■フタバの歴史・第1話


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■フタバの歴史・第1話

 昭和55年3月に僕は神奈川県の東海大学理学部数学科を卒業した。
同級生の多くはコンピューター関係、教師などになった。
でも僕は全く数学と関係ない会社を選んだ。

 高校までは俺は数学ができると思っていたが、
天才的なひらめきで他を圧倒する人達をみて、
『ああぁぁぁぁ、なんて俺は凡人なのか…』と思った。
だから数学と関係ない会社に入った。

 しかし勤務して半年くらいの時に親戚の家で高校の数学の教科書を手にした。
『高校の数学か、簡単だよな…』とパラパラめくっていくうちに記憶が途切れているのがわかった…『えっ…これじゃあ1年もしたらあんなに苦しんだ数学をみんな忘れちゃうぞ…』
そういう危機感に襲われた。

 結局、僕は恩師や親父殿がなれなれと言っていた教師になろうかな…と思い始めた。
しかし散々『親父元気か?金送れ!』をやってしまったため、会社を辞めてまた喰わせてもらう事に抵抗があった。

 で選んだのが塾に勤めながら生活費を賄って、試験に備えようというものだった。同じく会社を辞めたNさん(男性)が新聞に入っているチラシの一番小さな『講師募集』の広告を切り抜いてもってきてくれた。

 『村松さんの前途を祝して』と書かれた2000円の図書券の入った封筒と一緒に。

 結局僕は、昭和56年2月一杯で会社を辞めた。
辞表は既に出してあったので、一人でロッカーを片付けて外に出ると、雪がかなり降っていた。あたり一面真っ白くなるほどの雪。

 僕は23年間、沼津で塾をやっているが、あれほどの雪を見たのはあと1回か2回くらいだと思う。
沼津は本当に温暖なので雪には縁がないのだ。

 外に出て思った事。『俺はこれから大丈夫なのかな、どうなっちゃうんだろう…』これが真実だ。
仕事は探さなかった。大学出たての若造を雇ってくれ、1年もしないで辞めるのに、在職しながら次の職を探す事は僕にはできなかった。

 数日後、前に貰った『講師募集の塾』に恐る恐る電話してみた。
『一応数学科を卒業しましたが、使ってもらえるでしょうか?』
そんな風に尋ねた気がする。

 『会って話をしましょう。』と言われ、僕は翌日沼津市内にあった塾に面接に出かけた。
そして採用となり……次回へ続きます。2004.07.23 PM8:33

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