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多くの若者は、結婚することや子育てにも関心を失ってしまい、大変な苦労を背負い、自分のために使える時間や費用を犠牲にしてまで、そうした面倒なことに取り組みたいとは思わなくなった。無理をして家庭を持ち、子供を産んだとしても、喜びよりも負担ばかりを感じるようになった。その影響は、結婚や子育てだけではなく、それ以外の対人関係にも及ぶ。人々は友人や隣人に対して心からの親しみを感じたり、困ったときに助けあったりすることが少なくなった。なぜなら、そうすることが喜びをもたらすよりも、煩わしさや苦痛や負担しかもたらさないからだ。社会はそれぞれがバラバラに孤立した、とげとげしく、パサパサの殺伐とした場所になりつつある。それぞれの人が、交流を最小限にとどめて、個人の殻に閉じこもり、それぞれの生活を楽しむようになる。もはや他者のために生きる事は喜びをもたらさず、自分のために生きることでしか、本当の満足を味わえない自己実現の追求こそが価値であり、真の生きがいとなる。そのためには、お金や時間やエネルギーを、できれば自分のためにだけに使いたい。我が子といえども、時間を奪われすぎる事は、煩わしく、邪魔者に感じられる。子育てという、本来最も重要な行為よりも、自己実現や自己の快楽追求が優先されるようになる。子育てはもはや、子供のための行為ではなくなり、母親が主人公の、母親のための行為になっていく。教育も、子どもの現実的なニーズではなく、親や大人側の期待が優先され、子供たちはそれに踊らされたあげく、自立の失敗というツケを払わさられる。遊びや対人関係も、人との交わりを楽しむのではなく、自分が主人公で、自分が楽しむものに変わっていくことになる。こういう社会に急速に確実に移行しているとすれば空恐ろしいことである。岡田尊司氏は、この現象は脳内のホルモンの変容から説明されている。下垂体後葉からオキシトシンとバソプレシンというホルモンが分泌されている。今まではこれらのホルモンの分泌が盛んで、これらのホルモンを受け取る受容体が脳内にしっかりと形成されていた。ところが現代の人間にはその仕組みが徐々に壊されていると指摘されている。その仕組みが壊されると、親子の関係や人間関係が全く変わってくる。詳しく見てみよう。これは北アメリカに住むハタネズミの研究で明らかになった。プレーリーハタネズミは、 一夫一妻のつがいを形成し、子供たちとともに大勢の家族をなして巣穴で暮らす。それに対して、サンガクハタネズミはつがいを作らず、不特定多数の相手と交尾し、別々の巣穴で暮らす。生まれたばかりの子ネズミを母親から離して1匹だけにすると、プレーリーハタネズミは悲鳴を発して助けを呼ぶ。サンガクハタネズミは、特に反応せず、ストレス・ホルモンの上昇も見られない。つがいの形成が起きたプレーリーハタネズミでは、オキシトシンやバソプレシンの受容体は、側坐核と言う快感を感じる中枢に多く存在していた。つがい形成が起きないサンガクハタネズミでは恐怖などの情動の中枢である扁桃体などに多く存在していた。プレーリーハタネズミでは大家族で生活することに快感を感じ、それが強化される仕組みが出来上がっていた。反対に、サンガクハタネズミでは、そういうことに快感を感じることは全くない。それよりも自分だけが好きなことをして、単独行動を好むようになる。家族や他人が近くにいると煩わしてく気が散って仕方がないのである。人間の社会でこうした事態が進行すると、社会全体が自己愛的で、自閉症的風潮が蔓延してくることになる。現在、マンションでも隣の人とは没交渉、また孤独死、無縁社会が社会問題となりつつある。今後、周囲の人と関わりを持たないで、個人個人の孤立生活を楽しむ生活様式が進展すれば、それらの問題は、ますます拡がってくるだろう。問題点を指摘しておこう。0歳から1年6ヶ月の生育期間中に、父母との間に愛着の形成が行われなくなると、追い討ちをかけるように、オキシトシンとバソプレシンの受容体が形成されなくなるということである。愛着の形成は本人のその後の対人関係に影響するのみならず、社会全体としての共同体の維持、無縁社会の形成に拍車をかけるということである。子育ての中でで愛着の形成をいかに確立していくかということは、現代社会に突き付けられた大きな課題となっている。(愛着崩壊 岡田尊司 角川選書より引用)
2017.05.30
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何でも話せて、自分の弱い面や未熟な面を見せても非難されることがない相談相手を、1人持つだけで、自殺のリスクは半分に減少すると言われている。日本的な言い方で言うと、甘えられる人間関係を持っておくことが大事なのだ。甘えられる存在が身近にいると、危機や試練を乗り越えやすい。岡田尊司氏は、そういう人のことを「安全基地」と呼んでいる。では、自分が「安全基地」の役割を果たすためにはどうすれば良いのだろう。安全基地の第一条件は、まず相手の安全を脅かさないということです。安全を脅かす最たるものは攻撃だ。相手の非を責めたり、感情的に怒ったりすることが多すぎると、その関係は安全基地ではなくなっていく。いくら本人のために言っているつもりでも、結果は同じだ。ポイントは、ネガティブな反応を減らし、ポジティブな反応を増やすということだ。ネガティブな反応をする癖がある人は、相手が言ったことに、 7割まで同意でき 3割だけ違っていても、違うと考えてしまう。相手から何か言われると、まず「いや、違う。 」と反応する。何かアドバイスや注意をされると、 「でも」と言い訳を考えてしまう。そういった思考が、その人の幸せや可能性を邪魔している。「でも」とすぐ言い訳をしてしまう人にとって、人生を変える良い方法がある。その方法は実に簡単で、効果抜群だ。誰かから何か気に食わないこと言われたら、 「私もそう思っていたんだ」と答えるだけで良い。「もう昼の12時よ。いい加減に起きたら」と文句を言われたら、 「うるさいな。休みの日ぐらい寝かせてくれよ」と言う代わりに、 「僕もそろそろ起きようと思っていたんだ」と答えるのだ。これは機械的に行うことが大切だ。心の中では反発したくなっても、「実は私もそう思っていたんだ」というのだ。努力すれば誰でもできる。これだけで人間関係が大きく改善する。次に、応答性を高めるということだ。応答性とは、相手が求めてきたら、答えるということである。相手が何かしたら、こちらもリアクションする。相手がしていることにまず関心を向け、一緒に反応することだ。応答性とは、あくまでも相手が求めてきたときに答えるということである。求めてもいない事を、こちらから一方的に押し付けたり、やらせたりすることは応答性では無い。それは過保護で相手の自主性を切り取って、依存性を強める。支配やコントロールに近い。3番目は、共感性を高めるということだ。共感性を高める秘訣は、結果ではなく、プロセスに目を注ぎ、プロセスを評価する言葉を使うように心がけることだ。「 100点はすごいな」ではなく、 「一生懸命勉強していたのはすごいな」のほうが共感的な言い方なわけだ。「今回はうまくできなかったけど、あなたが努力していたのはよく知っているよ」たとえ60点と結果が振るわなくても、共感的な言い方は、変わらずに使える。それは結果に左右されないと言うことであり、逆境から守ることにつながる。この3つを心がけて、できるだけ周囲の人の「心の安全基地」になってあげられるように努力してみよう。自分が相手の「心の安全基地」となろうとする努力は、相手に「心の安全基地」としての役割を果たしてもらうことに役立つと思う。(ストレスと適応障害 岡田尊司 幻冬舎新書 204ページより引用)
2017.05.06
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人間の体にウイルスや細菌などの異物が侵入した場合、免疫細胞はこれらを攻撃して処理しています。免疫細胞の主力を担うのは白血球です。白血球にはマクロファージ、リンパ球、顆粒球があります。マクロファージは体内に侵入してきた細菌や異物などをキャッチすると、それを体内に取り込んで処理しています。さらに発見した異物の情報をTリンパ球やBリンパ球へ伝えます。Bリンパ球はその情報を元にして抗体を作ります。この抗体がウィルスを撃退するのです。がん細胞などはナチュラルキラー細胞が攻撃しています。このように、私たちの体内では、日々刻々白血球がウィルスや細菌と戦っているのです。私たちは意識はしていませんが、けなげにも白血球たちは命をかけて私たちを守ってくれています。もし白血球が闘いを止めて、免疫機能を発揮しなくなると、ウィルスや細菌に負けて死んでしまいます。白血球の働きから分かることは、自分の生命を危機に追いやる相手に対して、何もしないでやられっぱなしではダメだということです。生命は闘いづけることで、生き続けることが可能となるように宿命づけられているのです。これは基本的には人間と人間の関係でも同じことだと思います。力の強い人間は、力の弱い人間を力で征服して服従させようとします。いったん支配されるようになると、自分たちの築いた富や財産は収奪されてしまいます。また行動の自由はきかなくなります。支配する人の欲望の充足に奉仕させられるようになります。いつも支配者の顔色を見ながら、びくびくしながら生活するしかなくなります。そういうことにならないように、普段から対等な力を身につけておく努力が欠かせません。力関係のバランスがとれていれば、緊張感はありますが、対等の立場で話し合いをすることができます。国と国の関係もそうだと思います。ある国が武力でもって、自分たちの国を攻撃した場合、対抗手段を持たないで無抵抗だとすると、すぐに制圧されてしまいます。戦争で負けた国は悲劇です。殺されたり飲むや食わずの生活を余儀なくさせられます。被支配国になってしまうと、すべての物を失うことになることを忘れてはなりません。ですから、基本的には相手国と同じだけの力関係を保つための努力が必要です。同盟関係といっても、力の差がある場合は対等ではありません。支配-被支配の関係です。また、自分たちの生命の源となる食料を他国に依存するということは、容易に被支配国に陥いるということを肝に銘じておかなければなりません。他のものはともかく食料の国内自給の向上は安全保障上生命線となります。そうしないと自分たちの国の主権と独立を維持することができません。こういう視点で日本を見てみると、外交、軍事、食料などででアメリカに支配されています。日本とアメリカの関係は、力の弱い国同士が助け合っているということではありません。アメリカが親分で日本は子分の関係です。つまり支配国がアメリカで日本は被支配国です。外交交渉では常にアメリカが主導権を発揮していて、基本的には日本はアメリカの言いなりです。アメリカは日本を守ってやっているのだから、アメリカの命令に素直に従うべきだという考えです。今から本格的に始まる貿易の二国間交渉は、アメリカの要求に屈することになるでしょう。食料の自給率では、日本は先進国中最下位です。食料は今後、世界の人口の増加による争奪戦が始まります。安定的に今後も食料が確保される保障はありません。またいつ何時気象変動による不作に見舞われないとも限りません。それが現実となって目の前に突き付けられた時ではもう遅いのです。日本国民はその時点ですぐに生命の危険にさらされます。さらに簡単に外国に支配されるようになります。対等な立場で外交交渉する力を持ち、自分たちの国を守るということができなくなります。国の方針が間違っているとしか思えません。私たちの体内で日々行われている免疫機能に学び、人間関係や国と国との付き合い方を、今一度再検討してみる必要があるのではないでしょうか。贅沢三昧の生活に浮かれている時間はないのです。
2017.04.27
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アスペルガー症候群と診断される子供たちがいる。この子供たちは、身の回りのことをするのを覚えるのに時間がかかる。いつまでもぐずぐずして取り掛かることができない。ちょっとの間もじっとしておられず、絶えず落ち着きがなく動き回り、手当たり次第に物を掴み取っては、引き裂いたり、壊したりする。他の子供に関心を持ったり、遊びに加わったりすることがないそれどころか、周囲の子供をイラつかせる。自己中心的で、一方的に自分の主張を繰り返し、それが受け入れられないと暴力を振ったりする。相手を喜ばせようとか気に入られようとかは思わず、周囲から親しいふれあいを求められても、拒否してしまうこともある。こだわりや情緒不安定、常同行動から、奇声、逃避、自傷、パニックや暴発に至ることもある。こういう子供がクラスの中に1人でもいると先生は対応に苦慮する。親はつい「やらないといけないのに、どうしてできないの」と叱責してしまう。アスペルガー症候群の子どもたちに、親や先生が普通の子供のようになってもらいたいと考えて、接触を図るとうまく行かないようです。それよりも、その子供たちの現実を受け入れて、その子供たちの特徴を生かした教育やしつけをした場合、思わぬ能力を発揮するようなことになる。アスペルガー症候群を抱えていた人は、普通の人には無い特殊な能力を持っている場合がある。有名な人では、アインシュタイン、ビルゲイツ、エジソン、ジョージ・ルーカス、ヒッチコックなどがいる。エジソンは小学校に入学するが、学校での評価は散々なものだった。校長先生は、エジソンが「注意散漫で、空想にふけってあり、奇異な行動ばかりしている」ことを問題視していた。ついでに業を煮やし、クラスメートの前で平手打ちを食らわせて罵倒した。すっかり打ちのめされた。エジソンは泣きながら家に帰り、その後学校に行かなくなった。話を聞いた母親は、息子を連れて校長先生に会いに行くと、 「自分の方がこの子のことわかっているので、自分で教えます」と言い切って退学させた。家庭で行った教育は、 「形式的な教授法でエジソンをしばるのではなく、何でもやりたいようにやらせて、子供の想像力が存分に発揮させるようにやらせた」という。母親は時間を決めて、読み書きや算数のレッスンをしたが、それ以外は本人の興味をうまく刺激しながら、本人の自主性を引き出していった。エジソンは読書が好きで、母親が買い与えた「自然・実験哲学概論」という本は、エジソンを虜にした。挿絵が満載のこの本には、電池の作り方や簡単な実験の仕方が絵入りで紹介してあった。エジソンは、台所から実験材料をこっそり持ち出して、実験にふけるようになった。すると、母親は地下室を実験室としてエジソンに提供した。エジソンはそこで自ら学んでいたのである。これを見るとアスペルガー症候群を抱えた子供の教育は、親や先生の「かくあるべし」を押し付けるような教育ではうまくいかない。アスペルガー症候群を抱えた子供たちの特徴をよく観察し、そして何よりもその子供たちの置かれた状況を受け入れていくという基本姿勢は欠かせない。そしてその子供たちの中に眠っている隠れた能力を見つけ出して、伸ばしていくという教育に切り替えなければならない。その子供たちの問題行動にばかり目を向けて、子供を叱り付けたり排除するやり方では、その子自体も苦しいし、親や先生にもストレスが溜まるばかりである。森田理論では「かくあるべし」を少なくして、事実本位に生きていくことを学んでいくが、アスペルガー症候群を抱えた子供たちに応用できる考え方である。(アスペルガー症候群 岡田尊司 幻冬舎新書参照)
2017.04.26
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小学校5年生の男の子が、髪の毛を抜いてしまうと言うことで、精神科医岡田尊司先生のところにやってきました。最近は、それだけでなく、こっそり親のお金を持ち出したり、嘘をついたりするようになった。もともと落ち着きがなく、考えもなくパッと行動してしまうところがあり、忘れ物が多かったり、先生が言ったことを聞き逃して困ることが多かったのだが、近頃では母親が注意しても、素直に耳を貸すどころか反抗的になるときもあり、手に負えなくなっている。家庭だけでなく、学校でも、先生や友達とトラブルになることが増えている。生活は投げやりで、言わないと宿題もやらない。注意されれば渋々やるか、やりたくないという態度が露骨である。この男の子の場合、症状から診断して、一般的には 「抜毛癖」 「素行障害」 「虚言癖」 「注意欠陥・多動性障害」 「反抗挑戦性障害」などの診断が下されることが一般的である。岡田医師は母親との面談の結果、一連の症状は親子関係に問題があったと判断した。この男の子は、両親は専門的な仕事をしていたため、小さい頃から保育園に預けられて育った。ただ、保育園に預けっぱなしにしていたというより、両親ともにとても教育熱心で息子にかける期待は人一倍大きかった。小さい頃から習いごとをたくさんさせてきた。保育園に迎えに行くと、その足で習い事に直行するという生活が1週間のうち、多くを占めていたのである。愛情がないわけではないが、世話や関わりは人任せになる一方で、習い事をさせたり指導や注意をしたりすることには熱心だったのである。干渉ばかりが多く、時には厳しく叱ることもあった。その結果、この男の子にとって、親は心からの関心や親しみを覚える対象と言うよりも、口を開くと命令するか、否定するかの、うるさくてめんどくさい存在となっていた。自然な情愛的な結びつきは弱く、親に甘えたり、困っている事を相談したりすることもない。愛着という点から見ると、共感的な結びつきが希薄であるだけでなく、いつも強制され支配され無理やり服従させられていた。親の一方的な押し付けと、評価に縛られた子供は、主体性をを奪われるばかりか、逃げ場所を失ってしまう。家庭は、安全基地とは反対の、危険基地や強制収容所のようなものになってしまう。これは直接暴力を加えているわけではないが、指導という名の虐待に他ならない。行動上の問題を直そうとして厳しく指導したばかりに、問題行動がさらにエスカレートし、反抗や思考が激しくなることも多いし、行動上の問題は改善したかに見えても、もっと厄介な問題を生じてしまう。例えば、無気力や自己肯定感の欠如などである。ここで気になるのは、医学モデルによる診断と治療もひとつ間違えば虐待と同じ構造になってしまう危険がある。医学までもが、その子供を異常と診断することは虐待に加担することにならないだろうか。医学モデルによる診断は、生育環境や親子関係などの細かい事情を覆い隠し、病名があたかも実体で、それが症状を引き起こしているような錯覚を生む。(愛着障害の克服 岡田尊司 光文社新書より引用)私はこの話を聞いて、神経症で悩む人も、その原因が親子関係などの人間関係にあるのではないかと考えるようになった。私たちは、神経症から回復するために、森田理論学習をしているわけですが、その前に親との関係で愛着障害を抱えているのではないかと考えるようになった。そこで愛着障害という本で愛着障害の診断テストをしてみた。すると不安型愛着障害に該当していた。不安型いうのは、親との信頼関係が築かれていないために、大人になって見捨てられ不安が付きまとい、常に他人の思惑に振り回されて生きていくことがつらい状態である。そういう人の場合、いきなり森田理論学習をするのではなく、愛着障害からの回復をまず第一に考える必要があるのではないか。幸いなことに愛着の再形成は大人になってもある程度可能である。心の安全基地を作ることが優先されるべきことではないのかと考えるに至りました。
2017.04.23
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和歌山県白浜にアドベンチャーワールドがある。ここで絶滅危惧種のパンダが飼育されている。アドベンチャーワールドでは15頭のパンダの繁殖に成功している。パンダは世界各地で飼育されているか、途中で死んでしまうのが2割もあるという。パンダの飼育に最も成功しているのがこのアドベンチャーワールドなのだ。パンダは200グラムという小さな体で生まれてくる。母親が踏みつけてしまうことがあるので、一般的には生まれるとすぐに親から隔離して人間の手で育てられる。母親に授乳をさせないで、人間が哺乳瓶でミルクを与える。これは、一見してパンダの生育には理にかなっているように見える。ところが、そのようにして育てられたパンダは大人になって好奇心がなく積極的にならないという。また、子育てをしなくなるという決定的な問題が発生する。クローズアップ現代+では、アドベンチャーワールドでのパンダの出産から子育てを紹介していた。母良浜(ラウヒン)が、子供結浜(ユイヒン)を生んだ。最初、母親は出産で疲れたのか、まったく授乳をしなかった。それでもアドベンチャーワールドの飼育員は、注意深く見守るだけで子供パンダを母親から引き離すことはしなかった。すると、しばらく経ってから、母親は子供を抱きしめるようになり授乳を始めた。これは産毛のような状態で生まれてきた子供の体温の低下を防いでいるのだという。その後、しきりにお尻を舐め始めた。これは排泄を促しているのだという。そのせいで肛門が赤くただれていた。その時だけは治療のため一時的に母親から引き離した。その時母親は気が狂ったように飼育室の中で暴れていた。母性が強いというのがよくわかった。治療が終わった子どものパンダは母親の元へと返され、その後は順調に成長していった。パンダの成長は早い。3ヶ月ほど経った時点で歩き回るようになり、好奇心旺盛で盛んに動き回るようになった。ここまでくると、一安心である。順調に大人のパンダに成長していくことであろう。この話は人間の子育てにとっても大変参考になる話である。人間の場合は生まれてから1年6ヶ月の間は母子密着が欠かせないという。この間、何らかの理由で母子密着が阻害されると、その後愛着障害が発生する。基本的な人間関係である他者への信頼感が得られなくなるのである。いつも他人の目を意識しておどおどしたり、好奇心を発揮して様々なことに挑戦することができなくなる。対人恐怖症の人は、自分では判断できないかもしれないが、この愛着障害がその原因となっている可能性がある。現代社会では、生活のために出産が終わると、子供を保育園に預けてすぐに職場復帰をする場合が多い。これは子供の人生において、大きな重荷を背負わせることになるという認識は持っておいた方が良い。その認識がないと子供とのかかわり方が暗中模索になる。不幸にして愛着障害を抱えた人はどうすればよいのか。愛着障害という生きづらさは大人になってからも修復可能であると精神科医岡田尊司氏は言われている。「心の安全基地」となるような人間関係を自分の生活の中で築いていくことである。集談会に参加する意義の一つはまさにこの点にある。
2017.04.07
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最近「忖度」(そんたく)という言葉がニュースでよく聞かれる。森友学園の国有地払い下げ問題ではこの言葉は連発された。普段聞きなれない言葉なのでよくわからない。さっそく調べてみた。「忖度」とは 他人の心をおしはかることだという。たとえば元大阪府知事の橋下さんが、大阪に株式会社が経営する私学を誘致したいと考えている。大阪府の職員は府知事の意向を酌んで、最大限にその気持ちを尊重して仕事をする。忖度によく似たような言葉で「斟酌」(しんしゃく)という言葉もある。これも、相手の事情や心情をくみとることとある。あまり違いはないが、あえて言うと、単純に相手の心情を推し量るのが忖度。推し量った上で、それを汲み取って何か処置をするのが斟酌だと思われます。いずれにしても、トップの方針に対して、批判や意見を言うのではなく、それを無条件に受け入れて、粉骨砕身目標が速やかに成就するように行動することである。そのように行動すれば、いずれ自分の将来が安泰になるだけではなく、出世につながる。本来はトップの方針に対して、無条件に追随するのではなく、十分な議論を尽くしたうえで、最終的な合意を取り付けて取り組んでいくことになる。そうでないとトップの思いつきの方針に盲目的に従うだけになってしまうことにもなる。これは親分と子分の関係である。親分は子分が自分の役に立っているあいだは引き立ててくれる。しかし、役に立たない。あるいは自分のやり方に不満を持っているのではないかと、疑心暗鬼になるとすぐに排除されるようになる。このことを強く感じる出来事があった。核兵器禁止条約の制定に向けて、日本の高見沢軍縮大使は、アメリカの意向を忖度して、不参加を表明した。岸田外務大臣は、以前会議そのものには参加を表明していたが取り下げた。岸田外務大臣は原爆が投下された広島市選出の国会議員である。被爆者、広島市長、広島県知事などが反対する中で、トランプ大統領が、日本が勝手に会議に参加することに強烈に批判したため、忖度して引き下がったのである。日本はアメリカの同盟国としてアメリカの核の傘に入るのだという。アメリカ政府の言いなりである。これでは主権をもった独立国といえるのだろうか。これから貿易交渉は二国間で行われるが、アメリカの理不尽な要求を次から次へと受け入れて、最終的には国民生活が破壊されていくのをみすみす放置していくことになるのか。森田理論を学習すると、人間関係は主従関係になるのではなく、対等であることが大切であると学んだ。国家と国家も対等な立場で話し合いをすることが大切なのではないかと考える。
2017.03.30
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対人恐怖症の人で症状を完全に乗り越えましたと言われることがある。でももしそれが、人の思惑を全然気にしなくなったとしたら、その人のもともと持っていたよい点がなくなってきたということではないかと思うことがあります。対人恐怖症は口で言うほど簡単に乗り越えられるものなのでしょうか。また乗り越えないと人生真っ暗になるのでしょうか。そもそも対人恐怖症の人は、人への信頼感が欠けており、人に会うことが恐ろしいのです。人に会うことに、ものすごく怯えているのです。それは小さいころから骨の髄まで貫徹されているのです。これは対人恐怖の人が、人と仲良くしたいという気持ちがあるということを否定するものではありません。でも基本的には、みんなでワイワイ楽しく盛り上がるよりも、一人で自分の好きなことをして過ごすのが性に合っている人間ではないかと思うのです。そういう個性を持った人間なのではないでしょうか。そのように自覚すると、無理して人間関係に四苦八苦して苦しむことが少なくなるのではないでしょうか。そういう自覚を深めると、決して無理をしなくなります。自分を偽ってまで、無理やり人前に出ることをしなくなります。背伸びをしなくなります。悠々自適、自分のぺースに合わせた生活をおくれるようになります。また、そんな自分を社交性のない、ダメな人間だと自己否定に陥ることはなくなると思うのです。本当の意味で、今のままの自分でいいのだと納得できるようになると思うのです。そういう覚悟を持てれば、人から危害を加えられるような場所には、最初から出入りしなくなりますので、危険に遭遇する確率は少なくなります。人に迷惑をかけないような同窓会、OB会などは、出席するのが嫌ならどんどん断るようになります。自分の意志に従って、臨機応変な対応がとれるようになります。これは、森田でいうと「不即不離」の人間関係となります。気が進まない会合には参加を見合わせる。反対に趣味などを通じた交友関係などは、楽しいと判断すれば、積極的に参加するようになります。町内会の付き合い、親せき関係の付き合いは、むげに断るわけにはいきません。葬儀、法事などの冠婚葬祭は必要最低限の付き合いをすればよいと思います。次に仕事ですが、これは人に会うのが嫌だからといって、勝手にキャンセルすることはできません。気分本位で、さぼってばかりいると自分も面白くないし、いずれ解雇されてしまいます。仕事の第一の目的は生活費を稼いでくることです。目的を明確にして割り切ることです。仕事の人間関係は、必要に応じて、必要な時に、必要なだけの付き合いを心がければよいと思います。無理は禁物です。「必要最低限」「ほどほど」というのをモットーにされたらどうでしょうか。対人恐怖症の人は、好奇心が強く、感性が豊かな人が多いように思います。ですから、対人関係で苦しんでいる人は、対人関係の改善ばかりに注力するのではなく、その比重を下げていくのはどうでしょうか。自分のやりたいことを棚卸して、その中からいくつかピックアップして、それらのいくつかに取り組んで見られたらどうでしょうか。私は、対人関係の改善に取り組むことの比重を落として、集談会の世話活動や一人一芸の習得に力を入れてきました。その結果、対人恐怖症の泥沼に入り込むことを回避できたように思います。仕事の人間関係以外の利害関係のない、別の方面の人間関係が幅広く広がってきました。10年ぐらい一つのことに取り組んでいると、その道では専門家となります。すると自信がついて、人間関係については、あまり気にならなくなるものだと高良武久先生は言われていました。そういう取り組みで人の思惑が気にならなくなるという解決方法も確かに存在していると思います。
2017.03.21
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父性と母性の役割の違いは、ホルモンレベルでの生物学的な仕組みの違いでもある。子供との愛着や育児を支える仕組みは、オキシトシンというホルモンである。子供ができると、女性にはこのオキシトシンというホルモンが放出される。母親の場合、分娩の際に大量のオキシトシンが放出され、陣痛を引き起こすと、同時に、母親を激痛から守る。授乳や抱っこの際にもオキシトシンが活発に分泌され、母性的行動を引き起こす。オキシトシンは心を落ち着かせ、活動を鎮静化し、じっとしていることに耐えやすくする。こうしたオキシトシンの影響を受けて、母親の脳自体が変化する。娘の脳から母親の脳変わる。母性が誕生するのだ。人間の場合でも、女性は出産すると、それまで社会で活発に活動していた人でも、 1 、 2年の間は、子育てに専念することが多いが、そうした生活の変化に苦痛を感じず、子育てに没頭するためにも、オキシトシンの働きは重要だ。授乳をしなくなり、オキシトシンの働きが弱まると、母親は子育てに縛られていることを苦痛に感じやすい。外で何かしたくてうずうずしてくる一方、父親では、バソプレシンというホルモンが重要な役割を果たしている。実際、父親が育児に熱心な場合、バソプレシンが脳内に豊富に存在する。バソプレシンは活動を高め、外敵から母子を守るために探索や攻撃を活発にする。父親が育児をしなければならなくなったとき、母親以上に苦痛を感じやすいのは、そうした仕組みの違いによる。本来的な役割としては、父親は直接的な育児を担当すると言うよりも、攻撃性や行動力によって母子の安全を守るという面が強い。この攻撃性の強さは、父親に2つの顔を与えることになる。 1つは強く頼もしい庇護者としての父親であり、もう一つの顔は、恐ろしい畏怖の対象である父親だ。父親の2つの顔は、父親の2つの役割でもある。外敵から母親や子供を守る存在としての父親と、枠組み機能や抑止力としての父親だ。父親のいない子供は、一方で幼く誇大な万能感を持ったまま成長しやすいが、同時に、傷つきやすさや安心感の乏しさを抱えやすい。母親に飲み込まれずに、外の世界へと歩みだし、自立の一歩を踏み出すのを父親は助けるが、それが可能となるのも、強く頼もしい庇護者としての父親が、エスコートして連れ出してくれるからだ。そのために必要なのが、父親との愛着であり、子供は父親に理想像を見出し、それと同一化しようとすることだ。父親のこの役割が弱いと、子供は安心して冒険に踏み出して行けない。母親という安全基地がしっかりしている事は、子供の探索行動をバックアップするが、現地をガイドする導き手としての父親は、その過程をさらに容易で安全なものにする。愛着が不安定な父親では、備わった攻撃性や行動力が、母子を守るという機能をうまく果たせないだけでなく、子どもを社会へと導くガイド機能も果たせない。バソプレシン活性の高い父親は、子供の興味や活動性を刺激するような関わりを好み、子どもの関心を外界の対象物に向けようとする。安心させるというよりも、子供を新たな冒険や興味で刺激し、現場にとどまるのではなく、外界へと関心や行動を向けさせる。オキシトシンとバソプレシンの働きには、他にも対照的な違いがある。その一つは、オキシトシンは関心を人に対して向けようとすることに関係が深いのに対して、バソプレシンは事実に関心を向けることに関係していることだ。関心の性質も異なっている。オキシトシンは共感的な関心に関わっているのに対して、バソプレシンは、敵を見定めるための冷徹な関心に関わっている。動物実験で父親と関係を持たなかった子供では、父親と関係を持った子供に比べてじゃれあったり闘って遊んだりすることが少なく、バソプレシンを生成する細胞の数が視床下部で少なかった。こうした傾向は、社会性の発達や、将来親となった時の行動にも直結すると考えられる。父親と母親が協力して子供を育てる場合では、父親は、父親独自の役割を担っていると考えられる。(父という病 岡田尊司 ポプラ社 43ページより引用)こうしてみると、人間が成長して大人になったとき、精神疾患や生きづらさを変えるというのは、幼い時に母親と父親が子育てとしての役割をバランスよく果たしてこなかったと言えるのではないかと思う。今まで子育てについては先人たちの知恵が蓄積されているにもかかわらず、その成功や失敗に学ぶことなく、自己流で子育てにあたっていることは大きな問題である。母親と父親が愛着の形成と自立に向けて子育てにあたることは大変重要なことである。しかし不幸にして、愛着の形成が不十分で人生の諸問題について立ち向かっていく勇気を持つことができずに大人になった場合はどうすればよいのか。この場合は、茨の人生が待っているが、岡田尊司氏はその処方箋も提案されている。明日以降、紹介してゆきたいと思う。
2017.03.08
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2003年の暮に名古屋で、ドル紙幣をばらまくという事件があった。これは当時26歳の元銀行員の男性が、名古屋市のテレビ塔から約100万円の紙幣をばらまいて職員に取り抑えられたという事件です。この男性はインターネット上の短期的な株取引で利ざやを稼ぐ「デイトレーダー」でした。彼によれば、事件の動機は「瞬時に大金を手にしたが、悦びより空虚さが残った」との事でした。男性は株取引でかなりの利益を上げていましたが、その生活は引きこもり同然だったといいます。終日、誰とも口を聞かず、パソコンに向き合うだけの毎日に孤独感を募らせていきました。彼が警察から厳重注意を受けたとき、 「自由な半面、市場から利益をもぎ取るだけで、世間に何のプラスにも生み出していない。この世界に自分がいてもいなくても同じと思うと、たまらない気持ちになった」と言ったという。このことは金融工学を駆使してマネーゲームを繰り広げている人たちにも同様のことが言えるのではないでしょうか。社会的孤立の状況についてOECDによる調査によると、先進20か国中、日本は15.3%で1位であった。続いて、メキシコが第2位であった。 (世界価値観調査 1992年から2002年 OECD調査)孤独感というのは、実際に1人でいる孤独とは違う。主観的な孤独感のことを言う。孤独であっても精神的に健全で、孤独感を感じない人はいる。反対に、たとえ多くの人と繋がりはあっても、対立的な人間関係の中で、自分はいつ見捨てられるかもしれないという気持ちが強ければより強く孤独感を感じる。孤独感がもたらす影響は深刻です。慢性的な孤独感は人を不安定にさせ、他者に対する被害感を抱かせ、自虐的・自滅的な志向や行動に陥らせるという。さらに深刻なのは、身体に与える影響です。孤独な人は脳血管や循環器疾患、がん、呼吸器や胃腸の疾患などで死ぬリスクが高まります。つまり孤独感には、高血圧や肥満、運動不足、喫煙などに匹敵する悪影響があると言われています。(「社会的うつ病」の治し方 斎藤環 新潮選書参照)考えてみれば、人間は生まれてから親の保護なしには生きて行くことができません。親のお世話になって20年経ってやっと自立して生きていけるようになるのです。自立してからも食べ物から身の回りの必需品まで他人のお世話になっています。つまり、生まれてから一生、他者の世話になり、他者との関わり合いの中で生きているのです。ですから、他の人間から完全に孤立して1人で生きていこうとすると、それは肉体的にも社会的にも死に向かって突き進んでいくといことになります。孤独感を感じるという事は、生命の危機と結びついておりとても危険なことです。対人恐怖症の人は、人の思惑が気になり、自分の自尊心やプライドを傷つけられるような場合、他人との接触を避けるようになります。そうしますと、一時的には楽になりますが、長い目で見ると孤独感や孤立感に苦しむことになります。引きこもり状態になり、外出することがなくなると、家族以外には接触する機会がなくなります。すると急に孤独感に襲われてしまいます。精神面だけではなく、身体面ににも大きな影響が出てきます。そうならないためには、外出を心がけ、小さな人間関係を日ごろからたくさん作っておくことが必要になります。夫婦の人間関係、親子の人間関係、隣近所の人間関係、集談会での人間関係、親戚の人間関係、仕事の人間関係、学校での人間関係、趣味の人間関係、同窓生などの人間関係など。いずれかに偏ることがなく、日ごろから幅広く、薄い人間関係のネットワークを作り上げておくことが必要です。これは森田理論でいうと「不即不離」の人間関係といいます。私の場合は、家族の人間関係、集談会での人間関係、町内会での人間関係、親戚との人間関係、仕事仲間との人間関係、趣味の活動を通じての人間関係、同窓会などの人間関係を幅広く築いています。インターネットやメールなどを通じての付き合いもありますが、 face to faceの付き合いでないためか、あまり心の寄りどころにはならないようです。広く薄い人間関係を築き、臨機応変にその時その場に応じた付き合いを続けています。これが私の精神面と身体面の健康に大きく寄与しているのではないかと思っています。
2017.02.24
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先日テレビを見ていたら、職業で額縁の制作をしている人の紹介があった。額縁といっても絵を飾る額縁ではない。本人や家族などの思い出の品を収納する額縁である。だから、その額縁はかなり厚みがある。その中で、娘さんがお父さんに贈った額縁があった。お父さんは、若いころ自動車の修理工場を立ち上げ、多くの従業員を雇い、一心に働いてきた。そのお父さんがガンになり、余命いくばくもない状況であった。娘さんがお父さんに贈った額縁は、現役の頃仕事で使っていた帽子とスパナなどの道具類が入っていた。このプレゼントをもらった闘病中のお父さんはとても感激していた。娘さんの感謝の気持ちがこもっていたからだ。それから2ヶ月後お父さんは旅立っていった。家族に見送られて、さぞかし穏やかな気持ちで旅立つことができたのではないかと思った。続いて紹介された人は、理髪店を営んでいる人であった。その人の父親も田舎で理髪店を営んでいた。昔の田舎の理髪店は近所の人たちが集まり、情報交流の場であったという。その方は家を出て、別の理髪店の師匠について修業された。今では若い人たちにその技術を伝えている。その方は、父親が使っていた道具、亡くなった師匠が使っていた道具を額縁に収めた。これを店の玄関に飾った。これを見ると初心を思い出すという。この額縁が自分を励ましてくれる。その他、自分の子供が生まれて初めて履いた靴をとって置いて額縁に収めた人もいた。それを子供が結婚するとき、プレゼントとして贈るのだ。ほとんどの親は子供が生まれると、とても嬉しい。子供を一人前に育てようと決意を新たにする。しかしその感激も、子育てで奮闘しているうちに、次第に薄れていく。そんな時、子供は果たして自分は望まれてこの世に生まれてきたのだろうかと疑心暗鬼になることがある。でも、両親が自分が生まれて初めて履いた靴を保存しておいて、結婚式の時に額縁に入れてプレゼントしてくれたらどうだろうか。わだかまりが一挙に融解して、何とも言えない感謝の気持ちが湧いてくるのではなかろうか。この額縁は家族の人間関係がどことなくぎくしゃくしている人にとって、取り組んでみる価値があるのではないかと感じた。どんなに憎み合っている親子であっても、所詮は親子である。生まれてきた子供の幸せを願わない親はいないはずだ。老人になった人、誰に聞いても、一番にかわゆくていとおしいと思うのは子どもたちのことなのだ。さて、この額縁は自分が自分に対して贈ることも効果がある。苦しい時に歯を食いしばって頑張っていた時の思い出の写真や品物。自分が勉強やスポーツで頑張っていた時の思い出の品。初めて就職して希望に胸膨らませて仕事に取り組んでいた時の思い出の品。あるいは、初めて家庭を持って頑張っていた時の思い出の品。などなど。私で言えば、初めてトライアスロンの大会で完走した時の完走賞やメタル、ゼッケンや写真。自転車の部品などである。また国家試験の合格を目指して頑張っていた時のテキストや合格証。会社で大きなプロジェクトを任され、大きな成果を上げた時の感謝状と副賞の思い出の品。子どもの誕生時の子供の手がたと足がた。これらは困難な状況で苦しい時に、額縁の中に収められ、いつも目のつくところに展示されていれば無言で自分を励ましてくれる。私の知っている人で、奥さんの誕生日に、100個の感謝の言葉をしたためて、それを額縁に収め、プレゼントした人もいた。いつも夫婦けんかの絶えない人ではあったが、この時ばかりは奥さんが泣き崩れたという。このようなことをしようと思うと、相手のことを思い続けたり観察することが必須である。注意や意識は自己内省することはなく、常に相手や物事に向けられる。外向きになるのである。こういう気持ちで生活をするということは、神経症の悪循環のスパイラルに陥ちいらないコツであると思う。相手を気持ちよくさせて、人間関係が好転してくる。
2017.02.08
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今日の集談会で親子の人間関係、夫婦の人間関係、親友とは何かなどについて話し合われた。 それによると、テレビドラマに見られるようななんでも話し合えるような和気あいあいとした人間関係現実にはあまりないということが分かった。 それぞれにぎくしゃくした人間関係で苦闘しておられるケースが多かった。 親子の場合は、全く会話がない、離れて暮らしていて音信不通という人もおられた。 夫婦の場合は全く無干渉という場合があった。実質破たん状態にある人もおられた。 また意外にも友人関係の少なさが浮き彫りになった。友人関係の場合は、交際範囲がとても狭く偏っているように感じた。 これらは幼少期から、あるいは結婚当初から始まっている場合が多かった。 親子の場合は、過保護、過干渉、放任などが原因となっている場合が多かった。 特に子供を自分の思い通りにコントロールしようとしている場合、幼少時は問題がなくても、大人になって、対立関係に陥りやすいことがわかった。 夫婦の場合は、自分の意見を無理やり押し通そうとするとうまくいかないことがわかった。 腹が立った時など、ストレートに相手にぶっつけているような場合はすぐに溝ができてくる。なかには奥さんが寝静まったころを見計らって帰宅する人もいる。 仲良くしている夫婦でも、四六時中べったりひっついている人間関係では息苦しいという話が出た。特に女性からは、旦那がいつも家の中におられては息が詰まるという話が出た。 「亭主はいつも元気で留守がいい」というのだ。 夫婦の人間関係は、森田理論で言うところの、「不即不離」の人間関係が望ましいという話が印象的であった。 また、夫婦の人間関係で大事な事は、いくら腹が立ってもその感情はそのままにしておくこと。そして家事や親せき付き合いなどは、その時その場で為すべき事を着実に実行していくことが大事であるということがよいという話であった。 次に親友であるが、いつもべたべたと引っ付きあっている関係ではなさそうだということが分かった。親友はいつも動向を気に留めていて、何かあったときに何かと相談に乗ってくれるような関係。つまり困ったときに何かあったらあの人に相談すればよいという「心の後ろ盾」のような関係ではないか。確かにそういう人なら私にも3名ほどいる。 そして友達関係はコップに少しだけの人間関係をたくさん作り上げておいて、臨機応変に、そのときその場で軽めの付き合いを継続していくのがよいと感じた。
2017.01.16
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「神経質の無神経」と言われることがある。それはどういう意味なのだろうか。神経質性格の人は細かいことが気になります。そのことに注意や意識を集中させていると、普通の人が当たり前にやっていることがお留守になってしまうということではないでしょうか。特に神経症に陥って苦しんでいる人ほど無神経だとみなされてしまうことがあります。たとえば、甥や姪の結婚式などに招待されても赤面恐怖が気になって欠席したりします。親戚の葬式なども神経症を理由にして取りやめたりします。あるいは大勢の前でプレゼンする予定の日になって、突然症状のために仮病を使い休んでしまう。身体的欠陥を気にしてひきこもり生活を続けている。飛行機に乗ることがイヤなので、いろいろ理由をつけて海外出張を断る人がいます。納期が無いのにいつまでも仕事を抱えて、次に回さないで迷惑をかけている人がいます。叱られることを恐れて、ミスや失敗を隠蔽し、発覚したときは修復困難な状況に追い込まれている。知っている人と会ったのに全く挨拶をしないで知らん顔をしている。雑談の場などに、一人だけその輪に加わらないで苦虫をつぶしたような態度をとっている。自分のことを否定されたりすると、すぐに不機嫌になり感情を爆発させる。このようなことが度重なると、あの人は普通の人とは違うという見方をされる。無神経で他人の気持ちが読めない要注意人物だというレッテルを張られてしまう。自分はそんな気持ちはない。本当はみんなと仲よくしたいと思っていても、その思いが空回りしている。どうしてこのようなことになるのか。1、 神経症に陥ると意識や注意が自分の気になる症状一点に絞られて、周りの物は見れども見えずという状態になる。2、 症状と言う大きな問題を抱えているために、周りのことが気にはなっても手をつけずにそのまま放置してしまう。3、 苦しみや葛藤に耐えきれなくなって、つい破れかぶれな衝動的な行動で解放しようとする。どれも症状のために霧の中で車を運転しているような状態です。周りの状況が見えていないのです。また症状を解決しないと他のことに手がつかない状態になっています。そしてどうにもならない苦しみを和らげるためについ衝動的な行動をとりがちです。これでは人間関係が壊れ、仕事や生活が回ってゆかなくなるのも無理はありません。その状態を他人がみれば、普通の人と違う無神経な人とみなしてしまうのです。症状をやりくりする。症状からすぐに逃げ出してしまうことが裏目に出てしまっているのです。神経質性格はよい面を活かしていけば全く問題はありません。むしろ神経質性格を持っている人はたぐいまれな素晴らしい素質の持ち主だと言えます。その性格を仕事や生活に活かしていけばこんなに育みあいのあるものはありません。神経質性格を活かして仕事等で大きな成果をあげている人もたくさんいます。また鋭い感性を活かして音楽、絵画、書道等の分野で認められている人もいます。でも一歩活用の仕方を間違えるとこのように無残な状態になってしまうのです。無神経というのは自分も苦しいし、他人にも迷惑がかかります。神経質性格のこまやかさ、感性の豊かさを殺してしまうものです。無神経という汚名を返上するためには、森田理論を学習して、生活面に応用していくことだと思います。特に不安、恐怖、不快な気持ちを持ったまま、日常生活や対人折衝を続けていくという森田の基本は是非とも身につけてほしいものだと思います。
2017.01.02
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最近は3組に1組が離婚しているという。家庭内別居状態にある人を入れるとその予備軍はまだまだ多い。こういう状態だと家庭に安らぎはなくなり、生きていくことがつらくなります。夫婦の人間関係が悪化している人は、職場などでも躓きやすい傾向があります。さて離婚の具体的な原因にはこんなものがあります。・配偶者が親の言いなりになってしまい、自分の気持ちを無視する。・相手の両親、親族が受け入れられない。・嫌いな食べ物を毎日食卓に出す。得意料理が少ないし美味しくない。・食器の片づけ、洗濯、掃除、整理整頓をしない。協力しようとしない。・一方が几帳面で、一方がルーズである。お互いの習慣に我慢できなくなった。・浪費癖がある。ギャンブルに凝る人である。酒癖が悪い。暴力を振るう。・自分ことを拒否する、否定する。批判する。けんかをふっかけてくる。・生活費を入れてくれない。・お互いに出歩いてばかりで家のことはほったらかしにしている。・生活リズムが違うため、すれ違いの生活になった。連絡もしない。・カレーやスープを食べる時にスプーンをガチャガチャと音を立てる。・漬物を食べる時の音に我慢ができない。・食事中に平気で鼻をかむ。・テレビは自分勝手に好きな番組ばかり見る。・たびたび電話で長話をする。自分の話は上の空で聞いている。・子供との触れ合いがない。子育てに無関心。教育方針が合わない。これらを一言で言うと「性格の不一致」と言うそうだ。最初は小さな気に障ることでも、一緒に暮らしていると、どんどんと癪に障ってくる。そのうち相手の人格そのものを受け付けられなくなる。顔を見るのもイヤになる。そうなると離婚の危機が身近に迫ってくる。神経症が精神交互作用で悪化していくのと同じ現象が起きている。子供のことや老後の生活を考えると、籍だけはそのままにして家庭内別居などがよさそうに思うが、当事者にしてみればきれいさっぱりと別れたい気持ちになるのだろう。でも見ず知らずの他人が一緒になるということは、最初からそのことは分かっていることではないのだろうか。いまさらどうしてそんなことを言うのだろうか。あるいは、そのことは十分に分かっているが、それでもなんとかして、相手を自分の思い通りにコントロールしたい。そうしないと気がすまない。でも相手が猛烈に反発して自由にコントロールできない。こんな状態では、もう一緒に生活している意味がない。いっそのこと別れてしまおうということになるのだろうか。二人とも、あるいはどちらか一方に強いエネルギーがある場合に即離婚に発展しやすいようである。森田で言う「かくあるべし」が強いのである。こういう夫婦には次のような特徴がある。・問題を解決するときに自分の考えを優先させている。・相手の意見を十分に聞いてみようという気は最初から無い。・夫婦二人の話し合いの場を持とうという気がない。・あるいは意見の食い違いがあると、すぐに感情的になって口論になる。相手を自分の支配下に置こうとする。こういう夫婦はもともと赤の他人が一緒になるのだから、衝突やトラブルはたびたび起こるという前提に立っていないようだ。結婚するときはあばたもえくぼに見えてのぼせあがっていたのだろうか。結婚する前はいろいろと気を使って相手の立場を尊重している。いったん結婚してしまうと、自己主張ばかりで相手を思いやるということがなくなる。釣った魚に餌はやらないという関係になっている。だから結婚するときに「あなたを幸せにします」「娘さんを幸せにしますから是非結婚させてください」等と軽々しくいうのはどうかと思う。耳触りがいいだけで、実現不可能なことではないかと思う。相手を一方的に幸せにするというのは、自分を犠牲にして、相手の喜ぶようなことを第一に優先していきますということを宣言しているようなものだ。そこには、将来待ち構えている課題や問題点に、二人で協力して乗り越えていくという視点が欠けている。だいたい人間というものは、誰でも自分の欲望の充足や目標に挑戦していきたいという希望を持っている。自分自身が一番大切なのだ。結婚とはそんな二人が一つ屋根の下で生活するということなのだ。いろいろと意見が対立することがあるはずである。そんな時は話し合いで二人が納得できるような答えを出し合っていく。二人で生きていく時には、対立することが多いいと思うが、なんとか妥協点を見つけて助け合って乗り越えていくように努力していく。けんかをすることも多いと思うが、乗り越えていくように精一杯努力してゆきますということをお互いに宣言するのが結婚するということではないのだろうか。味わい深い人生は夫婦の人間関係の改善から始まる。
2016.12.22
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職場の中である特定の同僚とうまくいっていない人がいる。お互いが意識して拒否しあっている。双方が無視して毛嫌いしている。できるだけ近づかないように距離を保っている。そのことは周りにいる人もみんな知っている。腫れものに障るように注意している。その状態は本人同士も憂うつだが、職場全体がいつもピリピリしていて窮屈だ。どうしていがみ合うようになったのか。その理由は些細なことからはじまっている。・ノルマを果たさない。仕事をさぼる。仕事が遅い。ミスや失敗が多い。・仕事を手伝ってくれない。分担した仕事しかしない。分担した仕事も放棄してしない。・身勝手な行動が目立つ。付き合いが悪い。反対ばかりする。・上司にゴマをする。女子社員に手を出す。男性営業マンにこびる。・よく遅刻する。よく休む。・お金に汚い。・挨拶をしない。などなどその他多数ある。最初はちょっとした気持ちのズレから始まっている。そのうちあいつにはいつもムカついてイライラさせられる。この憤懣やるかたない不快感をなんとかしたい。あいつが挨拶をしないのなら自分も無視しよう。遠くにいるその人の姿を見るのも我慢できない。できるだけ離れて仕事をしている。そのうち会話する必要のある時は誰かに頼んで代行してもらっている。相手がミスや失敗をすれば鬼の首をとったように非難して周りの人に吹聴する。事あるごとに嫌がらせを仕掛けている。それが高じて相手の対応の倍返し、3番倍返しを考えるようになる。これは注意と感覚の悪循環、つまり精神交互作用で神経症の蟻地獄に陥っていく過程とよく似ている。相手を攻撃しているようで、結局は自分の精神状態が益々悪くなっていく。行き着くまで行ってしまうとどちらかが根をあげて退職するまでいがみ合いは永遠と続く。だからそうなる前に手当てすることが大切である。そのヒントを森田理論から探ってみよう。森田理論ではイヤな気持ちはどうにもならない。自然現象だと言う。雨や雪が降る。台風が来る。地震が来る。雷が鳴る。竜巻が来る。土砂災害が来る。そういう自然現象と同じことが起きている。そんな自然現象が来た時私たちはどうしているか。どうすることもできないので通り過ぎるのを待っている。つまり自然に服従しているのだ。イヤだと思う相手もそうすればよさそうなものだ。どうして不快な感情については取り除こうとして闘うのだろうか。相撲のようにがっぷり四つにまともにぶつかり合って勝ち負けを決めようとしているのか。その結果いつまでも勝負がつかず、エネルギーの消耗だけを招いている。そういう人は、是非とも台風が来た時の柳の木に学んだほうがよい。柳の木は台風が来た時は枝が引きちぎれんばかりにとりみだしている。ところが次の日台風が通り過ぎた後は何事もなかったかのようにたたずんでいる。その横で大木の松がポキンと折れて無残な姿をさらしていることがある。ある一定の風には耐えたのだが、限界を超えた自然の猛威の前にはなすすべもなく破れ去ってしまったのである。また雪が降った後の竹を見てほしい。竹が雪をまともにかぶってしまうとすぐに折れてしまう。雪をかわして自分の身を守るということができないのである。職場である特定の人とうまくいかないと言う人はそれと同じような対応をとっているのだ。こうしてみると、不快な感情とまともに勝負しないというのは一つの能力かもしれない。誰もができそうでできないことだ。森田理論学習をしている人は、その能力を是非とも身につけてもらいたいと思う。心の中では相手のことを憎むだけ憎んでもよい。殺してやりたいほどに憎んでもよい。それを言葉にしたり、動作に表したりすることが抑えられればよいのだ。心の中と外観が違うというのがまともな大人だと思う。そのためには役者のように演技力を身につけることが必要だ。できればサイコドラマに挑戦してみる。芝居のサークルにでも入るというのはどうだろうか。イヤな気分を抱えたまま、目の前の課題に取り掛かれるようになると、まともな人生を送ることができると思う。
2016.12.15
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平成24年度で認知症の人462万人、その予備軍(MCI)約400万人といわれている。将来1300万人に達すると言われている。国民の10人に一人が認知症とその予備軍という時代がくる。これは脳の廃用性萎縮が大きく関わっているように思う。歳をとっても毎日脳細胞を活性化させていく必要がある。でも不幸にして家族で認知症の人を抱えた場合はどうするか。今日は認知症になった人の対応について考えてみたい。1、 ついさっき食べたばかりなのに、「ご飯はまだ」「うちの嫁はごはんを食べさせてくれない」「自分たちだけ食べて私には食べさせてくれない」等という。これに対して、「さっき食べたじゃないの。いい加減しなさいよ」等と言っては反発されるばかりである。これは記憶障害が起きているのである。まともに対応してはいけない。その時は、「今用意しますからね」「もうすぐできるから待ってね」と言う。普段からこういう言葉を用意しておくことである。そのうち認知症の人は自分の言った言葉を忘れてしまうそうだ。なんとなく口が淋しいとか、自分の好きなものを食べさせてもらえない不満からの場合もあるので、本人の好きな果物やちょっとしたお菓子などを用意して、「もうすぐできるから、それまでこれで我慢してね」と機嫌をよくする方法も考えておくとよい。2、 自分が財布などをどこに置いたか忘れて、「これは怪しい。嫁が盗んだに違いない」等と言いだす。この場合「バカなことを言うな」と言って叱りつけてはいけない。よい方法がある。「それは困ったね。一緒に探そうね」といって探してあげる。その際注意点がある。家族が見つけて「ここに置いてあるじゃないか」等と言ってはいけない。「やっぱりあんたが盗んだのだ」等と言われることがあるからだ。見つかったら、「このあたりを探してみようか」と言って本人を誘導して、本人に見つけさせる。本人が見つけたら「よかったね」と一緒に喜んであげる。3、 実の娘なのに「あなたはどちらさまでしたか」などという。また両親や兄弟姉妹、友人等と間違えられることもある。この場合も叱りつけてはいけない。むしろその人になりきってしまう方がまだよい。泥棒だとか恨みを持っている人と誤認して興奮することもある。言い争うと余計にややこしくなる。一旦退席して、しばらく経ってから「○○です。ただ今帰ってきました」と言って認識させるとよい場合がある。4、 自分のいる所を自宅と認識できないで「家に帰る」等という。自分がまだ現役であると錯覚して会社に行こうとする。何か用事を思いついて出かけてしまう。徘徊をして居所が分からなくなると困るので、できれば一緒に出かけるのがよい。それでも徘徊するクセがある場合は、ある程度の対策を立てておく。たとえば玄関に鈴をつけておく。住所、名前、電話番号の書いた名札を付けておく。近所の人に一報してもらうように頼んでおく。こうなると地域で支え合うことも考えていく必要がでてくる。その他認知症の人は、幻覚、失禁、不潔行為、怒りっぽくなる、異食、性的行動、夜間せん妄などがあるようです。とっさには適切な行動をとることは難しいです。普段から対策を考えて実行することが大切だと思います。以上、マンション管理人の定期研修で受けた内容の説明でした。
2016.12.10
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次の方の相談です。この方は主婦で対人緊張、雑談恐怖があります。不器用で料理や片づけなどの家事がうまくできません。もっとも大きな問題は幼稚園に通う子供のママ友との付き合いがうまくこなせないということです。最低限のお付き合いはできていますが、幼稚園の後、子ども同士を遊ばせるためにママ友と仲よくするのは苦手なのでしていません。そのことで自己嫌悪に陥っておられるようです。この方は最低限のお付き合いはできているようです。それは評価できることです。苦しいけれども最低限の行動はできているわけですから。幼稚園後すぐに帰っても、他のママ友はあの方はこの後何か用事でもあるのだろうと思っているのではないでしょうか。あなたが気にされているように、変に思われているとはないと思います。他人の思惑が気になる。これはあなたの個性、特徴です。誰でもあるのですが、あなたの場合はそれが少し強いということです。今はこの性格に振り回されて、一人で相撲をとって、自分一人で苦しんでおられるようです。しかしこの性格を逆に活かしていけば、とてもよい生き方ができるようになります。本来そういう性格の人は、人の気持ちを機敏に察することができる。相手のことを思いやることができる能力を元々兼ね備えている人なのです。人の悪口は言わない。噂話をしない。人の嫌がることはしない。他人に優しくできる。他人の役に立つことを見つけて行動できる素質を持っている人なのです。今のままのあなたにいいも悪いもありません。今のままの状態で生きていく覚悟を持っていただきたいと思います。それしかできないのだと思います。ここで提案です。今不安で悩んでいるエネルギーを料理や片づけに向けていくのはどうでしょうか。あなたは不器用で料理や片づけなどの家事がうまくできないと言われています。でも料理を全く作らないということではないと思います。曲がりなりにも買い出しをして、料理は作られているのだと思います。ただ料理の味がレストランで食べる料理のように完璧ではない。料理のレパートリーが少なすぎる。和食、洋食、中華料理のどれもが作れない。これという得意な料理が無いのかもしれません。つまり自分の頭で考えているような立派な料理ができていないということではないでしょうか。理想が高くてそこから自分の作った料理を見るととても貧相に見えるということではないでしょうか。それでしたら一カ月に2つぐらいの新しい料理を作れるように頑張ってみたらどうでしょうか。自然にレパートリーが増えてくるのではないでしょうか。そのうちカレンダーに大まかに献立表を書きこまれるようになれば自信がついてくるのではないでしょうか。また片付けも一挙に完璧にやろうとすると苦しくなり、結局何も片づけないということになるのではないでしょうか。完璧に整理整頓、掃除をするのではなく、今日はお風呂とトイレ、次の日は居間、その次の日は台所・・・というように小分けにして片づけをこなしていくというのはどうでしょうか。これだとあまり時間がかかりません。不快な気分に圧倒されることが少なく、1週間経てばほぼ片付いていくのではないでしょうか。日常生活がうまく流れるようになると、素敵な絵画、ポスター、花などを飾るということに気が回るようになるかもしれません。それから雑談恐怖ですが、これは私も悩んでいた時期がありました。これについてはオンライン学習で参考になる話を聞きました。それによると、雑談というのはしっかりとした目的があると言われるのです。私はみなさんと仲よくしたい。決して敵対している存在ではありませんということを伝える目的があるというのです。人間関係をよくする潤滑油のような役割を果たしているのだそうです。雑談をして何か将来の役に立つというようなものではない。私はそれまで役に立たない意味のない雑談を時間の無駄だとバカにしていたのです。また雑談の場にいるといつ何時、自分の存在、欠点や弱点、失敗やミスが雑談の話題に取り上げられて笑いものにされるかもしれない。ということにいつも神経がピリピリしていたのです。だから雑談の場にいることが苦痛だったのです。また雑談の場では、みんなに受ける面白い話ができなければならない。できれば自分が雑談の場を取り仕切るような存在でありたいと思っていたのです。現実はそんなことはほとんど不可能ですから、雑談の場を避けるというのが楽だったのです。雑談の目的が分かれば、ただ雑談の場にして、みんなの話を聞いているということはとても大きな意味があるということです。それをいつも避けているということは、私はあなた方と友好な人間関係を築きたいとは思いませんと宣言しているようなものです。一方で他人と親しく交流したいと思いながら、実際には雑談の場を避けているのですから容易に雑談恐怖に陥るのではないかと思います。
2016.12.04
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上田比呂志さんのお話です。日本には無数の旅館がありますが、特に評価の高い高級旅館というのはお客様に対して、つかず離れずの距離感を持って接待するという。森田理論でいう不即不離を接待に応用しているのである。チェックインを済ませ、宿帳などを記入しつつ、世間話なんかをしながら部屋まで案内してくれますが、そのあとはそっと放っておいてくれます。サイズ別、色別に浴衣や足袋が用意してあり、備えも万全なのでこちらからあえて呼ぶ必要もありません。つかず離れず、絶妙な距離感でお客様をリラックスさせてくれるのです。来てほしい時以外には来ない、手を出してほしい時以外には手を出さない。この絶妙なバランス感覚です。放っておくというのは、気をつかわない、無関心とは違います。気づかっているからこそ、放っておく。ただし、気をつかっているということが表には出ないのです。だから、相手も余計な気づかいをしなくて済む。上田さんが、三越の特選売場という高級ブランド品の販売を担当していた時のこと。そこにいらっしゃるお客様というのは、あらゆるおもてなしを受けていて、たいてい何でもご存じです。商品に関する知識でも、世情や社交界に関することでも、私よりもよほど詳しいのです。VIPのお客様だからと変に気合を入れて商品の説明をしたり、必要ないのにかまったりというのはこちらの都合であり、お客様は求めていません。お客様が大切にされているのは、商品を買うまでの時間や空間、雰囲気であり、その商品を買う価値があるかどうかはお客様自身が決定されることなのです。だから、笑顔で立っていて、余計なことはしないように、そっと控えておいて、「あっ、口を開きそうだな」「なにか聞きたそうだな」と思ったら近づくようにしました。そこで初めて、「いかがでございますか」と尋ねるのです。この話は子育てにも、集談会の体験交流でも同じことが言えます。幼児の場合は、基本的には幼児の好奇心に沿って自由にさせる。でも親は子供から目を離してはいけません。親が子供の目のつく範囲に居てじっと見てあげることが必要です。親が手を出し、口を出すのは危険な行動、他人様に迷惑をかける時です。それ以外は大目に見ている事です。少々ケガをするようなことは、口出し無用です。物を散らかしたり、壊したりすることも大目にみることが大切です。そうすると幼児は親の後ろ盾を得て安心して冒険することができます。自由で、好奇心旺盛で何事にも積極果敢な子供に成長していくのです。集談会の場合、初心者に中間層やベテランの人が、最初から親切に森田理論を懇切丁寧に説明してあげることは差し控えなくてなりません。なぜなら初心者の人が自ら気づく、発見する喜びを奪ってしまっているからです。傾聴、共感、受容の態度で初心者に寄り添ってあげることだけで十分です。相手がどうしていいのかわからなくなって助けを求めてきたときは、丁寧に説明してあげるのです。その時までは、共感、受容の基本姿勢を崩さずに傾聴に徹することです。森田で神経症を乗り越えた人は、どうしてもすぐにアドバイスするようになります。それは過干渉、過保護に通じます。そういう対応を受けた人は、せっかく縁あって森田に出会ったにもかかわらず、森田から離れていってしまうというケースが多いように感じます。(日本人にしかできない「気づかいの」の習慣 上田比呂志66-67ページ引用)
2016.11.11
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私は人生の醍醐味は2つあると思う。心の底から湧きあがってくる喜びはどんな時に感じることができるのか。刹那的快楽ではなくしばらくは継続する喜びはどんな時に感じることができるのか。一つは今までできなかったことができるようになった時。さらに課題や目標を持って挑戦して達成できた時。鉄棒で逆上がりができなかった時、腕の筋肉を鍛えて体を持ち上げられるようになり、はじめてできるようになった時はうれしかった。これでみんなと同じになったと思った。自信が出てきたことを思い出す。またはじめてトライアスロンに挑戦して完走できた時もうれしかった。出場までの2年間の練習が苦しかっただけにその喜びは格別であった。こういう経験は多くの人が持っておられるのではなかろうか。もう一つは、他人に感動や喜びを与えた時。相手が感動の涙を流してくれた時に、自分もその人以上に感動することができる。生きていてよかった。人生捨てたものではない。望外のうれしいこともあるのだと思うのはこんな時だ。先日対人恐怖症でずっと悩まれておられた方から手紙をいただいた。その手紙には、私のような何もしゃべれない人間でも、集談会で受け入れてもらえた。「今のままのあなたでいいんですよ」と受け入れてもらえたことが今現在大変心の支えになっていると書いてあった。私はその人は現在別の集談会に参加されていたので、うっかりお名前と顔を忘れてしまっていた。でもその方にとっては、その時の私の対応が心の中に生きていて、私の言葉に支えられて前向きに生きているということを聞いて私の方が感激してしまった。私の田舎の住職さんがこんな話をしてくださった。昔は姥捨て山があって、飢饉などの時口減らしのために老人を山奥に捨てに行ったそうだ。ある息子さんがお母さんを籠に入れて姥捨て山に行きました。道中背負われた母親が小枝をポキン、ポキンと折っては地面に落していたそうです。息子さんは思いました。「木の枝をたどってまた家に戻ってこようとしているのではないか。気丈な母親でも最後は自分のことしか考えていないのだな」そのうち、山奥の姥捨て山に着いたそうです。母親が言うには、「いよいよお別れじゃ。身体に気をつけるんだよ。帰る時は小枝を落して目印にしておいたからそれを頼りに、無事に家に帰っておくれ」それを聞いて若者は泣き崩れました。「自分は母親を捨てようとしているのに、母親は自分のことをこんなにも案じてくれている」自分の命を引き換えにしても自分のことを気にかけてくれている。このようなケースはめったにあることではありません。でも自分の生活の範囲内で感動を味わうことは人間にとって必要なことではないのか。人の役に立つことを見つけて実行に移し、お互いに小さな感動を味わってみる。このことが、人生の醍醐味を味わうことにつながるのではないかと思います。
2016.11.04
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おしどり夫婦と言われる人がいる。相思相愛でどこに行くのも、何をするのも常に一緒という夫婦である。たとえば、定年退職して買い物に行く奥さんを車に乗せて、ドライブがてら遠くの大型スーパーまで付いていく。旅行に行くのも、趣味も、映画を見に行くのもいつも一緒。けんか別れするような対立はない。いつも相手の気持ちを第一優先にしている。相手のことを思いやり、基本的には相手に合わせる。自己主張を繰り返すと、わがままなような気がするので、自分のやりたいことでも抑えている。はたから見ていると、一心同体で二人で一つといった状態である。自由が効かないが、相手に寄り添っていればとりあえず生きてゆくことができる。ではそのお手本にされている「おしどり」という鳥を見て見よう。本当に相思相愛なのか。おしどりという鳥は、番いになっている時は、いつも一緒に泳いでいて仲がいいように見える。オスがメスに優しく寄り添い、「末永く一緒に暮らそう!」と、いわんばかりの光景をみかける。だけど、これに惑わされてはいけない。実はこれは他の雄にちょっかいをだされないようにするために、雄が雌から離れずにガードしているというのだ。つまり相手の自由を奪い、常に監視して相手を束縛しているのだ。さらに意外な実態が明らかになっている。オシドリのカップルがラブラブなことだけは確かだが、それは卵が産まれるまでの間だけのことだ。育雛も夫婦で協力することはない。オシドリは一夫一妻制であるが、夫婦である期間は非常に短い。冬ごとに毎年必ずパートナーを変える。メスの子育て中にオスは他のメスを追いかけることもある。ヒナが育って、守る期間が過ぎると、さっさとどこかに行ってしまう次の繁殖期には、別の相手とつがい(結婚)となります。つまり、1年ごとにパートナーを取っ替え、引っ替えしているのである。つまり人間の間で言われているような、本当の意味での相思相愛の関係を築いているの訳ではない。オスは自分の子孫をできるだけ多く残したいという強い本能がある。その目的に促されてメスとひっついたり、離れたりしていたのである。私の知り合いにもそんな感じの人がいる。もう結婚離婚、同棲分かれを4回も繰り返している。子供も母親が違う子供が3人もいる。最初はあんなにもててうらやましいなと思っていた。ところが最近はとうとう一人になり、生活保護を受けて細々と生活している。五木ひろしに「おしどり」という歌がある。夢でかくした 心の寒さ春の日差しを 待ってるお前右手の細さは 苦労癖これからは これからはおしどりのようにお前一人の幸せに生きていく3番に至ってはこれからは これからはおしどりのようにお前一人を抱きしめて生きていくこうなると、生きる目的というものが、配偶者に尽くすということ一点に絞られてしまう。生きがいは相手の気に入られるように、自分を抑えて生活することになる。その先に待っているのは共依存の世界である。共依存は相思相愛のように見える。しかし実態は相手の自立心を奪い取り、相手を自分の思い通りに支配しようとする態度につながる。この方向はしだいに二人を追い詰めていく。本来はそれぞれにやりたいことを見つけてその道に邁進する。それぞれの気持ち、夢や希望の追求が先にこないとダメなのだと思う。それがなくて、ただ相手に尽くすことが唯一最大の目的となってはまずいい。お互いに相手独自の生き方を認め合うことが肝心である。片や子育て、生活面では助けたり、助けられたりして協力し合う。今や経済的にも2人で支え合わないと家計が回ってゆかない時代である。1人では生きてゆけないが、2人で協力していけばなんとか生きて行ける。そんな中で、楽しみを見つけて、人生を満喫することのできる時代である。そういう視点で、「おしどり夫婦」という人達を観察してみようではありませんか。
2016.10.26
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先日テレビを見ていた。アフリカの草原でカバの群れを映し出していた。そこにはボスがいた。ある日そのボスの座を奪い取ろうとNO.2のカバが戦いを挑んでいた。ところが力及ばず負けて逃げ出してしまった。それでもなんとか群れの中に戻り平穏な日々を取り戻していったかに見えた。実際はそうではない。次の日無残にも水辺に腹を上にして死んでいた。ボスがその後自分で殺したか、仲間に殺させたのだろう。その肉をワニが群がって食いちぎっていた。対人恐怖の私にとっては人ごととは思えなかった。カバはボスに逆らうとすぐに殺されてしまう。対人恐怖の私も他人の思惑に気を配り、自分を殺して生きていかないと、カバと同じような目に会うはずだと思っているのである。私が仕事でマンション内を循環していた時のこと。向こうの川土手を小学生の子どもたちが先生に引率されてぞろぞろ歩いていた。みんな黄色い帽子をかぶっている。先生はみんなエンジのトレーナーを着ていた。総勢300人以上はいるように見えた。その時私の小学生のころの嫌な思い出が横切った。私にとって同級生は和気あいあいと楽しく遊ぶ仲間とは思っていなかった。自分に暴力をふるったり、暴言を吐いて苦しめる恐ろしい存在だったのだ。私は友だちに怯えまくっていたのだ。みんなで遠足をするというのは、集団行動を求められ、道中たわいもない話をしなければならない。それは針のむしろに長時間座らされているのと同じことなのだ。あらゆる場面で対人折衝を避けていたので、ネクラと思われていた。それは学校だけに限らず、家庭の中、会社員になってからも同じ状況だった。いつも人と接触することを避け続けてきた。それでも学校時代は人を避けてなんとか切り抜けることができた。でも社会人となり、会社に勤めるようになってからはそうはゆかない。必ず対人的な付き合いは発生する。対人的な社会体験が不足しているので、会社の中でうまく立ち回れない。イヤな場面に直接遭遇するのでなすすべがなかった。仕事ができない。毎日毎日他人の思惑に振り回されて、この世の地獄を見ているようなものだった。本当は周囲の人と和気あいあいと言いたいことを言い合い、一緒に楽しく過ごしたいのだ。でも人が怖いというのが障害なり、それに振り回されてどうにもならないのだ。どこでボタンの掛け違いがあったのだろう。一番は親との関わり合いに問題があったように思う。愛着障害を抱えてしまっているのがその後の人生に尾を引いているように思えてならない。だから私のような対人恐怖者やアダルトチルドレンを出さないためには、幼児、小学生までの親との関係がまともであるということがとても大切だと思う。だから親になったら親業の学習は必須であると思う。でも今の私にはすでに時遅しである。私は外向的な人のように、他人にどんなにひどいことを言われても「蛙の面にしょんべん」とい気持ちにはどうしてもなれない。一生人の思惑が気なるという資質は変えることができない。変えなくてもなんとか生き延びていけばよいのではないかと思うようになった。そんな中で森田理論学習を続けてきた。人間関係についても多くのことを学んだ。まずは100人の人すべてに好かれることはできないということだった。どうしてもうまが合わない人はいる。そういう人は最低限の付き合いだけでよい。そんな人にまで好かれる必要はない。必要なければ離れていればよいと思うようになった。また、人間関係は必要に応じて付き合ったり離れたりしている。時と場合に応じてひっついたり離れたりしている。つまり私たちが望んでいるべったりした人間関係を作りたいというのは幻想なのだ。実際にはごく薄い人間関係が多い。その人間関係も時が経てば、つぎつぎに移り変わっていく。死ぬまで続くべったりの人間関係というのはあまりない。少々イヤな人間関係であってもいずれは関わりがなくなっていくことがほとんどなのだ。そのことを忘れてはならない。次に愛着障害を変えている私にとっては心の安全基地作りは必要なことだった。私は集談会の中にそういう人を持てた。自分ことを温かいまなざしで見守ってくださる人である。何かあったときにはあの人に相談すればなんとか切り抜けられるという後ろ盾を持っていることは心強い。なかなかそういう人はいないが、そういう気持ちで探すことは必要であると思う。今では集談会のなかでも何人もそういう人を見つけた。普段は付き合いがなくても、何かあった時は安心して相談できると思える人である。集談会以外でもそういう人を持っていると十分生きていける。そう言えば、集談会以外でもそういう人がいる。何でも思ったことを言い合い、たまには言い合いになるが、雨降って地が固まるような関係である。今度はそういう安全基地の役割を私が果たしてあげなければと思っている。あとは、神経質性格は細かいことによく気がつくという特徴を活かして、小さな人の役に立つことを実践することだ。塵と積もれば自然に人間関係はよくなってくると思う。もう一つ、高良武久先生からは、人間関係をよくしようと思ったら、その道のエキスパートになりなさいというのも参考になった。10年も同じことに真摯に取り組んでいると、自信がついてきて、人の思惑を気にする度合いはきわめて小さくなる。
2016.10.25
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人間の感情にはいろんなものがある。少し整理してみよう。まずはネガティブな感情。不安、心配、恐れ、怯え、イライラ、怒り、罪悪感、嫉妬心、悲しい、憂うつ、不快など。次にポジティブな感情。楽しい、嬉しい、愉快、気持ちがよい、欲しい、食べたい、夢や希望、体を動かしたい、創作活動をしたい、人と分かり合いたい。その他いろんな欲望等など。石原加受子さんの自分中心の生き方というのは、ポジティブな感情が湧き起った時、その気持ちを素直に受け入れて、自分の感情中心に行動することの大切さを言われている。ところが普通はその気持ちを思考や言葉で押さえつけている。たとえば有給休暇を取って旅行に行って、温泉に入り美味しいものを食べたいという欲望が起きたとします。でも会社ではノルマが果たせないで、毎月未達になっている。ましてや同僚の中に葬儀以外で有給休暇を取る人はいない。自分の娯楽で休暇申請するのはわがままではないのか。罪悪感を感じて有給休暇の申請を取りやめてしまう。これは他人の思惑を気にして、他者中心の生き方になっている。そこでは自分の気持ちや感情を抑圧しているので、何かもやもやとして、心に葛藤が起きてくる。そして苦しくなる。思うようにならずに、投げやりになって、すべてを放りだしてしまったりする。対人関係で苦しい人は、そのように自分を押さえつけてしまうことに問題があるといわれている。これは森田理論でいうと、自分を「かくあるべし」で縛り上げていることだと思う。「かくあるべし」というのは、今まで受けてきた教育、規範、観念、常識、ルール等という物差しで現実、現状、事実を否定していく。事実を観念の世界に引き上げようと、悪あがきを仕掛けているのである。でもなかなか、現実を理想の状態に引き上げられない。そのジレンマに四苦八苦して、精神的にも肉体的にも苦しんでいるのである。石原さんの自分中心の生き方と森田理論の「事実本位・物事本位」の考え方は同じことだと思う。森田理論には、それ以外に不安、恐怖、不快感、違和感に対しての取り扱い方法を説明している。石原さんの自分中心の生き方には、そういう説明に重点は置かれていない。自分の気持ちや欲望に対して、素直な生き方に絞って説明されているように感じる。つまり他人中心の生き方を止めて、自分中心に生きていくことを提唱されているのである。しかしながら、神経症に陥っている人は、不安、恐怖、不快感、違和感と常に格闘している。それらを取り除こうと自分のエネルギーの大半をそこに集中さている。その時自分の気持ちや欲望は蚊帳の外に放置されている。だから森田理論では、自分中心の生き方を目指していく前になすべきことが他にある。不安、恐怖、不快感、違和感に対しての考え方や行動には問題がないのかどうか。さらに不安の特徴や役割。精神交互作用と症状の固定の関係。欲望と不安の関係。生の欲望と不安のバランスのとれた生活とは何か。それらをまず森田理論学習で深めていく。それらがよくわかった時点で、石原さんの言われる、自分中心の生き方への学習へと駒を進めるのが順序ではないのかと考える。つまり森田理論学習でいうと、思想の矛盾(理想と現実の解離による精神的な葛藤)の打破に取り組んでいくのである。そうでないと精神交互作用は解消できないのではないかと考える。
2016.10.14
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私は対人恐怖症です。DSM(アメリカ精神医学会)の回避性人格障害がぴったりと当てはまります。症状の発生と克服については、私の場合、愛着障害の分析が一つの鍵を握っていることが分かりました。愛着障害診断テストを行ったところ、強い不安型愛着障害、恐れ・回避型愛着障害に該当していることが分かりました。人間関係の持ち方に、強烈な恐れや怯えがつきまとうのは、強い愛着障害があるということがわかったのです。これは森田理論学習を進めるうえで一つの転機をもたらしました。愛着の形成は、簡単に言うと、生後6カ月からから1歳6カ月までの間に、特に母親との接触によって形作られる。この間に愛着形成が行われないと、その人はその後の人生において、極度の人間不信等に陥り、他人の思惑ばかりを気にして生活するようになる。私が小学生の時から人の思惑が気になり、神経が休まることがなかったのは、まさに愛着形成の不完全が原因だったと思うのです。小さいころから対人恐怖が強いために、人を避けることが多かったと思います。一人で過ごすことが多かった。友だちの遊びの輪の中に入り、もまれながら育ったという経験が極端に少ない。経験不足、社会体験不足で成長していったのです。対人関係で失敗することは少なかったのですが、大人になって対人関係の距離感が全く取れない。人の思惑を気にして、右往左往していました。とくに社会人になってからは、頭の中は対人関係のことばかりで、まともに仕事ができない。嫌な場面はぎりぎりまで我慢しているが、いったん我慢の限界を超えると破れかぶれな行動をとってしまう。対人不安で押しつぶされそうになりながら、苦しくて憂うつな毎日を送っていたのです。不安に翻弄されて、森田でいう「生の欲望の発揮」に活路を見出す等ということは、当時は全く考えられなかったのです。行動上の悪循環が精神の緊張を強めて、精神交互作用で神経症まっしぐらだったと思います。そして観念上の悪循環がそれに輪をかけて不安を増悪させていたと思います。「かくあるべし」の肥大化、完全主義、過度なコントロール欲求、認識の誤りなどが追い打ちをかけて自分を苦しめていたのです。こうなると糸がぐちゃぐちゃに絡まったような状態になって、もはや自分一人ではどうすることもできなかったのです。このような状態で精神科にかかりながら、藁をもすがる思いで集談会に参加し始めました。最初の頃は1ヶ月に1回の集談会では、とてもまともに生活してゆけませんでした。入院森田が適切だったのかもしれませんが、家族の生活がかかっており、入院森田は考えもしませんでした。その当時ある会員の方が土曜日に読書会をされていました。森田の勉強をしたり、個人相談にのったりされていました。最初の1年ぐらいは毎週顔を出していました。森田理論学習はしていましたがよく覚えていません。そのかわり、自分の症状や愚痴をよく聞いてもらいました。これが大変有効だったのです。たまには大型スピーカーからクラッシック音楽を聞かせてもらいました。アドバイスはあまりありませんでしたが、しゃべることで心の苦しみが軽くなったのを覚えています。自分の苦しみを批判もしないでじっと聞いてくれる人がいる。感謝してもしきれません。この方は私の心の安全基地の役割を果たしてくださっていたのだと思います。今考えると、私の苦しみの原因である愛着障害は、このような形でしか癒すことはできなかったのではないかと思います。心の安全基地作りが森田理論学習に優先して必要なことだった。私にとって人とタイミングに恵まれていたのです。その後、少しずつ森田理論学習を進めていくという段階を踏んでいたことがよかったと思うのです。玉ねぎの薄皮を剥ぐように徐々によくなっていった。振り返って今思うことは、愛着障害の人は最初のうちは森田理論学習なんてどうでもよいことなのではないか。人間が恐ろしくて、怯えまくっているのですから、そちらの手当てをすることの方がまずは必要なのではないか。集談会のなかに心の安全基地を作ってあげることが何よりも優先されなくてはならないと思う。今の集談会には、はたしてそういう認識があるのだろうか。少なくとも愛着障害がネックになって、対人恐怖症を発症しておられる人もいるという共通認識は必要だと思う。そうしないと最初から間違った対応になる可能性があるのである。最初から森田、森田と言っていると、自己満足に終わり、会員は増えないのではないか。集談会の中に心の安全基地を作るという目標があってもいいのではないか。私も力不足ながらそういう役割を担っていこうと思っている。苦しい人は、1週間に1回ぐらい話を聞いてもらいたいという人もおられるだろう。こうなると現状集談会では対応できないかもしれない。これはカウンセラーの役割になるかもしれない。ただ週1回1名ぐらい、15分から30分以内の電話対応ぐらいだったらできるかもしれないと個人的には思っている。無理のない範囲でないと長続きしない。その他、今はメールで日記指導はできる。数名ぐらいなら、1週間ぐらいの日記をメールで送ってもらい、コメントをつけて返してあげることは可能だ。ここでは森田理論学習そのものよりも、傾聴、共感、受容が重要になる。いずれにしろ、愛着障害を抱えた人に対して集談会として、どう対応するのかという議論は必要不可欠ではないだろうか。対応方法、仕組み作りを早急に整備したいものだ。森田理論学習は心の安全基地を作りあげたうえで、焦らずにゆっくりと始めればよいことなのだと思う。
2016.10.08
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イチロー選手はオリックス時代振り子打法だった。バットを長く持った姿勢で悠然と構え、ボール球であろうと、打てるエリアは打ちにいこうとするスタイルです。イチローは打てるゾーンが格段に広い。アウトローに落ちるボール球でもきっちりとレフトに打てるし、極端にいえば、ワンバウンド投球でもミートできる。だから彼はそういうリズムを崩したくなかった。ところが当時の土井正三監督や山内一弘コーチには受け入れなれなかった。土井監督は巨人のV9時代のレギュラー選手でした。山内コーチは打撃の職人といわれていた。それだけに、自分の成功したイメージを強く持っており、そのスタイルを選手に教え込めば選手の能力は大きく花開くと自信を持っておられました。そこでイチロー選手にはバットを短く持って、ボールをよく見て、コンパクトに当てることを要求しました。しかしイチロー選手はそれを拒みました。そのために二軍暮らしを余儀なくされました。たまに1軍に呼ばれても、何か少しでもミスをすると、決して悪い成績ではないにもかかわらず、下に落とされていた。そのイチロー選手は仰木監督に変わってすぐに大きく花開きました。仰木監督はイチローの振り子打法を否定せず、イチローの野球センスそのものを評価して1軍で使い続けた。「黒い猫も白い猫もネズミを獲る猫がよい猫だ」という考え方です。結果は210本ものヒットを打ったのである。(コーチ論 織田淳太郎 光文社新書参照)イチローはしっかりした自分のスタイルを持っており、意思が強かったので自分を押し通すことができたのだと思う。普通監督は現役時代の華々しい経歴を引っ提げて「自分の言うようにするとプロで飯が食えるようになる。自分の指導に従えば試合で使ってあげる」等と指導する。そう言われれば誰でもホイホイと付いていく。その結果戦力外選手になると分かっていても反対はできないだろう。これは集談会でも同じことが言える。集談会で症状を克服した人ほど、苦しんでいる人を見るとなんとか神経症の苦しみを取り除いてあげたいと思う。最初は善意から出発しているのである。ところがそのうち弾みがついてしまう。私はこのようにして神経症を克服したのだから、私と同じようにするとあなたもきっと神経症を克服できるはずだ。いい訳をしないで素直に先輩の言うことを聞いて実行しなさい。実際森田先生も入院生にそういうふうに指導されて神経症の治療をされていたのだ。だから間違いない方法なのだ。勢い自分の成功体験をもとにしてアドバイスをおこなうようになる。この関係は対等の立場ではない。先生と生徒の関係になっている。先生は生徒のことをよく知らないし、知ろうともしていない。自分の森田理論の理解がしっかりしていれば、鬼に金棒だと思っているのである。相手のことがわからなくても神経症を克服させることができると思っているのである。でも実際には反発を招いて、森田から離れていくばかりなのに反省することはなく、いつまでも自分の成功体験を押しつけようとする。成功体験を吹聴して、自己満足感を得たいのである。この関係は、関係を持てば持つほど双方ともに不幸に邁進しているようなものである。ではどうすればよいのか。イチローの例を持ち出すまでもなく、その選手の考え方ややり方、現状をこれでもかと知ろうとする態度を持ち続けることである。悩める人のよき理解者となることを目指すのである。この場合アドバイスは必ずしも必要ではない。相手が聞いてきたときは教えてあげてもよいが、それ以外はしてはならない。相手が気づいたり発見したりする楽しみを奪ってはならないのだ。ではどうするのか。カウンセリングの対話話法を学習して受容と共感の気持ちで傾聴してあげればよいのです。特に再陳述(繰り返し話法)がポイントです。これには事実の繰り返しと感情の繰り返しがあります。たとえば、「あなたは○○さんに挨拶をしようと思ったが、気後れして声をかけなかった」「その時あなたは気まずい気持ちになったんですね」などなど。これらを心がけて相手に接するだけで、少なくとも何を話してよいのか頭が真っ白になることはなくなります。相手の話したことを自分なりに言い変えるだけですので、気が楽になります。相手にとっては、この人は批判しないで自分の話をよく聞いてくれる。親身になって相談にのってくれる人だと思います。さらに相手の発言を「私はこう理解しましたよ」と繰り返してあげる。こういう態度が第一に集談会で求められている。これを無視して自分の成功体験を押し付けるということは百害あって一利なしだと思う。
2016.10.03
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岡田尊司氏はよい安全基地となるためには5つの条件があるといわれている。1、 安全感を保証するということである。これがもっとも重要なのは言うまでもない。愛着問題を抱える人にとって、一緒にいても傷つけられることがないというのが、最優先されるべき安全基地の条件なのだ。2、 感受性である。共感性と言ってもいいだろう。愛着の問題を抱える人が何を感じ、何を求めているかを察し、そこに共感することである。感受性が乏しいと、相手の気持ちがわからないばかりか、無神経なことを口にして逆に相手を傷つけたり、頓珍漢な対応ばかりしてしまい、ありがた迷惑な状況を招いてしまうかもしれない。3、 応答性である。相手が求めているときに、応じてあげることである。それはいざというときに「相談できる」「守ってもらえる」という安心感につながる。相手が求めていないことや、求めていないときに余計なことをするのも応答性から外れている。相手がすべきことを肩代わりすることは極力避けなければならない。もちろん、本人が心の中で求めていることを言いだせないというときに、それを察して、さりげなく手を差し伸べるということは必要である。4、 安定性である。相手の求めに応じたり応じなかったりと、その場の気分や都合で対応が変わるのではなく、できるだけ一貫した対応をとることである。5、 何でも話せることである。相手が隠し事をしたり、遠慮したりせずに、心の中に抱えていることをさらけだすことができることである。この条件はそれまでの4つの条件がクリアされて初めて達成できるかもしれない。私たちは集談会で愛着障害を抱えている人に接することになる。そういう人に対しては、まず愛着障害があるのかどうかを、「愛着スタイル診断テスト」(愛着障害 岡田尊司 光文社新書 312ページ)で検査することが必要だと思います。愛着障害のある人は、性急に森田理論学習のポイントを持ち出すのは控えたほうがよさそうだ。それよりも信頼関係作りに力を入れる。その上で傾聴、受容、共感の態度で相手の苦しみや悩みを聞いていく。その際基本的にはアドバイスは不必要だと思います。安全基地の役割を果たすことだけに注力することです。振り返ってみれば、私にもそういう人が集談会の場におられた。私はその人の前では何でも隠すことなく話すことができた。私の話を何度でもよく聞いて下さった。特にこれと言って役立つアドバイスはなかった。また批判めいたことは一切口にされなかった。よい点は評価して励ましてくださった。私にとってはまさに安全基地であった。何か人間関係で困ったときはあの方に相談すればなんとかなるという大きな後ろ盾を感じたものだ。では今の私がその役割を果たしているかといえば、やっと始まったばかりである。私は今までアドバイス人間であった。相手の話を十分に聴かないで自分の意見を一方的に押し付けてきた。集談会での人間関係になんか一抹の違和感を持っていたのはそういうところからきていたのだとはっきりと認識できるようになった。
2016.09.25
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岡田尊司氏は愛着障害を抱えた人は親との関係を改善していくことが、もっとも望ましいといわれる。しかしこのやり方は親が問題に気づき、子どもとの触れ合いを変えていくことが必要である。親が愛着障害を子ども自身の問題であるとみなしている限りうまくいかない。結局のところ、愛着障害を克服していく場合、第3者の関わりが不可欠といってよいだろう。その第3者は恋人やパートナー、配偶者がもっともふさわしい。人によっては集談会の先輩や仲間、カウンセラー、教師、精神科医、尊敬できる友人などもその役割を担ってくれることもある。その第3者が、親が果たしてくれなかった役割を、一時的に、場合によると数年という長いスパンで、肩代わりすることが必要なのである。そうすることで、子どもは愛着を築き直す体験をし、不安定型愛着を安定型愛着に変えていくのである。その場合に、その第3者が安全基地として機能しているということである。つまり、親の代わりをするということは、すべての面倒をみるということではなく、安全基地となることなのである。安全基地とは、いざというとき頼ることができ、守ってもらえる居場所であり、それを安全の拠り所、心の支えとすることのできる存在である。そして、外の世界を探索するためのベースキャンプでもある。トラブルや危険が生じたときには、逃げ帰ってきて、助けを求めることができるが、いつもそこに縛られる必要はない。良い安全基地であるためには本人自身の主体性が尊重され、彼らの必要や求めに応えるというスタンスが基本なのである。気持ちがまだ不安定で、心細さを感じるうちは、安全基地に頻繁に頼り、その助けを必要とするが、気持ちが安定し、安心と自信を回復するにつれて、その回数も減り、次第に自力で行動することが増えていく。さらにもっと時間が経てば、心の中で安全基地のことを、思い描くだけで十分になり、実際にそこに頼ることもなくなっていくかもしれない。それこそが究極な安全基地なのだ。これを集談会に当てはめてみると、傾聴、受容、共感できる能力を持った先輩や仲間が必要ということである。集談会ですぐにアドバイスする人は第3者にはなりえない。また非難、説教、指示、禁止、叱責をするような人も第3者には不適である。またすぐに同情して慰めてくれる人も第3者とは言い難い。私はあなたの苦しみや悩みを対症療法的に取り除いてあげることはできませんし、そんなことは一切しません。私ができることは、今現在あなたの抱えている問題や課題に寄り添って、それをじっくりと聞いて受け止めてあげることです。プライバシィに十分配慮いたしますので、どうぞ安心してお話しください。信頼感を形成して、無条件の肯定、共感的理解のできる人こそが第3者に求められているのである。カウンセリングでいう再陳述(繰り返し)、反射、明確化などの対話技法で、相手の主訴、課題や問題点をくっきりと浮かび上がらせる人が第3者適任であると考える。集談会は本来そういう人たちの集まりであるということが求められているのである。(愛着障害 岡田尊司 光文社新書より引用)
2016.09.24
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岡田尊司氏は愛着障害を抱えていない人は、4つの愛着スタイルのうち安定型であるといわれる。ちなみに4つとは、安定型、回避型、不安型、恐れ・回避型である。安定型の人はどんな人か。安定型愛着スタイルの第一の特徴は、対人関係における絆の安定性である。安定型の人は、自分が愛着し信頼している人が、自分をいつまでも愛し続けてくれることを、当然のように確信している。愛情を失ってしまうとか、嫌われてしまうなどと、思い悩むことはない。自分が困ったときや助けを求めているときには、それに必ず応えてくれると信じている。だから、気軽に相談したり、助けを求めたりすることができる。また安定型のもう一つの特徴は、その素直さと前向きな姿勢である。人の反応を肯定的に捉え、自分を否定しているとか、蔑んでいるなどと誤解することがない。そもそも人がどういう反応をするかということに、あまり左右されることがない。自分が相手の要求を拒否したり、主張を否定したりすると、相手が傷つき、自分のことを嫌うのではないかと心配したりはしない。自分の気持ちを偽ってまでも相手に合わせるよりも、自分の気持ちをオープンにさらけ出した方が、相手に対して誠実であり、お互いの理解につながると考える。自分の意見や気持ちを口にすることイコール、相手を否定することではないからだ。相手を信頼し、尊重しているからこそ、本音で話すのだと考える。互いに意見を述べて、論じ合うときも、がむしゃらに議論に勝とうとしたり、感情的に対立したりするのではなく、相手への敬意や配慮を忘れない。相手の主張によって自分が脅かされているとは受け取らないので、客観的なスタンスを保ちやすいのである。仕事と対人関係のバランスが良いことも、大きな特徴であり、ともに楽しみながら取り組むということが自然にできる。そのため、ストレスを溜めこみにくい。対人恐怖症の人はうらやましい限りである。対人恐怖症の人は「不安型」「恐れ・回避型」が多いようである。人を恐れて、他人の顔色ばかりをうかがっている。愛着障害を抱えたまま一生を過ごすことは本当につらい。明日以降、その改善方法についてみてゆきたい。(愛着障害 岡田尊司 光文社新書 210ページより引用)
2016.09.23
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対人恐怖症で悩んでおられる方は多いと思う。かくいう私もそうである。小さいころから人が恐ろしくて怯えながら生きてきたのである。恐ろしいのは仕方がないといても、どうしても人と関わりを持たないと生きていくことができない。そんな時に森田を知り、その後30年にわたり森田理論学習を続けてきた。森田理論学習では、人が恐ろしいのは仕方がない。それを否定しないで、ビクビクハラハラしながらでも最低限の仕事上、親戚や友人等とのつきあいをすればよい。また現実を無視して「かくあるべし」で自分や他人をコントロールしようとすると葛藤が深まり苦しくなっていく。いつもしっかりと事実、現実、現状に軸足をおいて、事実本位に生活していくことを学んだ。それをもとにして実践、実行に取り組んできた。おかげで有意義な人生を送っているとしみじみと思えるようになった。さらに森田以外にもとても役に立ったと思えるものがあることに気がついた。それは「愛着障害」「愛着スタイル」の学習であった。愛着障害はこのブログでも過去に何回も投稿してきた。愛着の形成は、簡単に言うと、0歳から3歳までの特に母親との触れ合いによって獲得される。特に生後6ケ月から1年6カ月の間の母親との触れ合いがとても大事である。3歳を過ぎると思ったほどの効果は上がらないといわれている。母親が近くにいて子どもとのスキンシップを十分にとる。そして子どもが求めたときは、すぐに応答できる人間関係が大切である。そのうち子どもは少しずつ母親から離れていくが、ストレスや不安を感じたときは、母親という「安全基地」にいつでも戻ってこられて、抱っこしてもらって安全を確保して安心を得ることが大切である。しかし何らかの事情によって、愛着の形成がうまく乗り越えられない場合がある。たとえば、この間母親の仕事の関係で、早くから保育園等に預けられた。死別、離婚等で母親がいなかった。また母親が家にいても虐待、過干渉、過保護などで育てられると、愛着の形成は不完全となる。愛着障害はその後生育するにつれて、見捨てられ不安、過度に人の思惑を気にする等で生きづらさを露呈させる。つまり我々が苦しんでいる対人恐怖症の温床となるのである。日本の「愛着障害」研究の第一人者は岡田尊司氏である。「愛着障害」(光文社新書)という本に「愛着スタイル診断テスト」がある。45項目の質問項目がある。これをやってみたところ、私の場合、きわめて大きな「愛着障害」を抱えていることが分かった。岡田氏は「愛着障害」を抱えている人は、いきなり認知行動療法等の心理療法などをおこなっても効果がないばかりか、かえって悪化することもあるといわれる。森田療法も同様であるかもしれない。「愛着障害」の改善に向けての治療法がまず先にこないと、闇夜に鉄砲を放つようなものだといわれる。子ども時代をやり直すことは不可能であるので、「愛着障害」の克服は不可能ではないのかという疑問がある。しかし岡田氏は、それは違うといわれている。子どもの時の「愛着障害」は大人になっても修復可能であるとしてその方法をいろいろと提案されている。あす以降さらにみてゆきたい。詳しく知りたい方は、同氏の「愛着障害 子どもの時代を引きずる人々」に詳しいので参考にしていただきたい。ちなみにこの本は大反響を呼び、大増刷を重ねている本である。
2016.09.22
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現在マンションの管理人をしているが、集合住宅ではいろんな人間模様が展開されている。一人完全に孤立してしまった主婦の人がいる。その人の姿を見ると回れ右をして方向転換をして関わりを拒否している居住者が多い。私は管理人なので居住者全員に平等に接しないとならない。その人は話し相手がいなくてうつ状態になっているので寂しいのだろう。ときどき管理人室にやってきて世間話をしていく。それも30分は普通。時には昼休みの時間をはさんで1時間以上にも及ぶ。話の内容はいつも同じような話だ。スーパーのレジの対応の悪さ、ガソリンスタンドの店員の緩慢な対応、マンション内の他の居住者の悪口、出入り業者のマナーの悪さなどである。先日こんなことがあった。マンションでは消防点検が実施される。その時は家の中に入り込んで消防機器を点検する。その方は家に業者が入られるのがイヤだという。その理由は家の中に雑菌を持ちこんだり、家の壁や床を傷つけられるからだという。そのためにこれまでに何度もトラブルを起こしてきた。その方が管理人室にやってきて「今回は消防点検は見送りたいがそれでいいか」と言われた。私は「それでよいと思います。私が消防点検を受けるか受けないかは強制することはできないんですよ。居住者の都合によって今回はパスしたいという方もいらっしゃいます」と言った。すると4日ほどして管理会社から電話が入った。その人が会社にクレームの電話をしたのだ。「管理人が消防点検は受けなくていいといった。消防点検を受けないとマンション全体の安全性に問題が生じるはずだ。そんな権限が管理人にあるのか。そんなことをいう管理人は替えてくれ」管理会社はその人の肩を持って一方的に私を詰問してきた。「どうしてそんなことを言ったのか。消防点検は消防署に提出書類であり全居住者に受けてもらわないと困ることだ。そのような対応をして居住者に不信感を与えるような発言は見逃せない。そんな些細なことから次年度の契約更新がダメになる。居住者の言うことが本当なら始末書を書いてもらうことになる。最悪解雇事案にあたる可能性がある」私はそれを聞いて腹が立ってきた。どうして管理会社はもっと事実関係を確認しようとしないのだろう。居住者からの電話は間違いないと決めつけて、一方的に管理人を悪者に仕上げているのではないか。理不尽極まる言いがかりである。管理人の対応は本当のところはどうだったのか。事実を確かめる必要があるのではないか。その上でどう対応するかを決めてもらいたかった。私はまだしばらくはこの会社で働きたいという気持ちがあったので、その時の対応を思い出してていねいに詳細を説明した。「消防点検を受けるか受けないかは居住者に任されています。私が絶対に受けなければならないと強制はできません」それ以上のことも、それ以下のことも言っていませんと説明した。これを聞いて会社がどう処分するか、まな板の鯉のような心境だった。そして電話を切った。しばらくすると、「今支店長等と対応を協議した。あなたの言い分はよく分かりました。あの方はよくトラブルを起こす方なので、今後事実だけを聞いて自分の意見は決して言わないように。今回の処分は見送ることにした」「また今後世間話には付き合わないように。それでも管理人室に来るようなら、次の仕事をする必要があるので10分ぐらいでよろしいでしょうかと最初に時間制限の了解を得てからするようにという指示を受けた」なんとも後味の悪い結末であった。
2016.09.17
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東京の荒川区で、欠席過多による原級すえおきを繰返している登校拒否児がいた。この少年は、学校に行かないときは、窓のカーテンも開けず、薄くらい部屋に一人でひきこもっていたことが多かったという。自殺未遂をおこしたこともあるという。その彼が、クラスの仲間たちの粘り強い働きかけが功を奏して、2学期の半ばになってやっと登校するようになった。ちょうど、間近に迫っていた文化祭の準備期間だったこともあり、クラスの一員として活躍する場が次々と与えられた。クラスで上演することになっていた劇の舞台装置を準備する役になる。クラスの代表で出したポンターが学校中の1位になり、文化祭のプログラムの表紙として採用された。彼のクラスでは、クラスの仲間がそれぞれ得意な分野で、「小先生」になりお互いに教え合う制度があった。そこで、技術科が得意であることが分かった彼は、ここで先生役として仲間で教えることもした。こうして、仲間とやり取りをする中で、活き活きと活動し、一日も休まず登校するようになる。その年度の終わりには、新年度の前項の生徒会長にも選ばれるほどになった。そして、「学校が生きがいだ」とさえ、口にするまでに変わった。(無気力の心理学 稲垣加世子他 中公新書 74ページより引用)大変好感のもてる話だと思います。このエピソードのポイントは第一にクラスの仲間の温かい励ましが挙げられます。2番目に、彼自身がつらい精神状態を横に置いて、目の前のなすべき課題にすっと入っていけたということが挙げられます。活動の中で成功体験を味わい、自分は人の役に立つことができるという感触をつかんでいる。それをクラスの仲間が評価してくれて、自分の生きがいに転嫁することができた。仲間から必要とされているという確かな手ごたえ、これが、ただ単に無気力から回復させるのに寄与したというだけではない。生きる意欲ともいうべきものの形成にもつながっていることがよく分かる。こうしてみると、自分と同じ仲間に属する人々からの是認、関心、感謝が自分の存在意義を自覚させて、活き活きとした活動への源になることが分かる。こういう温かい人間関係作りを、自分の生活範囲の中で、最低一つは築きたいものだ。森田理論学習に「人のために尽くす」というのがある。これは温かい人間関係を築く上で大いに役に立つと思う。森田先生は一言も「人のために尽くせ」とは言われていないと思う。でも、これに近いことは言われている。「人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことはどうでもよいというふうに、大胆になれば、はじめて人からも愛され、善人ともなるのである」(森田正馬全集第5巻205ページ)神経症で苦しんでいる人は、意識や注意は常に内向している。それをある程度外向きに変化することができるようになることが重要になる。そのためにはつらい症状を抱えたまま目の前に取り組んでみることが有効である。そこに「人のために尽くす」ということを取り入れてみるとさらによいと思う。考えてみれば、神経症で苦しんでいる男性の人は、家事や育児にはほとんど手をつけない。まずは家庭内で実践してみるのはどうだろうか。掃除、洗濯、整理整頓、食事の準備や後片付け、ペットや草花の世話、車の洗車、隣近所との付き合いなどで自分の役割を決めて果たすことを始めたらどうだろうか。そこから少しステップアップして常に他人の役に立つことを探して、実行に移すというのはどうだろうか。すばるクリニックの伊丹先生は次のようなことを提案されている。1、 人に言葉をかける。あいさつ程度から始める。2、 ちょっとしたものをプレゼントする。読み終わった新聞や本など。3、 自分が持っていてもいなくてもよいようなものを貸してあげる。4、 ゴミを拾うとか、肩を叩いてあげるとか、あるいは靴を揃えるとか労力を提供する。5、 自分の持っている智恵や情報を提供してあげる。6、 人が困っていることがあれば、その人の話をよく聞いてあげる。7、 温かい言葉をかけてあげる。例えばお年寄りや病気の人に会ったら、「お元気そうですね」と一言かけてあげる。(生きがい療法でガンに勝つ 伊丹仁朗 講談社 251ページより引用)一つ一つは小さいことですが、そういう実践ができるということは、自分の症状や不安に向かっていた意識や注意が、外向きに変わっているということだと思います。森田は注意や意識を内向きから外向きに転換することをお勧めしているのである。
2016.09.09
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あなたの上司にこんなことを言う人はいませんか。「あなたは何年この会社にいるんですか。本当に大学を出ているの。この仕事に対する能力が無いんじゃないの。同僚に比べて情けないとは思わないの」「いい歳をして、常識も分からないんだから、困った人だ。みんな軽蔑しているよ」「またミスをして。何度注意をすれば分かるんですか。もう外からの電話はとらなくてもいいですよ」「ロクに仕事ができないくせに、こっちの足を引っ張るのはやめてくれ」「私の仕事は君の尻ぬぐいではないんだぞ」「毎月ノルマが達成できないのなら会社のお荷物だし退職しかないな」「何だ、その顔は。言いたいことがあるのなら言ったらいいじゃないか」どこの職場にもいるような上司です。こんなことを言われた時、あなたはどう対応していますか。すぐさま猛反撃を開始して、「あんまりじゃないですか。人をバカにするのもいい加減にしてください」と破れかぶれになることはありませんか。私の職場でもあまりにも腹が立って暴力に訴えた人がいました。すべて退職に追い込まれてしまいました。こうしたケースを森田理論で考えてみましょう。こうした上司は自分の不快な感情を部下にぶっつけて、自分の気持ちをスッキリさせようとしているのです。また、森田でいうと「かくあるべし」の強い上司です。上司の立場を利用して、自分の主義、主張を部下に押し付けているのです。こういうのをパワーハラスメントと言います。部下を自分の思い通りにコントロールしようとしているのですが、部下との確執を深めるばかりです。そのことに気が付いていない上司が多い。このような部下に対する感情攻撃は、不快な感情を取り除こうとして、精神交互作用を繰り返し神経症への泥沼へと陥っていく過程とそっくりだと思われませんか。森田では不快な感情は自然現象なのでどうすることもできない。そのまま持ちこたえていれば、薄まったり、流れていくと言っている。そんなことをやりくりするよりは、目の前の仕事に取り組んだ方がよほど有意義である。そうすれば不快な感情をやり過ごしてよかったということになる。このような上司は森田理論の「感情の法則」を知らないので、不快な感情は意志の力で取り除くことができると思っているのです。そういう意味では、森田理論を知らなくて、対処法が分からないかわいそうな人なのです。それにまともに反発する部下の場合はどうでしょうか。実はそういう人も、上司にバカにされた不快感をなんとかして取り去りたいと思っている人なのです。自分の不安、恐怖、不快感はどうすることもできない自然現象である。自然現象は素直に受け入れる。服従するのだということが、森田理論学習で、頭では理解できていても、実際の行動としては対応できていない人だと思います。残念なことです。では感情攻撃をしてくる上司にどう対応すればよいのでしょうか。基本はまともに取り合わないことです。相撲でいえばがっぷりよつに組まないことです。ぶつかり合うと見せていなす方法が有効だと思います。これで相手が勢い余って土俵を割ってくれればという気持ちでいることです。売り言葉に買い言葉といわれるような対応は、火に油を注いでつらい思いをするばかりです。では具体的にはどうするか。英会話を勉強している人の例。罵詈雑言を頭の中で翻訳するそうだ。「翻訳が難しいと、すみませんそこのところもう一度繰り返してもらえませんか」という。バカと言われれば、「その通りです」。能なしやろうといわれれば、「そうかもしれません」ミスをしつこく攻められれば、「申し訳ありません」。それに対して上司が「申し訳ないで済めば警察はいらない」といえば、反発しないでまた、「まことに申し訳ありません」を繰返す。感情攻撃が長びけば、「すみません。急におなかが痛くなりました。我慢できません。さきにトイレに行かせてもらってもいいですか」と言って中座する。一呼吸置くのだ。そして缶コーヒーを飲んだり、深呼吸をしてみる。誹謗中傷が始まれば、頭の中で好きな人のこと、好きな食べ物、夢中になっている趣味やスポーツのことを考えてみる。上司の感情攻撃がいかにも応えたという演技をする。うなだれて再起不能というような迫真の演技をする。女性の場合はシクシクと泣く演技をする。上司の方に「これはちょっとやりすぎたか」という気が起こるような演技をする。それを他の部下も見ているのだ。だいたい自分の不快感を部下にぶつけることによって、スッキリとしたい上司は会社内をうろついている蝮やハブだと思った方がよい。近寄らない方が無難である。避けられないときでも、絶対に棒などで威嚇してはならない。突きまわしているとトグロを巻いて突然飛びかかってくるのが関の山である。噛みついて毒針から猛毒で攻められたら命の保証はないと心得るべきだ。ここでは対決姿勢を引っ込めて、かわしていくという心構えを大切にしたい。その方法はこれ以外でもいろいろと自分で事前にいくつか用意しておくことだ。そしてその不満は同僚や親しい人に愚痴として吐き出していくことがベターであると思う。そうしないとストレスが蓄積されて最悪、うつ病、胃潰瘍、十二指腸潰瘍になる。
2016.08.29
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「青い鳥症候群」ということが言われる。若者で、現状に見切りをつけて、理想の恋人、学校、仕事などを求めて行動する人のことをいう。こう言う人の特徴を精神科医の比嘉千賀さんは次のように指摘されている。(1999,9,15の講話より引用)1、 一流大学を卒業して、エリートサラリーマンとして就職したにもかかわらず、すぐに挫折して退職してしまう。2、 謙虚さに乏しく、尊大に見える幼児的万能感を持つ。3、 仕事上の仲間との協調性に欠け、対人関係を円滑に維持することが苦手。4、 忍耐力に乏しく、一定期間の訓練的単純労働にも耐えられない。5、 高い知能や学力とは裏腹に、世間的常識や人情の機微に鈍感で、状況音痴的言動で人目を引くことが多い。6、 何かにつけて批判能力にたけてはいるが、おおむね自己中心的で、現実認識と現実対処能力にかなり歪みがある。7、 自我の発達が未熟で、過去の学力のみ自信を持ち、目標達成のための努力や積み重ねをせずに、労せずに一挙にその成果を得ようとする。8、 比較的能力は高いが、自己不全感の強い他責傾向の強い神経症者。9、 「良い大学、良い会社、良い生活」という画一的な社会価値観の中で、過干渉・脅威気ままに育てられた。これらを見てみると、「青い鳥症候群」の人は、親から、愛着障害、過保護、過干渉、放任などで育ててきたために社会にすんなりと適応できなくなっている。また、あまりにも偏差値重視の学力偏重で生きてきた。雑多な人間関係で揉まれる機会を持てず、対人関係の距離の取り方が分からない。光を当てずに短時間で「もやし」を育てたようなものです。これで自立して生きてゆきなさいと言われても、生きていく基礎力が無いのでどだい無理な話である。でも遅まきながら、人間の再教育をして、社会に適応してゆかないと将来が完全に閉ざされてしまう。さらに、森田神経症に陥るような人は、自分自身に注意や意識が向きやすいという特徴も持っているので一層生きにくくなっている。これらを踏まえて2点ほど提言しておきたい。まず目を外に向けて、目標や課題に挑戦する態度を養成すること。二番目には、対人関係のあり方を見直していくこと。そのためには、学生さんの場合は勉強ばかりではなく、課外活動にも取り組んでほしい。スポーツだけではなく文化系の課外活動もある。どちらでも自分の興味のあるものを見つけてほしい。課外活動に取り組んでいると、勉強以外の目標や課題にも取り組めることになる。大学受験という目標だけではなく、課外活動という目標は将来の人生にとって必ず役に立つと思う。現在は友だち付き合いをしなくても、家でネットゲーム等をして楽しむことはできる。それ以外にも自分ひとりで楽しむ方法はいくらでもある。でもそれはお勧めできない。それだけでは、人と協力して目標に向かって努力するという経験は持てない。また人間関係で揉まれるという経験が持てなくなってしまう。そういう状態で社会に出て、シビアな人間関係で躓くのは目に見えているのだ。社会人の場合は、職場の人間関係だけで大きく振り回されているという人もいるだろう。会社での人間関係はどうしてもとげとげしくなると思います。それはまずいと思います。会社以外の利害関係のない、趣味の会、集談会、町内会などの人間関係作りをお勧めします。次に会社は基本的には、生活費を稼ぐところだと思います。私の経験では、定年まで働いて自分と家族の生活を維持できれば十分だと思います。集談会では「月給鳥」という鳥になって、餌を捕ってきましょうと聞きました。会社では管理職を目指して熾烈な出世街道を突っ走っている人もいました。でもそういう人は一旦管理職失格の烙印を押されると、窓際族として生きていくか、退職するしかないんですよ。そうならないためには、私は会社勤めもクビにならない程度に、ホドホドの取り組みをお勧めしたいと思います。集談会でも生活信条として、「ホドホド道」を勧める人もいます。
2016.08.27
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先日、NHKで「不寛容の社会」という番組をやっていた。「不寛容」というのは、他人のあやまちや欠点を許さない社会のことだそうだ。森田理論にも関係する大変興味深い番組で、心理学者や一般の人が20人ぐらいで議論をしていた。その中で一番目を引いたのは東京大学の鳥海不二夫先生のツイッターの分析の話だった。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という患者さん(ホーキング博士もその病気だそうだ)支援のために、「アイス・バケツ・チャレンジ」というのがあった。頭からバケツの氷水を浴びるというものだった。ソフトバンクの孫さん、楽天の三木谷さんたちのチャレンジで有名になった。これに対して賛否両論、ツイッターで67万件もの書き込みがあった。鳥海氏はそのうち31万件を分析された。これによると賛成派と反対派に明確に分かれていた。賛成派の理由は、「活動に賛同した」「みんなで寄付をしよう」「寄付をしたよ」「素晴らしい」「秀逸なプロジェクトだ」「病気を知ることは大切だ」「患者を支援しよう」などだった。反対派の理由は、「売名行為だ」「うさんくさい」「水の無駄だ」「偽善だ」「氷水をかぶって楽しんでいる」「自分が患者だったら喜ばない」「ALS患者は喜ばない」「病気に関心を持つ人はいない」などだった。ツイッターでは誰かがつぶやくと、その意見に対してリツイートがある。自分が賛成の立場だと、賛成の意見にたいしてリツイートする傾向が強い。反対の立場だと反対意見に対してリツイートする傾向が強い。自分と反対意見へのリツイートは1割に満たなかったという。つまり反対意見は無視してしまうのだ。たとえばALS患者が、「アイス・バケツ・チャレンジ」活動や寄付に対して「心から感謝しています」というつぶやきを投稿した。これに対して賛成派の人は100名以上の人がリツイートとしている。ところが反対派の人のリツイートは全くなかったという。これは何を物語っているか。自分に合わない人とは没交渉である。最初から毛嫌いしているのだ。人の意見は聞かなくて、一方的に自分のいいたいことを独り言としてつぶやく。それに対してリツイートされればうれしい。なければそれでもよしという感覚。お互いの反対意見の人の言い分をよく聞いて、よりよい意見の集約を図ろうという気持ちは最初からないのである。相手の考えと自分の考え方の違いを吟味してみようという気持ちはさらさらない。一方的に自分の立場でいいたい放題のことをいう。そして自分のスタンスに合わない人は、敵とみなす。敵はみんなして批判、排除、攻撃してしまうということである。これをネットでおこなっていると次第にエスカレートしてくるという。するとこんなことが起きる。最初反対派だったのに、賛成派の気持ちも分かるというようなリツイートをするような人がたまに出てくる。するとその人は、反対派内で裏切り者として袋叩きされるという。同質性を裏切る行為は背信行為とみなされるのである。森田では二者択一で片方に偏ることを危うい傾向と警戒している。100か0、白か黒、正しいか間違いか、良いか悪いかと価値判断することである。ここで言う賛成派、反対派はその両極端に離れてしまいそれぞれに固まってしまう。そしてそれらが対立しているのである。森田では、真実はつねにその両極端のまん中あたりにあるという。自分の意見が相手と違う場合は、すぐに否定や排除をしないで、相手の言い分をよく聞いて、調和を模索するという姿勢がどうしても必要だ。そうでないと相手といがみ合うようになり、結局は自分自身が自分の首を絞めているということに気づく必要がある。もはや現代人は調和、バランス感覚を失い、議論、話し合いによる事態収拾という道は放棄してしまっているのであろうか。傾聴、受容、共感という温かい人間関係は死語になってしまったのであろうか。今やネットを使って誰でも自由に自分の意見を述べることができる。先日保育園に落ちた働く主婦の「保育園に落ちた、日本死ね」という書き込みは、日本全国で反響があり、国会をも政府をも巻き込む議論に発展した。このようにネットは良い方にも悪い方にも独り歩きして加速度を増して過激になってしまうのである。悪いほうに情報操作されれば数日でネット炎上現象が起きてしまう。その数、2015年は年間1000件に上っているという。書き込みをしているうちに最初は穏やかだった人が、精神交互作用でどんどん憎しみを増大させて生きるか殺すかという精神状態になるのだ。これは意見の合わない人を暴力で攻撃するという危うい社会だ。元々は好感が持てる人だったのにネットの書き込みのせいで、醜い人間に変化してきたのだ。これが始まったのは1995年といわれている。まだ20年しか経っていない。今後ネットの普及で、自分の信念、思想、生活スタイルに合わない人を、有無を言わせずに切り捨てたり、排除する風潮は益々加速されるだろうと思う。その社会は人間同士が戦い、人類の破滅の方向に向かっているように思えてならない。ここにも森田的視点から社会に対して警鐘を鳴らす必要があると思う。
2016.08.23
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夫婦の人間関係に2通りあるようだ。一つは、今度生まれ変わったとして、また同じ人と結婚したいと思っている人。二つ目のパターンは、とんでもない。今の配偶者とは絶対に結婚したくない。相手のやることなすことすべてが癪に障る。顔を見ることすら嫌悪感を覚えるという人。一つ目のパターンは、理想的な夫婦のように思える。でもいいことばかりではないようだ。どちらかが亡くなると、残された方は生きる意欲がなくなる。特に男性の場合は数年で自分も亡くなるケースが多い。二つ目のパターンは、表面上夫婦でありながら別の人生を歩んでいるので、あまりダメージは受けないようだ。女性でも男性でも、再婚して新しい人生をスタートさせる人すらいる。でも二つ目のパターンの場合は、普段は夫婦ともに人間的な触れ合いはなく、精神的につらいばかりではなく、いがみ合ってばかりでは身体面にも悪影響が出てくる。なかには、仕事が終わってもすぐに家に帰らず、奥さんが寝静まった頃を見計らって帰宅している人もいるそうだ。こうしてみると基本的には、一のパターンの夫婦がいいようだ。私の知り合いに一番目のパターンの夫婦がいる。二人とも好奇心旺盛でさまざまなことに手を出している。その中で、この夫婦はよく口げんかをする。奥さんはかっとなることはめったにないが、旦那さんはすぐに頭に血が昇る。その場では線香花火のように口げんかをするのだが、見ているとすぐに収まる。それは旦那のほうが引き下がるからである。私が見ていて思うのは、いつも奥さんの方に分がある。それは奥さんが事実を具体的に正しく指摘するからだ。それが第三者から見ていても客観的で正しい。旦那さんが自分のやったことを間違いない。正しいと思っていることを奥さんが「それは違う。あんたは間違っている」と指摘する。すると旦那は絶対に間違ってはいないと反発する。または自分のやり方を通そうとする。一応は反発してみるものの、奥さんが何回も「あんたが間違っている」といわれると、そのうち引き下がっているというパターンがいつも繰り返されている。あんなにいつも奥さんにやりこめられてばかりでストレスはたまらないのだろうか。ところがその旦那さんが言うことには、「うちの奥さんほど協力的な人はいない。だからできるだけ家内のやりたいことはやらせるようにしている」という。小さい衝突はいつも発生しているが、無意識の部分でお互いを信頼しているのだと思う。土台の部分で固い絆で結ばれているのだと思う。海でいえば表面上大波が立って大荒れでも、海の底では波が立っていないようなものだ。これなら口喧嘩でいいたい放題なのも刺激が合って面白い。私の場合は、お恥ずかしい話だが、これが反対になっている。つまり、表面上は波が全く立っていないのだが、海の底は潮の動きが激しいのだ。イヤ、海の底の動きが激しすぎるので、表面上の動きを意識的に抑えているというのが現状だ。森田理論学習では、自分の感情、気持ち、意思、希望などは口に出して吐き出す方がいいと学んだ。それを我慢したり耐えたりしていると、それはストレスとして蓄積されていく。それが限界に達したとき、ひずみの解放が一挙におこなわれる。地震のひずみの解放とよく似ている。素敵な夫婦、素敵な人間関係というのは、相手は自分の思い通りにコントロールできるものではない。だから相手の言い分をよく聞いて、相手を分かろうとする気持ちを十分に持ち合せているのだと思う。この時点では、配偶者と自分の感情、気持ち、意思、希望と違っていてもよいのだと思う。その先は、お互いに勇気を持って話合い、許し合い、妥協点を探す努力を続けることが肝心であると思う。最悪は相手を拒否したり、無視したり、抑圧したり、脅迫したりすることである。
2016.08.16
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ひろさちやさんのお話です。知人のインド人が、病気の父親を看護するため、6ヶ月間会社を休んだそうです。それを聞いたわたしは、「6カ月も会社を休んで、よく首にならずにすんだね」と言いました。すると彼は、「え!日本では、父親の病気で6カ月会社を休めば首になるのですか」と驚いています。「6カ月どころか、6日も休めば首になるよ」と応ずると、インド人は呆気にとられた顔をしました。ところで、その父親は回復せずに6カ月後に亡くなったそうです。そこで病名を訪ねると、「病名はよく分かりません」との答え。実はその6カ月のあいだに医師がやってきたのはたったの2度。病名もはっきりしないまま亡くなったのだとインド人は言います。これらは日本と反対です。(諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店 162ページより引用)日本でインド人のようなことをすると、公務員以外はたいてい職を失います。医療を受けさせないのは医療ネグレクトといって本人は厳しく糾弾されます。テレビなどのマスコミに取り上げられ、極悪非道な人間として扱われます。経済発展をして高度な医療を享けられる日本人。医師や看護師は毎日患者を診てくれます。しかし、息子が見舞に行くのは6カ月のあいだにたったの2度。これは少々極端かもしれません。でもあたらずといえども遠からずではないでしょうか。これが親にやさしい日本の子どもの姿です。寝たきりになり認知症があり、特別養護老人ホームに入所した高齢の親を見舞うことは本当に少なくなっているのです。第一都会から通っていると、そのたびごとに交通費がかさみます。何時間もかけて見舞う時間的余裕もありません。たとえ見舞に行っても、親は植物人間になっているのですから、会話はありません。ただ生命を維持しているだけにすぎないのです。これが自分を生んで育ててくれた親に対する態度かと憤ってみたところで、実態がそうなっているのです。おむつを子どもが取り替えるということは全く考えられません。全部専門職の人の仕事となっています。風呂に入れたりシーツを取り換えたり、食事の世話をするのもそうです。狭い部屋に2人、3人と見も知らずの人と毎日生活をさせるのはしのびないと言っても、背に腹は代えられません。悲しいかな、これは近い将来のあなたの姿でもあるのです。すべてを施設にお任せして、お金で済まそうとしているのです。親をものとして扱っているのです。自分はその施設利用代の支払いのためにさらにあくせくと働かざるを得ないのが実態です。自分も人間としてではなく、物として生きていかざるを得なくなっているのです。つまり便利、快適、楽ができる代わりに、働き蜂や、働きアリのように一生涯、金儲けだけのために働かざるを得なくなってしまっているのです。親子の絆、周りの人たちの人間的つながりはどんどん失われているのです。こんな生き方でいいのだろうか。森田理論学習をしていてしみじみと考えさせられます。
2016.08.06
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高良武久先生は、神経質なひとの自己中心というのは、普通言われている自己中心な人とは違うと言われています。一般的には、自己中心的な人は、人に何を言われても平気、身勝手、わがまま、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人のことをいいます。こう言う人は周囲の人から嫌われます。自己愛性人格障害の人はまさにこのような人です。神経質な人はひとから嫌われてはいけないという気持ちを持ち合せているために、そういう自己中心的な行為はとらない。ひたすら注意や意識が自分に向かう。自己内省的になる。わずかな他人の言動を大きく拡大して、傷ついてしまう。挙句の果てには、自己否定に陥り、行動は逃避的になる。長谷川洋三氏がこんな話をされていた。海外へ単身赴任をする夫を空港まで見送りに来た奥さん。空港には会社関係の人が何人か見送りに来られていた。それを見た奥さんは、突然何も言わずにその場を離れて車に戻った。というのはこの奥さんは赤面恐怖があった。赤くなった顔を会社の人が見たら変に思うのではないか。きっとそう思うはずだ。さらにそんな醜態は夫にも迷惑がかかるのではないか。夫に迷惑をかけてはならないと考えたのだった。そこでとっさに身を隠そうと思い立ったのだった。神経症の人の自己中心の典型的な例である。これを見て会社の人はどう思うか。なかには体の調子でも悪くなったのかなと思う人もいるかもしれない。でもたいていは、思いやりのない冷たい奥さんだなと思われるのではなかろうか。自分の思いと周囲の人の見方が反対になってしまっているのである。一方で生活の発見会の会員の中には、こんな人がいた。神経症に陥ってつらい日々を過ごしていた人が、森田療法のおかげで、よくなってきた。会社でも仕事本位になり、着実に成果を出して昇進も果たし、周囲の人に評価されてきた。ところが、その人が集談会に来ると自信満々でアドバイスをするようになったのだ。自分の体験をもとにして、叱咤激励するものだから多くの人に煙たがられているのである。岩田真理さんによると、ごく一部の方ですが、神経症を克服した人で、頑固で、自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちや場の雰囲気などおかまいなく自分のいいたいことを言う人がいます。ときどき「あの人は神経症があった時の方が付き合いやすかった」と評されているのです。この人は、神経質症の症状のために劣等感で苦しんでいたのが、裏返って優越感になっているのかもしれない。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 10ページより引用)こう言う人は根が自己中心的な人であろうか。多少はあたっているかもしれない。私が思うには、この人は「半治り」の人だと思います。「半治り」の人はこういう状態を現す人もいるのである。表面的には、まさに自己中心的な人そのものである。こう言う傾向のある人は、是非とも完治を目指していってほしい。どうして「半治り」状態に甘んじておられるのか。それは森田の完治を、「症状はあるがままに受け入れて、なすべきをなす」ことだけにこだわっておられるからである。森田理論では、治り方は大きく分けて2つあると紹介している。もう一つの治り方は、「かくあるべし」的思考方法を少なくしていくことである。そのことを森田では「思想の矛盾」を解消していくと言っている。「半治り」の人は、半分は治っているのである。いいところまでは到達しているのである。ところがその先、前進することを止めてしまったために、自己中心の弊害が出てきたのである。また、現状の自分を認めることができないために、心の底からスッキリとした展望を描ききれていないのである。「かくあるべし」を修正して、事実や現実を大切にするようになった人は、他人を叱咤激励するようなことはしない。他人の話をよく聞き、受容と共感で相手に寄り添うことができる人である。つまり、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人ではなくなる。それはいつも現実、現状、事実から出発できる能力を獲得しているからである。そういう視点で、集談会に参加している人を見ていると興味は尽きないのである。
2016.08.05
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51歳の男性の方で、職場で疎外されて悩んでいる人の相談です。ある製造業の会社員です。25年勤務しているのですが、職場の雰囲気になじめず、皆から信用もなく蚊帳の外のような状態で悩んでおります。具体的には、仕事のミスが多かったり、それに対して上司がぼろくそに言ったりして、また皆の前で罵倒するため、下のもの、女子等もみんな自分をバカにしているみたいです。誰も自分に必要以外は話しかけてこない。自分は腰痛があって重いものを持つことができないが、誰も手伝ってくれない。症状としては、ビクビクして仕事が手につかない。自信がない。腰痛があり、自分の体が思うように動かない。自分の体が自分でないように感じる。頭がふらっとする。倒れるのではないか。こんな状態で社会生活を営めるのだろうか。廃人になるのではとかの恐怖、判断力の低下などがあります。あなたの悩みは対人恐怖症でつらい人生を送ってきた私と同じです。私の場合は不眠やうつがありましたので精神科にかかり抗不安薬や睡眠薬をもらいながら会社勤めをしておりました。今考えるとあまりにもつらい時は、自分ひとりで悩まずに精神科にかかったり、カウンセラーの力を借りることも有効ではないかと思います。私の場合は集談会の仲間たちとの温かい交流や助言が一番効きました。自助グループは同じ悩みを抱えている人たちの集まりですので安心できます。ピア・カウンセリングの傾聴、受容と共感の体験は役に立つと思います。是非気に入った集談会を見つけて、継続して参加されることをお勧めします。そして1年ぐらい参加していると世話活動に参加されるとよいと思います。私は図書係、副代表幹事、代表幹事、支部委員などの役割を任されました。それに一生懸命に取り組んでいました。特に一泊学習会の企画や実施は大変役に立ちました。みんなと役割分担しながら、問題点を一つ一つつぶして準備をしてゆきました。そしてなんとか無難に終えた後は充実感でいっぱいでした。そういう経験を集談会の中で何度も経験させていただきました。その経験がそのまま会社の中で活かすことができるようになりました。懇親会の幹事役。会社の移転などの責任者にも指名していただき、1年がかりで遂行しました。それから人をまとめて仕事を遂行するような仕事を任せられるようにもなりました。集談会は小さな社会のようなものです。少々失敗してもみんな大目に見てくれます。ここでできる範囲で訓練を積んでゆけば、仕事の段取り、対人関係の持ち方を習得できます。活用しない手はないと思います。それから腰痛ですが、お医者さんや整体にはいかれていますか。器質的な痛みでしたら治す必要があると思います。あなたの今の置かれている状態は、森田理論でいうと精神交互作用で観念上の悪循環が起きていると思われます。意識や注意が自己内省的で、ネガティブで悲観的な方面に向かっています。さらに行動面の悪循環が起きています。いわば蟻地獄に落ちているような状態です。そうなると「生の欲望の発揮」という面が蚊帳の外に置かれているのです。ここが問題です。バランスが崩れて自分が神経症で苦しむ原因を作りだしているのです。一刻も早く蟻地獄から這い出ることが当面の目標となります。あなたのよいところは、休職したり、休暇をとったりしないで会社に出続けておられることです。今はそれを継続されることをお勧めします。「月給鳥という鳥になって餌を捕ってくる」のだという目的はしっかり持っていてください。そのあとは、このブログで取り上げているように、実践課題への取り組み、メモを利用したきめ細かい行動・実践へとステップアップしてゆかれるとよいと思います。あなたは今の会社での人間関係をアドバイスで一挙に解決したいと思っておられると思います。それはちょっと難しいと思います。「急がば回れ」という言葉があります。神経症の悩みの解決も不安に正面切って挑むよりも、外堀を埋めていくという方法が一番確実で間違いのない方法だということを認識していただきたいと思います。
2016.07.29
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結婚相手に「やさしい人」を求めることが多い。大平健氏によると、旧来の語法では、「やさしい人」とは、相手が自分の気持ちを察してくれて、それをわが事のように受け容れてくれるときに感じるものでした。自分が「やさしい」気持ちになれるのも、自分が相手と同じ心持になった時のことでした。いずれの場合も「やさしさ」が双方にとって心地よいのは、自分と他人の気持ちのずれがなくなり、一体感が得られるからでした。そういう状態になるためには、お互いに相手の考え方や行動をよくわかった上で、相手に寄り添った言動が必要になります。集談会でいえば、自分の悩みをよく聞いてくれて、共感して受容してくれる。そして適切なアドバイスをしてくれるような人のことだろうか。ところが、大平氏によると、最近の「やさしさ」はそういう人間関係の在り方とは違ってきたといわれる。一歩踏み込んだ生々しい人間関係を避けるようになってきた。そういうかゆい所に手を差し伸べてかゆみをとってくれるような「やさしい人」は敬遠されるようになってきたという。そういう人を「うっとうしい人」、「わずらわしい人」として避けるようになってきた。つかず離れず適度の距離を置いて、相手の心の痛みは見て見ぬふりをするのが相手を思いやることなのだと思っている。相手の嫌がるようなことから目をそらして、静観してあげるのが「やさしい人」だというのである。手出し無用だというのだ。土足でズカズカと自分の心の領域に踏み込んでおせっかいを焼かれるのもイヤだし、おせっかいを焼くのもイヤだというのである。たとえば、欲しくもないものを売りつけたり、売りつけられたりすることは敬遠する。売りつけて断られると自分が傷つくし、押し売りを断ると相手が傷つく。人に頼みごとをするのも、他人から頼みごとをされるのもしり込みしてしまうのも同様の理由からである。こうなると、人間関係は必然的にあたらずさわらず表面的なものになってしまう。森田理論学習では、時と場合に応じて、つきず離れず適当なバランスを取りながら人間関係を築いていくのを「不即不離」という。森田では人間関係ではベタベタと付きまとってはいけない。かといって全く離れてしまうのもいけないという。時と場合に応じて、ひっついたりあるいは離れたり臨機応変な対応が大切であるという。この考え方は大平氏のいう考え方と同じなのであろうか。私が思うには、大平氏のいう「やさしい人」というのは、お互いに心がとても傷つきやすい人である。ちょっとした傷つきで心がかき乱されて、日常生活に大きな影響が出てくる。それなら、親密な人間関係を築くことを避けてしまおうという考え方である。旧来の人間関係は同じ町内ではみんなが子どもの教育を担っていた。年頃になれば結婚相手を紹介したりしていた。相互の人間的交流は今と比べ物にならない。普段から私生活のすべてにわたって助け合っていい面も多かった。ところがそうした親密な人間関係の半面で、個人の自由に干渉してわずらわしい面もあった。現代では他人に束縛されて、自由がないというのは息が詰まる。その気持ちが一番強い。他人と情愛のこもった人間関係を築きたいというのは頭の中に理想としてはある。しかし実際問題としては、深入りして、熱い人間関係を構築することは、自分の自由が束縛されて息が詰まってくるので、当たり障りのない表面的な人間関係を基本姿勢としているのである。では、こういう人間関係の考え方、基本姿勢で臨むことは問題はないのだろうか。私は問題が大ありだと思う。こういう考え方をする人は、モラトリアム人間に近い。自分の目の前に現れた問題や課題に対して蓋をして先送りしてしまうのである。一時的には楽になるが問題が解決したわけではない。むしろ問題を引きずり、どんどん増悪して自分を苦しめてしまう。今現在を真剣に生きるということから見ると、夢の中で生活しているような状態である。こういう人の特徴は、さまざまな問題に対して決断できない。迷ってばかりで解決の糸口が見いだせない。いつまでもウジウジと葛藤を繰り返す。「いちおう」「とりあえず」という言葉が口癖になっている人が多い。これは自分の言動は急場しのぎのものであり、仮の見解である。自分が本当に求めているものは別にあると思っている。今現在生きているという自覚に欠けているために、ぼんやりとして離人感に苦しめられることもある。次に今現在熱中できるものが何もないと思っている。今していることがはたして自分が本当に望んでいることなのか。自分は本当に人生を謳歌して楽しんでいるのか。全く自信が持てない。人生は幸せの青い鳥探しだと思っている。だから30歳になっても、40歳になっても自分探しの旅を続けている。でもこれといったものが見つからない。またそういう人は、他人に深入りをしないから憶測で相手の気持ちを判断するようになる。事実を確かめないで、先入観で、ネガティブな決めつけをおこなっている。勝手に自分ひとりで納得しているので、人間関係は希薄なうえに、疑心暗鬼でいっぱいになるのである。こうしてみると現在の表面的な「やさしい人」というのは、精神的に葛藤を抱えて苦しみやすい人だと言えるような気がする。これらを改善していくには、今現在のことに真剣に向き合う癖をつけていくことが大切である。それは森田理論学習とその実践で得られることであると考える。(やさしさの精神病理 大平健 岩波書店参照)
2016.07.28
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次に高良武久先生が人間関係で楽になる道は、その道のエキスパートになることだと言われている。一つのことを10年も続けていると、その道ではある程度専門家になれる。この道では誰にも負けないという自負があると、少々人から間抜けだ、馬鹿だと言われても立ちあがれないほどの心の痛手は受けないものである。ぜひそういうものを持ちたいものである。コツコツと努力していくのが得意な神経質者は取り組みやすいのではないかと思う。次に自己中心的な人は、内観療法をお勧めしたい。7日間の集中内観を受けると自然と身の周りの人に感謝できるようになる。しかしこれはそのままにしておくと元の木阿弥になってしまう。家に帰ってからも日常内観を継続しておくことが大切である。次に私たちは自己主張が下手なのだから、少しは自己主張の方法を学んでいくことだ。いつも相手のいいなりになったり、我慢して耐えたりしていてはストレスがたまる。小分けにして自分の気持ちを表現していく方法を学んでいくことだ。これはテクニックの問題だ。その方法としてはアサーショントレーニングがある。自分の気持ちを正直に伝え、かつ相手にも配慮した主張的な言い方を会得していくのだ。そのポイントをあげておく。何かの本で見つけたのだが、忘れたので資料名を示せないのでご了解いただきたい。1、自分の気持ちを考える我慢したり押し殺したり、感情任せになるのではなく、自分の正直な気持ちはどういうものなのかをしっかりと考える。2、つぎに相手の気持ちを考える。自分の気持ちを一方的に伝えるのではなく、それを言われた相手がどのように感じるのかということを考える。3、自分を主語にして発信する。「私は・・・」という表現を用いることで,自分の気持ちを伝えやすくなる。攻撃的表現になりがちな人は「あなたは・・・」と相手を主語にしていることが多い。相手を主語にすると,どうしても否定的になりやすいし,相手を責めた口調になるので気をつける。これは「あなたメッセージ」から「私メッセージ」への発信の転換である。4、前向き,肯定的な言葉を用いる「できない」などの否定表現や自分の立場だけを考えた言葉は使用しない。「~したらできる」など,肯定的でポジティブな言葉を使用したほうが相手も受け取りやすい。5、気持ちを伝える自分の感情・気持ちを表す言葉を用いることで正直な気持ちを伝えやすくなる。「~していただけると嬉しい」,「~だと助かります」,「~で困っています」など。6、お願いの表現を用いる「こうすべきだ」,「こうしなさい」などと支配的,一方的に言うのではなく、「~してほしい」という表現のほうが受け取りやすいし、お互いに意見が違っていても協力的に進めやすい。たとえば・・・Aさんは顧客のトラブル対応のため、明日までに宿題を仕上げなくてはなりません。残業は確定です。下手をすると徹夜になるかもと覚悟したその時、上司のBさんがやってきてこう言います。「さっきMailしておいた報告書の件だけど、明日までに仕上げてね。よろしく。」この場合、Aさんは上司Bさんにどのように返答すればより良い結果が生まれるでしょうか?一例を挙げると・・・「実はお客様から宿題を頂きました。明日までに仕上げなくてはならないので、申し訳ないですが報告書の作成は今は出来ません。」と、ていねいに、しかし、はっきりと伝えます。その上でスケジュールを確認し、「明日のXX時以降でしたら報告書作成に取り掛かれそうなのですが、いかがでしょうか?」と前向きな対案・提案を行うことができればとても良いでしょう。自分の意見も相手の意見も大切にしており、意見の食い違いがあっても歩み寄ろうとする姿勢が見られます。たとえ自分の意見が通らなくても、相手に自分の気持ちを率直に伝え、対等にコミュニケーションができたことで、お互いにストレスを感じることもなく、さわやかな印象が残るだろうと思います。最後に、ユーモアあふれる生活を送る。これについては、6月1日にその一端をご紹介しているのでご覧ください。我々は楽しむために生れてきたのだから、大いに人生を楽しみましょう。そしてそのおすそ分けを周りの人にしましょう。これらを実践して、生活という車輪が少しずつ前に向かって進み出すとしめたものだ。そのうち弾みがついて、新しい気づきや発見が増えてくることだろう。その時は対人的な悩みは、あることはあるが気にならない程度にしぼまっていることだろう。初めから目一杯のところを目指さないで、1年経って少しは違う自分がいるというぐらいがちょうどよい。
2016.06.06
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子どもにとっていじめられてクラスで孤立することは、薄氷の上を歩いているようなものだ。生きた心地はしないと思う。大人でも会社で上司、同僚、女子社員等から無視されて孤立無援になると大変なストレスになる。私が苦しかった時はそんな状態だった。私はそんな人に言いたい。決してあきらめることはない。改善する方法がある。森田理論学習に希望がある。こういう方は森田理論学習をして、森田を生活指針として生きていく術を身につけてもらいたい。そうすれば私みたいになんとか生きていける。孤立している時は、蟻地獄の底に落ちてもがけばもがくほど底にずり落ちてしまう状況です。そういう人は対人関係の持ち方や在り方が分からないし、自分が信じられないのだと思う。まずどうしてそうなったかという現状をしっかりと把握していくことが大切だ。これは親の育て方に問題があったのである。自分に責任があったのではない。だから自己嫌悪したり自己否定する必要は全くない。また罪悪感で苦しまなくてもよいのだ。まずは愛着障害。そして過保護、過干渉、放任等の育て方をされてきたのだ。自分の意思が尊重されず、抑圧されて親にいいなりになってきた。だから、もっとやる気を出せとか、言いたいことがあったら言えばいいじゃないかと言われても、いまさらおいおいと出せる状況にはないのだ。また自己中心的で、他人を思いやる気持ちも育たなかった。でも赤ちゃんからもう一度やり直すことはできない。また親を恨んだところで自分がみじめになるだけだ。親も自分の親からそのように育てられたので、自分の子どもをどう教育していいのか分からないままに育ててきたのだ。そういう意味では親もまた被害者なのである。子育てを学ぶ機会がなく、自己流の方法をとってきたというのが問題だったのである。さて森田理論で状況が好転すると言っても、ケガが跡形もなく完治するようなわけにはいかない。そこは誤解しないでほしい。今の対人的な苦しみが10%か20%でも少なくなればよしという人にとっては福音となりうる。まず愛着障害の改善です。愛着の修復は、何かにつけて自分に寄り添ってくれる人を作るということです。そういう人が一人もいないと生きていくことは茨の道となる。いつもは自分のすることを温かく見守っていて、励ましたり、ほめてくれたりする人です。いざ窮地になった時は助けに入ってくれる人です。そういう人を見つけましよう。本来は親がその役割を果たすべきです。ところがいじめにあっている人は、親にそれを期待することはできません。しかし、親に変わってそういう人を見つけておくことは必要です。私は集談会にそういう人がいました。30年以上集談会に参加してきました。その人は1回も私のことを非難したり説教された事はありません。いつも温かく見守って、いつも気にかけてくださっていました。そういう後ろ盾を得て、集談会の中では自由に役割を果たすことができるようになったのだと思います。そして、その後ろ盾を頼りにして会社勤めがなんとかできたのである。私の場合は運が良かったのかもしれません。そういう人はなかなかいないかもしれません。私はせめて集談会の場は、傾聴、受容、共感の場になるようにお互いに配慮したいものだと思います。他人を非難したり、強引なアドバイスをしたりすると傷つきやすいガラスコップのような私たちの心はすぐに割れてしまいます。集談会の場では、気にくわないことがあっても、なるべく口にしないようにしましょう。それと、いじめにあっている人というのは人間関係の幅がとても狭い。これはまずいいことだと思います。コップいっぱいの人間関係を2、3個しか持っていないというのはとても危ない。その人たちが自分に危害を加えるようなことをしたらいっぺんに人間関係が壊れて、孤立してしまう。コップに少しだけ水が入っているような人間関係をたくさん作っていくのが森田流です。だから人間関係の幅を広げていく努力をする必要がある。配偶者、家族、親戚、同級生、集談会、勉強会、趣味の会、飲み友達、ボランティア関係、仕事関係、隣人、親子会など身の回りの人間関係は幅広いのである。深入りは必要ない。時と場合に応じて必要な人間関係を、必要なだけ薄く幅広く作ることを心がけていくべきだと思う。そうすると学校や仕事での人間関係が壊れても、別の人間関係が救いになる。そういう時こそ助けてもらえることがある。さらに幅広い人間関係の中に自分と相性が合う人は自然に見つかるものであると思う。それと学校や職場でいったん孤立してしまうとこの状態が永遠に続いてしまうような錯覚に陥る。しかし現実は違う。学校は卒業してしまえばいったんは解散になる。職場でも、上司は常に変わるし、同僚も入退社を繰り返している。特に女子社員などは頻繁に入れ替わっている会社が多い。どこの会社に行ってもうまの合わない人間は必ずいる。でもその人たちと一生にわたって付き合うわけではないということもしっかりと認識しておきたい。愛着障害を抱えた人は、後ろ盾がないので、人間関係作りはとても困難ではあるのは確かだ。無理のない範囲で愛着の回復を遅まきながら進めていくことが大切だと思う。次に無気力、無関心、依存的、刹那的快楽主義の自分をどうしていくのかですが、明日投稿します。
2016.06.04
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子育てする人には是非とも学習しておいてもらいたいことがある。それは愛着障害のことである。愛着障害を持っている人はとても生きることがつらい。生き地獄の生活を味わうことになるからである。この内容については何度も投稿しているので、関心のある方はキーワード検索で見てほしい。愛着障害は生後6カ月から1歳6カ月の愛着形成期を無難に過ごすことができたかどうかが一番の問題となる。さらにその後3歳までの親との関わり方が決定的となる。問題育児の一例をあげてみると、子育てに無関心な親で身の回りの世話をしてもらえない。育児放棄や虐待を受けていた。この時期に母親が働きに出ていてそばにいなかった。次に生まれた子どもに手がかかり、ほったらかしにされていた。養子に出される。児童養護施設で育てられる。実母がこの時期に亡くなった。両親がしょっちゅういさかいを起こしていた。挙句のはてに離婚した。一方的な過干渉、過保護などの育て方をされた。愛着障害が問題なのは、この期間を過ぎた後では十分な成果を上げることはないことだ。この間、特に母親の間に十分なスキンシップがあったかどうか。母親が子どもの欲求を感じとり、それに対して速やかに応答してきたかどうかが問題となる。これは他人に肩代わりしてもらう事は出来ない。自分を生んだ母親や父親など特別の存在との交流が重要である。それはイスラエルのキブツでの実験で明らかになっている。生まれたての子どもに対して、母親と切り離して、多くの大人が子どもに関わりをもち、かわいがり、十分なスキンシップをしたが、安定した愛着が育っていくことはなかったそうだ。こうした実験はサルでも行われていたが、あまりにも問題が大きく、倫理的な観点から母子隔離・単独飼育は現在行われていないそうです。この時期を無難に過ごし、いったん愛着の絆が形成されると、それは容易に消されることはない。心の中に「安全基地」「ベースキャンプ」を持っていて、そこを足がかりにして冒険をすることができるようになる。そして危険なとき、苦しい時は、安心してそこに退避できる。さらにエネルギーを補給して再び飛び出すことができるようになる。エベレスト登山のような場合、「安全基地」「ベースキャンプ」がないとどうなるか。シェルパや支援部隊がいないと、急な悪天候で容易に挫折してしまう。愛着の絆の形成はそういうものなのだ。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書参照)それでは、愛着障害を抱えた人はそういう運命のもとに生れて来たのだとあきらめるしかないのか。これは必ずしもそうではない。「子育て支援に活かす心理学」という本がある。かすかな希望を持って、この中で紹介されている対策を紹介してみたい。1、「修復的愛着療法」があるそうです。この療法は、まず愛着に問題がある子どもの理解を深める。次に愛することや愛されることへの恐れを解決する。そして、親が子どもをサポートできるように親を支援する。さらに、親自身の愛着関係の見直し、両親の夫婦面接による夫婦の絆の再構築と続きます。2、フライバーグが提唱した「乳幼児―親心理療法」もあります。子ども、親、治療者の3者が治療場面に存在する治療法です。3、親子関係の修復がむずかしいケースでは、親ではない別の人物が愛着の対象になるという方法もあります。その有力候補は、保育士、幼稚園、小学校の教諭などです。(「子育て支援に活かす心理学」 繁多進編 新曜社参照)
2016.05.21
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対人恐怖症の原因は親の養育よるところが大きい。ハリー・ハーローはアカゲザルを使って実験をしている。針金で親をイメージした人形を2体作る。片方には哺乳瓶を持たせる。片方にはその人形を毛布でくるむ。どちらの人形にアカゲザルの赤ちゃんが懐いてくるのかを観察したのである。すると人形を毛布でくるんだ人形に懐くことが分かった。このことから愛着の形成は食べ物を与えるよりも親の接触、温かみ、ぬくもりが重要な役割を果たしていることが分かった。またアダルトチルドレンの原因は、親の過保護、過干渉。親のアルコール依存症。親の長時間の不在等が原因とされている。その結果子どもに「見捨てられ不安」が強くなり、大人になって対人関係の悪化や精神障害を引き起こすと言われている。普通の子育てでは、自分の周りに親がいて世話をやいてくれる。自分が生まれてきたことを親が喜んでくれている。すると自分の心のよりどころを得てくるのだと思う。心の安全基地を持つことができるのだ。その後ろ盾をよりどころとしながら、少しずつ外部との接触を始めることができるようになる。最終的には親から自立して、親から離れていく。ところがそういう育ち方の経験がないとつらい人生が待ち構えている。まず自分は生まれてきてはいけなかったのではないかという疑念が生まれる。そしてひょっとして、自分は親とっては迷惑な存在なのではないか。親にとっては好ましくない人間なのではないか。きっとそうだ。間違いないと思いはじめる。そしてついにそれが確信に変わる。自分が受け入れられない存在だと思うと、周りの人がすべて敵に見えるようになる。自分を攻撃する人間に見えてしまうのだ。それに対して防御態勢を敷かないと踏みつぶされてしまうような被害妄想に悩まされる。自分は孤立している寂しい人間に見えてくる。こんな敵が多い状態では社会に溶け込んで、まともな社会生活を送ることは無理ではないかと思うようになる。社会の荒波の中で仕事をしてゆく自信がなえてくる。適応不安が芽生え、それが確たるものとなる。アパシー状態になるのである。この状態では無条件に相手に甘えるということはできなくなる。また相手の甘えも自分としては受け入れることができなくなる。本来は自分のやりたいことを優先して相手に甘えたり甘えられたりするのだが、それができなくなる。相手の機嫌がことのほか気になるのである。そのうち、相手に何らかの利益をもたらさないと自分を受け入れてもらえないのではないか。自分が相手に甘えるということは取引をするようなものになる。自分の存在自体が相手に無条件に受け入れられる場合もあるということは思ってもみないということになる。次第に自分の思うように人生を生きていくことができなくなる。さらに、自分の欠点や弱み、ミスや失敗は相手を不快にさせるので、絶対にあってはならないと思うようになる。そんなことをすれば益々相手に嫌われて甘えは受け入れられなくなる。だからそういうことは隠す、逃げる、取り繕う、ごまかして相手の眼に触れさせないようにするようになる。さらに表面的な自分を見栄えの良いものに塗り固めることに注意を払うようになる。ありのままの自分を出すことはなくなる。いつも相手の顔色ばかりを気にしているととても生きることがつらい。何のために生きているのだろうと思うようになる。いつも何かに怯えたようになりビクビクして神経が休まることはない。意識は常に対人関係に向けられ、そんな自分を自己否定するようになる。もともと自分は親の養育の犠牲者なのだから、親を反面教師として観察して、自分の生き方を変えてゆけばよいのである。ところが愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は、親を憎んではいるが、自ら進んで親から離れようとはしない。それは親を否定しながらも、心の中ではなんとか親に受け入れてもらいたいという未練があるからだ。この傾向は親だけではなく、社会に出てからもそうである。こちらの方が問題としては大きい。自分を非難したり、無視したり、拒否したり、否定する人は自分の周りにたくさんいる。その人たちとの人間関係はある程度距離を置いて、自分の気の合う人を探せばよいのだがそうは考えない。自分を馬鹿にする人との人間関係をなんとか修復しようとする傾向がある。相手の仕打ちに対して耐えたり、我慢したりして仕事をしているのである。その人と距離を置いているが頭の中ではそのことでとらわれ続けている。精神衛生上極めて問題のある対応である。そして自分を引き立ててくれるような人たちは眼中にないかのような付き合い方をする。それはその人との人間関係を修復しない限り、自分の人間関係は永遠によくならず、孤立して寂しい人生に陥ってしまう。そうなれば社会から永遠に抹殺されてしまうという恐怖感からきているのではないかと思われる。集談会でも愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は大変多い。かくいう私もそうである。もはや昔に戻って人生をやり直すわけにもいかない。今出来ることは、そのからくりをよく学習して自分の置かれた現状を自覚することである。事実関係をよく見つめてみることである。事実がよく分かるようになれば自然に対応策が見えるようになるものである。その上で親の養育は問題があったのだから、恨んでもよいと思う。精神的には親とは一線を置くしかないと思う。これは別の考え方をしている人がいるかもしれない。私の場合はそう思うというだけのことである。それから対人関係は、会社の人間関係だけで固まることは危険である。集談会、趣味の会、地域社会、PTA、同窓生、親戚関係、ボランティアなどいろんな人間関係があると思う。広く浅く多くの人と時と場合に応じて付き合うことをお勧めしたい。それから愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は職業の選び方は注意して選んでほしいと思う。私のようにいきなり訪問営業のような仕事は難しい。私も9年で挫折した。人間関係がそんなにシビアでないような仕事。一人で技を究めていくような仕事。動物や植物を相手にするような仕事。他人から「ありがとうございます」と感謝されるような仕事。等など。私たちに向いている仕事はいくらでも見つかるはずだ。職業の紹介の本など見て間違いのない職業選びをしてもらいたいと思う。
2016.05.14
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私はアダルトチルドレンです。父親はアルコール依存症で肝臓を悪くして、52歳の時に心不全で亡くなりました。私はその父親のもとで物心ついたころから、過干渉で、叱責されながら育ってきました。それが大人になって、いつもビクビクオドオドして対人関係で問題を抱え、生きにくくなった原因ではないかと考えています。アダルトチルドレンの特徴は次のようなものがあるいわれています。1、 常に親や他人の顔色をうかがい、自己主張が全くできない人になります。どうしてそうなるのか、というと、常に相手の機嫌をとっていないと、相手は自分から去っていく、見捨てられてしまう、と思っているからです。他人中心の生き方をしていますので生きることが苦しくなっています。2、 自分で自分を否定しています。自己嫌悪に陥り、自己評価が低くなります。自分の中に二人の人間がいて、絶えずけんかをしているようなものです。一人の自分の中でたえず葛藤があります。また他人からの叱責や罵声に極度に敏感になり心が休まりません。3、 自己評価が低いために尊大で誇大的な傾向の人もいます。過剰に自分を目立たせようとするのです。不必要な努力をしているために疲れ果てています。4、 見捨てられるのが恐ろしく、他人の誘いや要請を断ることができません。それが重荷になり、最終的には人間関係が逃避的になります。そして孤独感、寂しさに苦しみます。5、 自分より弱い人、自分の世話を待っている人に出会うと、その人を支配し、離れられないようにします。つまり共依存関係にしがみつきます。人を一方的に支配し、さらに嫉妬深くなります。6、 他人の言葉や振る舞いを好意的に解釈することができず、悪意の目で見てしまいます。怒りや恨みを鬱積させて、ときにこれが暴発することもあります。はけ口を求めて暴力的になるだけではなく、反対に抑うつ、無力感、喘息、潰瘍性大腸炎、摂食障害、薬物依存、ギャンブル依存などに陥る人もいます。7、 離人感が出てくる人もいます。例えば、「自分が自分でないような感じ」「自分がなぜここにいるのか分からなくなった感じ」「自分と外界とが薄い膜に隔てられているような感じ」「自分の行為が自分から発しているように感じられず、それを漫然と見ているような感じ」(アダルト・チルドレンと家族 斎藤学 学陽書房参照)私の場合5番目を除いてすべて当てはまっています。特に大学卒業後に訪問営業の仕事についた時、対人恐怖がもろに出てきました。お客さんからの断りの言葉を聞くと、自分を否定されたような気持ちになりました。そのうち仕事に行くことができなくなり、仕事をさぼるようになりました。すると上司や同僚から軽蔑されるようになりました。また自分で自分を否定するようになり、生きていくことがとても苦痛になりました。最終的にはその仕事は9年で退職しました。今考えるとアダルトチルドレンの場合は職業の選択はある程度限られるのではないかと思います。対人関係作りが難しいわけですから、対人関係の少ない仕事を選ぶべきではなかったかと考えます。出来れば普段は自分一人でも出来るような仕事がよかったのではないかと思います。それを極めていくマイスターのような仕事が向いているのではないかと思っています。次にアダルトチルドレンにとって、森田理論は役に立つのかどうかということですが、私は大いに役に立つと思います。人に見捨てられては生きていけないというのは、これは体に染みついたようなものですからなかなかぬけることはないような気がします。でも、自己嫌悪、自己否定していた自分を森田理論学習で折り合いをつけていくことは十分可能であると思います。つまりあるがままの自己を肯定できて、自分を活かして生きていくことはできると思います。私の場合は、「かくあるべし」のからくりを学び、事実を認めていくという経験を積み重ねて、事実本位の態度を身につけることによって、ありのままの自分をそのまま認めることができるようになってきたと思います。また規則正しい生活に丁寧に取り組み、雑事を大切にするようになりました。また一人一芸を磨きあげることで生きることが楽しくなってきたような気がします。アダルトチルドレンの本質的なところは何ら改善は出来ていないのかもしれません。でも神経質性格でよかった、これからは自分の与えられた命の限り精一杯生き抜いてゆきたいと思えるようになりましたのでこれで十分だと思っています。集談会でもアダルトチルドレンの話は時々出てきます。なかなか改善は難しいようです。でもある程度改善できれば、社会に適応することが可能となり、仕事を持って生活できます。また生きることを心の底から楽しめるようになれると考えています。アダルトチルドレンの人には是非とも森田理論学習をお勧めしたいと思います。
2016.04.17
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山崎房一さんが嫁・姑の問題でこんな話を紹介されています。その方のご主人は3人兄弟で、みんな東京や千葉に住んでいる。3人の嫁に嫌われている口うるさい75歳の姑さんは山梨で一人暮らしをしている。この嫌な姑が5月に、それぞれ1週間の滞在予定で兄と弟の家へ泊まり、最後にこの方のところへやってくることになっている。ところが、兄や弟の家では、冷たい態度で、みんなから邪魔者扱いされた。そこで1週間を3日に切り上げて、この方のところにやってくるという連絡が入った。この方は兄弟の嫁さん以上にこの姑さんを憎んでいた。許せないと思っておられた。過去に子どもが交通事故で亡くなった時、ひどい仕打ちをされた事があったからだ。でも、その気持ちはそのままにして、実際の対応は演技をしてみようと考えられた。駅に迎えに行った時、「おばあちゃん、ようこそ。待っていたのよ」と姑の小さな手荷物を持ち、手をとって案内をした。家に着くと、「これはね、おばあちゃんが来られるので一番上等なのを買ったのよ」といってとっておきの羊かんを出した。おばあちゃんはうれしそうだった。この方はおばあちゃんに優しい言葉をいっぱいかけた。お風呂の湯加減を見てあげたり、肩をもんであげたりした。居心地が良かったのか、1週間の予定を延期して12日も滞在して山梨に帰って行った。その夜9時ごろ、家におばあちゃんから電話がかかってきた。夫が出た。おばあちゃんは「とても楽しかった。ありがとう」と言っていたそうだ。夫が喜んで感謝してくれたので、その方もうれしかったそうです。それから数日して、おばあちゃんの夢を見た。どんな夢だったかは忘れたが、私の枕は涙でぬれていた。山崎房一さんに対応を相談したとき、「悪い姑はどんなに憎んでもかまいません。でもその気持ちを言葉や態度には出してはいけません。演技をしなさい」というアドバイスが役に立ったそうです。するといつの間にか姑に対する今までの憎しみ、恨みはすっと消えていたそうです。森田理論では憎しみや恨みの感情は自然現象だから、どうすることもできないといいます。それらを抱えたまま、行動は感情とは切り離して考える。適切な行動が、自分と相手の人間関係をしだいに改善していくのだと思います。(心がやすらぐ本 山崎房一 PHP研究所参照)
2016.04.12
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子どもは中学生くらいになると、親離れを始める。いつも親の指示に従っていた子どもが、しだいに自己主張するようになり、自立への道を歩み始めるのである。親からしてみると、今まで素直に親の言うことを受け入れていた子どもが反抗を始めるのでとても戸惑う。親はどのように子離れをしてゆけばよいのだろうか。その前提として、親は子どもを心身とも成長させて、自立支援をしていくという大きな役目を持っているのだという認識を持って子どもと接することが大切であると思う。いくらかわいくても自分とは別の人格を持った一人の人間であり、将来は親と離れて自分の力で生きてゆかなければならないのである。さて、人間は1歳6カ月までに親の愛に包まれて育てられることがとても重要であるという。これは愛着の形成ともいう。愛着の形成の経験がないと、大人になって「見捨てられ不安」でのたうち回るようになる。その後は、子どもの自由な行動を近くにいて見守っていてくれている親。そして、いざという時には自分の味方になってくれる親。これは「安心基地」としての親の存在のことをいう。親が「安心基地」としての役割を果たしてくれると、そこをベースキャンプにして、子どもはしだいに親から離れて活動できるようになる。自立が始まるのである。そう考えると、親の過保護、過干渉、育児放棄は親離れの大きな障害となる。過保護は本来子どもが自分でするべきことを親が先回りして取り上げてしまうことである。子どもは自信をつける機会を奪われ、さまざまな能力の獲得を身につけることができなくなる。するとしだいにやる気や意欲が湧いて来なくなる。自分の欲望を見失い、何もやりたいことがないというふうになる。無気力、無関心、無感動な子どもになってしまう。そのうちいつまでも親に依存して生きていく子どもになっていく。そのときになって反省しても遅い。こうなると親離れすることは非常に困難となる。過干渉は森田理論の「かくあるべし」と関係がある。子どもは小さい頃、もたもたしてやることが遅い。親が「もたもたしないで早くしなさい」「そんなことをしてはいけません」「何度言ったらわかるの」「どうして○○ちゃんのようにできないの」などという言葉を連発しているようだと要注意である。「かくあるべし」は子どもを親の所有物、ペットのように考えて、自分の思う通りにコントロールしようとしていることである。遅かれ早かれ子どもの反発を招いてしまう。そのときに反省してももう遅いのだ。さらに、子どもの言動に親が切れてしまって、子育て放棄をすることはもっと問題である。子どもにとっては自分を保護してくれる親に嫌われるということは、とてもつらいことだ。「もう勝手にしろ」「出ていけ」「もううちの子ではない」「もう面倒は見ないから」などと関心を持たれなくなって放任状態にさらされることは、生き地獄に追いやられるようなものだ。こんな状態が続けば、多くの子どもたちは、親や先生、友達の前でありのままの自分を出すことができなくなってしまう。自分の気持ち、思い、希望、欲望を抑えたり隠したりして、ご機嫌を窺うことばかりするようになる。なんの問題もないかのような「よい子」を演じるようになる。でもこれは子どもにとって、精神的にとても疲れる。欲求不満がたまるのである。人間は本来自分の欲望、意思、気持ち、希望に向かって生きている時がいちばん活き活きできる。反自然な生き方はマントルの地殻の歪のようにいつか反動で爆発する。そのイライラが溜まり、思春期の親離れの時期を迎えたときに噴出してくるのではないだろうか。ひきこもり、不登校、非行、家庭内暴力は、子どもが命をかけて大人に、子どもとの接し方について問題提起してくれているように見える。
2016.03.20
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最近日本では3組に一人が離婚しているという。理由は、性格の不一致、暴力、異性関係、経済的破綻などが原因とされている。もともと身も知らずの男女が知り合い、結婚する時点には、あばたもえくぼに見えて理想的な伴侶のような気がしている。ところが結婚生活の蜜月期間を過ぎて、子どもが生まれ、ともに助け合いながら共同生活をしているうちに相手の欠点や弱みが見えてくる。そしてそれが虫眼鏡で見るようにしだいに拡大してくる。良いところもあれば悪いところもあるのが人間だと思っていればよいが、自分の気にくわないところは絶対に許せないと思ってしまうと即離婚問題に発展する。夫婦のどちらもが相手を意のままにコントロールしようとしていると話がかみ合うことはない。即離婚に発展するか、離婚していなくても別居か、同居していても家庭内別居状態に発展する。夫婦のどちらかが主導権をとり、相手を従属させている場合は、表面上は穏やかに見えるが、従属させられている方はどんどんストレスがたまっていく。主導権を持っている方は、麻痺してしまい、言葉づかいからして暴力的になる。熟年離婚の大きな原因となる。そうならないためにはどうしたらよいのか。夫婦間の問題は、たいていは些細なことから発生する。そのときにどう対応するかがとても大切である。火種は小さいうちに消していくというお互いの共通認識が必要となる。問題が起きるとすぐに話し合うのが一番望ましい。でもなかなか時間が取れないことも多い。そういう時のために日記に書いておくのはどうだろうか。相手の理不尽と思える言動をありのままに記録に残しておくのだ。それを1週間に1回とか、1カ月に1回お互いに持ちより話し合いをするのだ。まず困っている人が自分の痛み、苦しみ、不便を話します。この時はお互いに弁解は無用であり、聞き手はまず耳を傾け、あとで話し合うという姿勢が大切です。話し手は、相手がどんなことをやり、それについて自分がどんな風に感じているのかについてのみ話します。相手はなぜそんなことをしたのかとか、相手のことを非難するのではなく、困っていることを説明し、自分の気持ちを言い、相手を責めたり非難したりしないということが最も大切なルールです。具体的な進め方と注意点は次のようになる。1、 一方が他方を牛耳らないようにする。そのためには、発言の順序を待つ。2、 現在の問題のみを取り上げ、過去のこと昔のことを蒸し返さない。3、 自分の生活をもっとよいものにするために、相手にどうしてほしいかということに焦点を合わす。4、 抽象的なことを言わず、具体的に話す。5、 相手の言動のなかから、変えてほしいことを1つだけ選び出す。6、 その取り上げた言動が、自分にとってどんな具合に苦痛を与えているかを具体的に話すとともに、どうしてほしいかを伝える。7、 この間、相手側は言葉をさしはさまず、とくかく聞く。(カウンセラー入門 武田建 誠信書房参照)
2016.03.18
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高垣忠一郎氏は、自分の感情や気持ちを言語化することの苦手な中学生や高校生が少なくないといわれる。人間は自分の感情や気持ちを言語化することによって、はっきりとそれを自覚することができる。また、自分の考えや悩みを言語化して、他者に伝えることによって、相手に理解してもらえるし、共に考えてもらうこともできる。人間が自立するということは、誰の手も借りずに生きることではない。必要なときに他者に理解してもらい、ともに考えてもらうことによって、悩みが解決することもある。そういう力を持つことは、社会的に自立していく上で非常に大切なことだ。自分の悩みが言語化できないと、他者にわかってもらえず、自分ひとりでそれを背負って生きていかなければならない。また悩みを言語化できないということは、それがどこから生じるどういう悩みであるのか、その悩みの正体を自覚できないということである。正体のわからぬ悩みは、合理的に解決することができない。ゆえに、言葉によって整理されないわけのわからぬ葛藤や緊張、不安が解決されずに、心の中にたまっていく。主観的には「ドキドキ」「イライラ」「モヤモヤ」が高じてくる。するとどうなるか。言葉によって整理されない「ドキドキ」「イライラ」「モヤモヤ」がやがて心からあふれ出る。一つには行動にあふれ出る。それがいじめや暴力、万引き、シンナー吸引などの「問題行動」につながっていく。もう一つは身体にあふれ出る。たとえば登校拒否の子どもが、朝学校に行こうとしても不安や緊張が高じて、どうしても学校に行けない。その不安や緊張があまりに高じると、身体にあふれ出る。頭痛や腹痛、発熱や吐き気という身体症状となってあらわれる。これを「身体症状」という。私たち大人は子どもの表面的な「問題行動」「身体症状」に目を奪われることなく、心の奥にある気持ちや叫びをしっかりと受け取っていく努力をする必要がある。「周囲に迷惑をかけるな」「かく行動すべき」と説教を繰返すだけでは、問題の解決にはならない。次に「ドキドキ」「イライラ」「モヤモヤ」などという周囲に理解しがたい孤独な叫びという形ではなく、他者と共有しうる言葉によって自分の問題を自覚し、表現する力を身につけさせてやりたい。現代は子どもの周囲に、指示し、命令し、子どもを操作し動かすための言葉があふれすぎている。子どもにあれこれと指示し、命令し、まるでロボットのように操作し、自分の思う通りに動かそうとしていないか。現代はお互いに分かりあおうとする言葉が失われている。相対すればいつも対立関係にになっていがみ合う。お互いに認め合うという人間関係作りができていない。そのためには、彼らの話によく耳を傾け、自分の感じていること、思っていることを言葉として表現し、言葉によって整理することを手伝ってあげたい。またそのことを通して、彼らが自分自身をみつめ、イライラやモヤモヤの正体に気づき、その解決のためにどうしたらよいかを自分で考えられるように援助してやりたい。そのために森田理論学習の「事実本位、事実への回帰」への考え方をしっかりと身につけてゆきたいものだ。(揺れつ戻りつ思春期の峠 高垣忠一郎 新日本出版 85ページより引用)
2016.03.13
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岡田尊司さんがこんな話を紹介しておられる。私の同僚だった医師にこんな男がいた。朝が弱いのでよく遅刻する。看護士が電話をして起こさなければならないことも度々だ。何事もマイペースでぼんやりしているので、うっかり薬の処方を忘れていたりする。しかし大きなトラブルになることは意外にない。担当の看護士が細心の注意を払って、チェックしているからだ。担当の看護士にすればお守りで大変なはずだが、悪く言う声を聞いたことがない。そういうキャラクターとして受け入れられ、親しまれていた。一番の理由は、彼が一度も周囲を責めたり、尊大な態度をとったりしなかったということである。また、自分から面倒なことを買って出て、損な役回りを引き受けるところもあった。つまり彼はきっちりした性格ではなかったが、決して利己的ではなかったし、ましてや人に責任を転嫁したり、攻撃したりすることは一切なかったのだ。他人の気持ちや領分を害さなかったので、仲間として受け入れられたのである。自分の格好悪い面を隠さずにさらけ出していたことも、彼に対する親しみを増し、拒絶反応を抑えていたのであろう。出世には興味のない人だったが、その後大学に戻り教授になった。(人間アレルギー 岡田尊司 新潮社 71ページより引用)普通こんなに時間にルーズで、いい加減な仕事しかできない人は職場から排除される。排除されなくても軽蔑されて肩身の狭い思いをして生きていくことになる。それなのにこの人の場合は、反対に親しみを持って人が集まってきた。それは彼が人に「かくあるべし」を押しつけなかったからであると思う。人を非難、叱責、否定することがなかった。そして人の役に立つことを積極的に引き受けていた。「人の為に尽くす」の実践を心がけていた。さらに自分にも「かくあるべし」を押しつけて、自己否定することがなかった。自分の弱点や欠点を取り繕ったり隠したりすることなくありのままに行動していた。自分のありのままの姿を承認することができている。これは森田理論でいうと、事実本位の生活態度を持っていたということである。事実本位に徹するととらわれのない素晴らしい人間関係を築くことができるという見本のような話である。
2016.03.06
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他人のやる気や意欲を引き出すことができる人はリーダーの必要条件である。子どものやる気や意欲を引き出すことは親の必要条件である。そのために必要なことはなにか。森田理論に照らし合わせてみると、問題だらけの状況を目の前に提示することだと思う。例えば家が火事になれば誰でも避難する。大きな地震が発生すれば、すぐに高台に逃げる。それはその出来事によって自分の生命が危険な状況にあると認識できたからである。だから問題だらけの事実というのは、人間が活動するための食料のようなものである。リーダーが事実を提示するためには、普段から人や物事をよく観察しておくことが欠かせない。その際重要なことは、事実を提示するだけでよいということだ。指示や命令で相手を動かそうとすると、相手のやる気や意欲はそがれてしまうことがある。どんなに指示や命令をしたくなっても、基本的には相手に任せてしまうことが肝心である。その問題だらけの事実に直面してどう感じ、どう行動するかは相手に任せてしまうことがやる気や意欲の発生には欠かせない。その他やる気や意欲を引き出すために大切なことがある。以前は報酬や昇進がやる気を高めるには有効だと言われていた。でもそれだけでは不十分である。「おもしろい」「成長している実感が持てる」「自分で自分の人生を決定しているという実感が持てる」「かけがえのない存在として他人から期待されているという感覚」等が持てるときにやる気が湧いてくる。次にリーダーが「安全基地」の役割を担っていることである。部下や子どもに自由を与えて好きなことを思い切ってやらせてみることは必要なことだ。少々危なくても手を貸してはならない。ところがここで肝心なことは、自由放任にしないということだ。ちゃんとリーダーや親が自分のことを見てくれていることが大切である。一般的に好きの反対は嫌いである。ところが心理学では、好きの反対は無関心である。無関心ではやる気に火がつくことはおぼつかない。次に、山本五十六は「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」と言われている。相手をやる気にさせるコツだと思う。自分でやって、お手本を見せ、容易にできると思わせる。言って聞かせて、納得させ、なんとかやらせてみる。ほめて、いい気分にさせ、その気にさせる。この中でも、リーダーや親が何かに夢中になって取り組んでいる姿勢は、部下や子どもに多大な影響を与える。最後にピグマリオン効果の説明でも述べたが、先入観で決めつけを行ってはならない。
2016.02.22
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Kさんは30代の女性。病院の医療事務の仕事をしている。責任感が強く、きっちりと仕事をこなし、これまでも大変な状況を何度も乗り切ってきた。そんな彼女が困っていることがある。束ね役だったベテラン主任が退職して、新人女性が入ってきた。新人社員は明るくよくしゃべる人で、最初は感じのよい人だと思っていた。しかし、一緒に仕事をするようになると、とてもルーズなところがあり、ミスが多いことがわかってきた。カルテを出している途中で他の仕事を頼まれると、出しかけのカルテを置きっぱなしにしたまま忘れてしまっていたり、重要な連絡を伝え忘れていたりといったことが続くようになったのだ。最初は慣れていないせいだと思い、ミスを防ぐ方法を指導した。本人も素直な様子で「気をつけます」というのだが、返事だけで、また同じミスをしてしまう。教えた方法も実行せず、我流で適当にやっている。そうした状況を見るにつけ、時間をかけて教えたことが空しくなり、指導する気もなくなってしまった。最近は、職場に慣れてきたこともあり、仕事ぶりがさらにいい加減になって、ミスが増えている。上の立場にある自分が患者さんや医師に頭を下げなければならない。ところが本人は悪びれるふうもなく、調子よく周囲に甘えている。事務長や医師も、「明るくていい人が来たね」と言ったりする。最近では、顔を見ただけで嫌悪感を覚え、声を聞くと虫唾が走るようになった。眠りも浅く、イライラし、気分も沈む。その女性を雇い続けるならこっちが辞めたいとまで思い詰めている。(人間アレルギー 岡田尊司 新潮社 92ページ引用)こんなケースは職場ではよくある話である。指導を真剣に受け止めなで自分勝手なことばかりする部下。いい加減な仕事ぶりで、いつも周りの人に迷惑をかける。そのくせ、ごますりが上手でうまく立ち回っている。本人はあっけらかんとしていて反省するということがない。利害関係のない人の受けは決して悪くない。だから自分としては余計にむしゃくしゃする。こんな状態なら自分が仕事を辞めてしまいたいと思ってしまう。このケースを早速森田理論で考えてみよう。森田では他人に「かくあるべし」を押し付けると相手に苦痛を強いるだけではなく、自分も苦しくなってくるという。この人の場合はどうか。この方はまじめで責任感の強い人である。こういう人は他人も当然そうあるべきだと思ってしまう。自分の「かくあるべし」という理想に合わない人が、仲間を作って適当に仕事をやっているのを見ると我慢がならなくなる。その結果自分のストレスはどんどん増悪していく。でもどこの職場でもそういう人はいる。森田ではどんなに自分の価値観に合わない人でも、その人を否定したり、批判することは慎むようにという。それよりもしなければならないことがある。事実をよく観察して、その事実の詳細を記録に残すことである。その事実だけを見つめて、理不尽と思う事実を蓄積していくという気持ちが大切なのである。「かくあるべし」を持ち出す前に、「ちょっと待て」。それって「かくあるべし」じゃないのかと制御をかける。事実を是非善悪の価値判断に持ち込まないで、出来る限り正確にあり余すことなく掴むようにする。その態度を堅持する。普通の人は自分の価値観に合わない人、「かくあるべし」という理想に反する人をいとも簡単に批判し、否定している。これが自分にとっても相手にとっても不幸の始まりである。この新人の場合は、自分の「かくあるべし」に合わせようとしてもどだい無理である。もって生まれたキャラは変えることが難しい。それを自分の「かくあるべし」に合わせようとすると自分が苦しむだけだ。ここで森田を応用して、事実を掴むことに専念していると次につながる。自然と改善策が見えてくるのである。例えば、上司に相談する。今までの問題になった事例をあげて説明する。そして自分の提案を説明する。この人の場合は、自分一人で仕事をすると問題が起きるのだから、サブパートナーをつける。そして相互にチェックする仕組み作りをする。ミスは事前に防げるのではないか。あるいはOJTの担当者や方法を考え直す。それでもうまくいかないときは自分をリーダーから降ろしてもらう。あるいは自分の職種替え、転職を考える。あるいは相手に転職を勧告する。これはほんの一例ですが、事実を掴むことに専念すれば、相手に腹を立てたり、相手とけんかになることは随分少なくなると思う。相手や自分の特徴や言い分、立場を考えることができるようになる。するとどうすれば問題が解決するかをいろいろと思案し提案できるようになるのである。ここでのポイントは森田理論の事実本位の態度の仕事への応用を考えてみることである。
2016.02.21
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