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皆様お元気の事と存じます。「書~華文字にて」書&徒然~Amsterdamより発信お寄り頂ければ嬉しく存じます。お待ち致しております。最近の記事です。墨遊びと諺(了)「所変われば品変わる」2013-07-22 墨遊びと諺「待てば海路の日和あり」2013-07-21 墨遊びと諺「堪忍袋の緒が切れる」2013-07-20 墨遊びと諺「起きて半畳寝て一畳」2013-07-19 墨遊びと諺「人間 到る処 青山あり」2013-07-18 墨遊びと諺「彼方を立てれば此方が立たず」2013-07-17 墨遊びと諺「二階から目薬」2013-07-16 墨遊びと諺(ことわざ)「五十歩百歩」2013-07-16 アタイも、、まだ、、生きてる、、、でふよ~♪、、
2013.07.22
皆様お元気でせうか。私、新PCを手に入れご機嫌さ120%の日々でごじゃります。しかしながら一ヶ月以上、ブログの更新もしていなかったせいもあり、移動したブログ、益々閑散としておりますで、本日より愛犬インザも新ブログに登場させることと致しました。枯れ木も山の賑わいと申しますので、愛犬インザも新ブログの賑わいとしました新ブログは「書」を語り「人生」を語り「哲学」を語り、、、とお堅いところでいきたかったのですが、人間、ちょっとやそっとのことでは、性格も変わるはずもなく、私の「素地」も、新ブログに侵食を始めてきた次第でごじゃります。愛犬インザも老齢となり、椅子に飛び乗ろうとジャンプするも失敗を繰り返すようになりました。その姿は愛くるしくも、、ちと哀しいものが滲みます。ですので、こうなりゃトコトン、インザと共同体でブログを続けてみるか!と、「楽天気分」でブログを書こうと思っています。である調 (常体); だ調 (常体) と、随分と横柄そうで独りよがりな文体のままのブログではありますが、たまには、インザに会いに来ていただければ、私もインザも大喜びしますでは、「書~華文字にて」、何卒宜しくお願い致しまする。「華しゃん・・・勝手でふね・でも・アタイがいないと・・だめ・・でふ・・」
2012.05.19
楽天ブログの整理をしていましたら、こんなメーカーが出てきました。懐かしい~以前は【座右の銘】でした。今度は【生まれ変わり】です。で、早速やってみました。華文字の場合ガガンボって?しなやかって事?スマートってこと?↑ふぅ~~(無理があるか、、)で、気を取り直して、、続いて華文字の夫ただの、、ドイツ人って、、お次は愛犬インザサンマから、、えらい出世、、したでふ、、、 BYインザじゃぁブログ友達の〔 くー源氏 〕はどうでしょう、、シーラカンスから→→男前のペルー人って、どうよ~面白いものでござったよ。↓あなたの生まれ変わりをお教えしましょうあ、こちらのブログも宜しくお願いします!↓書 ~ 華文字にて
2012.02.07
昨日のブログで引越し準備のお知らせを致しましたら、コメント下さった楽天のブロ友の方々や、個人メールを下さった方々、ほぼ全員が楽天ブログ以外にブログをお持ちだったのですね、、私も、、もっと早くからやっていれば良かった、、、、ブログ大好きなのに、気がつかんかった、、、皆さん、偉いよ、ほんまに、えらい、、今月中に、何とか新ブログ、、始動させます、、ほな、また。
2012.02.02
楽天ブログさんには大変お世話になりました。当初、私のような初心者にとってはとても使いやすく、張り切ってブログを書いていたのを思い出します。私のブログの起点がこの楽天ブログでしたので、ここから知り合った大事なブログ友達がたくさんいますし、いろんなところに「書之時 華文字」楽天ブログを登録していることもあって、出来る事ならこのまま続けたかったのですが、機能面で、ブックマークや、メッセージ欄もやっぱり付いている方がいいなぁ~と思うようになり、この度引越しの準備を始めることになりました。次に投稿する記事から、しばらくは、新しいブログ先と楽天ブログと、両方同じ記事をアップしていこうと思っています。新しいブログ先の編集が落ち着きましたらここでご連絡致します。その時は、、たまには来て下さいね。今はとりあえず、楽天フォトの整理をしながら新機能もためしつつ、新ブログをいじりつつ遊んでいます。オランダ益々本格的な冬の寒さに突入です。皆様もお風邪など召されませぬようにご留意下さいませ。また、、みんなと、、会えると、、いいなぁ~、、でふ、、
2012.02.01
一時、生死の境目をさまよった同い年の友人は、毎年元旦に【遺書】を書いています。今年で10年目。遺書を書き直すこと10回目。「大したことは書いていないわよ~」と笑って応えてくれますが、内容は家族にも秘密だそうです、、、「遺書を書くたびに、私は、いきなおしているのよ」と、彼女は言います。それは、生き直しているという意味なのか、逝き直しなのか、はたまた、活き直しということなのか、、、今度日本に帰国した折は、是非その辺のところを彼女にうかがってみたいと思っています。さて、私の話。私が、20年前に癌の手術をした時に書いた【遺書】を、本日引き出しから取り出してみました。いかにも薄幸の美女?(どこが美人やねん!)気分を醸し出している感傷的な内容です、、とても言えない、見せられない、、↑あほ丸出し。。。ただ、、この【遺書】に別紙で付記したものに、・・・・・・・・もし、私が今後20年生き抜くことが出来たのなら、どのような状況にあっても、ありとあらゆるものに、ただ感謝の一語でもって、幸福を実感し、この【遺書】を破棄する事にしよう・・・・・・・・と、書いておりました、、、あれから20年、今も変わらぬ付き合いをしている、当時の職場の仲間たちや周囲の方々には一体どれほど励まされたことやら。また、お世話になったオランダの病院では、入院患者に至せり尽くせりの食事を提供してくれていましたが、私が「日本食」を食べたいだろうと気遣って、仕事を終えた後、毎日欠かさず、夕食用「弁当」を作ってお見舞いに来てくれた夫。その弁当を口にしながら、「もっともっと、夫に優しくし労わり、尽くしてあげればよかった、」と、妻として反省も、したものです、、↑薄命気分に浸っていた私、、なのに、、あっははは! わっははは!!病は、、思ってもみない事を、思わせましたなぁ~(注:私の事に限る、、)今じゃ、20年どころか「生きた化石」と言われるほど長生きしそうな私、、、あの時の殊勝な反省どこへやら、、月日に埋もれてしまったような~~♪~♪~~当時の手術後の抗がん剤治療予定表の一枚。【遺書】書いているときは、実に厳粛な気分になったものです。華しゃん、、あんな内容の、、遺書なら、、特に、、書く必要が、、ない、、でふ、、ええも~ん、、破棄するも~~ん、、↑ランキングに参加しています。いずれか一つにクリックしていただけると嬉しいです。
2012.01.25
皆様のご厚情に感謝すると共に皆様のご健康とご繁栄を心よりお祈り申し上げます二〇一二年 華文字新年おめでとうございます。昨年は激動の一年でした。本年はより一層、力強く逞しく生きていければいいなぁ~と、心より願い祈っております。今日、ユーロが一時98円台に突入致しました、、、時勢を賢明に注視していれば、『ユーロが一時98円台』如きの道理もわかる、っちゅうもんでしょうが、私としては正に「とうとうここまで来たか、、、、、」と、驚き桃の木 さんしょの木恐れいりやの きしぼじんな、お正月でごじゃりました。一月一日はワタクシめの誕生日、、とうとう40歳、、( ←正月早々嘘! )、、、、になりました。。。、しかしまた一つ歳を重ねたと言うのに、恐るべき程に内容のない私、、、こんなんでええんかい!新年早々驚きのテーマには事欠かない私です、、、皆様どうぞ本年も宜しくお願い申し上げます。復興と、、すこやかに暮せますよう、、お祈り申ち、、あげる、、でふ、、↑ランキングに参加しています。いずれか一つにクリックしていただけると嬉しいです。
2012.01.02
私、12月11日にて本年度の仕事は終了。明日から、、冬休み、、いえ、明日は大掃除、、かな?中途半端な気も致しますが、本日より、ブログ再開、、不定期で独り言ばかりのブログとなりま、、、す、、(今まで通りや~~ん)私、いろいろと考えさせられた、この9ヶ月でごじゃりました。その割には、、『下手(へた)の考え休むに似たり』というか、、『河童(かっぱ)の屁(へ)』と言っていいような、、考えあぐねていたにも関わらず、『闇夜の鉄砲(てっぽう)』のような、さほどの実を結ぶ事のない、本年の師走を迎えております。ここらへんが、、何ともいつもの私らしいところです、、チャンチャン♪ さて、今朝、久しぶりに?自分の顔を太陽の光の中で鏡に映して見てしまいました、、、オーマイガァッ!!!それはそれは、、まるで、、坂から転げ落ち三輪車にはねられた里芋のようで、見てはならないものを見てしまった感満載の心境でした。でも、、やはり、、私、元気です。愛犬インザも変わりなく元気です。再び宜しくお願いします。
2011.12.11
ブログ友達が教えてくれました。そのまま転載させていただきます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この度の 日本 東北関東大地震 についてこちらは宮城県の隣 山形ですが、大きな被害はほとんどありません。停電は一日ほどですみました。 今は 燃料不足や物不足があります。しかし、岩手、宮城、福島の沿岸部はとても悲惨な状況です。日本の情報として、山形県に設置している、災害ボランティアセンターの中心で情報収集や、支援活動の手配を担っている 市民活動グループの仲間が UPする ブログを お知らせいたしますので、ほぼ、現地に近い状況と、支援活動の様子が 少しおわかりになると思います。取り急ぎ、お知らせいたします。山形県災害ボランティア支援本部 ~ 東北関東大震災協働レポートhttp://pub.ne.jp/chiga/・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【地元住民の皆さんが、亡くなられた方を納棺するための棺桶を作っておられていた】この一行に思わず涙が溢れました、、、お忙しい中、山形から情報を有難うございました。
2011.03.21
前回ブログに記載しておりました、島田健弘(実名)のジャーナリストと自衛隊のやり取りは、削除致しました。冷静になって東日本大震災、津波、原発影響、を見ることが私はいまだ出来ていないのかもしれません。(もう少し、賢くなってもいい歳なのに、)発生から5日間、ガマンできずに記載した前回と前々回のブログ記事、伝えたい事や、尋ねたい事がいっぱいありますが、それは、今、この時には誰の為にも何の役にも立ちません、、「寄付、そして何をしたら、、」と、、この地にて、気持ちがのた打ち回っています、、、被災者の皆様、災害に全力を尽くしておられる関係者の皆様、、、、ひたすら静かに、祈っております。華文字でも、、本音は、、「静観なんか出来るわけないやろ!」です、、 ↑こんな女が一番役立たずで、人騒がせなのだ、、、
2011.03.16
(2011/03/16-05:16)時事ドットコムより転載「使命感持って行く」=電力会社社員、福島へ-定年前に自ら志願 福島第1原発の事故で、情報提供の遅れなど東京電力の対応に批判が集まる一方、最悪の事態を避けるため、危険を顧みず作業に当たる同社や協力会社の社員もいる。地方の電力会社に勤務する島根県の男性(59)は、定年を半年後に控えながら、志願して応援のため福島へ向かった。 会社員の娘(27)によると、男性は約40年にわたり原発の運転に従事し、9月に定年退職する予定だった。事故発生を受け、会社が募集した約20人の応援派遣に応じた。 男性は13日、「今の対応で原発の未来が変わる。使命感を持って行きたい」と家族に告げ、志願したことを明かした。話を聞いた娘は、家ではあまり話さず、頼りなく感じることもある父を誇りに思い、涙が出そうになったという。 東京電力側の受け入れ体制が整った15日朝、男性は自宅をたった。特別なことにしたくないと考えた娘は見送りはせず、普段通りに出勤した。「最初は行ってほしくなかったが、もし何かあっても、自分で決めたことなら悔いはないと思った」と話し、無事の帰宅を祈る。 男性の妻(58)は「彼は18歳の時からずっと原発の運転をしてきた。一番安全なものをやっているという自信があったんだと思う」と話す。出発を見送り、「現地の人に安心を与えるために、頑張ってきて」と声を掛けたという。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・原発問題の影響は深刻です。【原発がどんなものか知ってほしい】平井憲夫 1996年のものです。この証言(講演記録サイト)を是非お読み下さい。 ↑ クリック!クリック!
2011.03.16
心の免疫力 ~ 書とことばから 雲のように 水のように あっけらかんと自在に生きるヒントを求めて~私がしょっちゅうお邪魔している書家、沙於里さんのブログからご本人の快諾も得て画像をお借り抜粋した動画です。楽しくて響く書を「華文字WEB展示会」でご紹介致します。是非ご覧下さい。華文字WEBギャラリー ↑ ここをクリックすると入場できます。にほんブログ村
2010.10.16
暑中お見舞い申し上げます 2010年 熱い夏 (書・華文字は【水】)今年は暑い、いえ、、熱い、、オランダの夏の幕開けでした。日本、オランダ、各国のサッカーも熱戦ならば、我が家、来客の方々も熱闘でした。昨年より20代、30代、40代、そして今年の50代の方のオランダでの独立起業、、、アツアツの熱さです。かつての自分達も起業時期はこうだったかしら、、、と、現在の停滞期にも似た 安定期 に微妙な戸惑いも生じたりしています。 安定期?だなんて、、?! おっほほ、見栄?昨日はオランダ在住の親友達が陣中見舞いに家に遊びに来てくれ、ただ思いつくままの脈絡の無い話に笑い転げ、すっかりと上半期の私のストレスを拭い去ってくれました。 私にストレスだなんて、、?! おっほほ、これも見栄?さて、パソコン、、まだ不具合多々ありますが、何とか自分のパソコンでブログぐらいは出来そうになっています。(画像読み込みがちょっと面倒~)渾身の智恵を振り絞ってここまで直せたので、もう少しこのPCを使ってあげようかと思っています。仕事、オフィス作業は今後全て夫のPC任せです、、、皆様、暑い日が続きますが、どうぞお身体大切に充実の夏をお過ごし下さいませ。皆しゃん、、、こんな華しゃんでふが、、ひとつ宜しく、、お願い、、しまふでふ、、、ブログランキングも復活しました。一日一回クリックお願いします。 6月1日のブログにコメントを下さった皆様へ。大変遅くなりましたが、返しコメント致しました、、、見てね、今更ながら、、、ごめんね、、あひゃひゃ~~。
2010.07.14
こんな記事と映像を見てしまいました、、、、これは「Cat gives a cardiac massage to his injured girlfriend」というタイトルの動画だ。トルコのとある都市にある駐車場らしき場所にいる2匹の猫が映されている。そのうち1匹は路上にぐったりと倒れたまま動かない。何らかの事情で死んでしまったようだ。もう1匹の猫が、死んでしまった猫の上に乗っかり、前足で胸のあたりを一生懸命もんでいる。まるで心臓マッサージをしているみたいだ。その動作をしばらく続けると、今度は横たわっている猫の横にぴったりと寄り添うように寝そべった。その時にカメラに向かって見せた表情が何とも物悲しい。 恋人だったのか兄弟なのかそれとも親子なのかは分からないが、相手の死を受け入れられないのか胸をもんだり首元を噛んだりとそばを離れなかった猫だったが、しばらくするとついに観念したのかその場を離れ、見ていた人によって死体は引き上げられた。記事元(編集担当:柳川俊之)日本に住んでいる時は、事故に遭った猫たちを何回か見ましたが、オランダに住んでからはまだ一度もそんな風景に遭遇した事がありません。事故はやはり辛くて悲しいものです。
2010.05.05
週末なのでここで一息座右の銘を探ってみた。私は、やっぱり、いじましさが付きまとっています、、、で、夫は。あひゃひゃひゃひゃ~~あなたの汚いTシャツを捨てた私の罪を、、やっぱり憎んでいるのね、、でも私の事は、憎くない、、、←ほんまか?!華しゃん、、、アタイも、、するでふ、、、by インザさよか、、、、、インザ、、、アンタが一番、、我が家では哲学的だよ、、こうなりゃ、書仲間のどっかんままさんはどやろ。ヒューヒュー~~いいなぁ~~♪いいなぁ~~♪座右の銘メーカー遊び ←クリック!面白いものでござったよ。こんな内容では、ランキングクリックは出来ん!っちゅうお方もここは、ひとつ、、それを曲げて、応援宜しくお願いいたしますワ、、↓
2010.01.23
予想はしていたにもかかわらず衝撃的な選挙結果でした。新生日本の誕生ですね。民主主義の最終決着は多数決です。しかし多数決で決定したからと言って、少数意見を全く聞かなくなるとそれは「弾圧」となり、逆に、少数派が多数派の意見を切り捨てれば「独裁」になってしまいます。選挙結果を優先しつつも更なる日本の民主主義政治の成長に期待したいものです。政治の【治】という文字はサンズイですから「水」に関係があります。白川静氏の説によれば「治」は治水を意味し、ム(耜 すきの形)に祝祷を収める器(口の形)を加えたもので、水を治める呪術を意味するようです。昔は「治水」ということがとても大切でした。大河の氾濫を治めたり、命の糧となる田畑に水利が整えたり、うまく配分したりと、それが出来てこそ【政】=【まつりごと】もうまく治まるのでした。そこから「秩序を保つ」「乱れをなおし整える」「とりしきる・管理する」というような意味へとつながっていくのです。また【治】という字は「治める」から派生し「治る」「治す」という意味がありますね。病気や怪我を「治療」という事です。人間の身体体の大半は「水」であることから考えると、「治す」ということは「水を治める」という事に通じるのかもしれません。日本の政治もまた、【治し、治め、】つつ、水の流れがいい、風通しのよいものとなりますよう、期待し、願わずにはおれません。華しゃん、、明日からは、普通に、書を載せる、でふ、、、選挙動向に釘付けで、、お見せ出来るようなものは、書けませなんだ、、、
2009.08.31
鼻元思案 (はなもとじあん )目先だけの浅はかな考え。場当たり的な思いつきの事。 夫と一緒に買い物に出掛けた折に気が付いたのですが、どこで擦ったか、私の黒い靴の先端がちょっと剥げていました。私が「この靴ばかり履いているので剥げちゃった、、 マジックでも塗っておこうかな~黒マジックあったかなぁ~」と言うと、夫は「靴って大事だよ、【足元を見られる】なんていう言葉があるからね、 新しいのを買ってあげるよ」と言ってくれたのでした。で、翌日、、、、、、、新しい黒マジックが私の机の上にありました、、、、って、アンタ、、 買ったんは靴とちゃうんかい! 華しゃんは、、、その日に、、同じ、靴、、二足、、、買ったでふ、、夫よ、、黒マジックは、、アンタにゆずるよ、、、
2009.07.04
以前私の母のことをこのブログで書きました。 今日は義母のことを書いています。日本の朝が来るのを待って、北海道にいる義母へ電話をしました。受話器の向こうの義母の声は、いつもの明るい声でした。何年も前から毎月一度、手紙のやり取りをしている義母と私ですが、「お母さん、変わりはないですか、今日は母の日なので少しお母さんの声が聞きたくなりました」と言う私に、義母から、「誰の声を聞くよりも、おまえからの声が一番嬉しいよありがとう、ありがとう、嬉しいよ、、」と、やさしくて、あたたかな言葉の数々が私を包んでくれ、話し終えて受話器を置いた私はしばしの間、頭を下げたままでした。義母はやさしい、、、嫁姑のケンカも出来ないくらいに、お互い遠くで離れて暮らしているから、いつもやさしい、、、やさしくて、やさしくて、、申し訳なくて、、、何だか目頭が、熱いです、華しゃん、、そんなに申ち訳なく思うのでふたら、、義母しゃんの大事な息子(夫)しゃんを、、もっと大事に、、してあげる、、でふ、
2009.05.10
ナイーブとは、「飾りけがなく素直な様」「純粋で傷つきやすい様」「繊細」という意味で使われる和製英語。なお、英語本来のnaiveは「うぶ」「世間知らず」「お人よし」「無警戒」「ばか正直」を意味する。日本におけるナイーブの意味を表す英語本来の語はsensitiveである。 ナイーブは和製英語であるが、美術の素朴派として「ナイーブ・アート」という童心的な絵画を指して使う事もある。 Wikipedia(ウィキペディア)記事検索より抜粋「ナイーヴ・アート」(Naïve Art)。農民たちが西欧の美術教育・美術表現に関する教育を受けずに描きはじめた絵、と説明を受けました。それゆえの、その純粋で素朴な力強さや独創性が評価されるようになったそうです。「素朴派」とも言います。 ナイーブ美術館。 代表的な画家「イワン・ラブジン氏」の絵画。ラブジン氏の絵画(版画)は日本で、10万から30万~ほどで売買されているようですが、ザグレブの街の画廊では、4~8万円くらいの価格でした。(版画) 日本でも開催された展示のポスターが貼ってありました。日本人画家、原田泰治さんは、ある記述のなかで、このナイーブアートを描く画家の『心の生計をたてるために自分達は描くのだ』という言葉に感銘をうけられたそうですね。私がナイーブ・アート『絵』と出逢ったのは、今から13年前、夫がクロアチアから「ナイーブ絵画」をお土産にくれたのが始まりでした。その絵は何とも、、ホンワカした絵でした。無名の方の絵でしたが、それからクロアチアに行く度に、夫は同じ人の絵を持ち帰ってくれたのです。今回は私も探しましたが、何せ6年ぶりです。どこを訪ねても、、もう、、ありませんでした、、残念です、、、、イワン・ラブジン氏の画風とは、大分違うのですが、素朴画です。クロアチア、、少し田舎に行けば、普通に暮らす庶民が、心の有り様のままに描いている絵を見つけることが出来ます。自宅の玄関を、台所を、居間をギャラリーにしてね。いいですね~。描きたいから描く。胸の奥が、、ジンジンきます。『うまかったり、まずかったり、きれいだったり、きたなかったりする、 ということに対して、 絶対にうぬぼれたり、また恥じたりする事はない。 あるものが、ありのままに出るということ、 まして、それを自分の力で積極的に押し出して、表現しているならば、 それは決して恥ずかしい事ではないはずだ。』という、岡本太郎氏の言葉を思い起させた『ナイーブ・アート』でした。 華しゃんは、、書と、恥は、、毎日、かいて、、いまふ、、、 ザグレブ話、これにて完結。長く引きずってしまいましたが、クロアチアはいい国です。
2007.11.10
先生へ算数のテスト28点やった。おかあちゃんに見せたら「やっぱり おとうちゃんの子やなぁ」と ゆうた。けど 国語のテスト おとうちゃんに 見せたら「おまえは おかあちゃんの 血 ひいとんなぁ」て ゆうとった。国語のテスト32点やったからおかあちゃんのほうが ちょっと えらいんかな。おとうちゃんも おかあちゃんも ぼく 大好きやねん。おこらへんし 二人とも ぼくに 似てるねんで。先生 ぼくな 勉強きらいやねん。なんでかしらんけど 勉強きらいやねん。そやから先生ぼくに 夏休みはしっかり勉強しなさい なんか ゆわんといてください。藤澤 ○○___________________________昔昔?、、私が神戸の進学塾で、アルバイトをしていた時。塾の方針で夏休み前に、「私の好きな勉強」というテーマで書いてもらった、当時の教え子の一人、藤澤 ○之君の作文です。可愛い子供で、家も近所だったので、私は、塾を辞めた後も、一年ほど彼の家庭教師をしていました。ご両親の血をひいたのか、それとも彼自身の努力によるものか、その後、国立の大学を卒業。今現在は家業を継ぎ、立派な二児の父親です。いつか、この手紙を直接、彼の子供達に、手渡せたらいいなぁ、と密かに、その日が来るのを、私は狙っているのです、、うふ、皆さんの小学校時代、、勉強具合はいかがでしたか、私はね、、、あ!あぁぁぁ~~あへッ?、、、っていう、、具合、でした、今年の夏休み、あなたにとって、何か宿題は、ありますか、、、 中庭月夜に照らされ、ちょっと昔を懐かしみながら、私は机周りの整理整頓を楽しんでいます。 キ!キビシイ~、、、華しゃん、、の、通信簿、、、
2007.07.31
私は、普段オランダ人と、「dag」ダァーとか(さようならやこんにちは、挨拶にはこれ一語で済ますことが出来ます) 「tot ziens」トット ズィーンズ(またね・さようなら) と挨拶していますが、昨日、ジムの帰り際に年配のオランダ婦人から「さようなら」と日本語で、とても丁寧に言われました。少し驚きましたが「さようなら」と日本語でお返しです。オランダ人からの「さようなら」の言葉は、とても美しく響きました。 「さようなら、、」は別れを告げる挨拶で、「左様(さよう)ならば、、、」の省略ですが、「そのような事情ですので、お暇します」。「まぁ、そう言う事ですから、お互いの道を別々にいきましょう、」等の意味を含むそうです。日本語は余韻を残す言葉が多く、「さようなら」もその典型と言えますね。「Good by」なら「神様が共にいてくださいますように」「神の御許へ」ですから、同じ別れの挨拶でも、言葉の意味は異なるものです。日本語って、ほんとに美しいと思います。外国に住んでいると、余計にそう思うのでしょうか。さて、話は少しそれますが、下記の歌詞を友人より教えてもらいました。これを見て、昔、私が塾の講師を辞める時に、「せんせ、、もう来やらへんのんか、、」「さいなら、、さいなら、、」と、たくさんの「さようなら」を言って子供達と別れた、最後の日を思い出しました。「せんせ ほんまに ほんま」 作詞 古市 カオル 作曲 古市哲太郎1 ほんまにほんま うそやろ せんせ 校長せんせーが 朝礼で言わはった みちこせんせい やめはるて 学校やめて お嫁さんになるて ほんまにほんま うそやろ せんせ 笑っとらんと 何ぞゆうてえな せんせー 2 ほんまにほんま うそやな せんせ いつもせんせ 教室でゆうやんか クラスのみんなが ほんすきや そやから いつまでもいっしょ ほんまにほんま うそやな せんせ 黙っとらんと 何ぞゆうてえな せんせー 3 ほんまにほんま やめとき せんせ 結婚なんか しょうもないものやんか うちのかあちゃん ゆうとったで 苦労ばっかり なんもええことあらへん ほんまにほんま やめとき せんせ 困っとらんと 何ぞゆうてえな せんせー 4 ほんまにほんま あかんよ せんせ キャンプファイヤーに 学芸会運動会 ぎょうさん いっしょにしたやんか センセやめたら もう宿題やらへん ほんまにほんま あかんよ せんせ うつむいとらんと 何ぞゆうてえな せんせー アッ せんせ 泣いてはる 当ブログへの人気投票(1日1回有効)です。GOOD!なら ポチッ!
2006.11.12
生きている ココが 僕の いる場所 6月25日付け 寝言堂さんのブログに、そう一行詩が書かれているのを見て、思い出したことがありました。ここからは追憶です。六年前、中南米から二人の日本人青年が我が家にやって来た。とても清々しい青年達だった。話を聞けば中南米でサッカーの選手だったと言う。そして、その契約も切れたので、今度は、ヨーロッパでサッカーがしたい、と言った。オランダはちょうどテストも終わった後だったし、彼らの戦績では、無理だと分かった。夫は親友のブラニミールに連絡をとり、彼らの事を頼んでみた。夫がいろんな話し合いを進めている中、私達が経営していたところで一生懸命働いてくれた。彼らは、本当によく働いてくれた。仕事を終えると、家の中庭で夜が更けるまで二人で練習していた。我が家に泊まり、毎日私達の仕事を手伝っていたので、朝、昼、夜と彼らと私達はずっと一緒だった。彼らは、オランダ観光なんてしなかった。ただ、不安と、希望の中を必死で生きている、そんな感じだった。彼らは夜中もあまり寝れずにいたらしい。読書をしたり、話をしたりだったが、コネもなくお金もなく、明日の見えない日々が不安だったに違いない。しばらくして、プロテストを受ける話だけ、友人がつけてくれたようで、彼らは揃って中欧に向かった。彼らは、何度も何度も頭を下げ、「頑張ります!」と言い、オランダを発った。そこにもう一人の日本人青年も加わった。程なくして、三人からプロ試験も受かったと知らせが届いた。ところが、ここからだった、彼らが本当に苦労したのは。1.言葉の問題2.給料の未払い3.怪我、4.監督、チームメイトとの関係契約の不履行、住居の事など問題は次から次へと彼らを苦しめた。当初、夫はそんな彼らの所へ日本食を持参して激励に彼らの元によく行っていた。親友のブランミールも彼らを、温かく見守ってくれていた。それから一年が過ぎた頃に私も夫と共に、やはり日本食を一杯抱えて、一番遠いチームに移籍した青年の場所に駆けつけた。本当に遠い田舎町で、誰一人東洋人に会うことはなかった。彼の部屋に入って驚いた。入り口、トイレ、ベット横、低い天井、壁、窓、、、に、びっしりと「単語」が、書かれて貼り付けてあった。彼は言った「ここで生きるという事は、言葉を覚えるということです。「今、生きているここが、今の僕の場所です」と。その言葉は鮮烈であった。ここに至るまでの最初の彼らの次々届く手紙には、こんな東欧の言葉なんか覚えても仕方ないのでは、、、ここにいて、裏切られてばかりいる、、と、辛い思いのものが少なくなかった。だから私はこの青年達が、「帰りたい、、日本に帰りたい、、、」と、どんなに思って来ただろうか、、、それでも「今帰ってどうする」と、葛藤しながら、ここまで辿り着いたのだろうと察すると、ただただ、胸が熱くなった。激励されたのは、私の方だった。彼らはこの国の今いる地域に溶け込むためにずっと、何ヶ月も近くの公園、道路を掃除していたという。最初は、面白がって石を投げる子もいたらしいが、チームを移籍しその場所を離れる頃は、すっかり地域の人とも話せるようになったと言っていた。それからの活躍ぶりは、その国の新聞掲載と伴に届けてくれた。ラジオ番組にも出たそうである。夫と私はわが事のようにその度に喜んだ。彼らは、言葉も、今、そこにいる場所で生きる事も捨てなかった。その後彼らは日本からサッカー関係で来てくれないかという、話があるが、どうしたらいいかと言ってきた。夫は「逃げないでよく頑張ってきたじゃないか、頑張ってきたからこそ、話もあったんだろう、自分で決めればいいよ」と言った。それから六年後の今、その青年達の二人は、ある一部リーグのジュニアチームのコーチを。そして残る一人は、オシム監督の通訳をしている。今日、私は、夫とあのクロアチア人のブラニミールが、電話でこのことを、喜びながら話しているのを耳にした。 記 事{千葉でオシム監督の通訳を務める間瀬秀一氏(32)が、オシムジャパンが誕生した場合“入閣”する可能性が出てきた。 オシム監督はドイツ語、英語も話せるが、千葉入団時に「自分の意図することを正確に伝えたい」とクロアチア語での通訳を希望。そこで契約したのが間瀬氏だ。 間瀬氏は日体大サッカー部出身。卒業後は米国、メキシコなどで、00年からは3年間クロアチアでプロとしてプレー。02年に引退後、ザグレブ大学でクロアチア語を習得。関西空港税関、クロアチアサッカー協会通訳などを経て03年にオシム監督の通訳になった。 オシム監督からは「メモを取るな。耳でしっかり聞いて伝えろ」と怒られ、耳で聞いた言葉をそのまま、分かりやすく訳すことを心がけた。そこから生まれるのが「オシム語録」だ。繊細な監督だけに日本代表でも慣れ親しんだ通訳を求めるはず。“相棒”を務められるのは間瀬氏だけだ。} [ 2006年6月26日6時13分 ] インフォシーク
2006.06.27
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