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2022.02.24
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カテゴリ: 邪馬台国・卑弥呼
​​2/17に魏志倭人伝に記された邪馬台国の場所に関して謎解明に新たな解釈(新説)を発表させていただきました。今回はそれを地図を用いて簡単にご説明したいと思います。
(地図の画像は全て画面をクリックすると拡大します)

はじめに頭の片隅に覚えておいて欲しいことは 「郡から女王国まで12000余里」 と記していることです。それを踏まえて、さあたどってみます。以下魏志倭人伝の記述より。

倭人の国は帯方(郡)の東南、大海の中にある。
郡(帯方郡←今のソウル辺り)を出て水行し南へ東へ、その北岸の狗邪韓国(今の釜山辺り)に至る。ここまで7000余里。

はじめて海を渡り、1000余里で對海国(今の対馬)へ
南に海を渡り、1000余里で一大国(今の壱岐)へ
海を渡り、1000余里で末盧国(今の松浦)へ 戸数4000余戸  



ここからは下の地図をご覧ください。


東南陸行(徒歩)500里で伊都国(今の糸島)へ 戸数1000余戸
東南100里に奴国(今の太宰府付近)へ 戸数20000余戸
東100里に不弥国(ここは地図には記していません)

そしてこの後いきなり次に続きます。

南至投馬国水行二十日 戸数50000余戸
南至邪馬台国 女王之所都水行十日陸行一月 戸数70000余戸



ここで、頭の片隅にあったことを思い出してください。
帯方郡から邪馬台国まで12000余里でした。
そして、帯方郡を出てから伊都国までで10500里になりました。
すると伊都国から邪馬台国までは残り1500里しかありません。
ここでの1里は他の方の研究結果などを用いて90mと仮定すると。

すなわち、邪馬台国は伊都国から同心円で135kmの中(北部九州)にあるということになります。

そして、問題は最後の謎の2行をどう読むか?

南至投馬国水行二十日
南至邪馬台国 女王之所都水行十日陸行一月

ここの解釈(新説)については、2/17のブログに記載した通りです。
里程 で表されていたのが、ここから方角と 旅程 に変わっているのです。つまり何かが変わるのです。邪馬台国の場所を北部九州と位置付ければ、その解釈方法はこれしかありません。

帯方郡を出発してから南の投馬国までは船で20日、同様に帯方郡を出発してから南の邪馬台国までは船で10日、さらに徒歩で1か月かかるという全行程の旅程 だということです。しかも、南に投馬国、南に邪馬台国と並記しており、一緒に行くとは記していません。投馬国が有明海沿岸にあるとすれば、陸行すると邪馬台国以上に時間がかかります。一旦は伊都国の一大率による入国検査を受け、場合によっては留まり、そのあと船で長崎を回り南下し、島原湾から有明海に入るという経路です。下の地図で位置関係を確認ください。なお、陸行に時間がかかる点に関しては、2/17付のブログを参考にご覧ください。



次に下の拡大した地図を再度ご覧ください。
地図の黄緑色の部分が田、黄色が畑、淡い緑から白っぽいところは山岳地帯になります。
そして、奴国は戸数2万余戸、投馬国が5万余戸、邪馬台国は7万余戸とあります。
それだけの人が生きるためには大きな田畑(有明海沿岸から筑後川流域の平野)が必要になります。
なお、この地図ではわかりませんが、邪馬台国のあった今から約1800年前の3世紀前半から半ばは国土全体の海岸線(有明海沿岸を含め)がもっと内陸部にあったものと考えられています。
参考までに地図の真ん中付近に小さく四角に囲った所が吉野ケ里遺跡になります。
そして、有名な平原古墳は伊都国の〇の中の「前原」駅の「原」の字の辺りにあります。

なお、邪馬台国を甘木、朝倉とした理由は安本美典さんの説明に賛同したためで、その詳細についてはここでは触れませんが、ご興味があれば、安本さんの動画をご覧ください。



最後まで、お付き合いいただき、ありがとうございました。


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Last updated  2022.04.02 17:12:33


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