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境界線上の月 封神演義番外編 2
それは、滅多にない珍しい月夜の晩。
もう一つ、いつもと違っていたのは、珍しく酒に呑まれていた貴方。
境界線上の月
真円の欠けゆくを、太公望はうっとりと眺めていた。
移ろう様の見事なこと。本来ならば一月を掛け転じゆく姿を、今ここでまざまざと見せつけられる。
それは時の流れ。
老いることのない肉体には些か堪える事実。
手に入らぬものの譬えに、これほど相応しいものもない。
酒が香る。
「おぬしも呑むか?」
「仕事終わらせてから言って下さい、そういう科白は」
青筋を立てた面すら絵になるとはどういうことか。
「今日の分は終わっておるぞ」
「……僕の書類の山に混ぜたからでしょう」
「何のことだ?」
からから笑うと綺麗な顔がまた面白くなった。
執務室の机に向かった相手と、離れた窓辺に座す己。
良い距離だ。
「どうした?」
「明日に回します」
貴方の分はお返ししますから、と続く言葉に苦笑する。
「無理をするなと言うたのはおぬしであろう」
「ならば手伝えと言って下されば良いのですよ」
「片腕たるもの、そこいらを解ってくれぬと」
「解りませんよ」
―――――――貴方のことなんて。
傾けていた杯を止める。
こちらに近付いてくる、足音がする。
外からの光が、室内の影と色を二分する。明かりの下、蒼の道士が姿を見せた。手燭の灯は既に無い。
「いただきます」
「おう」
彼の杯に酒を注ぐ。卓を挟んで人二人分の距離。
警戒区域か――――
「おお、隠れたようだのう」
天を仰ぐと、そこには輪郭の薄れた円がある。不安定な形。
今の自分のように。
「隠れてしまえば良いんですよ」
突然の音階。誰を指しての言葉なのか判然としないが。
おそらく。
* * * * *
「えらく強気だのう」
「は」
「言っておくがわしは隠れん坊が得意だ」
逃げても無駄だと、そういうことらしい。この人らしい言い種だ。
「僕は」
駄目だ、それ以上口に出すな。何故。
「貴方ほど強くないんですよ」
何故こんな話をしている。よりによってこの人に。
風が吹いて、真向かいにいる人の前髪を揺らす。こちらへ向けられた視線に、何もかも見透かされているような気分になった。
ひどく、落ち着かない。
「失言でした」
「強くなどないよ」
遮られた謝罪。ぽつりと告げられたのは、この人の本心。
もしかして、酔っているのかもしれない。何時も頑なな態度を崩さない気丈な人が、少しだけ揺れるのは決まってこんな時。
周の軍師ではなく、封神計画の遂行者でもなく。
「強くなりたいと何度も思ったが、結局なれなかったよ」
天を愛しげに見上げる横顔。
影に滲む赤い輝きに、嫉妬しそうだった。
一人欠け、二人欠け……大切な人たちが記憶の中の存在になっていく。
「喪失」はあまりにも呆気なく、極簡単に訪れるもので。
何故、自分が幸せだと気付かなかったのかと、後悔したところで遅いのだ。
どれ程の時間が経ったのか。気が付けば酒は空になっていた。
「ぬぅ……」
不満げに唸ると彼は立ち上がった。まだ呑むつもりでいるのか、調達する当てがあるのだろう。
ふらりと上体が傾ぐ。
「危ないですよ」
「なぁに、これくらい平気平気」
珍しいこともあるものだ。どうやら本当に酔いが回っているらしい。
「師叔」
「んあ?」
「どうしたら強くなれるんでしょうね」
素朴な疑問。
「強くなろうなどと思わぬことだ」
小さな背中が応える。逃げられると思っていた。
意外。
「強くなど、なれぬのだから」
貴方の言葉とも思えない。けれど、それが本音?
「弱くなるといい」
「え」
「弱くなると良いよ。そうすると他の弱さの悲鳴が聞こえてくる」
人に必要な強さと弱さ。
親しい者たちの死を乗り越え、前を見据える眼差しに焦がれた。何度でも立ち上がる力に惹かれた。
人を近く遠く見守る姿に泣きたくなった。
それでも貴方は――――
「少し飲み過ぎたかのう」
今のは弱音だ、この人の。初めて聞いた。
「すまぬ、忘れてくれ」
もう休むからと、手を振って暗闇に溶けていく後ろ姿。
忘れられる、筈が無い。
「師叔!」
「おやすみ」
* * * * *
赤の真円が崩れる。その下から現れる白い光。
「やっと出てきたか」
自室へ続く回廊に佇み、柔らかい光を受け止める。
珍しいときには珍しいことが起こるものだ。
闇に紛れてしまえば解らないと、何処かで考えたのだろうか。
舌打ちしたい気分だった。
「まぁ良い」
あの聡い男は勘付いたかもしれないが、何も言わないだろう。おそらく。
とにかく眠ることだ。片腕様がわざわざ残してくれた仕事も、明日中に片付けてしまわなければならない。
本来の姿を現しつつある月を見上げる。
先の会話を思い出し、呟いた。
「隠れても無駄だろう」
月蝕の夜。
別の顔を晒していたことなど素知らぬ振りで、月は只、そこにあった。
いつもと同じように。
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