ハム翁徒然

ハム翁徒然

証し



私の心が苦しみ、
私の内なる思いが突き刺されたとき、
私は、愚かで、わきまえもなく
あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたと共にいました。
あなたは私の右の手を
しっかりつかまえられました
あなたは、私をさとして導き
後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう


この詩で あなた というのは神さまのことです。私はこの詩(歌がついています)をKGKのキャンプで知りました。自分のことだ…と思いながら聴き、そして、歌っていました。後になってから、これは詩篇73篇のことばをそのまま歌にしたものだと知りました(詩篇73:21-24)。この歌はあまりに私の心に印象的に焼きついたので、今でも、覚えています。

しかし私は絶えずあなたと共にいました。

この一文がいつも私を元気づけてくれます。
(そして、歌の中でも盛り上がるポイント)
毎日の忙しい生活の中に生きていて、よく自分を見失うような感覚に陥ります。自分の本当にしなければいけないこと、自分が本当に生きていなければいけない優先順位は何だろうと考えて、それは私の人生を私が生まれる前から知って、計画されている神さまに応答することだ、と思っても、まったくもって神さまを無視した生活をしている自分がいて、考えることと行動の矛盾に、苦しみます。誰でも、自分が愛しいと思う人につれなくされたら、悲しいと思います。私の神さまに対する態度は、そんなつれない態度とそう変わらないと思います。
けれど、神さまが人と違うのは、他でもない私のことを愛されるし、絶対に忘れないし、捨てないということで、このことを、神さまは聖書を通して教えて下さいます。

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。 (ヘブル13:5)

これも、聖書で神さまが私たちに約束されていることの一つです。
人間関係で、私は必要以上に悩んでいると感じます。すぐに人のことを信じることができなくなって、大抵のとき、私は「悲しい」と思っていることに気付きます。変わりやすい人の気持ち、崩れやすい信頼関係を思い、経験していくときに。同時に、そんなふうに人を信じることができない自分の弱さに。
神さまは、いつも変わらずに、私のそばにいて下さるだけでなく、その愛を私に与えて力として下さるお方です。神さまの愛というのは、具体的で、それは、愛するたったひとりの子であるイエスさまを、私のために死なせるほどの愛です。聖書に書かれているイエスさまの十字架のことを、ご存知の方も多いと思います。あれは、他でもない私自身の罪を、イエスさまの死を代価としてまったく清めて下さるためだったのだと受け入れたとき、私はイエスさまのことを主と信じ、罪を赦されたのでした。
長い間、罪ということが分かりませんでした。今でもまだ、完全には分かっていないと思います。けれど、最も重くのしかかってきた罪というのは、神さまのことを知りながら、応答しないことだと思いました。それは、神さまを悲しませることです。あるときこんなふうに祈ってみたらと勧められた祈りは、「神さまがもし本当にいらっしゃるなら信じることができますように」というもので、私は、こんなふうに祈って良いんだ、という驚きを印象深く覚えています。そしてそのときに、自分が、洗礼を受けようと決心をしたときに神さまから与えられた聖書のことばを思い出します。

私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 (第一ヨハネ4:10)

神さまの愛は、見返りを求めない愛だと思います。この「見返りを求めない」ということが、私にとっては実に驚異的なことなのです。自分は周りの友達に対してそうありたいと心から願っていますから、それが大変に難しいことであることを知っています。私がまったくゼロの状態であるときから、神さまが愛して下さり、人生の道に伴って下さることを、そしてどんな私であっても受け入れて下さるし、その愛は、神さまが愛するイエスさまを私の身代わりに十字架につけるほどであるということを、この第一ヨハネの箇所からはっきりと知ることができたのでした。

クリスチャンになった今のほうが、クリスチャンになる前よりもずっと、悩みます。けれど、神さまから一方的に愛を受け、その愛を、受け取りますと神さまに向かって応答した者として、神さまに喜ばれる生き方をしていきたいと願います。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいるものは神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。 (第一ヨハネ4:16)


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