新人漫画家日記

新人漫画家日記

『ふろん』


主人公は特に何の特徴も取り柄もない、ごく普通の少年。その彼がある日を境に、自分の存在を形作る「何か」を一つずつ失っていく…という話。
アンハッピーエンドという事で、少年漫画としてはかなり珍しい。
またキャラよりもストーリーを先行する形で話がまとめられているため、これがデビュー作となってしまった事が岩泉先生の少年漫画家としての一つの不幸だったのかもしれない。
というのも、この話の中で提起されているテーマが、恐ろしくオトナだからだ。

「自分は一体どこで生まれたんだろう?」と考えてみる。
役場に行けば自分の出生記録があるし、家には昔のアルバムがある。親からはいつ・どこで生まれたと聞かされてきた。だからそうなんだろうと思う。
それは自分自身の記憶によるものでなく他人から聞かされたものだ。
生まれた場所だけではない。自分が生まれたという事、この自分の名前、性格…。
これらは自分自身の意思で獲得したものではなく、どれも他人から偶然に与えられたものばかり。
その傾向は自分を形作る根本にいけばいくほど顕著となる。
ある日親から「お前は実はもらい子だったんだよ」と言われば「そうだったのか」とあっさり思ってしまうだろう。
つまり今の自分を存在付けている物というのは、実はひどくあいまいなものであったりする。
であるが故に、それを一つずつ失っていくというこの話には凄味の効いたリアリティーがある。

主人公の少年は自らの処世術として自分を殺し、周りに歩調を合わせ、その結果周囲に溶け込み過ぎた余り、いつしか社会的に死んでいく。
そうして最終的に少年が墜ちていく所が「社会のヒズミ」である。
一読して、主人公が転がり墜ちていくこの「社会のヒズミ」というモノにリアリティーを感じる人は少ないかもしれない。
しかし、周りに合わせるというごく一般的な処世術のその先にある物として捉え直した場合、それは信じられない程我々の近くにあると考えられる。

人は偶然にも自分に降りかかって来た不幸に対し、必ずと言っていいほど「何でよりによって自分が…?」と思う。
それは「今の自分が別の自分でもありえたのに…」という別の可能性への羨望であり、今の自分を存在付けている物が実はひどくあいまいなものであるが為に、そういうあいまいな部分に想像力がうずくのだ。

主人公の少年は、いじめや孤立といった「なぜよりによって自分が?」という不幸を恐れた結果、「よりによって自分が死ぬ」という事態に陥ってしまう。
これはひどい矛盾である。
自分を生かそうとして社会的な自分を殺してしまうという矛盾。
もう無い過去やまだ無い未来というあいまいなイメージにとらわれて、現在の自分を殺してしまうという矛盾。
なぜこんな矛盾が生まれてしまったのか。

主人公の少年が陥った「社会のヒズミ」。
それはつまり「今の自分がいない社会」なのだと思う。
自分を殺して周りに合わせるという処世術に伴うリスクが、リスクを通り越して文字通りの自殺に等しい行為として、ここでは語られているのだ。
90年代に少し流行った「やさしさの精神病理」とも構造が似ている。
「あれこれ考えてばかりで結局何もしない。いや、考えれば考えるほど何もできなくなる。それは現実的には何も考えてないのと同じ…」
これが主人公の少年が陥った「社会のヒズミ」の正体ではないだろうか。

「ふろん」という表題は「無頭がえる」を意味している。
上述の頭でっかちのてん末として「無頭がえる」が描かれるというのも、皮肉だと思う。
こういった極めて現代的な不幸が、ここでは描かれている。
だが、そんな命題を少年漫画のテーマとして取り上げる所に、既に少年漫画家としての出自のズレを個人的には感じてしまう。
岩泉舞先生という少年漫画家はそういう「ヒズミ」の中から、1989年に生まれた。

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