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2005年04月30日
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昨夜は同僚の父上のお通夜に、南柏という所まで行ってきた。
常磐線は新松戸までしか行ったことがないものだから、アナウンスを聞き損って、通り過ぎてしまったのではないかと、まるで小学生のように緊張し、あらためて私の生活圏がいかに狭いか感じさせられた。
車内で交わされる言葉のイントネーションも、ごくわずかだが違うように思われる。不意にエトランゼになった気がした。
職場を挟んでそれぞれ50分程の所に住んでいるのに・・・・

生活圏が狭いことは、おそらく人生の体験の幅の狭さに直結するであろう。

これくらいの移動距離を大冒険のように感じているのだから、千年以上昔の中国の口語を本当に正しく読めているんだろうか・・・・
根拠の無い自尊心は、こんな風にいつも脅かされている。

私は禅宗を文献でたどる道を選んだわけだが、昨夜のお通夜は日蓮宗だった。

それにしても、ちょっと前まで、黒い服を着るときは結婚式の披露宴ばかりだったのに、この何年かは葬儀ばかりだな、と腐っていたが、会場に入るなり聞こえてくる日蓮宗独特のにぎやかな雰囲気に、少し慰められた。



私どもの宗祖の教えに、「人は三度生まれる」と申します。最初は母の胎内に宿ったとき、次は十月十日経って母の胎内を出たとき、そして三度目は「往きて生まれる」往生のとき。ですので、お母様のお腹に宿ったときから数えます。したがって私どもは数え歳で申します。故人は八十八年のこちらの生涯を閉じられ、今あちらの世界にお生まれになります。
もう残念ながら故人の姿を見ることも声を聞くこともできません。しかし、いま法華経の観世音菩薩普門品をお読みしました。
観音様は「音を観る」と書きます。また香道では「香を聞く」と申します。
音を眼で観ることも、香を耳で聞くこともできませんが、心の眼、心の耳には故人のお姿もお声も生き生きと見え、聞こえることでしょう・・・・

さまざまな人生経験を持ち、一人ひとり理解度の違うであろう会葬者の誰の胸にも響く僧侶の静かな声だった。

あらためて我が禅宗の言葉の特殊性を思わされた。
禅宗ではしばしば「本来の自己」をしっかりつかまえているか、という意味で「父母未生以前」という言い方をする。自分が生まれる前どころか、両親が生まれるよりさらに前の世界はどうだ、なんて聞かれたって答えられる筈がない。
あえてそうした問いかけをし、独特な回路を経て悟りを得る手伝いをするのが禅僧だが、しかしこの解り難さの陰に隠れて、正直者を煙に巻くような、詐欺師のような仕事をしていないだろうか。常に自戒が必要だ。

一応「父母未生以前」は迷いと悟り、或いは凡と聖などといった区別を超越した絶対無差別の世界、と解説するのだけれど、じゃあお前はその世界に足を踏み入れたことがあるのか。わずか一時間四十分の距離さえとてつもなく遠く感じているお前が・・・

心の中の声にひとしきり脅かされながら、いや一時間四十分の距離に、自分の足元を見つめなおすきっかけを頂いたのかな、と思いながらの家路であった。





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最終更新日  2005年04月30日 05時24分10秒
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