KUWA KAKUKATARIKI

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トップアスリートの中でも群を抜いてくると、必ず注目している点がある。

それは精神面。そしてトップにいけばいくほど、そのパフォーマンスのときに異常体験を

している。それは時間の感覚がなくなりスローモーションに見えたり

時間を忘れて没頭していたりする。この状態が最高の精神状態となる。


精神面と聞いて「そうなんだなぁ~」と簡単に終わらせないでほしい。

なぜならば、そこまで熟していない我々ほど、精神面でやっつけられている

ことが目の前に山積みになっているからだ。


私は先日、試合に出場している数人にこんなことを聞いてみた。

「よくアスリートが瞑想するっていうけど、それは何か知ってるかい?」



そう、それは間違いではない。しかし正しい答えとも言えないような気がするのだ。


ではなぜ「無」にならなくてはいけないのか・・・「無」では何も始まらないではないか・・

確かにそうである。しかしそこには深い人間の感情の変化がある。


例えば私の事としよう。「今回、試合の調整は完璧で負ける理由も見つからない」

こんな精神状態で試合前の調整をしていた・・しかし・・・

当日の出番表とメンバーを確認した瞬間に「このメンバーの中では勝てないのではないか・・」

と思い始めるとする。そして自分よりも優っている人を探し出す。

すると自分自身でプレッシャーを作りはじめ「今回は上手くいかないかな~」などと

周りに公言しだす。すると本当に勝てなくなるもの。この循環は事実である。


初心者の緊張も同じことが言える。「私はまだ経験がないから失敗するかも知れない・・」

これを考え出すと必ず思った通りの失敗確率が50%以上まで引きあがるもの。




瞑想と聞いて、宗教染みたことを考えないでほしい。

瞑想とは先ほどのように「無」になるようなことで、自分が自分自身でプレッシャーを

作り出そうとした時に、それをシャットアウトする最高の方法なのだ。

「周りが、環境が、コンディションがどうであれ、私のベストを尽くす

  それ以外のことは何も感じないし、聞こえない、そして見えない」




随分昔の話しになるが私は一度「座禅」をしにいったときがある。

座禅とは人間としての訓練のために集中力や安定、精神的な乱れをなくすものと思われている。

確かにそうだ・・

しかし最近違うことが理解できるようになってきた。

昔、座禅を組みに行った時、和尚にこんなこと言われた。

「何かを得ようとして座るのだったらやめなさい。

            座禅は座るために座るのですよ」と。

その時は全く解らなかった。「心を奇麗にして、気持ちを安定させるために来たのに・・なんだ・・」

と思ったものだ。今、考えると恥ずかしい考え方だ。その考え方が何かを得ようとする心を外から

持ち込んで「座禅」を行なっていることになる。こうなると全く意味がなく足が痛いだけだ。


自分で自分をコントロールするのは難しい。それは周りがあって世の中が成り立っているから。

しかし自分の最大の成果を出したい時にさえ、周りの状況や心を自分に持ち込みすぎて

成果が上げられずに心不安定になっていたら何も始まらない。

自分ではできないことを理論ずけて、自分を解決させようとする人がいるが

「あなたの本当の実力は発揮できたのですか?」と聞くと、自分で満足していない人も多い。


時に「無」を感じ時間を忘れるくらい没頭して成果を残したいものである。

瞑想・・「無」ほど難しいものはない。

Posted by かく語りき





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Last updated  2008.04.08 10:15:20


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