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マイントピア別子は別子銅山最後の端出場採鉱本部の跡地に造られているので、近代化産業遺産が散在している。観光鉄道や観光坑道や砂金採りや温泉施設などがある。ここから東平地区(東洋のマチュピチュと云われている)への観光バスが走っているが、積雪や凍結で来月より二月末まで冬季通行止めとなる。写真上よりマイントピア別子全景、端出場発電所、第四通洞、坑内運搬車類、端出場貯鉱庫です。マイントピア別子全景明治45年完成。当時としては東洋一の落差(596m)を利用して発電が行われました。中には、ドイツのシーメンス社製発電機、フォイト社製のペルトン水車などが、当時の姿のまま残されています。 大正4年完成の長さ4600mもある坑道です。銅鉱石や機械等の運搬に、別子銅山の大動脈として、閉山まで重要な役割をはたしました。銅鉱石運搬や機械運搬などの坑内運搬車大正8年完成の鉱石を貯める施設です。貯鉱庫の上には、第四通洞からの軌道敷きが延び、鉱石運搬車が貯鉱庫の上から鉱石を落として鉱石を貯める仕組みになっていました。
2017年11月20日
明治23年(1890年)に生子山麓に精錬所を建設し、生子山頂に18mの赤レンガ製煙突を立てて操業を始めた山根精錬所の当時の写真です。別子銅山で産出する硫化鉄を製錬して銑鉄を製造する試みだったが、煙害と製品中の不純物問題を解決できずに、明治28年(1895年)に廃止してしまった。生産が軌道に乗れば、官営八幡製鉄所より早かったそうだ。 126年後の現在も赤レンガ製煙突はポッンと残され無用の長物化している。明治産業遺産のひとつとして活用しようと有識者が検討している。 明治23年創業当時の山根精錬所 最近の煙突山近辺の写真
2016年01月27日
別子銅山が閉山して40年あまりとなるが大山積神社は、今も参拝者がいる。別子銅山稼働時には別子銅山の鎮護の神として、別子銅山労働者の氏神として崇敬され、鉱夫が出入坑する際には坑口に奉られている御祭神を礼拝していた。毎年元旦の新年祭式には別子銅山の鉱石を奉献する大ばく祭りも行なわれていた。閉山直後にテレビ放映された画面を写したものです。 大山積神社に数百キロの銅鉱石を化粧して奉納後、溶鉱炉 仕事始めの鉱石として安全を祈願していた。 中央の小柄な人が岳父の弟で、採鉱現場の責任者であった。 退職前には、その道ひとすじの人に贈られる黄綬褒章を貰った。 黄綬褒章:長い間業務に精励して、人々の模範となる人を褒賞
2016年01月08日
別子銅山最後の採鉱本部があった端出場事業所跡に観光施設マイントピア別子がある。数年前よりマチュピチュ効果で観光客が増えているが、最近の天空の城ブームでどうなっているのかなぁ。春の芍薬、夏の鹿の子百合、秋の紅葉と冬桜などの花と、坑道跡や鉱山鉄道跡などの産業遺産が随所に散在している。 橋を渡るとマイントピア別子(端出場事業所跡) 駐車場横に一時保管用の貯鉱庫跡がある 紅葉や黄葉があちらこちらにある 鉱山鉄道跡の観光電車と冬桜 採鉱用トロッコなどの展示 地下1000mの採鉱場に通ずる第四通洞跡
2015年11月30日
我が家から2kmほど離れたところにある旧広瀬邸住宅で、明治時代の建物だが有形文化財に登録されている。南レンガ塀は圧巻で小道を歩くと心も和みます。この小道は大昔のへんろ道で、むかしは山際に住居があったのだろう。旧広瀬邸は別子銅山中興の祖といわれる広瀬宰平の居宅で、住友家当主や来客をもてなす離れ座敷は豪華です。 旧広瀬邸母屋 旧広瀬邸の庭 旧広瀬邸南レンガ塀
2014年12月16日
愛媛新聞に煙突山の記事があったので写真をコピーした。写真上は煙突山上空からの航空写真で、写っている市街地は我が家の近所が写っています。赤レンガ煙突の真下の鉄筋コンクリートの建物は小学校です。 写真下は明治21年創業当時の山根精錬所です。銅鉱石に含まれている鉄分を製錬して製鉄をするという発想だった。八幡製鉄より操業は早く、わが国最初の製鉄所だったが、亜硫酸ガスによる公害で数年操業しただけで閉鎖された。その時の煙突が撤去されずに今も健在です。去年、耐震検査をしたが、全く問題がなかったというから、明治の煙突製造技術には舌を巻きますなぁ。 煙突山上空からの航空写真です。 我が家はこの写真の外になります。 明治時代に操業した山根製錬所です。 その跡地は山根グラウンドになっています。
2014年02月01日
近くの山根グラウンドは、昭和4年に別子銅山の厚生施設として造られ、公認の400mコースのある陸上競技場で、コの字形に石積観覧席があり収容人員は5万人だったという。今では山側の観覧席が残っているが目を見張る大きさである。 登録有形文化財や近代化産業遺産として登録され保存されている。子供たちの野球グラウンド、サッカーコートや高齢者のゲードボール場として利用されているが、観覧席が満員となり往時の繁栄を忍ばせるのは、新居浜太鼓祭りのかき比べの時だけだ。
2013年12月16日
近くの煙突山山麓の大山積神社と別子銅山記念館に行った。新緑で美しい煙突山へ散策に出かける家族連れや友達連れに出会ったが、私は30段ほどの石段を上った別子銅山記念館前まで来るのが限界です。半地下構造の別子銅山記念館の屋根に植えているサツキも満開に近い。駐車場から数十メートル程度しか、杖をついても歩けなくなった。困ったものですわ。
2013年05月24日
別子銅山記念館のサツキが満開になってきた。足を三度運んだので三度目の正直ですかな。過去のブログと見比べてみて下さい。 5月4日 大山積神社と別子銅山記念館 5月21日 サツキ屋根が色付いてきた別子銅山記念館
2012年05月27日
我が家の窓から見える生子山(通称煙突山)の風景です。山頂には赤レンガ造りの煙突が建ち、山麓には半地下構造の別子銅山記念館などがある。別子銅山記念館のサツキ屋根が色付いてきたので、写真を写しに行った。別子銅山記念館周辺はこちらを参照してください。 サツキの満開までには1週間ほど早かったようだ。
2012年05月21日
近くの煙突山山麓の大山積神社と別子銅山記念館に行った。新緑で美しい煙突山へ散策に出かける家族連れや友達連れに出会ったが、私は30段ほどの石段を上った別子銅山記念館前まで来るのが限界です。半地下構造の別子銅山記念館の屋根に植えているサツキが咲いているだろうと来てみたが未だ少し早いようだ。サツキが咲き誇った時に再度アップします。 別子銅山鎮守の大山積神社です。左側に石積み観覧席のある山根グラウンド、右側の山頂には明治30年代に築いた赤レンガ積みの煙突が、風雪に耐えて建っている。 大山積神社参道の右側に半地下構造の別子銅山記念館がある。別子銅山が閉山した40年ほど前に住友グループ各社により造られた。この山根地区には煙突山赤レンガ煙突、山根グラウンド、鉱山鉄道跡や山根収銅所(排水処理施設で現在も稼働している)がある。 境内には鉱山鉄道として明治30年代にドイツから輸入した蒸気機関車(別子1号)を展示している。伊予鉄道(松山)の坊ちゃん列車も同時期に開通している。現在、動いている坊ちゃん列車は復元された電車です。 境内から見た風景で眼下に国領川が流れている。この上流に別子銅山があった。我が家は1kmほど離れた場所にある。参考までに以前に写した関連施設を下にアップします。 煙突山の赤レンガ煙突で去年補強工事が行われ、市民の憩いの場所として整備された。 石積み観覧席のある山根グラウンドで、新居浜太鼓まつりには数万人の観衆が集まる。昭和初期には国立競技場に匹敵する公認競技場だったようだ。 坑内排水の鉱毒を中和除去する山根収銅所で、閉山した現在もメンテナンスされて稼働している。
2012年05月04日
別子銅山跡地に造られているマイントピア別子には銅工房“あかがねの里”がある。薄い銅板にヘラで凹凸をつけて銅板画を創ることが出来る。子供たちには人気があるが、絵画的センスのない私には素通りするだけですわ。
2011年06月04日
煙突山の麓で山根公園の横に別子銅山記念館がある。別子銅山が閉山した時に住友グループ各社が資金を出して造った施設です。半地下構造になっており屋根にはツツジが植えられている。ツツジの花の盛りは終わったので色合いは薄れている。もう少し早くくればよかったのに・・・・・。 横には別子銅山の守り神である大山積神社があり、鳥居の前には別子銅山開坑300年記念の石碑が建っている。その前の道を登って行くと別子銅山跡へ通じている。人気の東洋のチュピチュ見物のため観光バスが頻繁に通るようになった。 土曜日だったので眼下の山根グラウンドでは、少年サッカー大会をしているのか大勢の小学生がサッカーに興じている。他方、リュックサックを背負った家族連れのグループが煙突山へ登っている。煙突山は標高100mぐらいなので、ハイキングには丁度良いですね。赤レンガ煙突の周辺を整備してベンチなど置いたようなので散歩コースとなるだろう。 横の道を進んでいけば別子銅山跡がある 別子銅山記念館は半地下構造になっている 屋根のツツジが満開の時は綺麗です
2011年05月22日
近くの山根公園の桜開花状況を見に行ったが、桜の蕾は未だ硬そうに見える。素人なので何時ごろ咲くのか分かりません。日本気象協会の開花予想では3月25日頃らしいので、今週末には咲き始めるのだろう。日本気象協会さくら開花予想⇒こちら 山根グラウンドの石積観覧席(写真中)も寒々としているが、桜が咲けば明るくなるでしょう。写真下は昭和初期の華やかな頃の陸上競技大会です。この石積観覧席は別子銅山従業員の作務(勤労奉仕)で出来上がったと云うから驚きですね。
2011年03月23日
120年前に造られた旧別子銅山山根精錬所赤煉瓦煙突の補強工事をしていたクレーン車が、見えなくなったので工事も最終場面になったのだろう。我が家から1kmほど離れた場所だが、私のデジカメは解像度が悪いので鮮明に写らない。工事前には赤煉瓦煙突以外、何もなかったのに西側に構築物が見える。休憩用東屋のようなものなのかなぁ。注:先日の降雪で東洋のマチュピチュと云われている東平地区へは、通行止めとなっているが数日後には解除されるだろう。
2011年03月18日
煙突山の赤煉瓦煙突の補強工事が終わったらしく足場が撤去されているではないか(写真上)。別子銅山が湿式収銅法を採用して収銅と製鉄と硫酸製造を目指して、1888年山根精錬所の煙突として造築された。しかし、排ガス(亜硫酸ガス)による煙害が発生したために1895年に停止した設備で、煙突だけが撤去されずに現在に至った。今回の改修工事で近代化産業遺産として活用されるのだろう。 3月中旬の煙突山風景 今年2月下旬の工事実施状況 去年11月下旬の工事着手時状況
2011年03月12日
我が家の窓から見える煙突山の赤煉瓦煙突の補強工事の状況です。120年前に構築した産業遺産なので耐震補強工事でもしているのだろう。外観には手を加えずに煙突内部で補強をしているのだろう。公共工事の常で、年度内に工事を終えるのかな。足場が外れたら再度アップします。 今年2月下旬の状況 去年11月下旬の状況
2011年03月01日
何時も窓から望んでいる煙突山の麓にある山根公園に行った。山根グラウンド、山根体育館、屋内プール、テニスコートや遊園地がある総合公園になっている。別子銅山が閉山するまで、別子銅山関連の山根競技場、娯楽館や新田社宅などの施設があった。 別子銅山閉山後、市に寄贈されて公園となり市民に開放されている。新居浜太鼓祭りには数万人の観衆を集めた太鼓台かき比べをしている山根グラウンドの石積み観覧席も山側部分が残るだけて往時の面影がなくなっている。昭和初期には国立競技場に匹敵する公認競技場だったようだ。 往時の半分程度しか残っていない石積み観覧席 昭和初期の山根競技場(上と比較すれば往年の盛況が分かる) 昭和初期の山根公園付近の別子銅山関連施設
2011年01月21日
別子銅山では毎年、元旦に氏神である大山積神社へ銅鉱石を注連縄で飾った大ばく(金へんに白)を奉献し、溶鉱炉の仕事始めで鋳込み安全を祈願していた。閉山時に造った大ばくが別子銅山記念館とマイントピア別子に展示されている(写真上)。 写真下は大ばく祭の様子で最前列の小柄な人は岳父の弟です。別子銅山の採鉱部門の現場責任者として坑内の第一線で働いていた。 別子銅山が閉山して40年近くなるがOB保存会により、毎年5月に大ばくの歌を大山積神社に奉納している。先導者が持っているのは小ばくで、閉山時に残った鉱石を利用して、たんさん作ったが売り切れたようだ。もう鉱石もなく作る人もいなくなった。大ばくの歌は中学生に教えて伝承している。
2011年01月02日
国の重要文化財である旧広瀬邸へ行った。明治時代の別子銅山中興の立役者広瀬宰平の邸宅で明治20年に竣工した(母屋と庭園は写真上と二枚目)。風情のある約150mの南側赤煉瓦塀(写真上から三枚目)は明治23年に竣工している。 山根精錬所の煙突として生子山山頂に設置した赤煉瓦煙突(写真上から四枚目で、今では煙突山の愛称で呼ばれている)は明治21年に竣工しているので、当時の石工が広瀬邸赤煉瓦塀も築いたのだろう。 東洋マチュピチュとして人気が急上昇している赤煉瓦造りの東平貯鉱庫、索道基地(写真上から五枚目)は明治38年に竣工している。登録有形文化財に指定されることが決まった赤煉瓦造りの端出場水力発電所(写真一番下)も明治45年に竣工したと云うから、明治時代の後半の別子銅山は近代化や増産のための建設ラッシュだったようだ。 旧広瀬邸母屋 旧広瀬邸庭園 旧広瀬邸南側赤煉瓦塀 煙突山の赤煉瓦煙突(旧山根精錬所煙突) 旧東平貯鉱庫と索道基地(東洋のマチュピチュと云われている) 旧端出場水力発電所(当時は東洋一の落差で発電量3000kw)
2010年12月29日
新聞情報によると別子銅山の旧端出場水力発電所が、登録有形文化財にするよう文部科学相に答申された。端出場水力発電所は明治45年(1912年)に完成したレンガ造りの発電所で、当時は東洋一の落差597mを利用して水車を回し、ドイツ・シーメンス社製の発電機2台で最大出力3000kwを発電し別子銅山の電力を賄っていた。 今年、住友共同電力より新居浜市に寄贈され、当時のまま残っている発電機など内部を公開するように準備中らしい。マイントピア別子の横にあるので見学者も多くなるだろう。
2010年12月13日
窓を開けて煙突山を見渡してみれば、旧別子銅山山根精錬所煙突に足場が掛かり、重機のアームが伸びて補強工事を始めているようだ。120年前に建設した赤煉瓦造り煙突を、昨年度点検したところ下記の事項が判ったそうだ(新居浜市報を抜粋)(1)煙突の高さは、これまで言われていた約18mではなく、20.145mだった。(2)煙突底面の寸法は2595×2600mm、煙突最上部の寸法は1920×1820mmの角形です。(3)煉瓦煙突下には基礎がない。(地中に埋まってなく、自重で建っている。)(4)煉瓦組積の目地強度としては保存状態が良い。 南海地震にも耐える強度に補強をして、近代化産業遺産として観光面で活用するのだろう。写真上は今日の眺望で、写真下は10日程前のものです。
2010年12月04日
新居浜太鼓祭りに協賛して出した住友グループの新聞広告(下記太字部分)です。住友発祥の当地には住友五社(下記参照)があり、全て別子銅山の流れを汲む企業である。住友五社でも序列が決まっているのか、新聞広告の順番は何時も同じです。 戦前までは五社対抗競技大会、昭和40年代までは五寮対抗球技大会などが開催されていたが、別子銅山が閉山し且つ、各社の自動化が進んだ現在は従業員が少くなり対抗競技なども姿を消している。 住友五社の生い立ちは別子銅山の各部門が分離独立して出来た会社で、概要は下記の通りです。明治・大正時代から公害防止や環境対策に積極的に取り組んできた企業集団でもあり、先人の先進的な取り組みに感心する。☆住友金属鉱山別子事業所は住友事業の源流である銅精錬事業を1691年に操業開始した別子銅山を原点として発展してきた。公害防止のために瀬戸内海の四坂島に精錬所を移す。1973年別子銅山閉山後も海外の鉱山より輸入して銅精錬事業を継続している。別子地区には関係なくなったが、現在も別子事業所として別子の名前を継承している。☆住友化学愛媛工場は1913年に別子銅山の環境対策として、排ガス中の亜硫酸ガスを回収して肥料製造を始めたのが発祥で、肥料⇒アルミニューム⇒石油化学⇒ファインケミカルと事業変遷しながら進化を遂げているが、最初の肥料製造は今も排ガス処理の一環として続いている。☆住友重機械工業新居浜工場は別子銅山の産業近代化に伴い、機械化を進めた1888年に別子銅山機械修理工場として発祥し1934年に分離独立した。現在も産業機械を製造している。☆住友共同電力は別子銅山に電力を供給するため1919年設立し、別子銅山の発電設備を継承した。住友系企業に電力を供給するほかに、住友系社宅にも電力供給していたが現在は四国電力に譲渡している。別子山地区には特例として現在も供給している。☆住友林業新居浜事業所は別子銅山開鉱と共に周辺の立木利用を始める。1894年に山野の復元緑化のために植林事業を始め、その後1909年に別子銅山より分離独立して現在に至り、山林事業や住宅事業を行っている。 別子銅山が閉山して約40年近くなり、鉱毒はないが坑内排水の除害設備として、山根収銅所は現在も稼動している。
2010年10月23日
別子銅山が閉山して40年近くなる。大正14年に操業を始めた星越選鉱場(現在は新居浜選鉱場とも云う)の、休止設備の老朽化も激しいので撤去すると住友金属鉱山が発表した。煙突山に照明を当てている風変わりな電気屋さんが、住友金属鉱山の許可を得て撤去前の姿を記憶に止めておくために一夜だけ照明を当てた。 風変わりな電気屋さんから招待を受けていたのだが、暗くなっての外出は危ないので当日の夜の勇姿を見にいけなかった。新居浜市ホームページに写真が掲載されたので借用(写真上)してきた。風変わりな電気屋さんの照射計画書によると、3つのサークル×各12本から照射される計36本のビームが開閉・回転され左右スイングするマルチレイ・エフェクト照射機で照射したようです。 最初で最後の照明に照らされる星越選鉱場 風変わりな電気屋さんホームページより借用 3年前に写した星越選鉱場 注釈:星越選鉱場(新居浜選鉱場)は廃棄されていた低品位鉱から鉱石を回収する技術である、浮遊選鉱技術(岩石の親水性と鉱石の疎水性の違い)を利用して選鉱し、収率を飛躍的に向上させたようだ。
2010年09月11日
山根精錬所跡に残る煙突は赤レンガ造りで、明治21年(1888年)から明治28年まで僅か7年しか稼動しなかった煙突だが、120年後の現在も風雨に耐えて煙突山(本来は生子山と云うが愛称の煙突山と呼ばれている)に立っている。産業遺産に光を当てて後世まで残そうと活動している、風変わりな電気屋さんが雲を煙に見立てて作った加工写真です。120年前の写真が蘇えったのかと思います。 別子銅山の鉱石は含銅硫化鉄鉱で数%の銅の他は硫化鉄なので、精錬で鉄を取り出そうと外国技術を採用して試験操業を始めたのが明治21年ですわ。官営八幡製鉄所(1901年操業)より操業は早かったが、鉄と同量の亜硫酸ガスの処理技術がなかったので公害を撒き散らすことになり、僅か7年で操業を停止した。当時の煙は写真のような白色でなく亜硫酸ガスの黄色だったでしょうな。 公害問題を真正面から捉えた当時の経営者は、公害防止を目標に硫酸工場(住友化学発祥)を創り、公害で荒れた山林に植林(住友林業発祥)し山を元に復元するなど、現在の経営者顔負けの取り組みをしています。現在の我が国も省エネ技術や公害防止技術などから、世界を牽引する夢の技術を開発できますかね。亜硫酸ガス排出ゼロを達成するのには50年ほどの年月を要したが、世界に先駆けて公害防止技術を確立したのは別子銅山だった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 風変わりな電気屋さんが、この煙突にボランティアで照明を当てているが、この光景は世界にひとつしかないもので、ナニコレ珍百景に出したい風景ですよ。詳細は次のバックナンバーを見て下さいね。 ナニコレ珍百景に投稿したい風景 幻想的な煙突山の夜景 快晴の夜空に照らし出される煙突山の赤レンガ煙突 夜霧に反射して後光が差している赤レンガ煙突 我が家から見える煙突山
2010年06月05日
毎週土曜日曜に煙突山を照明で照らし“産業遺産に光を”と頑張っている風変わりな電気屋さんがいる。雨上がりで霧が薄れつつある先週土曜の夜、煙突山にスポットライト照明を当てて撮った写真です。煙突山の向こう側の霧に反射した光が幻想的な風景を醸し出していますね。こんなタイミングは滅多に遭遇しないもので、風変わりな電気屋さんも乙な夜景を演出しますなぁ。晴天時の夜景と見比べるのも乙なものでっせ。写真は風変わりな電気屋さんに提供して貰ったもので、順々にズームアップしています。今夜も夜間照明を当て、産業遺産に光をあてるのだろう。
2010年05月29日
今しがた地元の南海放送の人気番組もぎたてTVで、東洋のマチュピチュが放送されたので画面をコピーした。別子銅山東平地区は標高750m地点にあり、明治35年(1902年)の第三通洞完成時点から諸施設を整備して、大正5年(1916年)に採鉱本部が置かれた。最盛期には4000人近い人が住んでおり、昭和48年(1973年)の別子銅山閉山まで続いた(昭和になって採鉱本部は端出場地区に移されたが、前線基地として機能していた)。 閉山時に学校、劇場、病院、生協や社宅などを全て撤去したが、レンガ造りの貯鉱庫(鉱石一時保管場所)や索道基地跡が残り、最近、東洋のマチュピチュとして人気が高まりブームとなっている。南国四国でも冬場は積雪で通行止めになるので、観光は春から秋までである。東平産業遺産、東平歴史資料館やマイン工房などの施設情報はマイントピア別子東平ゾーンHPを見て下さい。乗用車で行けますが山中ですので商店はありません。
2010年05月23日
ボランティアで煙突山に照明を当てている風変わりな電気屋さんと、偶然お会いする機会があった。 煙突山も住友林業から新居浜市に移管されたので、産業遺産として活用されるようになるだろうが、夜間照明を当てて産業遺産に光をあてようと頑張っているのがボランティアの風変わりな電気屋さんですわ。行政を動かす小さな一歩と思えば、まだ機が熟していないのかな。微力ながら私もブログで応援したいですな。 風変わりな電気屋さんが照明を当てだして4年近くになるが、何時までも個人に頼るとは行政の動きの鈍さを証明しているようですなぁ。えんとつ山に照明を当てて、行政の対応の遅さを証明するとは、風変わりな電気屋さんも頑張っていますなぁ。 右の写真は風変わりな電気屋さんが作ったポスターです。こんな奇特な人がいることを、ライトアップされた煙突山と共に全国の人に知って欲しいですなぁ。 風変わりな電気屋さんのブログとHPは次のとおりです。 風変わりな電気屋のひとりごと 煙突山ライトアップin新居浜HP
2010年05月22日
別子銅山の近代産業遺跡のひとつに赤レンガ造りの端出場水力発電所跡がある。今回、建物設備などが住友系企業(住友共同電力)から新居浜市に寄贈された。今まで内部は非公開だったが文化財指定を視野に入れて公開されるらしい。内部が公開されたらアップします(ドイツ製水車発電機が据わっている)。 端出場水力発電所は別子銅山に電気を供給するために、1912年に建設しドイツ製発電機を設置して、有効落差597m、出力3000kwと当時では東洋一の規模だった。銅山峰南側の吉野川支流にダムを造り、坑道を利用して銅山峰北側の石ケ山丈の貯水池まで導き(水路総延長約10km)落差をかせぎ発電に利用した。その水を産業用水として活用したと云うから当時の人は遠大な構想力があったものだ。別子銅山が閉山して発電所の稼動は止まっても、産業用水として今も利用されている。 約100年前に建設した赤レンガ造りの端出場水力発電所跡 (マイントピア別子に隣接している)
2010年03月26日
我が家の窓から見える、えんとつ山(通称で正式名は生子山)も春めいてきた。近代産業遺産に登録された、えんとつ山の煙突を、毎週土曜日曜日に自費で照明を照射している風変わりな電気屋さんがいる。ナニコレ珍百景に投稿しても良い風景で、世界にひとつしかない風景です。写真上、中が風変わりな電気屋さんが演出する夜景で、写真下が我が家の窓から見える昼景です。 写真上は風変わりな電気屋さんが自作した投光器で、えんとつ山の煙突に照準を合わして投光している。照射地点からえんとつ山まで400mぐらい離れており、浮かび上がっている建物は小学校校舎です。 写真中は照射された、えんとつ山煙突の夜景です。写真上、中ともに えんとつ山ライトアップin新居浜HPより了解を得てコピーさせて貰った。昼は東洋のマチュビチュ観光、夜はえんとつ山観光(土日限定)と如何ですか。 我が家は、えんとつ山の北側にあり、照射地点は西側にあるので 我が家からは照明に照らされた煙突は微かにしか見えない。
2010年03月06日
先日、旧広瀬邸南側のレンガ塀(こちら)をアップしたが、今日は北側レンガ塀と旧広瀬邸母屋と庭をアップします。 北側レンガ塀(写真上)は透かしを意匠した積み方に感心する。旧広瀬邸(写真中)は重要文化財に指定されている明治時代の洋風意匠を随所に取り入れている建物です。写真下は東屋を配した和風庭園です。 蛇足だがついでに南側レンガ塀もアップします。
2010年01月14日
昨日、大山積神社で別子銅山OBが揃って大ばく(金へんに白)の歌を奉納した(写真上)。会長が手に持っているのが小ばくです。別子銅山閉山までは毎年仕事始めの儀式として、大山積神社に大ばく(写真中で300kg以上の大きな鉱石を注連縄で飾ったもの)を奉納し、四阪島溶鉱炉の鋳込み始めに使用したそうだ。 別子銅山が閉山して40年近くなるが、OB保存会により毎年大ばくの歌を奉納している。最後の大ばくは別子銅山記念館とマイントピア別子に保存展示されている。写真下は閉山前の大ばく祭の様子で、写真中央の人は岳父の弟です。 閉山時に残った鉱石を利用して小ばくをたんさん作ったが売り切れたようだ。もう鉱石もなく作る人もいなくなった。私は鉱山に関係なく、小ばくに関心もなく購入しなかったが、今では希少価値があるだろう。大ばくの歌は中学生に教えて伝承しているらしい。
2010年01月05日
えんとつ山の麓の大山祇神社には正月を迎える準備が整っているようだった。注連縄も新しくなり幟も立っていたが参拝者も見当たらない。すぐ横の別子銅山記念館も年末年始の休館のようで、山根グラウンドも静かで、みなさん正月準備で忙しいのだろう。この道は別子山に通じる道で、山間部は積雪で滑り止めが必要なので通行する車も少なくなっている。
2009年12月30日
明治時代の住友家総理事で別子銅山支配人だった旧広瀬宰平邸南側レンガ塀で長さ108mです。この道は明治時代の遍路道だったのでお遍路さんも歩いたのだろうが、今では近所の人しか通らないひっそりとした小道となってしまった。別子銅山東平採鉱本部の貯鉱庫や索道基地(東洋のマチュピチュと云われている)を建設した時のレンガで造ったのだろう。 参考 東洋のマチュピチュと云われる東平貯鉱庫跡
2009年12月23日
昭和48年(1973年)に別子銅山が閉山して36年経つが、山根収銅所は今も稼動している。明治38年(1905年)に銅山の廃水処理のために造られた公害防止施設である。銅山の酸性排水を処理するために中和処理と銅イオンを回収して、無害排水にして海に流しているが、配管総延長は16kmにもなっている。現在も別子銅山跡から湧き出る水は少量で無害になっているが、安全を期すために操業を続けているそうだ。(足尾銅山が長く公害に苦しんだのと対照的ですね) 別子銅山は排ガス処理、排水処理や植林などの公害防止対策に、明治38年ごろから取り組んでいたとは驚きですね。そこから発展して住友化学や住友林業などの国内有数の企業が生まれたのだから、公害防止も見捨てたものでないですなぁ。=参考= 明治38年(1905年、今から104年前)別子銅山の公害防止対策 ・四阪精錬所操業開始・・・排ガス対策として瀬戸内海の四阪島に精錬所建設 しかし技術的問題で排ガス完全処理まで30年ほどの年月を要した ・東平収銅所、山根収銅所完成操業開始・・・排水対策 ・第三通洞~東平~端出場~山根~新居浜まで排水路完成 現在も稼動している山根収銅所(住友金属鉱山) 内宮神社参道の住友鉱山鉄道跡地から写す 内宮神社参道より山根収銅所と市内を望む 収銅所横を住友鉱山鉄道が走っていた。その下側に角野小学校 があり別子銅山操業当時は県内有数のマンモス校だった
2009年12月06日
四国でも積雪のために冬季通行止めになる道路があると云うと、他所の人は俄かに信じがたいだろう。東洋のマチュピチュとして観光人気が出てきた旧別子銅山東平地区も、12月1日から来年2月末まで道路が通行止めとなり閉鎖される。四国でも標高750mにあるので冬季は積雪で車が通れなくなる。同じように四国霊場第60番札所横峰寺に通じる林道も冬季は閉鎖される。(生活道路でないので除雪作業をせず通行止めとしている) 東平地区は大正時代には別子銅山の採鉱本部が置かれ、最盛期には3800人も暮らしていたし、昭和43年に小中学校が廃校になるまで拠点のひとつだった。昭和48年に別子銅山が閉山し関連施設も撤去されたが石積施設などは残った。産業遺産跡としては物資を輸送したインクライン、貯鉱庫、索道基地、第三通洞、第三発電所など、往年を偲ばせるものが森の中に残っている。(写真は貯鉱庫跡、索道基地跡で花崗岩やレンガ積みです) 東洋のマチュピチュと云われるようになって、市民も関心を持つようになりケーブルTVでも放映されるようになった。下の写真のほとんどはケーブルTV画面をコピーしたものです。来年も観光人気が続くことを期待したい。
2009年12月01日
微かに見えるえんとつ山のライトアップを、安物のデジカメで三脚も使わず手持ちで写してみた。闇夜の中にボンヤリと微かに見えるのが煙突である。スポットライト照明の投光器を設置している所は見物人で賑わっているのだろう。 地元ケーブルTVでも特集を放送しているが、ライトアップの場面は放映されていない。煙突の西面方向から撮った写真を放送していたので画面をコピーした。丁度この方向からライトアップしているので、こんな煙突が浮かび上がっているのだろう(写真中)。 煙突西面にスポット照明を当てているのに、我が家は北面 を見る角度なので、こんなものでスミマセン。 えんとつ山アップ(ケーブルTV画面より) 我が家から見える昼間のえんとつ山
2009年11月23日
えんとつ山ライトアップを楽しみに待っていたが、今夜、窓からえんとつ山を覗くと微かに煙突が浮かび上がっているが、安物のデジカメでは写りませんわ。風変わりな電気屋さんと称するボランティアが、えんとつ山の西方600m地点から2kwの投光器で照射しているので、光は煙突の西面に反射するので西側からしか見えません。 我が家は煙突の北面を見ているのでダメですわ。人家の多い北面からも照射して貰えればありがたいのだが・・・・・・。今回は市も一役かんでいるので、煙突の真下から照射するものとばかり思っていたので宣伝もした。期待して待っていただいた方には申し訳ありません。投光器設置場所が分かったので、後日私も撮影に出向きますわ。取り合えずは風変わりな電気屋さんのホームページ煙突山ライトアップin新居浜へどうぞ。
2009年11月21日
マイントピア別子に行ったが賑わっている。人気の出てきた東洋のマチュピチ見学の起点になる場所で、大型バスから中型バスに乗り換えて、8kmほど先にある標高750mの東平(東洋のマチュピチ)に向かっている。新聞にも取り上げられたので地元の人も見学に出かけているが、今まで余り知られていなかったのだ。マイントピア別子は別子銅山最後の採鉱本部があった端出場にあり、大正時代には東平に採鉱本部があった。 江戸時代には銅山峰頂上近くの標高1100m地点から掘り始め、閉山時には海面下1000mまで掘り進めていたと云うから驚きだ。坑道の全長は、ここから新潟までの距離に相当するそうだ。 マイントピア別子には観光坑道や温泉施設があり、芍薬や鹿の子百合や冬桜などの花も植えられている。また国指定有形文化資産に登録された別子銅山鉄道の鉄橋とトンネルや泉寿亭などの産業遺産跡があり、別子銅山坑口の第四通洞やレンガ造りの端出場発電所もある。 温泉施設などがあるマイントピア別子本館 満開の冬桜 観光トロッコ列車と冬桜
2009年11月19日
別子銅山の近代化遺産に華を添えるために、銅製モニュメントがあちらこちらに造られている。その一部を紹介します。 写真上は、最後の採鉱本部のあった端出場採鉱本部跡(現マイントピア別子)に建っている仲持ち人像です。江戸時代や明治初期には銅山峰頂上近くの鉱山町(標高1200m)に約10000人が生活していたので、仲持ち人は食料品などを背負い運び上げ、帰りは山頂で精製して出来た荒銅(純度80%)を背負って山を降りていた。 写真下は、えんとつ山山麓の別子銅山記念館近くの精錬工夫像です。山頂近くの精錬所で銅鉱石を焼成・精製して荒銅を作っていた。精錬用燃料に木材を伐採し、亜硫酸ガス公害で付近の山はハゲ山と化していたが、既に明治時代から植林事業を大々的に行っていた。 これら二つの職種は明治後半の産業近代化で運搬手段が鉄道になり、精錬も四坂島に移り近代精錬炉が出来て様変わりしてしまった。
2009年11月13日
窓からえんとつ山を見上げると赤レンガ造りの煙突にかかっていた足場が撤去されている。120年前に造られた煙突の点検調査が終わったようだが、劣化状況や耐震強度などの結果発表が待たれますなぁ。煙突の上に生えていた雑木は撤去されて綺麗になりました。別子銅山近代化遺産が国の登録有形文化財として登録されたのだから活用してほしいですなぁ。煙突の真下から写した写真(写真下)を見ても、明治の職人は頑丈に造っているのが分かる。 今日の赤レンガ造りの煙突 ひと月前の足場のかかった赤レンガ造りの煙突 この写真は10年ほど前に赤レンガ煙突の真下から、煙突の 先端を写したものですが、木の葉っぱが見えると思います。 120年の風雪で土が積もり鳥が種を落としたのでしょうね。
2009年10月12日
窓を開けてえんとつ山を展望すると普段と違う。目を凝らして見てみると、赤レンガの煙突に足場をかけているようだ。今年6月に国の登録有形文化財に指定たれたので点検するのかなぁ。明治21年に建設されて120年になるが、初めての点検だろう。 生子山山頂に18mの赤レンガ製の煙突を建設したが、稼動期間は僅か8年足らずで山根精錬所が閉鎖されたので無用の長物だった。市民からはえんとつ山の愛称で親しまれてきたが、漸く近代化産業遺産として保存されるようになった。 保存のための点検だろうが、市は住友林業より譲り受けて公園に整備するらしい。120年の間、風雨に晒されてもビクともしなかったのは、先人の卓越したレンガ積み技術の賜物だろう。保存するには直下に中央構造線が走っているので綿密な調査をしなければなるまい。 足場のかかった煙突(今日の風景) 赤レンガの煙突(4月の満開の桜のえんとつ山)
2009年09月11日
旧別子銅山東平(トオナル)地区が観光ブームになっているらしい。大阪の旅行会社が今年7月末からツアー募集したところ、予約見込みより倍以上の申し込みがあり連日大賑わいと云う。四国のインカ帝国や東洋のマチュピチュと紹介されてブームに火がついたらしい。来月から複数の旅行会社がツアー募集を開始するらしい。 海抜750mの山中にある産業遺産が目当てだ。大正時代には別子銅山の採鉱本部が置かれ、最盛期には3800人も暮らしていた。岳父は電気技師として働き、家内は小学3年まで暮らしたようだ。 産業遺産跡としては物資を輸送したインクライン、貯鉱庫(写真下)、索道基地、第三通洞、第三発電所など、往年を偲ばせるものが森の中に残っている。往年の資料などを東平歴史資料館に展示しているのも魅力らしい。マイントピア別子で遊ぶのも良し、足を延ばして東平地区に行くのも良し。(但し、東平地区へは冬季は積雪で通行止めになる) 花崗岩の重厚な造りの貯鉱庫跡と赤レンガ造りの索道基地跡
2009年09月07日
別子銅山近代化遺産のひとつ旧山根精錬所煙突が登録有形文化遺産に登録されるようだ。 当市も別子銅山文化遺産課を設けて積極的に活用策の検討を始めている。『赤いレンガの煙突』フォーラム&コンサートの案内が届いた(右記参照)。 旧山根精錬所煙突はえんとつ山との愛称で市民に親しまれている。生子山頂上に18mの赤レンガ造りの煙突が1888年に造られ、約120m経った現在でも厳然と立っている。 右の案内文中のえんとつ山を見てきた先人の中に、イラストレータの真鍋博とジャイアンツ元監督の藤田元司の名前がみえる。 地元住民有志と新居浜市はエントツ山をライトアップしたり、山根大通りストリートミュージアムなどの活性策を行っている。私も手足が萎えていなければ応援したいのだが如何ともしがたい。 下の写真は我が家の窓から眺めたえんとつ山(近景の山)と銅山峰(最遠景の山で山頂が少し見える)である。
2009年08月23日
我が家の近くにある別子銅山近代化遺産5件が国の登録有形文化遺産に登録されるらしい。その文化財は次の5件です。 1.山根競技場観覧席 2.旧別子鉱山鉄道端出場鉄橋 3.旧別子鉱山鉄道端出場隧道 4.旧山根精錬所煙突 5.旧泉寿亭特別室棟 今日は山根競技場観覧席を紹介する。私のブログで再々登場する山根グラウンド石積観覧席のことで、昭和2年に公認陸上競技場として別子銅山社員の勤労奉仕で作られた。石積観覧席がC形に造られ収容人員は5万人と云われていた。秋の運動会では鉱山部(現住友金属鉱山)、化学部(現住友化学)、機械部(現住友重機械)の対抗陸上競技大会として盛んに行っていた。我が岳父も短距離選手として活躍したそうだ。 現在は山側の石積み観覧席の、石段の数が27段で170メートル分しか残っていないが、新居浜太鼓祭りの統一かきくらべ会場として親しまれている。 昭和初期の陸上競技大会のようす 現在も残っている石積み観覧席
2009年08月22日
煙突山(写真右)のたもとに生子橋があり、現在の橋は朱塗りの歩道橋です(写真上)。 橋の両側に住友鉄道山根駅と山根グラウンドや社宅があったので戦前も橋が架かっていた。戦前の写真が橋のたもとに掲示されていたので写した(写真中)。説明書きには昭和15年頃の写真で婦人達が住友各社対抗競技大会の見物に出かけている風景とある。私のデジカメが写り込んでいるが、昔の情景は想像がつく。 多分、現在の水道管を渡している橋(写真下)と同じ場所辺りだろうと想像しているが、両岸が急峻な崖になっているのにアングルの位置が低いので何処から写したのかなぁ。 現在の生子橋 昭和15年頃(約70年前)の生子橋 現在の水道管を渡している橋(生子橋より写す) 追記:市役所に別子銅山文化遺産課を設けて、産業遺産の活用・保存に取り組んでいる。産業遺産説明板を市内20箇所に設置しているが、上記写真はその中のひとつです。
2009年07月19日
サツキの開花時期になったので、別子銅山閉山を記念して昭和50年(1975年)に開館した別子銅山記念館のサツキ見物に行った。建物は鉱山坑内を彷彿させる独得の半地下構造になっており、屋上や周辺に13000本のサツキが植え込まれている。別子銅山は元禄4年(1691年)5月に開坑したので、記念館にはサツキが植えられたと云う。 行ってみてびっくり、大きく刈り込まれているので今年は花など咲きませんがな。3月末の桜が開花している時には刈り込みなどしていなかったのに、刈り込みのタイミングが悪いですなぁ。取り合えず10年ほど前に写した写真(写真上)でお茶を濁します。 今年5月中旬の別子銅山記念館 今年3月下旬の別子銅山記念館
2009年05月24日
我が家の窓から眺めた煙突山(生子山だが通称、煙突山と親しまれている)である。黄砂で少し靄っているが、暖かい感じがするようになってきた。 麓の山根公園の桜も開花しはじめたので、煙突山の色合いも変わって来るだろう。春夏秋冬それぞれの姿を見せてくれるので、定点写真を撮ってみますわ。 この煙突山は住友林業所有だったが、新居浜市有の山地と等価交換して、新居浜市が観光開発をすることになったらしい。 この煙突は明治21年に別子銅山の山根精錬所の煙突として、生子山山頂に18mの煉瓦製で立てられた。約120年経つが頑丈に造られているので、劣化もなく近代産業遺産として遊歩道など設けて、市民の憩いの場所とするようだ。
2009年03月21日
江戸時代から明治中期まで別子銅山で産出した銅鉱石を、山中で荒銅にして立川中宿を経由して新居浜浦の口屋まで運んでいた。ここから船に乗せ大阪まで運び精銅にしていた。 右の絵図は明治時代に描かれた口屋である。荒銅の積み出しだけでなく、1万数千人の鉱夫や家族の生活必需品の集積場所でもあった。 明治中期に近くの惣開に移設されてしまったので寂れてしまい、ここには昔の面影がなく当時の松の木が一本残っているのみだ。沖に浮かぶ船は白水丸で、現在の商船三井に受け継がれている。沖の御代島まで埋め立てられ、住友系工場群(住友金属鉱山、住友化学、住友重機械など)となり今も操業を続けている。 口屋跡の松の木 口屋跡近くの港の風景
2009年02月22日
我が家より2km余り上流へ行ったところに旧別子銅山の立川中宿跡がある。別子銅山から浜宿(大阪への積み出し港)までの間にある中継所であった。現在は広場になっているが立ち寄る人影もほとんど無い。 江戸時代の別子銅山は、立川中宿から急峻な山岳道を10km登った銅山峰(1294m)頂上付近にあり、物資の輸送は仲持ち人に背負われて運搬していた。明治になり山腹を縫うように廻らした牛車道(延長22km)を造り、輸送の合理化を図った。写真に見えるジグザク道は、その名残である。明治の後半に鉄道輸送に切り替わったので、この牛車道は明治13~26年までの10年余り使用されだけだ。現在は通る人もなく朽ち果てている。 立川中宿から牛車道を望んだ風景である。前の川には花崗岩造りの眼鏡橋がかかっていたのだが、水害で流されてしまった。正面の三本の桜(一本は枯れて、最近植えたそうだ)が往時の名残らしい。
2009年02月06日
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