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April 14, 2026
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「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことについて、
従来の通説とはまったく違う推論によって解決をはかる為に、
4月11日には、現状の通説と反論の状況を調べて検討して、
邪馬台国はどこにあったのか?(その84)「邪馬壹國」が正しいのか?「邪馬臺國」が正しいのか?その1

魏志倭人伝に書かれた不彌国と一大國(壱岐)の規模を示す戸数の単位が、
伊都国などが「戸」であるのに対して「家」であることから、
それは不彌国等が渡来人が多く住む国で、住居が伊都国などと違い中国式であり、
神功皇后のお産を助けた医師がいたり、
奴国だとされる須玖岡本遺跡で発掘された青銅鏡などの製造の技術指導を行った技術者たちが、


そして4月12日には、
実は倭国の人達は現代の人達が考えるよりもはるかに上手に漢字を使う人達で、
(恐らくは魏志倭人伝や後漢書でほのめかしているように中国から渡って来た渡来人で)
中国の漢字の読みに地域や時代により「上古音」や「漢音」及び「呉音」があるように、
倭国独特の漢字の読みがあり、
また、倭国には中国の使者が常駐するくらい交流が深かったのだから、
(外交とは一方通行ではなく双方向で ある はずなので)
倭人も相当数中国に渡っており、
魏志倭人伝を編纂した陳寿や後漢書倭伝を書いた范曄は、不確かな言い伝えではなく、
それらの倭人を呼んで、聞きながら倭国の様子を書いたのだと書いた。

 投馬國と邪馬台国は測量技術を持たない倭人に聞いて書いたので、
 方角と距離を書いた不彌國までとは違い、日数で書かざるを得なかった。)
邪馬台国はどこにあったのか?(その85)「邪馬壹國」が正しいのか?「邪馬臺國」が正しいのか?その2

ただ、上記の仮説が成立するには、
「倭音(僕の作った仮称)」が流通するほど人数がいないと、小人数では成立しない。


その前に本当にそんなことが有るのだろうかと思う人の為に、
古来から日本には漢字を使いながら、中国人にはまずそうは読めない読み方が多いことを示す。
それは固有名詞(特に地名や人名)に多い。
陳寿に自分の国を漢字で書いてみせた倭人が書いた「邪馬壹國」=「やまと國」と同じである。
例えば、「飛鳥」は中国人には全く「あすか」とは読めない。
でも既に奈良時代にはこの読みが成立しており、急には普及するはずが無いので発生はもっと前?
他にも斑鳩(いかるが)や隼人(はやと)なんかもそうである。
「隼」=(はやぶさ)は訓読みである。
古事記を読むともっとぞろぞろ出てくる。
古事記は漢字を使っているけれども、漢文とは少し違う。歌なんかは万葉仮名を使う。
「久羅下」を「くらげ」と読める中国人はいないと思う。
こう言う文化は10年や20年でできるものではない。
なので、倭人は神代文字を持たなかったのではなく、漢字を使えるので必要なかったのである。

ただ、小人数では世の中には普及しない。ある程度の人数が共通認識をもって使う必要がある。
なので、倭国には相当数の渡来人が居て、彼らは倭人の言葉を漢字で表す必要性から、
こんな使い方、「倭音」を発明したのだと思う。
その結果、「邪馬壹國」=「やまと國」と言う使い方が生まれたのである。

じゃぁそんなにたくさんの渡来人が倭国に居たのか?
記紀神話に証拠が載っている。
「天津神」である。
いやあれは神話ではと言う人は、頭が固い。
「天」の反対語は「地」である。
だから「天津神」の反対は「地」が付くはずなのに、実際は「国津神」である。
ならば、天津神とは渡来人で、国津神とは倭人だと考えるのは自然な話であり、
僕が勝手に思いついたものではなく、過去には偉い先生方も同じように考えている。
それをちょっと調べてみた。


学者・思想家・民俗学者・宗教家など、立場の異なる人々がそれぞれの理由で主張してきた。
ここでは、代表的な人物とその論の特徴を体系的にまとめる。

天津神=渡来人説を唱えた主な人物とその背景
1. 白鳥庫吉(しらとり くらきち)
時期:明治〜昭和初期の東洋史学者
主張の要点:
(1)記紀神話の天津神は「外来の支配者層」を象徴すると考えた。
(2)特に天孫降臨は、 北方系(ツングース系)民族の南下・渡来 を神話化したものと解釈。
(3)天皇家の起源を「北方騎馬民族」と結びつける先駆的な議論を展開。
白鳥は学術的に慎重な人物でしたが、天津神を「純粋な日本土着神」とは見なさず、
外来文化の影響を強調した点で重要です。
2. 江上波夫(えがみ なみお) ―
騎馬民族征服王朝説
時期:戦後の東洋史学者
主張の要点:
(1)5 世紀頃、 北方騎馬民族が日本列島に渡来し、支配層となった とする説。
(2)記紀神話の天津神・天孫降臨は、この征服王朝の到来を神話化したものと解釈。
(3)天皇家のルーツを外来のエリート層に求めた。
江上説は現在では支持が減っていますが、
「天津神=渡来支配層」というイメージを広めた点で非常に影響力がありました。
3. 折口信夫(おりくち しのぶ) ―
民俗学的アプローチ
主張の要点:
(1)天津神は「まれびと(客人神)」の系譜に属し、 外部から来訪する神 として理解できる。
(2)これは必ずしも「渡来人=外国人」という意味ではないが、
  “ 外から来る存在”としての天津神像 を強調した。
折口は民族移動よりも「神の来訪」という宗教的構造に注目したタイプ。
4. 梅原猛(うめはら たけし) ―
日本文化の外来性を強調
主張の要点:
(1)日本神話には大陸文化の影響が強く、天津神はその象徴。
(2)特に天孫降臨は、 大陸系の支配者層の到来 を反映した可能性があるとした。
梅原は大胆な仮説を多く提示した思想家で、学界の定説とは距離がありますが、
津神外来説を一般読者に広めた功績は大きい。
5.古代史研究の一部(民間学者・新古代史系)
「天孫族=渡来系」「国津神=縄文系」という二元論を唱える人々が多い。
例: 天孫族=朝鮮半島南部からの渡来人
  国津神=縄文的土着勢力
これは学術的には慎重に扱われますが、民間研究では根強い人気があります。

つまり記紀神話における「天津神」を渡来人だと考えている人は多い。
そして僕はもっと奇抜な説を思いついてしまった。
ただ、これはあくまでも「思いつき」なので根拠は全くなく、ほぼ眉唾なので注意。
でも、面白いので読んで欲しい。

記紀神話には「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」と日本成立までの流れを書いているが、
この順番はどう考えてもおかしい。
島根で国を譲ってもらったのに、わざわざ宮崎に天から下りて来て、
あげくの果てに、その宮崎から奈良に向かって進軍して、奈良に都を開いて日本ができる。
何でそうなるの?
順番間違ってない?島根で国を譲ってもらったら島根に天から降りて来ればいいじゃん!
国を譲ってもらったのならば、再度奈良に進軍する必要は無いじゃん?

そこで僕が考えたのが、
纏向遺跡は元々は「太田遺跡」と呼ばれていて、そこは昔は出雲の太田田根子が住んでおり、
彼は目の前の三輪山に祀られた事代主命(大物主)を祀っていた。
またそばにある箸墓は事代主命の奥様のやまとももそ姫のお墓である。
じゃぁ、ここは本当は出雲の国だったのではないか?

古事記によれば、大国主命は島根の出雲で兄神達に2回も殺され(そうになり)、
母神に助けられて、木の国(紀ノ國)へ逃げる。
そこでも兄神達に追いかけられて危なくなり、さらに奥の須佐之男命の元に逃げる。
そこで須佐之男命から試練を与えられて、それをスセリヒメの助けを得てクリアーして、
スセリヒメをお嫁さんにもらって新しい国を作り、兄神達を滅ぼす。

うん?紀ノ國?和歌山県じゃん。その奥?吉野じゃん。そこから先には纏向が有るじゃん。
地図を見ると、付近の山には「出雲」と書いてあるし。

さらに少し離れた吉野川の流域には、宇陀市榛原石田があって、
そこは昔は「伊那佐」と呼ばれたらしい。今でも伊那佐文化センターが有る。
え?国譲りが有った場所は「伊那佐の小濱」では?
昔は川の縁の砂浜も「小濱」と言ったらしい。
国譲りの際に事代主命は魚釣りをしていたと書かれているが、
日本書紀の一書では鳥を捕まえに行っていたと書かれている。
もしかして国譲りの場所はここだったのでは?
だって古事記には「稲佐の小浜」ではなく、「伊那佐の小濱」と書いてあるもの。

そう考えると
「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」の順番を、
「天孫降臨」、「神武東征」、「国譲り」の順番に変えれば、つじつまが合うのでは?
ただ人名(神名)は少し変える必要があるけれど。
天孫降臨とは倭国大乱で狗奴国=出雲の勢力に殺されそうになった天孫が、
鹿児島あたりに居た強力な隼人達に助けを求めて、鹿児島と宮崎の付近に落ちのびたのであり、
宮崎から攻めて行った崇神天皇が、吉野川のほとりで大国主命に国譲りを迫り、
大国主命が、
「まぁしょうがないから譲るけれども、生まれ故郷の島根に引退するので大きな館を作ってね」
と言って、島根に出雲大社を作ってもらって引退したのなら、
全部つじつまが合うじゃん。
事代主命は国譲りの際に隠れた(死んだ)と言う人もいるけれど、
日本書紀等には神武天皇に可愛がられた(重用された)とも書かれているし、
何よりも神武天皇は
「事代主の娘」である「媛蹈鞴五十鈴姫」をお嫁さんにもらっている。
もし崇神東征が本当ならば、出雲を滅ぼしたのではなくて、臣下にした(国譲り)のだと思う。

ただ、神武東征について考えているうちに違う可能性も見つけてしまった。
上に宮崎から攻め上ったのを「崇神天皇」にしたのは、
記紀神話では、
「始馭天下之天皇(はつくにしらす-すめらみこと=最初に国土を統治した天皇)」が、
神武天皇と崇神天皇の2人いるからである。
そのせいで通説では神武天皇と欠史八代の天皇達は非実在の人物とされており、
実際の最初の天皇は崇神天皇だろうとされているのである。

じゃぁ神武東征とは何なのか?
日本書紀をよく読んでみた。
神武天皇が東征をするきっかけとなった塩土の爺との会話を書いてみる。
<日本書紀原文>
自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。
而遼邈
之地、猶未霑於王澤、
遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。
抑又聞於鹽土老翁、
曰『 東有美地、靑山四周、
其中亦有乘天磐船
而飛降者。』
余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之
中心乎。
(途中略)
 是年也、太歲甲寅。

<意訳>
天孫が降臨されてから、百七十九万ニ千四百七十余年になる。
しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、
村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。
さてまた塩土(シオツツ
)の翁に聞くと、
東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。
その中へ天の磐舟(いわふね
)に乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。
思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。
(途中略)
 この年は太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )である。



「まだ王の恵みが及ばず」と言うのは、
ようは攻めて行って自分の支配下に置きたいなと言うのを偉そうに言っているだけで、
理由にはなっていない。
ただ、えー?と思ったのは「この年は太歳の甲寅である。」と言う部分。

神武天皇の即位年を「辛酉年」と考えて明治6年に「紀元節」が設けられて、
「紀元2600年」が祝われたのだが、
さすがに神武天皇やその後の欠史八代の天皇が100歳を超える長寿であり、
欠史八代の天皇は名前と系譜だけで事績がほぼ無く実在が怪しすぎて、
現代ではよほどの変人でなければ、これを信じる人はいない。

でも、この神武天皇の東征のきっかけになったエピソードもそうなのだろうか?
実は僕は変なことに気がついてしまった。
古事記や日本書紀の元になった、この辺のエピソードって「口伝」だよなと。
「口伝」で代々伝わるうちに、いくつかのエピソードがこんがらがったのでは?
だから「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」の順番になってしまったり、
100歳を超える人間ができてしまったのでは?
じゃぁ、このエピソードは何なのか?

もしかしてこれって神武天皇ではなく「秦の始皇帝」が言ったのでは?
このエピソードの細かな部分は日本に合わせて多少変わっているが、
塩土の爺とは徐福のことで、東の良い土地とは日本のことなのでは?
日本書紀にする際に、そんなこととは知らない編纂者たちが日本に合わせて修正したので、
いかにも宮崎から奈良に向かったように書かれているが、
塩土の爺すなわち徐福で、神武天皇すなわち秦の始皇帝と考えると面白い。
それは太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )と言う紀年である。
これって秦の始皇帝の即位年じゃん!
もしかして史記に書かれた秦の始皇帝と徐福のエピソードそのままなのでは?
ただ、口伝で代々伝わるうちに他のエピソード(崇神天皇の九州から奈良への進軍)等と混ざり、
変になってしまってはいるけれど、天津神=渡来人が倭国に来たきっかけの話なのでは?
また、そう考えると、奴国にあふれていた渡来人=天津神は秦から渡って来た人達の子孫では?
奴国に居た渡来人は、徐福とその一行の子孫なのでは?
子孫は倭人と交わり、多くなっていったと考えれば「倭音」が発生していたと考えられるなぁ。
そして神武天皇の即位年の「辛酉年」はそれよりもずっと後のことになる。
紀元前660年はまだ秦の始皇帝も居ないから。

もちろんこれは「妄想」なんだけれども、
面白い仮説を思いついちゃった。
太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )が秦の始皇帝の即位年だと気がついた人はいないと思う。
でも考えたら、紀年に「太歳の」とわざわざ付けているのはここだけなんだよな。
他の所ではつけていない。
そう考えると、この「妄想」はもしかするのかも?

ただ、太歳紀年は木星の周期が厳密には12年ではなく、干支の12年からは少しずれるので、
漢以降には修正されており、太歳の甲寅が秦の始皇帝の即位年なのは古い紀年法なので注意。
何の証拠も無いけれども。
こう考えると夢が有って良いと思う。
歴史って面白い。







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最終更新日  April 20, 2026 01:07:23 PM
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Re:邪馬台国はどこにあったのか?(その86)「邪馬壹國」が正しいのか?「邪馬臺國」が正しいのか?その3(04/14)  
こんにちは さん
これは非常に面白い仮説かも
他にもこのような主張をしている人はいるのですかね (May 6, 2026 01:44:18 PM)

Re[1]:邪馬台国はどこにあったのか?(その86)「邪馬壹國」が正しいのか?「邪馬臺國」が正しいのか?その3(04/14)  
こんにちはさんへ
多分他にはいないと思います。文献史学の学者はプライドだけが高くて他の分野の勉強はしませんし、権威主義なので過去の先生方の理論をうのみにして新しい発見は除外しますから。本来文献史学と考古学は歴史研究の両輪なのですが、両方の学者はお互いに歩み寄りが無く、自分に都合の良い部分だけをつまみ食いするので、両方がかみ合っている人は少ないと思います。両方を研究しているのは関裕二先生くらいかなと思います。纏向遺跡を考古学的証拠だと言うのは史学の学者だけで、考古学の先生方は冷静に「可能性はある」程度にしか言っていません。風水の研究をしてみると、中国人は相当に古い時代から方位を知る方法を研究しており、南と東を間違えることはあり得ません。また後漢書は魏志倭人伝をうのみにせず再検証を行って書いています。その中で狗奴国の位置について再検証の結果女王国の東の海を渡った千里の位置に修正しています。なのに女王国の修正はしていません。と言うことは女王国の位置については修正の必要が無かったと言うことなので九州内です。そしてその東の海を渡った千里の狗奴国は出雲がちょうどあてはまると思います。 (May 6, 2026 02:30:58 PM)

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