PR
フリーページ
わが敬愛するキャプテン
この人の生き方には、本当に頭が下がる
紆余曲折の破天荒な人生
おいらの知る限りを書く
中学時代は、 サッカー部のキャプテン
しかし、希望する高校にサッカー部はない
そこで彼は、自分で作ることを考える
偶然にも近隣で強豪校の監督がいた
そこに頭を下げて、サッカー部を作る相談をする
その 監督から人脈を広げていく
どの様な人間をスカウトするかも相談したらしい
こうして仲間を作っていく
高校時代の話は、大体書いた
でも、彼の度量の広いのは、どんな事にも否定をしない
悪の連中も、うまく手玉に取る
おいらも、彼の家でビールを飲まされたけど
高校卒業したら 2 年間は会社員
そして、 2 年たったら会社を辞めた
2 年間で貯めた金で日本サッカー協会の コーチングスクール に入る
当時は検見川にコーチングスクールがあった
帰ってきたら、凄まじく働き始める
牛乳配達・新聞配達・一般会社のアルバイト
3 時を過ぎたらサッカー練習
そして 6 時からは居酒屋でアルバイト
夜の 11 時過ぎまで働く
こんな生活を 3 年間やる
そして、 今度はドイツのサッカースクールに行く
彼の凄い所は、
英語も満足にしゃべれない・ ドイツ語は全く喋れない
それでも、おいらに言った言葉
「サッカーは万国共通語 」
普通は考えられないのに 1 年以上滞在してる
ドイツから帰ってきたら、 居酒屋のアルバイト
なぜなら、昼間の職業はサッカーに差し支える
この信念は何だろう?
そして、狭いながらも居酒屋を始める
ここの客はサッカーを通じて知り合った人間ばかり
でも、だんだんと大きくなり 店は 4 軒 を持つようになる
そしてサッカー仲間から信頼を受けて、 国体チームのコーチ になる
しかし、商売では信用していた人間に 騙されて何千万の借金 を背負う
最終的に 1 軒の居酒屋を残して他は借金で清算
この苦しい時に、彼は結婚
まあよかったと思ったけど
そんな時に学校から監督要請が来た
母校の不振に頭を悩ませていた彼は即断する
ここから一気に高校サッカーの花が開く
しかし、 50 歳を前に決断する
「ヨーロッパのサッカーは教わった
でも、南米のサッカーは教わってない」
こうして、彼は再び ブラジルのサッカースクール に行く
ここでも、 ポルトガル語なんて喋れない
それでも行って勉強したい気持ちは本当にすごい
帰ってきてから、再び高校の監督へ
こうして彼の絶頂期を迎える
通算して全国大会出場は 30 回を超える
名実ともに名監督の地位に就く
しかし、ここでまた躓く
運転免許の更新で警察へ
青信号でゆっくり右折
すると、そこに老人が倒れてきた
結果は交通事故で老人も死亡
彼は監督を辞退して浪々の身となる
結局、学校は彼をサッカー部の寮の両町として再契約
更に、死亡した家族の了承を得て コーチとして復帰
まあ、紆余曲折も甚だしい
しかし、僕らは彼を絶対に見捨てなかった
それは、 今回の 50 周年記念で初代の仲間が 12 人集合
普通は、こんなに集まらない
全員が、このキャプテンが大好きなのだ
その一心なんだもん
コメント新着