日々、考察中。

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競馬!

競馬!

2003/9/19
僕が競馬をはじめたのは、オグリキャップのブームが終焉を迎えた頃だった。
 ラストランの有馬記念で激走したオグリキャップに、感動して涙するほど競馬を知らなかった。後に本になったオグリキャップのエピソードを読んで泣いたりはした。そのころは、競馬にどっぷりと浸かっていたのだ。

 競馬をはじめてすぐに僕はのめりこんだ。一般的にギャンブルにのめりこんだと言うと"身の破滅"や"借金"を連想するが、僕の場合は違った。競馬では、勝てたのだ。中穴と言われる配当を取るのが得意で、僕は勝った。年間のトータルでもプラスだったのだ。その年は、クラシック戦線に"3強"と呼ばれる3頭の強馬がいた。ナリタタイシン、ウイニングチケット、ビワハヤヒデである。まだ、競馬の知りはじめで、いろいろ覚える時期だった僕は、買うより見た。皐月賞はチケットとハヤヒデで決まりだ。見よう。そう思ったのだ。結果は、牽制し合った2頭をナリタタイシンが大外からぶっこ抜いた。してやられた。2着はビワハヤヒデ。僕は3頭の中では、ビワハヤヒデのファンだった。ダービーはハヤヒデで決まりだと確信した。
 東京優駿。ダービーだ。4コーナーから抜け出すしぐさのハヤヒデ。後方から外を回すタイシン。抜け出すハヤヒデに一気に詰め寄るチケット。結果はチケット、ハヤヒデ、タイシン。僕の本命は、またしても2着にやぶれた。この時点で、僕の競馬生活が続く事は決まった。
 皐月賞馬ナリタタイシン、ダービー馬ウイニングチケット。3強の中でタイトルを持っていないのは僕のビワハヤヒデだけだった。ハヤヒデファンには厳しい夏を迎えた。残るタイトル、菊花賞。これは是が非でも取りたい。僕は夏競馬を無視して、ハヤヒデの応援をした。北海道に涼しい夏を求めて移動した、タイシン、チケットに対してハヤヒデは栗東に残った。僕は応援し続けた。
 秋を迎えたハヤヒデは、変わっていた。3歳のころから4歳の春までにあった"もろさ"が無いのだ。完全に強くなっていた。菊花賞は1番人気。ぶっちぎった。僕はハヤヒデから、2強以外の馬3頭に流した馬券を握っていた。2着のステージチャンプはリアルシャダイの産駒という理由だけで僕の馬券に入っていた。僕は3000円を5万円に替えていた。僕は、菊花賞馬ビワハヤヒデがますます好きになった。
 有馬記念にこまを進めたハヤヒデは、1番人気になった。僕はハヤヒデから、いつものように3頭選んで流した。牝馬2冠のベガ、復活をかけたトウカイテイオー、いつ来るかわからないダンシングサーパス。厳冬の中山競馬場の4コーナー過ぎ、短い直線を向いた馬群から抜け出したのは、灰色に輝く馬体のビワハヤヒデだった。僕は勝利を確信した。あとは2着。
 直線一人旅かに思えたハヤヒデに迫る馬体。4白流星、長いたてがみ。トウカイテイオー。振り向くハヤヒデの鞍上岡部。迫るテイオーと田原。並ぶ間もなく半馬身の差をつけたところが、中山競馬場の短い直線の終わりだった。
 僕の馬券は、3000円を33000円に替えた。しかし、何かしっくりこない。その原因はハッキリとわかっていた。ビワハヤヒデが負けたからだ。しかし、テレビ画面に映った1人の男を見て考えが変わった。トウカイテイオーの鞍上、田原だった。彼の目からは、大粒の涙が流れていた。
 僕の中で"ビワハヤヒデ"と"トウカイテイオー"を同じ位のレベルにしたシーズンは幕を閉じた。2頭の強馬は、僕を競馬の世界へ引きずりこんでいった。
 ハヤヒデの菊花賞から、テイオーの有馬記念までの間に事件が起きていた。ビワハヤヒデの異父弟、ナリタブライアンの登場である。ブライアンは朝日杯をぶっちぎった。来年は、ハヤヒデとブライアンの年になると予感させた。

 ステップレースを完勝してきた兄弟は、それぞれ皐月賞と天皇賞に歩を進めた。僕は2頭を本命にして、いつものように3頭へ。皐月賞のブライアンは危なげなく3馬身以上の差をつけた。馬券も固く、僕の3000円は煙のように消えた。天皇賞のハヤヒデはブライアンに輪をかけて無かった。5馬身。2着にはナリタタイシンが入った。菊花賞で体調不良のため17着と沈んだタイシンだったが、3強は健在だった。人気サイドの5倍台の馬券は、僕の買うはずのない目だった。
 ダービーに直行したブライアンは鬼のような強さを見せつけた。4コーナーから大外を回した南井はむちを振るう。ブライアンは先頭をあっという間に置いてけぼりにして、観客スタンドに一番近い位置をたった1頭で掛け抜けた。強烈な強さを印象付けるレースだった。2着のエアダブリンを読みきれなかった僕は、またしても3000円をどぶに捨てた。
 ハヤヒデの鞍上岡部は、ゴール前手綱をゆるめた。楽勝だった。着差3馬身は、永遠につまらない。2着のアイルトンシンボリが、どんなに調子が良くても勝てない。そう思わせるレース内容でビワハヤヒデは3つ目のG1、宝塚記念を取った。12倍の配当は、3000円を12000円にした。僕の春は、プラス収支だった。
 秋、何かが狂った。京都新聞杯でスターマンに負けたブライアン。ステップレースを完勝して、天皇賞秋。故障を発生して5着に敗れたビワハヤヒデ。そして引退。
 僕の不安を払拭したのは、ナリタブライアンの菊花賞だった。菊花賞の兄弟制覇がかかった京都競馬場。ブライアンは2着を7馬身引き離してゴールラインを通過した。3冠馬誕生だった。
 ハヤヒデのいないジャパンカップを勝ったのは、マーベラスクラウンで、ハヤヒデのいない有馬記念を勝ったのは、弟ナリタブライアンだった。ブライアンは1年間にG1を4勝して、鞍上の南井はジャパンカップも合わせてG1を5勝した。ナリタブライアンと南井の年だった。
 僕の競馬収支は相変らず黒字で、中京競馬場遠征も成し遂げていた。数人といった中京競馬場のメインレース、愛知杯で1番人気だったイブキファイブワンが骨折して死んだ。僕は馬券を取った。

 サンデーサイレンス産駒は驚く程よく走った。サンデー産駒に逆らわなければ馬券はよくあたった。僕は、毎週の様に馬券を買うようになっていたが、以前のようにプラスが膨らむような配当を得る事はあまりなくなった。競馬を知ることによって、馬券に対する邪念が入ったのかもしれなかった。
 強さを見せ付けていたフジキセキがリタイヤして、ジェニュインが皐月賞を勝って、タヤスツヨシが斜行しながらダービーをぶっこ抜いた。ダイタクテイオーと藤田にこだわった僕は、クラシック戦線で惨敗した。古馬戦線では敵無しのはずのナリタブライアンが故障した。天皇賞は、リアルシャダイ産駒のワンツーで、ステップレースを惨敗して人気を落としていたライスシャワーから流して、10000円が20万円になった。2着のステージチャンプは、ビワハヤヒデの菊花賞といい、お世話になりっぱなしだ。ライスシャワーは、不可解な1番人気の宝塚記念で骨折した。リアルシャダイ産駒の中でも、生粋のステイヤーであるライスシャワーが、京都の2200メートルを勝てるはずがない、と僕は公言していた。ファンの涙を尻目に体を横たえたライスシャワーは、得意の京都競馬場で死んでいった。競馬ファンが、勝ち馬の名前を覚えていないレースナンバー1であろう、この年の宝塚記念は、"ライスシャワーが亡くなった宝塚記念"と言われるようになった。勝ったのは、ダンツシアトルだった。僕の馬券に2頭の名前は無かった。
 天才田原を鞍上に、マヤノトップガンが菊花賞を勝った頃から、僕の競馬カンは狂っていたのかもしれない。菊花賞はおろか、有馬記念も勝ったトップガンを馬券に持った事が無かった。有馬記念2着のタイキブリザードは、嫌いなタイプの馬だった。

 快心のレースが増えつつあった。復調であったが、乱調でもあった。
 細江純子の勝利を願って買った、レゾンデートル。馬券は80倍を超えた。500万条件だったこのレースを勝ったレゾンデートルは、1500万条件を勝つまで出世した。
 サクラローレルが断然人気だった天皇賞秋。人気馬を蹴飛ばす僕の本命は、4歳馬バブルガムフェロー。蛯名の手綱と田原の手綱に賭けた。1着バブルガム、2着トップガン、3着サクラの天皇賞は25倍ついた。
 万馬券も年に数本取るようになっていた。中京競馬場が得意で、10数人を前にして無印2頭を本命対抗にし、150倍の馬券を1000円買った。その後、50000円1点買いをして、砕け散った。
 年間収支はマイナスが多くなってきた。ただ、数万程度のマイナスで、1年遊んだと思えばたいした事が無かった。競馬は完全に趣味の1つだった。

 毎週土日の特別レースと重賞は必ずやっていたから、最低でも年間500レースは賭けていた。これが隔週になり、重賞のみになり、間が開いていった。競馬への執着心が薄れていった。G1すら、見逃す事が多くなった。
 多分、僕の中の最強馬は未だに"ビワハヤヒデ"であり、"トウカイテイオー"であり、"ナリタブライアン"なのだ。あれ以来、この馬が好きだという馬がいなくなってしまった。馬券だけの競馬の面白くない事に気づいた。
 僕は、次の最強馬の出現を待っているのだ。




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