藤の屋文具店

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第五章 燃ゆるフェニックス



【神へ】

第五章

燃ゆるフェニックス


ウラン235は中性子を浴びていくつかの中性子と巨大な熱エネ
ルギーを放出する。ウラン238は中性子を浴びてプルトニウム2
39へと変化し、プルトニウム239はふたたび核分裂を起こして
巨大なエネルギーを放出する。
核反応炉の中は摂氏100度で融解する金属ナトリウムで満たさ
れ、炉心の熱を外部へ運び出す。外部では、二次冷却剤の入った管
が一次冷却剤の熱を受け取り、蒸気発生器へと導く。放射線を浴び
た配管は、その素材の一部を放射性同位元素へと変えて溶かし出す
が、それらのダストはフィルターによって熱心に取り除かれる。ト
ラブルさえなければ、原子力発電所は安全な施設である。

島田直人は制御盤のまえであくびをした。彼は、経験が深いだけ
の会社員である。科学の知識はあまりない、クルマが好きなだけの
普通の男であった。

「ちきしょー、いい夜だなぁ!」
彼は、数日前に納車になったスポーツカーに乗りたくて仕方がな
かった。コスワースチューンのビッグバルブを持つ、ドアも屋根も
ないそのクルマは、頭の軽い女を引っかけるには最高だったが、月
夜の海岸線を松林を縫って走るほうが、それよりもずっと楽しい。
中古でもけっこうな値段のそのクルマは、走るための機能だけに
力を注いだ、いわば奇形のクルマであった。しかし、流されるよう
に生きてきたなんの取り柄もない彼にとって、そのクルマは彼をス
ターにしてくれる魔法の馬車のようにも思えた。
そう、そのクルマにもぐりこんで走っているときだけ、彼は大勢
の仲間や女どもの前でスターになれるのである。40に手が届こう
という妻子持ちの彼が夢中になるのも、あるいは仕方がない事かも
知れない。人生の秋を迎えようとしている彼にとって、クルマと女
は、過ぎ去りつつある自分の若さを引き留めてくれるものに思えて
いたのだろう・・・・・。

何度目かのあくびをしたときだった。直人の上体がぐらりと揺れ
た。机のはしに手を掛けて身体を支える、しかし揺れは収まらない。
たいした揺れではなかった。
今のは夢か錯覚だったのかと考えはじめたころ、ものすごい揺れ
がやってきた。椅子に掛けていられなかった。コーヒーポットを乗
せたワゴンが全速で発進し、デスクと保管庫の間のコーナーを曲が
りきれずにクラッシュした。蛍光灯が外れて床にたたきつけられる、
薄い雲母のようなガラス片がほこりのように舞い上がった。オレン
ジの非常灯がついた。直人は、床に四つんばいになって揺れが収ま
るのを待った。それでも、体重を支えきれずに這いつくばるほど激
しく揺れた。尋常の地震でないことは、彼のおそまつな頭にも簡単
に理解できた。

始まったときと同じ唐突さで、揺れは収まった。一時間も揺れて
いたであろうか? 時計を見ると3時55分だった、8分しかたっ
ていなかった。
ほっとして顔をあげた彼は、その場に凍りついた。彼の眼前にあ
る制御盤の表示は、配管の水が漏れている事を示していたのだ。原
子炉で発生した熱を蒸気タービンに伝える途中の配管が、地震の衝
撃で破損したに違いない。このままでは、熱を伝えそこなった高温
の一次冷却剤が炉心へと戻り、炉心はオーバーヒートしてしまう。

地震の衝撃で、原子炉の近辺では多くの配管が次々と寸断されて
いた。コンピューターはただちに制御棒の挿入の指示を出し、アク
チュエーターが作動し、挿入された制御棒が中性子を吸収して核分
裂反応は瞬時に停止する・・・・はずだった。
しかし、制御棒は挿入されなかった。地震のエネルギーが炉の位
置と制御棒の保持部をわずかにずらしたため、制御棒は炉心へ帰る
ことができずに空しく壁面を押し続けたのである。
高速増殖炉「フェニックス」の制御棒は特殊な合金で吊られ、炉
心が高温にさらされた時には自動的に落下されるようになっている。
しかし、作動軸のわずかなズレがそれを妨げているのだ。
制御棒を拒み、発生した熱を吸収する回路を失った原子炉は、ど
んどんその温度をあげていった。しかし、炉を満たすナトリウムの
温度が760度を超えたとき、安全装置が作動した。蒸気発生装置
の作動不能に備えて設定された、緊急冷却装置のバルブが開いたの
である。過熱したナトリウムの冷却剤は、巨大なラジエーターへと
流れ込み、空気によってその熱を奪われて炉心へと帰る。さらに、
設計温度を超えて上昇した炉心では、高速中性子のスピードが分裂
反応には不適なほどに上昇し、核生成物質の灰の中に吸収されてい
った。
制御室のスタッフは、蒼白になりながらも任務を遂行しようと必
死になった。最悪の事態だけは免れたものの、このまま燃料の尽き
るまでこうやっているわけにはいかない。第一、あの緊急用の放熱
器は半年はおろか一週間だって持つかどうかわからないのだ。
遠隔操作室に飛び込んだ島田は、コントロールシートに身体を固
定すると、第3層のマニピュレーター、「りえ」を起動した。緊張
で息が詰まる。ブラウン管を睨みながら、制御棒駆動システムへと
「りえ」を走らす。スピーカーからはモーターの駆動音が単調に流
れてきた。少し落ちついてきた。制御棒を押し込むためにハッチを
開ける。サーボモーターの軽いハミングが彼に安心感を与える。
何度も何度も訓練した行動だ、ひとりでに指が動く。一本がすと
んと炉心へ消えて行った。2本目もうまく入った。3本目にとりか
かったとき、画像が滲んだ。だんだん画像が不鮮明になる。
「センサーがいかれた!」
吐き捨てるようにつぶやくと彼は「りえ」を退避させた。「りえ」
の上層にある同型機「ゴクミ」を使ってセンサーを交換するしかな
い。通常時ならもっと持つはずだが、大量に発生した高速中性子が
センサーの老化を急速に速めたのだ。もどかしいがやむを得ない。
 「ゴクミ」が「りえ」のセンサーを器用にはずす。バヨネットマ
ウントに改良されたコネクターは、脱着が容易だ。
だが、新しいセンサーは所定の位置に押し当てても装着されなか
った。

何かがマウントに付着している。チリひとつない原子炉の内部で、
一体何がマウントに付いたというのか? マニュアルに従って、彼
は「りえ」を「ゴクミ」で上層へと運び上げた。
マニピュレーターを整備するには、人間が作業できる第一層まで
運び上げなければならない。第二層まで上がってきた「りえ」を第
一層の「ゆい」が抱き上げた。耐放射線作業服を着た下請け作業員
が「りえ」のチェックを始める。胸の放射線バッチが、彼らの危険
性を無言で物語っている。

「ナトリウムです!」

信じられない報告が入った。原子炉には蓋がしてあるのだ、いっ
たいどうやってナトリウムが上昇してこれるのだ?

「ぅわぁ・・・わかりました! 蒸発したナトリウムが冷却されて
析出してるんです。内部までみっちりつまってます!」
「ばかな、炉心温度は沸点以下だぞ!」
「じゃ、温度センサーが故障してるか、沸点以下でも蒸発が起こっ
てるんです。リリーフバルブ周辺に大量に析出してます。間違いあ
りません!」

大変だ、ナトリウムが格納容器の中に広がっている。ここには窒
素ガスが充満しているから大丈夫だが、外には湿気を含んだ北陸の
夏の大気が待ちかまえているのだ。しかも、炉心が停止しなければ
容器内の温度はさらに上昇を続けて気圧を上げていくだろう。圧力
容器の能力は、あまり巨大な内圧には耐えられない。せいぜい3気
圧が精いっぱいである。

4時38分、必死になって制御棒の挿入を試みるスタッフの前で、
制御盤が恐ろしい情報を告げた。蒸気発生器内の水素検出装置に反
応があるのだ。どこかでナトリウムがリークしている。
「蒸気発生器付近で火災発生!」
「水素検出装置に反応があります!」
間違いがない、しかし、蒸気発生器内の金属ナトリウムはすでに
さめて固まっている。二次回路は、緊急冷却用の空気冷却器に切り
替えられているからだ。大火災になる心配はない。

「格納容器内の気圧が2000mbを越えました」
恐ろしい報告が次々と入る。このままでは容器は破裂してしまう。
通常の加圧軽水炉ならば豊富な海水をぶちこんでやる事もできるが、
ナトリウムを冷却剤に使用しているこの炉ではそれができないのだ。
「減圧バルブを開け!」
所長の元山の命令が出た。最悪の事態に備えて設置された減圧室
では、重油のフィルターでナトリウムを濾された空気が、大気中に
向けて送り出されていった。分離しきれない放射性物質を含んだガ
スが、白い蒸気となって上空に上がった。




「まだか!」
新型センチュリーの後部座席で熊山三郎太は叫んだ。道路遮断機
の係員があわてて飛んでくる。黒塗りのセンチュリーは市内を抜け
て、一路「フェニックス」に向けて廃虚の中を走り続けた。彼の会
社が手がけた施設が、この大地震に耐えられないはずはない。そう
信じてはいるものの、このあたりの活断層の事を思うといてもたっ
てもいられなくなり、琵琶湖畔の料亭から駆けつけてきたのだ。
「見えました!」
運転手の言葉に眼を凝らして前方を凝視した。明るくなりかけた
空に、福井県が世界に誇る最新鋭炉「フェニックス1号炉」の雄姿
が白く輝いて見えた。それは、マグニチュード8を超える大災害に
もびくともせずに、大自然に立ち向かう人類の意地のように、力強
くそびえたってた。
「うん、うん」
老人は満足気にうなづくと、ほっとため息をついた。



滝田清は、漁に出る寸前で異常に気づいた。それは、あるいは鳥
の声の不自然さであったかも知れない。沖合いの海の色であったか
も知れない。あるいは、彼の体内に培われてきた野生の本能が敏感
に発したシグナルだったのかも知れない。彼は、港へと続く路の途
中で足を止め、やってくる「何か」を捜そうとでもするかのように、
鋭い瞳で沖を睨んだ。
3時47分、「何か」はやってきた。強固な岩盤に支えられた彼
の町が、ぐらりと揺れた。沈黙がしばらく続く。彼は家の方を振り
返った。誰も出てこない。家へ向かって走った。
恐ろしい音がした。山が吠えている。彼は、すさまじい勢いで揺
れる大地を全力で走りながら、生まれてはじめて神にすがった。お
ねがいだ、助けてやってくれと。
だがしかし、全力疾走する彼の目の前で、家は轟音をたてて崩れ
落ちた。言葉にならぬ叫びをあげて彼は駆け寄る。
子供たちの寝ている部屋の窓を覗いた。
子供たちの泣き声が聞こえた。
三角にひしゃげたサッシュの隙間から、二人が這いだしてきた。
ひとりだけ取り残されている。大きな柱が邪魔をして、出てこら
れないのだ。
彼は、渾身の力をふりしぼって柱を持ち上げようとした。腰がぎ
りぎりと悲鳴を上げた。梁はびくともしない。自分の無力さに涙が
流れた。いまのいままで何でもできるとうぬぼれていた自分が、滑
稽でおかしかった。
子供の泣き声が彼をせきたてる。泣きながらふんばった。と、柱
がわずかに持ち上がった。

「よいしょぉっ!」
いつのまにか、親父が横で気張っていた。
「せぇぇえい!」
ごくつぶしの弟もいた。
「うぉぉぉおおおおおおぅりゃぁ!」
柱は、少しづつ持ち上がっていった。

そのころ、海では、海水が恐ろしい勢いで沖へむかって退き始め
ていた。

フェニックスの管制センターでは、非常ベルが鳴り響いていた。
無限にあるはずの海水がなくなってしまったのだ。むき出しになっ
た取水口がポンプの音を虚ろに響かせている。
「取水口、水位低下!」
「大丈夫だ、現状では蒸気発生器は稼働していない」
「蒸気発生器の配管の修復は、どれくらいかかる?」
「破断した配管の交換に5時間、ナトリウム配管のチェックは現在
調査中です!」
「動燃事業団からの連絡はないのか?」
「・・だめです、彼らの指示は役に立ちそうもないです・・・」
「緊急事態! 巨大な津波発生の報告あり!」
「津波?」

いったん沖へ退いていった海水が、恐ろしい勢いで陸へ向かって
攻めてきた。すさまじい津波のエネルギーは、敦賀湾のふところ深
く入り込み、湾内の水位をぐんぐん押し上げる。船が町へ向かって
走り、河が逆流した。
「放水路の水位、異常上昇中、逆流してきます!」
「Dブロック冠水、C・B・Eブロックも浸水中!」
その時、爆発音がした。
「緊急事態! 蒸気発生器で大規模な火災発生、延焼中!」
リークしたナトリウムと海水が反応して、次々と爆発を起こして
いるのだ。化学反応の熱により、配管内の残留ナトリウムが溶解し
てどんどん流れ出してきた。
「バイパスバルブ破損! 二次冷却系が解放されました」
ものすごい炎が上がった。ナトリウムと海水の反応に加えて、発
生した水素ガスの爆発までも起こり始めたのだ。
「炉内温度、900度に上昇!」
「内圧上昇、緊急排気弁が開きます!」
「炉内のナトリウムが沸騰を始めました」
「炉内温度、低下します」
「ナトリウムレベル、低下中! 予備のペレットを投入します」

制御室のドアが開いた。老人が入ってくる。恐ろしく高齢の老人
は、傍らの秘書とおぼしき人物になにかを小声でつぶやいた。先ほ
どから詰めている所長が、あわてて老人に駆け寄る。

「会長、ここは危険です、避難してください」
「・・・・・どこへ避難すればいいのかね?」
「・・まだ、時間はあります。とにかく遠くへ・・」
「・・・のう、元山君・・・」
「はっ?」
「これが吹き飛んだら、」
「・・・・」
「どっちみちおしまいじゃろう」
「・・・・・・」
「逃げるところは、どこにあるんじゃね?」
「・・・・」
「・・・・・・わしは・・・・」
「はっ!」
「この福井を発展させようとして、原発を引っ張ってきた、」
「はい」
「・・・まちがっていたんじゃろうか?」
「・・・・・・・・・・・」
「金儲けなんぞ、ほかにもいろいろできる、」
「・・・」
「・・これからは原子力の時代だと・・・」
「・・・」
「・・わしは信じておったのだが・・・・・・・」

「ナトリウムのペレットが底をつきました」
「・・・炉心温度、ふたたび上昇中」
「臨界値を超えます」
「炉心、融解を始めました!」

「きみらは避難したまえ、わしはここに残る」
「し、しかし・・・」
「わしは、もう十分に長生きをしたよ」
「・・・・」
「ここで死んだほうが、息子の選挙で有利じゃしなぁ、はっはっ!」

しかし、老人の目は笑っていなかった。所長の元山は目を伏せる
とマイクを握った。ごくりと唾を呑む音が、スピーカーから響いた。
「緊急連絡、緊急連絡、」
「全職員は、すみやかに退避せよ!」
「これは訓練ではない!」
「繰り返す、これは訓練ではない、全員、すみやかに退避せよ!」

「・・・・・すまん・・」
誰もいなくなった管制パネルの前で、老人は無言で立ち続けてい
た。パネルの情報は、炉心のすべてが融け落ち、岩盤を熱で溶かし
ながら地中へと進んでいる事を示していた。

5時28分、とてつもない大きな水蒸気の柱が、福井県嶺南地方
の空に昇った。その灰色の柱は、大阪からもはっきりと見えた。




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