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江東区深川から浦和(現さいたま市浦和区)へ引っ越したのは、やがて幼稚園入園の年齢になった
頃で、
母の実家が
4
キロほど離れた郊外にあり、私たちはここを
『田舎』 と呼ぶようになりました。
『田舎』は母の父母・母の長兄と奥さん・私より
3
才年下の男児(引用エッセイの
従弟)独身の次兄の
6
人暮らしでした。
前回のカブトやクワガタを取りに行けたのも、子どもでは届かない高さにいる
虫たちを
次兄が、抱き上げて取らせてくれたからでした。彼は戦死しました。
入園し春の遠足の直後に、猩紅熱(しょうこうねつ)を発症し、 40
日間隔離入院させられたのだ。
父の仕事は順調だったらしく、生活に余裕があったようで、入院中、専任の看護婦さんをつけて
くれた。矢島さんと言った。
後の話だが、退院してきたら、カタカナとひら仮名が読めるように
なっていて、「矢島さんに感謝した」と、父は言った。
そんな父の気持ちの現われだろうか、
その後も、矢島さんは、度々、家に遊びに来るようになり、助産婦の資格も持っていて、母が末弟を
自宅出産できたのも、彼女の助けによるものだ。入院は思いがけない縁を作った。
字を覚えた私は、幼稚園のお絵かき、お歌
、
お遊戯に飽き足らなくなって、登園拒否を起こした。
「幼稚園はつまらない」「そうだろうな」父は納得してくれた。父が買ってきてくれる本を、何度も
読み返して過ごしたが、飽きると、近所の子供たちと外で遊んだ。
「あらぁ、今日は幼稚園に
行ってるんじゃなかったの?」
近所の小母さんたちは、皮肉まじりに言った。そんな言葉が、いつしか母の耳に入り、
「幼稚園に行かないのなら、外で遊んじゃ駄目」と、禁止令がだされた。
弟は五才も年下で、家に遊び相手はいない。三才下の『田舎』の従弟の方が、まだ、ましだった。
近隣に遊び相手がいない彼は、私が行くと、大喜び。纏わりつかれなくなる伯母にも歓迎された。
自分の家より居心地がよいという訳だ。
入院生活で、他所に泊まることにも馴れて、夜寂しくて
泣くこともなくなり、大手を振って、『田舎』に居続けた。
と言う次第です。 文脈から考えると『国民学校』にいっていたと思います。
1年生になった時から、
時間があれば、
一人でバスに乗って行き来していましたので…
私の『田舎』好き、『田舎』通いは
1945/8/15まで、続きました。
浦和駅からバス10分の降車バス停、
吉祥寺。
天台宗の中心的寺院の一つとされる。
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