元気力UP!

元気力UP!

2014年12月29日
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カテゴリ: 吾輩は猫である


「ああ困った事になった。
細君が年に一度の願だから是非叶えてやりたい。
平生叱りつけたり、口を聞かなかったり、身上の苦労をさせたり、小供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水の労に酬いた事はない。
今日は幸い時間もある、嚢中には四五枚の堵物もある。
連れて行けば行かれる。
細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。
是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴脱へ降りる事も出来ない。
ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。
早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木医学士を迎いにやると生憎昨夜が当番でまだ大学から帰らない。
二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。
困ったなあ、今杏仁水でも飲めば四時前にはきっと癒るに極っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外れそうになって来る。
細君は恨めしい顔付をして、到底いらっしゃれませんかと聞く。
行くよ必ず行くよ。
四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。
早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では云ったようなものの胸中は無限の感慨である。
悪寒はますます劇しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。
もしや四時までに全快して約束を履行する事が出来なかったら、気の狭い女の事だから何をするかも知れない。
情けない仕儀になって来た。
どうしたら善かろう。
万一の事を考えると今の内に有為転変の理、生者必滅の道を説き聞かして、もしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、夫の妻に対する義務ではあるまいかと考え出した。
僕は速かに細君を書斎へ呼んだよ。
呼んで御前は女だけれども many a slip 'twixt the cup and the lip と云う西洋の諺くらいは心得ているだろうと聞くと、そんな横文字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから、宜しゅうございます、どうせ英語なんかは出来ないんですから、そんなに英語が御好きなら、なぜ耶蘇学校の卒業生かなんかをお貰いなさらなかったんです。
あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕なんで、僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。
君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。
全く妻を愛する至情から出たので、それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。
それにさっきからの悪寒と眩暈で少し脳が乱れていたところへもって来て、早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し急き込んだものだから、つい細君の英語を知らないと云う事を忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。
考えるとこれは僕が悪るい、全く手落ちであった。
この失敗で悪寒はますます強くなる。
眼はいよいよぐらぐらする。
妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌を脱いで御化粧をして、箪笥から着物を出して着換える。
もういつでも出掛けられますと云う風情で待ち構えている。
僕は気が気でない。
早く甘木君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。
四時にはもう一時間しかない。
「そろそろ出掛けましょうか」と妻君が書斎の開き戸を明けて顔を出す。
自分の妻を褒めるのはおかしいようであるが、僕はこの時ほど細君を美しいと思った事はなかった。
もろ肌を脱いで石鹸で磨き上げた皮膚がぴかついて黒縮緬の羽織と反映している。
その顔が石鹸と摂津大掾を聞こうと云う希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。
どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうと云う気になる。
それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生が来た。
うまい注文通りに行った。
が容体をはなすと、甘木先生は僕の舌を眺めて、手を握って、胸を敲いて背を撫でて、目縁を引っ繰り返して、頭蓋骨をさすって、しばらく考え込んでいる。
「どうも少し険呑のような気がしまして」と僕が云うと、先生は落ちついて、「いえ格別の事もございますまい」と云う。
「あのちょっとくらい外出致しても差支えはございますまいね」と細君が聞く。
「さよう」と先生はまた考え込む。
「御気分さえ御悪くなければ……」「気分は悪いですよ」と僕がいう。
「じゃともかくも頓服と水薬を上げますから」「へえどうか、何だかちと、危ないようになりそうですな」「いや決して御心配になるほどの事じゃございません、神経を御起しになるといけませんよ」と先生が帰る。
三時は三十分過ぎた。
下女を薬取りにやる。
細君の厳命で馳け出して行って、馳け出して返ってくる。
四時十五分前である。
四時にはまだ十五分ある。
すると四時十五分前頃から、今まで何とも無かったのに、急に嘔気を催おして来た。
細君は水薬を茶碗へ注いで僕の前へ置いてくれたから、茶碗を取り上げて飲もうとすると、胃の中からげーと云う者が吶喊して出てくる。
やむをえず茶碗を下へ置く。
細君は「早く御飲みになったら宜いでしょう」と逼る。
早く飲んで早く出掛けなくては義理が悪い。
思い切って飲んでしまおうとまた茶碗を唇へつけるとまたゲーが執念深く妨害をする。
飲もうとしては茶碗を置き、飲もうとしては茶碗を置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四時を打った。
さあ四時だ愚図愚図してはおられんと茶碗をまた取り上げると、不思議だねえ君、実に不思議とはこの事だろう、四時の音と共に吐き気がすっかり留まって水薬が何の苦なしに飲めたよ。
それから四時十分頃になると、甘木先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、背中がぞくぞくするのも、眼がぐらぐらするのも夢のように消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気がたちまち全快したのは嬉しかった」
「それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい」と迷亭が要領を得んと云う顔付をして聞く。

「行きたかったが四時を過ぎちゃ、這入れないと云う細君の意見なんだから仕方がない、やめにしたさ。
もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれたら僕の義理も立つし、妻も満足したろうに、わずか十五分の差でね、実に残念な事をした。
考え出すとあぶないところだったと今でも思うのさ」
 語り了った主人はようやく自分の義務をすましたような風をする。
これで両人に対して顔が立つと云う気かも知れん。

 寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と云う。

 迷亭はとぼけた顔をして「君のような親切な夫を持った妻君は実に仕合せだな」と独り言のようにいう。
障子の蔭でエヘンと云う細君の咳払いが聞える。

 吾輩はおとなしく三人の話しを順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。
人間というものは時間を潰すために強いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。
吾輩の主人の我儘で偏狭な事は前から承知していたが、平常は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。
その了解しかねる点に少しは恐しいと云う感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑したくなった。
かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。
負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだろう。
エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。
要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄し切っているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり慾気もある。
競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。
ただその言語動作が普通の半可通のごとく、文切り形の厭味を帯びてないのはいささかの取り得でもあろう。

 こう考えると急に三人の談話が面白くなくなったので、三毛子の様子でも見て来ようかと二絃琴の御師匠さんの庭口へ廻る。
門松注目飾りはすでに取り払われて正月も早や十日となったが、うららかな春日は一流れの雲も見えぬ深き空より四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の面も元日の曙光を受けた時より鮮かな活気を呈している。
椽側に座蒲団が一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのは御師匠さんは湯にでも行ったのか知らん。
御師匠さんは留守でも構わんが、三毛子は少しは宜い方か、それが気掛りである。
ひっそりして人の気合もしないから、泥足のまま椽側へ上って座蒲団の真中へ寝転ろんで見るといい心持ちだ。
ついうとうととして、三毛子の事も忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。

「御苦労だった。
出来たかえ」御師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。



本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2025年03月20日 08時46分15秒
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