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東亜樹さんの投稿では沢山の皆様に見ていただき、本当にありがとうございました。これが亜樹さんのユーチューブ動画を見ていただけるきっかけになることを願っています。また、亜樹さんのことについては折を見て、たまにはご紹介していければと思っています。それから、今後は亜樹ちゃんと書かせていただくことにしました。そして、今日も調布駅前広場で亜樹ちゃんの路上ライブがこれからあります。私は訳あって、行くことは出来ませんが、亜樹ちゃんはじめ、スタッフ、そしてファンの皆様、暖かくして楽しんでください。さて、今回の話題はガラッと変わって、今から約5300年位前の縄文時代中期の竪穴式住居跡の見つかった遺跡に関するお話です。先日、家の近所で遺跡発掘調査の説明があったので、行ってきました。それは卑弥呼のいた邪馬台国のはるか昔、それより約3500年も前のことになります。私の住まい周辺は海抜23~24mの高台で、この周辺には数多く縄文時代の住居跡が見つかっています。その北と南に谷があり、その谷に今でも川が流れていて、いずれの川も源流は比較的近く、そこで湧き出す水が小さな川となり、この川は下流で合流し、やがて東京湾に注いでいます。説明者によれば、高台で洪水などの心配もなく、岩盤もしっかりしていて、近くに2本の川があることで生活しやすかったのではないかとのお話でした。そもそも説明会に行ったのには、これまで吉野ケ里遺跡や三内丸山遺跡、奈良や群馬の古墳などにも出かけていて元々多少興味はありましたが、それ以上に今回ぜひ聞いてみたいことがありました。それは上の画像の様に何故あんな風に跡がはっきりわかるのか?ということです。すると、こんな風に説明してくださいました。( 下の画像をご覧ください )遺跡は関東ローム層の赤土 ( 粒子の細かい粘性土 ) の中にあって、その上に長い年月をかけて草木が腐葉土となり、更には風雨が運んできた砂や土が堆積して20~30cmの層を作る。そうした中には江戸時代中期1707年に起きた富士山の宝永大噴火の降灰の跡が東京近郊には2cm程度の層として見られることもある。しかし、ここにそれは確認できないので、おそらく当時の住人の手により降灰は取り払われたのではないか。そして、その腐葉土などの層の上に、現在我々が見ている砂利やアスファルトなど灰色の層が積み重なっている。下の画像で3層構造がお分かりいただけるでしょうか。遺跡のある赤土の層、その上のざらついたこげ茶の腐葉土などの層、そして灰色の層。そして、上の2層を重機を使って土を掘り、関東ローム層の赤土が見えた段階から、手作業で少しづつ土を払っていくと、地表40~50cmの所に赤土とは違った黒土が表れてくる。その黒土を丁寧に刷毛などで掃った状態が1枚目と2枚目の画像の状態。現に黒土が見える状態の画像を見せていただきましたが、回りの赤土とはっきり見分けられる黒い円形が見てとれました。最初の画像で見える沢山ある穴は黒土を取り払った跡で、建物の中なら柱のあった跡、周囲の穴 ( 土坑 ) などは食料品貯蔵などの目的に掘ったものではないかとの説明でした。土坑の中には死者を埋葬しているところもあるそうですが、ここでは発見されていないそうです。そうした土を刷毛などで掃っていくと、下の様な土器の破片や弓矢の矢じりなどが出てくるのだそうです。だから、それらを傷つけないように慎重に掃うそうです。しかも、今回発掘した現場の南隣、一番上の画像の奥に見えるブルーシートのかかった地点では、何と今から1万1000年前縄文時代早期 ( 前期の前 ) 前半の撚糸文土器の破片が多数見つかり、全国的にも珍しいそうです。こうした年代の特定には土器の種類、土器に付いた土の炭素年代測定 ( 精度の限界は ±0.2 %程度、誤差は ±16年 ) によりわかるのだそうです。これまで知らなかったことが1つ解消できて、有意義でした。なお、カテゴリーをこれ以上増やしたくないので、便宜的に「邪馬台国・卑弥呼」の所に残すことにしました。これを機に「東亜樹」や「邪馬台国・卑弥呼」もご覧いただけると嬉しいです。
2023.02.04
吉野ケ里遺跡でこれまで調査が手つかずだった「謎のエリア」で歴代王墓とされる北墳丘墓西側の小高い場所の発掘調査が昨日(5/3)から2年間の予定で始まったそうです。ここには江戸時代中期から日吉神社が建っていたことで発掘対象から外されていたそうですが、昨年神社が移転合意して県が土地を購入したことにより吉野ケ里遺跡としては10年ぶりの発掘調査になるそうです。発掘エリアは4000㎡。近くの北墳丘墓は弥生時代中期の王が埋葬されたとみられ、国指定文化財となった銅剣やガラス管玉が見つかっていて、今回発掘するエリアの北側からも前漢鏡も出土されているそうです。発掘現場は昨日より8日まで特別公開されているようです。にほんブログ村にほんブログ村
2022.05.04
月刊誌「歴史人」に卑弥呼、邪馬台国、記紀が取り上げられていたので、購読してみました。この本の中で「邪馬台国の真実」として邪馬台国九州説を唱える考古学者高島忠平氏が邪馬台国が九州にあったとする根拠(九州から出ていないこと。卑弥呼が統治する女王国は女王の境界が尽きるまでの21国を含む、およそ30近い国の連合国であること)を挙げており、私もこれまでブログに書いたように、その通りだと考えています。一方、武光誠元明治学院大学教授の監修文に奈良の纏向遺跡と箸墓古墳の科学的年代測定の結果がちょうど邪馬台国の卑弥呼の時代と重なることから、大和説が成立するならばという前提付きで、箸墓が卑弥呼の墓である可能性がきわめて高いこととなるとしており、それを前提として、同氏の評価では邪馬台国論争は現在のところ7対3くらいで大和説が優位にたっているとし、それがまもなく大和説8、九州説2くらいの力関係になるかもしれないと言っています。しかし、私からすると邪馬台国は九州でしかありえません。魏志倭人伝をそのまま読めば九州に間違いないことを無謀にも畿内にもっていく。それがこともあろうに、専門家であるはずの考古学界が大和説8割とは呆れてしまいます。当初から近畿にありきで始まっており、歪んでいるとしか思えません。なぜ大勢が畿内なんでしょう?その一番の理由が「投馬国は水行20日、邪馬台国は水行10日陸行1月」にあるなら、2/17と24の私のブログに書いた新説に一度目を通してください。そして一日も早く九州に目が向き、大規模な発掘開始により真実が明らかになることを願ってやみません。にほんブログ村にほんブログ村
2022.03.27
2/17に魏志倭人伝に記された邪馬台国の場所に関して謎解明に新たな解釈(新説)を発表させていただきました。今回はそれを地図を用いて簡単にご説明したいと思います。(地図の画像は全て画面をクリックすると拡大します)はじめに頭の片隅に覚えておいて欲しいことは「郡から女王国まで12000余里」と記していることです。それを踏まえて、さあたどってみます。以下魏志倭人伝の記述より。倭人の国は帯方(郡)の東南、大海の中にある。郡(帯方郡←今のソウル辺り)を出て水行し南へ東へ、その北岸の狗邪韓国(今の釜山辺り)に至る。ここまで7000余里。はじめて海を渡り、1000余里で對海国(今の対馬)へ南に海を渡り、1000余里で一大国(今の壱岐)へ海を渡り、1000余里で末盧国(今の松浦)へ 戸数4000余戸 <ここで上陸です>ここからは下の地図をご覧ください。今度は上陸した末盧国(今の松浦)から先の里程となります。東南陸行(徒歩)500里で伊都国(今の糸島)へ 戸数1000余戸東南100里に奴国(今の太宰府付近)へ 戸数20000余戸東100里に不弥国(ここは地図には記していません)そしてこの後いきなり次に続きます。南至投馬国水行二十日 戸数50000余戸南至邪馬台国 女王之所都水行十日陸行一月 戸数70000余戸ここで、頭の片隅にあったことを思い出してください。帯方郡から邪馬台国まで12000余里でした。そして、帯方郡を出てから伊都国までで10500里になりました。すると伊都国から邪馬台国までは残り1500里しかありません。ここでの1里は他の方の研究結果などを用いて90mと仮定すると。1500里はおよそ135kmということになります。すなわち、邪馬台国は伊都国から同心円で135kmの中(北部九州)にあるということになります。そして、問題は最後の謎の2行をどう読むか?南至投馬国水行二十日南至邪馬台国 女王之所都水行十日陸行一月ここの解釈(新説)については、2/17のブログに記載した通りです。不弥国までずっと方角と里程で表されていたのが、ここから方角と旅程に変わっているのです。つまり何かが変わるのです。邪馬台国の場所を北部九州と位置付ければ、その解釈方法はこれしかありません。帯方郡を出発してから南の投馬国までは船で20日、同様に帯方郡を出発してから南の邪馬台国までは船で10日、さらに徒歩で1か月かかるという全行程の旅程だということです。しかも、南に投馬国、南に邪馬台国と並記しており、一緒に行くとは記していません。投馬国が有明海沿岸にあるとすれば、陸行すると邪馬台国以上に時間がかかります。一旦は伊都国の一大率による入国検査を受け、場合によっては留まり、そのあと船で長崎を回り南下し、島原湾から有明海に入るという経路です。下の地図で位置関係を確認ください。なお、陸行に時間がかかる点に関しては、2/17付のブログを参考にご覧ください。次に下の拡大した地図を再度ご覧ください。地図の黄緑色の部分が田、黄色が畑、淡い緑から白っぽいところは山岳地帯になります。そして、奴国は戸数2万余戸、投馬国が5万余戸、邪馬台国は7万余戸とあります。それだけの人が生きるためには大きな田畑(有明海沿岸から筑後川流域の平野)が必要になります。なお、この地図ではわかりませんが、邪馬台国のあった今から約1800年前の3世紀前半から半ばは国土全体の海岸線(有明海沿岸を含め)がもっと内陸部にあったものと考えられています。参考までに地図の真ん中付近に小さく四角に囲った所が吉野ケ里遺跡になります。そして、有名な平原古墳は伊都国の〇の中の「前原」駅の「原」の字の辺りにあります。なお、邪馬台国を甘木、朝倉とした理由は安本美典さんの説明に賛同したためで、その詳細についてはここでは触れませんが、ご興味があれば、安本さんの動画をご覧ください。最後まで、お付き合いいただき、ありがとうございました。にほんブログ村にほんブログ村
2022.02.24
天照大御神は古事記、日本書紀(記紀)の神話に登場する神様です。その神様は全くの空想や架空の人物だったのでしょうか?少し反れますが、徳川家康だって、釈迦だって、イエス・キリストだって、神様、仏様になりました。一方、卑弥呼は魏志倭人伝に書かれた実在の人物です。そして、仮に天照大御神が史実によるとするなら、そのモデルになりうる人物は誰でしょう?私は卑弥呼以外に考えつきません。それが結論です。それに神功皇后はじめとする天皇は別に列挙されています。二人の共通点として、いずれも女性。独身。弟がいる。九州に関係している。人々(神々)から崇拝されている。国々(神々)をまとめる力があるなど、多くの点で共通しています。また、卑弥呼程の人物なら、日本国内あるいは九州内で後日何か伝承するものが残って然るべきですが、これが見つかっていません。言い換えると見つからないのではなく、神として、あるいは天皇家の皇祖として、別なかたちで残すことにした。すなわち卑弥呼は天照大御神になって残ったのです。なお、記紀の天皇に関する年代と卑弥呼の時代の不整合については、安本美典さんの統計的な方法による年代論の結果、つまり卑弥呼と天照大御神の年代が符合することに賛同いたします。以下は余談になりますが、HP「暗号山上憶良」より引用させていただいたことに1つ大変興味深いことがあります。まず、魏志倭人伝によると卑弥呼が親魏倭王の称号を授かった年がAC239年です。そして、亡くなった年がAC247年と覚えておいてください。そして、初代神武天皇(即位はBC660年)が高千穂宮より東征出発の際に言った言葉に「天孫が降臨されてから179万2470余年になる」とあります。ちなみに神武天皇は天照大御神から5代目、天孫降臨したのは3代前の二二ギ(邇邇芸命)。この途方もない年に注目です。中国では干支とは「十干十二支」と言い、十干(十干はBC4世紀頃から5行に変わる)と十二支の組み合わせでその年としており、その組み合わせが60通りとなることから60年を一巡と考え、人は60才で還暦といいます。還暦とは暦が還ると書き「もとにいた場所に戻る」という意味があります。要は60年で1周するのです。ここで、神武天皇の言葉の年数をもう一度思い起こしてください。179に60を加えると239になり、247はそのまま247に。どこかでこの数字見ませんでしたか?そうです卑弥呼の親魏倭王の称号を授かった年と亡くなった年の数字に当てはまるのです。ここに記紀のからくりがあるように思えてなりません。そして、卑弥呼と天照大御神とのからくりも・・・にほんブログ村にほんブログ村
2022.02.18
私にとって邪馬台国や卑弥呼は永遠のテーマです。自分が亡くなるまでに邪馬台国や卑弥呼の墓の所在地が確認されることを願ってやみません。下の画像はずいぶん前に行った吉野ケ里遺跡です。これまで2度行っています。さて、今回はこれまでずっと議論されてきた邪馬台国の所在地に関して九州説や近畿説、出雲説、北陸説などに一石を投じたいと思い記録としてブログに残すことにしました。邪馬台国の所在地がはっきりしない最大の理由は魏志倭人伝のある一説にあります。「南至邪馬臺国 女王之所都 水行十日陸行一月」この前段に帯方郡から不弥国までの方角と里程が書かれ、さらにそのあと「南至投馬国水行二十日」とあります。これまでの一般的な解釈は南の投馬国へは不弥国あるいは伊都国から水行20日、さらに南の邪馬台国へは水行10日、陸行一カ月のところにあると読み解いています。すると邪馬台国は九州から出てしまい、フィリピン辺りまで行ってしまうことになるとか。そこで、近畿説などでは「南」は魏志倭人伝の誤りで正しくは「東」だったとの勝手な解釈に読み替えて、近畿説とする説が有数の学者によって横行しているのが現状なのです。そもそも魏志倭人伝には帯方郡より12,000余里のところに女王国ありと記しています。そして、帯方郡より末盧国までは10,000里、伊都国までは10,500里となり、残すところ伊都国から女王国である邪馬台国まで1,500里(およそ135KM)とすれば、邪馬台国は北部九州にあったとみるのが相当です。ここまでは九州説の誰もが言っているところです。しかし、わからないのは伊都国あるいは不弥国から南の投馬国へは船で20日、さらに南の邪馬台国へは船で10日、陸を行くこと1カ月と読むから、わけが分からなくなるのです。女王のいる邪馬台国は30余の小国を統属し、南にあり、その以北に21の小国があること、そしてその最後に奴国のあることを挙げています。そうです。奴国は伊都国の東南100里にあると書かれている国に戻ってくるのです。しかし、投馬国は以北の小国の中に含まれていません。つまり投馬国も邪馬台国と同じように南にあるとするのが私の解釈です。事実、南至投馬国と言っているのですから。実際、諸説の中には投馬国は有明海沿岸とする説もありますし、私もそう思っています。つまり、不弥国までは方角と里程だったのが、投馬国から方角と旅程に変わっていることに目を向けなければなりません。ここで変わったのが何なのか?ということです。さらに帯方郡から邪馬台国までは12,000余里と決まっているのですから。では、私の結論(新説)です。南にある投馬国(有明海沿岸)まで帯方郡から船で20日かかる。南にある邪馬台国まで帯方郡から船で10日、陸を行くこと1か月かかる。つまり、出発点の帯方郡からの旅程なのです。これが正解です。こう読めば、南→東に変えることもなければ、魏志倭人伝の記載に誤りはありません。魏志倭人伝は事実を書いた信用に足る歴史書であることが裏付けられるわけです。投馬国へはどのような行程を辿ったかはわかりません。一大国(壹岐郡)から一旦は末盧国そして伊都国の港で一大率による検査を受け、場合によってはそこに留まり、そのあと長崎を回り、島原湾から有明海に入り投馬国に着いたと考えます。それでも陸行すれば、邪馬台国以上に時間がかかります。邪馬台国へは帯方郡を出て船で10日かかり末盧国に着きます。そして末盧国の説明の中に「草木茂盛、行不見前人」つまり 、先に行く人が見えないほどに生い茂った葦原を掻き分けて進んだとあるように、歩くのも大変であったことが書かれています。茂在寅男教授(東海大学)はかつて実地踏査により「道なき道を歩むのは想像以上に大変で、リアス式海岸伝いはいたるところが難所で、1日7キロがやっと、そのペースで2日歩いて到達した所は直線距離でわずかに5キロしかない地点に到達するのがやっとであった」と言っています。末盧国から伊都国を経由し南の邪馬台国へは当時は歩いて1か月を要したということなのです。そして、私の思う邪馬台国の所在地は安本美典さんの説明する「甘木・朝倉」ではないかと考えています。にほんブログ村にほんブログ
2022.02.17
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