絶対関わらない部分でしかやらない。だからそういう点で文句を言えるものでもない。奴が売ってるって意識ない以上、所詮は、ただ単にそーゆーコミュニケーションが好きと言われてしまえばおしまいだし」 …「それこそ、フーゾク行ってる奴とどう違うと言われかねない。女の子と違って妊娠する危険もない。病気は怖いけれど、そういうところは妙にちゃんとしていたりする。つまり、ものすごく周到な訳で。力づくで引っ張ってきても、きっとそんなこと忘れてまた飛び出していくだろうし」「馬鹿じゃないか」「馬鹿だよ、本当に。馬鹿すぎ」 「何とかしてやろうって思ったことは…」「ありすぎる。だけど、俺にはどうにもできない部分ってのがあるでしょ?」「と言うと?」「例えばオズさん、奴と寝れる?」 う、と俺は一瞬言葉に詰まった。それは本当にできるかどうか、ということではなく、そういうことを訊ねられた場合に弱い、という性格なのだが…「つまりね、そういうこと。結局、奴がそうゆう相手を見つけない限り、駄目。週末の夜に一緒にゆっくり居てやれるような人がね」「お前は駄目なの?カナイ」「俺は駄目。そういう対象にはできない。友達だけどさ、友達として好きだけどさ、同情で俺、誰かと寝られる程大人じゃない」「…なるほどね」 カナイは苦笑する。一体奴がどう取ったかは判らないが、奴の言いたいことは判った。 そして奴が内心何を期待しているかも。 あいにく俺は奴よりは、とりあえず大人のつもりなのだ。だが大人としては(?)、やはりここで逆襲せねばなるまい。
2005.08.18
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「駄目駄目駄目駄目やめやめ」 ケンショーが手を挙げた。演奏が一気に止まる。あの目つきの悪い目がさらに凶悪になって、俺を睨んだ。「オズお前、今日身体の具合でも悪いの?」「?いや」 何をいきなり訊くんだろう。「…ああそう。じゃお前今日帰っていいよ」「…何」「練習で、お馴染みの一曲に五回もとちる馬鹿とは演奏できねーんだよ!」 げ、と俺は思わず自分のスティックに目を落とした。どれだけ性格や行動に難があろうが、ケンショーはそういう点にだけは厳しい。俺は素直に頭を下げる。「…悪い」「…いいけどさ、お前変だよ、今日」 ふう、と俺は返す言葉もなく、大きく息をついた。しゃあない、今日は散会だと言うリーダー殿の言葉が耳に残った。 奴はさっさとギターをしまうと、そのままやや力まかせにドアを開けて出て行った。「練習おしまい?」 マキノは肩からベースを下ろしながら訊ねる。そういうことだね、と言うカナイの声が妙に響く。雨が近いのかもしれない。「…まだ結構時間残ってるね」 予約したスタジオのレンタル時間はまだあと一時間残っていた。もったいないと言えばもったいない。マキノとカナイが代わる代わるドラムの側に寄ってくる。「オズさん身体の調子悪いの?」「いや、別に」「…だけどさあ俺でも判ったよ、オズさん。ケンショーさんやマキノだけじゃなく、俺でも判るようなミスは駄目だよ。な?」 カナイの言葉にマキノもうなづく。全くだ。ふがいない。「でも合わせるのパス、じゃ俺も帰るね。個人練習だったらウチでもできるもの」「そーだよな、じゃ…」 カナイは言いかけた言葉を止めた。「ま、俺も少しここで遊んでからバイト行くよ」「そぉ?じゃあまた」 ひらひら、とマキノは手を振ってベースをかついだ。ドアを閉める。足音が遠のいていく。ドアに近付いて聞き耳を立てたカナイはうなづいた。「さて」 そして奴は腕組みをしてドラムセットの前に立った。「何を俺に訊きたいの?オズさん」「俺が何か訊きたいって判る?」「スティックでケツつつかれちゃあね」 カナイは肩をすくめた。そしてそばに立てかけてあったパイプ椅子を開いて後ろ向きに座った。「オズさんが俺に訊きたいことって言うんなら、俺は二つしか浮かばないけど?」「二つ?」「ケンショーのことか、マキノのことか」「…ケンショーのことなんか何かあるのか?」「ああじゃあマキノのことなのね」 奴は顔を緩める。俺はああ、とうなづいた。「何かあったの?」「何かあったと言うか…ACID-JAMのナナさんが、お前に訊いた方がいいというから」「ACID-JAM!行ったの!?」 カナイの両眉はつり上がった。「たまたま、だけどな。でもお前がナナさんと顔見知りとは知らなかったけどな」「顔見知りと言うかさ、まあ顔見知りだけどさ」 どうも歯切れが悪い。「…あんまり俺は話題にはしたくなかったけどね。でもそれだけであんたがそこまで調子落とすってのは変だよね。何かあったの?それ以上に」 口のよく回る奴だ。「ACID-JAMを出た後に、ちょっと思い返して、**駅の方面にまで行ったんだけど」「うん」「駅前で奴を見て」「…ああ見たの」「見たの、ってお前」「知ってはいるけどね」 さすがにカナイの表情も曇った。 あの時俺は、一度ACID-JAMへ引き返し、ベルファのメンバーと軽く呑んだ。呑むのが目的ではない。情報収集がしたかったのだ。 何故そうしようと思ったのか、自分でも判らなかった。ただ、途中で放り出された話は気になるというものではないか。「じゃあオズさん、あいつが誰からベース習ったのか、聞いたんでしょ?」「まあな。吉衛さんだろ?ベルファのベーシストだったトモさん。上手い人だったよな」「うん。まあ結局、俺はその人とは、直接会うことはできなかったんだけどね」「そうなのか?」 「そうだよ。俺がマキノと友達つき合いするようになったのは、彼が亡くなった後だったから。まあ俺はあんまり考えないようにしてますがね、当時結構奴はひどかったなあ」 カナイはやや苦笑する。「師匠が亡くなったから」「もちろんそれだけじゃないよ、あんたが想像している通り」 俺はやや眉を寄せる。こいつは普段、結構単純明快そうな態度をとっているのだが、そういう所が時々実に性格が悪い。「…正直言えば、あの頃奴とトモさんはそういう関係だったらしいですよ。最もそれは俺がそういうところを見た訳じゃあなくて、ナナさんに聞いただけだけど」「ナナさんとはそれで知り合いなのか」 まあね、とカナイはうなづく。「俺はね、オズさん、時々嫌になるほど計算高い自分が居るの知ってて、それがあんまり好きじゃあないんだけど」 そう前置きをする。「マキノが俺のこと知る前から、俺は奴をずーっとバンドに誘おうと思っていたの。信じられる?ほぼ皆勤で来てるくせに、半年近く自分のクラスメートの顔把握してない奴って」 うーん、と俺は頭をかかえる。
2005.08.17
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「…ありゃあ。ナナさん、ナサキさん一体今日は何やってんの」「ああ、彼、今日は総合司会なのよ」 ハートマークが語尾に点きそうなほどのご機嫌な調子で彼女はややカウンターから乗り出した。 ナサキさんというのは、BELL-FIRSTのギタリストだ。たしか上手い人で、結構ライヴの時には砂を噛みしめたような顔で弾いているという印象が強いのだが。「何なのその総合司会って」 マキノは彼女に訊ねる。ほら、と彼女はステージの上手を指した。ナサキさんは何やら喋っていたと思うと、とことことそのまま上手へと向かい、べらん、とその白いものをめくった。どうやらそれは…学芸会や演芸大会の時に使う題めくりらしい…文字もちゃんと墨と筆を使って書かれている…「…何か芸風変わったんじゃないの?ベルファスト」「そんなことないわよ。元々ああいう馬鹿なこともやってたんだから。でしょ?マキちゃん」「んー、そうかもね」 曖昧な返事。奴はオレンジジュースを口にする。「ナナーっ!俺にも何かくれっ」「あ、ノセさん」「おおっ、ね…マキちゃんじゃあないかっ。相変わらず可愛いねえ」 ベルファのヴォーカリストはそう言ってマキノの頭を撫でる。「はいジンジャーエール」「おいビールは駄目?」「ここで呑みすぎると、打ち上げの酒がまずくなるのよ?ところで、この子出さない?」「ん?いーよ。何かコピーできる曲あった…ああ、あれができたな」「うん。マキちゃんどお?」「…まあ俺は…そう言うなら、別にいいけど…」「OK、じゃあちょっとあんた、連れてって手順教えてやってよ」 そう言って彼女はマキノをノセさんの方へ押し出した。大丈夫かなあ、なんてぶつぶつ言っている奴の声が、騒がしい店内の中でも何となく聞こえてくる。「…馴染みだったんだ」 奴の姿が見えなくなってから、俺はカウンタースタッフで、ノセさんの恋人である彼女に訊ねた。ノセさんと同じ歳と聞いているから、俺より充分年上だ。さすがに俺を子供扱いするが、相応の色気とさわやかさが同居していて、話をしていて悪い気はしない。「あの子?」 そう、と俺は答えた。彼女はまあね、と答えた。「みんなあの子が好きだったわよ。可愛くて」「へえ…あ!」 急に俺の頭の中で、つながったものがあった。 …見覚えがあるはずだ。「どうしたの?オズ君」「あのさ、もしかして、あの頃、時々あんた等、マスコットみたいにガキ連れてなかった?」「あの頃?」「まだベースがトモさんだった頃」 しっ、と彼女は人差し指を唇に当てた。「その話はあまりしないでね」「…あ、すみません」「うん…そう。あの頃連れていたその君の言うマスコットちゃんが、あの子だったの。だからあまり口にしないでね」 だとしたらつじつまが合う。奴のベースに見覚えのあった理由も。 ステージでは妙なセッションが延々続いていた。 セッション大会というより、本当に「学芸会」のようだった。果たして本当にロックバンドのセッション大会なのか?と思いたくなる。 まあ「それぞれのルーツ」バンドのコピーくらいなら良かろう。だがいきなりアコースティックギター持ち出してフォーク大会になったり、帽子から花を出してみせる奴もいるあたりは…「それでは次は『泣かずの七面鳥』です」 中で一回自分のセッションバンドのために着替えたのに、またどういう訳か羽織袴に戻っているナサキさんが謎なセッション・ネームを紹介した。 幕が開くと、彼は羽織をノセさんに手渡し、自分はギターを取った。そして下手には、小柄なベーシストが居た。それが誰だか判った観客の少女の中には、きゃあ、と黄色い声を立てるのもいた。 ステージには、三人。ベースだけ違う、インストのベルファ、という感じだ。ドラムのハリーさんが速いカウントをとる。途端、音が溢れかえった。 きゃあ、という声が再び客の中から上がった。だが今度はどうやら古参のファンらしい。なかなか年齢は上のようだし、後ろの方で見ている。俺は思わず聞き耳を立てる。「…うっそぉ…笑い雨だよぉ…」「聴けるとは思わなかったよぉ…来て良かったぁ…」 笑い雨?そういう曲なのだろうか。 タイトルとどう関係があるのか判らないが、それは無茶苦茶な曲だった。プレイヤーにとってはマゾヒステイックなまでにテクニックを要求するタイプだ。スピードといい、変拍子といい、つけ焼刃ではできない。ギターもドラムもベースも。特にベースにとっては。 だ現がマキノは実によく弾いていた。こんなことまでできるんだ、とメンバーのはずの俺の方がびっくりしていた。「やっぱり上手くなったわねえ…」 ナナさんはカウンターに頬杖をついてそう口にした。俺は思わず問い返す。「え?」「あの子、あの曲ずいぶん早くマスターしたものね」「あの曲って、ずっとやってなかったんですか?最近のベースの人は…」「ん、だから、それはね、禁句」 しっ、と彼女は指を口に当てた。あ、と俺は思い当たった。つまりは、あの人の曲なのか。そして奴はそれを実に上手く弾きこなす。「…やーん…もう」「泣くなよぉ…」「だってあんな、トモさんしか弾けないようなものだと思ってたのにぃ」「そーだよねぇ…でもあの子、すげぇ上手いよね」 少女とはもう言えないお姉さん達のため息。 …終わった時、奴は肩で息をしていた。 * 「俺あの曲聴いたの初めて。笑い雨って女の子達が言ってたけど?」「あ、そぉ?…『LAUGHIN' RAIN』だよ。笑い雨じゃなくて、笑う雨。昔のベルファはよくやってたよ。…恰好いいでしょ」 俺はうなづいた。まあそれは事実だ。「でも最近インストってやってないだろ?」「インストってのは、腕が良くないと恰好よくないんだよ」「言うなあ」 そう言って俺はマキノの頭を軽くはたいた。「教えてくれた人が良かったからね」 軽く言う。だけどそれが誰か、ということを問えるような感じではない。俺はその話は打ち切った方が無難だと思った。 最寄りの駅で、方向が反対なことに気付いた。じゃあね、と奴は手を軽く振る。 先に出た列車がホームから離れてから、俺は元来た道を引き返した。打ち上げをしているだろう、BELL-FIRSTの居るはずの店へ。
2005.08.16
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「カナイのメロディは面白いんだけどな。予想できないんだもん展開が。俺もっと聞きたいんだけど、この寡作野郎」 マキノはふう、とため息をついた。「仕方ねーじゃん。そうぽろぽろ湧き出る訳じゃあないんだからさ。お前こそ俺の手伝いはしてくれるけど、全然自分のアイデア持ってこねーじゃないの」「俺はそういうのが浮かばない人、なの!仕方ないでしょ」「まあまあまあ」とリーダー殿は食いつきそうな勢いの高校生をなだめる。 何となくこいつが人をなだめている図というのはおかしかった。だいたいこいつは人を振り回すことはあっても、人に振り回されることはないのだ。 ところが、この高校生達が入ってからというもの、事態は逆転していた。しかもそれが結構楽しそうだというあたりが、判らないものだ。 ケンショーの悪友は以前、奴には実は振り回すタイプが合ってるんじゃないか、と言っていたが、意外と的を射ていたらしい。「ま、何にしても、いい曲書いて、いい音に…納得のいく音作って、売ってもらおうな」とリーダー殿は締めた。 本当に、俺にそれを作る能力があったらいいのに、と思う。だけど。 駅前まで来ると、ケンショーはバイトがあるから、と地下鉄への階段を降りていった。カナイは本屋に寄ってから帰る、と駅前の繁華街へと紛れていった。そして俺とマキノが残された。その日俺はバイトは休みだったので、すぐにこれという用事はなかった。 どうしようかな、とぼんやりと考えていると、残されたもう一人が俺以上にぼんやりとしてロータリーのコンクリートブロックの上に座り込んでいた。「お前はどうすんの?マキノ」 え、と彼は弾かれたように俺の方を向いた。ひどく驚いたようで、大きな目を更に丸くしていた。俺は何となく、胸が飛び上がる感じを覚えた。「…え?今何か言った?」「お前はどっかこれから行くとこあるの、って聞いたの」「別に…取りあえず帰ってもいいし、どーしようかな、と」 そしてふらり、と首を回す。伸びかけて、さらさらした髪が揺れた。その仕草にふと、先週のことが思い出される。「そう言えばさ、お前、こないだの週末、**駅の前にいなかった?」「…あれ、オズさん居たの?夜なのに」 否定はしていない。「うん、あの町に友達の部屋があるから…見間違いかと思ったけれど」「居たことは居たよ。うん」 ふうん、と俺はうなづいた。 「でも友達かあ。いいな、そういう時間に居てくれる友達が居るっての」「…あれ?お前あの時連れ居たんじゃないの?」「連れは居たけど、うん…」 言葉をにごす。さほど言いたい話題ではないらしい。「…ああ、そういえば最近ACID-JAMにも行ってないから、行ってみよっかな」 そして奴はオズさんもどう?と訊ねた。特に用事はない。いいよ、と俺は答えた。 * 「ACID-JAM」は、その日は結構な入りだった。 ここは、以前よく出ていたライヴハウスだ。去年までは、そこが俺達の根城だった。 ここしばらく、動員が伸びたので、スタンディング200から300人程度しか入らないライヴハウスでは危険になってしまい、もう少し人の入る現在の行きつけの所へと移ったのだ。 出なくなったとは言え、別にそこのスタッフといさかいを起こした訳ではないので、現在でも俺は行けば顔パスだった。 そして顔パスの奴はもう一人居たらしい。「あらマキちゃん、久しぶり…あれ、オズ君も一緒?…あ、じゃあ、RINGERとくっついたって本当だったんだあ」 「くっついたって…ナナさん」 俺は少しばかり妙な方向へ頭が行っていたらしい。すると彼女は面白そうに、追い打ちをかける。「だって本当でしょ?」「うん、そうだよね」 マキノまでがそう答える。はい、と彼女はマキノにタンクのものではないオレンジジュースを渡すと、俺に何呑むか、と訊いた。ウーロン茶、と俺は答えた。「あら、呑まないのぉ?」「そういう日だってあるの」「生理?」 マキノがするっとそんなことを言う。俺は思わずカウンターにつっぷせた。けらけら、とナナさんは笑う。「ところでねマキちゃん、今日はここて何の日だったか知ってる?」「ん?何だっけ」「BELL-FIRSTがね、メジャー一周年前夜祭なの。良かったらマキちゃんも出たら?」「俺があ?だめだめ」「出るって?」 思わず俺は、手を振る奴とナナさんに訊ねていた。「やだ、知らないで二人で来たの?だから、お友達バンド集めてセッション大会なの。もちろんベルファのステージもあるけどね、それだけじゃなくて」 と、半ば以上埋まっていたフロアから急に歓声が上がった。 はれ?と俺は目をこらした。舞台の上手には、何やら白い紙が見えた。 ボールドの色の幕に丸くピンスポットが当たっている。そしてそこには、羽織袴を着た人物が居た。「…」 思わず俺はマキノの回転椅子をぐるりと回してしまった。奴はバランスを崩しそうになり、途端に抗議の声が上がる。「何すんの!」「何じゃありゃ?」「…あれ?」 奴は目を大きく見開き、ステージ上の人物を見る。
2005.08.12
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「あ、美味し」と一口お茶を呑んだ瞬間、マキノはそう言った。 おい、と隣に座っていたカナイが肘でつつく。聞こえないふりをして、そのまま奴は両手で湯呑みを持って音も立てずに茶をすすった。 運んできた女の子は、マキノに向かってにっこりと笑った。 翌週末の午後、俺達は、とある事務所の応接室に居た。 応接室と言っても、そんなに大きいものではない。どちらかというと、部屋の隅をそのために仕切った、という感じである。あまり客を長居させるために作った所ではないように俺には思えた。「比企から話と音は聞いているけれど、とりあえずははじめまして、と言うところかな」と俺達四人の前に座った人物は言った。 この人は暮林さんと名乗った。現在俺達四人が雁首揃えて参上している音楽事務所「フェザーズ」の社長である。 社長と言っても、まだ若い。だいたい比企さんと同じくらいではないだろうか。 RINGERとS・Sをそれぞれ分裂させ、そしてくっつけてしまった張本人、大手レコード会社PHONOの若手プロデューサーである比企さんは、メンバーが揃った時点で、自分の力が利く事務所を紹介してくれた。それがこのフェザーズだ。 正直言って、俺はその名前を聞いたことはなかった。だから、話を持ち出された時、念には念を入れて、比企さんにどういう所なのか訊ねてみた。「まあそう大きくはないよ」 するとどうやら俺の表情は露骨に変わったらしい。「まあそんな顔しなさんなって。…俺が思うには、たぶんそこは君達に合ってるよ」「どういう意味でですか?」とケンショーも訊ねた。「いろんな意味で。君達がついていければ、大きくなれる」「大きく」 マキノは目を丸くしていた。「でも言いなりになってなんかいないかもしれませんよ」「言いなりになるようなバンドだったら、あそこには僕は紹介しないよ」 そう言って比企さんはにやりと笑ったものだ。 暮林さんは俺達四人それぞれに、契約書を渡した。それは契約書と名のついたものにしては、ずいぶんと字が大きく、間隔も不自然ではなかった。つまりは読みやすいものだった。 メジャーと何らかの契約をしたことのある俺のドラム友人は、一様に契約書については悪口雑言を投げていた。 こう言った契約書というものは、だいたい読みにくいものらしい。字が小さいのに間隔が空きすぎであるとか、その文章がどういうことを言っているのかさっぱり判らない、とか、はぐらかされたような気がする、とか。まあ半分は、学校のお勉強という奴を好きではなかった奴が大半である俺達が悪いのだが、それでも普通の奴でも判りにくい文章であることは事実なのだ。 だがとりあえず俺の手の中にある書類は、そういう意味で言えば、実に親切なものであったと言える。俺はケンショーの顔をちら、と見たが、珍しく眼鏡をかけた奴もまたやや奇妙な表情になっていた。そのくらいその書類は読み易さに重点を置いていたようなものだったのだ。「ではちょっとばかり内容の説明をしようか」 暮林さんは言った。 …だが結局はちょっと、ではなかった。延々二時間、俺達はたった四ページの書類について、彼の「講義」を受けたことになる。「これで、おおよその内容は判ったと思うけど」 おおよそ、どころではなかった。彼は文章の意味だけではなく、例を持ち出してはその場合の双方のメリットデメリットについてまで、事細かに説明を加えたのだ。「けどね、結局は」 最後に彼はこうつけ加えた。「やったものが勝ち、なんだよ。いい曲を書いて、いい演奏をして、いいプロモーションをして、それがちょうど波に乗れた時に、ブレイクって奴は起こるんだ。それが一つでも欠けたものがブレイクすることはそうそうない」 なるほど、と俺は思った。理想論だが、間違ってはいないと思う。「結局はうちは、君達がいいものを作った時にはいい押し出し方もできる。できる限りのことはしよう。だけど、いいものが出来ない限りは、どんなに金をつぎ込んでも無駄だから、大したこともできないんだ」「つまりは俺達次第、という訳ですね」「そう。それに、極端な話、いい曲はその時全然売れなくとも、後で使える場合もあるだろ?」「下手な曲じゃあ一銭にもならない、と」 眼鏡を取りながらケンショーは訊ねた。そう、と暮林さんはにっこりと笑った。「まあ比企が引っ張ってくるバンドは、多かれ少なかれ何かあるからね。結構楽しみにしていたよ」「比企さんとは親しいんですか?」 マキノは目を大きくしたまま訊ねた。「十年来の悪友」 有能は有能を呼ぶ。そういうことかな、と俺は思った。 結局、「半年後にメジャーデビュー」を目指して、俺達新生RINGERは出発することになった。「いい曲かあ」 ぼそっとカナイがつぶやいた。「今までのRINGERでは誰が作ってたの?」「ああ、だいたい俺。それにナカヤマ。歌詞は俺がつけることもあったし、代々のヴォーカルのこともあったし」とケンショーは答えた。 「ナカヤマさんってベースの人だったよね」 マキノは俺の方を向いて訊ねたので、それには俺がうなづいてみせた。「オズさんは作らないの?」「え?俺は駄目」 何で、と高校生コンビの視線が俺に集中した。「いいだろ別に。俺そういうの、向かないの」「職人さんなんだあ」 くすくす、とマキノは笑ってそう言った。まあな、と俺は言うしかなかった。仕方ないだろ、という言葉を自分の中でかみ殺し、話の方向を変える。「…S・Sもギターの奴がほとんど作っていたっけ?」「まあだいたい。ほーんの時たま、俺がぽろぽろって作るけど」
2005.08.11
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何かとお互いに、気軽にどうでもいいような会話が交わせるようになった頃のある日、ケンショーの妹が、缶ジュースと箱スナック菓子が山に入った袋を片手にやってきた。 そして出会い頭にぶつかった。「あ、新しい子達?」「あ、ケンショーさんの妹さん?」 彼女とカナイの反応は素早く、ほぼ同時だった。だが次の反応はさすが、彼女の方が速かった。素晴らしい機関銃言葉が次々にだらしない男達に打ち込まれる。もちろん俺も、その一人だった。「あの馬鹿にさんなんて付けなくてもいいわよ!不肖の兄貴、生きてる!?オズさんお久しぶり!ねえねえ君達、少年達よ、甘いもの平気?」 一気に言い放つ。俺は元気だね、とか声をかけつつも、彼女の勢いに冷や汗半分で圧倒されていた。不肖の兄、はいつものことだと平然としている。「俺は平気」 すぱっとカナイは言った。「俺は好きですよ」 やんわりとマキノは言った。「本当!ねえ、じゃあ練習の後、暇?」 二人は顔を三秒ほど見合わせ、うなづいた。「実はこの先のホテルで…」「それは駄目っすよ!」 べし、と頭を叩く音が耳に入ってきた。はたかれたのはカナイだ。いてーっ、と奴はあの割れ鐘の声を立てる。「阿呆!何考えてる青少年!ホテルのレストランで、ケーキバイキングがあるの!」「あ、ティールームですね」 頭を押さえつつ、カナイは苦笑している。「うん、ケーキ、好きは好きなんだけど、やっぱりちょーっとバイキング一人じゃ行きにくいじゃない…」 彼女は両手を合わせて、黙っていれば似合うポーズをとった。「だから付き合ってほしいと?」「さすがに二人分、全額出すとは言えないけど」「俺、いいですよ。お茶代程度なら出します」 先にマキノが笑いを浮かべながらそう言った。「あ、じゃ俺も。その位なら」「本当?良かった~何しろうちの猫は甘いもの苦手で」「猫?」 ぴん、とマキノの目が片方つり上がった。あれ。「うん、うちの同居人。可愛い子よ」 あ、そうですか、と一瞬張ったマキノの気が緩むのが判った。逆に張ったのは俺の方だった。 めぐみだ。ケンショーのもと同居人。何やら状況に脅えて、逃げ出したところを彼女が拾ったらしい。それから何故か、彼女のところに居着いている。 無論彼女は、そんな固有名詞はここでは出さないくらいのデリカシイはある。だが俺は、やや自分の手が汗をかいているのに気付いた。持っていたステイックが滑るのではないかと不安が起きる程に。 ケンショーは気付いてか気付かずか、ギターのチューニングをしていて、妹には背中を向けている。「でもケンショーさんやオズさんじゃまずいんですか?」 マキノは軽く首を傾げる。「…兄貴連れてくのは不毛よっ」 はあ、と二人の高校生は、腕を組んで言い放つたくましいOLにうなづいた。「それに兄貴、良かれ悪しかれ、結構目立つののよねえ。恰好悪い訳じゃないし、ポリシーがあんのは判るけど」 彼女は自分の恰好を指す。多少原色が入りつつも、基本的には大人しいスーツ。「何っかほら、バランスが悪いと思わない?あれとあたしが並ぶと」「…うーん」 マキノとカナイは顔を見合わせた。カナイは肩をすくめて答えを返した。「ま、つまりは俺達の方がいいセンスしている、ということですか?」「そ。それにやっぱり食べ頃の男の子二人も連れていくのって、結構おねーさんの夢なのよc」 …食べ頃の少年二人はやや複雑な顔になり、なるほど、と俺もうなづいた。「元気そうだったよ」とケンショーは答えた。 元気な妹が高校生組を拉致し連れ去った後、俺はめぐみのことをさりげなく訊ねてみた。 めぐみはうちの前のヴォーカルで、ケンショーの同居人で恋人だった。 このリーダー殿は、声に惚れると他の部分が見えなくなる、という体質を持っているので、歴代のヴォーカルは男女構わず、だいたいこいつの恋人だった。 その中でもこないだまで居た「Kちゃん」ことめぐみは、こいつとずいぶん長く続いた方だったのだが、めぐみの失踪、ヴォーカル脱退という形で幕を下ろした。 ずいぶんといい感じだったと、俺はずっと思っていたので、そのことは寝耳に水、という感じだった。 当のケンショーは、意外に平気な顔をしていた。 そしてそのすぐ後に見た「S・S」のライヴで、いきなりカナイの声を気に入ってしまっているのだから全くしょうもない。 そういうものなのだろうか、と俺は時々思う。だが奴にはそういうものらしい。それはどうしようもないことなのだ、と奴は言う。それは奴の持っている、どうしようもない業のようなものらしい。 そのめぐみが、どうやら奴の妹の所に居着いているらしい、と聞いたのは、ケンショーからではなく、奴の悪友からだった。 ケンショーに面と向かってべらべらと言葉を投げつけて、なおかつそれが効果があるのは、奴の妹と、この悪友の関西人くらいなものだ。「ま、やけどその方がめぐみちゃんの為にはええよな」 珍しく神妙な顔で、そいつもそう言っていた。 そいつによると、ケンショーには、奴が振り回してしまうような優しい子より、奴を振り回してしまうくらいの強烈な奴の方が合っているらしい。今までそういう奴が付かなかったのが不思議だ、と言うことだ。 言われてみればそうかもしれない。「会ってきた?」「見ただけ。こないだあれが連れて歩いてるの見た」「へえ」 理由を聞いてはいるらしい。だが奴はそれについては一言も俺には話さなかった。悪友にももちろん。「幸せになってほしいな」と俺は言った。 そうだな、とケンショーは答えた。
2005.08.10
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「怒ってる?」「ま、お前のことだし、慣れてる」「悪いなあ」 はははは、と乾いた笑いが耳に届く。俺は荷物を両手にしたまま、肩をすくめた。荷物が重いとそんなことにも力が要るのだが。「本当に悪いと思ってるなら、腕ふるえよ?磯部揚げ!」「判ってる判ってる」 そしてまたばんばん、と彼女は俺の背中を叩くのだ。 どうやら時間制限があったようで、ぎりぎりだったらしい。彼女はスーパーの袋を俺の足元に置くと、駅のサービスセンターへ飛び込んで行った。俺もさすがにやや腕が疲れたので、彼女が置いたところでひとまず袋を下ろした。肩を上下させると、ぽきぽき、といい音がする。 湿気が多いせいか、何となく汗ばんでいるペンキ塗り鉄骨の駅柱にもたれて、ちょいと一服、と俺は煙草を取り出した。紗里は煙草は嫌いなので、彼女の部屋に行くと吸えない。今のうち、だ。 ふう、と息をつきながら、ぼんやり、辺りに視線を飛ばす。この時間は、勤め帰りの連中のラッシュがひと段落する時間だった。そして次第に「駅前」にガキどもが集まり出す時間だった。 時々紗里の部屋に行く関係で、この駅はよく俺も利用している。週末なんぞは、何処からやってくるのか、中坊高校生のガキどもがうじゃうじゃと集まってくる。古典的ヤンキーからチーマーやら、ロックやってます兄ちゃんだの、ゲーマーだの、何処から見てもただのガキ、とか、塾さぼってやがるなこいつ、まで千差万別だ。 だから、その姿を見かけた時も、俺は別に疑問に思わなかった。 …マキノ?「お待たせ。あれ、どうしたの?」「ん、いや、知ってる奴じゃないかなって…」「高校生?」 うん、と俺はあまり目立たないように彼女に示す。「小柄だね。華奢ぁ。可愛い子じゃない」「可愛い?」「だって、そう思わない?」「…おい、うちの新しいバンドのメンバーだぜ?」「へ?高校生って言ったじゃない」「高校生は本当。だけどすげえ上手いの。ベースの腕はぴか一」「ふーん…まああんたのベースに関する目は信じましょ」 そして彼女はよいしょ、と一度置いたスーパーの袋を持ち上げた。「挨拶してかないの?」「え?…あれ」 どうやら連れが居るらしい。奴は少し目を離したすきに、別の誰かと話していた。「…ま、別にいいさ。また会えるし」「ふーん…」「それよっか俺、腹減った。急ごう」 そーよね、と彼女は言った。 * 顔合わせをしてから、本格的に練習が始まった。 曲出しも言われている。勢いがついてきた、というべきなんだろうか。 だがライヴはまださすがにできない。メンバー半分入れ替わったら、なかなか合わせるのに時間が必要だ。テクニックはともかく、呼吸の問題というものがある。 それに名はともかく、向こうは向こうで俺達の曲をただやるのではなく、向こうでやっていた曲、やりたい曲というものがあるだろう。「やりたい曲?」 そこでケンショーが訊ねたら、カナイとマキノは顔を見合わせた。「自分の曲は使わないでくれ、と奴は言ってたけどね」 カナイは前のバンドのギタリストから言われたことをそう説明する。「まあそうだろうな。ギタリストだもんなあ」と我らがリーダー兼ギタリストは妙に納得した顔で、そうのたもうた。そして言ってから、ふと気付いたように、斜め向かいにいるヴォーカリストに訊ねる。「…あ、じゃあカナイ、あの曲はやってもいいんだよな?お前のあの」「あ、あれ?うん、あの曲だけはいいって」 あの曲。俺が何となく訝しげな顔をしていると、ケンショーは付け足した。「ほら、最初に対バンした時に、何かお前、ギターが弱いとか言ってた…」「あああれか」「あ、ギター弱かったですか?」 マキノは初耳、というように軽く首をかしげ、目を丸くして問いかけた。するとケンショーは片手をひらひらだらだらと振った。「あ、違う違う。正確には、ギターが弱いんじゃなくて、お前のベースが凄かったの」「あ、そーなんだ。うん、確かに奴はあの曲弾きにくそうだったもんね」「あれ、そーだったんか?」「お前のメロディって、ギタリストには鬼門だぜえカナイ」「…あ、そ。でもあんたは平気でしょ?平気だよね?」 念を押しながら、カナイはケンショーに向かってにやりと笑った。当然でしょ、とケンショーも負けず劣らずの悪党の笑いを返した。俺は何やらまた悪寒が走る自分に気付く。 だがよっぽと奴はあの曲が気に入っていたらしい。確か、「S・S」が対バンだった時も、あの曲だけはメロディを一発で覚えたらしい。あの他人の曲などどうでもいい的な見方をする我がリーダー殿が!「メロディもそうだったしさあ、変な構成でしょ。俺もベースラインつけるの苦労して苦労して」「何ってこと言うのマキノっ!」 カナイはマキノの背後から近付くと、突然わしゃわしゃわしゃ、と肩をもみ出した。 だがマキノもマキノで、あ、肩こってたのちょうどいい、とか言ってそこでいきなりくつろいでしまう。何なんだこいつらは、と俺は思わずため息をついた。
2005.08.08
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「お久~」 金曜日の夜、紗里は手を振りながらそう言った。同郷の友人は、今日も元気だった。「どーしたのよオズ、あんたが呼び出すなんて珍しい」 会社帰りらしい。大人しいシャツにタイトスカート、淡い黄色のスカーフ、それにきちんと整えた髪。オフィスワーク八時間労働した後に、どうしてこうきちんきちんとしているのか、と一度聞いたら、帰る前に洗面所で整えていくのよ、とのこと。最もだ、とその時の俺は思った。 紗里は高校時代の恋人だ。そして現在のガールフレンドだ。 この場合、ガールフレンドは必ずしも恋人とイコールではない。そういう部分もあるが、全面的に同じではない。 はっきり言って、高校時代の方が深いお付き合いという奴はしていた。馬鹿みたいに熱病のような感情もあった。 だがそれにピリオドを打ったのは俺だった。 高校を卒業して、上に兄貴が居るのをいいことに、すぐに家出同然に上京してしまった俺は、新幹線で東京に三時間はかかる郷里を出る際、彼女に何一つ言わなかった。 実際、もう会うことがあろうとは思わなかったのだ。 ところが運命の偶然という奴は恐ろしい。 高卒ですぐに地元企業に就職した彼女だが、何やらその生活が性に合わず、半年で辞めてしまったらしい。そして一年経った時に、それこそ一念奮起して、こちらの四大に合格してしまったのだ。 何があったか知らないが、同じ空の下に住むようになってしまった俺達が再会するのには時間がかからなかった。 彼女は当時言ったものである。もしも俺がまだドラムをやっていたら、自分に黙って行ったことを許してあげる、だけどあきらめてしまっていたら、一発殴って完全に縁を切ろうと思っていた、と。 一度進学をあきらめた後のブランクを埋めたのと同じ根性で彼女はライヴハウスを回り、とうとう俺を見つけだした。 そしてまあ、俺は蹴りは入れられたが、とりあえず殴られずに済んだ訳だ。 だが昔と全く同じという訳にはいかなかった。 離れていた時間というのはまだ今より若かった俺達には長かった。熱が冷めてしまっていてもおかしくはない。 その代わりに、俺達の間には、妙な連帯感というか、友情のようなものが目覚めてしまった。郷里を離れた者同士、というか、同じ土地の記憶を持っている者同士、というか。 この春、彼女は大学を卒業し、他の四年卒女子より一つ上のOLになった。 昨年の夏など、よく俺は彼女の愚痴に付き合ったものだ。就職口がなかなか見つからない、と。一浪コネ無し女子四大卒なんて辛いものよ、とかなりの剣幕でまくしたてていた。 俺は俺で、動員数の伸び悩みとか、腹の立つ「事務所のお誘い」などついて彼女に愚痴ったものである。 そしてお互い、飲み明かした夜明け頃、がんばらなきゃね、と言い合って眠っていた。ただ眠ることも多かったし、そうでない時も時々はあった。 端から見たら、俺達は立派に恋人同士、という奴だろう。だがどちらにも、そういう意識はなかった。拡大解釈された友人。それ以上にもそれ以下にもなりえない。 俺はそう思っていたし、紗里もこう言った。「きっと数年後にはお互いそれぞれの誰かと一緒に居るんだろうね」 そうだろうな、と俺もその時答えた。「で、何?」「や、どーやら俺の方も、何とかなりそうで」「と言うと…何、メジャーデビュー決まったの?」 決まったというか、と補足するかしないかのうちに、彼女はおめでとー、と大きく両方の肩を叩いた。「や、まだ、完全に決まった訳じゃないんだけどさ、でも、もう、殆ど決まり」 やったぁ、と紗里はばんばんばん、と今度は俺の両腕をはたいた。実際浮かれてもいい夜だった。 そしてそのまま俺達は彼女の部屋のある方へ向かった。近くのスーパーで買い出しをして、荷物持ちはまあ、俺の分担だ。お互い一人暮らしが長いので、ケンショーの妹ほどの腕はなくとも、食えるものは作ることができる。ものによっては俺の方が美味いものもあるし、その逆もまた然り、だ。「何にしようね」と野菜や加工肉の冷蔵庫のあたりでうろうろしながら彼女は訊ねる。「弁当めいてるけどさあ、アスパラのベーコン巻きとか」「あ、それ面白いなあ。弁当メニューで呑むってのも悪くないね」「ほんじゃ、これも外せないな」と俺は冷凍食品の棚からカニクリームコロッケを取り出す。「何か思い出すね、高校ん時の、昼どき。あんたら男子って欠食児童みたいなもんだからさあ」 彼女はかさかさとコロッケのパッケージを振って見せる。「ああ?あーそーいや」「…あたしは何度おかずを取られたことか!」 そんなこともあったっけ、とうそぶいてみせる。 俺も覚えてはいる。今は今で貧乏ではあるが、当時は今より金が無かった。何と言っても、ドラマーなどやっていると金がかかるのだ。ついつい昼飯代がスタジオ代に消えてしまうことも珍しくはなかった。その都度彼女のお弁当から一つ二つとつまんだものである。 馬鹿かあんたは、と言いつつも彼女は、御母堂特製の二段重ね弁当の中から分けてくれたものだ。 野菜にベーコン、冷凍食品、カンヅメ、飲み物果物、スナック菓子と言ったものを手慣れた手つきで三つの袋に詰めてぶらぶらと外に出ると、もう完全に夜だった。「あ」 スーパーからやや歩き出したところで、彼女は足を止め、小さく声を立てた。「何?」「悪いオズ、ちょっと駅まで引き返してくんない?」「いいけど…」 重くて手に食い込みそうなスーパーの袋を俺はちら、と見た。「本当にごめん!今日で定期切れてたの忘れてたの!」「明日じゃまずいの?」「んーだって朝は混むしさあ」 彼女はやや不服そうな顔になる。まあいいよ、と俺は来た方向へ歩き出した。
2005.08.06
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さて、この新しいメンバーの二人は仮名井文夫と牧野京介という名だという。 新しいメンバーだ。つい先日までは、対バンしていた、別バンドのメンバーだった。「S・S」という名で、傾向としてはやや近いバンドを組んでいたのだ。 つい先日まで、という但し書きを見れば判るように、現在はそのバンドはない。 まあはっきり言えば、俺達が壊してしまったようなものだ。 「S・S」は、先月、俺達のバンド「RINGER」が、アクシデントのせいでライヴが出来なくなった時の対バンだった。 さすがにあの時はびっくりした。その当時のうちのヴォーカリストで、ケンショーの恋人でもあった奴が、メジャーの話が来たところで失踪したのだ。 仕方なし、そのライヴは、うちはトークライヴ、という形にし、演奏はなしということになってしまった。残念と言えば残念だった。 ところが、俺が思ったよりは落ち込まなかった我がバンドのリーダーは、えらいことを言い出した。 この対バンの音とカナイの声を聞いて、このリーダー様は、こともあろうに、向こうのヴォーカリストを入れたい、などと言い出してしまったのだ。 何を考えているんだ、と俺もさすがに思った。 これまでも声に惚れて見境がなくなったことは多々ある奴だが、逃げられたからと言ってすぐに次を見つけてしまうあたりが。 …てなこと言っているうちに、今度はうちのベーシストが抜けてしまった。これもまたヴォーカル同様、メジャーへ行くことに不安を持ったらしい。 残されてしまった俺達だが、こちらがそうこうしているうちに、向こうの方でも一波乱あったらしい。どうもそれはケンショーと、このヴォーカルのカナイの間に何かあったらしいが…妙なところで口の堅いこのリーダーは、その間にあったことは俺には言わなかった。あんまり聞いても馬に蹴られそうな気もするし。 十分くらいして、カナイもやってきた。結構時間に遅れることを気にしていたようだ。駅から全力疾走してきたようにはあはあと肩で息をついていた。「遅れてすいませ~ん!」 おおっ、と俺は思わず後ずさりしていた。でかい声だ。強烈な声だ。割れ鐘を威勢良くぶっ叩いた時のような感触が、その中にはあった。「遅い、カナイ」 くすくす、と笑いながらマキノは友人にそう言った。「仕方ねーだろ?バイト今日、手がなくて」「駅前のミスタードーナツだっけ」「ええ、そうですよ」 お、こっちは俺に対してやや敬語だ。「そーゆー時は、隙を見て逃走(ブッチ)してくるもんだ」「俺あんたと違って真面目なんだよーだ。この時間、カウンター誰もいなくなっちまうって言うんだからさ、仕方ねーじゃん」 ぬかせ、とケンショーはくくく、と声を押さえて笑った。ありゃ。「それにしてもマキノは練習熱心だな。確かお前、部屋防音だろ?」「あ、そーですよ。ピアノあるから。でもやっぱりどーもウチでベース弾いても何か違うって感じが」「ピアノあるの!」 俺は思わず訊ねていた。あるよぉ、と奴はうなづいた。ありゃ、またタメ口だ。「弾けるんだ…」「弾けるなんてものじゃないすよ」 カナイが口をはさむ。「こいつ、俺と会った頃は、音大志望のばりばりのクラシック野郎だったんだから。一体どう道を誤ってしまったのやら」「俺を口説き落としたのは一体誰でしたかねー」「馬鹿やろ、駄目もとだったんだよ」 なるほど、と俺はこの二人の出会った状況を何となく推察していた。 それにしても、そのベースには、見覚えがあった。 高校生が持つにしては、ずいぶんとモノがいい。黒地に、貝加工の模様が綺麗な曲線を奔放に描いていた。何って言っただろうか?細工の名前までは忘れたけれど、結構いいものだということくらいは俺にだって判る。 それに何処かで見たことがある。そんな気がしていた。だけどそれが何処だったか、俺には思い出せなかった。
2005.08.05
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「本当に手に入れたのかよ!」と俺は電話の向こうの友人に向かって声を張り上げた。『…うん、まあ、いろいろありつつも』 奴にしては珍しく、実にはっきりしない口調で言葉を返してきた。「どんないろいろだよ」『…うるさいな、いろいろはいろいろだ。とにかく明日集合!』 …何となくその口調に照れが混じっているような気がして、背中に悪寒が走った。 * だが何はともあれ、どういう「いろいろ」かは結局さっぱり判らないが、とにかくその翌日、俺はいつものようにスティックを抱えて、行きつけのスタジオに足を向けていた。 バイトの後に出向いたそのスタジオは、混み合う時間よりはやや前だったせいか、ずいぶんと静かだった。 廊下の薄汚れたビニルタイルには、張り付くような自分の足音が、露骨に耳に入ってくる。そういう季節なのだ。 そしていつも使っている部屋の扉を開けた。「あ?」 いくつかのスタジオが入っているそのビルの中で、俺は一瞬自分が場所を間違えたのか、とも思った。扉を開けたら、低い音が耳に響いた。 小柄な制服姿の高校生が、きゅ、と大きな目を俺に向けていた。 俺はあ、すいませんと慌てて扉を閉めようとする。だが中に居た高校生は、その途端ぱっと駆け寄ってきて、その扉を押さえた。「間違ってないよ」 え、と問い返すと、高校生は続けて言った。「ねえ、『RINGER』のドラマーのオズさんでしょ?」 高校生は、俺のバンドの名を言う。俺はああ、とややたじろぎながらうなづく。うちのバンドの客なんだろうか?「俺も今日の集合に呼ばれてるの。俺、知らない?」 知らない?と問われても。俺は戸惑う。こんな大きな、猫の様な目の奴は。 だが待てよ、と俺は記憶をひっくり返す。この日うちのバンド「RINGER」のリーダーにしてギタリストのケンショーに呼ばれて集まる予定なのは、ドラムスの俺と、あとは…「あのさ俺、『S・S』でベース弾いてたマキノだけど。覚えてない?」「ああ…」 自己申告。そう言えば、そうだった。 言われてみれば、ずいぶん小柄なベーシストが、ずいぶんと凄い演奏をしていたのを思い出した。…記憶力が落ちてる、と俺は内心舌打ちをする。 音は覚えていた。何せその時は、対バン…うちのバンドと同じイヴェントに出ていたのだ。俺は確か上手からこいつらのステージをのぞいていたはずだ。 だが顔までは記憶していなかった。あの後、出演バンドが一緒に出た打ち上げには、こいつは確か、来なかったはずだし。 なので。「…あ、ごめん、覚えてなかった」「正直だねオズさん」 くすくす、とマキノは笑った。俺もつられて笑った。 ややつり上がり気味の大きな目が思いきり細められる様は、何だか実家に置いてきた猫を思い出させた。ああ今どうしているだろう?「オズさんも、今日は一人で来たの?」「うん?だいたい俺達はばらばらに来るよ?そんな女子高生のようなこと、いちいちするかあ?」「ま、そうだね。今日はカナイもバイト済ませてから来るって言ってたから、やや遅れるかもしれないよ」 確かカナイというのは、ヴォーカリストの名だ。こっちはケンショーがその声に惚れ込んで連発していたので、覚えるともなし覚えてしまった。「へえ。バイトかあ…マキノ君は何かやってるの?」「俺?うん、一応」 彼は肩を軽くすくめ、言葉をにごした。 そうこうしているうちに、長い、色を抜いた髪無造作にくくったケンショーがギターをかついでやってきた。 睡眠不足だか何だが知らないが、近眼のくせに眼鏡かける習慣がなくて目つきの悪い奴は、どうやら今日はその度合いをパワーアップさせている。「うーっす」 俺は手を上げて奴に合図する。低音の極地、とでも言いたくなるような声で、奴は同じ台詞を返した。「ケンショーさん、カナイちょっと遅れるかもしれない」「…ああ…あ、お前、マキノ?」 奴は目を細めてマキノを見る。そのくらいすると焦点が合うらしい。いい加減眼鏡をかけろよ、と俺は口には出さずにつぶやく。「うん。お久しぶりです」 …あれ?何となく訝しく思う。俺にはタメ口利いてたはずなのに、ケンショーには敬語か?「ああそう。じゃ、ま、いいか。奴とは一応、俺達顔合わせできてるから…」 はい、とマキノはにこっと笑った。あ、可愛い。
2005.08.04
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「いい加減にしろよ? 風邪ひくぞ」 ゆっくりと俺は、テトラボッドに近づいていく。ちょん、とその上に座ったモリエは、それでもやはり大きな目をじっと遠くに向けているだけだった。 雨の日の海は、水平線も見えず、空との境界が何処にあるのかも知れない。そんなもの見ていて何が楽しいのだか俺には判らない。 いや、そもそもこいつの考えていることが判った試しはない。居る場所の予想とかは立てられるが、その場所へ行く理由はさっぱり判らない。 と、ふいに奴は右手の人差し指を空に向けた。その先には、他よりはやや白い空があった。 その唇が、微かに動いている。 ああこいつ、今頭の中に音符を散らしているな。 * 中学の時のブラスバンド部の後輩は、高校を卒業する直前に、俺にやっぱりこうやっていきなり電話してきた。 俺は驚いた。驚いたなんてものじゃない。 高校卒業と同時に家を飛び出た俺は、一年後のその時、あるライヴハウスでギターを弾いていた。今出演中だ、と断る馴染みのハコのマスターは、それから俺達の演奏が終わるまで、十五回電話を受けたという。 モリエの声が電話の向こう側からした時、俺は心底驚いた。俺は当時、昔の知り合いには一切住所も電話も教えていなかった。無論モリエにも、だ。 なのに何故。それも俺の住処ではなく、出演中のライヴハウスに焦点を絞って。 まあ考えられることは幾つかある。高校には、何処か生活能力が欠けているような奴をフォローしてくれる心優しい人々が多かったのだ。そいつらは時々下心もかいま見せたが、当の本人がそれに一切関知しないので、何事も起こってはいないようだったが。 電話の向こう側のモリエは、俺にこう訊ねた。『曲作ったんだけど、どーしたらこれ、仕事にできる?』 のほほんとした声は、前置きもなく、そんな意味のことを俺に告げた。 モリエが曲を書いていることは俺も知っていた。ブラスバンドの頃から、時々当時の担当楽器であるアルト・サックスの他に、ピアノをぽろぽろとかき鳴らしていたことを思い出す。小さな頃からレッスンを受けていたらしい。ただ、中学に入ってからは真面目にレッスンを受けなくなったのだと言った。 その理由を聞いた時に、奴はこう言った。「だってつまらないもん」 何がつまらないのか、と重ねて問いかけたら、首を傾げた奴は、こう答えた。「人の曲なぞるのなんて、それだけだし」 奴がその時、クラシックの解釈とか表現とか、そういうことを無視していたとは思えない。それなりにコンクールにも出ていたし、またその中でそれなりの成績も残していたから。 だからたぶん、曲を作りだしたのはその頃からだ。高校は分かれたから、一体どれだけの曲を作っていたのか、俺には判るすべもないが、こののほほんは、のほほんとしている時に頭の中に音符を飛ばしているらしく、その作業は、俺や周囲の奴が予想できない程、手早かったりする。 そんな風にして貯めた曲がたくさんあるから、それを何処かに送ったら仕事になるかも、と思ったのだろう。 俺は、だったらレコード会社に送ったらどうだ、と冗談半分に返して電話を切った。実際それは間違った方法ではないし、それにその時は、当時のメンバーと終演後呑みに行くのを楽しみにしていた様なことがあった。答えがおざなりになってしまったのは仕方あるまい。 ところが、だ。 その送った曲がレコード会社のプロデューサーの目に止まってしまったのだ。 いや、最初に送ったのは、そのプロデューサーのところではない。その下の下の下、くらいの社員の所だった。 何故そんなところに送ったのか、俺にはさっぱり判らない。ただ、その社員は、その上司と違って、滅多に自分のところにテープなど送られてくることがなかったから、即刻近くにあったウォークマンで聞いてみたらしい。そして一撃でやられたのだ、と。 その社員はまず直接の上司に、そしてその上司がその上に、ととんとん拍子にテープを回した結果、かなり上のブロデューサーが動いたのだという。 作曲家のモリエ様の誕生である。 俺は、と言えば、TVのCMで、何処かで聞いたメロディだな、と思ってはいたが、それが奴のものだとは思いもしなかった。しかしそのCMは一日に何度となく流れてくる。目につくようになって、ある日画面の下に目をやったら、music by MORIEの文字が並んでいるではないか。 俺がその時、それが別人だと思ってもおかしくはないだろう。 その文字を見つけた翌日、タイミングよく電話が来た。そこで俺は何気なく、そのCMのことを話題に出した。奴は言った。「ああそれ俺」 作曲家センセイは、あっさりと、そう言ったのだ。 それから時々、作曲家センセイのモリエは、東京に来ることがあると、俺を呼びだした。 怖いのは、俺が何処が何をしていようが、奴は何故かその場所を当ててしまっていることだ。…あまりにそれが頻繁なので、さすがに俺は携帯を持つことにした。とにかく奴が電話で俺を呼び出す時は、実に無礼千万な言い方になるので、結局俺が怒られることになる。だったら直接俺にかけろ、と俺は奴に番号を教えた。 奴が俺を呼び出すのは、たいていギターのフレーズだった。基本がピアノとサックスの奴なので、ギターアレンジのための「音」が自分の中に足りないのだ、という。 だったらピアノで考えられる範囲の曲を作っていればいいのじゃないか、と俺なんかは思う。 どうも奴に言わせると、「音がそこにギターがあるよと言ってるからそれは俺がどうこうできる問題じゃない」だそうだ。 そして俺は、仕方ないな、とそのたび奴につきあってきた。 時には喫茶店でコトバで説明して済むこともあったし、時には奴のレコード会社が手配してくれたスタジオで、二日間眠らずぶっ通し、他の約束をキャンセルしてしまうこともあったりした。 そこまでして付き合うのか、と周りの奴に言われたりもした。 だが理由は…今になって思えば、考えられなくも、ない。 考えられなくも、ないのだ。 *「よしと」 そう言って、モリエはぴょん、とテトラポッドから飛び降りた。そして何ごともなかった様に、俺の手から傘を取り上げ、すたすたと浜を歩き出す。「おい」 俺はそんな奴の背中に声を張り上げる。「おい!」「俺は『おい』じゃない」 くるりと振り向いた奴は、短くそう言った。「…モリエ、俺に用があるんじゃないのか?」「ある」 さも当然の様に奴は言った。「夏になったら、新しい計画がある」「計画?」 いきなりビジネスの話か、と俺は雨の音でなかなか切り替えの効かない頭を無理矢理引き戻す。「社長が、俺に前に出ろ出ろってうるさい。だから俺一人じゃやだ、って言ったら、俺の好きなの、連れてこいって言った。だから明日、ミナト俺と一緒に来て」「は」 それは。「ちょ、ちょっと待て」「夏に始めてね、ミナト以外のメンバーが入るかどうかはまだ決まってない。でも結構予定は決まってるみたい。でも俺次第だよね。俺がやだって言えば、それ全部パーだし」「…ま、まだ俺はやるとも何とも」 ようやく回りだした頭は、奴のコトバをこう解釈していた。 つまり、長い間作曲家としてずっと裏方に回っていたモリエを、そのルックスの良さやら何やらで、表舞台に引っぱり出そうという計画が進んでいる。だけどモリエは自分一人では嫌だから、その計画は誰かと組みたい。つまりはユニットの様なものか? そして奴が白羽の矢を立てたのが、俺、と。「何言ってんの、ミナトはやるんだよ」「お前そんな勝手に」「だって、俺の曲は、ミナトのギターでできてるんだもの」 う。 心臓に、直撃をくらった気分だった。「今まで俺の曲を散々犯しておいて何いってんの」「ひ、人聞きの悪い」「責任とってよね」 奴はそう言って、ぽん、とさしていた傘を浜に放り投げた。くるくるくる、と傘は濡れて硬くなった砂浜の上を転がる。 そしてモリエは俺の前につかつかと歩み寄ると、その手の傘も、取り上げた。「他に誰が居るっていうの」 くす、と奴は笑う。傘がまた、転がる。目をとられた隙に、奴は俺の首に手を伸ばした。「俺はミナトよりミナトのギターのいいとこ知ってるよ。だから観念して、俺のものになってよ」 薄く笑う奴はそう言って、背伸びをして、力を込めた。 判ってたさ。何で俺が延々こいつに付き合っていたのか。 前のヴォーカルを好きだった。それは確かだった。ただ気付くまで時間がかかった。一応俺は自分が普通の感覚持ってると思っていたから。 だけどあの時、気付いてしまった。自分にもそういう気持ちがあることを。 だとしたら、モリエをどうしても放っておけないこの気持ちも。 ぐっしょりと濡れた髪に、指を差し込むと、だらだらと、水がそのすきまから流れた。 時々、上の道路に傘をさした人や、車の鮮やかな赤が通った気がしたが、気にはしない。 雨が、強くなってきていた。 * 扉を開けると、奴の母親が、驚いた顔で俺達を見た。「あらあら何なのあなた達、全身ずぶ濡れじゃないの!? 傘は? せっかく持っていってもらったのに」 ばたばたとバスタオルを取りに走る彼女に、すいません、と俺は内心つぶやいた。 時計は午後四時を既に回っていた。
2005.08.03
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「おいモリエ」 俺は前に居る奴に声をかけた。 テトラポッドの上。雨が降っているというのに、傘もささずに、奴はぼんやりと海を眺めている。 服はもうびしょぬれで、いつもだったらくるくると元気に跳ね回っている薄い茶色の髪は、まっすぐになって水が滴っている。 あれはブリーチでもパーマでもない。天然だった。昔はよく同級生にからかわれて、そのたび一つ上の俺がそいつらを追い払っていたものだ。 そんな髪も身体も濡れたままで、延々、海を眺めている。 こんな日の海なんて見たって、何が楽しいんだ? ただ灰色の空が映ってるだけじゃないか。 それでも奴は、ずっと海を見続けている。 *「居ないんですか?」 ええ、と奴によく似た母親は頬に手を当てて首を傾げた。つい三十分前のことだ。「今朝、浜に出てくるって言ったきりなのよ」「浜へ」 ちら、と斜め上にある時計を見る。ドライフラワーの入った壷の上にある時計は、午後二時を少し過ぎていた。「お昼も食べずに、お腹減っていないかって心配なのよ」「あの…雨が降り出していますが」「あら」 彼女は手を頬から口へと移動させた。細い銀の指輪がきらりと光る。「あらあらあらあらあらあら大変。ねえミナト君、あの子のところへ傘、持っていってくれないかしら」「俺…が?」「だってわたしじゃあ、あの子の居場所は判らないわ」 そう言いながら彼女は傘立てから、黒い大きな傘を取り出して、俺に突きつけた。このひとはいつもそうなのだ。「浜ですね」「そう浜。どうしていつもあなたは判ってしまうのかしらねえ?」 その疑問には答えずに、俺は荷物を置いて再び外に出た。 久しぶりの帰省だった。 いや、正確に言えば帰省ではない。実家に行く予定は無いのだから。 それに、「帰る」という気持ちがあった訳ではない。俺は、呼び出されたのだ。奴から。 もっとも、いつもだったらそれに応じたのかどうかも判らない。モリエの住む町は、俺の実家のすぐ隣だ。小学校区は違ったが、中学校区は同じだった。何かの拍子で、同じ町だった連中に見つかるかもしれない。ちょっとばかり、それは避けたい。 なのにそれに応じてしまったのは、今現在、俺自身がなかなかこの春の落ち込みから立ち上がれないせいだと思う。 この春、それまで俺が属していたバンド「SS」が解散した。俺はギタリストだった。そしてメインのコンポーザーだった。活動が本格的になったのは、一年かそこらだったのだが、その割にはとんとん拍子にライヴハウスでも人気も出て、何となし、メジャーの方からも声が掛かり出している頃だった。 俺はそのバンドに非常に満足していたし、このままメジャーに行って、がんがんにやりまくりたい、と思っていた。 無論そう簡単に物事が運ぶ訳ではないことは知っている。だが二十歳そこそこの俺が一番年長であるような、若いメンバーのバンドである。何か壁にぶつかって失敗したとしても、まだやり直せる年頃だ。やってできることはやっておきたい、と思っていた。 なのに、だ。そのバンドのヴォーカリストが、引き抜きにあったのだ。 俺はかなりのショックだった。俺が見つけたヴォーカリストだった。いや、向こうからしてみれば逆かもしれない。とにかく、俺としては、今までちょろちょろとやってきたバンドの歌うたいなぞよりは、ずっと将来も期待できる、何より、演奏して熱くなれる奴だ、と思っていたのだ。 ただその引き抜いた相手が悪かった。うちのヴォーカリストは、ずっとそのバンドのギタリストが好きだったのだ。音だけでなく、人も。 いや、「人」に関しては、「ファン」という立場だったのかもしれない。そのあたりは俺もそいつから詳しくは聞いていないから判らないが、まだバンドを本格的に始める前から、そいつはそのバンドのライヴには通っていたというし、そのギターの音が大好きだったのだという。 ところがそのバンドから、いきなりヴォーカルとベースが脱退した。そこでギタリストが後任として白羽の矢を立てたのが、うちのヴォーカルだったのだ。 どうもそこには、俺達のバンドと、そのバンドの両方に目をつけていたメジャーのレコード会社の思惑が働いていたらしいが、詳しいことは判らない。 結果として、うちのバンドは解散し、ヴォーカルとベースが、そのまま向こうのバンドに吸収される形になった。 まあだが、それはある程度の時間、こういった世界に足を突っ込んでいれば、経験することではある。多少落ち込んでも、次を探そう、という気も起きるだろう。 ただ今回は、ちょっと訳が違った。 電話で「脱けたい」とそいつが言ってきた。出向いたら、何やら具合悪いらしく、そいつは寝込んでいた。問いただしたら、どうやら、そのギタリストと何かあったらしい。 そして、その「何か」にとても怒っているくせに、それでもそのギタリストが好きなのだ、とそいつは言った。 その「何か」を理解した時に、俺の中の何かが切れた。 俺はそいつの声が好きだ、と思っていた。その声と、歌と、コトバが好きだ、と思っていた。だから、そんなものを生み出す、ヴォーカリストとしてのそいつが好きなのだ、と。だからずっとやってきたのだ、と。それだけだと思っていた。 ところが、その「何か」を理解した時、どうやら自分のその思いこみは違っていたことに気付いたのだ。 その「何か」のせいで、具合が悪くて寝込んでいる奴を見ながら、話を聞きながら、自分もそれを、何処かで望んでいると。 気付いた時、俺は思わず目眩がした。自分がそんなこと考えていたなんて。 結局「SS」という名前がついていたうちのバンドは解散した。俺はそのギタリストを許せたものではないのだが、かと言って、自分がそういう立場だったらどうだろう、と思うと、そうそう悪態一つつける奴ではないことに思い当たるのだ。 うちのヴォーカルとベースを吸収したバンドは、メジャーデビューへの階段を上りつつあるらしい。まだ高校生であるメンバーが卒業するまでは、それを見合わせている状態だと聞いている。 その話をしてくれた、彼らの事務所の社長は、俺に対して、スタジオ・ミュージシャンとしてとりあえず働く気があるなら、仕事を世話する、という話をしていった。俺のテクニックには見るものがあるから、ということで。コンポーザーとしての俺には一言も触れずに。 音楽を仕事にしたくて、始めたバンドだ。だからそれはそれで悪い話ではない。少なくとも、そこである程度仕事ができれば、故郷に帰らなくて済む理由もできる。 悪くはないのだ。ただまだ、上手く消化できていないだけなのだ。 ギタリストとして認められるのは嬉しいけれど、前のバンドで、殆どの作曲とアレンジをやってきた俺としては、何処か自分のしてきたことがひどく空回りしていた様にも感じられるのだ。結構苦労はしてきたのだ。ヴォーカルの奴が歌いやすいように、とか、ここではベースが引き立つように、とか。 それなりの努力。それが何も取り上げられることなく、「お前の才能はそこに無いんだ」と言われているようで。 その二つが、ずっと頭の中でぐるぐるとしていた。 とどめが、その新しいメンバーになったバンドのライヴを見てしまったことだ。 さすがにまだ、合わせても上手く演奏としてまとまっている訳じゃあない。そりゃそうだ。一ヶ月二ヶ月でまとまるとは思えない。 だがそれでも、何か違うのだ。 曲はそのバンド前のヴォーカルが居た時のものが大半だったけど、一つ、うちのバンドの曲だったものが演奏されていた。その曲は俺の書いたものではなく、ヴォーカルの奴が書いたものだった。 ところがその曲のアレンジはまるで変わっていた。楽器が特にできる訳ではないそいつは、メロディラインしか作らなかった。 俺はそのメロディを聞いて、何やらさわやかな曲だな、と解釈して、その様なアレンジをした。なのにその時、ステージで演奏されていたのは、予想しなかった程の轟音で、ひどく凶暴なものに変わっていた。 しかもそれが、不思議な程に、似合っていた。同時に、その歌い方も。俺の知る限り、こんな歌い方をそいつはしたことは無かった。 攻撃的だ、とは思ったことがある。そいつは決して大人しくはない。だけど前のバンドの時には、そこまで切れた歌い方をしたことはなかった。 曲が呼んでいるんだろうか、とその時俺は思った。曲と、その曲を奏でるギターが。 だとしたら、結局俺のしてきたことは、奴の素質を開かせることはできなかったということなのか。 それまで考えてきたことを、丸々目の前に突きつけられた気分だった。 そんなこんなで、次のバンドを組む気力もなく、ただ毎日バイトを入れ、ギターを時々かき鳴らしては、日々を送っていた。 スタジオミュージシャンのお誘いの方も、保留にしたままだった。急がなくてはならない理由はない。ただそのまま放っておけば、俺が業界から忘れ去られる、それだけだ。 判ってはいる。それでも今は、どうしても動く気がしないのだ。 そんな時に、電話が鳴ったのだ。
2005.08.02
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だが、いくら自転車とは言え、走り出そうとしたものが急に止まれる訳ではない。バランスを崩した奴と、それを止めようとした俺は、一緒に側溝に突っ込んだ。「痛ぇ~!」「たたたたた」 突っ込んだのは自転車の輪だが、その際に二人とも思いっきり転んだのは言うまでもない。アスファルトというのは、決して転んだ時に優しい地面ではないのだ。ざらついた表面に勢いよく滑り込んだ俺と、衣替えして薄着の奴は、擦り傷の嵐だった。「血、出てるじゃないですか!」「あ?ああ、そう言えば」 俺は左腕の裏をぺろりとなめる。鉄の味。あられもない記憶が、一瞬脳裏によぎる。「お前は大丈夫か?」「俺は…ああ、大丈夫。切れていないから…」 座り込んだまま、奴はズボンのポケットに入ったハンカチを取り出した。さすがに時期が時期だけにややよれている。それでも俺は、サンキュ、と受け取ると、片手で巻き付け、結んだ。自転車はひっくり返ったままだ。「…上手いんだな」 敬語が消えている。ああ、と俺はうなづく。「よくあることだし、そんな時にいちいち結んでくれる奴もいないからな」「ふーん…」「こないだは、済まなかったな」 俺はつとめてさりげなく言ったつもりだった。だが奴の顔はリトマス試験紙よろしく、実に素直に赤くなった。「…いーんだよ、別に」「そうか?」「そうかそうじゃないかって、もう済んだことだろ!俺があれこれ言ってどうなるって訳じゃないじゃないかっ!」 ま、それはそうだ。「ところであんた今日は何の用なの」「ああ」 きゅ、と口にくわえてハンカチに結び目を作る。「用がなければあんたはわざわざ俺の所なんか来ないでしょ」「確かにそうだな」 ふぅ、とため息をつく。一体何処から切り出したらいいものか。危機対処法。紺野の声が背中から聞こえてきそうだ。何とろとろしてんねん! そうだな紺野。そんな場合じゃないよな。そんなことしてたら、お前が来ちまう。「S・S解散したんだって?」「…ああそう誰かから聞いたんだ。誰?店長?」「いや、ミナト君から」「…奴から」 カナイはその名を聞いた途端、目をそらした。「…それで?」 俺はうなづいた。「RINGERに入って欲しいんだ」 驚くほずすっ、とその言葉は俺の口から出てきた。「頼む。一緒にメジャーへ行こう」「メジャーへ」 うなづきながら、俺は言葉を進めた。「俺はお前の思うように、ひどい奴だから、お前が見込みないとしたらさっさと切り捨てる。でも、お前をもっと、いい声で歌わせてやれる。奴よりも、誰よりも」「…すごい自信だな…」 奴の視線がこちらへ戻る。そうだ逸らすな、逸らさせるな。「俺は全然、社会的にはロクでもねえ奴だが、音楽にだけは、自信はある。根拠なんかないし、勘違いかもしれないけれど、何か知らないけれど、ある。なくちゃ七年も、こんな髪してこんな生活してないさ」「…だろーね」 呆れたような口調で、奴はつぶやいた。「めぐみさんは、いいの?」「良いも悪いも。俺が、捨てられたの」 ふーん、とカナイは気の無い声でうなづいた。「とても優しいめぐみ君は、俺に自分を捨てさせる前に、自分から逃げてくれたのよ」 そう。とても優しかった。優しすぎて、気づけなかった。一度も俺の前では泣かなかった、彼の。 過ぎたことは仕方がない。だけど俺は忘れないだろう。忘れてはいけないのだ。「…だとしたら」 ふと俺は驚いた。カナイの顔には、最初に会った時のようよな不敵な笑みが浮かんでいた。「あの人は馬鹿だ。そしてやっぱりあんたひどい奴だ」「思った通りだろ?」 俺は苦笑する。「ああ全く。めぐみさんは本当に、あんたみたいなひどい人に惚れ込んでいたんだね」「可哀想に」 「そう、可哀想だ。だから俺は絶対あんたになんか惚れない」 自信に満ちた声が、断言する。俺はあの脳天直下の衝撃がやってくるのを感じた。「だから遠慮するなよ。俺も容赦しないから!」 ああ居た居た居た、とけたたましい紺野の声が聞こえてくる。できればもう少しゆっくり来て欲しかった、と俺は思う。 誰だって第三者にあまり見られたくない光景というものがあるのだから。
2005.08.01
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だがそれだけでは彼のところにはつながらなかった。 もちろん電話自体はつながるのだ。もともと留守がちな家らしいし、出ても、妙に色気のある母親の声が帰ってくるばかりだ。 今時の男子高校生にしては、携帯電話も持ち歩かない、ポケベルも持っていないらしい。「家か学校まで行って見ればええやん!ほんなら」 俺は首を横に振った。それはまずい、と思う。昔めぐみの手を引っ張った時のことを思い出す。彼を守ろうとした外野。いくらやや周囲が変わったとは言っても、それでも。「家も学校も駄目だ」「だけど他に本人が居るとこ、お前知っとんのか?」 考える。彼が行きそうなところを。スタジオ?バイト…「駅前の、ファーストフード店」「何?」「そこで、夕方バイトしてるって聞いた…」「お!ええやん!そうと決まったら行き!」 紺野は俺の背を大きく押した。 「駅前」という地域には、ファーストフード店が七軒あった。「何で七軒もあるんだ!」「店名聞かんお前があかんねん!」「だいたい何でお前ここに居るんだ!」「おもろいからに決まってるやないか!このどアホ!」 何を考えているのか、紺野はここまでついてきた。 ファーストフードとは聞いたが、何のファーストフードだったのか、俺は聞いていなかったことを思い出した。 眼鏡を持って来なかったことを心底後悔した。ぼんやりした視界では、カウンターの中、もしくは奥に居る(だろう)奴の姿を見つけられない。無論紺野は協力なんぞしないだろう。俺だってされたくもない。 仕方がない、と駅に一番近いマクドから飛び込んだ。時計は六時を指していた。そろそろぎりぎりだ。カウンターを見渡す。それらしい奴それらしい奴。ぼけた視界では、それすらも判別できない。仕方ない、と俺は客の列に並んだ。「いらっしゃいませ!ご注文は何に致しますか?」「あ、ご注文はいいんです。えー…そちらの店員の、カナイ君って今日来てますか?」 背に腹は代えられない。いなければいないと言うし、居ればそれでいい。真っ直ぐぶつかるしかないだろう。「カナイ?…さあ…そういう人はうちには…」 ありがとうございました!と俺は一言投げると、出口へ向かう。駄目やったんか、と紺野は戸口でつぶやく。 ファーストキッチン、モス、ロッテリア、ウェンディーズ、森永ラブ… さすがに同じことを繰り返していると、自分が一体何をしているのか、と一瞬考えてしまう。もしかしたら、店の奴が彼とつるんでいて、俺に嘘をついたとも… ぶるん、と俺は頭を振る。考えるのは後だ。全部終わってからにすればいい。「これで最後だ」「ちょぉ、待てぇ!」 その声にふっと後ろを向くと、紺野は肩で息をしていた。「何だよ、勝手について来たくせに」「お前、それでも、ペース早いで!俺もよぉこっちの子には早い言われるけど、お前、それ以上やないか!」「知らん」 ぷいと俺は背中を向けた。思いがけない勝利である。 目の前にはミスタードーナツがあった。飲茶の赤い垂れ幕、その中で肉まんをくわえている女性が、中のライトに透けて強く目に飛び込む。 他のファーストフードよりはおっとりとした店員が、いらっしゃいませと愛想を飛ばす。「ご注文は何に致しますか?」「あ、注文は…」 そう言った時だった。中の声が耳に入ってきた。「それではお先に失礼しまーす!」 周囲のざわめきを、その声は突き抜けてきた。背筋が震えた。俺は慌てて外へ飛び出した。店員と紺野が、別々の方向で、何だ何だと目を丸くしている。 裏口だ。 よくそういう時に頭が働くものだ、と言われるが、俺は非常時には強いらしい。頭ではない。身体が勝手に動くのだ。だいたいこういう場所の入り口出口の構造は知っている。ダテにバイト歴が長い訳じゃないのだ。 裏手へ回ったら、奴が自転車に乗りかけたところだった。俺はその前に飛び出した。「ちょっと待て!カナイ!」「ケンショーさん?!」 うつむき加減に走り出そうとしていたカナイは、俺の声で慌ててブレーキをかけた。
2005.07.30
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「…何やお前、しけた面やなぁ。梅雨にはまだ早いで?」 雨の降る夜、「最近絶好調」のEWALKに俺はまた付き合っていた。「何やそれ」 紺野は俺の持ってきていた袋を見て訊ねた。ああこれ、と俺は厚手不透明ビニールの袋を持ち上げた。中身を出して見せると奴は不思議そうな顔をした。「何やそれ…制服やないか」「制服だよ」「制服だよ、やないで!何でお前がそんなもん持ってんねん?」「忘れ物」 嘘ではない。忘れ物だ。もう十日は経つ。全てのことが、保留になっていた。バンドのことも、バンド以外の人間のことも。「ふーん…忘れ物か。ほな、お前その持ち主が、ここの近くの名門私立ってことも知ってんやろな」「名門私立?」「お前だから目ぇ悪い言うんや!ちゃんと普段も眼鏡掛けぇ!ここの近くに○○○ってあるやろ!」 奴はさすがの俺も聞き覚えがあるくらいの小・中・高一貫教育で有名な学校だった。確か偏差値もずいぶんといいはずだ。「そこの制服やん。見たこと無いなんて言わさへんで!」 そう言えばそうかもしれない。ありがちな制服として認識していたが。「またお前、誰かこましたんか?」「アホなことぬかすな!」「コトバ伝染っとるんやないで!お前が言うと気色悪いわ」 まあそれはともかくとして、「こました」のも事実だから仕方がない。俺は黙った。言う言葉が見つからなかった。「…そう言や、S・S、何や、いきなり解散やて?」「え?」 突然変わった話題に、俺は顔を上げる。「風の噂や。全部が全部本気に取るんやないで?ヴォーカルとベース、ギターとドラムで分裂しおったんや」「何でまた…」「知るか!そういうのは、噂で聞くもんやないで」 それはもっともである。 直接会って、話をつけたいと思った。ところが俺は、全然奴のことを知らないことに気がついたのだ。 ライヴハウスの、S・Sの連絡先は、向こうのギタリストのミナトの所だった。だがそれは分裂した向こう側の奴である。さすがに連絡をつけにくい。ライヴハウスの事務所の電話の前で、俺は十五分程うなっていた。 何やってんねん!と紺野のどつき入りの罵声が無かったら、きっとそのまま止めてしまったに違いない。「…あ、ミナト君?加納です。…RINGERのケンショーだけど…」 何やら自分で言っていて、ひどく間抜けな台詞に感じる。『あ、お久しぶりです』「実は、そっちのカナイ君の連絡先を…」『…ケンショーさん…今それを俺に聞くんですか?』 向こう側で、重い沈黙が数秒流れた。『聞いてませんか?うち、分裂…解散したんだって』「聞いたよ。だけど、彼につながる線が君しかないから」 再び重い沈黙。受話器を握る手に、ぞわりと違和感が走る。汗が手のひらににじむのが判った。『ねえケンショーさん?』 ミナトの口調が変わった。妙に明るい。笑い声まで含んでいそうな。『はっきり言います。俺達は、奴に切られたんですよ?何でだと思います?あんたのせいですよ?』 やっぱりそうか、と俺は受話器を握りしめる。予想していた答だったが、こうストレートに、それも同じギタリストに言われると、こたえる。 だが。『…俺、こないだ奴が、寝込んでるから練習休みたいって言うから訪ねて行ったんですよ。滅多にないんですよ?あいつがそんなこと言うなんて』 そうだろうな、と俺は思う。真面目な奴だろうから。『で、様子変だったから問いただしたら…何ですか…あんた何考えてるんですか!それで、奴が欲しいんですか?!』「違う…」『何処が違うんですか!?』 返す言葉もない。あいにく、どちらも本当なのだ。奴の声が欲しい。奴自身も欲しい。 それに関しては、一方的に、俺が悪いのだ。『なのに何ですか…』 ミナトの声から力が抜けていく。『あいつ、そのことに怒っているくせに、それでも』「それでも?」『…言われましたよ?それでも、あのギターで歌えたら嬉しいって』 頭の血がいっぺんに足先まで落ちたかと思った。ブラックアウトって、ああこんな感じだったっけ、と妙に冷静に頭が考えている。『あんたの、ですよ?判ってます?帰ってきて、身体はガタガタだし、頭も混乱しきってて、だけど』「だけど?」『たまたま入れっぱなしだった、あんた達のCD、点けてしまったんですよ。あんたの音、あんたのギターを聞いてしまったんですよ。奴が何って言ったと思います?やっぱり自分はこの音が好きなんだって』「…」 たとえ、相手がどんなひどい奴であろうとも。ああ全く。俺達は何処か似ている。『あの馬鹿が何でバンド始めたのか知ってます?』 あいにく俺は知っているのだ。何もそこにつけ込んだ訳ではないが、知っていただけにやや胸が痛む。 黙っていたら、やがて彼は声のトーンを落とした。『…ああ、すみません。…判ってるんですよ、俺の力不足だって。俺がもっといい腕してたら、奴は何されても…』「…」『繰り言ですね。ああ全く嫌だ嫌だ。でも、正直言って、悔しいし…一回しか言いませんからね』 そして続けて、八桁の数字がさらさらと向こう側から聞こえてきた。 俺は慌ててサインペンを取ると、近くに居た紺野の白い腕に書き殴った。 受話器を置いたら、何すんねん!とすぐさまどつかれたのは言うまでもない。
2005.07.29
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「昨日、ミナトが集合かけるから、何だと思ったら、PHONOの比企さんが来たんです」 カナイはそう切り出した。素早い行動だ、と俺は思う。「で?」「…知ってるんでしょ?」「俺は、俺の聞いたことは知ってるけれど、お前の聞いたことは知らないぞ。お前は何を聞いたんだ?」 ポケットからケントMを出すと、俺は火を点けた。「吸うか?」 彼は首を横に振った。「俺、真面目なんですよ」 そう言えばそういうことを言っていたな、と思い出した。 「同じ話をケンショーさんにもした、と聞きました。比企さん、ウチとRINGERをくっつけてメジャーデビューさせたがってるんでしょ?」「まあそんなところだ」「それで、賛成したんですか?」「賛成はしてないが…」「じゃあ反対なんですか?」 俺は煙草を灰皿に押し付け、目を細めた。正面に座る奴の顔がやや鮮明になる。「反対でもない」「どっちなんですか!」 ばん、とテーブルに手をついて、奴はぐい、と身を乗り出してくる。真っ直ぐ、形のいい目が俺を見据えた。「…どっちだったら、お前はいいんだ?」「どっちって…」「結果的には、そうなった。俺の意見を言ってやろうか?俺は、メジャーへ行きたいんだ」「それは、バンド仲間を切っても、ということですか?」「…そうだ」「どうしてそんなこと言えるんですか?」 どうして? 俺は初めてその時彼に怒りを覚えた。 無論後で冷静になって考えれば、そういうのも仕方がない。もし俺が十八歳で、初めて組んだバンドが、調子良かったら。 そうだったら、例えバンドの誰かが多少腕が劣ったとしても、華の足りない奴であったにしろ、チャンスが巡ってきたからと言って切るなんてことは考えないだろう。この目の前に居る奴のように、そういうことを考える年長の奴に、くってかかったろう。当然だ。 そして冷静な俺だったらきっと、子供の言うことだ、と上手く言い諭す方法も見つけたかもしれない。 だがあいにく、俺はこの時、決して上機嫌ではなかった。美咲や中山の言ったことが、バイト中もぐるぐる頭の中を回っていた。 判っていたはずだ。自分が結局音楽にしか興味の持てないひどい奴ということは。でもそれは、結局「知ってる」だけで、「判って」いることではなかったのだ。「お前は何も判っちゃいないんだよ!」 思わず俺は怒鳴っていた。目の前の奴が息を呑む気配がする。疲れと苛立ちと、ついでに睡魔まで襲ってきていた。こうなってくると、自分が言っている言葉に責任が持てなくなる。 だが高校生はまだ元気だった。「何が判ってないんですか!おかげでうちは、今分裂の危機ですよ!」「そんなことで分裂するようだったら、すればいいさ」「ケンショーさん!」「食うことに困らない奴が何言えるって言うんだ?!」 それを言うのは反則だ、と言ってから俺は思った。少なくとも、俺は、言うべきではなかったのだ。「…!」 奴は息を呑んだ。そして次の瞬間、我慢の怒りの糸が切れたのか、差し向かっていたテーブルを越えて殴り掛かってきた。「何すんだが!」「あんたがそんな人だとは思わなかったよ!」 とっさに俺はテーブルを横に倒した。乗っていた煙草と灰皿がひっくり返る。 開いた窓から、みかんの花の香りが漂ってくる。頭に眠気が回る。「あいにく俺は俺だ。他の誰でもない。お前が思おうと思わなくとも」「…!」 そんなことどうでもいいのだ、と言いたげな顔で、彼は再び俺に殴り掛かってくる。身体ごとぶつける勢い。だが、所詮は経験値が足りない。 向かってくる奴の右手を左手で掴む。あいにく俺は様々なバイトのせいか、結構力は強いのだ。少なくとも、カナイよりは充分に強い。腕の太さ一つ比べても判る。ブレザーを取ってシャツだけになった彼の身体は、俺に比べてずいぶんとすんなりしている。 ぎ、と歯ぎしりの音が聞こえそうなくらいにカナイは力を込めているが、それでも掴んでいる俺から自分を開放することができない。 ひどく素直に、顔には悔しいという表情が浮かんでいる。ひどく素直だ。素直すぎて、腹立たしくなりそうだ。 苛立ちが、疲れが、睡魔が、香りが。 歯を食いしばって俺を見ている奴を、ふと引きずり下ろしてやりたい衝動にかられた。 引きずり下ろした時、どんな声が、聞けるだろう? 俺は力を込め、掴んでいた手の向きを変えた。 時計の針は、日付が変わったことを告げていた。眠気はとうに峠を越し、俺は妙に頭の中が澄み渡っているのが不思議だった。 彼はゆっくりと身体を起こすと、それまでに聞いたこともないような低い声で言った。…ああここまでキーか下がるのか…「あんた最低だ…」 俺は掴もうとした手が止まるのを感じた。「最低だよっ!」 扉を転がるようにして出ながらも、カナイは悪口雑言を投げていく。 それでもカナイの声は充分上に魅力的だった。 俺は半分開いたままになった扉をぼんやりと眺めながら、煙草に手を出した。灰皿は転がったままだった。床の上には、灰も染みも一緒くたになって散らばっていた。 …俺は馬鹿か。 ふとその惨状から離れた所に目をやると、ダークグリーンの上着だけが、忘れ去られたままになっていた。
2005.07.28
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「結局また俺達だけだよな」とバスを待ちながら小津は言った。奴のバイト先は、集まることの多い所からはバスで二十分くらいかかるところらしい。 俺は俺で、夕方のバイトのために、別の方向へ行かなくてはならなかったのだが、奇妙な勢いで、二人とも話したくなっていたらしい。確認のようなものだ。自分のやっていることは正しいのか、そうでないのか。「お前はいいんか?オズ」「俺?」 ファンの女の子からはジャニーズ顔と言われる、やや子供っぽいが整った顔が、不敵に笑う。「俺は大丈夫よ。逆に、ドラムが叩けなくなることを考える方が怖いね。特にドラムってのは、そういうもんだからさ」 そうだな、と俺はうなづいた。極端な話、ギターやベースというものは、一人で、部屋の中で楽しむことも不可能ではない。だけどドラムは別だ。楽器を練習する、そのことだけでもこの狭い住宅事情では、充分にリスクがある楽器なのだ。「俺はさ、ケンショー、ドラムが好きなんであって、それで食えれば、本当に恩の字の人なのよ?何だっていい。何とかなると思わない?特にほら、日本ってさ、いいドラマー人口少ないじゃん。何かしら食えるとは思うのよ。そういうのは俺、全然怖くないから」「そうだよな。それは俺も同じだよ」「だろ?」 ギターで食えるのなら…もちろんバンドで食えれば最高なのだが、極端な話、何でもいいのだ。スタジオ・ミュージシャンだろうが、カラオケの下請けギタリストだろうが、何でも。普通の、毎日を拘束される仕事について、その時間が取れなくなる方が俺はよっぽど怖い。「ケンショーはなんで、ギターで食ってきたいと思ったの?」「俺?他に好きなものがなかったから」 あはははは、と小津は笑った。「だったら俺と同じだ」 そう、他にしたいことなど本当になかった。頭が悪い訳じゃあないらしいが、勉強に関心はなかったし、近眼も相まって、興味のないことに目を向けないくせが昔からあった。 学校の勉強というのは、できなければできないで、悪いことはどんどん雪だるま式に膨れ上がるのだ。知識はない訳じゃあない。興味のあることには妙に詳しかった。ただ勉強にその興味が向けられなかっただけだ。音楽だってそうだ。学校の授業で習う音楽はつまらなかった。 このままずっと、つまらないままで大人になるのか、と思うと目の前が真っ暗になりそうだった。妹が妙に世間一般で言う優秀なだけに、俺は。 妹は嫌いじゃない。彼女も俺を嫌いではないだろう。だが、嫌いでないだけに、当時俺達は息の詰まる思いをしたものだ。 そんな時に、ギターに出会ったのだ。正確に言えば、歪んだ音のギターの入った音楽に。 その音は、それまでぼけた視界の中で何処にも行けずにいた俺の横っ面をひっぱたいた。 こんなのもありか、と思った。こんなことをしてもいいのか、と思った。そして、こんなことをするにはどうすればいいのか、と思った。生まれて初めて思ったのだ。 だから、反対されまくっている家を出るのにもためらいはなかった。 それが正しいか正しくないかなんて、俺には判らなかった。今でも判らない。きっとこれからも判らないと思う。 バス停のランプが点滅した。ああもう来るな、と小津はつぶやいた。 * バイトが終わって帰ると、既に十時を回っていた。何処かからみかんの花の香りが漂ってくる。もうそういう季節なんだな、と俺は思った。 郷里では、季節季節で必ず漂ってくる香りというものがあった。春には梅、初夏にはみかん、もう少し経つと、何だか判らないが、椰子の木の仲間のような大きな木についた細かい花。そして秋にはキンモクセイが。 風があまりない、初夏の夜は、疲れた身体をすぐさま眠りに誘い込んでしまう。だけど部屋にたどりつくまではそうはいかない。辺りに誰も居る訳でない。俺は道で眠るのはごめんだった。 アパートの階段を登り切ったら、取り替えの必要な蛍光灯が落ちつきの無い光をまき散らしていた。大家がさぼってるな、と思いながら、自分の部屋に近付いていく。と。「…」 高校生が、座り込んでいた。 ダークグリーンのブレザー。グレイのズボンはそのまま地べたに座り込んだら汚れるんじゃないか?だけどカナイはそこに居た。俺は居るはずのないものを見た時の正しい反応を返した。「…お前そこで何してんの?」「あ、ケンショーさん、お帰り」「お帰りじゃねえよ…こんな時間に何してんだ」「待ってたんだ、あんたを」 俺を?と自分を指すと、彼はうん、とうなづいた。俺よりは小さいが、めぐみのような外見とは縁のなさそうな姿なのに、妙に子供めいて、可愛い。 まあ入れ、と俺は鍵を開けた。
2005.07.27
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「今僕が見つけて援助できる、いい事務所に紹介できるバンドは、一つなんだ。とりあえず僕にはその程度の権限しかない。で、君達を注意深く見ていた」「ところが、彼らも見てしまった」「そう。どちらも捨てがたい。はっきり言えば、君なら、彼の持っている華に匹敵できると考えてる。僕は僕で、君達を前に押し出す努力をしようという気になれる」「…」 ふう、と俺はため息をついた。混乱、とまでは言わないが、考えなくてはならない重要な情報、という奴が、一気に頭の中に飛び込んできたので、まだどれが一番大切で、どれがそうでないのか、その整頓ができていないという状態なのだ。「しばらく考えさせて下さい」「…そうだね。その方がいいと思う。でも僕は、君に関しては、君が、メジャーに行きたいのだと思っていたけど?」 俺は息を呑んだ。そう見えるのか。「そう見えましたか?」「直感だよ」 彼はふっと笑った。目尻にシワができるところは、三十代も半ば過ぎてるな、と俺は思った。「一つ聞いてもいいですか?」 何、と彼は返した。「めぐみは…うちのヴォーカルは、比企さんの目から見て、どうだったんですか?」「そうだな…」 天井を見、髪をかき回し、どう言っていいのか、S・Sのギタリストの形容以上に迷っているように見える。「いい感じだと思ったよ。うん。嘘じゃない。ただ、ひどく不安定な感じを覚えたんだ」「不安定?」「だからその不安定さがいい感じで出ていたから、これまで良かったんだろうけど…失踪か。そういうふうに出るタイプだとしたら、メジャーは辛いだろうと思う」 かもしれない。俺は黙ってうなづいていた。決して綺麗な世界ではないのだ。「じゃあ、彼は…カナイは大丈夫だと?」「…勘だけどね」 そしてそれに関しても、嫌になるくらい俺はうなづけたのだ。 *「辞める?」 中山が言い出したのは、その二日後だった。「もしかして俺の耳がおかしくなったのかも知れないから、もう一度言ってくれないか?」「何度でも言うよ。バンド辞める」 ちょっと待てよ、と小津は座っていた茶店の椅子を立ちかけたが、俺はそれを右手で制した。 中山はひどくさっぱりとした口調で話していた。そこに何かの未練だのの湿った感じがまとわりついていればともかく、そこには何もなかった。乾いた事実だけが、彼の口からは流れ出ていた。「何で?」「正直言えば、怖じ気付いたんだ」「怖じ気付いた」「俺は、メジャーで大丈夫か、ってことだよ」「…そんなこと、やってみなければ判らないだろ?」「ケンショーはそうかも知れないけどさ、俺は違うんだ。憶病なんだ。確かにベースは好きだよ?こうやって、お前らとやってくのも好きだよ?だけど、それだけで毎日を暮らしてくことを考えたら…怖くなったんだ」 俺は眉を寄せた。アイスコーヒーの中に入った氷が、からん、と音を立てた。ゆっくりと、溶け出して、黒い液を次第に薄めていく。「俺は、ベースを弾くのが好きなんだ。好きじゃなかったら、今までやって来なかったよ。だけど、それは、ベースで食っていた訳じゃなかったからじゃないか、って思う…思ったんだ」「ベースは…音楽は、お前にとって、ただの、趣味だった?」「…それは判らない。だって、今だって俺は、お前らと演奏する、そのこと自体はすごく好きなんだから。だけど、もしそれが『仕事』になってしまった時、俺は、これまでみたいにベースを好きでいられるかどうか…自信がない」 ふう、と俺はため息をついた。「仕方ないな」 そう言うしか、俺にはできなかった。
2005.07.26
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「…妹に寝取られたんか!情けのぉて俺は涙が出るわ」 昼間のバイトの後、EWALKのライヴを観るために俺はいつものライヴハウスに来ていた。 ライヴ終了後、まだ目の周りに露骨に縁取りをしたままの紺野は話を聞くなり、そう一息に言った。おまけに本当に泣き真似までして見せる。「人聞きの悪いこと言うな!」「ほな、違うんか?」 ぱっと顔を上げ、即座に紺野は切り返した。 違わないから頭に来るのだ。俺は黙った。そして悪友は、ほんの少しだけ真面目な口調になる。「けどなケンショー、俺も、お前とめぐみが長く続くとは思わへんかったで」「何だって?」 俺は思わず問い返していた。「めぐみだけやない。俺が知ってるお前のヴォーカル全部そうやん。そらな、最初に惚れるのはいっつもお前やけどな、結局いつも向こうがお前に惚れて、惚れ込んで、お前を追ってしまうんや。あかんて」 ひらひらと紺野は手を振る。「より惚れた方が負けるんや、レンアイは」「…」「だからなケンショー、お前にはお前を振り回すくらいの奴でないと、同じことの繰り返しやで?」「振り回す、ねえ…」 ふっと俺の脳裏に、淡い色の、一面の花が浮かんだ。「心当たりあるんか?」「無くはないけど…」「あれ、ケンショー来てたの?ちょうど良かった」 店長の後ろに誰かが居るようだった。俺はその人の姿を見てぱっと立ち上がった。レコード会社の。「んじゃ俺、向こうで着替えてくるわ」 紺野は席を立った。レコード会社の人(確か比企さんとか言った)は店長に中に入るように勧められる。そして部屋に二人だけになった。「この間は残念だったね。メンバーが病気?」「…いえ、あの…」 俺はやや言いよどむ。だが隠したところで仕方がない。「実はヴォーカルが、いなくなったんです」「いなくなった」「行方が知れないんです」「…失踪か」 はあ、と俺はあいづちを打つしかない。困ったなあ、と比企さんは眉を寄せた。スーツのポケットからマルボロを出すと、彼は火を点け、一息吸った。俺もそれにならって自分のケントMを出そうとした。「…だが逆に、面白いことになるかも知れないな」 彼のその声に、俺は煙草を出すのを止めた。「…何ですか?」「いや、実は、こないだ、君達の対バン見たんだけど」 やっぱり居たのか、と俺は思った。「…何処から言った方がいいかな…」 彼はややまぶしそうに目を細めながら、一番いい切り口を捜しているようだった。やがて1センチほどたまった灰を灰皿にぽんぽん、と落とすと、俺の方に向き直った。「単刀直入に聞きたいんだが、君は、今のバンドでメジャーに行きたいのかい?それとも、君が、メジャーに出たいのかい?」 眉を寄せるのは、今度は俺の方だった。やや軽く、言葉が戦闘態勢になってしまう自分を感じる。「…それは、今のバンドでは、駄目だ、と言うことですか?」「そういう訳じゃない」「では、どういう意味ですか?」 彼は再び煙草をくわえると、少し煙を含んだ。「…いや、君達の対バンのバンド、居たろう?確かS・Sと言う…」「はい」「商売がら、ステージを見れば、何かしらピンと来るものがあるんだ。こいつはメジャーでも大きくなれる、こいつはインディの花形止まりだ…あそこのヴォーカルは」「カナイがどうしたんですか?」「知り合いかい?ああ、彼は、華がある」 俺はそれにはうなづいた。「だから、彼と…あのバンドでは、ベースが面白いな、と思ったんだ」「ベース」 そう言えば、あのベーシストもまた結構若かったような気がする。目がカナイにばかり行っていたし、打ち上げにも出なかったので、どういう容姿だ、という記憶は殆どなかった。ただ、音に関しては、ひどく面白いな、と思ってはいた。 「で、逆に、君たちのバンドは、君と、ドラムが突出してる」「…光栄ですね」 言葉に皮肉が混じるのは仕方がない。「つまり、うちのギターとドラム、向こうのヴォーカルとベースを合わせたらどうか、ということですか?」「ふっと浮かんだんだよ。バランスとしては悪くない。もちろん君達のバンド全体、でもいいと思ったのは事実だよ?だがヴォーカルが失踪したというなら」「…まだ決まってません」「そう、まだ、だ。だが、可能性の一つとして考えてくれないか、ということなんだ」 はあ、と俺は力の抜けた返事をする。「向こうのギターは、駄目なんですか?」「駄目と言う訳じゃないんだ。上手いことは上手い。テクニック的にはね。だけど」「華がない」「そういうことだ。君も感じなかったかい?一曲だけ違和感のある曲」 うなづく。確かにそうだ。あの曲だけが、奴の一番いい声わ引き出していたような気がした。「あの曲だけは、カナイが作ったんだと言ってました」「だろうね。僕もそう思った。あの曲だけが色鮮やかなんだ。他の曲も悪くはない。悪くはないが、それだけなんだ」「ヴォーカルを生かすことができない」「そう。それって、ひどくもったいないと思わないか?」 俺はうなづく。思う。ものすごく、思うのだ。嫌になる程、比企さんの言うことは、理解できた。嫌になる程だ。認めたくないが、俺もそう思っていたこと、という奴をこれでもかとばかりに彼は並べ立ててくれる。「彼らにも、その話はするんですか?」「…まあたぶんね。多少は迷っているが」 彼は煙草を灰皿に押し付けた。
2005.07.25
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ふう、と息をつくと、俺はふっと通りの向こうを眺めた。妹のアパートが通りの向こう側にあるのだ。美咲は俺の所へよく来るが、俺は彼女の所へ出向いたことは滅多にない。妹が本当に一人暮らしかどうかも考えたこともない。 ジーンズのポケットには財布が入ったままだった。通りの向こうのコンバニへ買い出しに行くついでに、妹の部屋を来襲してやろうか、と俺は考えた。 コンビニでビールと煙草を買うと、そのまま妹の部屋に向かった。安いのが取り柄のような俺の住処に比べ、彼女の部屋は、一応マンションと名のついた所だった。建ってから長いので、見かけのわりには家賃は安いのだ、と言っていたことを思い出す。 五階建てのマンションの、二階。その真ん中辺り。明かりのついている窓、ついていない窓、一つ一つをぼんやりと眺める。目が悪いから、どの窓も同じに見える。違いと言えば、明かりのついた窓の、カーテンの色くらいなものだろう。見事なくらいに、どの家も物干し竿をかけ、一つや二つの洗濯物が忘れられたかのように掛かったままになっていた。 目は妹の部屋の窓に止まる。たしか右から四つ目と言っていた。洗濯物がやはり掛かっている。 と、その窓が開いた。俺は目を細めて、焦点を合わせる努力をする。 あれ? 美咲ではない。 俺はさらに目をこらした。美咲ではない。確かに彼女のTシャツは着ているが、妹ではない。 ぱんぱん、とタオルを勢いよく伸ばしてから背を伸ばして物干し竿に腕を伸ばす。やや長めの半袖から白い腕が伸びる。俺はそれに見覚えがあった。「…めぐみ」 * 翌日俺は、美咲を電話で呼び出した。 何なのよ兄貴わざわざ、と彼女はいつもの様に俺を罵倒する言葉を幾つか投げた後、近くの公園を指定した。兄が慢性金欠であることをよく知っている妹というのは実に憎たらしい。夕方であるにも関わらず、兄に公園などを指定するのだから。 ベンチに腰を下ろして、ぼんやりと妹のマンションの窓を眺めていた。今日は閉じている。 五分程して、美咲はやってきた。「どーしたのよ兄貴、突然」「お前、めぐみをかくまってるだろ!」 美咲は一瞬きょとんとしたが、俺が向いている方向を見て、ああ、とうなづいた。「何だ、やっと気付いたんだ。やっぱり鈍感だぁね」 俺は妹のその言葉に、息が止まるかと思った。俺は妹に詰め寄った。「何であいつが、お前の所に居るんだ!」「拾ったのよ」「拾った?」「そう。道で拾ったの。可哀そうに、泣くことも忘れてた」 妹は肩をすくめた。俺はそんな自分のもと同居人の姿が想像できなかった。「朝っぱらからあんた達みたいな人がふらふらしてるなんて変じゃない。感謝しなさいよ?会社に行く途中で出会っちゃったから、わざわざ有給休暇とったんだからね」「…ああ…なる程」「何か、明け方くらいから、歩いてたみたいよ。何かすごく疲れてたもん。で、とりあえずお腹の空いた猫にはごはんをあげて」 「…ってことは、朝の前にはもうウチを出てたったことか?」「じゃないの?そんな感じだったわよ」 そんな筈はない、と俺は思った。それらしい素振りはその前の夜にも全くなかった。何と言っても俺は、その前の夜は非常に気持ち良かったライヴのせいで呑みすぎてしまったくらいなのだから。 だが事実は予測を越えるものだ。「何でだ?俺にはさっぱり判らん」「詳しいことは知らないわよ。でもあの子が言ってたのはね、自分はもう限界だ、ってことよ」「…そんな筈はない」 あんなライヴができたのに。「そういうのは、他人が決めることじゃないでしょ?そういうところが兄貴は嫌よ。兄貴がどう思おうと、本人はそう思ってたの。それでもう駄目だと思ったようよ」「どうして」「メジャーの話、来たんでしょ?」 ああ、と俺はうなづく。「自分はメジャーに行ってまでやれる自信はないって」「え?」「だって兄貴は、『声』に惚れるじゃない。昔から、いつでも」「…だからそれが?」「それが男だろうが女だろうが構わなくてさ。おかげであたしまで影響受けちゃったじゃない…まあそんなことどうだっていいわ。限界を決めつけるってのは兄貴のモットーには反するだろうけどさ、メジャーへ行けば、兄貴はまた視野が広がるじゃない。音楽だけできる状況になれば」「ああ」 それは俺の望んでいることだ。「だけどめぐみちゃんは、それが辛かったみたいよ。兄貴はあの子がどうであろうと、きっと音楽に関しては、どんどん前ばっかり向いて手を広げてく。無論それが悪いなんて言わないわよ。いい傾向だとあたしも思うわよ。どーせならBIGになってよ」「…言うなあ」「言うわよ。あたしは。だけど、あの子はそうじゃない。そうなった時、兄貴の求めるヴォーカルにはどーしても届かないだろう、届けないって」「…」「あたしの胸の中で泣いてたもん。ここ最近で、やっと泣けたのよ、あの子」「泣いたのか?」「泣いたわよ」 知らなかった、と俺は思った。一度たりとも、俺は元同居人が泣いた姿など。「届かないだろうから、きっといつか兄貴は自分を見捨てるから、その前にって」「そんなこと…」「しないって言い切れる?兄貴が」 俺には反論できなかった。そうだ確かに。もしも彼が、メジャーに行って、どうしても伸び悩んで、バンドの成長について来れなかったら、「兄貴はいつもそうよ。兄貴が捨てられたって思っているけどさ、みんな同じよ。みんな兄貴に捨てられるのが怖くて、その前に逃げるのよ」 !「…心配せずとも、あの子はしばらくあたしが引き受けるからね。落ち着いたら新メンバーのライヴ観に行かせるから」「お前が?」「兄貴の影響って言ったじゃない」 ああそうだ、と俺は思い出した。自分が声で男女問わず惚れるののに影響されてしまって、この妹は、男女問わず守れる存在を愛してしまうのだ。
2005.07.23
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「兄貴は居るんだろ?親父さんも」「どっちも営業系ですからね、家でなんか滅多に食事しやしません。ま、そういうウチのおかげて俺は結構放任に育ちましたけど」「へえ」「ケンショーさんの所は、反対されてたんですか?」「え?」 つるりと里芋が逃げる。「バンド」 ああ、と何とかつまみ上げながら、俺はうなづいた。「結構あっちも、最近はバンドシーン、盛り上がってるのにわざわざ出てくるなんてすごいな」「そんなことないさ。まだあの頃は、何も知らなかったから、バンドやるんならこっちへ出なくちゃならない、って…まあごくごく単純な理由」「東京の人かと思ってた」「違う違う」「だって妹さんがどうのって言ったし」 俺はひらひらと手を振る。「妹は地元の短大をちゃんと卒業して、こっちには就職しに来たの。俺は高校卒業するの待ってすぐに家を飛び出して」「…へえ」「学校ん時も、何度も親父とケンカして、お袋さんを泣かせてさ。俺長男だし。あとは妹が一人だし。妥協しても良かったけどさ、でも」「でも?」「あいにく、見てしまった夢を無かったことにはできなかった」「…くっさぁ…」「くさいよな、全く。本当。でもそういうもんだ」 確かに夢を見なかったら。だけど。 かたん、と箸を置く音が聞こえた。「聞かなきゃ良かった」「え?」「何であんた、そういう奴なんですか」「…は?」「俺が初めてあんたのギター聞いた時、この音出す奴はこんな奴だろうな、なんて、思ってしまったのと同じじゃないですか…」 はあ、と俺はあいづちとも何とも言えない声を立てた。片手で顔半分覆う。どうもこういう言葉は、聞いていて恥ずかしい。何となく天井に視線を飛ばす。「…お前うちのバンドの音聞いてたんだ?」「聞いてましたよ!…だから、何だったかなあ、一昨年、高校入ったばかりのときに」「見たの?」「その時は、友達のつきあいだったんだけど」 カナイはこの間のとは別のライヴハウスの名を出す。「それって、対バンが四つくらいあった奴じゃないか?」「そう。友達の彼女がそのうちの一つのバンドの追っかけやってるからって、何かチケット回されたらしくって。何か可哀想で」「ありがちありがち」「そぉですよね。ちょっと前なんて俺、クラスの奴にチケット売ってましたもん。でも変なもんですよね。だって俺、それまで全然バンドなんてやろうとか思ってなかったんですよ。なのに…」「へえ、そうなんだ」 それは意外だった。「だから俺、真面目だって言ったでしょ?中学の時なんか、スポーツ少年で、髪なんかものすごい短かったし」「想像できん…」「みんなそう言いますよ」 確かに想像できなかった。目の前で、高校生特有の食欲を見せるカナイは、肩よりちょっと長い髪を無造作に後ろでくくっている。それが無性に似合っているので、それ以外の頭が考えられないのだ。「そういうケンショーさんは、どうなんですか?昔は短かったとか」「そりゃあまあ。**県は妙にそういうの、保守的でさ、厳しいとこだったから、もう大変」「じゃあ」「中学なんて、丸刈りよ丸刈り!今から考えると冗談じゃねえ、って感じするけどな。反動で高校は伸ばしだしたけどさ、肩より伸びたらもう」「教師が『切れ』って?」「言うどころじゃねえよ。ハサミ持ってきて切りやがる」 げ、と彼は顔を歪めた。「ひでぇなあ」「そ。俺の時代はひどかったの。お前今の時代で良かったね」 本当にそう思いますよ、と彼は言った。 さすがに育ち盛りの青少年はよく食べた。カナイは殆どのタッパーと、炊いたご飯をたいらげていった。俺は妙にその空になったタッパーを見て安心した。 中身が余ってしまうことは、どうしても俺に同居人の不在を思い出させてしまうのだ。「それじゃどうもごちそうさまでした」 律儀に彼は頭を下げる。「またいつか来てもいいですか?」「ああ」 俺は気楽に答えた。彼と話すのは結構楽しかった。妙なものだ、と思う。七つも年下の奴とテンポが合うという感覚は。おまけに向こうは自分のファンだったと白状したようなものなのに。 アパートのある引っ込んだ通りから出る辺りまで、俺は奴を送ってやった。カナイはさっと自転車に乗ると、人も車も通りの少なくなった道をすべるように走り出した。
2005.07.22
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「あ、ケンショーさん!」 バイト帰りにその声を聞くとは思わなかった。そしてその声に振り向いた瞬間、俺はもう一つ驚いた。「…カナイ!お前高校生だったんか?」「え?そーですよ?知らなかったんですか?」 自転車を降りたカナイは明るく答えた。「知らなかった」 俺は素直に答えた。 うちのメンバーよりはだいたい若いとは思っていたが、せいぜいがところ、めぐみ程度だと思っていたのだ。めぐみは十九の時にうちのバンドに入ったから、今年で二十二のはずだ。 ところが高校生!…いい所十八。若い。若すぎる。 ダークグリーンのブレザーに校章のエンブレムがついている、最近の学校によくあるタイプの制服だった。ズボンはグレイで、きちんと折り目正しい。肩よりやや長い髪も、後ろで簡単にくくっている。「そうやって見ると、ずいぶん真面目な学生に見えるよな」「嫌ですねえケンショーさん、俺真面目な学生ですよ?ただ音楽やってるだけですもん」 まあそれはそうだ、と思った。実際俺がこっちに出てきてからの七年で、ずいぶんと学生の状況も変わってきているのだろう。俺なんか、伸ばしかけていた髪をよく切られたものだ。その反動か、今は殆ど切らないが。「バイト帰りですか?」「そ。まあ働かなくちゃ食えねえし」「大変ですねえ」「お前は大変じゃなさそうだな」「あ、親のすねかじりと思ってるでしょ?」 まあな、と俺は答えた。「まあね、一応食うことには困りませんから。でもバンドの費用はちゃんとバイトしてますよ?駅前のファーストフードの店」「へえ」「土・日の昼間と平日の放課後二、三時間くらいですけどね、それでもやらないよりはマシですし。それにそのくらいだったらライヴの日でも何とかなりますから」「へえ、結構真面目なんだな」「だから俺は真面目なんですって」 若いなあ、と俺は思った。さすがに七つも離れていると、そう感じてしまうのか。「じゃあ今日も?」「ええ、俺もバイト帰りです。ケンショーさんは何のバイト?」「俺?俺はいろいろ」 彼はふうん、とうなづいた。 実際、俺は色々やっていた。さすがに茶パツが増えに増えた今日び、昔よりはバイト口も見つけやすくなった。昼と言わず夜と言わず、職種をそう選ばなければ、何かしら働き口はある。呑み屋、ギョーザ屋といった飲食業は言わずもがな、ビル清掃だの警備だの。警備では、競輪場とかの道路に立つものもある。炎天下の日など、暗色の制服が暑くて、倒れるかと思ったこともしばしばある。土木関係もやったこともあるし、安いが気楽なレンタルビデオ屋も経験がある。「こっちが家か?」「うん。意外と近かったんですねえ、あ、もっとも、ここから自転車で十五分はありますけど」 それならまだ結構あると思う。「ケンショーさんの家はこの近くなんですか?歩いてるってことは」「まあな…何だったら寄ってくか?」 言ってしまってから、どうして言ってしまったんだろう、と思うことがある。 いいんですか?と彼は顔をほころばせた。「へえ、ここだったんだ…」 彼はアパートの二階へ続く階段を登りながらつぶやいた。「一人暮らし…じゃないですよね?」「…まあね。ちょっと前までは、同居人が居たけど」「もしかして、それってK…めぐみさん?」「ああ」 別に隠すことでもない。めぐみがいなくなったことはこいつは知っているのだから。 ふーん、とつぶやくとカナイは辺りを見回した。つられて俺も見渡す。そんなに見て、すぐに一人かそうでないかなんて判るものだろうか。疲れてもいるせいか、眼鏡をかけない視界はいつも以上にぼんやりしている。「何か飲むもの…」「あ、俺自分でやります」 そう言ってカナイは冷蔵庫を開ける。結構マメなんですね、と彼は並んでいるタッパーを見て感想を述べた。「いやそれは妹の差し入れ」「あ、妹さん居るんですか。いいなあ」「いいなあって…お前よりは年上だぞ、どう見ても」「うちは兄貴しかいないし…きっとケンショーさんの妹さんなら美人ですよね」 俺はやや頭をひねる。「美人は美人だが…何でそこで俺の名を出す?」「あれ?だってケンショーさんだって恰好いいじゃないですか」「あんがとさん。お前めしはまだ?」「はい」「じゃあ食ってけ。いくら作り置きったって、そうそう大量に食えるかっていうんだ」 同居人もいないのに。 「もしかして、あんた**の人ですか?」 食事中、いきなり奴はそう切り出した。「あれ、よく知ってるな。そーだよ。郷里は**」「だって味噌汁が黒い…」「…ああ。まあね」 黒い、とはやや言い過ぎだろう。だが関東で普通に合わせ味噌のものに慣れている者には、確かに「黒い」。俺の郷里ではごくごく普通なのだが。「嫌ならいいけどな?」「あ、別に平気です。味噌おでんは好きだし」 折り畳みテーブルの上には、タッパーが所狭しと並んでいた。煮しめに佃煮、ひじきの炒め煮、白和え、おひたし…冷えても味が落ちないものばかりである。そしてこれだけは、暖かい、炊き立てごはんととうふとねぎの味噌汁。「妹さん、料理上手ですね」「お世辞言ったって、何も出ないぞ」「いや本当。うちの母親なんか、カルチャースクールで遊び回っていて、最近なんぞ、できあいをレンジでチン!ですよ全く。最近まともに味噌汁なんか食ったこともない…」
2005.07.21
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「三曲目?ってあの何か、難しい…」 …つまりは、あの曲だ。一面の花が浮かんだ、あの。「そうなんですよ。こいつ何か知らんけど、妙に展開ごちゃごちゃした曲ができちゃった、とか言って」「へえ」 笑いながらミナトはカナイを指さす。確かに彼にしてみれば、展開がごちゃごちゃしているだろう。彼が作った大半の曲は、実に判りやすいが、その反面、似たようなものが多かった。「俺、あれ好きだな」「え?そうですか?」 カナイはびっくりしたように目を見開いた。俺はああ、とうなづく。「何か面白いメロディラインしてるなあと思って」「でしょう?何かこいつの感覚って変わってるんですよ」 ミナトはそう言いながらカナイの肩をぽんぽんと叩く。 *「奴が欲しいな」「え?」 小津は問い返す。打ち上げの店の帰り道、結構呑んだらしく、小津の足どりは怪しい。それでもバンドに関することは聞き逃さないのは、彼の性格だろう。「本気かよ」と彼は言った。「本気だよ」と俺は言った。俺はカナイの声をもう一度聞きたいと思った。いや、それだけではない。どうしても、あの声が欲しい、と思ってしまったのだ。「…そりゃあさ、確かにいい声だとは思ったさ。それに、何かすげえ華があるしさ」「だろ?オズもそう思うだろ?」「…思うよ。だけどケンショー、お前、つい三日かそこら前にめぐみがいなくなったばかりなんだよ?まだ帰ってくるかも知れないじゃないか」「帰ってこないさ」 俺は首を横に振った。俺には確信があった。めぐみは帰ってこない。「何で」「何でと言われても」 これがいつもの、時々あった些細ないさかいだったら、どんな悪口雑言投げられても、戻ってくると言えただろう。だが、あの朝の手紙。「ありがとう・今まで」 俺はその二つの単語を何度も口の中で繰り返した。それでも長かった方なのだ。めぐみとの仲は。 声で惚れる俺の相手との仲は、たいていは大して長く続かない。それは自分のバンドのヴォーカリストの場合もあるし、そうでない場合もある。 いずれにせよ、俺と別れたヴォーカリストは、二度と人前で歌わない。それが怖くて俺と「そういう意味で」付き合う可能性を避けている者もいたくらいだ。 めぐみはその中でも長く続いた方だった。このバンドに彼を加えてから二年半が経っていた。専門学校を休学してまで彼は慣れないバンド活動に打ち込んできた。彼を入れてからバンドはいい方向に進みだし、今ではメジャーに手が届きそうな所にいた。レコード会社からも声がかかりつつある。 そのまま、行けると俺は思っていたのだ。 ところが。「ありがとう…」 繰り返す。この言葉が出たら、終わりなのだ。いつもそうだった。誰もが、そうだった。 ひどく哀しくなった。ひどく泣きたくなった。だけど涙が出ないことを俺は知っていた。どうしようもない。自分はそういう人間なのだ。 本当に、ひどい奴だ。 それでいてまた、あのライヴのカナイの声が頭の中でぐるぐる回っているのだ。あの声を手に入れたい、と思ってしまっているのだ。「まあお前はそういう奴だよな」 さすがに小津にそう言われると耳が痛い。小津は現在残っている…結局彼しか残っていないのだが、メンバーの中で一番の古株だ。さすがに最初のメンバーという訳ではないが、出会って五年にはなる訳だから、俺の恋愛遍歴も色々と見てきている訳だ。その奴にそう言われると。
2005.07.20
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絹地を引き裂くような声が飛び交う中、彼らは元気にステージに出た。そしてハイハットの音が四つ響くと、演奏が始まった。「…へえ…上手いな」 やっぱり上手で一緒に見ていた中山がふとつぶやいた。「あ?やっぱりそう思う?」「ああ。お前や俺とはずいぶんタイプ違うけどさ、テクニックは確かだな」「そうだな」 上手い下手というのは、イントロ一つ聞いただけでもピンとくる。そこは長く演ってきた者の強みだ。耳は肥えている。 基本的には、8ビートの曲だ。だけど曲調はマイナー。まあよくインディーズのバンドにありがちな軽い音と言ってもいい。「…惜しいなあ、あのギター」「何?」 中山は軽く向こうのベーシストを指す。「テクニック的には悪くないのに、ベースの音量に負けてやがんの。PAのバランスが悪いのかなあ」「…ああ、そう言えばそうだな」 俺は気のない返事をする。歌は既に始まっていた。変だ。俺は思う。同じあの声なのに、どうしてあの時のような感触がないのだろう? 下手から、舞台裏を回って小津もやってくる。ほう、と感心したように奴は腕組みしながらステージを眺めた。「上手いねー」「だろ?」「うん。いや、そうじゃない。おいケンショー、ナカヤマ、フロアにこないだの人いたぞ」 え、と思わず二人とも小津に視線を移した。「こないだの人?」「こないだ、俺達に名刺渡して行ったPHONOの人」「ウチの為に来たのなかあ…」「とも考えられるけどさ、ここも狙っているとも考えられねえ?」 確かにそうだった。それは考えられる。「…不利だよなあ。タイミング悪いぜえ」「うーん…」 俺は何と返していいか困った。ステージから聞こえてくる曲は、メジャーコードのメロディアスなものに変わっていた。「あれ、妙な曲」 小津がぽん、と言った。あれ、と俺も耳を澄ませた。 何と言えばいいのだろう。クリーンな音が所々に挟まれたギターのイントロに続いて、出だしのメロディ…Aメロは、俺には結構懐かしいフレーズに聞こえた。完全にポップとは言えないけれど、一度聞けば覚えてしまうような。「へ?」 転調。耳から首の後ろにすっと氷を当てられたような感触が走った。Bメロでいきなり転調する。メジャーからマイナーへ。このメロディには懐かしさはない。 そしてまた元に戻る。サビはメジャーのメロディ。のびのびとした声が、高低・シャープ・フラット慌ただしいメロディを事も無げに歌う。下に敷いたギターの明るい音が伸びるのと相まって、実に気持ち良さそうだ。 …あれ? ふっと頭の中に、何かが浮かんだ。 鮮やかな、何か。 俺はそれを捕らえそうとするが、覚めたばかりの夢を思い出せないのと同じように、それはするりと逃げて行った。 ギタリストは元気に間奏のギターソロを奏でる。ベーシストは、よく動き回るわりには落ち着いたフレーズで次の展開へと向かっていた。 Bメロが再びやってくる。さっきよりは弱いが、再び何やらすっと首の後ろを通っていくような感触がある。俺は最後のサビに備えた。浮かんだ、鮮やかな何かの正体を見たいと思ったのだ。 だが努力する必要はなかった。 テンションは上がっていく。興奮ではなく、ただただ気持ち良く歌っていくテンション。眼鏡のおかげでくっきりと見えるカナイの端正な顔にも笑みが浮かんでいる。この間のやや皮肉げなそれではなくて、もっと単純な。 背中から、ぞくぞくとした感覚が湧き上がった。サビのメロディ。思いきり、奴が声を伸ばした瞬間、俺はそれを捕まえた。 花だ。 淡い、とりどりの色の小さな花が、地平線の見えるくらいだだっ広い平原に咲いている。 一瞬目眩がした。まるでその、周りに何も無いような平原に、突然一人で立たされた時のような時と同じ感覚だ。 ひどく怖い。そしてひどく気持ちいい。 まずい、と俺は近くの機材に手をつきながら思った。 本気になりそうだ。 *「本当に助かったよ~!」 小津はS・Sのドラムスに抱きついて揺さぶる。泣き上戸なのだ。ははは、と相手の乾いた笑いが耳に飛び込む。 俺はと言えば向こうのギタリストのミナトとヴォーカルのカナイと話していた。もう一人居るメンバー、ベースのマキノは何やら明日また用事があるとかでさっさと帰ったらしい。「どうでした?」とミナトが訊ねた。「うん、良かった」 俺は素直な感想を述べる。実際、あの曲の後も、演奏は上手かったし、まとまりのある、それでいて客は熱狂する…そつの無いライヴだったのだ。ああ確かに人気が出るのも当然だろうな、と思う。曲の間中も、カナイもミナトもマキノもちゃんと客に気を配っていて、ノリの悪い所はきちんと煽っていた。 だが、俺に目眩を起こさせた程の声は、あの曲の後には全く聞かれなかった。「曲は、ミナト君が作ってんの?」「だいたい俺ですよ」 彼もカナイも、俺にはだいたい敬語を使う。どうやらこのバンドは礼儀正しいらしい。時々居るのだ。初対面から同等口をきく奴も。俺は俺で、彼らの敬語に敬意を評して、「やや年長さん」的な言葉づかいになる。実際俺や小津に比べて、彼らは若そうだ。「全部ミナト君?」「あ、いや、一曲だけ違うんですよ。今日も演ったんですけど」「三曲目」 カナイが口をはさんだ。
2005.07.18
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最初は俺の方が追っていた筈なのに、気がつくと、相手が俺を追っている。そして俺はその相手に安心しているうちに、逃げられてしまうのだ。 奇妙なくらいに彼らは同じ行動を取った。そして妹はそのたびに甲斐性なしと俺を責める。 まあ当然だ。そして俺はまた懲りずに、「声」を捜してしまう。無意識のうちに。前の相手への未練も忘れて。ひどい奴だ。 張り巡らせたアンテナに引っかかる声を捜してしまうのだ。 * 「七時だよーっ!RINGERだーっ」 開演時間が小津の声で告げられた。 馬鹿でかい奴の声はマイクを通すと、空気がびりびり震えた。小津はこういう時のトークが上手い。バンドの中でも「面白い」部分をいつの間にか担当しているようなふしがある。 まあドラマーにしては奴はあまりがっちりとした体型ではなく、しかもジャニーズ顔だ。おまけに、ただのギター馬鹿の俺なんかより、ずっと「普通」のファッションセンスを持っている。それに明るい性格と相まって、「恰好いい」とはそう言われないにも関わらず、彼は人気があった。「ごめんねー、今日はKちゃん、急に熱出して倒れちゃって」 えー、と女の子達の声が飛ぶ。「そんな訳で、メンバーへの大質問大会としたいと思いまーす」 黄色い声が響いた。どうやらそれはそれで楽しそうである。まあ仕方がないだろう。ここまで来てしまったら、楽しまないと損、なのだ。 結局出演順番を逆にした。うちのバンドが先で、向こうのバンドが後になった。 まともに演っていられたなら、俺達の方が後なのだ。キャリアとか、人気とか色々な面を加味すると。だがトークライヴとなってしまうと、そういう訳にはいかない。客に対してのお詫びという意味もある。「はいそこの子!」 小津は司会者か学校の先生か、という調子で、次々と会場のウチのファンを指していく。ファンの子達は、その場で声を張り上げて、くだらない質問を飛ばしてくる。 さすがに不機嫌な顔はできない。根性で俺は百万ドルの笑顔を振りまいていた。 そしてすぐに次のライヴが始まった。俺達は結局殆どステージの幕の前でそんな馬鹿話をしていたので、既に向こうのバンドの楽器はセッティングされていた。 S・Sはよく言う「ヴィジュアル系」のバンド雑誌に取材されたこともあるだけあって、何はともあれ整った顔のメンバーが揃っていた。最もいわゆる「それ」のように化粧ばりばりという訳ではない。「すっぴんではない」薄化粧程度だ。 上手から見る俺は、さすがに眼鏡をかけていた。 誰のナンバーだか忘れたが、頭の配線が何処か切れたような女性ヴォーカルに、こんなにでかくていいのか!と言いたくなるようなリズム隊、それにノイズだらけのギターの音がかぶさるSEがかかった瞬間、暗転。フロアが湧いた。
2005.07.16
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頭のてっぺんから指の先まで、何やらむずむずとした感覚がまだ走っている。俺はその声のする方に振り向いた。そこには、肩よりやや長く髪を伸ばした男が部屋に入ろうとしていたところだった。「ああ、カナイ君」「こんにちは行末さん、週末はウチもお世話になります。それより今の話、本当ですか?」 カナイと呼ばれた彼は、飛び上げたすっとんきょうな声とは対称的にていねいな言葉使いで店長に訊ねた。「本当だよ」「じゃあ両方中止ですか?」 言いながら彼はつかつかと中の、俺達が話し合っていたテーブルの側までやってくる。小気味いい程の早足だ。「あ、いや、そういうことじゃないんだ。結構君ら目当ての客が最近多くもあるしね、それにこれだけ急だと、告知もできないし。だからRINGERの方にはトーク・ライヴという形を取ってもらおうかと」「…なあんだ…」 がくん、と彼は肩を落とした。 そしてその時俺はやっと、彼の姿をしっかり見ることができた。近眼なのだ。まあ、眼鏡なしでも普通の行動は取れるが、人の顔などはある程度近くに来ないと把握できない。それこそ小学校の頃からそうだったので、眼鏡をかけるのが基本的には好きではない俺は、人の顔よりも、声の方に敏感になってしまっていた。 まず声。そして見かけは二の次三の次だった。 だがその見かけも、決して悪いものではなかった。雑誌や情報TVで見た時よりは地味な恰好をしていたし、すっぴんだったが、それでも何やら実にくっきりとした顔立ちをしている。目はさほど大きくもないが、暑苦しい印象を与えない分好感が持てる。「ま、だから、せっかくほらケンショーも来ていることだし、カナイ君打合せとかあれば、していけば?」「ケンショー?」 彼はその時やっと俺に気付いたようだった。「ギターのケンショーさん?」「あ?ああ」 端正で、大きすぎない目がこちらを向いた。そして口元が軽く上がる。「噂は聞いてます。俺、対バンの…いや、対バンする筈だったバンド『S・S』のヴォーカルのカナイです。よろしく」「カナイ?ってどう書くの?」「仮の名に、井。結構変わった名でしょ」「ああ、確かにそう見ないね」 そう言えばそうだった。にこやかとまでは言わないが、機嫌悪くはなさそうな顔で、そんなことを言う。「でもメンバーが失踪なんて、穏やかじゃあないですねえ」「カナイ君!べらべら喋ったりするんじゃないよ!」 店長がやや厳しい顔になって言う。「判ってますよ。でもRINGERのヴォーカルって、俺結構好きだったんだけどなあ、あの歌」「サンキュ」「でも」 彼はにっと笑った。それまでの社交用スマイルではなく、何処か自信と嘲りが混ざったような、そんな物騒な笑み。ぞくり、と背筋に寒けが走るのを感じた。「でもそれだったら、俺達はダッシュしてあんた達を抜いてしまってもいいんでしょうね」 思わず俺は立ち上がっていた。 冗談ですよ、と彼は付け足した。上等な笑みはそのままに。 * …やばいな。 帰り道、俺はそんなことを考えながら歩いていた。 何がやばいかと言うと、今の声なのだ。先程も言ったが、俺は人に惚れる際、まず何よりも声に左右されるのだ。不思議なもので、その場合、男も女も関係がないらしい。 その場合、一般的に聞いて特別いい声とか、美しい声とかである必要はないらしい。とにかく何処か、俺のツボにはまる声。それを出す奴であれば、その時点で、そいつが男だろうが女だろうが、美人だろうがそうでなかろうが、大きかろうが小さかろうが、どうでもよくなってしまうのだ。 まあさすがに年恰好ばかりは、そうそう許容範囲が広くはないのだが、それ以外に関しては異様にレンジが広いらしい。 目が良くないから、外見はそう気にする質ではない、ということが変に幸いした。だから、同居人だっためぐみもそうだった。彼に関しても、やはり声に惚れたのだ。 その際、彼の、成年男子にしては可愛らしい容姿だの、割と落ち込みやすい性格だの、もしかしたら野郎は恋愛の対象外である、とかそういったことはまるで気にならなかったのだ。 当時めぐみは、ごくごく堅気の専門学校生だった。出会ったのは、偶然だ。 俺はその頃、チェーン店飲み屋でバイトしていた。春先だった。めぐみは新入生歓迎コンパか何かで団体でやってきていて、カラオケで楽しそうに歌っていた。 何やらずいぶんと上手い子だなあ、とその時俺は、エプロンを付け、ビールびんを片手に二本づつ持ちながら思っていた。 何せ彼はその時、男性ヴォーカルの歌も、女性ヴォーカルの歌も、基本のキーで歌いこなしていたのだから。 そして俺はその声に惚れて、彼をこちらの世界に、バンド仲間に引きずり込んでしまったのだ。コンパの三次会に行こうとする彼の手を思わず掴んで、住所と電話番号を訊いてしまった。 俺は当時も金髪で長髪だったから、きっと彼は当初恐がっていたに違いない。実際周囲にいた同級生達も、彼をかばおうとしていたふしがあった。 だが後で電話したら、意外にもあっさり出てきてくれた。 そして、さすがに当初彼は俺の言うこと自体が理解できなかったらしい。そりゃ当然だ。歌っていた声が良かったから、バンドのヴォーカルに。その位は許容できるだろう。だが、歌っていた声が良かったから、付き合ってくれというのは。 だが不思議なもので、それでも時間が経つにつれ、ものごとはなるようになってしまったのである。めぐみだけじゃない。過去俺が付き合ってきた奴が、それこそ男女問わず、全てがそうだった。
2005.07.15
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まあ話半分としても、彼らの恐ろしく炸裂するコトバは長年の修行によるものだということは理解できる。所詮、東海地方出身の俺が勝てるものではない。 そんな訳でまあ、常識的な反論を返してみる。「…人事と思って勝手なこと…」「あったり前や!」 そう言って紺野は胸を張る。俺より頭一つ低いくらいの小柄なくせに、態度は俺の倍以上にでかいのだ。「ひとごとに決まってるやん。人間はひとごとには突っ込む権利があるんやで?ほらほら加納くん、自分の胸によーく手ぇ当てて考えてみぃ!お前の数々の悪行を!」「…」「俺の胸揉んでどうすんねん。ところでお前ら、週末のライヴ」 そう、それが目下最大の問題なのだ。「サポート入れるにしても、ちょっと時間足りねえよな…」「サポート?何アホなこと言うてんねん?お前のバンドでヴォーカルがいなくてサポート言うのは無理や!とにかく今は無理やで?」 ぴっと指を突き立てて、奴は断言した。「そうだよなあ…」 何も深く考える必要もないのだ。バンドの顔であるヴォーカルがいないのだから、これはもうライヴ自体を中止せねばなるまい。めぐみ目当ての客も多いのだ。 全くどうなっているっていうんだ。 * ライヴハウスの店長に事の顛末を告げると、彼はひどく渋い顔になり、ふう、とため息をついた。「困ったことになったねえ…病気ならともかく失踪かい」「はあ…本当にすいません」「ま、仕方ないものは仕方ないさ。でもねケンショー、せめてトークライヴとか、何か形くらいはキミ達のバンド、出てくれない?そうでないと、『金返せ』みたいなことになるよ」 そうですね、と俺は頭を下げて引き下がった。実に申し訳ない。「何とか考えてみます」「そうしてくれよ。それにしてもあのめぐみちゃんがねえ」 出入りのライヴハウスの店長はうちのメンバーの中ではめぐみを一番気に入っていた。まあだいたいめぐみは、その容姿や、素直で実直な言動で、誰からも好かれる方ではあったのだ。 この週末のライヴは、最近急に力をつけてきたというバンド「S・S」が一緒だった。実際に見るのはこのライヴが初めてなのだが、噂は聞いていた。インディーズをプッシュする音楽雑誌や、専門店でも最近は力を入れているらしい。こないだのインディーズ専門の深夜番組でも、ここの店長が顔を出して紹介していた。「何でぇーっ!RINGER出ないのーっ?」 …脳天から背中に、一気に電流が走ったかと思った。
2005.07.14
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