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2005年05月29日
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Sent: Sunday, May 29, 2005 10:15 AM
Subject: 29日の日記


昨日は「禅語と墨蹟に親しむ会」の第二回目を開催した。

この二週間、夜もよく眠れず、心身ともに疲れて、休会に

してしまいたいと何度も思ったのだが、始めたばかりで止

めるのだけはなんとか防げた。





けない。

「もう私の力で出来ることはすべて終わったのだ」と自分

に言い聞かせるのだが、虚脱感はおいそれと埋められない。



そう考えてはいけないと思いながら、私の存在をまるごと

否定されたような気分がのしかかって、容易にはねのけら

れないのだ。

いや、もっと正確にいうなら、自分自身の存在に実感が伴

わないといった方が近いかも知れない。



疲れているから横にはなるのだが、寝つけないし、まどろ

んでも時計を見ると一時間強しか眠っていなかったりする。

輾転反側しながら夜明けを待っている。





そのうち声が出なくなってきた。

自傷行為まで考えた訳ではないが、体が衰えてくる事で、

どこかお詫びのつもりになっている自分がいる。それでど

うにか心身のバランスがとれているらしいが、この状態で

禅語などしゃべるのは所詮無理だ。





だけが上滑りしてしまう。何を話せばよいだろう。考えて

あったのは、今月一日、この日記に書き込もうとして消え

てしまった「汝は是れ慧超」だったが、こんな言葉は余程

ハイテンションにならなければ伝えようが無い。



といって資料を新たに作り直す時間もない。

散々迷った挙句、この語を今の私に出来る範囲で伝える方

法を探すことにした。



ちょうど手元に鈴木秀子著『死にゆく者からの言葉』があ

った。この本の伝えてくれる言葉はどれも優しい。どんな

死者も死の直前には美しいものを見て安らかに旅立ってい

くらしい。彼女が見送ったさまざまな例を読んでいると、

涙はあふれてくるのにどこか心の深いところで安らぎを覚

える。いや涙を流すことで私の脳のなかにモルヒネのよう

な物質が生まれ、それが私を癒してくれているのかも知れ

ない。



ともかくこの本を見つけてからの一週間、随分と楽になっ

たのは確かだ。その中の一章を「汝は是れ慧超」とリンク

させて語ることにした。



鈴木さんの本に紹介されているのは、山中に蹲っている状

態で発見されたため「山のおじいさん」と呼ばれていたア

ルツハイマーの老人の話だ。本名のわからぬまま養老院に

ひきとられた「山のおじいさん」が、亡くなる少し前につ

ぶやいた言葉は、



「わが名をよびてたまはれ」



ようやく聞き取れた言葉がこれだった。



しかし彼の名をなんと呼べばよいのか。人々が当惑してい

ると、次第に朗々とした調子で繰り返す。



わが名をよびてたまはれ

いとけなき日の呼び名もて

わが名をよびてたまはれ



と三度繰り返してのち、



あはれいまひとたび

わがいとけなき日の名を

よびてたまはれ

風のふく日のとほくより

わが名をよびてたまはれ

庭のかたへに茶の花のさきのこる日の

ちらちらと雪のふる日のとほくより



わが名をよびてたまはれ

よびてたまはれ

わが名をよびてたまはれ



幼き日

母のよびたまいしわが名もて

われをよびてたまわれ

われをよびてたまわれ



と一気に謳いあげたという。



これは三好達治の『花筐(はながたみ)』に収められた

「わが名をよびて」という作品だった。

わが名さえ忘れてしまった老人が、わが名を呼んでほしい

という。しかも、最後の一節



幼き日

母のよびたまいしわが名もて

われをよびてたまわれ

われをよびてたまわれ



は原詩にはないのだそうである。

鈴木さんは「彼が詩の一節として記憶していたのか、ある

いは死を前にして心からほとばしり出たのか、私にはわか

りません。私はその時、詩の一節として聞いていました。」

と記す。



そして彼女は山のおじいさんを想いながら旧約聖書の

「イザヤ書」の一節を口ずさむ。



あなたを想像された主は

あなたを造られた主は

今、こう言われる。

恐れるな、

あなたはわたしのもの。

わたしはあなたの名を呼ぶ。

わたしの目にあなたは値高く、貴く

わたしはあなたを愛し

わたしはあなたと共にいる。



名前はそのひとのアイデンティティーです。

聖書の中で、「名を呼ぶ」ということは、ひとりの人間

に対する神の無限の愛の証しです。ひとりの人間を、固

有のかけがえのない存在として認めることです。

自分の名を呼ばれた人は、こう感じるのです、と鈴木さ

んは続ける。



敬虔なクリスティアンなら「人生をさまよいつつ送る私、そ

んな私を心にかけてくれる人――その他大勢の中から私を選

び出し、私に目をとめ、私を記憶にとどめ、『私は特別な人

間である』と私に信じ込ませてくれる人」としてきっと神を

感じることができるのだろう。



慧超は法眼文益和尚に「いかなるか是れ仏」と問いかけて

「汝は是れ慧超」という答えをもらい、その瞬間に大悟する。

慧超はこの一瞬に、自分の存在を根底から支えているものに、

あらためて命を与えられた思いだったのではなかろうか?



アルツハイマーに冒されたあとも、愛を敏感に感じとり、人

間としての尊厳を保ち続けた「山のおじいさん」は、人間と

してこの世的な存在が、すべて消え去ろうとするその時に、

全生涯をそして彼自身を、一編の詩に集約させた。



慧超は禅僧としての出発点からまだ何歩も歩き出さぬうちに、

名を呼ばれて大悟し目覚しい活躍をする。



ところで、もろもろの伝記によれば、慧超は幼名だという。

当然出家以前の名という事になる。しかし本当にそうだろう

か?そもそも慧超という名は俗名らしくないし、『碧巌録』

では雲水として彼がまず自分の「慧超」という名を告げた後

に質問したことになっている。

彼がのちに帰宗策真という名になるのは確かだが、慧超は幼

名ではなく、得度ののち最初にもらった名ではなかったろう

か?



私もいろいろの名を受けてきた。親からもらった博美の名、

師匠からもらった英稜の名、亡くなられた永平寺の秦慧玉管

長は、なぜか私を「山田君」としか認識されなかったが、あ

れはどうしてだったのだろう。


タローと呼んでくれるグループもあった。
半狂乱のタローをわが事の様に心配してくれたノリちゃん、うるるん、トッチー、
ワンコ。早く元気になって彼らに御礼を言わなくちゃ!





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最終更新日  2005年05月30日 03時37分05秒
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こんなにも、  
緑の海  さん
悩みが深くていらしたとは気がつきもせず、先日は碧巌録と詩歌の話に聞き入っておりました。
祈っているとき、誰かに名前を呼ばれ、神に呼ばれたのだと気づき、神を信ずるようになったという知人がいます。神とともにいる喜び、仏と同体である充足感、これを手にした人は迷うことなく生きていけるのでしょうね。
博美先生、悩みが少しでも解決してゆっくり睡眠できますよう、ご自愛ください。 (2005年05月30日 11時31分15秒)

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