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このテーマでブログを書くのは初めてです。相撲が好きな人は、この記事を読まないほうがいいでしょう。大相撲時津風部屋の序ノ口力士、時太山(当時17=本名・斉藤俊さん)が兄弟子らから暴行されて死亡した問題を受け、(中略)(相撲)協会の対処が甘いと判断した場合、監督官庁の同省が認める財団法人の資格も取り消す構えだ。国から見放された場合、大相撲は「国技」の看板を失うことから、協会側も対応策を検討し始めた。(中略)国が日本相撲協会を認めなければ、「大相撲は国技」の看板を取り上げられることになる2007年9月29日(土) 日刊スポーツ私はこの事件を聞いても、そんなに驚かなかったです。それどころか私は、以前から、相撲を国技扱いするのはやめるべきだと考えていました。理由は、女性が参加できないスポーツを国技とすることは、それだけまだ、女性への蔑視の強い国だと、外国に印象付けるからです。もちろん私も、女性をああいう体格にさせ、廻しを閉めさせて土俵に上がらせるべき、とまでは言いません。ですが、相撲が競技者として女性を排除し、しかも理由がああいう理由だから、国技扱いするほどに値するものだとは思っていません。女性を競技者にしない理由が、体格的・体力的に向いていない、ということなら、私もここまで嫌悪感は感じません。ですが、みなさんもご存知のとおり、女性が土俵に上がれないのは、女性が「穢れているから」だそうです(ケラケラケラ)だとすると、女性の股から生まれた子供たちもみな、血にまみれ穢れて、この世に誕生することになりますよね。そもそも、新しい命の誕生には、女性が大きな役割を果たすもの。その女性を尊重するどころか、蔑視・排除する、そういう考え方ははっきり言って「野蛮」なのです。そして、そういう野蛮な価値観を持っている人たちの言動が、弱いものいじめに発展していくのもむべなるかな、という気がします。これは、ヤクザを例に出しても同じこと。女性を尊重するヤクザなんて、ほとんどいません。彼らもまた、女性を蔑んでいるから、平気で暴力を振るったり売春を強要したりしているわけです。こういうことを言うと、「宝塚は女性ばっかりじゃない」という人もいます。私は、出演者や競技者を女性だけ、男性だけに限ること自体は、悪いことだと思っていません。ですが、宝塚の場合、演出や大道具係などの男性が舞台に上がったりしていますよね?男性は穢れているから、神聖な舞台に上ってくるな、なんて主張する人はいませんよね。これが相撲の場合だと、表彰をする大臣であっても女性なら、土俵に上がってはいけないとされているんです。だから、宝塚の例をだして、相撲界の慣習を擁護するのは、間違っています。ですので、今回のことを機会に、国技を変更するべきだと思います。確かに、相撲は古代から行われている、歴史は古いスポーツですが、相撲ほど古くなくても、歴史があり、かつ男女の区別なく選手が活躍してうる種目もいくつかはあります。相撲を国技とするのは、もうやめましょう。相撲なんて、保守的・野蛮な価値観のマイナーでローカルな競技になっちまえばいいのです。ちなみに、相撲を擁護するようなコメントはお断りします。私はこの件で議論をする気もないし、相撲については一生、好きになれないと思いますから。ヨガウェアDUNIA ライクラバティックヨガパンツロング(アメジストパープル)
2007.09.30
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誰も知らない「赤毛のアン」この、カナダ一の傑作を書いた人、モンゴメリーについては、日本ではあまり知られていないようです。経歴だけ見れば、普通の女性、母であり妻でもあった方なのですが、残されている日記・自伝も、かなりおもしろく読めることができます。機会があれば、そういう本も読んでみることをオススメします。そして、モンゴメリーの生涯を知ってからアンを読み直すと、さらにアンシリーズを深く味わうこともできると思います。とりあえずここで、モンゴメリーの簡単な経歴を述べますと、スコットランド貴族の末裔でかつ、カナダの国会議員を祖父にもつ、PEIではかなり名門の家に生まれました。ですが、不幸にも実の母に2歳未満のときに死別します。その後、母方の祖父母に厳格にしつけられました。10代半ば、実の父と暮らし始めますが、父の後妻(継母)になじめず、祖父母宅に戻ります。その後、教員の免許は取りますが、大学への進学は許されず、PEIで教師の仕事を続けます。祖父の死亡後は、祖母と同居しながら郵便局を経営、このころ、「赤毛のアン」を書いてメジャーデビューしたり、後の夫となる牧師の青年と婚約します。結婚は祖母を看取るまで延期されていたので、実際に式を挙げたのは36歳のときでした。その後、夫の赴任地で暮らし始めますが、これ以降、PEIで暮らせることはありませんでした。子供は男の子ばかり3人(うち一人は早世)ですが、特に長男が離婚をしたりして、苦労させられたようです牧師の夫も精神的に病んでいたようで、夫の看病など、つらいことが続いたそうですそして第二次世界大戦中の1941年、世界の情勢を気に病みながらなくなりました。
2007.09.26
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もう一つ、この小説で気に入ったことは、子供の躾の仕方ですマリラは厳しく、マシュウはやさしくアンに接しました二人は夫婦ではなく兄妹ですが、両親がこうやって役割分担をすることは、私自身の経験から言っても、いいと思いますこの小説を書いたとき、モンゴメリーにはまだ自分の子供がいなかったわけですが、それでも、自分の幼少のころの体験から、このことを感じ取っていたのではないでしょうか?ときには厳しくして、聞き分けのない子供にも社会の常識を教えることは大切ですが、子供というのは、自分の欲求を抑えられないものですですので、理屈抜きで自分の気持ちをわかってくれる大人というのも、ときには、必要となりますこれがもし、両親ともに一緒になって子供の欠点を責め立てるだけだと、子供は逃げ場を失い追い詰められて、お説教の内容を理解するよりはむしろ、大人に対して反抗的・懐疑的になってしまったりしたら、逆効果にもなりますですので、これは普通の意味での両親(夫婦)には限らないのですが、子供の周辺にいる大人たちのなかでは、厳しくしつける人、子供の気持ちを理解してあげようとする人、といろいろな役割の人がいてもいいと思いますアンの場合は、他人の家や孤児院をたらいまわしにされ、躾を全く受けていないということから、なおさら、マリラが本気になっていろいろと教え込もうとしていますもちろんアンのほうも、もともと素直な性格なので、なるべくマリラの言うとおりにしようと思いますが、それでも、根本的にアンに批判的なことを言わず、うんうんと耳を傾けてくれるマシュウが、アンにとってはどれほど、心の支えになっていたでしょうか?マシュウのほうも根本的にはアンを信頼していたので、アンに説教がましいことを一切言いませんでしたし、それどころか、ときにはマリラの反対を押し切ってもアンの願いをかなえてあげたりもしましたが、そういう接し方をしても、アンを甘やかすことにならなかった、とマシュウも気づいていたようですグリーン・ゲイブルズ・ハウス壁掛け
2007.09.20
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録画しておいた夏目雅子のドラマ >>ひまわり を見ました。私はこのお母さんが、娘の芸能界入りに猛反対した気持ちがわかります。私も、自分の子供には芸能人に入ってほしくないですね。私自身、芸能人になりたいと思ったことは一度もありませんから。それはなぜかというと、芸能界って実は、才能よりも何よりも「人気」の世界。人気という、大衆の気まぐれに振り回される世界です。その大衆に媚びるために必死になっているようなのが、なんだか惨めな感じがして、私は好きでないのです。もちろん、ちゃんとした才能があって、日々勉強を重ねている人もいるとは思うのですが。そういうわけで、私の近親者には芸能界に入ってもらいたくないですね。雅子さんのお母さんとは、若干理由が違いますが。ふたりの「雅子」かなり昔、この本は読んでいましたので、ドラマの内容は目新しいものではなかったです。でも、実写にすればそれはそれで面白かったですね。仲間由紀恵さんも、夏目雅子のイメージを壊さないでうまく演じていました。
2007.09.18
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赤毛のアン1巻も掛川さんの訳が欲しいのですが、だいぶ前に○岡訳を買ってしまったので、、、、機会があったら買い換えたいんですが。原題は「グリーンゲイブルズのアン」このグリーンゲイブルズというのは、日本で言うと屋号のようなものだと思っていたころもありますが、屋号は一族を表すから、ちょっと違いますねそれに、日本では、民宿でもない一般の家に名前をつけたりしないから この作品を日本で紹介するときに「グリーンゲイブルズ」という言葉をタイトルに使わなかったのは、正解だったと思いますどうやらプリンスエドワード島では、個人の家に名前をつける習慣があったようでダイアナの家のオーチャードスロープとか、アンが結婚してからの家も「夢の家」とか「炉辺荘」とか日本でも個人の家に名前ををつけるの、やってみたら面白いと思うんだけどなでも日本ではたまーにお金持ちの別荘の建物に名前をつけるぐらいですよね風光明媚な土地に建っている家なら、名前もつけてみたくなるかもしれませんが単なる街中の家じゃ、そうはならないかな大人になってから読み返してみて、一番感じたのはアンというのは、孤児にしてはできた子だなあ、ということでした親の愛情も知らず、きちんとした躾もされずに育った子ならもっと情緒不安定だったり、僻みっぽかったりしないのかな、と。現代の医学とか教育学に毒されすぎかもしれませんが、所詮、アンも大人が頭の中で考え出したキャラですし、その点は突っ込まないほうがいいのかな。 毒されすぎといえば、グリーンゲイブルズに来たばかりのアンがみょーにおしゃべりだったのは、生来の頭のよさもあるのでしょうがあれもやっぱり愛情をかけられず育ったため、自己顕示欲が強いというか、現代でいうところの「カマッテちゃん」みたいな感じだったのかな、と感じています。それにしても、この巻でのアンは、孤児であることの偏見と、結構戦っていると思います。マリラのブローチを盗んだことの濡れ衣を始めとして、リンドのおばさんから初対面で容姿のことでけなされたり、ダイアナの母親から、ダイアナとの交際を禁じられたり生徒一人だけ、フィリップス先生から罰を受けたり、露骨なのは、クイーン短大に進学するときのジョシーのセリフなんかも。でも、アン自身は孤児であることをひがんでいる様子はなく、いわれのない扱いを受けても、寛大にも相手を許してしまうところがやっぱり「できすぎな少女」という気がします。特に、ブローチの濡れ衣事件、私だったらマリラとしばらく口をきかないタイプだからなおさらですね。(「あんなに”盗ったのは私じゃない”って言ったのに、信じてくれなかった」とかね) バリーの奥さんにしてみれば、ミニー・メイの看病のあともダイアナとアンの交際を許すんじゃなかった、と後悔したこともあったかもしれませんね(笑)子供たちが幽霊の森を夜歩けなくなっちゃったときとか、アンが屋根から落ちたときとか。この巻の好きなエピソードは、いっぱりありすぎてわかりませんというか、多分読者のみなさんも、1巻では一番好きなシーンを選ぶのって、難しくないですか?あまり好きじゃないのは、コンサートで独唱するとか、シャーロットタウンに物見遊山に行ってきましたとか、そんなところですあまりリアリティが感じられないとは言え、アンは魅力的なキャラクターだと思いますが私がアンに劣らず存在感を感じるのは、マシュウです。おとなしくて人見知りの激しい、人畜無害な老人という設定ですが大事なところでは、重要な働きをしますアンをグリーンゲイブルズに引き取りたいという強い意志を示しアンの行きたいところに行かせてあげるようにしたり、アンの憧れている服を着せてあげたり実はさりげなく、足長おじさんのような存在になっていますよねマシュウ本人は、多分プリンスエドワード島の生まれ成人するちょっと手前の頃から、グリーンゲイブルズに住みその後、どんな女性とも恋をしたりすることはなく、一生農作業を続けてきた、という人生ですこう見ると、一体何を楽しみに生きていたのだろう?という疑問がわかなくもないですがマシュウ自身は特に不満も持たず、愛する女性(妹と養女)と一緒に穏やかに暮らしていけたので、修道士のような、すがすがしい一生だったのかもしれません。そういう意味では、現代からみて、マシュウの生き方で、幸せの評価というものを考え直してもいいのかもしれませんね。事実、マシュウが死の一日前に語った言葉「1ダースの男の子より、アンという少女一人のほうがいい」身体的にラクになるよりも、精神的な絆を評価していたマシュウ。役に立つ人間だけが、存在価値があるわけではない、ということを表していると思います(もっともこれは一昔前のテーマ、今はこの考え方がすべて当てはまるとはいえませんがね)
2007.09.12
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