GUINの匣

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本物ということ



専門分野の事から言えば、おそらく普通に過ごしている方々に比べて、「展覧会」に出掛けたり、「美術館」に行ったり、「画集」、「図録」の本を読んだり記事を読んだりする数も多いだろうと思う。インターネットでも様々な情報が手軽に手に入る。つまり、その世界にふれている時間は格段に長いと思っているわけだ。
しかしその中で、私が出会う事が出来た「本物」はどれだけあるのだろうか。

例を挙げれば、昨年スペインに行き、憧れていたプラド美術館をはじめ、名画の数々に出会う事が出来た。当たり前のように知っていると思っていた作品たちは、見事に私の狭かったイメージを裏切って行く。想像を超える迫力、色調や技術、品格、大きさ(作品の大きさではなく)を感じた。
大半は教科書や画集に出ていて、作家の名前の多くも当たり前のように知っていた。そこでの発見は歴史的なものや背景、名前の読み方が国によって違う事、PCのデスクトップにあるアイコンのようにしか作品を知らなかったのだ。作品の「本当」は何も知らないのだ。
実際に日本へ来て、美術館で見たものもある。自分が見た年齢によっても感じ方が違う。日本の美術館とヨーロッパの美術館では見せ方も、雰囲気もまるで違う。出会った数だけ違うのだ。匂い、場のざわめきの反響、建物の材質等によっても変わってくる。

実際にスペインで出会った作品の多くは、私が知り得ていた知識からのイメージをことごとく引っくり返してくれた。遠い記憶を呼び起こしてくれた作品もあった。やはり「本物」は素晴らしいそして美しい。

しかし、実物を前に出来ていればこんなに幸せな事はない。好みに関わらず、歴史上に作品を残した作家たち(現代も含めて)が、目の前の作品を作り出したのだ。作品の中に指紋を見つけたり筆のタッチや鑿後を追いながら人知れず興奮したりする。
実際の作品を前にすると、表面だけではなく作品を取り巻く色々なものをきっと感じさせてくれるだろう。

では、後は?
どれだけの「本物」と私たちは出会えているのだろうか?
もっと身近な物でいい。例えば野菜。
最後まで日射しを浴びて育った野菜は香りも味も格段に違う。「濃い」と思える(育ちが田舎なので)。
もう随分と昔、TVのワンシーンで小学生の高学年くらいの子供たちに目隠しをして、リンゴや大根などの野菜を食べ分けるというシーンがあった。詳しくは覚えていないが、同じくらいの大きさに切った生の「大根」を多くの子供たちが「リンゴ」と答えていた。
小学生は人生の経験も浅いので、生で「大根」を食べた事がないかもしれない。。。?

映画にしても私はついついTV放映で観てしまう。映画館の音響ならもっと素晴らしいに違いない。
コンサートもそうだ。オーディオ機器がいかによくても、機械を通して伝わる音と、実際に奏でた楽器が伝えてくる音はまったく違う。声楽のコンサートではもろにそれを感じた事がある。

人には人の数だけ様々な夢があり、夢に向かって目標に向かって、自分はこの道の「本物」と呼ばれる人間になるのだと思っている方もきっと多いに違いない。

わかりやすく人間関係に於いても、人づてでいろんな事を聞かされていた人物に、実際に出会ってみると全くもってイメージが違っていた!ということならしょっちゅうかも知れない。その後がよくも悪くも。。。
「本物」と言うのとは少しずれたかもしれないが。

すべてすべてがそうは行かない事はよく解っている。それに「本物」だけが全てでもないだろう。ただ自分が知り得た「知識」は「本物」に「=」ではないのだ。どれほどに知識が豊富でも知識だけですべてを判断してはいけない。振り回されてもいけない。自分が「どこまでを知っているのか」を見極めていなければと思う。

そして、残された人生の中で今後どれだけの「本物」に出会っていくことが出来るのだろうか。
最近少し胸が熱くなった事がらだった。










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