空、風、鳶とパラグライダー Hokkaido Japan paraglider

スカイ・ハイ(八)



「いいよ。それじゃ私の指示にちゃんと従ってやってよ」春子はそういって中学生の前に回った。風に正対したテイクオフは立ち上げたときのバランスがすべてだから微調整をしてやらなければならない。
「ハーイ、そのマンマ手を万歳してねー」三十メートルほど下のゲレンデから守山が叫ぶ。
「ハイ、少し左を引いて、二十センチくらい」
「ワー、飛んだ」待っている二十人ほどの生徒がいっせいに歓声を上げる。
 春子はあの事件以来いろいろ考えて結局のところ実際の生活体験が重要だという結論に達した。言葉であれこれ説明しても今のバーチャル世代にはほとんど何も届かないと思ったのだった。言葉だけが上滑りして真意などはまったく伝わらない。むしろ新しい問題を引き起こしてしまいかねないと気づいたのだった。
 手始めに自分がやっているパラグライダーを生徒にも体験させようと思った。
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「いい、十分に翼が開いて上まで行かないと揚力は生まれないの。ただ前に行こうとしてもだめなのよ」生徒にもいろいろなタイプがいる。飛ぶメカニズムを理解しないと気がすまないという者。とにかく見様見まねで飛んでしまう者。飛ぶという単純な結果を目指すにもいろいろなアプローチがある。
「よし、そのまま突っ走れ」
 ちょうど二メートルほど西風が入っていてミニフライトには最適だった。一人当たり三回フライトをして一休みということになった。貫別岳の緩やかなスロープに腰を下ろし三々五々昼食をとる姿があった。上気した顔に冷たい空気が爽快だった。
「先生、あれ、誰ですか」
 一人の生徒が貫別岳の頂上のほうを指差して言った。生徒たちがいっせいに視線を上げた。ゴンドラの山頂駅の横に細長い一見して上級機と分かる機体が開いていた。見る見るうちにその機体は上昇する。あっという間に三百メートル上げるとゆっくりと皆が休んでいる上空にやってきた。そこで二度三度と旋回するとさらに高度を上にとって点のようになってしまった。
「ウワー、あんなに高くなった。誰なんだろう」誰からとも無くそんな疑問が投げかけられていた。
「相変わらず大橋君の飛びはダイナミックだね」守山が春子に言った。
「新しい機体にしたようですね」春子が言う。
「去年の十月だからまだ新品ですよ。何か分かりますか」守山が満足そうに空を仰ぎながら聞いた。
「ちょっと分かりません、上級機だというのは分かるのですが」
「ケアラという機体なんです。コンペ機ではありませんがすばらしい操作性です」
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 イスラエルのAPCO社の製品だ。春子はじっと見上げながら自分も飛んでみたい気持ちになった。
「私も飛んでみようかしら」つぶやくように言った。
「ああ、いい考えですね。子供たちも先生を見直すんじゃないですか」守山がすかさず応えた。
 半信半疑で聞いていた生徒たちも、春子がすでに三年パラグライダーをやっていて腕前は保障するという守山の話を聞いて納得したようだった。いざゴンドラに乗るときには全員が拍手で送ったのだった。
 ゴンドラを降りると五メートルほどの西風がコンスタントに吹いていた。ちょうどよい風だ。春子はスキー客から離れたところにザックをおろした。上を見上げると、ところどころに積雲が形成されている。南西方向に比較的大き目の雲があった。この雲の下にはかなり大きな上昇気流があるはずだ。
 ざっと見回しても大橋の機体は見えない。ひょっとすると橇負山の西まで行ったのかもしれない。バリオメーター、GPSの調整をして、そのあと無線で守山を呼んでみた。
「佐伯です。テイクオフ西五メートルの風が入っています」
「ちょうど良いじゃないですか。気をつけて飛んでください」守山が笑いながら応えた。
「ハイ、ところで大橋さんはそちらから確認できますか」
「あいにく見えません。おそらく西へ行ったのでしょう」
「分かりました」
 橇負で上げたか、あるいは上げられずどこかに下りてしまったのかも知れない。春子はキャノピーを広げながらそう思った。
 装備の確認、エアインテイクのセッティングを終わりいよいよテイクオフという時ふと前に使っていた無線の周波数を思い出した。もしかしたら大橋はこの周波数を使っているのかもしれない。何かぴんとくるものを感じながらそこに合わせてみた。
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「テイクオフ、西六、今から出ます」
「了解、気をつけてどうぞ」大橋の声が即座に返ってきた。
 春子は静かな興奮を覚えた。Aライザーを軽く引くとすばやくキャノピーが立ち上がる。頭上に来たことを確認しすばやく西へ体を向ける。かすかにブレークコードを引くと勢いよく機体は上昇を始めた。
 四十メートルほど上がったあたりで上昇が止まった。西へ出すぎると斜面上昇風によるリフトが無くなってしまうのだ。ここは少し戻ったほうがよさそうだった。機体にバンクをかけて左回りに斜面に近づく。すぐに上昇が始まった。ここで一気に高度をとることにした。五十メートルほど上げると西から近づいていた雲が見えた。春子はその雲の下にあるはずのサーマルにかけてみることにした。機体が西へ進むにつれて始め下降していた機体はまた力強い上昇を始めた。
 先ほどまで見えていた生徒の手を振る姿は今では探さなければどこにいるのかさえ分からないほどになっていた。
「だいぶ上げましたね、こっちにもちょうど良いのがありますよ」大橋の無線が入った。
「どこですか」春子は無線を返した。
「そこから少し南西方向です。橇負山の南のあたりです」大橋は少し笑いを含んだような声で応える。
 橇負山はすぐ近くに見えていた。視線を徐々に南にずらせていった。そこには雲底の低い雲が一つ浮かんでいた。雲に隠れるように青い機体があった。まるで隠れていたように見えた。
「わざと隠れていたんですか」春子はとがめるように聞いた。
「いや、違いますよ、うっかりしていたら入ってしまったんです」
クローズ エルミタージュ キュヴェ ルイ ベル 1995 クローズ エルミタージュ キュヴェ ルイ ベル 1995
 春子は信用しなかった。それで少しいじめてやろうかという気持ちになった。
「もうトップランディングはできるようになりました?」山頂に下りるのはかなり難しいテクニックが必要だ。うっかりすると風にあおられて大怪我をすることにもなりかねない。
「まあ、何とか」少し間をおいて返事が返ってきた。
「それじゃやって見せてくれますか?」
 返事の無線が入る前に、青い機体は両翼端をつぶしてすばやく高度を落とし始めた。一気に橇負山の頂上を狙っていた。頂上の東側にスキーヤーが二人見えている。大橋は頂上近くで翼端を元に戻すと大きく左にバンクをかけそのままランディングした。すばやく翼を纏め上げたのですぐに塊のようになって見えていた。
「どうですか」無線が言った。
「完璧。拍手」春子はそう言って、今度は自分で翼端をつぶしアクセルを踏んだ。
 高度がどんどん下がっている。東からのアプローチなのでそのまま山頂を狙えばよいのだ。さっきまでいたスキーヤーはもうゲレンデに消えていた。高度が山頂から二、三メートルになったところで翼端を戻した。一気に浮力がついた。すぐにフルブレークするとあまり衝撃も無く着地できた。大橋が十メートルばかり離れたところからグローブをしたまま拍手した。ボタボタという鈍い音がした。春子は微笑んだ。
 大橋は駆け寄ってきて春子の手を握った。いつの間にか手袋ははずしていた。春子もグローブをとると自分から大橋の手を握り返した。そのまま二人は口付けて抱き合っていた。携帯電話が鳴り始めた。守山が無線のつながらないことでこちらに切り替えたに違いない。着信音のダンス音楽がいつまでも山頂に響いていた。
                                          了


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