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2006年07月28日
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十二

基督(キリスト)は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。
基督は知らず。
観海寺の和尚(おしょう)のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。
趣味があると云う意味ではない。
時勢に通じていると云う訳でもない。
彼は画(え)と云う名のほとんど下(くだ)すべからざる達磨(だるま)の幅(ふく)を掛けて、ようできたなどと得意である。
彼は画工(えかき)に博士があるものと心得ている。

それにも関(かか)わらず、芸術家の資格があると云う。
彼の心は底のない嚢(ふくろ)のように行き抜けである。
何にも停滞(ていたい)しておらん。
随処(ずいしょ)に動き去り、任意(にんい)に作(な)し去って、些(さ)の塵滓(じんし)の腹部に沈澱(ちんでん)する景色(けしき)がない。
もし彼の脳裏(のうり)に一点の趣味を貼(ちょう)し得たならば、彼は之(ゆ)く所に同化して、行屎走尿(こうしそうにょう)の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。
余のごときは、探偵に屁(へ)の数を勘定(かんじょう)される間は、とうてい画家にはなれない。
画架(がか)に向う事は出来る。
小手板(こていた)を握る事は出来る。
しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色(しゅんしょく)のなかに五尺の痩躯(そうく)を埋(うず)めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。
一たびこの境界(きょうがい)に入れば美の天下はわが有に帰する。
尺素(せきそ)を染めず、寸(すんけん)を塗らざるも、われは第一流の大画工である。

余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画(え)もかかない。
絵の具箱は酔興(すいきょう)に、担(かつ)いできたかの感さえある。
人はあれでも画家かと嗤(わら)うかもしれぬ。
いくら嗤われても、今の余は真の画家である。
立派な画家である。こう云う境(きょう)を得たものが、名画をかくとは限らん。


朝飯(あさめし)をすまして、一本の"敷島"(しきしま)をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。

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What's a "敷島"

以下 YOMIURI-ONLINE yori

煙草(たばこ)は日本原産ではなく、南米からヨーロッパに伝わり、
天文十八年(一五四九年)フランシスコ・ザビエルの来日のさい、日本に伝えられたといわれる。

日本での栽培は天正年間(一五七三~九二年)とされているが、
記録では慶長十年(一六〇五年)長崎桜馬場に植えられ、
のち山城の花山、大和の吉野に移植された。
同じころ鹿児島の指宿に植えられ、その種を島津氏が近衛家に贈り、
それを花山に植えたという説もある。

そして、天和三年(一六八三年)ごろの産地としては、
上野国高崎・岩崎・石原、甲斐国小松・葉袋、
信濃国生坂・井上、陸奥国田代・仙東・白石、常陸国赤土、大和国吉野、
丹波国篠山・福知山などが有名であった。
享保年間(一七一六~三六年)になると諸藩も財政窮乏の打開策として煙草の栽培を奨励した。

"明治に品質改良され栽培盛んに"

喫煙法もはじめは煙草の葉を巻き、のみ口に紙を巻いたり、竹の筒を使用したりしていたが、
江戸時代に煙草が普及すると刻み煙草になり、
それにともなって煙管(きせる)・煙管入れ・煙草盆などが作られ、
それも意匠を凝らすようになった。

明治になってからは新しい品種も移入され、
品質・技術が改良され、各地でさかんに栽培された。
奈良県吉野郡の十津川村では、若い衆がヨバイに行って、
娘の親が怒るようなとき、オヤイジメとしてとった手段に、
屋敷の煙草畑に竿(さお)をたおし、竿の両端に縄をつけて引き歩き、
煙草畑をだいなしにしたり、
縄に一葉ずつさして乾かしてある煙草の葉を、縄の端を持って引きずって逃げ、
煙草の葉をいためてしまうのが、もっとも大きな打撃を与えるイジメ方だったというのも、
煙草栽培の普及を物語っている。

ところで、明治六年(一八七三年)に政府は地租改正を実施し、
地租を地価の百分の三定率としたが、これは事実上封建貢租以上の負担になったので、
明治九年(一八七六年)茨城・三重・奈良・愛知・岐阜で、
はげしい地租改正反対の一揆が起こった。

その結果、西南戦争の直前に税率は二分五厘に引き下げられた。
このことを一般に
「竹槍でちょっと突き出す二分五厘」と、
一揆の成果ともいうが、政府はそれにかわる財源として、
すでに煙草に対する課税を決めていたのである。
それが明治八年の「煙草税則」で、営業税のほかに消費税を設けるものであった。
これがのちに煙草専売制へと発展していったのである。

巻き煙草が一般に吸い出されるようになったのは、
明治二十年(一八八七年)をすぎてからで、
最初は京都の村井商会のサンライズで、つぎにヒーローであった。
東京では岩谷天狗煙草の売り出した白牡丹が人気をよんだ。
このころ巻き煙草を買うと、中にガラスの吸い口が入っていて、
煙草の太さも今の煙草の三分の二もないほど細いものであった。
外国煙草ではカメオ・ピンヘッドがこのころから用いられた。

"最初の銘柄は本居宣長の歌から拝借"

いよいよ明治二十九年(一八九六年)の「葉煙草専売法」に続いて、
明治三十七年(一九〇四年)七月から煙草の製造・販売を含めた完全専売の「煙草専売法」が施行されるのであるが、
その最初に売り出す煙草の名前にどうしても名案が浮かばず、
一月前になってもなお決まらなかった。

そのとき一担当者が思いついたのが、
愛煙家で知られた国学者本居宣長の、

「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」
という歌であった。

この歌から
それぞれ「敷島」・「大和」・「朝日」・「山桜」と命名した煙草を売り出したのであった。

このうち「朝日」はその包みが平型と角型があって、
平型は洋服用、角型は和服用と両者使い分けるようになっていた。

これに続いて以降、
スター・チェリー・カメリア・オリエント・ほまれ・不二・ナイル・アルマ・国華・やよい、とさまざまな煙草が売り出された。
一方、刻み煙草も愛用されていて、
ふくじゅ草・白梅・さつき・あやめ・はぎ・もみじ・なでしこ、などが出まわった

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最終更新日  2006年07月28日 06時09分54秒
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