元気力UP!

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2014年12月29日
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カテゴリ: 吾輩は猫である



欄干に倚って下を見ると満潮か干潮か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。
花川戸の方から人力車が一台馳けて来て橋の上を通りました。
その提灯の火を見送っていると、だんだん小くなって札幌ビールの処で消えました。
私はまた水を見る。
すると遥かの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞えるのです。
はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面をすかして見ましたが暗くて何にも分りません。
気のせいに違いない早々帰ろうと思って一足二足あるき出すと、また微かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。
私はまた立ち留って耳を立てて聞きました。
三度目に呼ばれた時には欄干に捕まっていながら膝頭ががくがく悸え出したのです。
その声は遠くの方か、川の底から出るようですが紛れもない○○子の声なんでしょう。
私は覚えず「はーい」と返事をしたのです。
その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。
人も犬も月も何にも見えません。
その時に私はこの「夜」の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたいと云う気がむらむらと起ったのです。
○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるように私の耳を刺し通したので、今度は「今直に行きます」と答えて欄干から半身を出して黒い水を眺めました。
どうも私を呼ぶ声が浪の下から無理に洩れて来るように思われましてね。
この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。
今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめているとまた憐れな声が糸のように浮いて来る。
ここだと思って力を込めて一反飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」
「とうとう飛び込んだのかい」と主人が眼をぱちつかせて問う。

「そこまで行こうとは思わなかった」と迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。

「飛び込んだ後は気が遠くなって、しばらくは夢中でした。
やがて眼がさめて見ると寒くはあるが、どこも濡れた所も何もない、水を飲んだような感じもしない。
たしかに飛び込んだはずだが実に不思議だ。
こりゃ変だと気が付いてそこいらを見渡すと驚きましたね。
水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋の真中へ飛び下りたので、その時は実に残念でした。
前と後ろの間違だけであの声の出る所へ行く事が出来なかったのです」寒月はにやにや笑いながら例のごとく羽織の紐を荷厄介にしている。

「ハハハハこれは面白い。
僕の経験と善く似ているところが奇だ。
やはりゼームス教授の材料になるね。
人間の感応と云う題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。
……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」と迷亭先生が追窮する。

「二三日前年始に行きましたら、門の内で下女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます」
 主人は最前から沈思の体であったが、この時ようやく口を開いて、「僕にもある」と負けぬ気を出す。

「あるって、何があるんだい」迷亭の眼中に主人などは無論ない。

「僕のも去年の暮の事だ」
「みんな去年の暮は暗合で妙ですな」と寒月が笑う。
欠けた前歯のうちに空也餅が着いている。

「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。

「いや日は違うようだ。
何でも二十日頃だよ。
細君が御歳暮の代りに摂津大掾を聞かしてくれろと云うから、連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら、細君が新聞を参考して鰻谷だと云うのさ。
鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。
翌日になると細君がまた新聞を持って来て今日は堀川だからいいでしょうと云う。
堀川は三味線もので賑やかなばかりで実がないからよそうと云うと、細君は不平な顔をして引き下がった。
その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、私は是非摂津の三十三間堂が聞きたい。
あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても宜いでしょうと手詰の談判をする。
御前がそんなに行きたいなら行っても宜ろしい、しかし一世一代と云うので大変な大入だから到底突懸けに行ったって這入れる気遣いはない。
元来ああ云う場所へ行くには茶屋と云うものが在ってそれと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、それを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない、残念だが今日はやめようと云うと、細君は凄い眼付をして、私は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが、大原のお母あさんも、鈴木の君代さんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、いくらあなたが教師だからって、そう手数のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。
それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。
晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。
なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ這入れないからですと鈴木の君代さんから教えられた通りを述べる。
それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、ええ駄目ですともと答える。
すると君不思議な事にはその時から急に悪寒がし出してね」
「奥さんがですか」と寒月が聞く。

「なに細君はぴんぴんしていらあね。
僕がさ。
何だか穴の明いた風船玉のように一度に萎縮する感じが起ると思うと、もう眼がぐらぐらして動けなくなった」
「急病だね」と迷亭が註釈を加える。




本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2025年03月19日 07時29分53秒
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