Quasi sol oriens

Quasi sol oriens

魔女の家






 リゼットはヒルストン・ムーアの羊飼い。ある日リゼ

ットは雇い主に酷く叱られた。羊が一匹逃げ出して、見

つけるまで帰って来るな、と言われたのだ。

 リゼットは、谷の奥へ逃げたのかも、と思った。だが

そこには魔女の家がある。川に毒を入れたり、家畜に呪

いをかけたりする魔女がいる。一瞬怯んだが、勇気を出

して羊探しへ出かけた。

 谷底はじめじめしており、ハンノキと柳の密生する、

見通しの悪い薮だった。まだ昼なのに薄暗く、曲がりく

ねった小道が続く。

 一時間ほど歩くと、一軒のあばら家が現われた。家の

前には羊が繋がれている。「リトル・ピーター!」 リ

ゼットが駆け寄ると、あばら家から腰の曲がった老婆が

出て来た。リゼットは硬直した。魔女だ。

 だが魔女は気さくに話しかけてきた。

「あんたさんの羊かね? 良かった良かった。迷子みた

いだったから、うちで繋いどいたんだけどね」

「あっ、ありがとうございます!」

 リゼットの声は上ずった。魔女は嬉しそうに手を揉む

と、リゼットに手招きした。「少し休んでったら?」

 あばら家の中には、薬草がたくさん吊してあり、濃い

ハーブの匂いがする。リゼットは出されたハーブティを

飲みながら、自分のしていることが信じられなかった。

まさか魔女の正体が、こんな人の好さそうなお婆さんだ

なんて。──それとも罠?

 老婆が尋ねた。

「ヒルストン・ムーアの、アレックス・マロリーはまだ

元気かね?」

「マロリーのおじいさんは、三年前亡くなりました」

「そう」

 それっきり老婆は黙り込んだ。リゼットは尋ねた。

「あの、どういうご縁なんですか? 失礼でなければ教

えていただけませんか?」

「そんな恐縮しないで。あたしはリン・マロリー。アレ

ックスの妻の」

「マロリーのおじいさんに奥さんはいないって、聞きま

したけど」

 老婆はため息をついた。そして天窓を見つめると、昔

話を始めた。酒を飲んでは暴れ、機嫌が悪いと言っては

自分を殴る夫。青あざの絶えない日々。忍従ばかり強い

られる、希望のない生活。そんな時。あの「発作」が起

きた。

「一言で言えば、悪魔憑きじゃないかしら」

 今までおとなしかった妻が、突然罵詈雑言を吐きなが

ら家中の壷を叩き割り、鍋を投げ付け、火掻き棒で夫を

滅多打ちに打ち据える。彼女は説得に来た神父まで悪罵

した。そして見物人を一人ずつ、名指しで呪った。それ

が三十年前のこと。彼女はじきに村から追い出され、谷

深いあばら家へ放り込まれた。

「でもあたしは、これも神様の思し召しだと思うの。だ

ってそのお陰であたしはもう、ぶたれなくなったんだか

ら」

 リゼットは、村人が老婆のことを、川に毒を入れたり、

家畜に呪いをかけたりする魔女だと噂していることを、

話さない方が良いような気がした。

「お婆さんは今、幸せですか」

「最初は、辛いこともたくさんあったけどね」

 老婆は微笑んだ。

「あんたさんは幸せになりたいかね? もしそうなら、

それはあんたさんが今、幸せじゃないってこと。

 見たところ、恋煩いでもしてるのかね」

 老婆はタイムの花束を差し出した。「あんたさんはも

う少し、積極的になった方が良いかもね」

 ──タイムの花言葉は、勇気。



 リゼットは帰り際に、蜂蜜の壷を渡された。

「もし良かったら、お使いを頼まれてくれんかね? ア

レックスのお墓に、お花を供えて欲しいの」

「分かりました。必ず」

 リゼットは羊を牽いて、村へ帰っていった。そして空

を見上げて虚しく吐息を漏らした。老婆の気持ちが分か

らないのだ。夫を憎んでいるのか、許しているのか。村

人の畏怖と恐怖を一身に集めていることを、知っている

のか、知らないのか。あの笑みは、どこから来るものな

のか。

 振り返れば深い薮。魔女の家は、もう見えなかった。

                       (了)

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