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先生、大好き☆


 真弓は心の中で深いため息をつきながら、黙々と問題集に取り組んでいる和広に言った。

 「そのページで、分からない所、ある?」

 「・・・・・・・・・」

 無反応。

 「もし、あったら聞いてね。」

 「・・・・・・・・・」

 まるで真弓などいないかのように振舞う和広。

 高校二年になって家庭教師のバイトをすることにした真弓の、初めての生徒が和広だ。

 いささか子供っぽい真弓は、中学二年とは思えないほど落ち着いていて背も高い和広と並ぶと、同級生に見られてしまう。

 和広は、真弓に何も話さない。

 真弓だけでなく、母親にも父親にも何も話さないそうだ。

 学校にも行っていない。その割にはとても優秀な生徒だったが。

 問題を解き終わった和広が、無言で真弓にノートを渡す。

 全問正解。

 「すごいわね。全部あってる。」

 和広は無言でノートを取り返すと、部屋を出て、階段を下りていった。

 真弓はため息をついて荷物をまとめる。

 一階に下りると、和広の母親がかけてきた。

 「ごめんなさいね。あの子ったら、何も言わないで。」

 「いえ、いいんです。」

 「ありがとう。あの子をよろしくね。」

 「はい。お邪魔しました。」

 「お疲れ様。」

 和広の母親に見送られて和広の家を出る。

 角を曲がってから、真弓は思いきりため息をついた。

 ストレスが溜まる・・・。まったく、何なのかしら、あの子。

 でも、あの母親のことを考えると、止めたいとも言い出せない真弓だった・・・。


 学校が終わるのが憂鬱でたまらない。

 もちろん、和広の家に行かなければならないからだ。

 真弓はのろのろと帰り支度をして、のろのろと学校を出た。

 少し寄り道して行こうかな・・・・。

 でも、あまり時間がない。

 結局、真弓は和広の家の近くの小さな公園で少し休憩をすることにした。

 その公園に入ると、驚いたことに、和広の姿があった。

 一人で、ベンチに座っている。

 真弓は、和広がいるベンチから一番遠いベンチに腰掛けた。

 しばらくぼうっとして、ふと和広のいる方を見ると・・・和広は、ポケットから取り出したライターで、口にくわえたタバコに火をつけるところだった。

 真弓の目を引いたのは、タバコでも、ライターでもなく、和広の表情だった。

 いつも無表情な和広が、感情を表に出している!

 それは、とても痛々しい表情だった。

 真弓は思わずベンチを立って、和広の方に近付いていた。

 「和広君、こんにちは。」

 「・・・・・・・・・」

 和広は少し驚いたように真弓を見上げたが、気にせずタバコを吸い始めた。

 「ここ、座ってもいい?」

 「・・・・・・・・・」

 真弓は構わず和広の隣に座った。

 「タバコっておいしいの?」

 真弓が聞くと、和広はとても低い声で言った。

 「何か用?」

 それは、真弓にかけられた初めての和広の言葉だった。

 「用ってわけじゃないけど。たまたまここに来たら和広君がいたから、何してるのかなって思って。」

 「・・・・・・・・・・」

 和広は何も言わずに立ち上がると、さっさと公園から出て行ってしまった。


 時間になって、真弓は和広の家に行った。

 「いらっしゃい。真弓さん。和広は部屋だと思うわ。」

 「はい。お邪魔します。」

 真弓は和広の部屋のドアをノックした。

 返事はない。

 「いないのかな・・・。和広君?」

 真弓はドアを開けた。

 風が吹き抜ける。部屋の中に和広の姿はない。

 「窓、開いてるのかな。」

 和広の部屋からはベランダに行けるようになっている。

 真弓は風になびくカーテンをめくってみた。

 和広は、ベランダにいた。

 もっと正確に言えば、ベランダの手すりの向こう側に。

 「・・・和広君?・・・なに、してるの・・・?危ない、よ。」

 和広はめんどくさそうに真弓の方を見た。

 真弓がベランダに出ようとすると、鋭い声でピシャリと言い放たれた。

 「来るな。」

 真弓は電気に打たれたように、その場から動けなくなった。

 「・・・和広君、危ないよ?」

 二階とはいえ、この家は高台に建っているし、下はコンクリートだ。ここから落ちたら怪我ではすまないだろう。

 「目の前で人が死んだら後味悪いっすよね。知らなかったことにすればいいでしょ?」

 「・・・そういう問題じゃないよ・・・。」

 「じゃ、どういう問題?」

 「どうして・・・?どうして、死のうとしたりするの?」

 「あんたなんかには、絶対わからない。・・・俺、先生って人種が一番キライなの。」

 「・・・私、別に先生じゃないよ。」

 「あっそ。じゃあ聞くけど、あんたにわかる?親に異常だって目で見られる気持ちが。あんたにわかんの?」

 「え・・・・?」

 「俺さ、明後日病院に連れてかれんの。精神病院ってやつ。」

 「・・・どうして?」

 和広は肩をすくめた。

 「大人から見ると異常なんじゃない?何も話さない、学校にも行かない、一日中部屋にこもりっきりの俺って。」

 「・・・そんなことないよ。私、大人ってわけじゃないけど。」

 「そりゃ、この状況じゃそう言うしかないっすよね。下手に刺激して飛び降りられたら面倒だし?」

 「そんなんじゃないよ!・・・それはさ、家庭教師に来て、大変だなって思ったけど。だって、和広君何も言ってくれないから。でも、それと異常っていうのは違うと思う。何も話さないのは、誰も信じてないからでしょ?信じさせることもできない、周りの人間にも責任あると思う。」

 「・・・それって、本気で言ってる?もし、こんな状況じゃなくて、例えば、授業の時に俺が同じこと言っても、そう言ってくれた?」

 「当たり前でしょ。私の意見だもん。」

 「・・・・・・・・・・・」

 和広は、じっと真弓の目を見た。

 「和広君、お母さんに、私から話してみようか?わかってもらえるかわからないけど・・・。」

 「いいっすよ。別に。」

 和広は軽々と手すりを飛び越えて、手すりのこちら側に来た。

 真弓はほっと息をつく。

 「よかった。」

 「・・・目の前で飛び降りなかったから?」

 「バカ!!」

 真弓は思わず叫んでしまっていた。

 「・・・・・・・・・」

 和広が驚いたように真弓を見る。

 「・・・えっと・・・・・ごめんなさい。」

 「・・・入りましょう。寒いから。」

 和広が言って、二人は部屋の中に入った。

 真弓は何を言っていいかわからなくて、本棚に入っている辞書を見つめていた。

 「・・・勉強、しないの?」

 「え?ううん。」

 真弓は慌ててバッグからプリントを出す。

 「・・・いつも思ってたけど、このプリントって手書きだよね?あんたが書いてんの?」

 「そうだよ。」

 「ふうん。・・・・字、キレイっすね。」

 「・・・あ、ありがとう。」

 今日はなんだかチグハグな教え方をしてしまったけど、仕方ないと思う。

 家に帰って、真弓は、いつも重荷に感じていた家庭教師のバイトを、楽しみにさえ感じている自分に気がついた。


 次の日、和広の家に行くと、なんと門の前で和広が待っていた。

 「先生、遅いっすよ。」

 「え?まだ時間じゃないでしょ?」

 和広は真弓の腕時計を覗き込んだ。

 「止まってますよ?時計。」

 「あ、ほんとだ!!ごめんね、和広君。」

 和広は楽しそうに笑った。

 「いいっすよ。早く行きましょ!」

 そう言って、真弓の腕を引っ張って家の中に入る。

 「お邪魔します。」

 真弓の声に、和広の母親が出てくる。

 「いらっしゃい。和広は出かけて・・・・・・・・」

 言葉の続きが消えたのは、真弓の腕を引いて階段を駆け上がる和広を見たからだろう。

 部屋に入ってイスに座ると、和広はいろいろ話してくれた。

 小学校の時は、学級委員をしていたこと。

 クラスに、平気で他の生徒を傷つける生徒がいたこと。

 友達に泣きつかれて、先生にその事情を話したこと。

 名前を出さないように頼んだのに、名前を出され、その生徒に恨まれたこと。

 そして、クラス全体から外されるようになったこと・・・。

 そして、真弓のことも聞きたがった。

 「ね、先生。名前何ていうの?」

 「ひどいなあ。私、最初のとき自己紹介したよ?」

 「聞いてませんでした。興味なかったっす。」

 「もう・・・・。友池真弓。」

 「歳は?」

 「高校二年。」

 「へえ。同じぐらいかと思ってたっす。」

 「三つも違うよ!」

 「違うっす。」

 「え?」

 「三つも、じゃなくて、三つしか、ですよ。」

 和広はそう言って、にっと笑った。

 真弓は、思わず見とれてしまって、慌てて目をそらした。

 「ね、先生。彼氏いんの?」

 「余計なお世話!」

 「いないんだ。」

 「・・・・・・・」

 「図星。ね、俺がなってあげるよ。」

 「何言って・・・!」

 真弓は、そこまで言って固まった。

 和広が、どんどん近付いて来て・・・。

 真弓がやっと思考を取り戻したのは、和広の唇が離れた後だった。

 「・・・・・・!!」

 「高二のくせに、免疫ないんすね。」

 「バカ!!」

 和広は真っ赤になった真弓を見て笑う。

 「でも、逃げなかったってことは、期待しててもいいんでしょ?」

 「・・・・・・・・・」

 「俺さ、先生って人種は一番キライなんだ。一番好きなのはね・・・・」

 和広は真弓の耳元に口を寄せてささやいた。

 「友池真弓って人間。」

 真弓の頬がまた真っ赤に染まる。

 「先生、大好き☆」

 真弓は、和広のペースにすっかり流されていたが、自分の意思はしっかり持っている自信があった。

 この生意気な生徒のことを、もっとよく知りたい。

 誰も知らない和広を、もっと見たい。一番近いところから・・・。




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