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マスコミの戦争責任の罪深さに驚愕する! あなたたちは本当に(反省)しているのか? 「菊タブー」は、今も健在で(洗脳)は続けられている!! 2024-9-25 はんぺん戦争が始まるずっと以前から国民を煽り続けたメディアの責任が、気になっていた。本当に、彼らは、自分たちの(戦争責任)と向き合えているのか? (戦争反対)は、叫べど、戦争の最大の犯罪者=ヒロヒト(裕仁)は、特等席で、特別扱い・・・戦争犯罪を糾弾される事無く、彼はのうのうと生涯を全うした。 多くの国民の被った、むごたらしい惨状とは、あまりにも、違いすぎる・・・ここに(正義)は、あるのか? 歴史を過去から学ぶということは、戦争責任に、きっちりと向き合い、ケジメを付ける事だったが、マスコミは、忖度を積み重ね、同じ(過ち)を繰り返し続けている・・・・ 長いモノに巻かれろ・・・というわけだ。そのバックにあるものは何か?戦後マスコミでは、何度か、戦争責任の問題を取り上げようとした試みはあったが、軍部の強硬派に対する批判・反省だけは見られたが、戦犯ヒロヒト(裕仁)の戦争責任まで、至ることは、無かったのだ・・・・ 当時、軍部に迎合した・・・ある時は、軍部意向の先を忖度して、挑発的な報道を競い合った、醜い過去を我々は、知っている。 戦後マスコミは、本当に、戦争責任を自覚し、自己批判したのだろうか? 前から疑問に思っていた。 戦後の彼らは、一貫して、国体護持(天皇制存続)で、「菊タブー」を固守してきたのではないか?朝日・読売・毎日・産経・日経・東京・・・などの商業新聞は、右並びに(天皇制批判)を避け続けてきたことを 我々は知っている。 日本国憲法の最大の欠陥は、第1章「天皇」である。これは、GHQのマッカーサーが、日本占領政策で、天皇制を利用しようとした結果の産物だ。 (洗脳)されきった日本国民を懐柔し、抵抗を削ぐための、巧妙な(仕掛け)だったと思う。そもそも 君主制度は、共和制のアメリカ民主主義とは、相反するハズだった。アメリカ民主主義のプラグマティズムが、如何なく発揮された。 戦後マスコミは、リベラルポーズを取りながら、天皇制やヒロヒト(裕仁)の戦争責任に対する報道をスルーすることで、(国民洗脳)を開始した。 何という事だろう・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか 神立 尚紀カメラマン・ノンフィクション作家 2023-6-23 現代ビジネス太平洋戦争末期の昭和20年3月23日、南西諸島が敵機動部隊の空襲を受け、26日には米軍の一部が慶良間諸島に上陸。そして4月1日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。あれから78年――。 テレビもインターネットもない時代、人々が戦況を知る手段は新聞とラジオだけである。ラジオのほうの音源はほとんど残っていないが、幸い、新聞は各社のものが縮刷版などとして、現代でも国立国会図書館などで読むことができる。絶望的な戦況のなか、新聞は沖縄戦をどう伝えたのだろうか。情報量が総じて他紙と比較し多かった朝日新聞の紙面を中心に振り返る。(当時の新聞記事は新仮名、新字体に直して表記する) 始まった沖縄戦「竹槍なくば唐手で」沖縄戦が始まるはるか以前から、新聞紙面の多くは戦況の記事で占められていた。朝日新聞の名物コラム「天声人語」も、昭和15(1940)年9月、「有題無題」と改題されたのに続き、昭和18(1943)年1月から20(1945)年9月までは「神風賦」に変わっている。昭和20年には用紙不足のため、新聞は1枚2面だけの簡単なつくりになり、娯楽、文化記事や広告の多くも掲載されなくなって、ほとんど戦争一色の紙面になった。沖縄戦が始まるよりも前から日本本土への空襲がはじまり、また日本の沖合いを遊弋(ゆうよく)する米艦隊への体当り攻撃(特攻)も繰り返され、紙面にはほぼ毎日、その種の記事が掲載されている。新聞だから、掲載されている記事は、前日以前の出来事についてのものである。 昭和20年3月19日の朝日新聞2面には、〈国民学校(初等)を除き 全国授業を停止 向こう一ヶ年 増産へ、防衛へ、〉の見出しで「学徒総動員」の記事が掲載された。また3月22日には、〈硫黄島遂に敵手へ 最高指揮官陣頭に 壮烈・全員総攻撃 敵の損害三万三千〉との見出しで、硫黄島失陥が、最高指揮官栗林忠道中将の最後の無電とともに報じられている。 3月28日、〈敵機動部隊の一部 慶良間列島(沖縄)上陸〉〈沖縄本島を砲爆撃 敵、更に本格的上陸を狙う〉との記事が一面トップに掲載された。いよいよ連合軍による沖縄侵攻が本格的に開始されたのだ。 29日の一面には、〈満十七、八歳召集 召集規則改正公布 区域制限を撤廃〉として、日本全国の徴兵検査未済の満17歳、18歳の少年が、防衛召集、臨戦召集の対象になったとの記事が掲載された。同日の二面には、中央省庁との打ち合わせのため上京した、沖縄県内政部庶務課長への取材記事が掲載されたが、そのタイトルは 〈合言葉は一人十殺 竹槍なくば唐手(からて)で 老幼も起つ沖縄県民〉とあり、内容も〈住居を焼かれたって、家財を失ったって、最後に勝てばいいではないか〉〈鉄砲がなければ竹槍で行こう、竹槍が折れたら唐手(空手)でいこう――この決意だ〉と. その意気はよしとしても、米軍の近代兵器を相手に竹槍や空手で戦えるとほんとうに思っていたのか、いま見れば正気の沙汰ではないような言葉が並ぶ。 また、〈街に村に義勇隊〉と題する記事には、千葉県下の飛行機会社では男は竹槍、女は薙刀の訓練に励み、伊豆下田では町長を隊長とする義勇突撃隊が、静岡県では日露戦争で戦った在郷軍人の老兵を中心に「上澤護国隊」がそれぞれ結成され、八王子では「多摩神武隊」と称する隊が結成、武道の有段者を集めて町道場で練武を始めたなど、幕末にタイムスリップしたかのような内容が記されている。大本営発表以上に戦意旺盛だった社説 そして3月31日、一面トップに〈沖縄本島に船団近接 艦砲射撃、逐日激化す〉と、沖縄本島への敵上陸が近いことをうかがわせる見出しに続き、「リスボン二十九日発同盟」として、〈英の主力艦も参加 敵側発表〉と、沖縄攻略戦にはイギリス海軍も参加しているという外電記事が掲載された。 世界中を敵に回したといっても過言ではなかったこの時期、海外からのニュースは、中立を宣言していたポルトガル・リスボン経由で同盟通信が新聞各社に配信した記事が主で、一部はスウェーデン・ストックホルムやスイス・チューリッヒからの特電、さらにグアム島の敵信傍受から入手したニュースなどに依っていた。 4月1日、沖縄本島に米軍が来襲。日本軍は、18万2千名の米上陸部隊にほとんど無傷のまま上陸を許した。米軍はその日のうちに沖縄の2ヵ所の飛行場を占領し、早くも4月3日には小型機の離着陸を始めている。米軍の上陸を、翌4月2日の新聞は、〈沖縄本島に敵上陸〉と、大見出しで報じた。 この日以降、毎日のように沖縄の地図入りで現地の戦況を伝える記事が掲載されるが、「大本営発表」の誇大な「戦果」(この日の見出しでは「更に十五隻撃沈破」)の部分をのぞけば、比較的正確に状況を伝えているようにも思える。「大本営発表」以上に戦意旺盛に見えるのが「社説」で、この日の社説では、〈周到、冷静にしてしかも果敢なる統帥、用兵をもってせば、再び水際に追い落とすことすら期待し得るであろう。いまこそ、この一戦に総てを集中すべきである〉……などと書かれている。 以下、主な見出しを列挙してみよう。4月3日(一面)〈沖縄本島に上陸の敵、兵力を増強中 撃沈破更に四十一隻〉〈本土侵攻の足場 沖縄に犇(ひしめ)く敵の戦略〉4月4日(一面)〈沖縄本島の守備部隊 果敢な邀撃戦展開 荒鷲、空母等三十一隻屠る〉〈敵、両飛行場押う〉4月5日(一面)〈敵、北谷南方に進出〉〈島袋、泡瀬の線に侵寇〉そして4月6日。前日に小磯内閣が総辞職し、鈴木貫太郎海軍大将に組閣の大命(天皇による任命)がくだったニュースが一面トップになる。鈴木総理は二面のインタビューで「この戦い必ず勝つ」「私はただ戦争あるのみ」などと激越な談話を寄せているが、これは国内の主戦派に対するいわば目くらましであり、鈴木は総理就任を引き受けたときから自分の内閣で戦争の幕を引く覚悟であったと、かつての海軍関係者、たとえば二・二六事件で鈴木貫太郎とともに叛乱軍に命を狙われた岡田啓介元総理の次男・岡田貞寛などは私に語っている。現実にいま、目の前で戦われている戦闘に気を配りながら和平を模索するというのは容易ではなく、誰にでもできることではなかったのだ。 報じられた沖縄上陸4月6日には、沖縄方面の連合軍艦船に対する航空総攻撃「菊水一号作戦」が行われ、7日には沖縄へ向かう途中の戦艦「大和」以下、巡洋艦、駆逐艦が撃沈された。そのことが新聞に報じられたのは4月9日のことである。 〈沖縄周辺の敵中へ突撃 戦艦始め空水全軍特攻隊〉〈空母等十五隻撃沈 撃破十九隻 わが方も五艦沈没〉といった見出しが並ぶ。4月8日17時の大本営発表をもとに書かれた記事だが、過大な戦果はさておき、〈戦艦はじめ空水全軍特攻隊〉の小見出しと、〈我方の損害 沈没 戦艦一隻 巡洋艦一隻 駆逐艦三隻〉と記されているのが目を引く。 じっさいに「大和」とともに沈んだのは、軽巡洋艦「矢矧」と、駆逐艦は「磯風」「濱風」「朝霜」「霞」の計4隻だから、大本営発表は駆逐艦1隻分、損失が過少になっているが、海軍はここで「戦艦一隻」の喪失を認めているのだ。 昭和20年4月9日。「我方の損害 沈没 戦艦一隻」とは、7日に米軍機に撃沈された「大和」である「大和」の存在は秘密とされ、記事にも艦名は書かれていないが、これは、海軍の関係者が見れば「大和」のことだというのが一目瞭然だった。 というのは、日本海軍の戦艦のうち、「武蔵」「陸奥」「扶桑」「山城」「金剛」「比叡」「霧島」の7隻はすでに沈み、かろうじて浮かんでいた残りの戦艦も、「長門」と「榛名」は2月20日付で警備艦に格下げされ、「伊勢」「日向」も3月1日付で呉鎮守府の予備艦(浮き砲台)に指定されていて、艦隊の戦力として残存するのは「大和」ただ1隻だったからである。 NHKで時代考証を担当するシニアディレクター・大森洋平氏によると、佐世保鎮守府で勤務していた父・大森幸男少尉(故人)が無線で一報を受けたとき、「『沈没 戦艦一』って、『大和』しかないじゃないか、『大和』がやられたのか、と、目の前が真っ暗になった」という話をしばしば聞かされたという。同じ4月9日の二面には、〈「神雷」の鉢巻の威力 額で叩割る空母 神風特攻隊沖縄へ発進〉と、やはり現代の目から見れば「鉢巻で戦うのか?」と疑問符がつくような見出しが躍っている。この見出しに続く記事には、「長官〇〇中将」(おそらく第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将)による、〈大激戦に選ばれ特攻隊として敵に突っ込むは諸子の本懐であろう、戦争は腕でやるものではない、十分腹に力を入れ落ち着いてやれ、楽しんでやるのだ。〉との訓示が記されているが、「楽しんでやるのだ」と聞かされた二十歳前後の若い隊員たちはどう感じただろうか。 4月10日の一面には、〈沖縄の敵反復来攻 三千六百名を殺傷〉との記事が載っている。この面にはまた、日本側索敵機が撮影した、海面を埋め尽くすかのような敵上陸部隊の写真が、5段抜き1枚、3段抜き1枚という異例の大きさで掲載された。4月6日の「菊水一号作戦」で、敵戦闘機と戦い、特攻隊の前路を切り拓く任務で鹿児島県の笠之原基地を出撃した第三五二海軍航空隊の植松眞衛大尉は、生前、私に次のように語っている。 昭和20年4月10日の一面には、日本の索敵機が撮影した沖縄の米上陸部隊の写真が大きく掲載された。 「雲の多い日でした。一面の雲海の上を高度5000メートルで飛び、沖縄上空に到達すると、中城湾に、海面を埋め尽くすほど多数の敵艦艇がひしめいているのが見えた。それまでに見たことも想像したこともないほどの数です。私は零戦12機を率いて30分間、上空警戒にあたりましたが、その間にも特攻機が敵艦に突入したと思われる黒煙が、幾筋も立ち上るのが望見されました。しかし、どう見ても味方の飛行機よりも敵艦艇のほうがはるかに多い。たとえ特攻機が全機命中しても、敵にかすり傷程度しか与えられまい、そんなことをふと考えました」 ――植松大尉が空から見て感じたように、この写真で先行きに悲観的な感想を持った読者も多かったのではないだろうか。 特攻隊を大特集4月14日には、ルーズヴェルト米大統領が12日に急死したとのニュースが、リスボン発でもたらされた。新聞には、〈戦争挑発の張本人〉とのルーズヴェルト評のほかにも、〈新大統領にトルーマン昇格〉〈米の戦意変らず〉などの記事が載っているが、じっさい、ルーズヴェルト大統領の死によって戦況が変わることはなく、それどころか後任のトルーマン大統領が日本への原爆投下を決断することになる。 昭和20年4月14日、アメリカのルーズヴェルト大統領死去が報じられた以後も沖縄の戦況については連日、報道されているが、内地への空襲が激しくなると、割かれる紙面は相対的に、4月上旬ほどには大きくなくなる。 5月に入るとイタリアのムッソリーニ元首相が殺害され、ドイツが降伏したとのニュースが入る。5月17日の一面では、〈首里北方で大激戦〉〈那覇近郊に侵入〉〈敵出血四万七千 上陸軍の半数屠る〉の見出しとともに、〈戦局楽観許さず 沖縄に敵の攻勢急調〉と、ここ数日で敵の攻勢がいよいよ激しくなったことが記されている。九州、台湾の基地を飛び立った特攻隊の戦果は連日のように報じられ、5月27、28日には米軍の制圧下にある沖縄の飛行場に強行着陸し、敵機や飛行場施設を破壊する陸軍の「義烈空挺隊」のニュースが掲載されたりもしたが、沖縄の戦況は不利になる一方だった。 〈ロケット機に乘って 敵艦船群へ体当り 本土南方沖縄周辺 神鷲三百三十二勇士〉と4段の大見出しのもと、一面の半分以上を割いて、特攻兵器「桜花」の初出撃の模様と、4月14日の第四次桜花出撃までの特攻戦死者332名の氏名が掲載された。「桜花」は、頭部に1.2トンの爆弾を搭載し、母機の一式陸上攻撃機で敵艦隊近くまで運ばれて、切り離されれば搭乗員の操縦で敵艦に体当りする、まさに人間爆弾だった。 5月30日、毎日新聞は二面の12段を費やし、「桜花」の3本の記事で大特集を組んだ。そのなかに、4月12日、米駆逐艦「マナート・L・エーブル」に命中、撃沈したとみられる土肥三郎中尉の発進の模様を、生還した母機の三浦北太郎少尉が語る記事が掲載されている。「マナート・L・エーブル」の艦体が、沖縄本島から北に140キロ、水深1380メートルの海底で発見されたニュース(2023年6月8日讀賣新聞オンラインほか)は記憶に新しい。 沖縄戦最終局面の混乱6月4日、〈那覇、首里に敵侵入〉、いよいよ沖縄戦も最終局面を迎える。この日の紙面で目を引くのは、二面下段に、日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)によるベートーヴェンのコンサートが日比谷公会堂で6月6日から5回にわたって行われ、前売り中という広告が掲載されていることだ。指揮者は尾高尚忠、現在も指揮者として活躍している尾高忠明氏の父である。プログラムは交響曲「第九」で締めくくられてられているが、3月10日、5月25日をはじめ、たび重なる空襲で焦土と化した東京で、観客はどのような思いで「歓喜の歌」を聴いたのだろうか。 6月12日の一面トップは、〈我、戦線を整理敢闘 小禄、島尻地区に勇戦〉の大見出しで、〈沖縄本島南部地区の我部隊は其の後敵に打撃を与えつつ逐次小禄及南部島尻地区に戦線を整理し優勢なる敵に対し引き続き勇戦奮闘中なり〉との大本営発表が記されている。「戦線を整理敢闘」とは聞こえはいいが、要するに島の南部に追い詰められたのである。 そんななか、当時の日本としては米軍に「一矢を報いた」記事が、6月20日に掲載される。〈沖縄の敵司令官戦死 アッツの宿敵 中将バックナー〉で、グアム島放送局によると、沖縄方面の連合軍最高指揮官である米第十軍司令官バックナー中将は、18日13時15分、日本側の砲弾により即死したとある。「アッツの宿敵」というのは、1943年、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が、バックナーの指揮下にある第七師団の上陸により玉砕(全滅)したことを日本側も把握していたからだ。 だが、6月22日を境に、沖縄からの報告が途絶える。6月24日には〈新垣、摩文仁中心に 拠点を確保激闘 沖縄本島 皇軍血闘続く〉、25日には〈沖縄に輝く牛島部隊の偉功〉として、沖縄の第三十二軍司令官・牛島満陸軍中将とその部隊に感状が授与されたとの記事が一面を飾っているが、じっさいには6月23日未明、牛島中将は参謀長・長勇中将らとともに自決していた。 現在、この日は日本軍の組織的な戦闘が集結した日として、沖縄県が制定した「慰霊の日」とされている。海軍の最高指揮官・大田實少将は、6月6日、多田武雄海軍次官に宛て、「沖縄県民斯く戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」との電文を打電し、6月13日、米軍に包囲され孤立した豊見城の壕内ですでに自決している。国民を煽り続けたメディアの責任6月26日の一面トップは、〈沖縄 陸上の主力戦最終段階 軍官民一体の善戦敢闘三箇月〉〈二十日敵主力に対し 全員最後の攻勢 殺傷八万、撃沈破六百隻〉〈皇軍の神髄発揮 米、戦史類なき出血に呻く〉などの見出しが躍り、牛島満陸軍中将、大田實海軍少将、島田叡沖縄県知事の顔写真が並んでいる。 19日に牛島中将が訣別の打電をしたことが記され、22日以降の状況が詳らかでないことがここで初めて明かされるが、陸海軍は22日で沖縄が事実上失陥したことは把握していて、航空部隊による沖縄方面への組織的な特攻出撃は22日で終了、以後は散発的になっている。 昭和20年6月26日、〈沖縄 陸上の主力戦最終段階 軍官民一体の善戦敢闘三箇月〉とあるが、6月22日以降の状況が詳らかでないことも明かされている。牛島満陸軍中将、大田實海軍少将、島田叡沖縄県知事の顔写真が並ぶ牛島中将、長参謀長の自決が日本の新聞で報じられたのは6月30日のことで、これは沖縄を占領した敵国アメリカの、サンフランシスコ放送で報じられたニュースから得た情報だった。 牛島満陸軍中将が長勇参謀長とともに自決したことを報じる昭和20年6月30日の記事。すでに沖縄は連合軍に制圧されているため、サンフランシスコ放送からの情報である以上、昭和20年の新聞報道をもとに沖縄戦を振り返ったが、沖縄のニュース以外にも、連日のように日本のどこかの街が空襲で焼けたという記事が掲載されている。戦況としては、もはや連合軍に手も足も出ない状態だったにもかかわらず、特攻隊出撃のニュースも連日報じられている。 太平洋戦争がはじまった当時、軽巡洋艦「長良」航海長だった薗田肇大尉(当時)は、かつて私にこう語った。 「開戦の日、昭和16年12月8日の朝、艦橋に上がってきた艦長・直井俊夫大佐が、何と言われたと思いますか? 開口一番、『こんな馬鹿な戦争を始めやがって!』ですよ。相当大きな声で、艦橋には第一根拠地隊の司令官も参謀連中もいましたが、誰も異をとなえなかった。むしろ、ウチの艦長、相当な反体制派だぞ、と一同痛快に感じたものです」旧海軍の士官の多くは、アメリカ、イギリスを敵に回して日本が勝てるなどとは考えていなかった。戦前の海軍では、海軍兵学校を卒業、少尉候補生になれば、必ず練習艦隊で海外をその目で見る。日本が米英を敵に回しての戦争に勝てるはずがないことぐらい、皆がわかっていたはずである。 陸軍にも良識ある軍人はいただろう。それなのに、現実に戦争は始まった。一人一人は「勝てない」と思っていても、起きるときには起こってしまう、しかもいったん始まってしまえば、終わらせるのはさらにむずかしい。結果的に、沖縄県民や空襲被災者をふくむ多くの民間人までもが犠牲になってしまった。・・・・・なぜそんなことになったのか、戦争が始まるずっと以前から国民を煽り続けたメディアの責任も合わせて、これからもしつこく検証していく必要があるだろう。
2024.09.25
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戦犯ヒロヒト(裕仁)を、なぜ糾弾しない? 死んでも「戦争責任」は、無くなることは無い! まだ、戦争の後片付けは終わってはいない!! 2024-9-23 はんぺん 「遺族の戦後は なお続く」(本文)・・・その通り・・・ヒロヒト(裕仁)が始めた戦争で、殺された多くの国民、海外の民衆の(怨念)は、消えることは無い・・・ 「商船や漁船など多くの民間船舶が国に徴用され、米潜水艦の魚雷などで沈んだ。戦後の国の調査によると、日本の民間船舶は7240隻が戦没した。」(本文)「42年3月から45年5月までの間に戦没した船は少なくとも65隻、戦死者は兵士や船員、船客、疎開者ら1万683人に上る。」(本文) オドロオドロシイ記録だ。敗北が、明らかであるにもかかわらず(偽の武士道?)で、ふんぞり返った卑怯な戦争指導者たちは、敗戦を引き延ばした・・・その結果、多くの無駄死にが、積みあがったのだ。 その卑劣な戦争責任者のトップが、ヒロヒト(昭和)だった・・・なんという恐ろしい事を この男は、仕出かしたのだろうか!!! 戦後、日本の新聞やテレビは、ヒロヒト(裕仁)の戦争犯罪の真実を スルーしてきた。真実を報道するべきマスコミが、その責任を放棄して、大々的に、またまた国民を(洗脳)し続けている!! リベラルと言われる政党や組織でも、スルーの流れが強まっているように、僕には思える。言い続けなければ・・・いつか、言いにくい時代が、やってくるという事を(過去から学ぶ)べきだろう・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――― 沖縄派遣部隊など3700人超が乗船した富山丸、疎開学童ら1484人が乗った対馬丸…鹿児島周辺海域で戦没した民間船は65隻超。終戦から79年たって、遺族の「戦後」はなお続く 2024/08/08 07 南日本新聞 太平洋戦争中、人や物資を輸送するため商船や漁船など多くの民間船舶が国に徴用され、米潜水艦の魚雷などで沈んだ。特に80年前の1944(昭和19)年以降、戦況の悪化に伴い被害が大きくなった。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、鹿児島県周辺海域では60隻超が沈み、1万人以上が亡くなった。 戦後の国の調査によると、日本の民間船舶は7240隻が戦没した。同資料館は約2500隻の戦没位置や死者数などをホームページで公開している。 鹿児島県周辺海域の記録を集計すると、42年3月から45年5月までの間に戦没した船は少なくとも65隻、戦死者は兵士や船員、船客、疎開者ら1万683人に上る。 42年の戦時海運管理令などによって国が商船や漁船を一元管理し、輸送や監視業務にあたらせた。軍関係者や船員以外の乗客の情報は乏しく、被害の全容は分かっていない。4000隻以上が犠牲になったとされる漁船・機帆船の多くも記録が残っていない。 県内周辺で最も死者が多かったのは44年6月29日に徳之島沖で戦没し、沖縄派遣部隊約3600人を含む3700人超が亡くなったとされる富山丸だった。民間人の犠牲が最も多かったのは44年8月22日、十島村悪石島沖で戦没した対馬丸。学童784人を含む疎開者ら1484人が亡くなったとされる。 戦没した65隻のうち44、45年に27隻ずつ計54隻が撃沈された。44年まではほとんどの船が米潜水艦の魚雷で沈み、45年は空爆で犠牲となった船が半数を超えた。 富山丸や対馬丸、十島村中之島沖で沈没した武洲丸の遺族らは今も慰霊式を続ける。「戦時遭難船舶遺族会」(沖縄県)は、奄美大島近海で沈没した嘉義(かぎ)丸、屋久島町口永良部島沖で沈没した湖南丸など25隻の犠牲者を対象に活動している。―――――――――――――――――――――――1坪に11人が詰め込まれた…戦時下、旧日本軍の輸送計画は無謀を極めた。「甚だしい人命軽視だ」。護衛も脆弱。用意周到に待ち構える米軍の前に、あまりにも無策だった2024-8-8 南日本新聞 太平洋戦争中、人や物資を輸送するため商船や漁船など多くの民間船舶が国に徴用され、米潜水艦の魚雷などで沈んだ。特に80年前の1944(昭和19)年以降、戦況の悪化に伴い被害が大きくなった。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、鹿児島県周辺海域では60隻超が沈み、1万人以上が亡くなった。 戦没船の記録を見ると、旧日本軍の無謀な輸送計画が浮かび上がる。「戦没した船と海員の資料館」で調査を続ける大井田孝さん(82)=神戸市=は「甚だしい人命軽視だ」と憤りを隠さない。 3700人超が亡くなったとされる富山丸(7089トン)には約4600人が乗船していた。「1坪に11人が詰め込まれた」という生存者の証言も残る。大幅な定員超過で、被害拡大の一因となった。 約3カ月後の1944(昭和19)年9月25日、鹿児島県十島村中之島沖で戦没した武洲丸は、疎開するために乗船した徳之島島民148人が犠牲になったとされる。護衛は木造の駆潜特務艇2隻で潜水艦に対抗できる態勢ではなかった。 41年の真珠湾攻撃の後、米国は日本の船舶に対して無制限で攻撃するよう航空部隊や潜水艦に命じた。 富山丸を沈めた潜水艦スタージョンの哨戒報告書によると、同艦は攻撃までの数日間、沖縄と鹿児島県徳之島の間を周回していたことが分かる。船団を確認した1時間後、富山丸へ4発の魚雷を発射した。4日後には奄美大島沖で大倫丸(船員ら19人死亡)も撃沈された。 大井田さんは「南西諸島周辺は米軍が用意周到に待ち構えている状況だった。にもかかわらず、旧日本軍は乗員の命を助ける戦略を立てなかった」と嘆いた。
2024.09.23
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「平和憲法」のウソ=リベラルの戦後民主主義の大失敗! (過ち)を(認める勇気)(反省する勇気)を恐れるな!!!! 2024-9-22 はんぺん 今現在も、世界中で、戦火は絶えないのが、現実だ。 皇軍(天皇の軍隊)が、中国など海外に、侵略戦争を実行したが、大日本帝国に、「もし軍隊が無ければ、戦争は起きなかった・・・」と言えるだろうか? 戦争は、仕掛ける戦争と 仕掛けられる戦争がある・・・・仕掛ける戦争は、侵略戦争だが、仕掛けられる戦争は、自衛戦争だ・・・ 帝国主義時代、欧米列強は、植民地支配で、他国を圧倒するために、軍事力の増強に邁進した・・・そういう時代に、後から参入した「大日本帝国」が、アジア・太平洋戦争という(侵略戦争)を、ヒロヒト(裕仁)の命令で開始した・・・ この時代、たしかに「もし軍隊が無ければ、戦争は起きなかった・・・」といえるのは、侵略戦争についてのみ、言えることだ。米英独仏伊などの帝国主義が、植民地主義の下、中国などを侵略していたが、日本に軍隊が無ければ、もちろん日本も、侵略の対象になっていたことは間違いない・・・「軍隊が無い」とは、そういう事だ。「平和憲法」のウソ! とは、そういうことだ!!!!!!! 戦後は、国連も、一定、機能し、仕掛ける戦争も、そう簡単にはできない時代に、なりつつある・・・・と思われたが、局地的な地域紛争は絶えることは無かった。規模は違えど、今も各地で戦火の報告が続いている・・・ 今回は、国連の常任理事国のロシアが、ウクライナに侵略戦争を仕掛けた・・・・が、仕掛けられたウクライナに、もし「軍隊が無い」となれば、どういう事態になっていたか? 軍隊の無いウクライナは(自衛戦争)を戦えずに、占領されていた事だろう・・・・ さらに考えてほしい・・・もし、ウクライナが、NATO という軍事同盟に入っていたら、ロシアは、ウクライナ侵略戦争に踏み切れただろうか? 想像力の問題だが・・・・NATOの軍事力を前にして、侵略を実行するのは、不可能に近いと、僕は思う。 NATOの後ろ盾の欠いたウクライナを 侵略者ロシアは、軽く見ていたといわれる・・・強い軍事力を持っているわけでもなく、国民の抵抗力も、そう強くはない・・・と、プーチンは考えたのだろう・・・・。 首都キーウさへ落とせば、すぐに降伏すると考えたのだが、ウクライナ国民は、団結で、これを跳ね返した・・・これは、プーチンの誤算だった。 長い間、中立を保持してきたスウェーデンやフィンランドの、NATO加盟は、さらに大誤算だったのだろう。独裁者は、唯我独尊のため、客観的な見方ができない・・・ 軍事同盟=NATOの存在の大きさに、日本人は、あまり気づいていないようだが、日本の平和も、実際、日米安保条約という軍事同盟により、維持されている! 中国や北朝鮮、ロシアなどの全体主義の侵略を、日米安保が、盾となって、防御しているのが、真実だ。真実を理解できないリベラルたちの(反安保)(反自衛隊)(非武装中立)などは、(革命)を叫ぶ極左集団と同じ(空文句)そのものだ!!! (戦争反対)は、誰でも言える・・・が、それは(仕掛ける戦争=侵略戦争)反対の事であって、(仕掛けられた戦争=自衛戦争)は、反対してはダメ!! 国民の命と暮らしを、平和を守るために(自衛戦争)を戦えるように(準備)(備え)を早くからしておかねばならないのだ!!! だから日本の(平和憲法)では、平和は守れない・・・・と言ってきたのだ。(非武装中立)(戦争放棄)(自衛隊反対)(安保反対)などのスローガンは(犯罪的だ)と言ってきた・・・・!!!! 過去の歴史から、何を学ぶのか・・・を改めて、考えてほしいと思う。日本人の凄惨な戦争体験は、貴重だが・・・学び方は、単純ではない事に、戦後リベラルたちは、まったく気づけなかった・・・リベラルの知性の敗北か? 結果、自ら、墓穴を掘ることになった! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん
2024.09.22
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戦争体験から学ぶべきことは(戦争反対)だけでは決定的に不十分! 平和を語るなら、侵略の脅威を前にしての(備え)が喫緊の課題だ! 2024-9-19 はんぺん 戦後、多くの資料が、開陳され、戦争の実態が解明されてきた。それとともにヒロヒト(裕仁)の巨大な(戦争責任)が、見えてくる・・・・ 多くの国民が、戦争で殺されたのに、ヒロヒト(裕仁)は、マッカーサーの判断で、裁かれる事無く、生き残り、寿命を全うできた・・・なんとも理不尽な話だ! 軍部は、敗戦に当たって(都合の悪い!)膨大な資料の消却を命令したが、あまりにも量が膨大すぎて、処理しきれなかったようで・・・多くの資料が発見されている。 初めから勝算の無い戦争であることを認識していた者も、トップの中にいたという・・・ 負けることが、分かっていても、止められなかった(侵略戦争)に、人間の限界!のようなモノを 僕は感じている・・・ いま現在進行形の(新冷戦)についても、取り返しのつかない事態は、予想しうる・・・それが、近未来の現実だ・・・ 「父宛てに召集令状が届いた。脚が悪く、徴兵検査で甲種合格できなかった父は軍人になれないことを残念がっていた。」(本文) 「補給路が断たれ、多くが飢え死にか病死だったらしい。」(本文) 「戦死公報の後しばらくして白木の箱が届いた。その中身にがく然とした。遺骨はおろか、髪の毛や爪などもなく、あったのは父の名前が記された木の札だけ。「こんなのは役所が即席で作ったものに違いない」とぐっと悔しさがこみ上げた。」(本文) 「終戦間際まで、周囲の大人は『日本は勝っている』と言っていた。当時の教育は、今では考えられないことばかりだった。軍歌を歌わされ、日本人は「一等国民」だった。その考えに、他国、他民族の人たちを見下す差別意識がはらんでいることに疑問を持たなかった。教育の力は恐ろしいとつくづく感じる。」(本文) 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――父は空の木箱で帰ってきた。遺骨も頭髪も爪もなし…中にあったのは「徳重藤盛」と記した木札だけだった【証言 語り継ぐ戦争】 2024-8-14 南日本新聞社(写真)父・徳重藤盛さん。出征前に撮影した ■徳重 勇さん(87)霧島市国分重久 1936(昭和11)年10月、3人きょうだいの長男として霧島市国分重久で生まれた。父・徳重藤盛は焼酎蔵の杜氏(とうじ)。家には焼酎や荷物を運ぶために当時は高級品だった自転車があった。戦争が始まっても、牛舎や田んぼもあり、しばらくは生活は安定していた。 一変したのは44年の夏。父宛てに召集令状が届いた。脚が悪く、徴兵検査で甲種合格できなかった父は軍人になれないことを残念がっていた。その時34歳。父のほかに、近所に働き盛りの男性の姿はもうなかった。「やっと国のために戦える」。そう張り切っていたが、内心は死を覚悟していたと思う。子どもの前では気丈に振る舞っていた。 出征の日、たすきをかけた父と二人っきりで歩いた。「お母さんと、きょうだいのことを頼む」。8歳の私にそう託した。父が戦争で死ぬかもしれない寂しさと悲しさをこらえながら、その背中を見送るしかなかった。 父は帰らなかった。陸軍工兵として満州に向かった後、南方戦線に駆り出された。45年3月10日にフィリピン・ルソン島で命を落としたという。終戦後、生還者から父の最期を聞いた。分かっているのはそれだけだった。補給路が断たれ、多くが飢え死にか病死だったらしい。戦うことなく死んだ父の無念さはどれほどだったろう。 戦死公報の後しばらくして白木の箱が届いた。その中身にがく然とした。遺骨はおろか、髪の毛や爪などもなく、あったのは父の名前が記された木の札だけ。「こんなのは役所が即席で作ったものに違いない」とぐっと悔しさがこみ上げた。当時は誤報も多く、戦死公報が届いた後も生還することがあった。母はその空き箱を抱きかかえながら、終戦後もしばらくは父の帰りを待っていた。 戦禍の日々では、父の死を受けても、悼む暇さえなかった。残る家族の暮らしを守ろうと、出征前に父が自宅に蓄えていた焼酎を換金したり、麦と米を育てたりしてしのいだ。母が奉仕活動に出ている間は、牛の世話や畑仕事の手伝いをして家計を助けた。 空襲警報が鳴るたびに、防空壕(ごう)に駆け込む日が続いた。終戦間際まで、周囲の大人は「日本は勝っている」と言っていた。当時の教育は、今では考えられないことばかりだった。軍歌を歌わされ、日本人は「一等国民」だった。その考えに、他国、他民族の人たちを見下す差別意識がはらんでいることに疑問を持たなかった。教育の力は恐ろしいとつくづく感じる。 45年8月15日の昼過ぎ、地域にいた国防婦人会の役員に終戦を聞いた。戦争が終わると今度は、家族を養うための日々が待っていた。母は酒屋を営んだが、大黒柱を失った生活は苦しかった。 中学校を卒業した後すぐに、宮崎県の上椎葉ダムの建設工事に出稼ぎに行った。実家に仕送りを続けながら、なんとか学費をためた。鹿児島市内の専門学校に通い、簿記やそろばんを学んだ。18歳になった54年、進路に悩んだ際、軍服を着た父の姿が脳裏によぎった。警察予備隊が自衛隊になったばかりだった。母を支え、妹と弟を高校に行かせるため陸上自衛隊に入隊することを決めた。きょうだい2人が高校を卒業できた時は本当にうれしかった。 戦地で父親を失った家は周りでは当たり前だった。同じ境遇の同年代も多く、みんな進学や進路、生活に苦労した。日本はあれから戦争をしていないが、世界では今なお戦争が続いている。平和な世の中がどれだけ幸せなことか。戦争は兵士だけでなく、その家族にまで長年にわたって犠牲を強いる。次世代には決して同じ思いをさせてはいけない。 (2024年8月14日付紙面掲載)
2024.09.19
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ヒロヒト(裕仁)が犯した(戦争犯罪)の罪深さを、強く思う。この男のために、多くの国民が(犠牲)となって殺された! 2024-9-18 はんぺん ヒロヒト(裕仁)が、犯した(戦争犯罪)の罪深さを、強く思う。この男のために、多くの国民が(犠牲)となって、殺された。 このオドロオドロシイ犯罪について、この犯罪者=ヒロヒト(裕仁)は、どのくらい、知らされていたのか?は、分からないが、戦後、事実を知ったら、(天皇退位)するべきなのに、のうのうと居座った・・・ハレンチ極まりない現実だった!!! 「逃げ場のない島でパニック状態に陥った住民は『集団自決』に追い込まれた。」(本文)「血みどろで、まるで地獄絵図のようだった。」(本文) 「日本兵は『ここは軍の陣地だから入れられない』と陣地の裏側の山を登るよう住民に促した。そして「米兵は女を強 姦し、男も首を切って捨てる。その前に自分らでやれ」と言うと、逃げてきた住民に手りゅう弾を手渡した。」(本文) 「火薬を飲んでも死ねなかった男たちは短剣やくわで家族らを手にかけ始めた。あちこちで悲鳴が飛び交った。「姉ちゃん怖い」と弟は泣き、大城さんの足にしがみついた。親戚のおじさんは木を折った棒を手にし、母を殴った。母は何度か殴られて息絶えた。大城さんも首を殴られて倒れたが、気を失ったふりをした。」(本文) 「皆、犬死にだった」。自決を促した日本軍への怒りが今もこみ上げてくるという。「日本軍は捕虜になれば拷問されると住民を脅し、たくさんの命を奪った。絶対に許せない」。(本文) ・・・・これが、天皇の軍隊(皇軍)の真の姿だった! ヒロヒト(裕仁)の戦争責任は、消え去ることは無い!! マスコミと一体となって、皇国史観教育が、実施され、(洗脳)が再生産され続けた・・・ヒロヒト(裕仁)のために命を投げ出すことが、美徳とされるような、狂気の世界が、展開されたのが、戦前・戦中の日本だった。 忘れてはならない・・・天皇の戦争責任! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――村の男たちはくわで家族を手にかけた! 91歳女性が証言する、沖縄戦の集団自決。「息絶えた母の横で、死んだふりをして生き延びた」逃げ場のない島で起きた地獄絵図2024-8-15 47NEWS(写真)「平和の礎」を訪れ、手を合わせる大城静子さん(右)と妹の喜久村清子さん=6月23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園 太平洋戦争末期の1945年3月27日、沖縄県の渡嘉敷島(渡嘉敷村)に米軍が上陸した。渡嘉敷島は沖縄戦で最初に戦火に巻き込まれた慶良間諸島の一つ。逃げ場のない島でパニック状態に陥った住民は「集団自決」に追い込まれた。 くわを振り上げ、妻や子を手にかける男たち。当時11歳の少女だった大城静子さん(91)は目の前で息絶えた母の横で、死んだふりをして生き延びた。首の付け根にはその時に付いた傷跡が今も残る。「血みどろで、まるで地獄絵図のようだった。戦争は嫌だ」。現在暮らしている沖縄県糸満市の一軒家で、79年前の惨劇を証言した。(共同通信=宮崎功葉)【写真】妊婦を連れた男性は、父に「僕たちを殺してください」と懇願した 「命を大事にしなさい」と諭したが… 沖縄戦、11歳の少年が見た〝地獄〟 ▽小さな島の豊かな生活 沖縄本島南部の那覇市から西に約30キロの渡嘉敷島。大城さんは島南部の阿波連集落で生まれた。父、母、祖父、祖母、きょうだい6人の計10人家族で、半農半漁の豊かな生活だった。 周囲25キロほどの小さな島では集落の人たちの誰もが知り合いで、助け合いながら暮らしていた。旧日本軍は戦前から島に配置されており、大城さんの家は6、7人の日本兵に部屋を貸していたが、平穏な日々だった。 ▽助けてくれるはずの日本兵から、手りゅう弾を渡されたのどかな島の空気が一変したのは45年3月27日。大城さんの家族は米軍が上陸したことを聞き、北部の北山と呼ばれる日本軍の陣地に避難することになった。防衛隊の任務で不在だった父を除く家族9人で午後9時ごろ、家を出た。 このとき、集落の約半数は残る決断をしたという。そしてその人たちは、集団自決に追い込まれなかった。大城さんは振り返る。「今思えば、この時の決断が生きるか死ぬかの分かれ道だった」。道中で腹を壊して別行動を取った祖父も助かった。 大城さんらは米軍に見つかることを避けるため、道ではなく山を流れる川の中を歩いた。「兵隊さんのとこまで行けば助かるさ」。不安に押しつぶされそうになりながらも、家族どうしで声をかけ合った。 3時間ほどで北山に着いた。しかし、日本兵は「ここは軍の陣地だから入れられない」と陣地の裏側の山を登るよう住民に促した。そして「米兵は女を強 姦し、男も首を切って捨てる。その前に自分らでやれ」と言うと、逃げてきた住民に手りゅう弾を手渡した。 ▽集団自決28日の明け方、木々の生い茂る山中の広場に100人ほどが集まった。日本兵もいた。手りゅう弾は5発。大人が円陣を組み、その中に子どもたちを入れて逃げられないようにした。そして覚悟を決めて信管を抜いたものの、爆発しなかった。 すると、大人たちは火薬を食べて死のうと言いだした。弾のふたを開けると、中はチョコレートのような見た目をした青色の火薬が詰まっていた。母が「食べて」と言って口に入れてきたが、甘くない。まずくて、すぐに吐き出した。 火薬を飲んでも死ねなかった男たちは短剣やくわで家族らを手にかけ始めた。あちこちで悲鳴が飛び交った。「姉ちゃん怖い」と弟は泣き、大城さんの足にしがみついた。親戚のおじさんは木を折った棒を手にし、母を殴った。母は何度か殴られて息絶えた。大城さんも首を殴られて倒れたが、気を失ったふりをした。その時、祖母が頭を優しくなで、着物をかぶせてくれた。「おばあは私が死んだと思ったのだと思う」 ▽「血の水を飲ませたから・・・」逃避行を共にしていた大城さんの妹、喜久村清子さん(86)は当時6歳。惨劇に巻き込まれまいと、その場から転げるようにして逃げた。すぐ近くに、阿波連集落に住む顔なじみの女性がいた。その女性は日本兵に腹を切られ、腸が飛び出ていた。両手で傷口をふさぐ女性の夫から「手が離せないから、きよちゃん、水をくんできて」と頼まれた。広場のすぐ下を流れていた小川の水は自決した人たちの血で赤く染まっていた。血混じりの水を空き缶にくみ、女性の元に戻った。「血が混じっているけど大丈夫かな」。女性の夫に伝えると、「ありがとう。飲ませてあげて」と言われた。手を震わせながら缶を口に運んだものの、女性は一口飲んであえなく息を引き取った。喜久村さんは死ぬのが怖くなって山を下り、海岸で米兵に捕まった。 喜久村さんは当時を振り返り「血の水を飲ませたから死んでしまったと思い、戦後も20年以上にわたり自分を責め続けた。つらい記憶がよみがえるから、今も腸を使う料理が食べられない」と話す。 ▽米軍に救助されて見た光景 棒で殴られ瀕死の状態だった大城さんは後に米軍に救助された。先に山を下り捕まっていた別の妹が「おねえは生きているから助けて」とヤマシタさんという名の通訳役の米兵を連れて戻ってきた。 大城さんはヤマシタさんの手を借りて起き上がった。着ていた服は血まみれ。辺りには無数の遺体が転がっていた。木に首をつっている人もいた。母の胸の上には息絶えた生後6カ月ほどの妹が横たわっていた。 その後、生き延びた喜久村さんらきょうだいと共に渡嘉敷島の北西にある座間味島の米軍のキャンプに収容されて治療を受けた。首を殴られたためか喉が腫れ、水を飲むと鼻から出てしまい、食事も取ることができなかった。 ▽終戦後は母親代わりに大城さんと喜久村さんは終戦後、はぐれていた祖父や防衛隊から戻ってきた父と再会できた。しかし、父は12月30日に爆薬を使った漁の事故で亡くなった。 それからは大城さんが祖父の畑作業を手伝いながら、母の代わりにきょうだいの面倒を見てきた。中学に進学したい気持ちもあったという大城さん。「親のいる他の家がうらやましかった。お金もなく貧しい生活だった。子どもだけ残した親を何度も恨んだ」 きょうだいら全員を中学まで卒業させた後、24歳で結婚し沖縄本島の糸満市に移住した。1972年の日本復帰まで那覇市の米軍基地で洗濯などをして働いてきた。子どもや孫、ひ孫にも恵まれた。喜久村さんも仕事を機に本島に移った。「自分を犠牲にして育ててくれたおねえには頭が上がらない」との思いから、現在は週に2回ほど糸満市の大城さんの自宅に土産を持って訪ねているという。 「妹たちを守ると必死で、なんとか生きてきたね」大城さんはそう語り、自宅を訪れた喜久村さんの背を優しくさすった。 ▽79年たってもよみがえる記憶 大城さんは毎年3月が近づくと、嫌でも自決の記憶がよみがえり、体調が悪くなったり、眠れなくなったりする。「皆、犬死にだった」。自決を促した日本軍への怒りが今もこみ上げてくるという。「日本軍は捕虜になれば拷問されると住民を脅し、たくさんの命を奪った。絶対に許せない」。 村などによると、島の人口は1940年の統計で約1370人。当時集団自決したとされる住民は約330人に上った。 ▽孫の決意とおばあの願い 母や妹を失った日から79年の今年3月28日、大城さんは渡嘉敷島で営まれた慰霊祭に、沖縄戦に関心を持つ孫娘の侑生さん(12)に腕を支えられながら参列した。碑に刻まれた母たちの名前を指でなぞり、涙を流した。 侑生さんは当時の自分とほぼ同い年の12歳だ。大城さんは語気を強めた。「かわいい子や孫を手にかけることが平気な親はいなかったと思う。それでも正しい判断ができなくなるのが戦争だ」 侑生さんは言う。「沖縄戦がおばあの心に一生消えない傷をつけた。私は戦争を知らない世代だけど、おばあの涙と平和の大切さを忘れない」。その手をなでた大城さんはこう願う。「この子たちに、あんな悲惨な経験をさせたくない」
2024.09.18
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ふざけた偏向報道のリベラル。ヒロヒト(裕仁)の戦争責任を隠すな! 2024-9-10 はんぺん 日本中の多くの国民が、ヒロヒト(裕仁)が始めた戦争で殺された。民衆の苦しみなどを本当に理解していれば、もっと早くに全面降伏しなければならなかった・・・しかし、この男は塗炭の苦しみにあえぐ国民を見捨てて戦争を続行したのだ。なんという恐ろしい事だろう。 ところが戦後日本では、間違った(ヒロヒト像)がでっち上げられ(慈愛に満ちた昭和天皇)(ヒロヒトは平和主義者だった)などという、(歴史の改ざん)(歴史の修正)が、平気で行われてきて・・・またまたマスコミが、懲りもせずに戦前と同じように国民を(洗脳)し続けている。 (反省の無い)マスコミにも呆れてしまう・・・・戦後80年近くなろうとしているが、今や、天皇崇拝は、戦前とは違った形で、再生されてしまった・・・のは、戦後民主主義の失敗でもあった。マスコミは、こぞって(皇室崇拝) (天皇制維持)で突っ走っている。この先進技術の輝かしい発達の中で(天皇制)という オドロオドロシイ魔物が、またまた徘徊し、「人間平等」「人権尊重」のハズの(平和?日本)を脅かしつつある・・・・ 天皇制を守るために、戦後マスコミは、ヒロヒト(裕仁)の戦争責任を追及してこなかった。空襲被害者は、まぎれもなくヒロヒトが始めた戦争による被害者だが、政府や官僚・マスコミは、なるだけスルーして、(菊タブー)を守り続けてきたのだ。 しかし。真実は繰り返して、何度も指摘され続けなければならない。ヒロヒトの戦争責任は、明白であり、亡くなったからといって、消え去るものではない!!過ちを繰り返さないためにも、忘れることが無いように、心掛ける事は、戦争被害者であった日本国民の義務であり、権利であるだろう。 誤解の無いように・・・(忘れてはならない)のは、戦争を始めたヒロヒト(裕仁)の戦争責任のことであり、(戦争何でも反対)という事ではない。(戦争は、こわい)(戦争はイヤダ)(繰り返してはならない戦争)という、間違った「戦争観」が、戦後のリベラルにより主張されて(運動化)されてしまった!! そして、全国民的洗脳が、行われた・・・戦後リベラルの大失敗は(護憲運動)であった・・・と言ってきた。 前に、こう書いた・・・「私たちは(過去の歴史から、学ばなければならない)というのは、単純に(戦争反対)を叫べば良いというのではないハズだ。 戦争は、必ず(相手)があるハズだから・・・こちらが(平和国家)で、交戦意志が無くても、相手から一方的に攻めこまれた過去の事例は、ヤマほどある!! そういう事態に備え、常時(戦争の惨禍)を少しでも減らす努力は、欠かせない・・・それが、政治家の重要な仕事の一つのハズだと思うが・・・違うだろうか??」 「戦争に賛成する人間は、居ない・・・誰でも(戦争反対)だろう。しかし、攻め込まれる危機に対応する事の大切さは、人間である限り、不可欠だ! この点で、朝日新聞を始めとした、日本リベラルたちは(戦争反対)(戦争はイヤダ)(戦争は繰り返すな)ばかりを主張してきた。これでは(過去の歴史)から、何も学んでいないことの証明になる。」(はんぺん)どうだろうか・・・・戦後リベラルたちのネグレクト(サボタージュ)の事を言っているのだが・・・ 国民の命と暮らしを守る努力をサボタージュして、何が(平和)なのか??? (呆れて、物も言えない)とは、この事だろう。 「日中戦争以降の戦争で死亡した310万人のうち、民間人は80万人を占める。けが人はもっと多かっただろう。」(本文) 読んでわかるように、下記の朝日社説の全文・・・・見事に(天皇の責任)が、出てこない!! 戦争指導者たちの蛮行(宣戦布告)のために、多くの犠牲者が出た・・・その(最高責任者=ヒロヒト)が、隠され続けている・・・今回に限らず、毎回の事だが・・・なんというマスコミの偏向報道だろう・・・ マスコミとは、国民の立場に立って、真実を報道するべきではないのか?またまたヒロヒト(裕仁)に忖度して、真実を隠そうとする・・・これが、リベラル紙?と言われる朝日新聞の真実だ!! 何と言う事だろう!朝日新聞は(偏向報道)を繰り返すな!! と強く言いたい・・・・皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――民間空襲被害者 今こそ救済に向け前へ (朝日新聞社説) 2024年8月17日79年が過ぎても、あの戦争の後始末がいくつも残っている。空襲などで被害を受けた民間人の救済がその一つだ。 ウクライナやガザで目の当たりにしているように、現代の戦争は民間人を巻き込む。その被害を救済する制度は、第1次大戦後の欧州で広がり、戦争中は日本でも法律があった。総力戦に国民を動員するためでもあったが、死亡、けが、家財の焼失などに対し、お金を支給した。だが戦後、占領軍の指示で、軍人恩給が停止された際、一緒に廃止され、それきりだ。 独立回復後、旧軍人ら向けの制度はすぐ復活し今日まで延べ60兆円も支給したのに比べ、著しい差がある。このまま放置していいはずがない。 日中戦争以降の戦争で死亡した310万人のうち、民間人は80万人を占める。けが人はもっと多かっただろう。 ようやく1970年代、救済の運動が起きた。法廷や国会で問われた政府は次のように説明してきた。全国民が戦争の被害を受けた。犠牲はひとしく受忍しなければならなかった。ただ旧軍人らは雇用関係があり、対応した、と。 そうだろうか。実際は援護の対象は一部の民間人にも順次広げられた。軍需物資を運んだ船員、動員学徒、沖縄戦被害者の一部などだ。被爆者も「特殊の被害」として対象にした。いたましい犠牲への対応は当然だが、その時々の強い運動に対し、政府が小出しに応えてきたのが実情だ。 その結果、いびつな救済制度ができあがった。同じ空襲でけがをしても旧軍人なら特別給付があるが、民間人ならゼロ。沖縄では戦後、「戦闘参加者」という枠を作り、集団自決の民間人なども援護対象に加えたが、米軍上陸前の空襲被害者は対象外なのだ。 違いに気づいた当事者が、「不公平だ」と憤るのは当然だ。空襲被害者らの訴えを退けた東京地裁判決(2009年)も「心情は理解できる」とし、「立法を通じて解決すべき」だとした。 政治もようやく動き、超党派国会議連が20年、救済法案要綱を作った。国による慰霊や調査とともに、空襲などにより心身に障害の残る被害者に一時金50万円を支給するという内容だ。 この案では、軍民格差が残る。空襲訴訟で求めた1人1100万円の国家補償に比べて大幅な後退で、遺族も対象外だ。それでもあえて高齢の被害者たちが支持している。 不十分とはいえ、国との雇用関係抜きで、民間の戦争被害も国が救済する。その一歩だ。きな臭い動きが広がる今だからこそ、前へ進めたい。
2024.09.10
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戦犯ヒロヒト(裕仁)の犯罪は、海よりも深く、ヤマよりも高い!! 忘れるな、この男の犯罪を!! 2024-9-7 はんぺん 学童疎開船「対馬丸」が、昭和19(1944)年8月22日夜に、アメリカの潜水艦により撃沈されたが、最高責任者(戦犯)は、戦争を命令したヒロヒト(裕仁)だ。この学童疎開船「対馬丸」事件では、対馬丸に乗船していた疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人のうち、疎開学童784人を含む1,484人が、殺されている。しかし、戦争を命令した、ヒロヒト(裕仁)・・・という、もっとも大切な真実が、マスコミの報道記事には書き込まれていない。 こんな一面的な偏向報道を、マスコミは、戦後ずーっと続けてきたのだ。これは(洗脳)のようなもので、(戦争はこわい)(戦争はイヤダ)(繰り返してはならない戦争)ばかりが、刷り込まれてきた。 多くの戦争が、理不尽なキッカケで始まったが、それに対しては、どうするのか?などという事は、最初から考慮されてこなかった・・・(戦争反対)だけを叫んでいれば、万事OKだったのだ。 これって(思考停止)やんか?? ウクライナが、ロシアに侵略された。日中事変では、中国大陸で、日本軍が理不尽に攻め込んで、多くの中国人を殺戮し、残酷な運命を強いた。これは、絶対に忘れてはならない(事実)だ。 この時、ウクライナ国民や中国大陸の中国人たちは、単純に(戦争はイヤダ)(戦争反対)だけを叫んでいて、(平和)は、得られたのか? 彼らは、自衛権を行使して、外敵と戦ったのではないか? (護憲論者)(9条真理教)の信者たちは、答えるべきだ!!! (非武装)や(戦争放棄条項)などは、現実には、何の役にも立たない!目を覚ませ! 護憲運動の間違いを! 戦後日本の偏向教育のため、日本は、もっとも大切な(自衛権)教育を無視してきた・・・そのツケは、大きい! 日本が、海外に進出・侵略してきた過去の歴史を(反省)するあまり、日本が外国から攻め込まれたときに、自国民の命と暮らしをいかに守るか・・・の教育が、完全に欠落してしまっていたので、(能天気な)日本人が作られてしまった!! 憲法9条さへあれば(日本は大丈夫)(非武装の平和憲法守れ)のいびつな日本人が作られてしまった・・・・戦後民主主義の(大失敗)を思う。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――――――撃沈された学童疎開船「対馬丸」。いかだで漂流した10人のうち、乳児が母親の腕の中で死んだ。寝たら海に落ち死ぬ…おばあさんの姿が消えた。6日目、無人島に漂着。生存者は4人に減っていた〈証言 語り継ぐ戦争〉 2023/01/24 南日本新聞■平良啓子さん(88)沖縄県大宜味村喜如嘉 学童疎開船「対馬丸」が撃沈された翌日の8月23日、日本の飛行機が上空を飛んでいた。いかだの上で手を振り、「助けて」と大声で叫んだが、戻ってこなかった。 24日、いかだの端で用を足していた時、トビウオを1匹捕まえた。一緒に食べようと隣の人に預けたら勝手に食べられ、悔しくて泣いた。竹筒が流れていたので泳いで取りに行った。小豆ご飯が入っており、分け合った。若い母親の腕の中で乳児が息を引き取った。 25日朝、おばあさんがいなくなっていた。「私の分をお食べ」と小豆ご飯をくれた人だ。寝て、海に落ちたら死ぬ。眠いのを必死でこらえた。若い母親も疲れ切っており、乳飲み子の遺体を波にさらわれた。 今度は別のおばあさんが海に落ち、引き揚げた。しばらくするとまた落ちる。「もう死んでいるよ」。他の人に言われるまで気付かなかった。目が開いており、生きていると思っていた。「ごめんなさい」と手を合わせて拝み、遠くに流れていくのを見送った。 日中は太陽が照り付け、夜は寒かった。台風15号の接近で波が高い。26日になると肌は焼けただれて皮がむけ、潮風でひりひりした。服もぼろぼろ。髪が塩で固まり、抜け落ちた。とてもひもじく、喉が渇いた。 いかだの10人は27日までに5人になった。サメに襲われる人を見たことがあり、自分たちに近づいてきた時は生きた心地がしなかった。夕方、誰かが「島じゃないか」と叫んだ。しかし日が落ちたら見失った。 漂流6日目の28日明け方近く、島影が再び現れた。いかだが島の方に流され岩場に乗り上げた。宇検村の無人島・枝手久(えだてく)島だった。 いかだを降り、四つんばいで岩につかまった。目が回り歩けない。それなのに突然、7歳くらいの女の子を背負わされた。「母ちゃん」とつぶやいたきり、何も言わない。しばらくゆっくりしたら気分がよくなり、女の子を浜に下ろした。 青草を見つけて食べた。谷あいを掘れば水が湧くかもしれないと山裾へ向かった。地面を根気強く掘ったら爪が湿った。さらに掘り続け、泥水が出てきた。澄まして飲み、喉を潤した。 女の子の母親に「娘にも教えて」と言われ、浜へ戻った。「水があるよ、起きて」。声をかけても動かない。目を開けたまま息絶えていた。とうとう大人3人と私の4人になった。 舟だ-。沖へ向かう2そうのくり舟におばさんが気付いた。私はここぞとばかりに小高い岩に登った。「1、2、3」と音頭を取り、「おーい、おーい」と全員で声を張り上げた。 船頭が櫂(かい)を止め、こちらを振り向いた。「おいで、おいで」。倒れるほど両腕を振った。「これで助かる」と心底思った。あの時の喜びは何とも言えない。 久志集落の計10人ほどが舟に乗っていた。浜へ上がって来て、大人から事情を聞いた。船頭の中原見附(みつけ)さんが「お嬢ちゃん、よく頑張った。偉かったね」と優しく声をかけてきた。「さあ、お食べ」。白いご飯と柔らかい黒砂糖が入った飯ごうを差し出した。 私は夢中で頬張り、なめ尽くした。そのおいしかったこと。集落に戻る舟で中原さんの太ももに座り、古ぼけた麦わら帽子をかぶせてもらった。 近くの船越(ふのし)海岸に多くの遺体が漂着したと後で知った。住民が一人一人の穴を掘り、埋葬してくれたという。沖縄の遺族が改葬しやすいよう一つの大きな穴にまとめて埋めなかったと聞いた。 (2023年1月24日付紙面掲載)―――――――――――――――――――――資料 沖縄県公文書館1944年8月22日 学童疎開船「対馬丸」が撃沈される この日の午後10時12分頃、学童疎開船対馬丸が鹿児島県・悪石島の北西約10㎞の地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により、沈没しました。対馬丸に乗船していた疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人のうち、疎開学童784人を含む1,484人が死亡しました(2018年8月22日現在氏名判明分)。 救助された人々は、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁止されました。死亡者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族は正しい情報を伝えられませんでした。集団疎開の背景 日本軍は、1941年(昭和16)12月8日にハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、米英に宣戦布告してアジア太平洋戦争に突入しました。以後、アジア各地に占領地域を拡大し、東南アジア全域に戦線を張りました。米軍は、1944年(昭和19)2月に日本の絶対国防圏内にあるマリアナ諸島を攻撃し7月7日にサイパンを占領しました。 次の侵攻目標が南西諸島となることが予想されたことから、日本政府は南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開(九州へ8万人、台湾へ2万人)を決定し、沖縄県知事に命令しました。 沖縄県は現地の日本軍と協議し早急に学童疎開を進めることとし、7月19日に「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令しました。 すでに沖縄近海には米軍の潜水艦が出没する危険な状況になっており、沖縄・鹿児島間の海域では、対馬丸を含めた疎開船などが米潜水艦の攻撃で沈没し、多くの被害者が出ました。
2024.09.07
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日本全土を焼け野原にした張本人は、あのヒロヒト(裕仁)だ! 忘れるな!ヒロヒト(裕仁)の戦争責任を!!! 2024-9-3 はんぺん 僕の実父は、あの戦争で召集されて、南方へ送られた。ニューブリテン島のラバウルだった。米軍の飛び石作戦では(要塞化されたラバウルは、占領する手間では割に合わない)と、ラバウルを無視・・・上陸攻撃戦は無く(=玉砕も無く)、スルーされて実父は生き残って・・・今の僕がある。 なんとも不思議な気がする。 私たちは(過去の歴史から、学ばなければならない)というのは、単純に(戦争反対)を叫べば良いというのではないハズだ。戦争は、必ず(相手)があるハズだから・・・こちらが(平和国家)で、交戦意志が無くても、相手から一方的に攻めこまれた過去の事例は、ヤマほどある!! そういう事態に備え、常時(戦争の惨禍)を少しでも減らす努力は、欠かせない・・・それが、政治家の重要な仕事の一つのハズだと思うが・・・違うだろうか?? その政治家が、(非武装)とか(基地反対)とかで、国民を守るという重要な仕事をしていると言えるのだろうか?きちんとした(備え)無くして、(過去から学んでいる)とは、口が裂けてもいえないハズなのだ。 過去から学べない日本のリベラルたちの(過ち)に、いつも呆れている。戦争に賛成する人間は、居ない・・・誰でも(戦争反対)だろう。しかし、攻め込まれる危機に対応する事の大切さは、人間である限り、不可欠だ! この点で、朝日新聞を始めとした、日本リベラルたちは(戦争反対)(戦争はイヤダ)(戦争は繰り返すな)ばかりを主張してきた。これでは(過去の歴史)から、何も学んでいないことの証明になる。 こんな大きな(過ち))は、僕は(犯罪だ)と言ってきた。間違った平和観を拡散してしまったという事で・・・何という事だろう、朝日新聞!!!!僕は、ずっと言い続けてきた・・・目覚めよ朝日、目覚めよリベラル と。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――出征する青年の笑みと涙忘れず (声)語りつぐ戦争 2024年8月16日 無職 O (滋賀県 83) 朝日新聞 今でも消えることがない幼い頃の残像がある。出征兵士を囲む夜と、見送る翌朝の様子だ。 私たち家族は旧満州の大連に住んでいた。父は満鉄(南満州鉄道)に勤めていて、おそらく満鉄勤めの青年が1人、下宿していた。23歳くらいだっただろうか。キャッチボールで遊んでくれる、優しい人だった。 1945年の初夏ごろだっただろうか。彼に赤紙(召集令状)が来た。戦局悪化の頃、もはや親元に帰ることもできず、親も来ることができない青年のために、家族でこじんまりとした送別会を開いた。 病弱な自分に赤紙がきた悲しさがあるのか、送別会への感謝と感激があるのか、青年の涙は止まらない。 翌朝、名前を記した白いタスキをかけて、官舎の人たちが振る日の丸の旗に見送られて青年は行った。にぎやかな雰囲気の中で、笑みと涙が共存していた青年の顔は忘れられない。あの朝以来、このK青年の消息は分からない。この時期になると思い出す。―――――――――――――――――――――――引き揚げ逃避行、徒歩で渡った川 (声)語りつぐ戦争 2024年8月16日 無職 A (山梨県 87) 朝日新聞 1945年、僕は旧満州のハルビンに住む花園国民学校3年生でした。大きな映画館や食堂が立ち並ぶにぎやかな街で、父は呉服店を開いていました。 8月に入ると戦闘機らしいものが空を飛ぶようになり、石畳をガラガラと音を立てて走る戦車を初めて見て、驚きました。 敗戦から1年くらいたち、やっとのことで祖国に帰る準備を始めました。屋根のない貨物列車に乗り込み、数日間、家畜のように揺られました。すると列車が止まり、全員降りるように命じられたのです。鉄橋付近で中国の内戦が激化しているといい、徒歩で川を渡りました。 向こう岸に着くと、村人が「ここを通るなら女を出せ」と脅しをかけてきました。すると、芸者をしていたという女性2人が、「私たちが残ります」と名乗り出てくれた、と父から聞きました。 その後、私たちは葫蘆島から引き揚げ船に乗り、博多港に到着。胸ぐらを引っ張られてDDTを吹きかけられた記憶が、今でも鮮明に残っています。 ――――――――――――――――――――カルピスと脱出、伊豆での記憶 (声)語りつぐ戦争 無職 K(東京都 89) 朝日新聞(声) 夏の盛りの1944年8月早朝、東京都大森区(現大田区)の池上国民学校の校庭に集合。天皇陛下万歳をして、私は学童疎開へ出発した。 この約2カ月前、戦況悪化に伴い、政府は都市部の児童らを対象に「学童疎開促進要綱」を閣議決定。親戚など縁故疎開先のない児童を集団で地方に疎開させはじめた。 私はこの時、3年生だった。荷物は寝具一式と行李。行李の中には教科書、名札を縫い付けた衣服、食器、歯ブラシ。玩具は行軍すごろく、けん玉が持参を許された。 疎開したのは静岡県伊豆の国市の古奈温泉の旅館。伊豆長岡駅で出迎えてくれた人にコップ1杯のカルピスを頂き、飲み干した。感激した。 学童四十数人ごとに分宿し、先生1人と寮母2人が同宿。宮城遥拝(ようはい)や乾布摩擦、体錬の日課が続いた。 数日たつと、誰もが親を、東京を恋しがった。ある日の夕刻、学童3人が東京に帰ろうとして密かに伊豆長岡駅に行き、保護された。先生たちの監視がより厳しくなった。――――――――――――――――――ビンタではなく、ゴンタを食らう (声)語りつぐ戦争 会社役員 T (千葉県 91) 朝日新聞 東京都豊島区の池袋第五国民学校6年生の私と3年生の弟は1944年夏、長野県高山村の旅館に疎開し、苛(か)烈な制裁にあった。先生による体罰で、平手のビンタと違い、拳骨(げんこつ)で頬を強く殴られるのでゴンタと名付けた。これは恐怖であった。 布団を畳むのがいちばん遅い班の全員が殴られ、何の理由もなく、気合を入れるからと私も殴られた。3日ほどかむ時に痛みが残った。 ある時、5年生の男子が親からの小包を先生に無断で持ち出した。盗みと見なされ、ゴンタを食らった。顔が腫れ、口の中が切れて食事ができず、別の部屋に寝かされた。 たまたま面会に来た私の母が介抱した。訳を知り、母は私たちを連れて帰ると言い出したが、当時の風潮では、帰ると言うこと自体が「戦線離脱」「敵前逃亡」に当たると考え、私は拒否した。こういった制裁はこの先生に限ったことかもしれないが、忘れられない出来事である。
2024.09.03
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マスコミの「菊」タブーを許さない。戦争責任を回避しては、戦後は終わらない!! 2024-8-29 はんぺん2022年2月、ロシア軍が、いきなり大軍で、簡単にウクライナとの国境を越えて、侵略を開始した。最初は、2~3日で、首都キーウを陥落できると思っていたようだ。しかし、それを果たせず、一時、国境へと退却した。 「力(ちから)による現状変更の試み」という、この全体主義の挑発は、東欧だけではない。極東における「中国共産党の暗躍」にも、見て取れる・・・ 中国(共産党)は、盛んに周辺国家に威嚇と挑発を繰り返して、その侵略の機会を虎視眈々と狙っている・・・その狂犬(中国)の脅威を前にして、(非武装中立)(基地撤去)(安保反対)と叫んで、敵に塩を送ってきたのが、日本リベラルたちだ。 彼ら新社会党・社民党・MDS・アサートの機関紙やホームページは、全体主義=中国共産党が、泣いて喜びそうな記事で、埋まっている。(MDSとは、民主主義的社会主義運動いう、極少の社会主義政党のこと) 米軍沖縄基地撤去を一番喜ぶのは、覇権主義の中国だ。(目の上のたんこぶ)が消えてなくなるのだから、これで、日本などへの更なる圧力が可能になるから・・・安保破棄も、同じだ。後ろ盾を失くした日本は、まる裸同然の子羊と化すだろう・・・非武装中立に至っては、僕的には信じられない政策だ。今では、ほとんどの日本人は、NO!と首を振るだろう。(偉そうなことは言えない僕。若い頃には、この『非武装中立』に丸ごと洗脳されていたから) ウクライナには、ロシアに何回も侵略された歴史がある。日本の馬鹿なリベラルたちが、言うような「ウクライナは、死者が減るから、すぐに降伏しろ」などの妄言が受け入れられるような国ではない!! 降伏などは、論外だ・・・というのが、長年の侵略を受けたウクライナ国民の大多数の意志だ・・・日本のリベラルたちは、何も分かっていない事が、バレバレになった。 MDSなどは、「明らかにロシアによるウクライナへの侵略であり、絶対に認められない。われわれは、ただちにロシア軍が撤退することを要求する。」と言いながら、「ウクライナは、死者を減らすために すぐに降伏しろ」などの妄言を発出する(リベラル?)は、要らない!! と、つくづく思う。 朝日新聞の(声欄)は、貴重な証言が多く、よく参考にさせてもらっているが、商業紙の悲しさで、(天皇ヒロヒト)の戦争責任を避けようという意図が、ありありと見えていて・・・いつも残念に思っている。 庶民の不幸・悲劇の原因を作ったのは、戦犯ヒロヒトの開戦の詔勅なのは、明白だ。真実を伝えるべきマスコミが、権力(天皇制)に忖度して、非難せずに、誰が、糾弾するのか!! 戦後、マスコミの中で「菊(皇室)」「鶴(創価学会)」そして「荊(部落解放同盟)」が3大タブーだった。その中でも、もっとも徹底されたのは、「菊」タブーだろう。ヒロヒトの戦争責任は、伏せられたままで、現在に至る。 国民は、分かっていても、なかなか公には言及しづらい社会状況になっている。あの戦争で、多くの国民が、沖縄戦や空襲で、殺された。ヒロシマ・ナガサキで、数十万人が、焼き殺された・・・キッカケは、ヒロヒトの開戦の詔勅命令だ。 そのことに、マスコミは、触れようとはしない。真実を伏せるという現実は、あの戦前・戦中の権力に利用されたマスコミの(過ち)の二の舞ではないか?? 戦争孤児、家庭崩壊、身内の多くが戦死して、大切な家族が失われたり家庭崩壊や戦争孤児なども。ヒロヒト(裕仁)の開戦の合図から、全ての歯車が狂っていく。ヒロヒト(裕仁)の戦争責任を追及せずに、戦後は終わらない!!!! ヒロヒト(裕仁)の軍隊は、海外侵略で、多くの外地に攻め入った結果、アジア2,000万人が、殺戮された。この命令は、ヒロヒト(裕仁)の開戦の詔勅命令を受けて、戦争指導者が、作成した。中国大陸での残虐行為は、その象徴だが、ヒロヒト(裕仁)の戦争責任は、巨大である。 南方では、食料の補給も無い中で、トカゲやネズミも尽きて、多くの日本兵が餓死していった。その無数の惨劇の原因を作ったのは、ヒロヒト(裕仁)だ。 朝日新聞の(声欄)の貴重な証言は、大切に読みながら、なおかつ、そこに隠されている『ヒロヒト(裕仁)の戦争責任』を強く意識していかねばならないと思う。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――― ヒロシマのあの日、伝え続ける (声)語りつぐ戦争 2024年6月28日 助産師 K(東京都 86) 広島での被爆者として、7歳の目で見たあの日を子どもたちに伝えている。来月も小学校で話す予定だ。 1945年8月6日、学校は午後からだったので、私は旧東雲町の家で縁側に座っていた。突然、閃光(せんこう)が走り、直後に「ドーン」と爆音がして、平屋建ての家が大きく揺れた。障子のガラスが散乱して、私の体に刺さった。母の大きな叫び声で気がつくと、手足から血が流れていた。やっと外へ出ると、北西の方に真っ黒い煙の柱が立ち上り、その先が丸くなった。ブドウ畑に避難した。 2日ほどして、母がどこからか、おにぎり2個をもらってきた。見たこともない白米を見つめるばかり。「お母ちゃん、これ銀飯(ぎんめし)じゃあね」と喜んだ。母は「おいしかったら、人のお役に立てる人になりなさい」と言った。それが助産師になるきっかけになった。 あの日、お団子の配給に並ぶと言ったという幼友達は帰ってこなかった。半世紀後、ようやく平和記念公園の供養塔に、名前を見つけた。 G7広島サミットで、各国首脳が広島平和記念資料館を訪れてから1年。成果は何も出ていない。私たちが黙っていてはいけないのだ。――――――――――――――――――――――「誰かが始めた」で逃げてはダメ(声) 2024年6月28日 農業 O(兵庫県 69) 朝日新聞 6月23日、沖縄慰霊の日。沖縄戦では日米合わせて約20万人、沖縄県民4人に1人の死者を出した。前日の夕刊で、北海道出身の死者が1万人を超え沖縄県に次ぎ2番目だと知った。沖縄の戦跡を何度か訪ねてきた。集団自決、ひめゆりの塔、鉄血勤皇隊、対馬丸、八重山諸島でのマラリア感染死……。 その一つひとつを知るにつけ、何ということが起こっていたのかという思いに至る。 追悼式で高校3年生仲間友佑さんが詩を朗読した。仲間さんは「誰かが始めた争いで」とリフレインした。太平洋戦争で日本の死者は300万人を超え、アジア全体なら、この数字を大きく超えている。 内容は違うが、今回の自民党派閥裏金事件は「誰かが始めた」とされ、結局、何も明らかにされていない。「ざる法」だと指摘されつつも、改正政治資金規正法成立に岸田文雄首相は意義あるものだと胸を張った。 仲間さんが語った「誰かが始めた」の姿勢は、戦中から岸田内閣の政治姿勢に引き継がれているのではないか。責任を取り、その後に生かそうとする為政者たる姿がない。「誰かが始めた」と為政者に言わせる政治を許してしまってはいけない。
2024.08.29
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多くの悲劇は、ヒロヒト(裕仁)の戦争開始から始まった! 忘れるな「戦犯ヒロヒト」を!!! 2024-8-26 はんぺん 毎年の8月15日の敗戦記念日の前後には、多くのマスメディアが、戦争の悲惨さ、無意味さを、特集を組んで、報道する。(戦争と平和)の問題は、人間の存続にかかわる究極の問題だから(問題提起)として大賛成だし、8/15にこだわらず、この問題を日常的に提起してもらいたい。 同時に、その論調(結論)は、大きな限界を孕んできた!「戦争は、絶対に、してはならない」「お互いに、話し合いで」「戦争反対、戦争はダメ!」・・・当たり前の話だ。殺し合いを好む人間が、どこの世界にいるだろうか? それにもかかわらず、未だに、世界中で、戦争が無くならないのは、なぜか?先の戦争については、まだ決着は、ついていない!!!!戦争犯罪の張本人=ヒロヒト(裕仁)が、裁かれなかったから!!!! 多くの兵隊が戦死した。多くの民衆が空襲で焼き殺された・・・全ての悲劇は、ヒロヒト(裕仁)から始まった・・・真実から目を逸らせてはならない!!! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――――警報の中、ピアノを弾いた先生(声)語りつぐ戦争 2024年8月10日 朝日新聞 無職 女性(東京都 94) 1945(昭和20)年、私は女学校の4年生で、絶対にこの戦争は勝つ!という信念をたたき込まれた軍国少女でした。東京は相次ぐ空襲で下町はほとんど焼き尽くされて、学校では防空宿直が始まり、数人で寝泊まりするようになりました。 ある晩、着の身着のままでごろ寝していると、けたたましい警報のサイレンが鳴り響きました。バケツに水をくんでいると、音楽の男の先生が「ここへ焼夷(しょうい)弾が落ちたら、この人数で学校が守れると思いますか」。皆ハッとしました。遠くで高射砲の音が響いていました。「空襲は少し遠いので大丈夫と思いますが、死ぬときは皆一緒です」と、先生はおもむろにピアノに向かいました。 勇ましい軍歌を弾くのかと思ったら意外や意外、淡谷のり子の「別れのブルース」で、皆驚きましたが、夢中で歌いました。先生はほかにも戦争と関係の無い歌謡曲を何曲か弾いてくれ、「今日のことは全て私の責任です」と一言おっしゃいました。 後でわかったことですが、先生は2人の息子さんの戦死公報を受け取って間もない時でした。戦後79年になりますが、世界から戦争がなくなることを願っています。――――――――――――――――――――――――――浮かぶ東京大空襲の顔(声)終戦の日 2024年8月23日 朝日新聞 元小学校教員 男性(神奈川県 91) 1945年3月10日未明、東京・荒川区の自宅で寝ていた私は夢うつつで雷鳴のような音を聞いた。 「広ちゃん、起きな! いつもの空襲と違うよ」。母親の声に12歳の私は真っ暗な中で身支度を終えた。外はすさまじい地響きと、火災に照らされて異様に明るい雲。空には巨大なB29がその腹底を見せて飛んでいる。黒々とした機体は編隊を組んで轟音(ごうおん)を響かせて飛び、やがて去っていった。空襲警報が解除されても、火災は燃え広がっていった。 疎開しなかった友達2人と一緒に、火災の跡をたどった。都電の大通りは火になめ尽くされ、傍らで消防服の男が消火もせず残り火で暖を取っている。「おじさん、火は消さないの?」と尋ねると何も答えず、火の付いた木材を投げつけてきた。私は日本は戦争に負けると思った。 毎年8月15日になると、この東京大空襲で残り火を前に放心していたおじさんのうつろな目を思い出す。―――――――――――――――――――――被爆後の広島、海水で傷洗い(声)語りつぐ戦争 2024年8月21日 朝日新聞 無職 女性(三重県 98) 名古屋であこがれの看護師になって2年目の1945年。広島への原爆投下後、外科だったためか声がかかり、医師1人と看護師5人で応援隊として現地に向かうことになりました。 夜行列車で出発したのは投下の3~4日ほど後。途中で機銃掃射を受け、止まった列車の椅子の下に潜り込んでしのぐなど、恐ろしい思いもしました。 着くと、地上は原爆ドーム以外ほとんど何もない焼け野原。驚きました。地下道はひどい傷でうめき苦しむ人たちで埋め尽くされ、やけどにウジが湧いた子どもたちに「助けて」と足をつかまれてたじろぎました。 他都市から集まった看護師らと診療所で看護に当たりましたが、薬も物資もほとんどない中、海水で傷口を洗いました。申し訳ない思いでいっぱいでした。 玉音放送の後、患者さんたちにはショックを与えまいと「がんばれというお話でした」とごまかしましたが、敗戦が伝わると、気力が尽きたように次々と息を引き取られたことが大変つらかったです。
2024.08.26
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ヒロヒトの戦争責任をスルーする朝日新聞。天皇制の問題をタブーとするマスメディアは、戦争総括をやり直せ!! 2024-8-18 はんぺん 「あの戦争で、多くの人が死んだ。敵も味方も。兵士も民間人も。女も男も。なぜ彼らは、彼女らは、死ななければならなかったのか。 それは避けられなかったのか。 誰のせいか。 何のためか」(本文) 「天声人語」といえば、朝日の看板コーナーだ。その朝日すら、(戦争反対)しか言えない。(戦争は、残酷だ)しか言えない。 これが、戦後の民主主義にとっての最大の弱点となっていく・・・戦後、79年経った今でも、ヒロヒトの戦争責任を言わない・・・何という事だろう・・・・ (言えない)というのなら、またまた、権力に屈して、国民を地獄に追い込んだ、先の侵略戦争の繰り返しになる・・・・・。マスコミは、自身の戦争責任を、真摯に自己批判したのか? ということだ。 戦前から、軍部の圧力で、ラジオや新聞などのマスメディアは、追い詰められていく中で、軍部の反発を恐れて、(鬼畜米英許さず)との翼賛記事を連発して、国民総動員に協力した。 権力に屈したマスメディアは、好戦的報道で、国民を煽り続け、侵略戦争になだれ込んでいく・・・国家総動員法で、さらに民衆の自由は消え去って、戦争に突入する。 戦争指導者のトップが、ヒロヒトだった。このことを 日本の戦後マスコミは、タブーとして、触れようとしてこなかった・・・これは、戦争の惨禍を被った民衆に対する(裏切り)だと、僕は思っている。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――――――死者の声を聞く(天声人語) 2024-8-15 朝日新聞 名優として知られた森繁久弥さんは戦中、旧満州の新京放送局に勤めていた。 日本の敗色が濃くなったころ、関東軍の極秘の命令で、特攻隊員の遺言を残す仕事をしたそうだ。ポロポロと涙を落としながら、60人ほどの若者たちの勇壮な言葉を録音したという ▼「青い海の底で」と題する一文に、森繁さんは記している。そのなかにひとり、おそらく永久に忘れられない隊員がいたと。 長い沈黙があったのち、白皙(はくせき)の若者はマイクに向かって、重い口を開いたそうだ ▼お父さん。いま僕はなぜだか、お父さんと一緒にドジョウをとりにいったときの思い出だけで頭がいっぱいなんです。何年生だったかな。おぼえてますか。弟と3人でした。鉢山の裏の川でした。20年も生きてきて、いま最後に、こんな、ドジョウのことしか頭に浮かんでこないなんて…… ▼ポツンと言葉がとぎれてから、若者は言った。「何だかもの凄く怖いんです」。 ハッと胸を刺されるような響きがその声にはこもっていた。「僕は卑怯かも知れません…ね…お父さんだけに僕の気持を解ってもらいたいん…だ」 ▼あの戦争で、多くの人が死んだ。敵も味方も。兵士も民間人も。女も男も。なぜ彼らは、彼女らは、死ななければならなかったのか。それは避けられなかったのか。誰のせいか。何のためか ▼どこかの青い海の底で、あの若者はいまも、死の恐怖に魂をおののかせている気がしてならない。森繁さんはそう書いた。 きょうは、79年目の8月15日である。
2024.08.18
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いい加減にしろ!朝日新聞! 許されない偏向記事。これが日本のリベラル紙か? 2024-8-12 はんぺん 喫緊の課題が抜け落ちた朝日新聞の間抜けぶりに、呆れてしまった・・・社説全体として、重要な事実が、抹殺されたうえで(自衛隊70年)が、語られている・・・これって、偏向報道、誘導報道そのものだろう! 何と言う事だろう・・・というか、朝日の(初めに結論ありき)の偏向報道は、これまでの報道姿勢を検証すれば、想像がつく・・・というか、あのアジア太平洋戦争での(新聞の戦争責任)を 戦後の検証の中で何度も確認したハズなのに・・・またまた反省できないで、同じ(過ち)を繰り返している・・・ どうして、もっとも語らねばならない最大の直面する懸念をスルーして、自衛隊70年)を語るのだろう?? これでは、ほとんど説得力を持たないのだ・・・・ どうだろうか?? 何が抜けているか????それは、自衛隊というよりも、日本国民が直面する困難・脅威の事だ。 「地球規模での全体主義の脅威」「人類存続の危機」を前にして(抑止力の増強)が、今、喫緊の最重要課題では無いのか??この、朝日社説には、その情勢認識が、ゼロだ。それで(自衛隊の70年)を語ろうとすれば、大きな(過ち)を、またまた犯すことになる。社説を読んでいて・・・やはりというか・・・ 最初に言っておくが(戦争反対)は、当たり前・・・賛成する者など、いるハズは無い。「戦争への反省の風化をうかがわせる事象も相次ぐ。地道に積み上げた信頼という礎を損なうことなく、「国民を守る」使命を果たしてもらいたい。」(本文)・・・・これは正しい? ただし(戦争への反省)は大事だが、単純に(戦争反対)とはならないのだが・・・朝日の記事は、「戦争反対」という結論に持ち込もうとする(悪意)を 僕は、しばしば感じてきた。 また、「国民を守る」使命を果たそうとするなら、9条では守れない・・・自衛隊の強化、安保・基地の強化いう(抑止力の増強)しか、方法は無いのだが、朝日の記事では、そういう(不都合な真実)に触れることはない。これは、偏向報道であり、僕に言わせれば(まやかし)だ。 「憲法の精神にのっとって掲げられた原則が「専守防衛」である。侵略戦争の反省を踏まえ、近隣諸国の脅威にならないという宣言でもあり、その意義は今も変わらない。 一連の抑制的な防衛政策からの転換が、近年急速に進んでいる。」(本文)朝日の言う「憲法の精神」って、何だろう。第9条を中心とした(武装放棄の)日本の事か? ここでは、「専守防衛」という表現なので、軍事武装は、容認しているようだ。社民党や新社会党などの言う(非武装中立)では無いようだが、積極的に抑止力を増強する気は、サラサラ無いようだ。 むしろ、これ以上、防衛力増強するな)と言っているようにしか見えない・・・違うだろうか?そこには、地球上で、もっとも緊張を高めて、威嚇と挑発を繰り返してきた全体主義(中国・北朝鮮・ロシア)などの脅威についての言及が、一切無い・・・・これって、どういう事・・・??? 僕的には、自衛隊を語る時に、これは、あり得ないだろう!!! 天下の朝日新聞が、ボロボロだ・・・他新聞と比べて、極端に購読者を減らしている理由が、これでわかるというものだ。 何度も言うが、日本の置かれている現状を、しっかり目を開いて、注視するべきだ。(護憲)では、日本は、守れない・・・(護憲)は、間違っている!!!国民を(非武装)とか(専守防衛)などという、無責任な(妄想)で、扇動しない背もらいたい・・・強く抗議したい!!! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――(朝日社説)自衛隊70年、積み上げた信頼こそ礎 2024年7月2日 朝日新聞 自衛隊が1日で発足から70年を迎えた。平和憲法の下の実力組織として、国の防衛はもとより、災害派遣などの活動を通じ、今日では国民の幅広い支持を得るに至った。 一方、東アジアの安全保障環境の変化を受け、自衛隊のあり方を根本から変えるような政策変更が進む。先の戦争への反省の風化をうかがわせる事象も相次ぐ。地道に積み上げた信頼という礎を損なうことなく、「国民を守る」使命を果たしてもらいたい。 1945年の敗戦で旧帝国陸海軍は解体され、新憲法は9条で、戦争放棄と戦力の不保持をうたった。だが、冷戦の激化や朝鮮戦争の勃発を受け、米国から「再軍備」を求められた日本は、50年に警察予備隊を創設。保安隊を経て、54年に設けられたのが陸海空の3自衛隊だ。 憲法の精神にのっとって掲げられた原則が「専守防衛」である。侵略戦争の反省を踏まえ、近隣諸国の脅威にならないという宣言でもあり、その意義は今も変わらない。 しかし、一連の抑制的な防衛政策からの転換が、近年急速に進んでいる。第2次安倍政権が憲法解釈を変更し、集団的自衛権行使の一部容認を打ち出した閣議決定は、ちょうど10年前の7月1日だ。一昨年末の岸田政権による安保3文書の改定では、専守防衛を空洞化させる敵基地攻撃能力の保有が認められた。防衛装備移転三原則も見直され、殺傷兵器の輸出に道が開かれた。 長年にわたり定着した理念や原則を、国民的合意のないまま変えるのは、自衛隊の活動に不可欠な国民の理解や支持に悪影響を与えるだけだ。 自衛隊の役割が強化され、活動分野も広がる中で、隊員の意識にも変化が生まれているのだろうか。旧軍との継続性を疑われる振る舞いに頓着しない傾向は気がかりだ。 陸海自衛隊の幹部を含む自衛官らによる靖国神社への集団参拝が、今年に入って相次いで明らかになった。陸自部隊が、X(旧ツイッター)の公式アカウントでの投稿に、侵略戦争の肯定につながるとの指摘もある「大東亜戦争」の用語を使ったことも議論を呼んだ。 沖縄県に駐留する陸自第15旅団が、沖縄戦を指揮した牛島満司令官の辞世の句をホームページに掲載していることには、県民を犠牲にした旧軍を美化するものだとして、削除を求める声があがった。 戦争の反省と教訓、それを踏まえて再出発した自衛隊のありようについて、組織内でしっかり継承する取り組みが求められる。
2024.08.12
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戦犯ヒロヒト(昭和)の大罪をスルーして(戦争の終わり)は無い・・・事実を隠しても何時かは、バレル! ヒロヒト(裕仁)の戦争責任の問題は、避けては通れない重大問題だ!!! 2024-8-8 はんぺん多くの兵士が、戦いの中で亡くなったのではない。食料の補給が無い中、飢えと病気で、のたうち回って、亡くなった・・・これは、大量殺人という他は無い。 無責任で、知見に欠ける戦争指導者たちにより、国内外で、民衆を窮地に追いこんだ。 ヒロヒト(ヒロヒト)が「戦争をやれ!」と命令したことで、どれだけ多くの人命が、無残な死を遂げたのか? 中国大陸では、日本軍隊による、多くの蛮行が繰り返された。その規模は、想像を絶する・・・ その戦争犯罪の総元締めは、大日本帝国のトップであった、ヒロヒト(裕仁)だった。 この男は、責任を追及される事なく、地位を保証されて、寿命を全うしたが、あの飢餓地獄で、のたうち回った兵士たちの(無念)を思うと、不合理さには、唖然とするばかりだ。 特に、マスコミの報道では、この「戦犯追及」が、ネグレクトされてきた。これって、偏向報道だろうが!!! 戦前も、戦後も、マスコミは、権力に寄り添ってきた。そして、(天皇制)は、守られてきた!!!戦争の真実に迫らないマスコミに、価値はあるのだろうか?? 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――証言「食べ物めぐって殺人」戦地:メレヨン島 武田 賢司さん NHKアーカイブス (動画)https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001160001_00000 Q:メレヨン島に最初に着いたとき、初めてメレヨン島を見たときは、どんな島の印象を持ちましたか。 私ら甲板にいましたけれど、「あれがメレヨン島だ」「どこにどこに」って目をこらしたら、水平線上にですね、まぁヤシや木の緑なんでしょうけれどね、かまぼこ板を浮かべたようなあれですね。緑の横一線の棒が3つ4つ見えるんですね。「あれが島か?」「いや、あれは島じゃなくて、何か岩かなんかだろう」って言ったら、「いやあれが島なんだ」って言うんですね、船員さんがね。水面上から2メートルぐらい出ていますから、島には違いないけれど。サンゴ礁が隆起したっていうんですかね。 Q:武田さんたちのメレヨン島での任務というと、どういう任務に。 私らはね、要するにいちばん大きな主たる目的は、飛行場を守るということですね。最前線は例のガダルカナルとかね、ニューギニア戦線、大きな戦線がありましてね、そこで日本軍がやられちゃってね、後退してきまして。真ん中あたりの戦線が、もう最前線的な場所になっちゃった。 飢餓の島 味方同士の戦場の証言収録年月日 2010年7月証言者プロフィール 武田 賢司さん1921年 北海道多度志村(たどしむら・現深川市)生まれ1942年 1月、陸軍旭川歩兵27連隊入営し満州に配属される1944年 3月、メレヨン島に転進1945年 9月、復員【5000人餓死のメレヨン島】出来事の背景・・・・太平洋戦争中、現在のミクロネシア連邦のウォレアイ環礁を日本は「メレヨン島」と呼び、米軍のマリアナ侵攻に備えて、6500人の陸海軍部隊を駐屯させて飛行場を建設していた。 しかし、米軍の空襲で飛行場は破壊されて使われることはないまま、サイパンやテニアンは陥落。メレヨン島は前線の背後に置かれて補給もないまま放置されてしまった。 耕作地のほとんどない環礁に置き去りにされた将兵たちは、トカゲやネズミを食料にせざるをえず、伝染病と飢えに苦しめられた。 将校と兵士と間の給与(食糧配給)の格差や、食糧倉庫からの盗難などをめぐり、殺人が起こったり、処刑されたりする兵士も出た。昭和19年末から餓死や病死が増え始め、最終的には7割の兵士が戦わずして命を落とした。陸軍下士官としてメレヨン島で1年半を生き抜いた武田さんが、餓死による「玉砕の島」を語る。
2024.08.08
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ふざけるな!リベラル・・・開いた口が、ふさがらない(出まかせ)のたわ言! 2024-7-14 はんぺん以前の話だが・・・辻元清美たちが設立した、自衛隊に反対するピースボートの船が、海賊が頻繁に出没する中東の海域に入った時、日本から(国際的連携のために)派遣されていた自衛隊の護衛艦に守られて、航行したというニュースが、あった。 ここに、リベラルたちの二枚舌が、図らずも見えてしまったと、多くの国民は感づいたのではないだろうか??本当に、自衛隊や軍事基地、安保条約に反対するのであれば、自分たちだけで、何とかするべきでは ないのか?? こんな時に、自衛隊の艦艇に護衛を頼むというのは、誰が考えても、おかしいだろう・・・違うだろうか? 僕は、当時、このニュースを聞いて、呆れてしまったことを今でも、はっきりと覚えている。 (能天気な平和主義者)、(護憲真理教の信者)の皆さんは、非現実的な(非武装中立)を掲げ、戦力不保持、基地反対、安保反対を叫び続けてきたが、そのことで、日本の平和、世界の平和が、守れるハズは無い・・・と断言できる。 彼らは、あまりにも、無責任なスローガンに酔いしれて、空想の世界の中を(浮遊)してきたが、今や、その実態がバクロされてしまった!!そのボロボロになった(運動)に、多くの国民が気づき、見放してしまう事になったのが、昨今の事実だ。(=異様なリベラルたちの凋落) (参考)9条改正、自衛隊明記「賛成」が51% 朝日新聞世論調査 2022年7月18日 朝日新聞 朝日新聞社は16、17日に全国世論調査(電話)を実施した。岸田政権のもとで、憲法9条を改正し、自衛隊の存在を明記することへの賛否を尋ねたところ、「賛成」51%が「反対」33%を上回った。 (後略) 辻元清美たちの言動は、僕にとっては、狂っているとしか思えない!!平和を謳って死や屈辱を選ぶのなら、それはそれで崇高な理念だと思うし、彼女たちの個人的な考え方は、自由だ。 しかし 困ったときに、それをかなぐり捨てて、自分たちの保身を図るのであれば、それは、最も軽蔑すべきハレンチな行為になると思うのだが・・・どうだろうか? 世界は、全体主義国家群と、民主主義国家群との(新たな冷戦)の時代に突入してから、かなりの時間が経った。 そのことを、認識できないリベラルたちは、あい変わらず、全体主義の脅威に見て見ぬ振りをしながら、自国の抑止力の強化に反対して、全体主義国家群(中国・北朝鮮・ロシアなど)を狂喜させ続けている!!! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――――――――――「『危ないときは守って』はムシがいい」 ソマリア沖で海上自衛隊の護衛艦がピースボートを護衛 2016-5-17 産経新聞 海賊対処のためアフリカ・ソマリア沖に展開中の海上自衛隊の護衛艦が、民間国際交流団体「ピースボート」の船旅の旅客船を護衛していたことが17日、分かった。ピースボートは海賊対策での海自派遣に反対しており、主張との矛盾に批判も出ている。 海自の護衛艦「ゆうぎり」は今月3~4日にかけ、ソマリア沖・アデン湾を航行するピースボートの船旅の旅客船を護衛。船旅の企画・実施会社が国交省を通じて海自に護衛依頼をしたとみられ、ピースボート側は「コメントする立場にない」としている。 ただ、ピースボートは海自派遣に反対の立場なだけに「『危ないときは守って!』というのはムシがいい」(自民党国防族)との指摘も出ている。 ピースボートは民進党の辻元清美衆院議員が早稲田大在学中の昭和58年に設立。船旅は寄港地のNGO(非政府組織)や学生らと交流を図ることなどを目的としている。
2024.07.14
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沖縄基地は、必要。それが、地政学的な、沖縄の宿命。全体主義の脅威を前にして(自衛隊反対)(安保反対)(基地反対)は、あり得ない!!! 2024-7-2 はんぺん「防空壕で泣く赤ん坊を敵に見つかるからと殺そうとする兵隊が居たそうな。母が他人に手をかけられるぐらいなら私が殺すと兵隊を突き飛ばして自らあかちゃんの首を絞めたそうだ。どれだけ悲しかったか想像もつかない。悲惨でとても哀れだ・・・・」 沖縄戦では、ヒロヒト(昭和)の宣戦布告で、悲劇の幕が切って落とされた・・・多くの人間が絶望に追いやられ、命を絶たれたりした。それらを踏まえて書いてみたが・・・ 前に、このブログで、何度も言ってきたこと・・・(奴隷の平和)か(混乱の自由)か!!!!「独裁の中での平和よりも 混乱の中での自由の方がはるかに人間的である」(サッチャー元英首相)の事だが・・・ (参考)ウクライナ侵攻は、平和憲法の破産を決定づけた・・ 国民を守らないリベラルは、要らない!! 2022-4-7 (はんぺん)https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202204070000/ 80年前は、日米両軍にとっての要(かなめ)の沖縄だった。占領された沖縄は、日本進攻(上陸)の最前線基地として、大規模に緊急整備された・・・ 今は、どうか? 全体主義と民主主義との対立の要(かなめ)の位置にある沖縄・・・中国全体主義は、大洋進出の前線基地として、虎視眈々と狙っている。 戦争に巻き込まれてきた沖縄の民衆の不運を我々、沖縄以外の世界人(日本人だけではない)は、どんな気持ちで、接することができるのだろうか? 日本と世界の平和を考える我々は、この問題を(悩ましく)感じてきた。 沖縄という土地に生まれただけで、大きなハンディキャップを背負いこんでしまうという(不運)の事だ。 ここで、考えなければならない事・・・我々は、沖縄という限定された地域の問題として、考えるならば・・・大きな過ちを犯してしまうという事。 世界の中の沖縄・・・という観点から、物事を見るしかない・・・そこに(真実)があるから。 沖縄に住む人々にとっては、目の前の日米両軍の基地が、問題になるのは、当たり前の事。しかし、あえて彼らに、地政学的な問題を、投げかける必要がある。そして考えてもらう・・・全体主義と民主主義の(新冷戦)について・・・・。 そして、不本意ながらも、理解してもらわねばならない事・・・・それは、民主主義の最前線にある沖縄の事、そのために基地や自衛隊は、必要不可欠である事、それ以外の事については、(日本だけでなく)民主主義派は、最大の支援をしなければならない事・・・を。 全体主義が、ますます膨張を続ける中で、沖縄の基地や日米両軍の存在は、ますます、抑止力としての存在感が、高まることになる・・・そのことは、(今、そこにある真実)なのだから・・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん /////////////////////// (引用先・・・??)宮本聖二(立教大学 特任教授 / 日本ファクトチェックセンター副編集長 補足沖縄戦では、あらゆる地獄の事象が起きたと言われますが、日本軍兵士による住民殺害も少なからず起きています。 32軍の5月下旬の司令部放棄後は、住民と生き残った将兵が一緒くたになって本島南部で逃げ惑うことになりました。この1ヶ月間で死者は激増します。 隆起珊瑚礁の島である沖縄本島には数多くの天然の洞窟があり、軍も住民も潜み、米軍に見つかることを恐れて泣く子の口を塞ぐよう兵士から強要され自ら子を殺してしまう恐ろしい出来事が各地でおきました。 6月以降米軍は、壕の一つ一つを潰して行きます。1993年、摩文仁に近い米須の壕に調査に入りました。 入り口は体を滑り込ませるようにしか入れないほど狭いのですが、中は大きな空洞が広がっていました。撮影のためにライトをつけると、足元は真っ白。砕けた人骨が一面に広がっていたのです。沖縄戦の苛烈さを一瞬で感じました。百人を越す人がそこで死んでいたのです。 ///////////////////ptpo am 非表示・報告現在、客観的に考えることができる現在においては、日本軍は住民を巻き込んで徹底抗戦をしてはいけなかった。状況を考えれば、降伏するのが軍事的に妥当であるし人道的にもすべきであった。それができなかった理由を後世のために検証すべきであり、その悲惨な状況を伝えてくれる当事者の声は何一つ妨げてはならないと思う。 「過去に目を閉ざすものは現在においても盲目になる」というヴァイツゼッカーの言葉が思い起こされます。向き合う勇気と、考える理性を忘れてはいけないのだろうと思います。 ///////////////////////sky******** 非表示・報告 「泣く子は入れない」という話は私も現地の方に聞きました。住民の方々が壕(現地の方はガマと呼んでました)の中で息をひそめて隠れている中、泣く子がいると米兵に見つかってしまう。ごめんなと言って石で頭を殴打して黙らせたそうです。その子がどうなったかは言うまでもありません。大変な悲劇で心中を言葉にすることができません。二度と同じことが繰り返されないことを祈ります。 //////////////////////////////a*****18 非表示・報告以前近所に住んでいた沖縄出身のおじいちゃんは子どもの頃、兵隊さんに憧れていて自分も早くなりたいと思っていたのに、沖縄戦で逃げ回る時に壕に避難していたら泣き止まない赤ちゃんがいて、兵隊さんが母親もろとも刀で刺したのを見てしまい、一気に恐怖の対象になったそうです。 幼心に、かっこいいものなんかじゃない、これが本当の戦争なんだと思ったし、亡くなった人のいる道を歩いたりそんな川の水を飲んだり、亡くなった兵隊さんはもう怖くないからとその荷物を盗んだりして生き延びたことを小学校の平和学習で教えてくれました。 ほかにもあまりに生々しい話で(それでも今思えば子ども向けにやさしい内容にしていた気がする)、それまで、敵をやっつける戦争はちょっとかっこいいとまで思っていたクラスメイトのやんちゃな男の子たちもすっかり考え方が変わっていました。//////////////////////////// sou******** 非表示・報告バンザイクリフで若い女性が手を合わせながら海に身を投げるシーンが有名だが、実はこの女性が海に身を投げる前に、抱いていた自分の赤ん坊を先に海に投げ落とした後に自身も投身している。 実際にその場面を撮影していた米軍カメラマンがTV(NHKスペシャルだったかな?)で証言していて、実際にその一連の映像をTVで流していたのを観たことがある。悲惨過ぎるからか、他のTV 番組では赤ん坊を投げ落とすシーンはカットされている。だから知らない人の方が多いと思う。 あと、防空壕で赤ちゃんが泣くと、母親に防空壕から出ていくか赤ん坊を殺せ、と言われたという証言も聞いたことがある。風化させてはいけません。最近は戦争に関する悲惨な映像をTVで観る機会がほとんどない。人間の愚かさを知るためにもNHKに限らず民放も定期的に放映するべき。
2024.07.02
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いつまでも、現実に向き合えない(平和運動)の現実からの乖離・・・いつ?気が付くのだろうか?? 2024-6-27 はんぺん 「沖縄慰霊の日」(6月23日)は、沖縄戦終結の日として、記憶されねばならない・・・住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としたという(沖縄戦)が、事実上の終結した日として・・・ 1970年前後の学生運動では、1952年4月28日は、「対日平和条約」が結ばれ、沖縄が、本土と切り離された日・・・沖縄の屈辱の日として、記憶されていて、「4.28沖縄反戦デー」ということで、大阪の御堂筋デモなどが提起されて、僕も呼びかける側として、果敢に参加していった記憶もある。そういう認識の下、その後も・・・安易に(自衛隊反対)(安保反対)(沖縄基地撤去)のスローガンと、何の矛盾も無いモノと考えていたのだが・・・今振り返ってみて、反省しきり・・・だ。その背景には、(社会主義幻想)(護憲幻想)が、あったのだ。 「今、戦争の足音が聞こえる どうしても止めたい」・・・今でも、こういう表現が日本の平和運動のレベルなのだろうし、これでは、戦争は止められれない・・・と断言できるだろう。 沖縄県内には、全国のおよそ7割のアメリカ軍専用施設が集中し、国が沖縄を含む南西諸島の防衛力強化を進める中、自衛隊の新たな部隊の配備や強化も計画されている。 これらは、日本防衛のためには、必要不可欠なものであることは、今や(常識)だ。地政学的に、沖縄の占める位置は、日本防衛のためというよりも、極東の平和、全体主義の脅威からの防衛という意味でも、沖縄の役割は、ますます重要性を増している。 (非武装中立)で、平和を目指すなどは、僕に言わせれば(もってのほか!)と思うのだが・・・日本のリベラル派たちは、いまだに(自衛隊反対)(安保反対)(沖縄基地反対)などと無責任極まる(方針)を続けている。 あり得ない・・・と、いつも思うが、特に許せないのは(日本が、戦争に巻き込まれる・・・)という(護憲派)の言い分だ・・・ これって、あのトランプの(アメリカ:ファースト)と、同じやん!!!日本が、戦争に巻き込まれなければ、それで良いの??? 他の国が、戦争の惨禍に苦しんでも、日本だけが、平和であり続ければ、それで良いの? という事だろう。 これって(日本:ファースト)やん!!! 実際には、このグローバルな世界で、日本だけが平和を保ち続けることができる・・・という事は、あり得ないし、限りなく(非現実的)だ。従って(巻き込まれる・・・)なんて発想は、50年以上昔の話・・・平和運動の(劣化の証明)だと思うが・・・どうだろうか??? 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――「慰霊の日」祖父に聞いた沖縄戦◆記憶受け継ぐ 2022年06月23日 時事ドットコム 沖縄県出身の私は、沖縄復帰50年の節目となる2022年に時事通信に入社し、復帰関係の取材に携わった。 「もっと戦争体験を記録しなければ」。20万人以上の犠牲が出た沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる「沖縄慰霊の日」(6月23日)を前に、そんな思いが強くなり、「記者」として祖父から話を聞いた。 88歳の祖父は「(沖縄戦)前からがいいか?」と切り出し、70年以上前の記憶をゆっくりと語り始めた。(時事通信社会部 饒平名咲衣=よへな・さえ) 「対馬丸」直前で取りやめ 1944年7月、戦況は日増しに悪化し、沖縄が戦場になる可能性が高まっていた。「沖縄は玉砕する。長男だけでも内地に逃がそう」。当時、祖父の父は大阪で働いており、那覇市で5人の子どもを育てていた母は、小学5年生だった祖父を学童疎開船「対馬丸」に乗せることにした。 8月21日。祖父自身も乗船する気だったが、出航予定時刻を1時間半後に控えた午前7時半、那覇市の家を出ようとすると、泥まみれの2人の弟が玄関前に座り込んで泣きじゃくっている。「行かないで」。泣きやまない弟たちの姿に、祖父は「1人では行けない。自分は家族といなければ」と思い直し、乗船を取りやめた。 ~この日出航した対馬丸は翌日夜、鹿児島県・悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没しました。学童784人を含む1484人(氏名判明分)が犠牲となり、祖父の同級生も多く乗船していたそうです。祖父は「護衛の兵隊も乗っていたから逆に狙われた。子どもだけだったら撃たなかったと思う」と話しました~ ◇練習じゃない! 乗船取りやめから2カ月近くたった10月10日、「那覇港で日本の航空隊の練習がある」と聞いていた祖父は、近くの小山に登って港の方を眺めていた。早朝、ごう音とともに飛来した飛行機が、船に次々と爆弾を落としていく。「すごい練習だな」。そう思った直後、空襲警報が鳴り響いた。「練習じゃなかった。米軍の飛行機だった」。急いで家に戻り、10キロの米を担いで家族と防空壕(ごう)へ逃げた。途中、足の親指の爪がはがれたが、痛みに気付いたのは壕に着いてからだった。 ~「10.10空襲」では那覇市の9割が焼失し、住民約660人が亡くなりました~ 徒歩で80キロ 米軍が沖縄本島に上陸し、地上戦が始まったのは翌45年4月。祖父ら家族6人は本島北部に避難するため、ひとまず電車で嘉手納に向かおうとした。だが、駅で「5年生以上は歩いて行け」と言われ、結局、6人は直線距離にして約80キロを徒歩で避難することになった。 嘉手納では、足の悪い「おばあ」(祖父の祖母)と合流した。祖父たちは途中、「歩けない人を車で送っていく」という人に「おばあ」を預けたが、送り先の合流場所に「おばあ」の姿はない。そうこうするうち、合流場所で米軍の空襲が始まり、以来、「おばあ」とは会っていない。 ◇米軍に捕まる 弾薬庫のある山で兵士に「止まれ」と懐中電灯で照らされ、「危うく殺されかけた」。身を寄せた学校では、2歳の妹が夜明けに泣きだし、「(気付かれて)アメリカに爆弾を落とされたら困る。出て行きなさい」と追い出された。そんな経験を経て、ようやくたどり着いた目的地にも食糧はなく、別の場所へ避難しようとしたところを米軍に捕まった。 トラックに乗せられた祖父ら6人は、名護の一軒家に約70人の人たちと詰め込まれた。6人で使えるのは畳1枚半のスペースと毛布1枚のみ。祖父と姉は座ったまま眠り、母はマラリアにかかった。 ここでも食糧はない。祖父は「命がけで」米軍の部隊から米を盗んできた。「捕虜になっていた人たちと分けたら少ししか残らなかった。でもみんな何も食べてないから分けたよ」。 靴磨きで糊口をしのぐ 戦後、祖父の父が大阪から帰ってきた。だが、父の稼ぎだけでは家族7人が食べていくことはできない。13歳だった祖父は米軍のフィリピン人部隊で靴磨きをし、代金の代わりに受け取ったたばこを売って生活費を稼いだ。 戦後すぐ、薬きょうや不発弾がそこら中に落ちており、祖父は、落ちていた薬きょうを使って大きな音が出る「銃」を自作した。「米兵が山から降りてきて襲いに来る。そいつらが来たときに、音で脅す。あとは女の人が家の奥に隠れられるようによ」。弟は幼い頃、遊んでいた不発弾が爆発し、指を1本失った。 18歳からはタクシー運転手として働いたが、「内地に行けば給料が倍になる」と聞き、27歳の時に横浜へ。最初の職場では「朝鮮と沖縄は一緒だ」と差別された。その後、トラック運転手をしていた時に父が亡くなり、本土復帰後の73年9月、沖縄に戻った。 本土復帰について尋ねた。「横浜にいたからね。何とも思わんかったんじゃないか。覚えてない」。 対馬丸沈没から60年後の2004年、那覇市に「対馬丸記念館」が開館。多くの同級生を失った祖父の足は向かなかったが、81歳になった年の8月22日に熱が出た。沈没した日に合わせた発熱は3年続き、83歳の時、初めて記念館を訪問。展示された同級生らの写真に手を合わせると、不思議と熱は下がり、翌年以降、発熱しなくなったという。 取材を終えて 「聞いてくれてありがとうね」。2時間半の取材後、祖父は何度も感謝の言葉を繰り返した。最近の記憶は薄れてきているのに、70年以上前の出来事、地名を鮮明に記憶していたことに、「祖父はこの日をずっと待っていたのではないか」とさえ思った。 間もなく戦後77年。私は祖父の代から直接話を聞ける最後の世代なのかもしれない。記者として、沖縄出身者として、また平和を願う1人として、記憶の継承の在り方を考え続けていこう。祖父の話を聞き、改めてそう思った。(2022年6月23日掲載)
2024.06.27
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「戦争は悲惨・・・」「戦争は繰り返してはならない・・・」 「戦争反対・・・」いつまでも、そんなレベルの進歩の無い日本の平和運動って、何をしてきたんだろう・・・それは何も語っていないのと同じではないの?? 2024-6-26 はんぺん今回の、朝日新聞や時事通信の記事・・・このような戦争の体験談は、貴重だ。子々孫々に語り伝えて行かねばならない内容が、いくらでもあるからだ。しかし・・・しかし、だ! この記事には、決定的に欠けているものがある!!!何か??? 皆さんなら、わかるだろう・・・?? 「次の戦争を止め、平和をつくるため、悲劇を風化させてはいけない」(本文)「政府には、手段は問わないから、とにかく平和でいれるよう取り組んでほしい」(本文) という(当たり前)と思われる部分だが・・・これが、結論だとしたら、情けない!!!・ (戦争の悲惨さ)をいくら強調しても、そこから得る教訓は、出てこないから!戦争が起こされた原因、戦争責任の問題が、欠落しては、この記事の価値は、ゼロに等しくなる・・・と思うのだ。 そう、ヒロヒト(昭和)の戦争責任の問題が、いつもカットされているのだ・・・これが、反戦記事? ・・・冗談ではない・・・・ 戦争は、悲惨だ、やるべきではない・・・・なんて、100回叫んでも、1,000回叫んでも、戦争責任の問題を回避していては、いつまでも(戦争)には、迫れない・・・違うだろうか?? 1941年12月8日、ヒロヒト(裕仁=昭和天皇)による「太平洋戦争 開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」戦争を宣言した。*********************開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」詔書。天佑を保有し万世一系の皇祚を践(ふ)める大日本帝国天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。 朕、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ・・・。*********************・・・・というわけだ。 この戦争により、300万の日本人、2,000万のアジア民衆の命が、奪われたという・・・その真実を、マスコミは、戦後、取り上げて、戦争責任を追及してきたのか?? 戦端は、昭和16年(1941)12月8日に、日本海軍がハワイ真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊へ総攻撃をかけた「真珠湾攻撃」によることは、知られているが、天皇の(戦争犯罪=大罪)については、いつもスルーされてきている。 天皇制を利用して、戦後の日本統治を企んだ連合軍(GHQ)の「お情け」で、ヒロヒトは、(命拾い)して、寿命を全うすることができた。(憲法第一章 天皇)これが、戦後の平和運動にとっての(ガン)となる・・・歴史に真摯に向き合う立場からは、到底、納得できない現実だった。 莫大な死者の怨念を 皇室は感じなければならないし、戦後すぐに、天皇制度は、解体されるべきだった。あまりにも、天皇制の洗脳が、徹底されすぎたために、その(洗脳)をマッカーサーが悪用することになり、それが、戦後の天皇制存続へ、つながっていく。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――――――「泣く子は入るな」追い出され 風化させない、語り継ぐ85歳 祖父母、弟妹失った喜屋武さん・沖縄慰霊の日 2024-6-23 時事通信 約20万人が犠牲になった沖縄戦で、当時6歳だった那覇市の喜屋武幸清さん(85)は、祖父母や幼い弟妹を失った。 「次の戦争を止め、平和をつくるため、悲劇を風化させてはいけない」と訴える。 マリアナ諸島・テニアンで生まれた喜屋武さんは4人きょうだいの長男。戦争が始まり、父を残して祖父の出身地、沖縄県に引き揚げた。 住んでいた那覇市にも戦火が及び、祖母が艦砲射撃の犠牲に。沖縄本島南部に逃げる途中、日本陸軍の壕(ごう)に身を寄せたが、「われわれを守るための日本兵が奥に、避難民は入り口に座っていた」と憤る。 近くで戦闘が始まり、さらに避難を余儀なくされた。母は、当時0歳だった妹を抱き、2~3歳の末の弟を背負った。二つ下の弟は母のもんぺにつかまっている。本島南端の糸満市まで歩いた。「糸満の海は軍艦で埋め尽くされ、水平線が真っ黒だった」と喜屋武さん。激しい艦砲射撃を受け、祖父を失った。 6月、同市摩文仁にたどり着いた。海岸近くの壕に入ろうとすると、住民の中に隠れていた日本兵が母に銃を突き付けて言った。「泣く子は入れない」 「上の2人は泣きませんから助けてください」。母は懇願し、「母ちゃん、母ちゃん」と泣きすがる末の弟と妹を連れて壕を離れた。1人で戻ってきた母は、壕の入り口をふさぐように石を積んだ。 3日ほど後、壕の入り口から米兵が「デテコイ、デテコイ」と呼び掛け、最初に飛び出した喜屋武さんを抱き上げて水筒の水を飲ませた。「命の水」だった。幼い喜屋武さんには、米兵が天使に、日本兵が悪魔に思えた。 戦争が終わっても、「弟妹はどうなったのか、おふくろを悲しませると思うと聞けなかった」と喜屋武さん。苦労がたたったのか、母は喜屋武さんが高校1年生の時、心臓病で亡くなった。38歳だった。 喜屋武さんは今でも、弟と妹が生きているのでは、との希望が捨てられないという。「誰かに助けられてどこかで大きくなっていやしないか。空想、小説みたいな話だけど、いつも心の中にある」と語る。 今、喜屋武さんは年に数回、修学旅行生の前で体験を語っている。「あなたが話さないと、沖縄戦がなかったことになるよ」。母が背中を押してくれているように感じるという。 ――――――――――――――――― 日本兵に「何度も脅された」 激戦地、糸満市での体験語る―88歳の仲間さん・沖縄慰霊の日 2024-6-22 時事通信 編集局 太平洋戦争末期の沖縄戦で、最後まで激戦が続いた沖縄県糸満市。23日の沖縄慰霊の日を前に、同市の仲間進栄さん(88)が79年前を振り返り、「日本兵に何度も脅された」と語った。 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸。仲間さんの母や妹らは本島北部へと避難した。仲間さんは当時9歳。祖父母と共に最南端の糸満市に残ったが、戦火を避けるため、家を出て近くの斜面に横穴を掘ってつくった「ガマ」で生活するようになった。 そんな生活が続いたある日、日本兵がガマに入ってきた。「出て行け。ここは私たちが使う」。銃を構えて言い放ち、仲間さんらを追い出した。 住むところを失った仲間さんらが再びガマをつくると、別の日本兵が「ここは危ない。別のガマに逃げた方がいい」と言ってきた。言葉に従ってガマを出た後、様子を見に戻ると、複数の日本兵が中で談笑していた。 日本兵にガマを追われたのはこれに限らない。戦況が厳しくなると、沖縄本島南部に逃げ込む日本兵が増え、何度も脅され、だまされた。最後は海辺の鍾乳洞に逃げ込んだという。 ある夜、鍾乳洞の外で激しい爆発音がした。外に出てみると、すぐそばに迫った米戦艦が近くに潜む日本兵を攻撃していた。 ふんどしを白旗代わりにして降参しよう。そう思った矢先、日本兵が「自決しよう。捕まったらひどいことをされるぞ」と銃を渡してきた。信用できるか―。何度もだまされた仲間さんらは制止を振り切って白旗を掲げ、米軍に保護されたという。 つらい記憶を振り返り、「二度とあんな悲劇は見たくない」と語った仲間さん。「政府には、手段は問わないから、とにかく平和でいれるよう取り組んでほしい」と切に願った。
2024.06.26
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(平和憲法幻想)に付き合わされる国民の悲劇・・・リベラル派の「犯罪」。問われる(何をなすべきか!) 2024-6-18 はんぺん 能天気な(護憲派)の人々が、よく言う(非武装中立)なんて、今や、誰にも見向きもされない。(永世中立のスイスを見習え)・・・と、昔、よく言われたが、スイスの現実を直視しない(阿呆のたわ言)だという事が、わかる。 「周辺国に『この国に手を出すとヤバい(損だ)』と思わせる必要があります」(本文)・・・こんなことが、今の日本で、可能だろうか? (徴兵制)も(多数の射撃場)も、(ゲリラ戦)も、(シェルター)も・・・・「平和主義者」たちは、「戦争の準備だから・・・」と、大反対することは、明らかだ! そして、全体主義者(中国・北朝鮮・ロシア)たちを、喜ばせ続ける事だろう・・・・ 「永世中立の意味は何処の国家にも忖度せずに領土を侵せば攻撃するという意味と同義。実際スイスは大戦中に領空に入った両陣営の航空機を撃墜した」(本文)「軍事力以外でも、金融面においても裏情報も含めて絶大な影響力がありますし、色々総合して、他国にスイスを責めるのは割に合わないと思わせています。」(本文)・・・このことができない(平和主義者)たちが、現実には、(有事に)何もできないで、うろたえてばかリなのは、火を見るよりも明らかだ。 侵略の危機に備えて、スイスでも、台湾でも、国内に、無数の(シェルター)が、作られていると言う・・・ もし、日本で、この当たり前の(自衛努力)が、提起されたら、彼らリベラルたちは、猛反対するに違いない。(自衛隊にも、反対しているのだから) 現実に向き合わない、無責任な彼らの(妄想)に、いつまで、我々は、付きあわなければならないのだろう??? 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――(QUORAから)日本が永世中立国になる、その上で軍隊を持つ、という、スイスのような形になる可能性はあるのでしょうか?(回答者)Tai Iuchi (ジュネーブ在住)出来なくはないですが・・・少しでも手を出して来たら全力で噛みつく意識を全国民が持つ必要があります・・・中国が尖閣諸島に領海侵犯を繰り返していますが、永世中立国を維持したいのでしたら、全力で攻撃し、周辺国に「この国に手を出すとヤバい(損だ)」と思わせる必要があります (永世中立の意味は何処の国家にも忖度せずに領土を侵せば攻撃するという意味と同義。実際スイスは大戦中に領空に入った両陣営の航空機を撃墜してた) 当然、スイスでは徴兵制を行っていますし、国の至る所に射撃場があり、徴兵後も定期的に銃の腕を維持して置く必要があります。うちの会社の下の階が射撃場で同僚のスイス人は昼飯後の休憩に練習に行く・・・ 軍隊ではゲリラ戦を仕込まれるそうで、国が占領されたときに国民は山間部に逃げ込み、侵略者と徹底したゲリラ戦を行い国外に亡命したスイス政府と連携して国を奪回する作戦を行うとのことです。 アパートの地下には当然の様にシェルターがありますし(最近では義務ではなくなったと聞いた)。 軍事力以外でも、金融面においても裏情報も含めて絶大な影響力がありますし、色々総合して、他国にスイスを責めるのは割に合わないと思わせています。 ルクセンブルクも同じような環境下の国家で、永世中立を宣言していましたが、、、フランスの通り道にあった為ドイツに占領されました。当時の国民の反応などを見ていると・・・スイスほどの覚悟が無かった様にも見えます。 そういった意味で、日本は永世中立国を志向することはできると思いますが・・・覚悟が足りず中途半端になり、失敗し孤立しただけになる可能性は非常に高いですね・・・ 下記は、6月初旬にジュネーブーベルンという主要高速道路を1日閉鎖して行った、高速道路での戦闘機離着陸訓練の様子です。当然、国民意識が高いので文句も出ず。
2024.06.18
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戦犯ヒロヒト(裕仁)=最高責任者の戦争犯罪を忘れるな!! 多くの国民が、無残な死を遂げた・・・今でも、ヒロヒトを擁護する(めでたい輩が蠢いているが)、騙されてはいけない。戦争の最大の張本人は、ヒロヒトだ!!! 2024-6-15 はんぺん戦争で、もっとも悲惨な犠牲を強いられるのは、底辺の国民だろう。戦争で、莫大な利益を得る資本家たちがいる一方、圧倒的多数の庶民は、一番に徴兵で戦地に引っ張り出され、死に追いやられた。 戦争を始めたヒロヒトの責任問題を忘れてはならない・・・戦後80年近くが過ぎ去り、戦争による(惨禍)が、忘れられそうになっている。いつの間にか、戦争の責任問題が、あいまいにされ、うやむやにされているようだが、歴史の修正は、許されない。 (ヒロヒトが、平和主義者だった・・・??) 何を寝ぼけたことを言っているのか? 戦後は、かろうじて生き残った(天皇制)・・・マッカーサーやアメリカの(思惑!!!)で、救われた(天皇制)だが、国体主義者たちは、その後、様々なキャンペーンを駆使して、天皇制の現代化を企ててきた。 (国民に寄り添う皇室)キャンペーンが、その一つの柱だろう。(人間宣言)をした(させられた)ヒロヒト(裕仁)だが、彼の戦犯としての(罪)は、消え去ることは無い。これは、事実が、明らかにしている事だ。(歴史事実を、否定して、神格化を求める輩は、問題外) 犯罪事実は、犯罪者が亡くなっても、消え去ることは無い・・・これだけは、確認しておきたい。後世、歴史家は、あのアジア・太平洋戦争で亡くなった(=殺された)多くの(アジアを含む)民衆や兵士たちの事を 取り上げざるを得ないだろうし、その時、戦後の日本人が、果たした、歴史的責任についても、(評価)されるのではないだろうか? 戦後、世を挙げて?皇室キャンペーンが、展開されて、多くの日本人が、(開かれた皇室)に洗脳されてしまった。 これについてのマスコミの責任が問われ続けている。 戦前、マスコミ(新聞とラジオなど)が、天皇制軍国主義に全面的に協力し、排外的キャンペーン、好戦的キャンペーンを繰り広げてきたが、その(戦争責任)の問題に、彼らは、本当に真摯に向きあってきたのか??? 少なくても目の前の現実を見る限り、彼らの(反省)は、形だけだったと思わざるを得ない・・・・ニセモノだったのだ。 マスコミのタブーとして、戦後の3大タブーすなわち、(菊タブー(皇室批判タブー)、鶴タブー(創価学会批判タブー)、荊タブー(部落解放運動批判タブー)が、昔から、良く知られていた。 今は、ウイキペディアによれば・・・・桜タブー(日本の警察批判タブー)メディアタブー(メデイアの権益に関する批判タブー)芸能プロダクションタブー(芸能関係者の犯罪の報道に対する忖度)スポンサー・広告代理店タブー(スポンサーから番組の制作費や広告収入を提供されることで事業が成立している民放の忖度)在日韓国・朝鮮人タブー(在日本朝鮮人総聯合会=朝鮮総連等に対する批判のタブー)核タブー(原発政策「国策」を批判することは、民間放送局、NHKともにその放送基準で規制対象とすることを公開している)菱タブー(山口組の代紋である山菱に由来、報道内容に忖度) マスコミ間には、程度の差はあれど、微妙に生きているというのが、実態だが、その中でも、菊タブー(皇室批判タブー)は、力強く(!!)生き続けていて、成長!を続けている!!!!!! さいづめ、このブログなどは、糾弾の対照にもなるハズだが、閲覧者が少なすぎて、無視され続けているが・・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――(QUORAから)史上最も悪名高い狂気の天才といえば誰でしょうか?(回答者)Alex Mann(大卒卒業翻訳者)·Historian (2017–現在) この回答は次の質問に対するQuora英語版でのAlex Mannさんの回答です (ご本人は翻訳の成否を確認しておりません) :Who is the most notorious mad genius of all time?悪名高いのではなく、もっと悪名高くなるべき悪の天才に焦点を当ててみましょうか。ナチスの科学者がいつも注目されますが、日本にも独自の邪悪な科学者がいて、彼は絶対的な怪物だったと言ったらどうでしょう。石井四郎を紹介しよう - マジでクソなやつだ この人は医者で微生物学者で、しかもかなり頭のいい人だった。ほぼ生涯にわたって優秀な人物と見なされていた。彼はよい教育を受け、医者として軍隊に入隊した。上官の目にとまり、京都帝国大学へ留学することになった。 第二次世界大戦中は731部隊の指揮を執り、これが彼の名声につながった。731部隊とはなんだ? これは、彼らは実験や戦争に勝つための新しい方法を考える科学部隊であった。彼らが行ったことの例としては: 女性を監禁し、妊娠するまで強 姦し、ある毒が妊婦にどのような影響を与えるかを見るために、恐ろしい痛みを伴う実験を行った。 梅毒に感染させた後、(生きているうちに)その人を切り開き、感染が進むにつれて体がどうなっていくかを観察した。女性、男性、そして子供までもが強制的に感染させられた。 これは生体解剖と呼ばれるもので、生きているうちに誰かを切り開いて、その体がどうなっているかを見るもので、通常、動物実験をするときに行われるものであった。731部隊では、麻酔なしで人に行い、その結果、人はゆっくりと苦痛に満ちた死を迎えることになった。 どうなるか見るために人に動物の血液を注射した(最悪の死に方)。 遠心分離機に人を入れ、死ぬまで回す。 囚人から食事と水を奪って、死ぬまでの時間を見る。 低圧室に目が飛び出るまで人を入れておく。 生きたまま燃やして、どれだけ生きられるか試す。 塩水を注入して、何が起こるかを観察した。 毒を盛ってその効果を見る。 放射線被曝の影響を調べる。 生後3日の赤ん坊を寒さの中に置き去りにして、凍死するまでの時間を調べた。 火炎放射器による人体実験、 手榴弾を使った実験、 面白半分に臓器を摘出する。例えば、誰かの胃を切除し、食道を直接腸にくっつけた。 何百種類もの病気や生物兵器を人体実験した。 731部隊では、およそ1万人の捕虜が殺され、2万人が実験にかけられた。この部隊が製造した生物兵器は、50万人もの民間人を殺害するために使われた。 余談だが、第二次世界大戦ではナチスでさえ化学兵器を(強制収容所を除いて)使用していない。第2次世界大戦中、民間人や軍事目標に対して化学兵器を使用した唯一の国は日本であった。 四郎はどうなったと思われるかな。つまり、我々は彼を捕まえて、戦争犯罪の裁判にかけたと思うでしょう? いいや・・・・彼は、自分のテストを完全に開示する代わりに、完全な免責を与えられたのだ。アメリカの微生物学者は、四郎の発見は非常に貴重であり、実験をやり直さない限り再現は不可能であると述べた。 四郎は自由人として余生を送り、1955年に亡くなった。
2024.06.15
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時代に合った憲法に改正して、日本は出直すべきだ! リベラル派の(護憲運動)は、ますます現実との乖離を深めてばかり・・・ 2024-6-11 はんぺんたまたま、朝日新聞の5/17の(声欄)に、憲法に関わる2件(AとB)の投稿記事が、載っていた。(公平中立)の公器としての配慮があったのか、(憲法改正賛成のAさん)と(憲法改正反対のBさん)の2件だが・・・下記の通りだ。 これを読み比べれば、戦後リベラルたちの(保守性)(反リベラリズム)が、如実に示されているのが、容易にわかる。 改正派のA氏の主張には、僕は、当たり前の意見として、すんなりと受け入れることができた。「時代は常に変化し、私たちの社会も進化しているので、時代の変化に合わせる必要がある」(本文)・・・それ以上でも、それ以下でもない・・・ごくごく、真っ当な意見だ。「技術の発達によるインターネットが起こす様々な問題やプライバシーの保護、人権の強化、地球温暖化など、これらの課題は日々変化しているので、憲法を改正することでより適切に対応できる」(本文) これって、護憲派の泣き所でもあるのだが・・・時代が、どんどん変化していく、そのスピードは、あまりにも早い・・・それに、現在の法体系が、追いついて行けないことが、よく言われるが、その最高法規である憲法こそが、時代に取り残されているのだから・・・どうしようもない!! のだ。 改正反対派のB氏だが・・・「むやみに憲法改正を行うと社会的なリスクの増大がもたらされる可能性がある」(本文)というが、そのリスクとは、何か? ぼかしている!!! また、「憲法改正によってこれらの権利(基本的人権など)や価値観が変換されるおそれがあります。」(本文)というが、それは、今、断言して、否定する理由にはならない・・・ということだ。改正の中身は、これから決める事になるわけで、今から、「変換される恐れがあまた・・・「憲法改正を主張する人たちの改憲草案の中には、憲法は「国の最高法規」と定めた第10章のうち、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」と定めた97条を丸ごと削除してしまうというものもあります。そんな憲法改正では権力が一部の人に集中して、一人一人の自由が制限されてしまうと思います。」(本文)・・・とあるが、これって、ごまかし議論では、ないか?改正案が多く提起されていることは、知られている。その中の一つを取り出して・・・改正そのものを(全否定する)・・・これは、ズルイ!! 「憲法改正には、社会の不公正や不平等につながり、社会が乱れ不安定になってしまうリスクがともないます。」(本文)・・・いつも、改正反対派は、(リスクがある)(恐れがある)と 後ろ向きの意見ばかりが目立つのだが・・・・どうして、前向きの議論、すなわち(リスクを乗り越えるための)(恐れを許さないための)議論に、踏み出すことができないのだろうか? 僕は、不思議で仕方がない・・・そもそも、彼らの議論の出発点が、(初めに結論ありき)であるから、前向きの議論を避け続けているのではないか?とも思えるのだ。 「憲法改正は、憲法に大きな問題がない限り、必要最低限に控えるべきだと思います。」(本文) ・・・・これが、結論だが、こんな後ろ向きの結論が、日本の未来に向けた、ポジティブなモチベーションを加速するとは、到底思えないのだが・・・そもそも(必要最低限)の議論さへ、拒否しているのが、今の(護憲派)の現状なのではないか? どうだろうか・・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――(声)憲法は時代に合わせて改正を 2024年5月17日 A(福岡県) 朝日新聞私は憲法は改正する必要があると思う。なぜなら、時代は常に変化し、私たちの社会も進化しているので、時代の変化に合わせる必要があると思うからだ。現在の進んだ技術に対応するためにも改正が必要になると思う。 技術の発達によるインターネットが起こす様々な問題やプライバシーの保護、人権の強化、地球温暖化など、これらの課題は日々変化しているので、憲法を改正することでより適切に対応できると思う。 憲法改正にはたくさんの条件があり、簡単にはできないという意見もある。憲法は国の最高法規なので、改正は慎重に行われる。しかし憲法は国民のためにあるのだから、国民の声をより反映させるための憲法改正は重要なことだと思う。改正を少しでも進めるためには、まず私たちが憲法について理解することが必要で、国会がもっと情報発信し、議論を広めるべきだろう。―――――――――――――――――――――――(声)改正は社会的リスク増すおそれ 2024年5月17日 B(福岡県) 朝日新聞 私は、いま憲法改正を行う必要はないと思います。なぜなら、むやみに憲法改正を行うと社会的なリスクの増大がもたらされる可能性があるからです。 憲法は国民の基本的人権や自由を保障する役割を果たしていると思いますが、憲法改正によってこれらの権利や価値観が変換されるおそれがあります。憲法改正を主張する人たちの改憲草案の中には、憲法は「国の最高法規」と定めた第10章のうち、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」と定めた97条を丸ごと削除してしまうというものもあります。そんな憲法改正では権力が一部の人に集中して、一人一人の自由が制限されてしまうと思います。 憲法改正には、社会の不公正や不平等につながり、社会が乱れ不安定になってしまうリスクがともないます。憲法改正は、憲法に大きな問題がない限り、必要最低限に控えるべきだと思います。
2024.06.11
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ヒロヒト(裕仁)の戦争責任を 日本人であるなら、忘れてはならない。歴史の改ざんは、卑怯であり、悲劇への序章だ。歴史から我々は(本当に!)何を学ぶのか? 2024-4-20 はんぺん 戦争の不条理とは、こういうものだ・・・残虐さは、いつの戦争でもあったと思う。原爆で焼き殺された多くの市民、B-29の空襲で亡くなった多くの犠牲者、南方の戦場で銃砲の一発も撃つことなく、食糧を求めて密林の中をさまよった挙句に餓死した多くの兵士たち、中国大陸では、多くの民衆が侵略した日本軍の手で惨殺されたりした・・・・その原因の大元が、あの1941年12月8日のヒロヒト(裕仁)による米英への(宣戦布告)だった。 戦後、多くの戦争被害が暴露され、戦争責任追及がなされたが、ヒロヒト(裕仁)だけは、GHQの庇護もあって、絞首刑を免れた。 世の中は、万事、理不尽だらけ・・・しかし、事実(ファクト)だけは、誰にも隠せない! 後世の歴史家は、この多くの惨状の原因を作ったヒロヒト(昭和)について、必ずや(指弾)することになるだろう。 (ヒロヒト『裕仁』は、平和主義者だった。)(軍に、おだてられて、宣戦布告しただけ)などという(まやかし)は、通用しないのが、事実(ファクト)の世界だろう・・・(真実は、曲げられない)のだ。 いつも、多くの戦争の現実(不条理)が、あばかれてきたのに、なぜか、リベラルの立場からの資料解説にも、(天皇の戦争責任)が、スルーされてきたのは、フェアーではないというか・・・(偽善だ)という事を、何度も感じてきた・・・・ことを強調したいと思う。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――「標本室は目の開けられないくらい…」731部隊の実態、元少年兵の目に焼きついた光景【報道特集】 2024-4-20 TBS NEWS 世界で戦争や紛争が起きるたびに私たちが目にするのは、傷付いた戦争弱者としての子どもや若者たちです。一方で、若者たちが戦争に加担させられるケースもあります。先の大戦で、日本の少年兵たちが細菌兵器の開発や実験にかかわっていた事実はあまり知られていません。 ■731部隊 元少年兵の証言 軍服を身にまとった男性。京都大学医学部出身の軍医で名は石井四郎。石井が創設し、隊長を務めたのが通称「731部隊」だ。第2次世界大戦下、旧満洲で細菌兵器の製造と使用。そして、人体実験を行っていた。 731部隊研究の第一人者、故・常石敬一氏によれば、2000人とも3000人とも言われる人々が人体実験の犠牲になったという。 最終的に軍医として最高階級の中将となる石井のもとには、名門大学出身の名だたる医師や研究者が集った。 実はこの部隊に、14歳の少年たちも連れて来られ、細菌兵器の製造などに荷担させられたことはあまり知られていない。我々はこのうち1人の男性に話を聞くことができた。男性は長野県の宮田村に暮らしているという。訪ねてみると… 清水英男さん、現在93歳。しっかりした足取りで取材班に自らコーヒーを運んできてくれた。80年前の記憶も鮮明だ。清水さんの手元に唯一残された731部隊の写真。清水さんと同じ宮田村など、付近の町から731部隊に招集された人が多くいたという。 清水さんが入隊したのは、終戦4か月半前の1945年3月30日。そのころ、沖縄でも10代の少年たちが「鉄血勤皇隊」として戦地にかり出されるなど、敗色が濃厚になっていた。 そもそも清水さんは、どのような経緯で入隊させられたのか。 清水英男さん「先生が、私は見習い技術員だということだったから、工作の好きな生徒を推薦したのではないかと思います」 ――何の見習い技術員かは? 清水英男さん「全然、やる仕事のことは一切ノーコメント。何やるかはわからない」 731部隊の本部は、旧満洲、いまの中国のハルビンにあった。これは隊員の証言をもとに作られた731部隊の本部の地図だ。 清水さんの少年兵としての生活は「少年隊舎」で始まった。入隊した日に隊舎の前で集合写真を撮影したという。その後、連れていかれたのが、講堂の横にある建物の2階、細菌実習室だった。 清水英男さん「そこ(細菌実習室)で全部(服)脱いで消毒する。それで白衣を着ろと、自分の上(着)を脱いで。これは衛生関係の仕事をやるのかな、そこでやっと気がついたくらい」 少年兵たちは班に分かれ別々の仕事をさせられたが、清水さんにはネズミの肛門に付着した細菌を確認するなど、細菌に関する仕事が割り当てられたという。 清水英男さん「菌があるかどうか、プラチナの耳かきのようなもので(ネズミの)お尻から液をとって、シャーレに寒天を溶かした培養(液)があるから、入れてふたをして、培養器の中に入れる」 ■捕虜を木の丸太になぞらえて「マルタ」と呼び人体実験に… 清水さんら少年兵もいた731部隊の跡地が中国のハルビンにある。731部隊が細菌兵器の実験や研究で使っていた物などが展示されている。 731部隊は、中国人などの捕虜を木の丸太になぞらえて「マルタ」と呼び、人体実験に使った。跡地に大きくそびえ立つ煙突。この付近でも「マルタ」が殺され焼かれたという。731部隊の標本室に当時、並べられていたホルマリン容器。清水さんは上官から見せられたという。 清水英男さん「標本室は本当に目の開けられないくらい(印象が)強かった。ホルマリン漬けで心臓だとか、胃だとか、盲腸だとか、そういったものがみんな別々に(ホルマリン容器に)入っている」上官から「マルタを解剖したもの」と伝えられたという。 清水英男さん「(捕虜を)解剖した標本にしたガラス瓶入りの女の人のお腹にいる子どもとか、頭を(縦に)のこぎりで切る。のこぎりで切るなんて、ひどいことをやるなあと思って見てました」 清水さんにはこんな経験もあった。仲間3人でいるとき、上官がパンを差し入れてきたのだという。 清水英男さん「ふかしパンを3つ持ってこられて、上官が持ってきたから食べた。熱が42度3分」 ――そのパンを食べたら熱が出たんですか?清水英男さん「そう。1週間寝ていた」 ――3人いたでしょう?清水英男さん「3人食べたけれども、そのうちの(自分の)一つだけ」 清水さんは42度を超える高熱にも関わらず、手当てが施されたのは1週間後だったという。 清水英男さん「1週間たったらやっと注射を打ってくれた。それまでは脈拍と体温を測っていくだけ」 この1週間でデータをとられ、清水さん自身がなんらかの実験台にされたのではないかと振り返る。 清水英男さん 「だから少年隊員は、1期生から4期生まで、体のいいマルタにするつもりではなかったかなと私は感じている」 14歳の清水さんにはあまりにも強烈な体験だった。しかし、清水さんら731部隊の隊員には帰国してから一切語らぬよう、厳しいかん口令が敷かれていた。 清水英男さん 「(帰国後は)隊員とは交流してはいけない、部隊のやっていたことは言ってはいけない」 ――もちろん家族にも?清水英男さん「言わなかったです。家内にも言わなかった」 清水さんが731部隊について話し始めたのは数年前。80代になってからだった。なぜ話し始めたのか。「事実を子どもたちに伝えなければならない」との思いで講演の依頼を受けるようになった。終戦からは、実に70年以上が経っていた。 だが、清水さんのことが報道されると、ネット上では清水さんを中傷する書き込みも。ネットの書き込み 「このジジイ、嘘ついてやがる。小学校しか出てないガキが『見習い技術員』だ?デタラメもいい加減にしろ」 さらに、731部隊による細菌兵器の製造や人体実験がそもそも嘘だとする書き込みもあった。これは731部隊の隊員の氏名や本籍地などが記載された名簿だ。淸水さんの名前と生年月日が記されている。 清水英男さん 「まったく何も嘘ついているわけではありません。私は経験してきたことと見てきたこと、やったことだけしか言っておりませんので」 ■同じく14歳で入隊した男性「細菌の『さ』の字もなかった」 清水さんは、ほかの隊員とも連絡を取っている。清水英男さん「お会いできてありがたい」須永鬼久太さん「どうもありがとうございます」 訪れたのは軽井沢町。96歳の須永鬼久太さんだ。清水さんより3年先、14歳のときに入隊した。須永さんが、唯一ハルビンから持ち帰ってくることができたものがある。それがこのアルバムだ。 これは同じ年齢の隊員と撮影した写真。入隊したのは終戦の3年前。終戦間際に入隊した清水さんとは状況が異なり、自ら志願した部分もあったという。 731部隊の元少年兵 須永鬼久太さん「そのころ日本中が軍国主義一色。いずれにしろ、年になれば兵隊に引っ張られると。同じ行くなら1日でも早く行って少し偉くなった方がいいなって気持ちはありましたね」 731部隊の正式な名称は「関東軍防疫給水部」。本来の目的は、疫病対策や飲料水の確保であり、細菌兵器を扱うとは思わなかった。 須永鬼久太さん 「関東軍防疫給水部というのはわかっていた。ただ、防疫給水部ということは字の通りですから。細菌の『さ』の字もなかった」 須永さんが配属されたのは焼成班。ペスト菌など細菌に感染させたノミを入れる陶器製の爆弾容器を作るのが仕事だったという。 須永鬼久太さん 「(爆弾容器は)800度ぐらいで素焼きする。それから瀬戸物は上薬を塗って、また1200度くらいにして。形は普通の筒型みたいなもの。これが細菌爆弾だなと初めてそのときにわかった」 この細菌爆弾の実験が繰り返し行われたという。ハルビンから西へ約150キロ。安達という町に実験場の跡地として看板が立っていた。須永さんも安達の実験場を訪れたことがあるという。 捕虜は十字架に貼り付けられた上、円上に立たされる。その真ん中でペスト菌などの爆弾を炸裂させ、感染するかどうか実験したという証言もある。 須永鬼久太さん 「安達の演習場ではマルタを何mおきか、あっちこっちに散らばせて、(細菌爆弾を)落として何時間後に発病したとか、何時間後には熱が出たとか、何時間後には死亡した。そういう研究をしていたのではないか」 731部隊で作られた細菌兵器は実戦で使われた。浙江省の義烏市や付近の村など中国各所で多くの住民が亡くなったという。 ■「死者は爆発的に次から次へと…」中国で使われた細菌兵器 2002年8月、731部隊による細菌兵器で被害を受けたとして、中国人の遺族らが日本政府に賠償と謝罪を求めた裁判。最高裁まで争われ、賠償請求は棄却されたが、細菌兵器で大勢の中国人が死亡した事実を司法が初めて認めた。 だが翌年、当時の小泉内閣は…「外務省、防衛庁等の文書において、関東軍防疫給水部等が細菌戦を行ったことを示す資料は、現時点まで確認されていない」 裁判で原告団の代表だった王選さん。自身も、おじを細菌兵器によって亡くしている。留学生として来日して以降、長く日本に滞在したのち、支援を得て浙江省義烏市に細菌戦に関する展示館を建設。細菌戦の事実を次世代に伝える活動をしている。 細菌戦被害裁判の原告団代表 王選さん「一番、日本軍が細菌兵器を使用したのは、浙江省です」 ――どのくらいの人が被害に遭ったかというのはわかっているのですか?王選さん 「義烏市内は現在、私たちの調査によると(細菌兵器による被害者は)1300人や1400人ぐらいです」 日本政府の対応については…王選さん「反省しなければいけない。日本にとってはマイナスの遺産」 ――中国の人にとってはどうですか?王選さん「歴史を正確に記録する。目的は、やはり被害者の命の尊厳を守る、一つですよね」 王選さんの案内で、母や妹が亡くなったという96歳の男性に話を聞くことができた。 王基木さん「私は当時16歳。母はわずか35歳、妹は12歳でした。いとこは15歳でした。死者は爆発的に次から次へと広がって、それから村は焼かれました。毎日20人ぐらいが死んでいきました」 義烏市のこの村では、日本軍が投下したペスト菌に感染し多くの人が亡くなったという。 王基木さん 「死体がたくさん出たので棺桶も足りなくて、そのまま土に埋められた人もいました」 ■「(戦争は)駄目です」731部隊 元少年兵の訴え 1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。当時から細菌兵器の使用についてはジュネーブ議定書が作成されるなど、禁止する動きが広がっていた。 731部隊は撤退する際、証拠を隠滅するために、書類を焼却し、施設を爆破したという。清水さんは終戦の3日前、焼かれたマルタ(捕虜)の骨を拾うよう命じられた。清水英男さん 「(8月)12日の朝、骨を拾いに行けと」 ――骨?清水英男さん 「骨を拾ってしまって麻袋に入れて、拾い終わったら爆弾を運べと。4人でロープをかけて担いで各部屋へ配った。それが終わったら退避しろということで、ボイラー室の方まで退避して、(その後)爆破したのを見た」 さらに終戦の前日には…清水英男さん 「(8月)14日の朝、隊舎にいたら呼び出されて、拳銃と青酸化合物を渡されて」 ――上官に?清水英男さん 「結局、私は(当時)14歳だからまったく子ども。捕まれば標本室を見たために、それをバラされると。捕まったら自決しろと」 改めて、731部隊について何を思うのか。――子供を使ってこんなことをさせるって、本当にひどい話だと僕は思うんですけれども 清水英男さん 「そう思いますね。今でいったら中学3年生だもんね。私達も行くときはこんなことするとは全然思いもよらなかったからね」 ――戦後、国、あるいは行政は何らかの補助は? 清水英男さん 「何も連絡も来ない、いっぺんも来ない。本当に連絡さえよこしてない。今の若い人たちは、こういった戦争の残酷さをきちんと習得してもらって、やってもらわないと、これからの日本はどうなるのかなと思っております。(戦争は)駄目です。やったら駄目です。もう今度、原爆なんか使うようになれば、もう地球も終わりだね」 TBS NEWS DIG Powered by JNN
2024.04.20
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ヒロヒト(昭和)の戦争犯罪で、多くの民衆が犠牲に・・・・(特攻隊を含む)犬死した多くの日本兵も、ヒロヒトの犠牲者だ。戦犯で、処刑されるべきヒロヒトは、運良く、無罪放免となり、多くの屍(しかばね)は、恨み骨髄だろう・・・・ 2023-4-30 はんぺん――――――――――――――― 「特攻隊(特別攻撃隊)。この特攻で陸・海軍あわせて約6000人が亡くなりました。特攻隊員の最後の食事だったという覚醒剤チョコ・・・・・・菊の御紋が押してあるんですよ。『天皇からの贈り物』だと」(本文) 「チョコレートは長さ15cmほどの円柱で、天皇の象徴である菊の紋章が入っていた」(本文)。「当時は“栄養剤”のように扱われていた覚醒剤。蒲原宏さん(98)は、1945年、多くの特攻隊員が飛び立った鹿児島県にある海軍の航空基地で軍医をしていました。そこで「出撃前の特攻隊員に覚醒剤を注射していた」と証言します。」(本文) 陸軍はチョコレートに(覚醒剤を)入れたなんてことを言っていたけど、海軍はもっぱら注射だけでしたね」――――――――――――――――――ヒロヒト(昭和)の宣戦布告によってはじめられた、アジア太平洋戦争。多くの民衆が、殺されて亡くなったが、その数は、大雑把に、日本人300万人以上、アジア民衆2,000万人以上と言われている。 日本人300万人の中には、原爆で焼き殺された広島・長崎の人々や、空襲で焼き殺された都市住民は、もちろんの事、無謀な作戦で、犬死した多くの日本兵も含まれている。 その一部には、犬死そのものと言われた特別攻撃作戦があった。そう、特攻隊は、本土決戦を呼号する軍最高指導部にとっては、(時間稼ぎ)以外の何物でもない・・・・(作戦)とは言えない戦術であった・・・・・・・ 彼ら若者たちの死は、まさに(犬死)そのもので、(戦死)というよりも(僕に言わせれば)「悲惨死」「惨死」と呼ぶにふさわしいと断言できるだろう。押し付けた軍高官の多くが、戦後、ぬくぬくと、生を全うしたという話は、よく知られているが・・・・(死人に口無し)で、本当に、若者たちは、気の毒な人生だった・・・と思う。 (戦争体験を語り継ぐ)ことの大切さを、いつも痛感しているが、どこまで伝えきれているのか?という疑問もある。また、その伝え方にも、大いに問題がある・・・と思っている。悲惨な庶民の戦争体験から、何を学ぶのか・・・・・? どうだろうか? 一番、してはならない(語り継ぎ)は、「戦争は、悲惨だから、絶対に戦争してはいけない」という、一見、単純でわかりやすい論理だ。これは、大きな間違いを含んでいる!! アジア太平洋戦争では、日本軍の海外侵略に抗して、中国で、フィリピンで、インドネシアで・・・・現地住民による、命を懸けた(抗日運動)が、沸き起こったことは、良く知られている。 僕たちは、このような自衛のための戦いについては、一貫して、肯定的に評価してきたハズだった。 そう、僕たちは、あのベトナム戦争でのベトナム民衆の戦いも支持し、反戦運動を展開したし、世界的規模で、民主派の若者たちが、団結したのではないだろうか?あの時、誰も「戦争は、悲惨だから、絶対に戦争してはいけない」などとは、言わなかった!!!!! 当時は、戦争という(現実)に対して、反戦運動という(現実)をぶつけることで、アメリカの戦争を抑え込むことができた。アメリカ軍という(リアル)に、(民族解放戦線)という(リアル)を対峙することで、物理的解決を果たすことができたのだ。(民族解放戦線が、抱える大問題『実は、全体主義集団であった』については、ここでは言わない) 前に、こう書いた・・・・戦争は、誰でもイヤだ・・・・当たり前の話だ・・・・・しかし、日本が侵略される可能性が高いいま、(戦争反対)(自衛隊反対)(9条守れ)で、日本を守れるのか? 戦争には、侵略と被侵略があり、侵略を受けたときに、反撃し、自衛する権利を何人も否定できない・・・・自分たちの自衛権まで、全否定する、能天気な(絶対平和主義)の誤りに陥らないようにしなければならないのだ・・・ (戦争を語り継ぐ)ことの大切さは、加害者になる(=侵略)ことの戦争責任の問題と同時に、侵略を受けたアジア民衆や、ウクライナの国民のように、自衛のために(戦う)事の大切さも、併せて語り継ぐことが、重要である・・・・ということだろう。 最近の朝日新聞の4/18朝刊の(声)欄の投稿だが・・・・タイトルが「ささやかなウクライナ支援」というモノ。 投稿者は、千葉県のN氏だという。―――――――――――――――――――――(前略)・・・・ロシアがウクライナに侵略して1年。幼いながらも戦争を身近に体験した戦中生まれとして、どんな理由があろうとも、戦争は二度と起こしてはならないとの思いが体にしみこんでいます。・・・(後略)・・・。―――――――――――――――――――――これを読んで、僕は、(困ったもんだ!)と嘆息する・・・・なぜか・・・・・・戦争を忌み嫌うのは、僕もこの投稿者と同じだ。この投稿者は、(戦争一般)を非難するけれども、ウクライナ国民の(総抵抗)に、まったく言及せず、それで良し・・・・としているのだ。 投稿者に(戦争体験)があれば、同じような戦争体験を現在進行形のウクライナ国民の苦しみ、悲惨さに、投稿者こそ、親身に寄り添えるハズでは、無いか?? 彼は、ウクライナ国民に 「どんな理由があろうとも、戦争は二度と起こしてはならない」と説教するのだろうか? 侵略を受けたウクライナ国民に、武器を捨てて(停戦せよ)と言えるのだろうか?? 僕には、彼の投稿の意図が、さっぱりわからない・・・ 同時に、リベラル紙の雄?朝日新聞が、この(声欄)に採用した意図も、さっぱりわからない・・・・(戦争反対)は、(護憲運動)に軸足を置いてきた朝日新聞の流れからして、一貫した方針だったが、今回のウクライナ侵略戦争で、その(護憲)の誤りが、明白になっている。すなわち(護憲では、平和は守れない)という事が証明されたのだ・・・・ 今回の投稿からは、「ささやかなウクライナ支援」と 「どんな理由があろうとも、戦争は二度と起こしてはならない」とが、両立しないのだから・・・・違うだろうか? これって、あの(戦後平和教育の歪み)の証明のようなモノだと思う。朝日新聞自体が、いま、混乱の中にある・・・・と言って間違いないだろう。(護憲)では、現在の、未来の展望が見えてこないのだから・・・・・ それでも、この間の朝日新聞の社説などの論調は、防衛費増額反対であり、自衛隊の南西諸島への配備反対であり、米軍基地反対であるから、能天気な平和主義者の立場に、今なお、しがみついている様子なのだ・・・・ (反省する勇気)に欠けるのは、リベラル小集団だけではないということだが・・・・何とも情けない、懲りない面々が・・・・僕には、いじらしく思う。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――特攻隊の『覚醒剤チョコ』最後の食事だったのか...記録には残されず「食べた瞬間にカーッときました」食料工場の女性や軍医の証言 2022-8-17 毎日放送 戦時中に決死の任務を与えられた部隊・特攻隊(特別攻撃隊)。この特攻で陸・海軍あわせて約6000人が亡くなりました。その特攻隊員が出撃前に最後の食事として口にしていた可能性があるというのが“覚醒剤入りのチョコレート”。記録に残されなかった『覚醒剤チョコ』を取材しました。 「菊の紋章」が入っていたという“覚醒剤チョコ” アメリカ軍の艦隊に次々と突撃していく若き日本軍兵士たち。特攻という無謀な作戦により6371人の尊い命が奪われました(日本側の戦死者:(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会による)。実はこの特攻には知られざる悲劇が隠れていたのです。 梅田和子さん(91)。終戦の年の1945年2月ごろ、疎開先近くの茨木高等女学校に転校しました。学校は兵隊の食料工場になっていて、梅田さんはチョコレートを紙に包む作業を命じられたといいます。そのチョコを上級生から命令されて食べた日が忘れられません。 (梅田和子さん) 「(チョコを)食べた瞬間にカーッときましたね。ちょっとおかしい、普通のチョコレートじゃないなとわかりました。チョコレート(を食べたら)クラっとしたと(父に)言ったら、父は『ヒロポン(覚醒剤)でも入っているんだろうな』と」 チョコレートにヒロポン(覚醒剤)が入っていたというのです。 (梅田和子さん) 「(先生からは)『軍隊へ兵隊さんに贈るんだ』と言われましたね。上級生は『特攻隊員が死ぬ前に食べていくんだよ』と言われましたね。だから大事なチョコレートだって」 特攻隊員の最後の食事だったという覚醒剤チョコ。どんなものだったのでしょうか。梅田さんに絵を描いていただきました。 (梅田和子さん) 「これがチョコレートです。菊の御紋が押してあるんですよ。『天皇からの贈り物』だと」 チョコレートは長さ15cmほどの円柱で、天皇の象徴である菊の紋章が入っていたといいます。ただ、この学校で覚醒剤チョコが作られていたという記録は残っていませんでした。 当時は“栄養剤”のように扱われていた覚醒剤 戦時中に覚醒剤チョコは使われていたのか。手掛かりを求めて取材班は東京に向かいました。話を聞いたのは覚醒剤の歴史に詳しい北多摩薬剤師会の平井有会長です。平井会長によると当時、覚醒剤は今では考えられないような使われ方をしていたといいます。 (北多摩薬剤師会 平井有会長) 「ヒロポンということで、これで500錠が入っていた。極端に疲れた場合とか夜間の作業とかいろいろ書かれている。(Q栄養剤のようなもの?)栄養剤、強壮ドリンクみたいな感じにとられてもしょうがなかった」 覚醒剤は危険薬物という認識は無く、市販もされて広く一般で使われていたといいます。実際、当時のチラシには次のように書かれています。 【ヒロポンの当時のチラシ】 「戦時活動への拍車」 「疲労の防止と快復に!」 特攻隊員に覚醒剤チョコを食べさせていたのか、梅田さんが書いた絵を見てもらいました。 (北多摩薬剤師会 平井有会長) 「特攻隊に使われた可能性はありますよね。お菓子と一緒に出した可能性はあるかもしれないけどね。記録はまず残っていないでしょう」 ここでも記録は見つかりませんでした。ただ当時、軍が覚醒剤を使用していたという記録は残っていたことがわかりました。軍と覚醒剤のつながりが浮かび上がってきたのです。 特攻隊員に覚醒剤を注射していた元軍医『本当にかわいそうで仕方ない』 その答えを知る人が新潟県にいました。蒲原宏さん(98)は、1945年、多くの特攻隊員が飛び立った鹿児島県にある海軍の航空基地で軍医をしていました。そこで「出撃前の特攻隊員に覚醒剤を注射していた」と証言します。 (蒲原宏さん) 「僕は初めはヒロポンとは知らなかったわけですよ。黒いケースに10本アンプルが入っていて、説明書にはただ『筋肉内注射しろ』と。『出発前にやれ』という命令だけでよくわからなかった」 上官の命令で約300人の特攻隊員に覚醒剤とは知らずに注射をしていたといいます。その目的は… (蒲原宏さん) 「眠らないためということが主目的でしたね。戦闘力というか興奮させるといいますかね、そういうものを増進させることが目的だったようですね」 鹿児島の基地から戦場の沖縄までは戦闘機で3時間ほどの距離があり、夜間の出撃で眠ってしまわないようにする狙いがあったといいます。 注射された特攻隊員の多くは平静を保ったまま出撃しましたが、中には… (蒲原宏さん) 「真ん中あたりに指揮官が乗るわけですよ。それが日本刀を振り回して滑走路を飛んで行くのを見たことがあったが、今考えると(覚醒剤で)興奮したのかなと思うけど、わからないですね」 特攻隊員に贈った覚醒剤チョコの存在も知っているのでしょうか。梅田さんが書いた絵を見てもらいました。 (蒲原宏さん) 「これは見たことがありませんね。(私のもとには)実際来ていませんね。陸軍はチョコレートに(覚醒剤を)入れたなんてことを言っていたけど、海軍はもっぱら注射だけでしたね」 特攻隊員に使われた記録はありませんでしたが、陸軍では覚醒剤チョコを作っていたというのです。 一方で蒲原さんは今も特攻隊員に注射したことを後悔しています。 (蒲原宏さん) 「本当にね、ヒロポンを打たれて死んだ人に対しては申し訳ないと思いますよ。内心忸怩たるものはありますね。今でも時々夢を見ますよ。どんな気持ちだったか、本当にかわいそうで仕方ないですよ」 悲劇の背後に隠された“不都合な真実” 特攻という悲劇の背後に隠された覚醒剤。軍と覚醒剤について長年研究をしている相可文代さんは、覚醒剤チョコの記録がほとんど残っていない理由を次のように指摘します。 (相可文代さん) 「戦後、覚醒剤のヒロポン禍と言われる、いわば幅広く中毒者が出た事件があったんですよね。(特攻で)純粋な気持ちで亡くなっていった若者たちが、実は覚醒剤を摂取して出撃していたんだなんて、そんなことは絶対に認めたくないと、当然遺族はそう思いますよね。周りもそれには触れない。軍の上層部もそんなものを与えていたとは知られたくない。不都合な真実だと思いますね」 『戦争というのは自由を失う』 今は自由な生活を楽しむ梅田和子さん。覚醒剤チョコについて「当時は反対できる状況になかった」といいます。 (梅田和子さん) 「何をしてもあのころは(戦争に)協力しない生き方というのは見つけられないですね。戦争というのは自由を失うんです。一つの方向にみんなそっちを向かないといけないという、この怖さがありますね。一人一人みんな大事な命を持っていることをもっと認識されないと」 軍の無謀な作戦により尊い命が犠牲となった特攻。その裏にある“不都合な真実”も語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。 (2022年8月16日放送 MBSテレビ「よんチャンTV」内『特集』より)
2023.04.30
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戦後の「平和教育」の大きな失策! 国民の正しい認識を阻害した「罪」は? 2023-4-15 はんぺん 脈々と続いた戦後の平和教育には(大きな間違い)が、あったのではないか? と考えている。考えざるを得ないのではないか? と。 安易な(戦争反対)は、戦前の天皇制軍国主義の惨状の「反省」だという側面は、あった。しかし、(戦争)に対する国民の認識を誤らせた(罪)が、あったのだと思う。 (戦争一般)に反対することには、異論があろうハズは無い。それと同時に、(平和教育)の中で、もう一つの大切なことを教えてこなかったこと・・・・その(罪)が、いま問われているように思える。 それは、(自分の国は、自分で守る! という国民の義務)についてだ。戦後の日本では、天皇制軍国主義の下に周辺地域への侵略を繰り返すという(加害者)としての(犯罪)・・・・・・という立場から、(戦争反対一般)が、平和教育として、推進されてきた。 国会論戦を見ていても、野党は(自衛隊の海外進出)に警戒する立場から、(平和憲法)に反する・・・という論陣を張っていた。(平和憲法違反)だとして、自衛隊の存在を否定したり、防衛費の増額や国連軍への参加などにも反対してきた。 (加害者としての反省)の視点は、アジア太平洋戦争の(反省)という意味で、正しいのだが、今や世界情勢、特に東アジア情勢は、根本的に変わってしまった!!! 今や、全体主義の中国・北朝鮮・ロシアが、海外侵略を企てている時代なのだ。威嚇と挑発、核とミサイルなどで、東アジアの平和と安全は脅かされ続けている・・・・ そのような情勢の中で、いつまでも、間違った情勢判断で、(平和憲法幻想)を振り回していても、国民に理解される事は無いと思える・・・・ 中国や北朝鮮、ロシアなどの全体主義が、極東の平和と安全の最大の脅威になりつつあるときに、自国国民を守る防衛政策は、喫緊の重大課題だと思うが、リベラルたいの認識は、いつまでも(日本が他国を侵略する・・・)という妄想に洗脳されたままなのだ。 日本の戦後の民主主義教育「平和教育」の最大の(過ち)は、(悲惨な戦争の加害者になってはならない・・・)と同時に、(戦争の被害者にならないように、自分たちの国は自分たちで守る)という、ゴクゴク当たり前の真実を、教えてこなかったという事なのだ・・・・・・ 昔の日本社会党の流れをくむ社民党、立憲民主党、新社会党などは、未だに、この(過ち)から、脱け出せていない・・・・日本共産党も(護憲)(第9条守れ)と叫んでいることから、同類だと断言できる・・・・ もちろん弱小リベラルのMDSやアサートのHPの論調からしても、同類であり、悲惨な状況だ・・・(MDSとは、民主主義的社会主義運動という微小な社会主義政党のこと) 毎日の新聞やテレビ報道を偏見や予断無しに観ていれば、事態の真実が、普通に理解できるハズなのだが、どうして、リベラルたちは、こうもトンチンカンばかりなのだろう・・・・・僕は、不思議で仕方がない・・・・・ 今の東アジアで、日本という(防衛意識の薄い、軍備の貧弱な)な民主国家が、獰猛な侵略の標的にされ得る危機を、ますます深めている・・・・ ウクライナが、大国ロシアと戦って善戦ている背景に、欧米による重火器支援もあるが、ウクライナ国民自身が、自国の文化・言語・生活を侵略者から守りぬく強い決意が、根底にあることが、決定的だと思うのだ。 対して、侵略する側のロシアは、どうか? 動員(徴兵)された兵士たちは、戦争の大義を理解することができず(自分たちは、何のために ここにいるのか?)と自問しているという。 ウクライナ国民による強い自衛意識について、戦後の(平和教育)を推進してきた教育界の皆さんは、なんと説明するのだろうか?それでも(自衛隊反対)(安保反対)(米軍基地反対)と、素面(しらふ)で、言えるのだろうか? ぜひ、聞いてみたいものだ! 戦後の「平和教育」の「負」の部分についての(反省する勇気)が、いま、問われているのでは無いだろうか? 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――――ロシア軍が「拷問センター」をウクライナで8カ月設置。国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」が報告ニューヨーク=遠田寛生2023年4月15日 朝日新聞 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」(HRW)は13日、ロシア軍がウクライナ南部ヘルソンに「拷問センター」を設け、8カ月ほど民間人への拷問や虐待を繰り返していたとする報告を公表した。 HRWは拘束されていた被害者12人を含む34人から対面や電話で聞き取り調査を実施。ロシア軍が同地や周辺を占領していた昨年3月2日から11月11日まで、市内の建物や学校、空港の倉庫などに「拷問センター」をつくっていたとした。実際の数は不明だが、「20以上」の可能性を指摘する。 報告によると、施設内では殴打や電気ショック、体を切断したり殺したりすると脅すなどの行為があった。負傷者への治療は十分ではなく、死亡者が出るケースもあったとしている。 ヘルソン市の施設に収容されていた被害者の1人は、「脚を撃たれた者や、あばらの骨を折られた者もいた。昼も夜も叫び声が聞こえ、午前3時にも悲鳴があった」と証言した。ロシア国歌や愛国歌を聴いて歌うことも強要されたという。 41歳の中学校の体育教師は後ろ手に手錠をかけられ殴打された後、20分間の電気ショックを受けた。約1カ月後に解放されたときは、施設にまだ120人ほど拘束されていたとみている。女性用の施設も二つあり、18~60歳の人たちがいたと証言している。 47歳の男性は、6平方メートルほどしかない倉庫に、10人の男性と一緒に押し込まれた。連れ出されて殴打されては戻される日々を繰り返し、死亡者も出た。1人の遺体は1日ほど倉庫内で放置されたとも証言している。 ほかにもロシア軍がドニプロ川の東岸地域に撤退する際に、不法に移送された人もいたという。 ウクライナ当局はこの期間、民間人が拘束されたケースは4千~5千件あったと推測するが、実際はもっと多い可能性がある。 「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」(HRW)でウクライナの上級研究員を務めるユリア・ゴルブノワ氏は「まだ残虐行為の表面」と表現し、ロシア軍の幹部たちについて「自分たちが犯したすべての犯罪に対して、責任を負うことを知らしめるべきだ」と訴えている。(ニューヨーク=遠田寛生) ―――――――――――――――――――――――――――――「息子を動員しないで下さい」「夫返して」 プーチン氏に訴え次々と 2022年11月30日 朝日新聞ウクライナ侵攻に苦戦するロシアで、動員などで招集された兵士の母や妻らが、プーチン大統領に「息子や夫を返して」と声を上げている。弾圧される危険を冒した上での切実な訴えだ。動員をめぐる混乱で、政権不信が広がっていることの表れとみられる。 「一人息子は私たちのすべてです。私たちの魂であり、心。取りあげられるのは死ぬようなものです」ロシア南部クラスノダール地方のメディアなどは11月25日、兵士の母たちがSNSに投稿した動画の内容を伝えた。プーチン氏とショイグ国防相にあてられたものという。 別の母親は「年齢的にもう(自分に)子どもはできない。どうか老後を孤独にしないで」と訴えた。2カ月前から抗うつ剤を飲んでいるという母親もいた。 将来の追加動員で息子が招集されないかと心配する女性も思いを訴えた。 27日がロシアの母の日であることに触れ、「初めてこの祝日を、涙を浮かべ、心を痛めて迎えます。たった一人の息子を動員の対象にしないでください。ほかにいないんです」と話した。 一方、ロシア西部カザンに住む女性は、夫が11月1日、警察官に呼び止められ、徴兵事務所に行くように指示されたという。ショイグ氏がプーチン氏に動員完了を報告した10月28日より後になる。 動員が終わったと伝えても、「そんな命令はなかった」と告げられたという。さらに招集令状は11月1日付なのに、夫が持っていた軍隊手帳には、動員日を10月28日とするスタンプが押されていた。 女性は妊娠中で、6歳の息子がいる。夫の勤務先に10月31日まで働いていた証明書を出してもらい、裁判所に訴えた。だが、一審で訴えを棄却され、控訴審で争っている。「よく状況を調べ、夫を家に帰してください」と訴えている。 11月27日には、母の日にちなみ、サイトでの署名集めが始まった。ロシアの上下両院の議員らに「ウクライナからの軍撤退と兵士の帰還を求める」内容だ。 動員兵や徴集兵の母たちのグループが中心になっているといい、モスクワ時間12月3日午後2時時点で4万人以上が賛同している。 ロシアでは1990年代、チェチェン紛争で経験の浅い多くの若い兵士が亡くなり、兵士の母親を中心とした反戦機運が盛り上がったことがある。 プーチン氏は今回、母の日を前に、兵士の母たちと懇談会を開催。戦死した息子の母親に「人はいつか死ぬが、どう生きたかが問題だ。彼は目的を達し、その人生は無駄ではなかった」と話すなど、戦死の美化に努めている。 プーチン氏はこうした演出を通じて、動員や戦死が広がることへの国民の動揺に対処せざるを得ない立場に置かれている。 ただ、ウクライナ侵攻後、ロシアでは軍批判などの規制を強化する法律ができており、それでも母親たちが公然と不満を表明するのは、それだけ政権への不信が根深いことを示していそうだ。
2023.04.15
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防衛費の増額予算は、当たり前。抑止力の強化は、東アジアの平和の前提だろう・・・・その上でのみ外交努力が花開くハズだ!!! 2023-3-3 はんぺん日本の安全保障環境は、年々、厳しくなってきているが、自衛隊などの現状は、(大変心もとない)とよく言われる。(憲法さへあれば、日本は安全だ)などという主張は、極めて無責任なものであることは、ロシアによるウクライナ侵略で、証明された。 それにも拘わらず、(護憲洗脳)が解けない新社会党は、2023/01/18付けの「今週の新社会」では、「平和憲法を政治の軸に」「戦争準備をするな」「軍事大国にするな」(新社会党)と 説得力の無い無責任な主張を繰り返している。 その解決策は 「日本のとるべき外交は、中国をはじめ世界の国々との関係を密にし、核を含めた世界の軍縮を先導することだ。」(2023/01/18付けの「今週の新社会」)・・・・これって、どうするの?? と聞きたいところだ。 外交努力をするのは当たり前のことだろう・・・・いったい誰が外交努力を否定するのだろうか? そんな人は、どこにもいないハズだ。 ウクライナの現実は、話し合いに応じずに、いきなりの軍事侵攻だった。新社会党は、外交努力をするつもりでも、その前に日本が侵攻を受ける事態が高いと考える事は無いのだろうか?? 外交抜きでの、いきなりの侵略・・・過去の歴史を見れば、いくらでもあったのに、新社会党は、外交努力だけで、抑止力無しの無防備のままで、日本を守れると考えているのだろうか? 答えてほしいものだ。 周辺の軍事国家による侵攻を有りうると考えるならば、それに備える自衛の努力は、喫緊の課題では無いのか?? 「日本の防衛費はこの20年間、ほとんど5兆円から5兆5000億円の間を推移し、横ばい状態が続いてきました。」(本文) 「2000年時点では日本が38%、中国が36%で、ほぼ一対一の割合でした。ところが2020年には、日本のシェアは17%まで低下。大規模な軍拡を続けた中国は、シェアを65%まで拡大しています。」(本文) 「GDP比2%はNATO基準だとよく言われますが、実はアジアにおける平均値も同レベルに達しています。韓国は2%を超えていますし、シンガポールに至っては3%台です。日本よりも比率が低い国は、アジアではインドネシア、パプアニューギニア、モンゴルしかありません。」(本文) この状況の中で、「戦争の準備をするな」「軍事大国にするな」(新社会党)との主張は、無責任極まると、僕は考えるが・・・・どういう弁解が出来るのだろうか? 「自衛隊の活動量はかなり増えていますからね。航空自衛隊のスクランブル(領空侵犯の恐れがある侵入機に対する緊急発進)は、この20年間で6.6倍になっています。他にも、イージス艦2隻を日本海側に24四時間配置するなど、東アジア情勢の緊迫化に伴い、次々とミッションが追加されてきました。」(本文)「宇宙やサイバーなど、新領域への対応というのもあります」(本文) 日本の少なすぎる防衛予算を見て、高笑いしている習近平、金正恩、プーチンの顔が、僕の眼前にチラついているのだが・・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――――《「何をいまさら」というのが、正直な気持ちです》元自衛官・芥川賞作家が明かした“防衛費論争への本音” 2023-1-19 文春オンライン「トマホークは切り札にはならない」「『何をいまさら』というのが正直な気持ち」――防衛研究所防衛政策研究室長の高橋杉雄氏、芥川賞作家で元自衛官の砂川文次氏による対談 「徹底討論 防衛費論争の急所」 を一部転載します。(「文藝春秋」2023年2月号、司会・新谷学編集長) ◆◆◆ 東アジアにおける防衛費は、相対的に大きく低下 新谷 日本の安全保障政策は、歴史的な転換点に立たされています。政府は2022年12月16日、新たな防衛3文書を閣議決定。23年度から5年間の防衛費の総額を、43兆円程度とすることが決定されました。高橋さんはこの流れをどうご覧になっていますか? 高橋 まず大前提として、日本が置かれている状況をご説明する必要があるでしょう。日本の防衛費はこの20年間、ほとんど5兆円から5兆5000億円の間を推移し、横ばい状態が続いてきました。金額が変わらない一方、その重みには変化が生じています。 東アジアにおける各国の国防支出のシェアを比較すると、2000年時点では日本が38%、中国が36%で、ほぼ一対一の割合でした。ところが2020年には、日本のシェアは17%まで低下。大規模な軍拡を続けた中国は、シェアを65%まで拡大しています。東アジアにおける日本の防衛費は、相対的に大きく低下しているのです。 新谷 これまで日本の防衛費は対GDP(国内総生産)比で1%程度でしたが、今後は2%への倍増を目指していますね。 高橋 GDP比2%はNATO基準だとよく言われますが、実はアジアにおける平均値も同レベルに達しています。韓国は2%を超えていますし、シンガポールに至っては3%台です。日本よりも比率が低い国は、アジアではインドネシア、パプアニューギニア、モンゴルしかありません。これらを客観的に捉えて、今後の安全保障を考えなければならない、ということに尽きます。 新谷 砂川さんは元自衛官です。 砂川 はい。6年間部隊にいました。最終階級は二尉というところで、第一線部隊の運用などをちょいちょい知っているという程度です。 新谷 防衛費について、現場の立場から感じることはありますか。 砂川 そもそも、防衛省が予算不足であることは常々感じていました。部隊は慢性的に人員や装備が不足していた。「なんとかしてくれ」と現場は散々声を上げてきたのに、上は全く動いてくれませんでした。だから、「何をいまさら」というのが、正直な気持ちですね。 高橋 自衛隊の活動量はかなり増えていますからね。航空自衛隊のスクランブル(領空侵犯の恐れがある侵入機に対する緊急発進)は、この20年間で6.6倍になっています。他にも、イージス艦2隻を日本海側に24四時間配置するなど、東アジア情勢の緊迫化に伴い、次々とミッションが追加されてきました。 そのツケが出たのが、昨年に防衛省が公表した航空自衛隊の「共食い整備」です。航空機が故障しても、部品の在庫が不足しているため、他の機体から部品を外して転用する。そうやって、一部の機体だけを動ける形にするので、全ての機体を活用できていないのです。 砂川 もう辞めた身なので、今は違うと思いたいですが、私が部隊で対戦車ヘリの操縦士をしていた頃は、航空機も人員も常に定数に届いていなかった。飛行はできるが武装は故障している、そういうことが常態化していました。 高橋 まずはこれを、正常に戻す必要がある。新しい防衛力整備計画では、「2027年までに、弾薬・誘導弾については、必要数量が不足している状況を解消する」「部品不足を解消して、計画整備以外の装備品がすべて可動する体制を確保する」などの記述があったので、期待したいと思います。 “金額論争”に違和感 砂川 私の感じる違和感は、防衛についての議論が“金額論争”に終始しているのではないか、ということです。最近は「安全保障」という言葉がよく飛び交っていますが、言葉のイメージだけが先行して、現場が置き去りにされているのではないかと感じます。防衛力って本質的には適応的なはずだから、相手のアクションによってこっちの行動が変わるというのは、自然なこと。将棋で相手が速攻の棒銀で攻めてきているのに、こっちは穴熊作るぞっていうのはすごく愚かで。 現場が「相手の能力がこうです」「自分の能力がこうです」「そのギャップを埋めるためにこういうものが必要です」「だから、いくらください」とかいう話だったら、わかるんですけど、今は“安全保障”というイメージとか看板を、どの政党とか派閥が背負えるかを、防衛費の多寡で争っているようにも見えます。 高橋 ただ、防衛費の決め方って非常に難しいんですよ。予算を決めるアプローチとしては、(1)必要なぶんを積み上げていく、(2)最初に大きな枠を決めてしまう、の2通りがありますが、(1)だと金額は無限に増えてしまうので、結局は優先順位をつけて、ラインを引かなければなりません。そうなると、最初に枠を決めて、その中でやりくりするほうが合理的だという考え方も出てきます。 砂川 となれば、詳しい内容が出るまでは、経過を見守るしかないですね。使い道を決めるにしても、いつ、どこで、誰が、何を、どうやってとかいう優先順位は付けた方がいいと思いますが……。宇宙やサイバーなど、新領域への対応というのもありますし。 ◆ 防衛研究所防衛政策研究室長の高橋杉雄氏、芥川賞作家で元自衛官の砂川文次氏による対談 「徹底討論 防衛費論争の急所」 は「文藝春秋」2023年2月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されている。 高橋 杉雄,砂川 文次/文藝春秋 2023年2月号
2023.03.03
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「映像の世紀」(NHK)再放送。(大量殺戮の歴史)は、何を示しているか? 2023-1-21 はんぺん いま、NHKで、「映像の世紀」の再放送をやっている。この人類の正の、負の歴史を見る限り、未来への希望は見えてこない・・・・と、毎回、思わされる・・・・ (大量殺戮の歴史)は、未来の人類の姿ではないだろうか? ロシアによるウクライナ侵略戦争などは、その序章に過ぎないと思える。 元はと言えば、(完全なる人間)などは、あり得ないということだ。ありえない(絶対)を求めたり、弱い人間が(権力)にしがみつく中で、凄惨な歴史の第2幕が開始される・・・・これを阻むことは不可能ではないか? ロマノフ王朝のニコライ2世、ブルボン朝のルイ14世には、民衆の塗炭の苦しみなどは伝わらなかった。独裁者スターリンは、ウクライナでの1932〜1933年の「ホロモドール」(飢餓輸出)で、莫大な餓死を招いたことへの反省は皆無だったと思える。 「飢饉によってウクライナでは人口の20%(国民の5人に1人)が餓死し、正確な犠牲者数は記録されてないものの、400万から1450万人以上が亡くなったと言われている。」(ウィキペディア) 隠蔽されてきた飢餓の事実・・・イギリスなどヨーロッパの国々は、国際赤十字を通じて、ソ連政府に飢饉への対策を要請したが、「五ヶ年計画」の成功を宣伝していたソ連は、飢饉の存在を隠蔽して認めなかった。 しだいにウクライナではソ連に対する反感の機運が高まり、後に独ソ戦でドイツ軍が侵攻してきた際には、解放軍として大勢のウクライナ人がドイツ軍に志願兵し、共産党員引き渡しなどに加担した。(ウィキペディア) いま、ロシアが、「ネオナチの一掃」を掲げて、ウクライナ侵略の口実としているが、そういう過去の歴史があった。ソビエト共産党の迫害に耐え切れずに、民族解放を求めて、ナチスと共闘した東欧の国は、フィンランドやバルト3国などでも、多く見られた。 もちろん、100年以上後の現在のウクライナでは、ナチスとの共闘の歴史は清算され、民主国家に生まれ変わっているが、プーチンは、侵略の正当性の一つにしてきた。 ホロドモール(ウィキペディア)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB 果たして、人類に未来は、あるのだろうか?皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――――NHK総合「映像の世紀」再放送開始映像の世紀 パリは燃えているか(YouTube)https://www.youtube.com/watch?v=deI9DMEHvjc&t=2078s 1995年に放送されたドキュメンタリー番組「映像の世紀」(全11集)が、1月27日深夜からNHK総合でアンコール放送される。初日は、27日深夜0時25分(28日午前)からで、第1集「20世紀の幕開け ~カメラは歴史の断片をとらえ始めた~」と、第2集「大量殺戮の完成 ~塹壕の兵士たちはすさまじい兵器を見た~」を連続放送する。 20世紀は人類が初めて歴史を「動く映像」として見ることができた最初の世紀。番組では“映像は20世紀をいかに記録してきたのか”という視点で、世界中に保存されている映像記録を発掘・収集し、再構成した。 放送スケジュールは、以下の通り。 【放送予定】1月28日(土)[総合] ※27日(金)深夜午前0時25分~ 第1集「20世紀の幕開け~カメラは歴史の断片をとらえ始めた~」午前1時40分~ 第2集「大量殺戮りくの完成~塹壕ざんこうの兵士たちはすさまじい兵器を見た~」 1月29日(日)[総合] ※28日(土)深夜午前0時50分~ 第3集「それはマンハッタンから始まった」午前2時05分~ 第4集「ヒトラーの野望~人々はナチスに未来を託した~」 1月31日(火)[総合] ※30日(月)深夜午前2時11分~ 第5集「世界は地獄を見た 無差別爆撃、ホロコースト、原爆」 2月1日(水)[総合] ※31日(火)深夜午前2時00分~ 第6集「独立の旗の下に アジアは苦難の道を歩んだ」 2月2日(木)[総合] ※1日(水)深夜午前1時15分~ 第7集「勝者の世界分割~東西の冷戦はヤルタ会談から始まった~」午前2時30分~ 第8集「恐怖の中の平和~東西の首脳は核を背負って対峙じした~」 2月3日(金)[総合] ※2日(木)深夜午前1時20分~ 第9集「ベトナムの衝撃~アメリカ社会が揺らぎ始めた~」午前2時35分~ 第10集「民族の悲劇果てしなく~絶え間ない戦火 さまよう人々~」 2月4日(土)[総合] ※3日(金)深夜午前0時25分~ 第11集「JAPAN~世界が見た明治・大正・昭和~」
2023.01.21
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懲りずに(護憲)を叫ぶ、リベラルの無残・・・ 「有事」にまたまた(見て見ぬふり)を、決め込むか?? 2022-9-6 はんぺんアメリカの核の傘で、能天気に暮らす日本人。そんな都合の良い話は、いつまでも続かない。それが、歴史から学ぶということだろう。 今のウクライナの自衛戦争は、強いられた戦争、人命と国土と生活と文化を守る、自身の存立をかけた戦いだ。 そんな中、ウクライナでは、誰も(戦争反対)などとは、叫ばない・・・・自分たちの生活基盤が、いま潰されそうになっているときに、多くの国民は、国家総動員体制にも反対はしないし、大切な命を捧げるだけの決意と覚悟がある・・・ということだろう。 いま極東では、中国・北朝鮮・ロシアなどの独裁国家が、日本海や尖閣で挑発と威嚇を繰り返しているが、果たして有事の際に日本国民は、自衛の戦いを構える決意と覚悟はあるのだろうか?? (平和憲法があるから大丈夫だ)(9条で守れる)と能天気に構えているリベラルの(護憲運動)が、戦後の日本人を歪めてしまった・・・・ということになる。 戦後リベラルの(罪)は、限りなく重いということを、僕は、ようやく15年ほど前に、やっと・・・・やっと思い知ることになる。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――――「自分の国は自分で守る」覚悟と行動 2022-8-11 野口健 産経新聞防衛省オピニオンリーダーを拝命してから駐屯地を視察、先日、防衛省にて「令和4年版防衛白書」についてレクチャーを受けた。説明を受けて愕然(がくぜん)とした。 中国が公表している国防費の増加スピードはこの30年間で約39倍。それに対し、日本の防衛関係費は約20年間で微増。 今年度の日本の防衛関係費が5兆円強に対し、中国政府が公表しているだけで国防費は約25兆円。ざっと5倍である。 報告を受けた直後に中国は台湾をグルリと囲むような大規模軍事演習を展開。ロシアによるウクライナへの侵略戦争が勃発してから中国による台湾への軍事介入もリアリティーを帯びてきた。 台湾有事は日本の安全保障にも直結している。すぐに陥落すると思われていたウクライナは多大な犠牲を払いながらも善戦し、必死に持ちこたえている。西側諸国からの武器提供による戦力強化も関係しているのだろうが、それを可能にしたのはゼレンスキー大統領の「1ミリたりとも領土を譲らない」という毅然(きぜん)とした姿勢だろう。 以前、自衛隊関係者から「自衛隊は、弾が不足している。仮に海自と中国海軍の軍艦が鉢合わせしても海自の船は戦えるほどの弾を積んでいない。いざとなったらUターンするしかない」と聞かされ、心底驚いた。 防衛省でレクチャーを受けた際、このエピソードの真相を尋ねたら「手の内は明かせないが、弾が不足していることは認めざるを得ない」という。 安倍晋三元首相は防衛費の大幅な引き上げを訴えていたが、賛否両論が飛び交っている。この間、ドイツのアクションは早かった。防衛力強化のため、特別基金(約13兆円)を実現させようと、ドイツ基本法を改正する法案を3月に議会に提出し、6月に成立。今後の国防費は対GDP比2%以上を維持していくと表明している。 この手の問題提起をすると「戦争をしたいのか!」との意見が寄せられるが、ウクライナが証明しているように「まずは自分の国は自分たちで守る」という強い覚悟と行動がなければ、いざというときに他国からの助けも得られにくい、と心得た方がいいだろう。―――――――――――――――――――――――――【プロフィル】野口健(のぐち・けん) アルピニスト。1973年、米ボストン生まれ。亜細亜大卒。25歳で7大陸最高峰最年少登頂の世界記録を達成(当時)。エベレスト・富士山の清掃登山、地球温暖化問題など、幅広いジャンルで活躍。新刊は『父子で考えた「自分の道」の見つけ方』(誠文堂新光社)。
2022.09.06
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ヒロヒト(昭和)の宣戦布告で、310万の日本人が殺された。国土は、灰燼にきした。忘れるな!戦争責任を!! 2022-8-22 はんぺんヒロヒト(昭和)の戦争責任問題について、言ってきた。戦後も、装いを新たにした形で、今も、天皇制が、引き継がれている。「天皇制反対」という、ごくごく当たり前のスローガンを掲げるのが難しくなっている昨今だ。 戦後リベラルの凋落を背景にして、戦前と何ら変わらないマスコミの翼賛体制は、天皇制というシステムを不動のものにしつつある・・・・ということか?? 占領軍(GHQ)によってもたらされた戦後民主主義のおかげで、天皇制も変質を余儀なくされてきたが、それでも、しつこく(戦前回帰)の策動は続けられてきているのは、警戒しなければならない。 本丸の(天皇制打倒)の暁には、真の民主的日本、新生日本が、実現するのだろうが、そのレベルまでの国民総体の意識向上は、現状では望むべくもない・・・ 現在の課題は、天皇制の下で引き起こされた全体主義の悲劇、戦争の惨禍の詳細を何度も確認する中で、ヒロヒト(昭和)の戦争責任の問題を明らかにすることで、(天皇制不要論)を、作り上げることだろう・・・・ マスコミの翼賛体制を突き崩していく取り組みも、SNSなどの社会変容なかでの模索が続くことになるのではないだろうか? (梅田和子さん) 「これが(特攻隊員への)チョコレートです。菊の御紋が押してあるんですよ。『天皇からの贈り物』だと」(本文) チョコレートは長さ15cmほどの円柱で、天皇の象徴である菊の紋章が入っていたといいます。」(本文) 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――――――――特攻隊の『覚醒剤チョコ』最後の食事だったのか...記録には残されず「食べた瞬間にカーッときました」食料工場の女性や軍医の証言 2022年08月16日 毎日放送 戦時中に決死の任務を与えられた部隊・特攻隊(特別攻撃隊)。この特攻で陸・海軍あわせて約6000人が亡くなりました。その特攻隊員が出撃前に最後の食事として口にしていた可能性があるというのが“覚醒剤入りのチョコレート”。記録に残されなかった『覚醒剤チョコ』を取材しました。 「菊の紋章」が入っていたという“覚醒剤チョコ” アメリカ軍の艦隊に次々と突撃していく若き日本軍兵士たち。特攻という無謀な作戦により6371人の尊い命が奪われました(日本側の戦死者:(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会による)。実はこの特攻には知られざる悲劇が隠れていたのです。 梅田和子さん(91)。終戦の年の1945年2月ごろ、疎開先近くの茨木高等女学校に転校しました。学校は兵隊の食料工場になっていて、梅田さんはチョコレートを紙に包む作業を命じられたといいます。そのチョコを上級生から命令されて食べた日が忘れられません。 (梅田和子さん) 「(チョコを)食べた瞬間にカーッときましたね。ちょっとおかしい、普通のチョコレートじゃないなとわかりました。チョコレート(を食べたら)クラっとしたと(父に)言ったら、父は『ヒロポン(覚醒剤)でも入っているんだろうな』と」 チョコレートにヒロポン(覚醒剤)が入っていたというのです。 (梅田和子さん) 「(先生からは)『軍隊へ兵隊さんに贈るんだ』と言われましたね。上級生は『特攻隊員が死ぬ前に食べていくんだよ』と言われましたね。だから大事なチョコレートだって」 特攻隊員の最後の食事だったという覚醒剤チョコ。どんなものだったのでしょうか。梅田さんに絵を描いていただきました。 (梅田和子さん) 「これがチョコレートです。菊の御紋が押してあるんですよ。『天皇からの贈り物』だと」 チョコレートは長さ15cmほどの円柱で、天皇の象徴である菊の紋章が入っていたといいます。ただ、この学校で覚醒剤チョコが作られていたという記録は残っていませんでした。 当時は“栄養剤”のように扱われていた覚醒剤 戦時中に覚醒剤チョコは使われていたのか。手掛かりを求めて取材班は東京に向かいました。話を聞いたのは覚醒剤の歴史に詳しい北多摩薬剤師会の平井有会長です。平井会長によると当時、覚醒剤は今では考えられないような使われ方をしていたといいます。 (北多摩薬剤師会 平井有会長) 「ヒロポンということで、これで500錠が入っていた。極端に疲れた場合とか夜間の作業とかいろいろ書かれている。(Q栄養剤のようなもの?)栄養剤、強壮ドリンクみたいな感じにとられてもしょうがなかった」 覚醒剤は危険薬物という認識は無く、市販もされて広く一般で使われていたといいます。実際、当時のチラシには次のように書かれています。 【ヒロポンの当時のチラシ】「戦時活動への拍車」 「疲労の防止と快復に!」 特攻隊員に覚醒剤チョコを食べさせていたのか、梅田さんが書いた絵を見てもらいました。 (北多摩薬剤師会 平井有会長) 「特攻隊に使われた可能性はありますよね。お菓子と一緒に出した可能性はあるかもしれないけどね。記録はまず残っていないでしょう」 ここでも記録は見つかりませんでした。ただ当時、軍が覚醒剤を使用していたという記録は残っていたことがわかりました。軍と覚醒剤のつながりが浮かび上がってきたのです。 特攻隊員に覚醒剤を注射していた元軍医『本当にかわいそうで仕方ない』 その答えを知る人が新潟県にいました。蒲原宏さん(98)は、1945年、多くの特攻隊員が飛び立った鹿児島県にある海軍の航空基地で軍医をしていました。そこで「出撃前の特攻隊員に覚醒剤を注射していた」と証言します。 (蒲原宏さん) 「僕は初めはヒロポンとは知らなかったわけですよ。黒いケースに10本アンプルが入っていて、説明書にはただ『筋肉内注射しろ』と。『出発前にやれ』という命令だけでよくわからなかった」 上官の命令で約300人の特攻隊員に覚醒剤とは知らずに注射をしていたといいます。その目的は… (蒲原宏さん) 「眠らないためということが主目的でしたね。戦闘力というか興奮させるといいますかね、そういうものを増進させることが目的だったようですね」 鹿児島の基地から戦場の沖縄までは戦闘機で3時間ほどの距離があり、夜間の出撃で眠ってしまわないようにする狙いがあったといいます。 注射された特攻隊員の多くは平静を保ったまま出撃しましたが、中には… (蒲原宏さん) 「真ん中あたりに指揮官が乗るわけですよ。それが日本刀を振り回して滑走路を飛んで行くのを見たことがあったが、今考えると(覚醒剤で)興奮したのかなと思うけど、わからないですね」 特攻隊員に贈った覚醒剤チョコの存在も知っているのでしょうか。梅田さんが書いた絵を見てもらいました。 (蒲原宏さん) 「これは見たことがありませんね。(私のもとには)実際来ていませんね。陸軍はチョコレートに(覚醒剤を)入れたなんてことを言っていたけど、海軍はもっぱら注射だけでしたね」 特攻隊員に使われた記録はありませんでしたが、陸軍では覚醒剤チョコを作っていたというのです。 一方で蒲原さんは今も特攻隊員に注射したことを後悔しています。 (蒲原宏さん) 「本当にね、ヒロポンを打たれて死んだ人に対しては申し訳ないと思いますよ。内心忸怩(じくじ)たるものはありますね。今でも時々夢を見ますよ。どんな気持ちだったか、本当にかわいそうで仕方ないですよ」 悲劇の背後に隠された“不都合な真実” 特攻という悲劇の背後に隠された覚醒剤。軍と覚醒剤について長年研究をしている相可文代さんは、覚醒剤チョコの記録がほとんど残っていない理由を次のように指摘します。 (相可文代さん) 「戦後、覚醒剤のヒロポン禍と言われる、いわば幅広く中毒者が出た事件があったんですよね。(特攻で)純粋な気持ちで亡くなっていった若者たちが、実は覚醒剤を摂取して出撃していたんだなんて、そんなことは絶対に認めたくないと、当然遺族はそう思いますよね。周りもそれには触れない。軍の上層部もそんなものを与えていたとは知られたくない。不都合な真実だと思いますね」 『戦争というのは自由を失う』 今は自由な生活を楽しむ梅田和子さん。覚醒剤チョコについて「当時は反対できる状況になかった」といいます。 (梅田和子さん) 「何をしてもあのころは(戦争に)協力しない生き方というのは見つけられないですね。戦争というのは自由を失うんです。一つの方向にみんなそっちを向かないといけないという、この怖さがありますね。一人一人みんな大事な命を持っていることをもっと認識されないと」 軍の無謀な作戦により尊い命が犠牲となった特攻。その裏にある“不都合な真実”も語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。
2022.08.22
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(戦争放棄)(非武装)の「平和憲法」では、(平和)は、守れない・・・・抑止力抜きの(平和論)が、日本の安全を脅かしている・・・・・リベラルの罪は大きいのだ 2022-8-17 はんぺん「戦争反対」「平和を守れ」・・・・当たり前の声だ。誰が反対するんだろうか? 戦後リベラルの失敗は、このレベルから、一本も前進できなかったところにある・・・と言ってきた。 「平和を守れ」を「平和憲法を守れ」に短絡させてしまったのだ。「平和憲法(非武装、戦争放棄)」では、平和が守れないことが、わからなかった!!! 何という事だろう・・・・??? 「護憲」のドツボにはまり込んで身動きできなくなってしまったのだ。平和憲法では、守る(=抑止力)力が、決定的に欠落している・・・・ 現実世界は、善意者ばかりで成り立っていない!!! なのに「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」(憲法前文)・・・・(平和が守れる?)と宣伝してしまった・・・・・リベラル=進歩的知識人? たち・・・・何というオメデタイ人たちだったのだろうか! 真剣に、日本平和、世界平和のことを考える政治家なら、こんな(幻想)を振りまくような無責任な態度をとるべきでは無かったハズだ。これは、(犯罪だ)と僕は思っている。そして、そういう僕自身が、その中にいたのだ・・・・・ リベラルは、結局、戦後一貫して、この(憲法幻想)を、振りまき、間違った方向へ、国民を誘導(=洗脳)してしまったのだ・・・この(犯罪)の大きさに気づき、いま僕は身震いしているのだ・・・・・・・・ そもそも日本国憲法は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導・容認のもとに作られた・・・当たり前だ。勝者が、敗者を裁く東京裁判と同じように、戦後の占領政策も、勝者のGHQがすべてを取り仕切った・・・ということだ。(憲法)は、その占領政策の一部に過ぎない。憲法に(第1章 天皇)が、設けられたのも、(天皇制を利用して、戦後日本統治を進める)というGHQの(意志)だった・・・・ 2度と日本を覇権大国にさせないように抑え込む・・・その狙いが、戦争放棄条項であり、非武装条項なのだ・・・・ 戦争による大きな犠牲を強いられたアメリカの強い意志だ。 アジアで再侵略ができないように、アメリカに歯向かう事の無いように・・・というアメリカの(意志)だ。 敗戦(1945年)のあと、憲法(1946/113交付、1947/5/3施)、再独立(1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約)において、勝者(GHQ)の意志が貫徹されたのは、当然のことだった・・・・ たまたま・・・・たまたま、戦争の惨禍に打ちのめされた日本国民の「もう戦争は、こりごりだ・・・・」 「2度と戦争をしてはならない・・・」という、非戦、反戦の切実な声が・・・・・・・・・・・この米軍の管理下で作られた「日本国憲法」の(戦争放棄条項、非武装条項)と、大きく共鳴しあった・・・・というのが、真実だ・・・・・ 先日の参院選挙で「がんこに平和を」という無内容なスローガンを掲げた社民党の福島瑞穂氏。彼女が、ウクライナ侵攻間もない3/4の反戦集会?で、憲法9条について、「9条は無力だと言う人がいるが、全く違う。9条があるから権力者が戦争をやりたくてもできない。たくさんの犠牲者の上に憲法9条を勝ち取った。9条の意味が今こそ大事にされるべきだ」(社会新報 2022.03.04)と訴えたそうだ・・・・ 「たくさんの犠牲者の上に憲法9条を勝ち取った。」(福島氏)・・・・・敗者が、9条を作れるわけがないだろうし、国民の声としてGHQに9条を押し付けることもあり得ないだろう・・・・・違うだろうか? 「勝ち取ったのだから、それを守る=護憲」となる。この(主張)自体が、戦後リベルたちの大きな誤った理解を、未だに引きずっていることの証明なのだ・・・・いまだに、ドツボから這い出ることのできない現状を示しているのだ・・・・・・ アメリカ(GHQ)が、日本に押し付けた(!)「日本国憲法」の(戦争放棄条項、非武装条項)が、いかに現実離れしているか、幻想であったかは、戦後77年経った今までの歴史の中で、イヤというほどに、我々地球人は、学んできたハズなのに・・・・日本リベラルたちは、一歩も前進することなく、足踏みを続けてきたのだ・・・・ 歴史を学ばず、真実に向き合うことのできない人々は、歴史の舞台から去ってもらうしかないのだろう・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――――――――――ロシア軍に90日間拘束された16歳が拷問部屋で見た「衝撃の光景」 2022-7-19 クーリエ・ジャポン4月、ウクライナ政府高官の息子である16歳のヴラド・ビュリアックは、故郷のメリトポリから脱出しようとしていたところを、ロシア兵によって連れ去られた。 ウクライナでは、ロシア軍によるこうした拉致事件が多発しており、ヴラドの件もその一つにすぎなかった。しかし、連れ去られた他の多くの者とは異なり、彼は解放され、家族のもとに帰ることができたのだ。 ヴラドの事例は、いまだロシアの占領地で拘束されている数多のウクライナ市民が置かれている状況について、貴重な情報を与えてくれる。こうした場所には、国際的な人権機関や独立系のジャーナリストたちもアクセスすることができないからだ。 自殺を図った同居人 ヴラドと父のオレグ・ビュリアックが米紙「ワシントン・ポスト」に語ったところによれば、ロシア兵はヴラドを、ロシア軍が占領するザポリージャ州の町、ヴァシリウカの捕虜収容所に連れて行った。 最初の数日間、彼は独房で監禁された。このとき、彼はまだ自分の状況を理解することができなかったという。「なぜ僕はここにいるんだろう。いつ家に帰れるんだろう」と彼は思った。 しかしこのショックは、すぐに純粋な恐怖に変わる。 ヴラドが来て1週間もしないうちに、妻子のいる20代前半の男性が同じ部屋に連れてこられた。ヴラドは彼が打たれ、電気を流され、時には3時間ぶっ通しで拷問されるのを聞いた。 男性はすぐに、「もう耐えられない。拷問されつづけるくらいなら死にたい」とヴラドに言った。彼の最後の望みは、ヴラドが自分の話を人々に伝えてくれることだった。そしてこの男性は、空き缶の蓋で自らの手首を切った。 ゆっくりと意識を失っていく男性の傍らで、ヴラドは彼の手を握りながらそばに座っていた。しかし彼が息を引き取る前に、収容所の見張りがやってきた。彼は医者を呼び、男性はどこかに連れ去られた。彼が生き延びたのかどうかは不明なままだ。 拷問部屋の掃除中に見たものヴラドの証言の真偽を確かめることはできなかったが、ウクライナの人権団体によれば、彼の証言は他の釈放された捕虜たちの証言と一致しており、拷問は「習慣的におこなわれていた」という。国連もまた、ロシア軍によるウクライナの一般市民や兵士への拷問について、多数の事例を報告している。 男性が連れて行かれたのち、ヴラドはまた監房で1人になった。彼は捕虜たちが拷問される部屋を掃除するよう命じられた。そこではよく、血に染まった医薬品が見つかったという。 ヴラドは平然としているふうを装った。「すべての感情を仕舞い込みました。何も起きてないように振る舞いました。僕が攻撃的な面を見せなかったので、ロシア軍は僕を拷問をしようとはしませんでした」 しかし、内心ではひどく怯えていた。やり過ごすにはあまりにも衝撃的な場面にも遭遇した。 ある日、彼が拷問部屋に入ると、両手を縛られた男性が天井から吊るされていた。男性は激しく殴打されており、その傍らでは1人のロシア兵が、平然とした態度で座りながらメモを取っていたという。 3ヵ月ぶりの再会この収容所で7週間近く過ごした後、ヴラドはここよりも環境の良い施設に移された。そこでは定期的に入浴し、父親に電話をかけることができた。 息子の解放に向けて粘り強く交渉をつづけていた父のオレグは、7月4日、ロシアの交渉担当者から電話を受けた。いくつかの条件のもと、ヴラドを含めた3人が捕虜交換により解放されるということだった。 3日後、ロシアの占領地に近い道路脇で、親子はついに再会を果たした。「息子が誘拐されたとき、心の一部が切り裂かれてしまったように感じました。彼を抱きしめたとき、失われたその一部が戻ってきたように感じました」とオレグは言う。 ヴラドはトラウマを負った。拷問の音、再び連れて行かれるのではないかという恐怖、そして血に染まった雑巾の匂いが、彼を動揺させるのだ。「少なくとも5歳は歳を取ったように感じています」と彼は言う。 ヴラドは現在、戦争関連のボランティア活動をしており、人道的支援をしたり、自身の話を人々に伝えたりして日々を過ごしている。自身が経験した最悪の部分でさえも忘れたくない、と彼は言う。 「僕はそのすべてを忘れたくないんです。覚えていれば、人々に伝えて、確実に知ってもらうことができますから」 ――――――――――――――――――――――――――――――――――核恫喝と「核共有」 国民守る議論を封じるな(主張) 2022-3-1 産経新聞ロシアのプーチン大統領が、核抑止力部隊を特別警戒態勢に置くよう命じた。 ウクライナ侵略をめぐって、対露制裁を強める米欧諸国を核兵器で恫(どう)喝(かつ)したことになる。危機をあおる常軌を逸した命令で到底容認できない。 戦略核兵器を撃ち合う全面核戦争になれば世界は破滅する。プーチン氏は愚かな挑発をやめるべきだ。 米ホワイトハウスのサキ報道官が「さらなる侵略を正当化するために脅威をでっち上げている」と反発したのは当然である。 プーチン氏は2月19日に大陸間弾道ミサイル(ICBM)などの発射演習を実施し、核保有を誇示した。今回、核部隊の態勢強化を命じたのは、ウクライナ侵攻が思い通りに進んでいないからだ。 停戦交渉を前にウクライナを威嚇し、後ろ盾の米欧諸国を牽(けん)制(せい)するねらいや、世界経済を混乱させて西側に一定の打撃を与えるもくろみがあるのだろう。 さらに、核兵器を持たないウクライナの領土や黒海で、ロシア軍が戦術核兵器でウクライナ軍を攻撃したり威嚇したりすることも懸念される。ソ連軍の流れをくむロシア軍は核兵器使用へのハードルが低いが、決して許されない。 忘れてはならないのは日本が中国、ロシア、北朝鮮の核の脅威に直面していることだ。たとえば尖閣諸島や台湾関連の有事で、中国が核恫喝してくる恐れがある。 非核の自衛隊が核を持つ中国の侵略から日本と国民を守るには、米国の核の傘(核抑止力)が十分に機能していることが前提だ。核抑止は安全保障の基盤である。 安倍晋三元首相がフジテレビ番組で重要な問題提起を行った。ドイツなどNATO加盟国の一部が採用している、米国の核兵器を自国に配備して共同運用する「核共有」(ニュークリアシェアリング)政策を、日本も議論すべきだとの考えを示したのである。 だが、岸田文雄首相は国会で、核共有政策について「(『核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず』とする)非核三原則を堅持するわが国の立場から考えて、認められない」と述べた。議論を封殺するような答弁は疑問だ。 非核三原則の墨守で日本の安全保障が揺らぐなら見直しが必要になる。核共有も含め、日本をめぐる核抑止態勢が万全かどうか率直に議論する時期にきている。
2022.08.17
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「お気楽な平和主義」で、日本は見捨てられるだろう。自衛の気概無くして、本当の防衛はありえない・・・絵に描いた餅を眺めて自滅するか?? 2022-8-1 はんぺん 「すでに日本の敗色が濃厚な時期で、かくも凄(せい)惨(さん)な無差別爆撃が本当に必要だったのか甚だ疑問である。」(本文)・・・・・なかなか、そうとも言えないと僕は思う。 ヒロシマ、ナガサキの原爆は、敗戦必死の日本に投下する必要は無かった・・・・という、日本側の(言い分)が、しばしば散見されるが、どうだろうか・・・?? 沖縄の地上戦は、本土決戦にむけての(時間稼ぎ)だったという・・・ヒロヒトが管轄する日本帝国陸海軍は、あれだけの敗戦を重ねながらも、自らの責任回避のため、敗戦を認めず、全く展望のない本土決戦を準備していたのだ。 非人道的な無差別爆撃や 2度の原爆投下、ソ連の参戦が、無ければ、本土決戦によって、もっと多くの日米両国の死傷者が出たであろうことは、明白な現実だった!! 非戦闘員をも巻き込んだ(総力戦)に血道を挙げたのは、ヒロヒトの日本帝国陸海軍だったのだから、今さら、(非人道的)などという非難は、する方が恥ずかしくないか?? そう、あの時点では、敗戦を認めず(本土決戦)に持ち込もうとしたヒロヒトの日本に対して、米軍は、戦争を終わらせるために、あらゆる手段をとるべきだったのだから、無差別爆撃も、原爆投下も、間違ってはいない・・・違うだろうか? もし、本土決戦になった時のことを想像すれば、答えは明らかだろう。全国各地で、非戦闘員(女子供・老人)も巻き込んだ「バンザイ突撃」が、繰り返されて、もっと多くのの日本人(米兵も)が殺されていたのだから・・・違うだろうか? そんな簡単な想像力も無しで、(空襲の悲惨さ)(原爆投下)を訴えても、真実が見えてこないのではないか?? 原爆投下に関しては、戦後の米ソ冷戦を見据えた原爆開発競争が背景にあるとか、いろいろと、知らされているが、僕たちが考えるべきは、ヒロヒトの日本帝国陸海が、素直に敗戦を認めず、先延ばしにした(=戦争犯罪)により、原爆投下に至った側面を最も注目すべきだろう。 (参照:以前、僕のブログで)原爆投下の責任は、天皇ヒロヒトだったことを忘れるな!! https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202108070001/ 「先の大戦をめぐっては、敗者による戦争犯罪に焦点が当てられがちだが、戦勝国の犯した蛮行も忘れてはならない。」(本文)・・・・・その通りだ!!! 「東京裁判」や「ニュールンベルグ裁判」は、(勝者による勝者のための裁判)とよく言われるが、これも、考えてみれば、当たり前のことだ。 戦争後の(裁き)が、そもそも、公明正大であるハズがない。都合の悪い事柄は、裁かれず、無視されるのが普通のことだ。 しかし、戦争の(真実)は、あらゆる取り組みの中で、究明されることは必要で、・・・人間歴史の隠された事実を少なくするべく、努力が求められている。 「日本政府と国民は、目の前にある危機を直視し、有事と隣り合わせにあるという切迫感を持ち、対策を講じなければならない。」(本文)・・・その通りで、強く強く、僕もそう思う。 そもそも政治家は、国民の生命と財産、国土を守るために、その先頭に立つべきなのに、自分たちが「平和ボケ」してしまったのだから、お話にならない!! ウクライナ国民の防衛戦争は、歴史的にロシアの脅威・支配を受け続けてきた歴史が背景にあるとはいえ、僕には、国民一丸となっている様は、(崇高)に映ってしまう・・・・これが、日本だったら、どうだろう??? おそらく、抵抗する日本人は、どれぐらいいるのだろうか? 大いに疑問だ。そんな防衛意識の欠落した、意気地無い日本を、同盟国と言えども助ける気には、ならないのは間違いない。軟弱国民に手を差し伸べる国など、ありえないのだ。 (平和憲法があるから、日本は安心だ)(第9条があるから、攻められることは無い)という(平和ボケ)は、日本の最大の弱点なのだろうと確信する。それを(扇動)してきた、リベラルたちの(犯罪)には、強く強く、憤りを覚えるのだが・・・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――東京大空襲77年 過去の出来事では済まぬ(主張) 2022-3-10 産経新聞東京大空襲から77年がたった。 昭和20年3月10日の未明、東京の下町一帯は米軍のB29による無差別爆撃を受け、10万超もの人々が犠牲になった。 広島、長崎の原爆忌、沖縄戦終結の日とともに忘れてはならない日である。改めて犠牲者の冥福を祈りたい。 とりわけ今年は、無差別爆撃の罪深さを思わざるを得ない。ウクライナでは、子供を含む多くの民間人がロシア軍による攻撃で亡くなっているからだ。 日本の本土への空襲は昭和19年末ごろから激しくなった。米軍は当初、軍事施設を狙った精密爆撃を主としたが、20年になると低空からの住宅密集地への無差別爆撃を行うようになった。 当時の米政府は「戦争終結を早めるため」とし、その後、名古屋、大阪など大都市のほか地方都市でも空襲を続けた。すでに日本の敗色が濃厚な時期で、かくも凄(せい)惨(さん)な無差別爆撃が本当に必要だったのか甚だ疑問である。 先の大戦をめぐっては、敗者による戦争犯罪に焦点が当てられがちだが、戦勝国の犯した蛮行も忘れてはならない。惨禍の記憶と記録を、正しく後世に伝えていくことが大事だ。 東京大空襲では、焼(しょう)夷(い)弾によって多くの住居が焼失し、被災者は100万人を超えた。 ウクライナでも、軍事施設だけでなく、集合住宅などの民間施設や原発までもがロシア軍の砲火を浴び、国外に避難した人々はすでに200万人を超えている。 産経新聞にウクライナの女性から寄せられた手記によれば、ロシア軍は避難しようとする住民に砲撃を加え、食料などの救援物資を運ぶボランティアの車両も銃撃を受けているという。 プーチン大統領がどのような口実を作ろうとも、非人道的な殺戮(さつりく)も侵略行為も許されない。無差別爆撃の惨禍を知る日本だからこそ、ロシア指弾の国際世論をリードする責任がある。 日本を取り巻く安全保障環境は不安定の度を増している。ウクライナでは地下鉄の駅などが防空壕(ごう)となった。戦後の日本では空襲への備えがタブー視され、防空体制の整備を怠ってきた。 日本政府と国民は、目の前にある危機を直視し、有事と隣り合わせにあるという切迫感を持ち、対策を講じなければならない。
2022.08.01
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平和憲法で、平和は守れない・・・リベラルは(真実)と真剣に向き合え!! 今から目覚めても手遅れか? 国民は、待ってくれないだろう・・・ 2022-7-29 はんぺん「日本を2度と帝国主義として復活させない」これが、先の戦争終了後の連合軍(GHQ)の最重要問題だったのは、間違いない。 ヒロヒトは、戦争最高責任者として、卑劣な真珠湾奇襲攻撃を命令した。軍部にそそのかされたという言い訳は通用しない・・・卑怯極まる(真実)であり、彼は最大級の(戦犯)であることは、誰が見ても、はっきりしている。 その日本の軍隊の復活を、「今後、絶対許さない・・・・」アメリカが、こう考えるのは、あたり前のこと。この戦争で、日本兵士だけでなく、多くの米軍兵士が戦死しているのだから・・・・こんな戦争は、今後、絶対やらせない!! アメリカの強い決意だったと思う。 それが、あの憲法9条の(戦争放棄)であり、(戦力の不保持)(交戦権の放棄)であった。日本国憲法は、日本人ではなく、GHQ(連合軍)が、作ったのだということは、何度強調しても強調しすぎることは無い・・・・ 戦後リベラルは、戦争の惨禍が身に染みた(正常な国民の反戦意識)が主導して、憲法が作られた・・・と、(誤認?)して、(護憲・平和運動)を推し進めた。そして、この(護憲運動)で戦後日本の再生を目指したが、この認識自体が、そもそも間違っていたのだ。 国民の反戦平和感情に寄り添って、憲法9条がつくられたかのように思いたい・・・というのは、リベラルいも含めた日本国民側の(勝手な思い込み)だったのだ・・・・・・ 憲法は、1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行されたが、その後、すぐに地球規模の(冷戦)が表面化し、朝鮮戦争(1950~1953)などでの全体主義(共産主義)の脅威が現実のものになる中で、連合軍(GHQ)、とりわけアメリカの外交政策は、(反社会主義を最優先)というように転換され、その中で、日本占領政策も変更されていく・・・ その結果、(非武装、戦争放棄)の日本は、アメリカにとって不都合となり、朝鮮戦争の兵站基地として利用する一方、警察予備隊隊、自衛隊の創設を後押しして、反共政策の一員としての(一定の再軍備)を許容するに至るのである。 サンフランシスコ平和条約で、日本が独立(1952年)するが、その時には、完全に生殺与奪の権利は連合軍(アメリカ)に握られていた。 未だに、間違った認識(過ち)を改めることができず、戦後77年も経過した現在でなお、(9条が日本を守ってきた)などという共産党や社民党、新社会党などのリベラルが存在していることの異常さに、僕は、震えあがっている・・・ こんな認識(過ち)を国民に、選挙のたびに繰り返し、洗脳するがごとく働きかけてきたことの(犯罪性)についてだ・・・・ 前にも、このブログで書いたが・・・(平和憲法が、日本を守ることは無い)平和憲法が、有っても無くても、攻める側にとっては(屁のツッパリ)にもならない・・・日本の(在日米軍)、自衛隊、安保体制が、日本を攻める立場の全体主義国には、決定的な脅威を 与え続けた・・・それが、真実だ。抑止力だ・・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――――――― 「平和守る9条改正」論を(主張) 2022-7-6 産経新聞参院選で各党党首らは憲法改正、とりわけ第9条改正に対する考えをもっと語ってほしい。 衆院では憲法改正に前向きな勢力が3分の2以上を占める。今回の選挙の結果、参院でも改憲勢力が3分の2以上を占めれば、憲法改正が現実の政治日程に上る可能性は十分にある。憲法論議が低調であってはならない。 安全保障が参院選の主な争点となったが、この問題は9条の在り方と密接にかかわっている。 ロシアによるウクライナ侵略や、力を背景とした中国の一方的な現状変更の動き、北朝鮮の核・ミサイル戦力の強化など、日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増している。国民の生命と日本の繁栄が脅かされているのだが、9条を金科玉条にしても事態は少しも改善しない。それどころか、9条を旗印にした勢力の無理解や妨げで、自衛隊や日米同盟に基づく抑止力の構築は妨げられてきた。 平和を保ち、国民を守る憲法へ刷新は急務といえる。 世界の民主主義国はそれぞれ軍隊を持ち、抑止力にしている。自衛隊も国際法上、軍隊として扱われている。民主主義国に効果的な防衛力がなければ、力の信奉者である専制国家に対する外交すら十分に展開できない。 報道各社の世論調査で、防衛費増額への支持が多数を占めるようになった。ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにした国民の間で、平和を守る役割を担う自衛隊への期待が広がっている表れだろう。 自衛隊員は有事や大災害時に自身の危険を顧みずに任務に当たる存在だ。そのような自衛隊を「憲法違反」とする解釈が出てくる憲法を是正するのは当然である。 憲法への自衛隊明記の意義はほかにもある。平和を守る抑止力を日本が備える意義を学校教育などでも丁寧に伝えられるようになる。日本全体の安保論議、防衛意識の底上げが期待できる。 岸田文雄首相(自民党総裁)はNHK番組で、自衛隊明記や緊急事態条項創設など4項目の党改憲案について「喫緊の課題」と述べたが、演説ではほとんど触れない。憲法改正に前向きな党や候補は自衛隊を憲法にどのように位置づけるかを語ってほしい。「9条を守れ」と唱える共産党、社民党の熱意だけは見習うに値する。 ――――――――――――――――――――――――――――――また立民が敗北。空想的平和主義を捨てよ(主張) 2022-7-12 産経新聞参院選で立憲民主党は改選23議席を6議席下回る17議席にとどまった。うち比例代表は7議席で日本維新の会の比例8議席に及ばなかった。 立民は野党第一党を維持したとはいえ、昨年の衆院選に続いて敗北を喫したことになる。共産党も改選議席から2議席減らす4議席だった。小政党のれいわ新選組を1議席しか上回れなかった。 自民党は改選議席から8議席増の63議席を、維新は同じく6議席増の12議席を得た。対照的な結果となった。その最大の理由は、国民を守る安全保障政策を掲げたかどうかだろう。 国連安全保障理事会の常任理事国にもかかわらず、ロシアはウクライナを侵略している。有権者が国の守りを託せる政党はどこかを判断基準にするのは自然だ。 岸田文雄首相は「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と述べ、防衛力の抜本的強化を約束した。維新は防衛費の国内総生産(GDP)比2%への増額を公約とした。 立民は「着実な安全保障」を掲げ、日米同盟基軸をうたったが、防衛費の思い切った増額や反撃能力の導入に後ろ向きだった。国民を守り抜く抑止力を構築する具体的政策はなく、足を引っ張る姿勢だった。共産は自衛隊は憲法違反の立場を改めず、防衛力の強化に反対した。 ウクライナへの侵略をみても、空想的平和主義を捨てられない。有権者が不安に感じ、無責任な政党だとみるのは無理もない。 立民の泉健太代表は記者会見で「政権を任せられる勢力だと国民から認知されなかったことを痛感している」と述べた。 なぜ政権を任せられないと思われたのか。空想的平和主義にとらわれたり、社会保障費に充てる消費税の無責任な減税にとびついたりするようでは、党勢は低迷し続けるに違いない。 改選1人区で立民と共産などの野党共闘が十分できなかった点を強調する見方がある。だが、昨年の衆院選がそうだったように「立共共闘」に展望はない。国民を守る道ではないからだ。 政府与党に緊張感をもたらす、政権交代を目指せる健全な野党勢力の存在は、議会制民主主義にとって欠かせない。現実的な安保政策へ転換することが立民出直しの一歩となるはずである。
2022.07.29
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防衛力の増強(防衛費の増額)は、喫緊の課題。日本の周辺は、ウクライナ以上に危機的な状況だ・・・ 2022-4-28 (はんぺん)リベラルの防衛政策(平和政策)には、以前から、うさん臭いところが多すぎる・・・と思っている。長年、日本社会党員であった自分が言うのが、情けないが・・・(非武装中立)は、絶対的なモノ、金科玉条的な確信があったが、宗教心に近いものがあって、それで本当に現実性があるのか?と自問自答したことはあったが、悶々としていた・・・ さすがに(非武装中立)は、ここ数十年来、誰も言わなくなったが・・・それでも自衛隊の活動が海外に及ぶとなると、目の色を変えて反対しながら、中国や北朝鮮の軍事力の巨大化については何も言わないリベラルたち・・・モヤモヤばかりが残る・・・ 過去の出来事になるが、2010年・・・・当時は、民主党政権下で起きた「尖閣諸島中国漁船衝突事件」。 何度か、このブログでも取り上げたが、違法操業中の、中国籍の不審船が、警告する日本の巡視船に体当たりして破損させた事件。 ウイキペディアを参考に再紹介すると・・・「海上保安庁は同漁船の船長を公務執行妨害で逮捕し、取り調べのため石垣島へ連行し、船長を除く船員も同漁船にて石垣港へ回航、事情聴取を行った。その後、船長は那覇地方検察庁石垣支部に送検された。 中国政府は「尖閣諸島は中国固有の領土」という主張を根拠に、北京駐在の丹羽宇一郎大使を呼び出し、日本側の主権に基づく司法措置に強硬に抗議し、船長、船員の即時釈放を要求した。 これを受けて13日に日本政府は船長以外の船員を中国に帰国させ、中国漁船も中国側に返還したが、船長に関しては国内法に基づいて起訴する司法手続きの方針を固め、19日に勾留延長を決定した。すると中国側はこれに強く反発し即座に日本に対して様々な報復措置を実施した。 24日、国際連合総会開催中で菅直人首相および前原誠司外相不在の中、那覇地方検察庁鈴木亨次席検事が船長の行為に計画性が認められないとし、また日中関係を考慮したとして、中国人船長を処分保留で釈放すると突如発表。本決定を仙谷由人官房長官は容認。25日未明、中国側が用意したチャーター機で、中国人船長は石垣空港から中国へと送還された。」 というわけで、対外政策は「相手を刺激しない、怒らせない・・・」という無責任極まる対応に堕したわけだ。これは、民主党政権下でも、特大の汚点となり果てた・・・こんな政権が、日本の平和を守れるのか??? ということだ。 当時、政権交代を果たした民主党政権に、相当の期待を抱く多くの支持者を落胆させ、幻滅させた(罪)は、限りなく大きいと思う。間違っても、リベラルたちに政権をとってほしくない・・・とつくづく思う。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――お勧めしたい「平和学習」 2021-3-28 川瀬 弘至(論説委員) 産経新聞沖縄は、京都と並ぶ修学旅行の人気エリアである。残念ながら令和2年度は新型コロナウイルス禍で約9割の学校が予約をキャンセルしたが、例年40万人以上の中学・高校生がこの島を訪れる。 反日本軍にあらずんば・・・ だが、「平和学習」が目的なら、あまりお勧めできない。日本軍を敵視するような、偏向展示の施設が多いからだ。 修学旅行の定番コースである糸満市摩文仁の平和祈念資料館もその一つ。日本軍による「壕追い出し」「食糧強奪」「スパイ視虐殺」「乳幼児虐殺」「朝鮮人の虐殺」などのパネル展示がずらりと並び、あたかも反日本軍にあらずんば平和学習にあらずの感がある。 これでは、純粋に「戦争はいけない」という意識は育たないだろう。修学旅行生らは、「日本が行う戦争はいけない」と思い込むのではないか。 近年、自衛隊の活動範囲がちょこっとでも広がると目をむいて反対するのに、中国による過剰な軍拡にはほとんど声を上げない人たちがいる。それもこの、「平和学習」が一因ならまことに困ったことだ。 沖縄の歌を教えて 沖縄県内の自治体が編集した市町村史などを読むと、若い日本兵と住民の、触れ合いの様子も多数記されていることに気づく。試みに、金武(きん)町史第2巻「戦争・証言編」をひもといてみよう。 沖縄本島のほぼ中央に位置する金武町には先の大戦時、爆弾を積んで敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」の部隊などが配備され、近隣の女性らも陣地づくりに徴用された。 徴用、と書くとおどろおどろしいが、和気あいあいとした面もあったようだ。1日の作業が終わると、若い女性らは町に戻る道すがら「〇〇兵曹は色白で男前だ」とか「××兵曹は△△さんに気があるらしい」とか、楽しそうに話していたと、当時17歳の仲村佳代子さん(仮名)が証言している。 町史によれば「兵士たちも女子青年団が作業に参加したときは特に張り切ったようで、作業の合間には生まれ故郷の民謡などを披露し、彼女たちの関心をかおうと必死に努力した」。 宮里千恵子さん(当時15歳、仮名)は、震洋隊の「小川兵曹」のことを、よく覚えている。 「彼は隊員の中で、一番年下で、無邪気な性格だった。私たちが休息しているといつもグループのなかに入り『沖縄の歌を教えて下さい』と言っては、歌を必死になって覚えていた。作業はきつかったが、そういう楽しいひとときもあった」 軍隊では日常茶飯事・・・むろん日本軍に、非道な面がなかったわけではない。とりわけ住民らが眉をひそめたのが、部隊内の私的制裁だ。古参兵が初年兵を、ささいな理由で顔面が変形するほど殴り続けるようなことも、住民にしばしば目撃されている。 吉野トミさん(当時27歳、仮名)も目撃者の一人だ。「通信隊に派遣されたときの出来事が忘れられない」という。 「毎日うす暗い部屋にこもって仕事をしている通信隊にとって、私たちは『女神様』のような存在だったのか、とても親切にしてくれた」と吉野さん。ある日、若い通信兵が上官の外出中に、吉野さんらを通信室に案内してくれた。 民間人は立ち入り厳禁の部屋である。しばらくして通信兵が、「そろそろ班長殿が戻ってくるかもしれない」と気にしはじめたまさにその時、上官が入ってきた。万事休すだ。上官は激怒し、直立不動の姿勢をとる通信兵を殴り始めた。 見かねた吉野さんが「私たちが部屋を間違えて入ったのです。私たちが悪いんです」と懇請しても、上官は殴るのをやめない。とうとう通信兵は失神してしまった。 後日、吉野さんが様子を見に行くと、通信兵は、顔面をお化けのように腫らしていた。そして、頭を下げる吉野さんに、笑って言った。「こんなことは、軍隊では日常茶飯事です。気にしないでください。今度は要領よくやりますから、また遊びにきてください」 この通信兵も、歌を教えて下さいと頼んだ特攻隊員も、みんな散った。いまの修学旅行生らとあまり年齢の変わらない、若者たちだった。戦争は悲惨だと、心から思う。そんな平和学習が、あってもいいのではないか。
2022.04.28
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ヒロヒト(裕仁)の戦争責任を忘れての(反戦)は、ありえない!! 語り継ぐことの第一は、このこと! 2020-3-20 (はんぺん)「一枚の赤紙に翻弄(ほんろう)された一人の女性、彼女を取り巻く周囲の人々の苦しみや悲しみが風化し、消し去られることはあまりにも切ない」(本文) 同感である。しかし、その事実を(語り継ぎたい)というのであれば・・・何かが、欠けているのではないか? 何か、本質的なモノが、欠けている!!!! そう、戦争を始めたヒロヒト(昭和)の戦争責任だ。これに言及しないで(戦争反対)は無いだろう。ヒロヒト(裕仁)の名前で、戦争が開始された。 そのことが、何よりも重要だし、そのことを抜きにして(過ちは、繰り返しません)と言ったところで、それは(真の反省)では無い。 多くの民衆が、戦地で、あるいは内地の空爆で亡くなった・・・しかし、ヒロヒト(裕仁)は、責任を免れて、ぬくぬくと生き延びたのだ・・・これって、おかしいだろう。 多くの貴重な戦争体験談を、僕は大切にしている。新聞雑誌の切り抜きも欠かさないし、各地の平和記念館を積極的に訪れては、体験集を買い集めている。 多くの国民が、戦争の犠牲になっている。中国大陸や南方の島々などで、殺しあいたくない敵とも銃火を交えて、亡くなっている。戦病死の多くが、餓死だったことも分かっており、日本軍隊の無責任体制には、あきれるばかりだ。 そんな多くの体験談だが、いつも何かが抜けている・・・と。それは、絶対性の天皇ヒロヒトの責任の事だ。ヒロヒトのことを、あえて言わないのは、美徳でも何でもない。責任の所在をぼやかせることで、誰が、利を得るのか? 今も日本のマスコミは、天皇を中心とした皇族に注視し、持ち上げている。戦時報道統制で、奪われた報道の自由を忘れ去ったかのような(懲りない面々)だ。 何度も、確認しておきたい。大日本帝国憲法には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり,あの時、ヒロヒトは、日本陸海軍の最高権力者だったということだ。ヒロヒトが始めた戦争で、230万人以上の日本人、2,000万人以上のアジア民衆が、殺されたのだ。 この厳然たる事実を前にして、ヒロヒトの戦争責任に目をつぶるというのは、歴史のねつ造というほかない・・・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――夫戦死の誤報。身を投げた妻(語り継ぐ戦争) 福岡県77歳 2011-5-9 朝日新聞戦後間もない頃のこと、父の縁者の若い女性が鉄路の露と消えていった。 その女性は田舎の旧家の長男と結婚、大勢の家族と田畑を守っていたとき、夫に召集令状……しばらくして戦死の知らせが届いた。悲しみの癒えぬ間に、「家を守るために」という周囲の勧めに従い、夫の弟と再婚した。 懸命にその役目を果たしていた彼女のもとに、戦死したはずの夫が復員するとの連絡があった。世情の混乱期とはいえ、あまりにもむごい誤報に振り回されたこの女性は、復員した夫の姿を見届けることもなく、列車に身を投げた。 二夫にまみえたことで己を責めた結果ではなかったのだろうか。 あれから六十数年、私は喜寿を迎え、子供や孫たちに囲まれ、喜びを満喫させてもらっている。だが、心ならずも命を絶たなければならなかった彼女の胸中を思うと、あまりにもふびんで悔し涙が出る。 一枚の赤紙に翻弄(ほんろう)された一人の女性、彼女を取り巻く周囲の人々の苦しみや悲しみが風化し、消し去られることはあまりにも切ない。 平和な時代に生まれ、愛する人とともに天寿を全うしたかったであろう彼女を思いながら、戦争の残した轍(わだち)を再び子供や孫が踏むことがないよう、心して語りつぎたい。
2022.03.20
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予断と偏見に翻弄されることなく、リベラルたちは真実に向き合え!! 得るものは必ずある・・・ 2022-3-18 (はんぺん) 櫻井 よしこは、有名な保守の論客だ。僕は、ときどき目を通す。おそらく食わず嫌いのリベラルたちは、偏見の目で見ることはあっても、彼女の文章に目を通すことは無いのではないか? 昔からリベラル陣営の僕たちは、自分たちの機関誌や進歩派?の朝日・毎日ぐらいは読むことがあっても、読売・産経紙は(保守反動だ)ということで忌避していたものだった。 アメリカのトランプ支持者は、CNNなどを忌避して、FOXニュースなどの保守派メディアしか見ないという・・・そういう狭い視野の偏った情報に常時接していると、洗脳されて歪んだ人間に・・・相手の話を聞かないことで、国内対立が拡大することに・・・ 僕は、保守派の櫻井よしこ氏の記事から、多くを学ばせてもらった。全てに賛同することは無いにしても、そういう見方自体を全否定する気にはなれない。アホな全共闘の(全否定)、イエスかノーか?? 事態は、そんなに単純ではないからだ。 桜井氏は、以下の文書の中で、「日本は敗戦後、戦うことを忘れた。祖国は自らが守るものだという国家としての原点を捨て去り、米国に守られるのを当然視してきた。そんなだらしのない国を、世界は生きのびさせてはくれまい。」と喝破している。 安易な(平和憲法)に寄りかかり、都合の悪い時だけ、安保条約(在日米軍など)の傘のもとに逃げ込む・・・といった事態に、何の疑問も抱かなかった自分たちを(恥ずかしい者)と自覚を促している。 これに本気で異議を唱えることができる者はいないだろう。他人(米軍)まかせで、(平和)を享受しながら、それを(平和憲法のおかげ)とすり替えてきたことの偽善!!!!!! 我々の正常感覚は、いったいどこに消え去ってしまったのか?「非核三原則を強調するが、それで日本を守れるのか。岸田首相は広島出身であるとともに日本国の首相として、日本国の安全に責任を果たすべき地位にある。ゼレンスキー氏のように愛国と国防の精神で立ち上がるしかないはずだ。」との提言に、深く首を垂れる・・・これが、極東の現実ではないか? 「ウクライナと同様、日本もロシアの脅威に直面している。そこに中国の脅威も加わっている。世界中で2つの異形の核大国にはさまれ、常に航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)をかけているのは日本だけである。」 「それだけ日本を取り巻く環境は厳しい。プーチン氏の核の恫喝が成功すれば、中国は台湾や尖閣諸島(沖縄県石垣市)と一体であり、沖縄県も中国領だと主張し、核で脅してくる可能性があるだろう。そのとき日本はどうするのか。」 ・・・すでに中国の一部からは、尖閣どころか、沖縄(琉球王国)も中国の領土だとの主張が上がっていることは、僕のブログでも何度か紹介してきた。能天気な日本人は、(危機)が迫らないと気付かないほど(平和ボケ)してるということだろう。 僕が、危機をあおっていると考える人がいたら、その人は政治を語る資格がない・・・特に政治家などは、その時の危機の備えをすることが、国民の命と暮らしを守る重要な仕事なのだから。違うだろうか? 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――――国守る意志を持て 美しき勁(つよ)き国へ 2022-3-7 櫻井 よしこ 産経新聞ロシアのプーチン大統領のウクライナに対する狂気の侵略が続く。プーチン氏は3日、フランスのマクロン大統領に目的達成まで攻撃はやめないと宣言した。 無数の命を奪ってでもウクライナ全土を奪いとろうとするプーチン氏の異常な決意を支えるのが核の力だ。「われわれは核大国だ」という恫喝(どうかつ)はプーチン氏の本心であろう。 冷戦終結から約30年、私たちはいま初めて、核の使用をいとわない専制独裁者の出現に直面し、あってはならない現実に驚愕(きょうがく)している。 同時に私たちはプーチン氏に立ち向かう鮮烈な指導者の出現を得た。ウクライナのゼレンスキー大統領だ。氏は米国が亡命の手段を申し出たのに対し、「必要なのは武器だ。乗り物ではない」と拒否した。 米国と北大西洋条約機構(NATO)にウクライナ上空への飛行禁止区域設定を要請し拒否されると、ならばもっと武器や戦闘機を送れと要求した。 戦い抜く姿勢は1ミリも揺らいでいない。命懸けだ。国と運命を共にする覚悟を世界に示した。人々の心に、あるべきリーダー像を深く刻みこんだ。リーダーとは戦うものだ。国を愛するとは命を懸けて守ることだと示した。 21世紀に引き起こされた異常な戦争にどう立ち向かうかをゼレンスキー氏の決断が示している。プーチン氏の悪魔の核の脅しに立ち向かうには、戦うしかないのだと告げている。 これこそ、日本人が心に刻むべき姿であろう。国を守ることは、こういうことだったと、思い出すべきだろう。日本は敗戦後、戦うことを忘れた。祖国は自らが守るものだという国家としての原点を捨て去り、米国に守られるのを当然視してきた。そんなだらしのない国を、世界は生きのびさせてはくれまい。 ウクライナと同様、日本もロシアの脅威に直面している。そこに中国の脅威も加わっている。世界中で2つの異形の核大国にはさまれ、常に航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)をかけているのは日本だけである。 それだけ日本を取り巻く環境は厳しい。プーチン氏の核の恫喝が成功すれば、中国は台湾や尖閣諸島(沖縄県石垣市)と一体であり、沖縄県も中国領だと主張し、核で脅してくる可能性があるだろう。そのとき日本はどうするのか。 岸田文雄首相は広島出身であることを強調し、非核三原則を強調するが、それで日本を守れるのか。岸田首相は広島出身であるとともに日本国の首相として、日本国の安全に責任を果たすべき地位にある。ゼレンスキー氏のように愛国と国防の精神で立ち上がるしかないはずだ。 専制独裁者が核を持ってその暴力で目的を達成しようとするとき、それに立ち向かうのに、外交的話し合いだけでは到底、不可能だと、日本国も日本人も目覚めなければならない。 ロシアのプーチン大統領との戦いに敗れることは人類の悲劇であるとともに、間違いなく日本の悲劇となる。相手をひるませるに十分な軍事力が必要だ。 この当然の事実にドイツのショルツ首相は突然気がついた。年来の、対露宥和(ゆうわ)策、軍事的努力よりも経済的利益の追求を優先してきた路線を一気に反転させた。 ロシアからドイツに天然ガスを輸送する海底パイプライン「ノルドストリーム2」の認可手続きを凍結し、ヘルメット5千個の援助計画を対戦車兵器1千基、携帯型地対空ミサイル「スティンガー」500基の供与へと方向転換した。 殺傷兵器は供給しないというドイツのパシフィズム(平和主義)政策を捨て去り、国防費を国内総生産(GDP)比2%超に即、引き上げると宣言した。 岸田文雄首相のウクライナへの1億ドルの緊急人道支援は湾岸戦争のときと同じだ。防弾チョッキの提供はドイツのヘルメット支援の周回遅れだ。紛争国への軍事援助を禁ずる法律を直ちに変えて、プーチン氏の侵略に立ち向かうウクライナを助ける最前線に立たずして、日本の未来はない。 日本を狙う中国は、ロシアよりもはるかに手ごわい。習近平国家主席はプーチン氏のように、世界に丸見えの形で手荒なまねなどしない。世界のメディアや中国人民の目からも見えない形で陰惨なジェノサイド(集団殺害)を進める。 折しも5日開幕の全国人民代表大会(全人代)で国防費の伸びは、GDP実質成長率の政府目標「5・5%前後」を上回る前年比7・1%増とされた。ウクライナ騒動の最中、着々と軍拡を加速させている。 中国の脅威の前で日本は丸裸状態だ。今、私たちは真剣に究極の危機について考えなければならないと思う。ウクライナはゼレンスキー大統領以下、男たちが戦い、女性や子供たちを陸地づたいに周辺の友好国に避難させている。 だが、いざとなったとき、日本国はどうするのか。男たちは戦うか。女性や子供たちを避難させるとして、行く先はあるのか。日本を守る海は国民の逃げ道を塞ぐ海にもなる。平和を信ずる国であるから地下壕もない。 ドイツが一瞬で国際政治の本質を理解して豹変(ひょうへん)したように、日本も大転換すべきときだ。自衛隊だけに国防の責任を負わせる精神ではこの国はもたない。 国民全員が国を守る心を育み、その上で国防の準備を急ぎたい。防衛費を大幅に増やし、中距離ミサイルを含む攻撃力の保持や、米国の核兵器を自国に配備して共同運用する「核共有」について国民とともに広く議論するのがよい。 ドイツが米国と核を共有しているように、日本も米国と核を共有する可能性を探り、米国との同盟関係の強化と憲法改正が急がれる。
2022.03.18
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「ロシアは、ウクライナから手を引け」は、世界の最大の関心事・・・加われない日本リベラルたち 2022-3-13 (はんぺん)サッチャーの名言を繰り返したい・・・・・「確かに戦争は悪です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪をストップせねばならぬこともあります。もし連合国がヒットラーをストップしなかったら今頃世界はどうなっていましたか」 「平和は貴いものです。しかし、自由はもっと貴いのです。独裁の中での平和よりも混乱の中での自由の方がはるかに人間的であると私は思います。その自由のシステムが存亡の危機にあるとき、自由を愛し、自由の恩恵に浴している人間は立ち上がらねばなりません」(サッチャー元英国首相) どうだろうか?? 「ロシアは、ウクライナから手を引け」は、今や、全世界の心ある人々の最大の関心事だろう。多くのウクライナ民衆が、プーチンのロシア軍隊により殺され続けている。多くの反戦平和勢力が、ロシア全体主義による暴虐を糾弾している。その一線に加われない、(社会主義幻想)に洗脳された日本のリベラルたちがいる・・・これって、歴史的?なことだろう。僕の短い生涯においても、画期的な愚挙だ。なんで日本人は、洗脳に弱いのだろうか・・・と、時々考える。思い込んだら骨の髄まで、ボロボロにされてしまっているって、悲劇そのものだろう。(反省する勇気)に欠けた人間たちが、(人権)(人権)と叫びわめく惨状を見てきたが・・・国民を愚弄するにもホドがあるというものだろう。 ウクライナのゼレンスキー大統領「ともに戦ってほしい」呼び掛けている。日本の護憲主義者たちは、「これをどう見るのだろうか? 教えてほしい・・・サッチャーの名言も、護憲主義者たちは、どう考えるのだろうか? 教えてほしい・・・ガーディアンは「主権国家が外国人の参戦を訴えたのは現代戦では前例がない。1936年のスペイン内戦を連想させる」と伝えた。スペイン内戦当時、ヒトラーとムッソリーニの支援を受けるファシズム性向のフランコ軍に対抗した共和派人民政府を助けるため53カ国から3万5000人が自発的に参戦した。(下記参照) 「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」(憲法前文)にいつまで、縛られ洗脳され続けるのだろうか? 教えてほしい・・・(今そこにある危機)に対して、何の役にも立たない(護憲主義者たち)の凄惨な現状には、哀れを催すしかないのだが・・・ MDS(民主主義的社会主義)いうグループは、民主党をはじめ自民党、公明党 果ては共産党ですらそっぽを向く「無防備地域条例(宣言)」運動を提起し続けてきたが・・・賛成は社民党のみ。各地方議会では、あまりの非常識に、すべての条例請求は否決されてきた。相手にされないのは、当たり前で、相手(敵)の良心をあてにして「無防備状態の都市は攻撃されない」なんてことを真面目に提起すること自体、信じられないアホ政策だ。この(過ち)のベースにあるものは、(平和憲法のおかげで日本の平和が守られてきた)という大ウソだった。「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」(憲法前文)の文言が、国民に誤ったメッセージを送り続けたのだ。 戦後日本リベラルたちについては、憲法の存在などに(平和幻想)を持つ(9条真理教)信者たちによる、護憲キャンペーンによる(過ち)が全てだったといってきた。繰り返す・・・沖縄の米軍基地を含む、日本の在日米軍の存在こそが、彼らにとっては、最大の脅威であったために、結局、日本に手出しできなかっただけのことである。・・・これが、歴史の真実だ!!(今そこにある危機)で、自衛隊・安保・在日米軍の(おかげ)で、日本の平和は、守られてきた・・・ ソ連では、2,000万人モノ国民が強制収容所に送られ、銃殺されたモノも多くいたという。そんな真実に真摯に向き合い、(社会主義幻想)の呪縛から、一刻も脱却し、真実人間に立ち戻り、民衆の味方になってほしいと願うばかりだ。皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――銃を持ち戦闘服を着たミス・ウクライナ…ドレスは脱ぎ捨てた 2022-3-1 韓国中央日報日本語版ロシアによるウクライナ侵攻に対し、ウクライナの一般国民が「国を守る」という一念で志願入隊する事例が相次いでいる。そんな中、ミス・コンテスト出身のウクライナ人女性も、ドレスの代わりに戦闘服を着て銃を持った姿を公開し、国のために戦うという意志を示した。 ミス・ウクライナ出身のアナスタシア・レナさん(31)は23日、インスタグラムに戦闘服を着用し、銃を手にした自身の写真を公開した。そして、「#stand with ukraine(ウクライナと共にロシアに抵抗しよう)」、「#hands off ukraine(ロシアはウクライナから手を引け)」というハッシュタグもつけた。 レナさんは2015年、24歳の時に「ミス・グランド・ウクライナ」に選ばれた。その後、ミス・コンテスト世界大会にウクライナ代表として参加し、最近はトルコで広報マネージャーとして活動してきた。レナさんのインスタグラムは最近まで、ドレスを着た華やかな装いの写真中心だった。 しかし、最近、ロシアがウクライナに侵攻し、ウクライナ各地で爆撃が起き、老若男女を問わず危険に晒されていることから、レナさんは他の国民と共に祖国を守るために軍に志願入隊した。現地メディアの報道によると、これまでレナさんのようにウクライナ防衛軍に志願入隊した女性は約3万5000人に及ぶという。 レナさんのインスタグラムも戦闘服を着た写真で埋め尽くされ始めた。最近は戦闘服を着たままテントで寝ている姿もインスタグラムで公開した。 レナさんはロシア軍をかく乱させるための「道路標識除去」も先導している。「全国の道路標識を撤去しよう。地理をよく知らない敵がすぐに地獄に行けるようにしよう」と呼びかけた。 米紙ワシントンポストによると、ウクライナ道路庁は26日、フェイスブックに「ロシア軍はここの地理をよく知らない。彼らを地獄に行かせよう」とし、地方政府、地域共同体などに標識除去への参加を訴えた。 ドレスの代わりに戦闘服を着て銃を持ったレナさんの姿はSNSをはじめオンライン上で大きな話題になっている。世界中のネットユーザーが「彼女の決定に拍手を送る」とし、応援メッセージを送っている。 ――――――――――――――――――――――――――――――ウクライナに向かう「外人部隊」…ゼレンスキー大統領の呼び掛けに世界の参戦勇士が集まる 2022-3-2 韓国中央日報日本語版ロシアが民間人居住地域に無差別爆撃を繰り広げ戦況が悪化の一途をたどる中、ウクライナのために参戦するという人たちが相次ぎ登場している。一部の国は自国民の自発的参戦を全面許容し同盟軍なく単独でロシアの大軍と対抗しているウクライナを支援している。 英日刊紙インディペンデントは1日、各国から特殊部隊、参戦勇士、消防官出身のベテランを含め平凡な大学生から会社員までウクライナ国境を越え対ロシア戦闘に相次ぎ合流していると伝えた。 彼らは海外在住ウクライナ人ではない外国人で、「ウクライナの残酷な写真と動画を見て助けるべきだと思った」とし、自費で武器を購入して旅行経費を調達しウクライナ最前線へ向かっている。 ◇ゼレンスキー大統領「ともに戦ってほしい」呼び掛け これに先立ちウクライナのゼレンスキー大統領は先月27日、「世界守護に参加するならウクライナに来てロシア戦犯と戦ってほしい」として国際旅団創設と義勇軍募集の事実を知らせた。クレバ外相もツイッターに「ウクライナと世界秩序守護をともにしようと考える外国人の参戦を望む」と訴えた。 ガーディアンは「主権国家が外国人の参戦を訴えたのは現代戦では前例がない。1936年のスペイン内戦を連想させる」と伝えた。スペイン内戦当時、ヒトラーとムッソリーニの支援を受けるファシズム性向のフランコ軍に対抗した共和派人民政府を助けるため53カ国から3万5000人が自発的に参戦した。 ◇特殊部隊出身ベテラン部隊をウクライナに投入 国際義勇軍募集が伝えられた翌日の先月28日、ウクライナの国防次官はソーシャルメディアに「数千人がウクライナ参戦を志願した」と投稿した。 インディペンデントによると、カナダ出身の退役軍人でもある元消防官はウクライナ戦争に参戦するため自身のバイクを1万1000ドルで処分した。 カナダのコメディアンであるアンソニー・ウォーカーは「私はウクライナ人ではない。だが同じ人間だ」としてウクライナに向かった。 米カリフォルニア出身の米空軍退役軍人は「たとえそこで死んでも、私が信じる大義のためになるだろう」としながら自動車を売り武器とウクライナ行きチケットを買うと明らかにした。 一部は部隊単位で国際義勇軍への合流の意向を明らかにした。米オンラインメディアのバズフィードは先月28日、特殊部隊出身で構成されたベテラン部隊がポーランドに集まりウクライナ投入を準備していると報道した。 米国人6人、英国人3人、ドイツ人1人で構成されたこの部隊はNATO軍の訓練を受け、接近戦と対テロ経験もある。2人の元米軍将校も部隊のリーダーとして合流する意思を明らかにしたという。 ◇英国、デンマーク、ラトビアは自国民の参戦許容欧州の複数の国は自国民の対ロシア戦争参加を支持し出国を許容した。ラトビア議会は先月28日、欧州で最初に自国民のウクライナ参戦を許容する案を満場一致で可決した。 英国とデンマークも自国内のウクライナ人だけでなく、自国民がロシアと戦うためにウクライナに出国できるようにした。英国のトラス外相は「この戦争は民主主義のための戦いであり、決定は国民の役割」と話した。 デンマークのフレデリクセン首相も「紛争解決に直接寄与できると考える人は(参戦を)選択できる」とした。 日本政府は自国民の国際義勇軍志願を支持しない立場だ。だが1日までに日本人70人ほどがウクライナ参戦の意思を明らかにしたと日本メディアが2日に報道した。毎日新聞は志願者全員が男性であり、このうち約50人は元自衛官、2人は過去にフランス外国人部隊所属だったと伝えた。 ある志願者は「ウクライナの若い人が亡くなるぐらいなら自分が戦う」と志願理由を明らかにした。在日ウクライナ大使館は志願者を実際に義勇軍として派遣するかは日本政府と調整して決める方針だ。 現在米国と西側諸国はウクライナに侵攻したロシアをより強く糾弾し前例のない制裁を加えているが、軍事的介入には線を引いている。米国とウクライナは相互防衛条約など米軍の自動参戦を約束した装置がない。 北大西洋条約機構(NATO)にも加盟しておらず、NATO軍もやはり乗り出すことはできない。ウクライナを軍事的に助ける方法は韓国戦争(朝鮮戦争)当時のように国連軍を構成することだけだが、国連安保理常任理事国であるロシアが戦争に出ているだけに安保理次元での議論すら容易ではない。 ロシアの大軍に加えベラルーシの参戦の可能性まで予告された状況で、単独で抵抗するウクライナとしては外国人の自発的参戦を訴えるのが味方を確保する唯一の方法ということだ。 一方、一部では極右主義者が戦闘経験を積もうとする目的でウクライナ支援を口実にして現地に紛れ込む可能性も懸念している。ガーディアンは「極端主義者などがウクライナで戦闘経験を積んだ後で故国に戻れば地域社会に大きな脅威になるかもしれない」と伝えた。
2022.03.13
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先のアジア太平洋戦争で、卑怯な軍人たちに指導された日本軍が負けて、本当に良かった・・・ 2022-3-8 (はんぺん)生還を許さない航空特攻(自殺特攻)で、およそ4,000名の無駄死にが、発生した。フィクション作家の保阪正康さん(74)は「特攻は日本の恥部。美化することは、それを命じた軍当局と変わらない」と断罪している。 その卑劣な軍指導者たちの頂点に立っていたのが、ヒロヒト(裕仁)だった。この男の(おかげ)で、何百万の日本人が、内地、外地で、無念の死を遂げた。何千万のアジア民衆が、殺害された。 この万死に値するヒロヒトが、連合国(アメリカ)の都合で、戦争責任追及を免れて、戦後もぬくぬくと生き残ったことは、日本の歴史の不幸の極みだった。 天皇制に洗脳され、正常な判断を国民は下せず、多くの国民の餓死や惨死が、ヒロヒトの責任だと、正しく考えることが出来なかった・・・不幸な戦後の始まりだ。 今回紹介する、下記のような、多くの戦争体験記は、貴重なモノだが・・・ヒロヒト(裕仁)の戦争責任の問題が、いつも抜け落ちているのが、もどかしい・・・天皇制批判は、タブーになっている現実が、大問題だ。 このタブーを作りあげてきたのが、戦後のマスコミでもあった。戦時中、大本営発表しか報道せず、国民を(一億玉砕)に駆り立てた責任をマスコミは反省できなかったようで、戦後は、皇室報道に(うつつ)を抜かして、天皇制を持ち上げてきた。何たるブザマさだろう。 差別の根源である(天皇制)が、人権の概念と相いれないことは、普通に考えれば、だれでもわかる・・・その不合理を許してしまうのは、我々が(弱い)人間だから・・・なのだろう。 アメリカの都合(=戦後の日本支配)で作られた憲法の(第1章 天皇)は、憲法改正されるときには、真っ先に廃棄されねばならないのは、明らかだ。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――――ソ連将校のレイプ、満州での飢餓 澤地久枝「すべてを話しましょう」 2015-8-11 現代ビジネス編集部「軍国少女」だった過去を初めて明かした澤地氏・・・ 戦争は、私が少女であることを許さなかった。幼いころから戦争が終わるまで、私は満州にいました。そのころ常に考えていたのは、「もっと戦争のために、自分ができることはないのか」ということ。 〈欲しがりません勝つまでは〉をたたきこまれた軍国少女は、「どんなにひもじくても、食事のときは子供茶碗一膳しか食べない」という決まりを自発的に守っていました。 そのうえに配給制がはじまり、子どもたちはどんどん栄養不足になる。弟は脳脊髄膜炎になり、私も妹も猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、生死の境をさまよいました。全身の皮膚がずるむけになってね。痛くって痛くって……。 栄養失調で死ぬ人を何人も見ましたね。特に、満州から日本に引き揚げるまでの難民生活の中では、いくつ子どもの死体を見たか、わかりません。お墓をつくる余裕もないから、枯れ木みたいになった死体を裏山の穴に捨てるのです。 そんな環境で生きるなかで、私の生理は止まりました。戦争は、一人の少女が少女であることさえ許さなかったのです。 1930年生まれ、『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』などの著書のあるノンフィクション作家の澤地久枝氏(84歳)が、満州での戦中体験をつづった『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(集英社新書)を上梓した。困窮を極めた戦中の生活について、そしてソ連兵に犯されそうになったことをはじめとする壮絶な体験がつづられている。 「戦争」と「昭和」をテーマに執筆を続け、平和運動にもかかわってきた澤地氏だが、これまで自身の戦争体験について明かしたことはなかった。「恥ずかしくて、戦争中の体験は隠して生きてきた」という澤地氏が、なぜ今になって過去を語り始めたのか。 私は14歳の時に敗戦を迎えましたが、それまでは一点の疑いもなく日本の勝利を信じていた「軍国少女」でした。そのことが恥ずかしくて、いままでずっと戦争中の体験は隠して生きてきました。 いま、そのことを強く悔やんでいます。 私は日本がもう一度戦争を引き起こす、あるいは戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を感じています。なぜ平和を愛したこの国が、再び危うい方向に向かおうとしているのか。それを考えた時に、私たちの世代が抽象的な言葉、たとえば「戦争はつらかった」「苦しかった」というような言葉でしか、戦争を語ってこなかったからではないかと思ったのです。 抽象的な言葉では、もう若い世代には伝わらない。だから、私たちはなるべく具体的に細やかに、戦争体験を語っていかなければならないのです。たとえそれが、つらい記憶を掘り起こす苦しい作業であっても――。 GHQに捕まるという恐怖私たちは、戦争体験を語らなかったのではありません。「語れなかった」のです。 いまの人たちには想像もつかないでしょうけど、戦後まもなくの日本には『戦争中のことは語ってはいけない』という空気が漂っていたのです。当時は本当に『戦争中の話を軽々しくすると、GHQに捕まって、沖縄で捕虜として働かされる』というウワサが流れていましたから。恐怖に心を支配されて、誰も多くを語ろうとしなかったのです。 ひとつ、鮮明に覚えていることがあります。戦争が終わった後、私は東京の女学校に入学したのですが、授業中に、小石の入った綺麗な箱が回ってきました。先生に隠すようにひっそりと後ろの子が回してきたので、小声で『なに、これ?』と尋ねると『これ、広島の石なのよ』と答えるのです。原爆投下後の広島で誰かが拾ったガレキだ、と。 それを聞いて、私の内には言葉にならない不思議な感情が湧いてきた。おそらく他のみんなも同じ気持ちだったと思います。ところがみ時間になっても、誰もそのガレキのことには触れない。戦争のこと、特に広島のことを話すと、GHQに連行されると本当に思っていたから。 それぐらい占領軍は怖かった。その恐怖が染みついているから、この国では戦争の記憶がうまく語り継がれてこなかったのではないかと思うのです。 しかし語り継がなかった結果、今日のような状況をつくってしまった。私の身内に、14歳になる子がいます。彼は戦争について何も知らない。戦争とはどういうものかを彼に伝えるためには、私が14歳のころの話をするしかないと思いました。 あの苦しかった日々と、私が軍国少女だったという恥ずかしい過去。それをいま、できるだけ具体的に書いておかなければならない、と。この本は、いま14歳を生きている「彼ら」に向けて書いたのです。 神風なんか吹かなかった満州にいたころ、母は日本が勝つということに懐疑的でしたが、そんな母のことを私は「非国民」と思っていました。学校で弁論大会が行われた時、私が決めたテーマは「敵の野望を撃て」、でした。 「敵」とは誰なのか。アメリカ人もイギリス人も見たことなんかないのに。それでも新聞を読み込んで、「敵」のやった残忍な行為を拾い出そうとしました。戦況は日々苦しくなり、学校ではサイパン島での日本軍の玉砕が知らされましたが、しかし神風が吹くものだと信じていた。 ところが、そんなものは吹かなかった。8月15日、父親から「戦争は終わったよ」と告げられ、私の「国」は消えた。それはもう、あっさりと。そしてその直後、ソ連兵が満州に侵攻してくるのです。 ……私はこの本の中で、ソ連兵にレイプされそうになった話を書いています。いままで誰にも話さず、今日まで胸の奥底に隠しておいたことです。 「この一家を皆殺しにする!」 終戦直後のある日のこと、二人のソ連の将校が家に押し入ってくると、私にサーベルを突きつけたのです。必死で抵抗し、一時は将校たちを追い払いましたが、しばらくするとまた戻ってきた。 私は物置に隠れたのですが、彼らは力づくでその扉を開けようとする。「もう助からない」と思いました。その男たちを必死に制止したのは、私の母でした。 澤地久枝・著『14歳<フォーティーン>』(集英社新書) 母の命がけの抵抗によって、今度こそ男たちは去った。しかし、その去り際に「今夜、この一家を皆殺しにする!」と吐き捨てたというのです。皆殺しの宣告。私はその夜、便所に行って吐きました。あまりの恐怖に、体がおかしくなったんです。 このことについては、母親ともひと言も話したことはありません。母も触れないようにしていましたし、私も極力思い出さないようにしていました。 それから四半世紀近くたった72年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、よみがえってきたからです。 いくら押し殺そうとしても、戦争の記憶は消えません。いま、私の心にあるのは、あのような時代をもう一度作り出してはならない、という願いです。だからこそ、残りの人生をかけて、自分の体験をつづらなければ、語っていかなければ、と思っています。 遅すぎるかもしれない。しかし、まだ間に合うはずだと信じています。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――澤地久枝 ノンフィクション作家。1930年東京生まれ。49年中央公論社に入社。63年、「婦人公論」編集部次長を最後に退社。86年、菊池寛賞、08年朝日賞を受賞「14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還 (集英社新書) 澤地 久枝 わたしは軍国少女だった・・・・「昭和」を見つめ、一貫して戦争や国家を問うてきた著者の原点となったのは、一九四五年、十四歳での敗戦体験だった。家族と渡った満州・吉林。敗戦後の難民生活は一年に及ぶ。「棄民」ともいうべき壮絶な日々、そして一家での日本への引き揚げ......。十四歳という多感な少女が軍国少女となり、日に日に戦争に巻き込まれていく様を、自身の記憶と膨大な資料から丁寧に回顧し綴る。
2022.03.08
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呆れたリベラル・・・反戦運動をサボタージュ??? 2022-3-4 (はんぺん)世界的に「ロシアによるウクライナ侵略反対」 「ロシアはウクライナから手を引け」の反戦の輪が広がっている。しかし、どういうわけか、旧ソ連の影響を強く受け続けた(新社会党)(MDS=民主主義的社会主義運動)、(アサート)、(社民党)などの反応が鈍く感じる。彼らの言う(反戦平和)が、どこまで本気なのか? 見て見ぬふりを続けるマヌーバー(策略)が、いつまで通用するのか? 僕は、しっかり見ていきたいと思う。 ロシア軍が、ウクライナの原発を攻撃している。ロシアの兵士には、原発の持つ危険性がわかるのだろうか? 教えられることも無く、分かるハズも無い。戦争行為では、兵士は(将棋の駒)だから、命令通りに動くしかない・・・ (愚かな戦争)というが、戦闘行為で出来るだけ多くの敵兵を殺せば、称賛と勲章が与えられ、名誉とされることはあっても、殺人罪で、罰せられることは無い。かくて惨劇は、限りなく繰り返される。 窮鼠猫を噛む・・・ということわざがあるが、ウクライナ攻略が思うようにいかないロシア軍が、超破壊的な兵器使用の疑いを、マスコミは報じている。非人道的な被害をもたらす大量破壊兵器とされる燃料気化爆弾(サーモバリック爆弾)をロシア軍がウクライナ侵攻で使った可能性も出ている。ロイター通信など複数のメディアが2月28日、駐米ウクライナ大使の話として伝えた。大使は同爆弾は「国際条約で規制されている」と批判した。(2022/3/1 日経新聞) (注:サーモバリック爆薬とは、燃料気化爆弾の次世代型に当たる気体爆薬である。1990年代から開発が始まり2002年ごろから実用化された。サーモバリック爆薬は三段階の爆発現象を起こす。1、 固体から気体への爆発的な相変化2、分子間の歪みによる自己分解による爆発3、空気中の酸素との爆燃による爆発(ウイキペディア) 燃料気化爆弾は、火薬ではなく酸化エチレン、酸化プロピレンなどの燃料を一次爆薬で加圧沸騰させ、BLEVEという現象を起こすことで空中に散布する。爆弾が時速数百kmで自由落下しながらでも瞬間的に広範囲に燃料を散布できる。 燃料の散布が完了して燃料の蒸気雲が形成されると着火して自由空間蒸気雲爆発をおこすことで爆弾としての破壊力を発揮する。 爆鳴気の爆発は空間爆発であって強大な衝撃波を発生させ、12気圧に達する圧力と2,500-3,000℃の高温を発生させる。広範囲に衝撃波を発生させるため、特に人体に多大な影響を与える事で知られる。破片による被害は少ないが、急激な気圧の変化による内臓破裂などを起こす。燃焼により酸素を消費しつくして窒息死させることもある。 2000年2月1日のヒューマン・ライツ・ウォッチの報告書[3]は燃料気化爆弾の効果について、アメリカ国防情報局の研究を引用して、大要次の様に述べている。 「生きている標的に対する(爆風)殺傷メカニズムは独特であり、不快である。衝撃波も殺傷力を有するが、それ以上に、圧力波に続く希薄化(真空)で致死的あり、肺を破裂させる ... 燃料が爆発せずに失火した場合、被害者はひどい火傷を負い、燃えている燃料を吸い込むことになるだろう。 最も一般的なFAEの燃料であるエチレンオキシドとプロピレンオキシドは毒性が強いので、爆発しなかったFAEは、ほとんどの化学剤と同様に雲内に閉じ込められた人員に致命的な影響を与えるはずである。」(ウイキペディア) 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――――ウクライナ原発で火災、ロシア軍の攻撃で2022年3月4日 発信地:キエフ/ウクライナ AFP【3月4日 AFP】(更新)ウクライナにある欧州最大のザポリージャ原子力発電所で、ロシア軍の攻撃による火災が発生した。ロシア軍の砲撃が電源装置に当たったとされる。同原発の広報担当が4日、メッセージアプリのテレグラムで発表した。 ウクライナのドミトロ・クレバ外相は「ザポリージャ原発が爆発すればその規模はチェルノブイリ原発の10倍になる! ロシアは『直ちに』攻撃をやめよ」とツイッターに投稿。消防隊の立ち入りを認めるよう求めた。―――――――――――――――――――――――――――――――IAEA、ウクライナ原発への攻撃停止呼び掛け 原子炉に当たれば「重大な危険」 2022-3-4 AFP=時事ウクライナのザポリージャ原子力発電所で起きたロシア軍の攻撃による爆発。同原発当局のライブ配信映像より(2022年3月4日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News 【AFP=時事】国際原子力機関(IAEA)は4日、ウクライナのザポリージャ原子力発電所への攻撃をやめるようロシア軍に求めた。原子炉に攻撃が当たれば「重大な危険」を招くと警告している。【写真】ザポリージャ原発で起きたロシア軍の攻撃による爆発 IAEAは「ラファエル・グロッシ事務局長がザポリージャ原発の深刻な事態について、ウクライナのデニス・シュミハリ首相、同国の原子力規制当局、原発運用事業者と協議している。武力行使の停止を求め、原子炉に攻撃が当たれば重大な危険を招くと警告している」とツイッターに投稿した。IAEAは、ザポリージャ原発の放射線量に「変化はない」としている。 ウクライナ当局も、安全を確保できているとしている。火災が起きたのは訓練棟と研究施設だという。【翻訳編集】 AFPBB News
2022.03.04
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「戦後の日本の平和は、違憲状態の(おかげ)だった」 2022-3-4 (はんぺん)何度も言ってきた・・・そもそも戦後77年間、日本には、在日米軍基地が存在したという事実(違憲状態)を忘れてはならない。9条そのものが、すでに有名無実であったという事・・・その有名無実のおかげで、日本は、周辺の軍事国家から責められることなく、平和状態を維持できたのだ・・・これが、真実だ。 「戦後の日本の平和は、第9条の(おかげ)ではない」・・・これが、今や、日本の常識になりつつある。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」(憲法前文)に(幻想)を抱かせるという意味では、この条文は、まやかしだ・・・と思う。 戦争行為は、相手があってのことで、こちらの誠意が通じる相手ばかりではない。というか、日本の周囲は、キナ具さい独裁国家がひしめいている・・・ 戦後の日本の平和は、在日米軍、安保条約、自衛隊などの実力組織抜きには語れない・・・それが、真実だ。 ⦅憲法第9条 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。⦆と言いながら、77年間、日本国内に米軍基地を抱えてきた・・・そのこと自体が(9条違反)ということになる。在日米軍と後の自衛隊の戦力が、77年間、日本国土において存在し続け・・・日本を守っていたのだ。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――――産経抄 2022-2-26 産経新聞 「これは一個の空文にすぎない。わが国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする」。 共産党の創立に参加し、24年間も議長を務めた野坂参三氏(平成4年除名)は昭和21年の衆院本会議で憲法、なかんずく9条についてこう反対の論陣を張った。その主張の正しさは今こそ明白ではないか。 ▼ロシア軍の侵攻を受けるウクライナは1994年、米国、ロシア、英国が署名したブダペスト覚書により、核兵器を放棄する代わりに安全保障の提供を約束された。 まさに「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」(日本国憲法前文)した結果、今日の悲劇を招いた。 ▼76年の星霜を経て、政党として唯一、憲法草案を否定した共産党の先見の明が注目を集めている。国連安全保障理事会は、拒否権を持つ常任理事国の条約破りや侵略行為には無力である。「国際社会は力が支配する世界なんだよ」。自民党重鎮議員は述懐する。 ▼ところがなぜか、志位和夫委員長は9条を懸命に擁護している。24日にはツイッターで訴えた。「仮にプーチン氏(ロシア大統領)のようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにするための条項が、憲法9条なのです」。 ▼とはいえ世界は日本を中心に回ってはいないし、日本が何もしなくても紛争は絶えない。ロシアや中国、北朝鮮といった国々がみな9条を取り入れ、堅持するならばともかく、現実には志位氏の意見は「一個の空論」にすぎない。ロシア軍の侵攻にあえぐウクライナに、「だからこそ9条だ」と言っても相手にされまい。 ▼戦後日本には長く、9条の存在で平和が保たれてきたとの幻想があった。 だが実際は、9条は魔よけにも、家の鍵にもならぬガラクタで、むしろ国民の命を脅かしている。
2022.03.04
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ウクライナは、核兵器を放棄した・・・その結果??? 2022-3-2 (はんぺん)ベトナム戦争反対を叫んだ知識人や左派の人たちが、50年後の今、ウクライナへのロシアの軍事侵攻反対の叫びに、見て見ぬふりを続けていることは、許せない・・・そんな2枚舌では、国民の支持は得られないだろう・・・と言ってきた。 歴史は繰り返されるのか? 過ちは繰り返されるのか? 無責任な言動がまかり通るのか? 正義が否定され、言語道断の無法が、大手を振って・・・ 旧ソ連の崩壊、社会主義体制の崩壊の中で、旧ソ連国内にあった膨大な核兵器の処理が問題になった時に、中でも大量に核兵器を保有していたベラルーシ・カザフスタン・ウクライナについて、ブタペスト覚書が締結された。世界は、ソ連という核大国の崩壊の混乱に乗じた核兵器の偶発使用に危機感を持ったのは当然だった。 核兵器を5000発以上、放棄(正確にはロシアに移転)したウクライナは、脱冷戦後、ブダペスト条約(1994年)で非核化する代わりに安全保障を約束された。 ところが、核兵器がない今、核の威嚇脅迫の下、ロシアの侵攻を受けている・・・・これを、どう考えるか・・・・この協定のもと、署名国は核不拡散条約の遵守と引き換えに「安全保障」をウクライナに提供したハズだった。 協定内容(ウイキペディアから)覚書によると 、ロシアと米国と英国は、ベラルーシとカザフスタンとウクライナが核不拡散条約の加盟国になったことを認め、実際には核兵器をロシアに引き渡すことで、 彼らは次のようにする。1、 ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナの独立と主権と既存の国境を尊重する。2、 ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに対する脅威や武力行使を控える。3、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに政治的影響を与える目的で、経済的圧力をかけることは控える。4、「仮にベラルーシ/カザフスタン/ウクライナが侵略の犠牲者、または核兵器が使用される侵略脅威の対象になってしまう」場合、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに支援を差し伸べるため即座に国連安全保障理事会の行動を依頼する。5、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナに対する核兵器の使用を控える。これらの誓約事に関して疑義が生じた場合は、互いに協議を行う。――――――――――――――――――――――――――――――――日米安保、米韓安保などを考えるときに示唆的ではある。北朝鮮という全体主義国が、核兵器開発、ミサイル開発に固執し、今年になってからも、何度も発射実験を繰り返しており、実際にこれを誰も止めることが出来ないでいる。もはや、アメリカは、昔のように「世界の警察」としての力量も権威も失いつつある中で、自前の核兵器を保有するべきだ・・・という考え方が出てくるのは、自然だろう。日本維新の会の松井代表が、(核共有)を言い出している。 橋本徹(維新)と安倍晋三元首相の対談(以下の動画)は、興味深い安倍晋三元首相は27日、フジテレビ系「日曜報道 THE PRIME」(日曜午前7時30分)に出演し、ロシアがウクライナに軍事侵攻したことに関連し、北大西洋条約機構(NATO)加盟国の一部が採用している「核共有(核シェアリング)」について、日本でも議論をすべきだという考えを示した。 「核共有の議論必要」で安倍氏と橋下氏が一致https://www.fnn.jp/articles/-/322076 この動画の中、最後の方で・・・「安倍元首相:かつてウクライナは世界第3位の核保有国だった。「ブダペスト覚書」で核を放棄する代わりにロシア、米国、英国が安全を保障することになっていた。国境や独立が守られるはずだったが、残念ながらそれは反故にされてしまった。もしあのとき一部戦術核を残して、彼らが活用できるようになっていれば、どうだったかという議論が今行われている。そういう意味で冷静な議論を行う。ただ、核被爆国として核を廃絶する目標は掲げなければいけないし、その目標に向かって進んでいくことは大切だ。この(ウクライナの)現実に、日本国民の命、日本国をどうすれば守れるかについては、さまざまな選択肢をしっかりと視野に入れて議論するべきだ。」 どう考えるべきなのだろうか? 確かにソ連崩壊時に、ウクライナが核を放棄しなかったら、ロシアが今回のように容易に軍事侵攻できただろうか?・・・・・という問題だ。ブダペスト覚書は、その意味で画期的ではあったが、正しかったかどうか? 核廃絶の立場からの意見、国家防衛の立場からの意見・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――「ブダペスト覚書は、1994年12月5日にハンガリーの首都ブダペストで開催された欧州安全保障協力機構(OSCE)会議において署名された政治協定書で、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナが核不拡散条約に加盟したことに関連して、協定署名国がこの3国に安全保障を提供するという内容のものである。アメリカ合衆国、ロシア、イギリスの核保有3カ国がこの覚書に署名。また中国とフランスは別々の書面で若干の個別保障をしている。(ウイキペディア) ウォール・ストリート・ジャーナル(米国)は社説で、核兵器放棄の見返りだった安全保障は得られず、ウクライナはブタペスト覚書に裏切られたと報じた。「ブダペスト覚書は、独裁者たちが力は正義だと考える世界において、文書化された約束を信頼することの愚かさを改めて示すものだ。さらに有害なのは、核兵器を放棄する際は自国の危険を覚悟する必要があるというメッセージだ。それは北朝鮮が学んだ教訓であり、イランが核兵器開発の凍結を約束したにもかかわらず開発を画策しているのも同様の戦略だ。 米国にブダペスト覚書の約束を実施する能力がないことは、米国の軍事的保証に依存する同盟国政府にもまた影響を及ぼすとみられる。日本や韓国が自前の核抑止力を持とうとしても驚くには当たらない。米国人がウクライナ問題に注意を払うべき理由を知りたいと言うならば、それは核の拡散だ。裏切り行為は結果をもたらす。世界はそれを厳しい形で再び学ぶ運命にあるとみられる。」— The Editorial Board、【社説】ブダペスト覚書に裏切られたウクライナ
2022.03.02
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一応、まともな談話が出された社民党、赤恥は残るが・・・・ 2022-2-27 (はんぺん)北朝鮮や中国の全体主義批判をスルーしてきた社民党だが、いくら(社会主義幻想)に洗脳されていたとしても、(護憲の立場からの反戦)は、言わざるを得ないハズだ。 ましてやロシアのプーチン大統領が演説で核兵器の使用を示唆したことについて、被爆者らから「核兵器による威嚇だ」「被爆者の思いを踏みにじるものだ」と強い非難の声が上がっている。 プーチンは「ソ連が解体され、その能力の大部分を失った後も、ロシアは核保有国の一つだ」と強調。「いくつかの最新鋭兵器も持っている。われわれに攻撃を直接加えれば、どのような攻撃者であっても敗北は免れず、不幸な結果となるのは明らかだ」などと述べたという。 問題の多い社民党だが、2/25、社民党談話が、幹事長(服部良一)から発信された。問題はあるが・・・一応、ロシアのウクライナへの軍事侵攻を非難している。これが、普通の国民の感覚だろう。 この談話で何が問題か? それは、間違った護憲論に依拠していることだろう。 「日本国憲法9条(注:これは、間違いで、正しくは(前文))は「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳っている。」 としているが、何度も指摘されてきたように「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することは間違いではないが、戦争行為には必ず相手(敵)が存在するがゆえに、こちらの意図に反して攻撃を受けた時の対応として、「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というのは、間違いだ・・・と言ってきた。 社民党は、過去、社会党時代から(非武装中立)を掲げたりして、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(憲法前文)を金科玉条の如く信奉してきたが、その驚くべき楽観主義が、誤ったメッセージを国民に与えることになり(9条真理教)の信者を多く生み出してきた。(その一人が僕でもあった) さらに、この談話の問題点は、「日本が引き起こした過去の侵略戦争の反省から生まれたこの憲法9条の理念」・・・これは、完全に間違っている。 アジア太平洋戦争の終結後、アメリカは、日本の軍隊が2度と復活できないように・・・という意図の下、非武装の憲法草案を作った・・・というのが、真実だ。 たしかに、日本国民の(過去の侵略戦争の反省)はあっただろうし、その反戦気分(厭戦気分)がアメリカの意図に合致したことは、間違いないが、日本国憲法の骨格は、アメリカの納得のいくべき「憲法」であった。右翼の言う(押し付けられた憲法)というのは、あながち間違いではないと思う。 その後、冷戦が始まる中で、自衛隊、安保などで、9条の存在がくびきとなっていった・・・と言うのが真実だ。社民党のこのような認識は、護憲運動を党の政策の柱に据えるという決定的な過ちに至ることに・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――【社民党談話】ロシアのウクライナ軍事侵攻に抗議する 2022年2月25日 社会民主党幹事長 服部良一2月24日ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始した。いかなる理由があろうとも、主権国に軍事力を行使することは国際法に違反し、断じて認められない。社民党として厳しく抗議する。 ロシア系住民が実効支配する「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」の独立を承認、「友好協力相互援助条約」に署名し、派遣要請をもとにロシア軍の派遣を決定したとするが、これはロシア自らが合意した「ミンスク合意」を破棄するものであり、世界の外交努力を無にするものである。 国連のグテレス事務総長も国連本部で「ウクライナを攻撃するのをやめて下さい。平和にチャンスを与えて下さい」と悲痛な訴えをしたにも関わらず、その直後に攻撃が始まったことは国連憲章を守るべき安保理常任理事国として決して許されない。 現在、攻撃侵攻は東部だけでなくウクライナ全域に拡大しており、プーチン大統領が言うように「ロシア系住民の保護」が目的であり、「ウクライナの占領はない」ならば、早急に侵攻を停止し、何よりもすべての住民の生命・安全が守られなければならない。 日本国憲法9条は「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳っている。 日本が引き起こした過去の侵略戦争の反省から生まれたこの憲法9条の理念は、まさに今日国際社会での崇高な理念でもあり得る。社民党はこの立場から一切の戦争に反対する。 ウクライナ問題の歴史と背景にも注意を払い、NATOの東方拡大や軍事基地強化に懸念を示すロシアを含むヨーロッパの総合安全保障体制の再構築に国際社会は努力しなければならない。 決して冷戦時代に時代を逆戻りさせてはならない。ロシアは即座に軍事侵攻を停止し、国際社会は今回の問題を世界的な緊張と対立の連鎖にさせてはならない。世界の平和の在り方を真剣に検討する決意が問われている。
2022.02.27
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なんたるブザマ社民党・・・(社会主義幻想)のなれの果て・・・救いの無い独善と偏見で、消え去るのみに・・・ 2022-2-27 (はんぺん)僕の呆れた口が、もう無いので、塞ぎようが無い・・・・ここまでひどい・・・と言っても、驚かない・・・・おたかさん(土井たか子)なら、どう言ってるだろうか? ―――――――――――――――――――――――――――――――――社民党の機関紙がウクライナ危機でロシアを支持する記事を削除→戦争が始まった日に記事が一時的に復活 2022-2-21 JSF軍事/生き物ライター Yahoo!ニュースhttps://news.yahoo.co.jp/byline/obiekt/20220221-00283080 社民党公式サイトより削除された機関紙「社会新報」の記事のキャプチャー画像 社民党(社会民主党)は機関紙の社会新報2022年2月23日号の記事(Web投稿日は2022年2月18日)、タイトル名「ウクライナを戦場にするな~米ロ両国は冷静な対話で緊張緩和を~」において明確にウクライナ危機についてロシアへの支持を打ち出しました。他政党は日本共産党も含めてロシアを非難している中で異彩を放っています。 https://sdp.or.jp/sdp-paper/ukraine-russia/ (削除済み) しかし先ほど2月21日午前10時ごろ、社会新報のWeb記事は削除されてしまいました。社会新報公式Twitterアカウントの記事を紹介する投稿も同時に削除されています。 追記1:2月24日にロシア軍がウクライナ侵攻を開始しました。全面戦争です。そしてなぜかこのタイミングで社会新報の記事が復活しています(2月24日午後10時30分ごろ確認)。 追記2:2月25日午前5時ごろ確認したら記事がまた削除されていました。https://twitter.com/shakaishimpou/status/1494491541062426625 (削除済み) 削除された理由についての説明はまだ何もありません。政党として社民党は説明責任を果たすべきだと考えますので、検証のためWebアーカイブなどから削除された記事のリンクを紹介します。 Web Archive | FEBRUARY 18, 2022 02:15:23 | ウクライナを戦場にするな~米ロ両国は冷静な対話で緊張緩和を~ - 社民党 SDP Japanウェブ魚拓 | 2022年2月19日 19:13 | ウクライナを戦場にするな~米ロ両国は冷静な対話で緊張緩和を~ - 社民党 SDP JapanArchive.today | 1:58 AM · Feb 18, 2022 | 社会新報Twitter公式アカウント投稿 削除された社民党機関紙「社会新報」の記事内容は、今現在まさに戦争寸前の危機となっているウクライナの問題について、ロシアを支持しアメリカを非難する内容となっています。 この場ではウクライナ危機についてアメリカとロシアのどちらが正しいかどうかは論じないことにします。そして社民党が政党として責任をもって独自の見解を唱えることももちろん自由でしょう。 ですが国連憲章の条文については今一度、思い起こしてください。 第1章 目的及び原則 第2条 4すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。 出典:国連憲章テキスト | 国連広報センター 武力による威嚇または武力の行使は、行ってはならないのです。行使だけでなく威嚇も駄目なのです。「力による現状変更」は認められません。 さて、社民党の機関紙「社会新報」はどうしてロシア支持の記事を削除したのでしょうか? 削除した理由の説明を行っていないのは何故でしょうか? 同時期の他の記事は残っているので、古い記事を削除したという理由ではなさそうです。 社民党は政党として説明を行う義務があります。それとも機関紙に書かれたことは政党としての主張ではないと言うならば、その旨を説明すべきだと考えます。 追記3:戦争が始まったその日に記事が一時的に復活していた理由を説明してください。
2022.02.27
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新社会党、中身を伴わない形だけの反戦平和、さらに誤ったメッセージ発信(新社会党声明) 2022-2-27 (はんぺん)2/25、新社会党が、ロシアのウクライナ侵略を受けて、党声明を発信した。この党は、北朝鮮や中国の全体主義的独裁政治、人権弾圧に見て見ぬふりを続けてきたが、さすがに遠く離れた独裁国家のプーチンには、非難せざるをえなくなったのだ。 が、なんとも歯切れの悪さは否めない。なぜか? 北朝鮮や中国の全体主義批判をしてこなかったこの小政党が、いきなりロシア(全体主義)による、実力(ゲバルト)を用いた一方的な現状変更の企てに対して、どんな非難ができるのだろうか? 「核兵器大国であることを誇示し、威嚇」については、非難できた。しかし、「新しい社会主義を目指す」(党綱領)この党は、一貫して(社会主義幻想)に洗脳され続け、反省の色は見られないのが現実だ。 北朝鮮による日本人拉致にも言及せず、北朝鮮を訪問しては、機関誌で(持ち上げてきた)この党が、ロシアの強権政治を非難するのは、並大抵ではない・・・ 今回は、「明らかに平和への挑戦である。」「直ちに撤退を要求する」とまで、踏み込んだ。 さらに自民党政府に対して「ウクライナ危機を奇禍とした日本の改憲勢力の策動を許さない。」とか「⦅台湾有事⦆や⦅北方領土問題⦆にひきつけて『防衛力強化』を喧伝している。」と、謝った護憲論を展開して、あたかも(平和憲法が、日本の平和を守っている)というメッセージを振りまいている・・・懲りない面々たちなのだ。 日本共産党や社民党などの誤れる護憲運動が、戦後のリベラルの足かせになってきた・・・と言ってきたが、この党は、いつまでも妄想に取りつかれて、国民を扇動し続けている。今や、それは、僕に言わせれば(犯罪)に近い。 歴史から学べない面々の代表格が、新社会党ではないか。僕自身、昔、この党が立ち上がった当時、兵隊として選挙などに関わった苦い思い出がある。 好い加減、目が覚めてほしいのだが・・・・これだけ北朝鮮ベタベタの党は珍しい。たぶん、朝鮮総連並みに、組織内に北朝鮮労働党のスパイが潜入して、北朝鮮批判を抑え込んでいるのだろう・・・と、推測している。 いうまでもなく、平和憲法で日本が守られているのでは、決して無い。北朝鮮や中国の共産主義者たちが、一番恐れるのは、在日米軍であり、自衛隊であり、安保条約なのだから・・・そのことがわからない自称?リベラルたちに、多くの国民が(NO!)を突き続けることだろうし、僕は、彼らに未来は無い・・・と断言できる。 今や、冷厳な国際情勢の現実を前にして「台湾有事」を煽っている・・・とか、「防衛力強化」を喧伝している・・・とかの、(平和のポーズ)では、国民は納得しないのではないだろうか? 極めつけは、最後の「平和憲法9条を持つ日本こそ、冷静に事態を見定め、「武力で平和は創れない」と世界に発信すべきである。」との主張。おめでたいというか、現状認識の甘さというには、あまりにも無責任極まりない文言だ。 「武力で平和は創れない」・・・これは、誰でもの願いだろうが、その平和が今、現実に壊されている、(今そこにある危機)で、どうするのか??? が問われているのだ。経済制裁などが、叫ばれているが・・・どうするのか??安保や在日米軍基地、自衛隊についても、言及するのが、責任ある政党というモノでは無いか? これは、すべてのリベラルの9条幻想論そのもので、政治の世界では到底、理解不能だ。彼らに政権を執らせては、ならない・・と強く思う。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――――――ロシアのウクライナ侵攻に抗議し、平和的解決を求める(新社会党声明) 2022-2-25 新社会党HPよりhttps://www.sinsyakai.or.jp/board/detail.cgi?sheet=hp1&no=393ロシアのプーチン大統領は攻撃に先立ち、「独立」を承認したウクライナ東部二州の「政府」からの支援要請により「ウクライナを武装解除し、ロシア系住民を抑圧した人物を裁く」と語り、「ウクライナの占領は考えていない」と表明した。また、この侵攻にあたり、ロシアが核兵器大国であることを誇示し、威嚇すらした。これらは明らかに平和への挑戦である。(中略)新社会党は、ロシアのウクライナ侵攻に抗議し、直ちに撤退を要求する。同時に、すべての関係者が即時停戦し、平和共存を追求する外交努力を継続することを要求する。(中略)(新社会党はまた、ウクライナ危機を奇禍とした日本の改憲勢力の策動を許さない。自民党や維新はNATOを「弱腰」とし、「台湾有事」や「北方領土問題」にひきつけて「防衛力強化」を喧伝している。岸田首相も「アジアの秩序にかかわる事態」と強調する。 しかしウクライナを一帯一路の要衝とする中国は、NATO拡大には反対だが「各国の主権と領土保全を尊重し」て「対話と協議」を希望している。ロシアの軍事侵攻を支持しているわけではない。ウクライナ危機に乗じた台湾侵攻などありえない。 平和憲法9条を持つ日本こそ、冷静に事態を見定め、「武力で平和は創れない」と世界に発信すべきである。
2022.02.27
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相変わらず時代遅れの立憲民主党・・・歴史から学べず、全体主義を狂喜させる (はんぺん) 日本社会党の書記長、副委員長、委員長を歴任した石橋政嗣氏の著書「非武装中立論」(1980年)は、その現実離れした妄想故、今ではだれも見向きもしないが、あの1960~1970年代は、一世を風靡した・・・というか、護憲リベラルの(期待の星)であり続けた。(30万部のベストセラーだった) 今でも、この本を読み返すことがあるが・・・空想にまみれた本だった・・・とつくづく思うが、当時、社会党員だった僕にとっては、バイブルだった!!! 冷戦の最中だったが、(共産圏と自由圏の間で、東南アジアにまで広がる非武装地帯を作って・・・)という議論が、盛んに行われた時代だった。 石橋氏は、「非武装中立論」の中で、憲法違反の自衛隊の解体を、いかにソフトランディングさせうるかについて、段階論を展開していて、その暁には、「高度の技術を駆使して、国上改造計画に基づく調査、建設、開発、あるいは救援活動、復旧作業に従事することを目的とした平和国土建設隊」を提起しているが・・・・歴史から学ばずの暴論であった。 石橋氏には、間違いなく(社会主義幻想)がバックにあり、社会主義ソ連、社会主義中国に対する(全体主義の脅威)が、見えていなかった・・・すなわち、政治家としての(先見性)を決定的に欠いていたということだ。 今回の立憲の枝野代表の発表した政策(下記朝日記事参照)には、世界(=地球)の最大脅威である、覇権大国中国や狂信的北朝鮮に対する警戒や対応が、全く出てこない・・・がゆえに、(何を寝ぼけたことを・・・)となるだろうし、しっかり考える国民の支持を 得ることはないだろう・・・ 本当に、全体主義勢力の力量が小さければ、無視することも有りうるのかもしれないが・・・時代の力関係は大きく変わり、全体主義が地球を覆い始めている今現在、このような狂犬(中国や北朝鮮)に見て見ぬふりをするなど、国民の生活と安全を守るという政治家たちにはあってはならないことだ・・・と考える。 きょう(9/24)の朝日新聞(夕刊)の1面紙面の片隅に、次のような記事が載っていた・・・*************************************************************立憲、公約に辺野古基地建設中止 2021年9月24日 朝日新聞(夕) 立憲民主党の枝野幸男代表は24日、次期衆院選の公約第5弾となる外交・安全保障政策について発表した。「平和を守るための現実的外交」と題し、日米同盟を基軸とした外交・安保を掲げた。沖縄県名護市辺野古での米軍の新基地建設は中止し、沖縄における基地のあり方を見直すため、米国との交渉を開始することを盛り込んだ。 枝野氏は米国について「対等で建設的」な関係をめざすとし、「抑止力を維持しつつ、米軍基地の負担軽減や日米地位協定の改定を進める」とした。日本が批准していない核兵器禁止条約については、条約締約国会合への「オブザーバー参加をめざす」とし、批准には踏み込まなかった。**********************************************************はあ? これが、「平和を守るための現実的外交」???沖縄から、米軍基地が無くなったら、誰が喜ぶのだろう?????全体主義、共産主義体制の中国や北朝鮮、それにおそらくロシアも狂喜するのではないか???? 「対等で建設的」な関係・・・って、いったいなんだ? 日本は、核の傘のおかげで、戦後、これまで、挑発を避け得て、平和状態を維持できたのではないか? (平和憲法のおかげでは決して無い) 枝野代表の発表した政策には、あの中国の数々の現状秩序の破壊と膨張主義に対しての言及が全く無い・・・これが、最大野党の「安全保障政策」なんだろうか・・・??? 「抑止力を維持しつつ・・・・」って、基地を無くしたり、米軍基地への支援を弱めたりして、「抑止力」を維持できるのか!!って、子どもでもわかるだろう・・・・ 旧社会党と立憲民主党・・・発想、認識は、まったく変わっていないように思えるのは、僕だけだろうか? 彼らは、50年、60年・・・まったく進歩していない・・・と僕には思えるが・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――――歴史上、国民が平和ボケしているうちに他国に侵略された事例はありますか? (UORAから)そういう事例は山程あるので枚挙に暇がありませんが、非武装中立国なんてのがその最たる物でしょう。 その1 ミロス島の悲劇・・・ アテネとスパルタの中間に位置するミロス島は非武装中立を選び、もし侵略されたらそのどちらかが助けてくれるだろうと考えていました。しかしその両国が戦争を始めると、ミロス島は重要な海上拠点となったのです。そうしてミロス島はアテネに侵略され男は殺され、女子供は売られましたとさ。 ちなみに敵に取られる前に押さてしまうという予防占領という物は、歴史上沢山の事例があります。イギリスが友好国である非武装中立国アイスランドに侵攻した事等がその一例ですね。 その2 ドイツのルクセンブルク侵攻・・・・ ルクセンブルクはフランスがケツ持ちになるという条件の下、非武装永世中立国として承認された国です。しかしマジノ線を迂回してフランスを攻略したいドイツにとって、軽武装のベルギーや非武装ルクセンブルクは恰好の通り道でした。そうして2度もドイツに侵略されたとさ。(笑) ちなみに大戦後ルクセンブルクは小規模ながら再軍備し、NATO設立時の原加盟国の一つになりました。軍備無き国が永く栄えた事例は一つも無いのです。何事にも備えは大事ですね。
2021.09.25
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「れくいえむ」(郷静子)を読み終えた (はんぺん) 主人公(節子)は、僕の母とオーバーラップする。98歳の母は、今は、老人ホームで生活しているが、カチカチの軍国少女だった。住んでいた大阪の堺市で、B-29の絨毯爆撃を受けた。堺市は、まる焼け。その時の風景を見て、軍国少女は、何を見て、何を思ったのだろうか?と、思う。 戦争体験の多くの手記には、貴重な証言が多く、僕は、1970年前後の学生時代の反戦運動の渦中にいて、自らの戦争体験を後の世代に伝承するために・・・という事で、母に戦争体験の文書化を何度も促したことがあった。 ぼくの弟(同じく学生運動活動家)も、何度も勧めたらしいが・・・首を縦に振ることは無く、僕たちは怒ったものだった。 作者の郷静子は、この「れくいえむ」(1972年の芥川賞受賞作)を、1972年に出版している。あの70年安保のころだ。しかし、「先入観を持たずに読むならば、とても'70年代の小説とは思えない。 '40年代の終わり頃と推定するのではないだろうか。」(レビューの一部から) (聖戦完遂)(一億玉砕)で洗脳された軍国少女を通して、困難な戦時下の生活、空襲の中で、死んでいく周囲の人々が語られ・・・自己の死で終わる・・・ ヒロヒト(昭和)たちに洗脳された国民の悲劇・・・惨劇だ。1941/12/8に、ヒロヒトが始めた日米開戦で、大量殺戮の幕は切って落とされたのだ・・・・ これは、もちろん反戦小説と僕は思うが、こういう書き方もあるのだ・・と。主人公(節子)の仲の良い友人(なおみ)が、手紙交換の中で、書いたフレーズだが・・・「戦争のない時代に生れてきたかつた・・・・」(本文)と自分たちの世代の非運を嘆くさまには・・・・言葉が無いというものだ。 ・・・戦後生まれの僕たち団塊の世代は、ずいぶんラッキーだったわけだ。戦後、本土に復員した多くの兵隊(男性)が、第1次ベビーブームで、団塊世代を形成した。運命とはそういうモノだ。実父が戦死していたら、今の僕は無い・・・ 人類の歴史は、戦争の歴史、争いの繰り返しの歴史だ・・・と以前書いた。何故か?と、これまで多くの人によって、いろいろと論じられてきたが、人間であって、人間では無く、(生き物)であるから・・・というのが、僕には真実のように思える。 (理性と本能のせめぎあい)では、常に動物的本能が、勝利を占めるようだ。戦争で、失われた多くの個体は、戦後の動物的本能(性欲)により、補充される・・・ プロパガンダで、作り出された(大義)に煽られて(洗脳されて)、戦場に送られる大衆・・・多くが殺されて・・・失意の中、生き残った者たちが、社会再建したのもつかの間、またぞろプロパガンダが、始まり、またまた多くの民衆が戦場に送られる・・・この繰り返しが・・・ 無数の(阿鼻叫喚)を繰り返しながら、反省の無い人類の宿命か・・・これは、想像力の問題だろう・・・!!!そして、(予断と偏見、思い込み)の人々には・・・伝わらないコトも確かだ。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――レビュー 受け止めたい少女の叫び 「れくいえむ」郷静子(文春文庫)2021/8/16 13:36 堺市堺区 玉城屋蕭子(48)https://www.sankei.com/article/20210816-QG47DG5AABIONJ35WBWEHZIXIY/?111118 私は昭和47年に生まれた。年表を見ると沖縄返還や日中国交正常化とある。戦後が転機を迎えた年。ところが同じ年、グアム島で一人戦っていた旧日本兵の横井庄一さんが潜伏28年、終戦から27年後に発見され、帰還していた。戦争は終わっていなかったのだ。『れくいえむ』はその年に発表された芥川賞受賞作である。 主人公の大泉節子は戦後、焼け跡の防空壕で一人で死んでゆく。数え17歳の病死だった。動けなくなり、死ぬまでの間、思い出が頭をよぎる。父、母、兄、そして友人たち。大切な人たちを戦争で奪われ、終戦の放送に「どうして無条件降伏などするのですか」と叫んだ軍国少女は、なぜ死ななければならなかったのか。 小説は節子と女学校の親友、丹羽なおみとの交流、手紙のやりとりを軸に話が進んでいく。なおみの父は思想犯として獄中にあり、兄の友人らも反戦主義者だった。一方で節子は国を信じて動員先の工場で作業に励む。二人は第一次大戦を舞台にした小説『チボー家の人々』について何度も感想を語り合う。 友情を引き裂いたのも戦争だ。このエッセーを書いている間も怒りや悲しみ、悔しさが胸に湧き出し、涙があふれてきた。いつの時代も、しわ寄せは弱者にくる。 芥川賞の受賞作を年代順に読み始めてたどり着いた昭和47年。この小説は戦争体験者が描く終戦前後の悲惨さが直接的に響く。戦争が始まればもう反対の声は上げられないのだ。新たな戦争体験者を生み出してはならない。 「戦争のない時代に生れてきたかつた」と書いたなおみの言葉を重く受け止めたい。
2021.09.23
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あの冷戦時、西側諸国の中で、アメリカ帝国主義は(世界の警察)として、君臨している・・・と、僕たちは非難してきた。(西側)世界を取り仕切ることで、莫大な富を吸い上げてきた・・・というモノだったが、その僕たちの非難はそれなりに、正しい側面があったということを否定はしない。 しかし、それは、一つの側面に過ぎなかった。冷戦で、ソ連や中国などの全体主義体制に、正面から、まともに対抗する力を持っているのは、アメリカしかなかった・・・という事実を、今では誰も否定することはできないハズだ。 イギリスやフランス、西ドイツ、日本などの格下では、話にならないのが真実。しかし、「社会主義幻想」(=社会主義は、善)に洗脳された(僕も含めた)日本のリベラルたちには、そんな真実の一面を吟味することは無かったのだ。 今から思えば、我々の勉強、学習とは、その程度のモノだった。恥ずかしい限りだ。(アメリカ帝国主義!)の存在が無かったら・・・世界は、全体主義体制に飲み込まれていただろう・・・・これって、見て見ぬふりをする場合ではないだろうが・・・ 人権で、厳しく中国などの全体主義体制を批判しているバイデン政権だが、「世界は、自由主義体制と全体主義体制とのせめぎ合いだ」とする認識は、今も昔も変わっていない。 変わったのは、殺りく兵器の異常な進歩と人類破滅の様相の深化だろう。絶望的な未来が、待っている・・・・ (社会主義が、進歩勢力)(社会主義は、平和の根拠地)(社会主義が、明るい未来を照らし出す)と洗脳された我々は、社会主義の実態も知らず、調べようともせず、(神話)にだまされ続けてきた。 世のインテリも含めて、オピニオンリーダーたちの大半が、社会主義賛美の風潮に加わったところに、(知性の敗北)が見て取れる。 そして、彼らは、国民に(明らかに)間違ったメッセージを発信した。(平和憲法が、日本を守る)と。 戦後リベラルたちの誤謬の始まりだ。(護憲の罠)という泥沼にはまり込んで以来、抜け出せなくなった(自分も含めた)進歩?勢力は、長期低落で、衰退の道を突き進んでいくことになる。 (平和憲法が、日本を守ることは無い)平和憲法が、有っても無くても、攻める側にとっては(屁のツッパリ)にもならない・・・そういう真実が見えてこなかった。 日本の(在日米軍)、自衛隊、安保体制が、日本を攻める立場の全体主義国には、決定的な脅威を 与え続けた・・・それが、真実だ。(地政学的有利さもある) そもそも(平和憲法幻想)は、次のことから明らかだった。すなわち、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」(第9条)事態が、終戦から、75年以上、守られていない・・・という現実。 あの在日米軍は、「陸海空軍その他の戦力」には、当たらないのか? ということだろう。戦後75年以上、日本国土には、ずーっと在日米軍(基地)が存在してきたし、75年以上、日本は(違憲状態)に、あったということだ。 その(おかげ)で、日本は、侵略されずに済んできたし、平和状態を曲がりなりにも維持できたということだ。 もう一度、繰り返すが、「平和憲法が、戦後日本の平和を守ってきた」というのは、(真っ赤なウソ)だと。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――――――― 古い資料((2011–現在)だが・・・考えさせられる・・・ (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――Quoraから・・・・・Mary Aish Marvel Cinematic UniverseのCEO (2011–現在)この回答は次の質問に対するQuora英語版でのMary Aishさんの回答です How does the Taliban pay their soldiers?タリバンはどうやって兵士に給料を払っているの?タリバンは75,000人の勢力を持ち、その数は増え続けています。以前にも増してアフガニスタンの領土を支配しています。政府は外国から資金を受け取っているにもかかわらず、まだタリバンを一掃できていません。 では、見かけを維持するために、彼らはどこから資金を得ているのでしょうか?2001年に彼らが権力を失ったとき、彼らの年間収入は4億ドル近くありました。2011年以降は増えているかもしれません。 彼らの主な資金源は──アヘンの栽培鉱石の採掘占領地からの税金徴収・搾取海外からの資金調達不動産 まず、彼らの部屋の中にある明らかな”象さん”を取り上げましょう。外国からの資金調達──好むと好まざるに関わらず、タリバンは様々な国から資金援助を受けています。その中にはUAE、イラン、そして(残念ながら)パキスタンも含まれています。ほとんどの国はこれらの疑惑を否定していますが、一般市民はかなりの額を寄付しています。 タリバンの寄付の多くは、ペルシャ湾岸諸国にある慈善団体や個人信託からのものです[1] 。アフガニスタン研究政策センター[2] によると、これらの寄付金は毎年1億5000万ドルから2億ドルに上るといいます。これらの慈善団体は、アメリカ合衆国財務省にあるテロリズムに資金提供するグループのリストに入っています[3] 。 アフガニスタンは、国連が公式に発表した「ドラッグリポート 2020」によると、アヘン栽培率(84%)が最も高い国です。アヘン・ケシは、年間15億から30億ドルの輸出額を誇るビッグビジネスです。そこに地方税は含まれていません。
2021.08.21
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戦争神経症(『日本軍兵士』」吉田裕著、中公新書、111ページ) 「・・‥激しい戦闘が、兵士たちの精神状態に与えるダメージには、深刻なものがあった。戦況が悲観的になるにつれて突然に発狂し、被害脅迫妄想、幻視・幻聴、錯視・錯聴、注意の鈍麻、散乱、支離滅裂、先鋭な恐怖、極度の不安、空想、憂愁、多弁、拒食、自傷、大声で歌い回るもの、踊り回るもの、なにもかも拒絶する者、叡知・感情・意志の障害があらわれた。すなわち、極限における人の姿であり、超極度の栄養失調症にともなう急性痴呆症の姿であった。」 マラリアと栄養失調(『日本軍兵士』」吉田裕著、中公新書、34ページ) 「1944年4月ごろから急に栄養失調症が増えていき、栄養失調による死者、すなわち餓死者が、出始めた。マラリアにかかると40度の高熱が出て、それが1週間ぐらい続く。それで体力が弱まったところへ食料が無く、極度の栄養失調に陥って、その後は薬も食事も、ぜんぜん受け付けない状態になって死んでいく・・・それが、典型的な餓死のコースだった。諸病の根源は、食料不足だった」(ソロモンの陸戦隊戦記から) インパール作戦と硫黄島防衛戦(『日本軍兵士』」吉田裕著、63ページ) (インパール作戦は)「補給を無視した無謀な作戦を強行した結果、日本軍が英軍に完敗した作戦である」。 多数の餓死者や戦病死者を出したでも有名であり、日本軍の退却路は「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれた。」 「自殺者の多さについては」(硫黄島作戦に参加した)鈴木栄之助(独立機関中台所属)は、守備隊の死者の内訳について、つぎのように書いている。 敵弾で戦死したと思われるのは、30パーセント程度。残りの7割の日本兵は、次のような比率で死んだと思う。 6割・・・自殺、1割が他殺(捕虜志願者を殺す)、2割事故死(暴発死、訓練中の死など)」 なんと戦闘死よりも、自殺死のほうが、2倍も多かった・・これが、皇軍の実態だった。なんと愚かな戦争指導者たち! そして、この戦争を開始(命令)したのは、トップのヒロヒト(昭和)だったことは、改めて強調しておきたい。(はんぺん) これを読んで(戦争は、イヤだ)と叫ぶのは、間違っていない・・・・ だれでも「戦争反対」を叫ぶのは・・・ようく、わかる しかし、この戦争を(命令)したのは、ヒロヒトだろう。 多くの日本人が、無残な死を遂げているのに、このトップは、その責任を問われることなく、戦後も、ぬくぬくと生き続けた。 それが、日本人の(戦争総括)の失敗だったと思うのだ。 甚大な戦争の被害から(もう戦争はイヤだ)というのは素朴な反応だ。 それ自体は間違っていない。 間違ったのは・・・・(平和憲法)だろう???? 平和憲法の評価を、正確に・・・ アメリカは、日本が2度と再軍備出来ないように、第9条を入れた。 そのことは、アメリカにとっては・・・自然な流れだ。 右翼が、(アメリカの押し付け憲法だ)と非難するのは、間違っていない。 そして、あまりにも凄惨な被害を被った日本人の(戦争忌避)志向とも合致した。その意味では、日本人の心情から見ても・・・自然な流れだった。 日本国憲法は、このような性格を持っている。 しかし、この憲法の限界性も、ここにあるのではないか? すなわち、戦争忌避の心情は、理解できても、この憲法では、 平和が守れないことに気づけなかった・・・ということだろう。 すなわち、憲法で、(戦争放棄)を宣言しても、戦争は防止できない・・・ これが、最大の問題だった。 戦後のリベラルたちは、(平和幻想)のもと、第9条を金科玉条のごとく、 振りかざして、(平和運動?)を実行してきたが、これは(的外れ)運動だった・・・と、僕は思うのだ。 (戦争放棄、武装放棄)で、戦争を防止できるような現実世界ではない・・・という、ごくごく自然な、正しい認識に立つことができなかったのは、なぜだろう?? あまりにも、国土の破壊が甚大で、多くの日本人が殺されて・・・つまり、 戦争の犠牲が多すぎて、(=忌避反応が強すぎて?)、正常な理解能力を失ってしまったのだろう・・・と思う。 それに、リベラルたちは安易に乗りかかってしまい、(間違った方針であっても) 平和に飢えた日本人の理解を(選挙などで)得られたのを、幸いに、思考停止に陥ったということだろう・・・ 極東の緊張が続く中、戦後、長きにわたって、日本が戦争しなくて済んだのは、「在日米軍と自衛隊の抑止力のおかげ」と言うことは、あまりにも明らかだ。 リベラルたちは、現実から目を逸らし、「平和憲法のおかげ」とすり替える。 「島国という地政学的な有利さ」も、プラスになった。日本が、今の韓国やベトナムの地にあれば、朝鮮戦争(1950~)や中越戦争(1979~)のような、北朝鮮や中国の侵略は、避けられなかったハズだ。 日本のリベラルたちの事実を直視しない不誠実な対応は、いつまで続くのだろうか? こんなでたらめが、いつまでも通ることは、あり得ないと考える。 ブログで、何回も指摘してきたが、自分から戦争を望む人間は、一部の(戦争屋)、(軍需産業)であって、ほとんどの民衆は、(戦争反対)だ。 そして、その戦争を起こさせない・・・平和を守るためには、何をするべきか?という問題を、リベラルたちは、スルーしてきたのではないか?? と。 今、中国や北朝鮮などの全体主義が、地球の脅威になりつつあるときに、日本リベラルたちの存在価値が、木の葉のように、軽いものになり果てているのは・・・そういうことなのだ・・・ 「世界は、民主主義勢力と専制主義勢力との戦いだ」(バイデン)という中で、「第9条守れ」「安保反対」「自衛隊反対」と叫ぶことの愚を、いい加減、気づいてほしいモノなのだが・・・凝り固まった彼らの頭脳からは、難しいのだろう・・・ (一国平和主義)を克服することがリベラル派の長年の課題でもあったが、昨今の立憲民主党や社民党などを見ていると、もはや、それは幻想と言うほかない・・・ (地獄への道は、善意で敷き詰められている)というが、これまでの彼ら、リベラルの言動を見ていると、善意者というよりも、(確信犯)としか思えないのだが・・・?? 違うだろうか? 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)
2021.05.26
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「総力戦」という言葉は、開戦当初は、叫ばれても、そんなに強く意識されていなかったが、敗戦色濃厚になるにつれて、戦争指導者たちは、慌てだしたようだ。(敗戦→戦争責任追及)という恐怖が、拡がっていったのだろう。 問題の解決を精神主義で、乗り切ってきた・・・そのツケは、大きかった。総力戦は、国力戦であり、そもそも、日米開戦などは、国力の圧倒的な格差の中では、物理的に、常識的には、考えられない代物だった。 日露戦争や第一次大戦時の、真摯な総括無しで、アジア・太平洋戦争に突入したわけだが、そのため、多くの日本人が殺されたし、多くのアジア民衆が、殺された・・・本当に、日本人は、反省したのだろうか? 戦争指導者のトップ、ヒロヒト(昭和)は、責任追及を免れて、戦後も、ぬくぬくと生き残った。多くの日本人の恨みが、果たされずに、戦後75年が過ぎた。 あの若き特攻兵たちの青春を奪い、多くの日本兵たちの南海の孤島での大量餓死、広島・長崎での被爆も含めた都市空襲での国民の大量死の責任追及は、いまだに、宙に浮いたまま、75年が過ぎたわけだ。 軍部と結託したマスコミの責任追求も果たされていない。マスコミ(新聞・ラジオ・雑誌など)は、軍部に迎合して、翼賛記事、翼賛放送を連日垂れ流し、戦意高揚に加担している。 そういう現実が、後世に正しく伝えられているようには思えない。それは、今のリベラルの現状を見て、よくわかる。彼らは「戦争はイヤだ」「戦争は、繰り返しません」「平和憲法を守ります」・・・としか言わない。なんとピント外れの認識なのだろうか? 長い日本の歴史、世界の歴史から、何を学んできたのだろうか? 戦後、世界は、自由主義世界体制と社会主義世界体制の間で、(冷戦)が勃発し、長い間、(鉄のカーテン)で、隠蔽された社会主義体制が、(進歩的)であるかに錯覚させられてきた。 ソ連・東欧の崩壊で、化けの皮がはがされて、真実が見えてきたときに・・・世界は、驚いた。 社会主義を(希望の星)と考えていた多くの理想主義者たち、誠実で献身的な活動家たちが、絶望の末、闘いを放棄して、諸運動、各戦線から離脱していった。そういう友人知人を多く知っている。 そんな今でも、「新たな社会主義を目指す」という綱領を掲げて、活動を続けている小グループの存在には、驚かされる。どうして、そんなことができるのか? 簡単だ・・・(都合の悪い事柄には、見て見ぬ振り)を決め込むだけで良いから・・・ 今年も、5月3日の(憲法記念日)では、様々な取り組みが、行われたようだが、(戦争反対・第9条守れ)と(戦争反対・自衛隊反対)は、口が裂けても、叫ぶべきではない!!ということだ。 好戦的・帝国主義的な全体主義が、泣いて喜ぶスローガンを叫んで、自らの首を締め上げる事の愚を、正しく認識するべきだろう。(自分も含めて)戦後リベラルたちの過ちの根本は、ココカラ発生している。 (戦争反対)は、当たり前のことで、そもそも誰が、凄惨な戦争を好むのか? 戦争で肥え太る軍需産業を除いては、誰も支持しないだろう。戦争に対する正しい認識、公正な平和教育が、追求されるべきだ。 「確かに戦争は悪です。しかし、その戦争によってもっと巨大な悪をストップせねばならぬこともあります。もし連合国がヒットラーをストップしなかったら今頃世界はどうなっていましたか」(サッチャー元英国首相) 「平和は貴いものです。しかし、自由はもっと貴いのです。独裁の中での平和よりも混乱の中での自由の方がはるかに人間的であると私は思います。その自由のシステムが存亡の危機にあるとき、自由を愛し、自由の恩恵に浴している人間は立ち上がらねばなりません」(同) 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――――飢餓、自殺強要、私的制裁・・・戦闘どころではなかった旧日本軍 2019.8.14 森 永輔 (日経ビジネス副編集長) 日経ビジネス 映画「この世界の片隅に」(2016年公開)が8月3日、NHKによって地上波放送で初めて放映された。こうの史代さんのマンガを原作とする劇場版アニメだ。主人公は、すずさん。絵を描くのが好きな18歳の女性だ。広島から呉に嫁ぎ、戦争の時代を生きる(関連記事「『この世界の片隅に』は、一次資料の塊だ」)。アジア・太平洋戦争中の、普通の人の暮らしを淡々と描いたことが共感を呼んだ。 一方、アジア・太平洋戦争中の、戦地における兵士の実態を、数字に基づき客観的に描写したのが、吉田裕・一橋大学大学院特任教授の著書『日本軍兵士』だ。「戦闘」の場面はほとんど登場しない。描くのは、重い荷物を背負っての行軍、食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、兵士の逃亡・自殺・奔敵、戦争神経症に苦しむ様子--。同書の記述からは、軍が兵士をヒトとして遇そうとした跡を感じることはできない。加えて、第1次世界大戦から主流となった「総力戦」を戦う態勢ができていなかった事実が随所に垣間見られる。 なぜ、このような戦い方をしたのか。終戦記念日 を迎えたのを機に考える。吉田特任教授に話を聞いた。(聞き手 森 永輔) —吉田さんはご著書『日本軍兵士』の中で衝撃的な数字を紹介しています。 支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち(中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』) この部隊の戦没者のうち約76%が終戦前の約1年間に集中しています。しかも、その73%が「戦病死者」。つまり「戦闘」ではなく、戦地における日々の生活の中で亡くなった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれます。 戦病死の中には、「餓死」が大きなウエイトを占めていました。 日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』) 飢餓が激しくなると、食糧を求めて、日本軍兵士が日本軍兵士を襲う事態まで発生しました。 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。 彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』) 負傷兵は自殺を強要される —この後の質問の前提にある日本軍兵士の悲惨な事態を読者の皆さんと共有するため、もう少し、引用を続けます。 兵士たちは飢餓に苦しむだけでなく、自殺を強要されたり、命令によって殺害されたりすることもありました。以下に説明する行為は「処置」 と呼ばれました。 (前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。 その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略) (中略)視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。 当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり (中略) 単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配す これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。 (『ガダルカナル作戦の考察(1)』) つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』) 第1次大戦時に修正できなかった精神主義 —食糧が不足し餓死と背中合わせ。戦闘で負傷すれば、自殺を強要される。こうした“踏んだり蹴ったり”の環境では、戦闘どころではありません。戦争はもちろんしないに越したことはありません。しかし、仮にしなければならないとするなら、兵士をヒトとして遇し、十分な食糧と休息を与えるべきだったのではないでしょうか。 なぜ、アジア・太平洋戦争では、そんな態勢が作れなかったのでしょう。日清・日露というそれ以前の戦争では、兵士をヒトとして遇していたのでしょうか。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 吉田 裕(一橋大学大学院特任教授) アジア・太平洋戦争の時ほど極端ではありませんが、日本軍に独特の精神主義が存在していました。典型は、歩兵による白兵突撃です。銃の先に銃剣を付け突撃し攻撃路を開く、というやり方。その背景には、「精神力で敵を圧倒する」という精神主義がありました。 日露戦争後、こうした考え方が軍内に広まっていきます。例えば、陸軍は歩兵操典などの典範令(教則本)を大改正して、ドイツ製の翻訳から、独自のものに改めました。内容的には、日本古来の伝統、精神を重視するものにした。例えば夜襲を重視しています。 —日露戦争当時の軍は、日露戦争は白兵突撃によって勝ったと認識していたのですか。司馬遼太郎さんが同戦争を描いた小説『坂の上の雲』の影響かもしれませんが、「二〇三高地の戦いにおける白兵戦は愚かな作戦だった」という印象を持っていました。乃木希典・第三軍司令官は、効果が小さいにもかかわらず、犠牲の多い、白兵突撃を繰り返した、と。 吉田:事実はともかく、「白兵戦によって勝った」「日本精神によって勝った」という“神話”を作ってしまったのです。 本来なら、その後に起きた第1次世界大戦を研究する中で、こうした精神主義を修正すべきでした。しかし、それができなかった。 例えば、歩兵による白兵突撃主義を取ったのは、日本軍だけではありません。欧州諸国の軍も同様でした。派手な軍服を着て、横一列に並んで突撃していったのです。しかし、第1次世界大戦を戦う中で挫折した。機関銃と戦車の登場が契機でした。 日本軍は、第1次世界大戦中の欧州の状況を詳しく研究しました。しかし、研究するのと参加するのとでは話が違います。欧州戦に参加しなかった日本軍は、第1次世界大戦をリアリティーをもって感じることができなかったのでしょう。 部下による反抗恐れ私的制裁を容認 —兵士たちは餓死や処置を覚悟しなければならないだけでなく、私的制裁にも苦しめられました。私的制裁を苦にして、逃亡、奔敵(敵側に逃亡すること)、自殺に至る兵士が多数いました。 初年兵教育係りの助手を命じられたある陸軍上等兵による、初年兵への執拗な私的制裁によって、彼の班に属する初年兵28人のほとんどが「全治数日間を要する顔面打撲傷」を負った。このため、私的制裁を恐れた初年兵の一人が、自傷による離隊を決意して自分自身に向けて小銃を発砲したところ、弾丸がそれて他の初年兵に命中し、その初年兵が死亡する事件が起こった。(『陸軍軍法会議判例類集1』)(出所:『日本軍兵士』) なんとも悲惨な話です。なぜ、私的制裁を取り締まることができなかったのでしょう。 吉田:当時は、徹底的にいじめ、痛めつけることで、強い兵士をつくることができると考えられていました。この考えから抜け出すことができなかったのです。 加えて、私的制裁が古参兵にとってガス抜きの役割を果たしていたことが挙げられます。兵士たちは劣悪な待遇の下に置かれています。この鬱屈とした激情が上官に向かって爆発すると、軍としては困る。実際、上官に逆らう対上官犯 は戦争が進むにつれて増えていきました。これを、単に規制するだけでは、火に油を注ぐことになりかねません。そこで、「下」に向けて発散するのを容認する傾向がありました。 鬱屈とした激情を、「下」だけでなく「外」に向かって発散するのを容認する面もありました。 そうした教育の戦場における総仕上げが、「刺突」訓練だった。初年兵や戦場経験を持たない補充兵などに、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練である。 藤田茂は、1938年末から39年にかけて、騎兵第二八連隊長として、連隊の将校全員に、「兵を戦場に慣れしむるためには殺人が早い方法である。すなわち度胸試しである。これには俘虜(捕虜のこと)を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるから、なるべく早くこの機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」、「これには銃殺より刺殺が効果的である」と訓示したと回想している。(『侵略の証言』)(出所:『日本軍兵士』) 軍刑法に私的制裁の禁止条項なし —軍法会議は機能していなかったのですか。 吉田:陸軍や海軍の刑法には、私的制裁を禁止する条項がありませんでした。 陸軍刑法に「陵虐の罪」の規定があります。しかし、これは、兵士を裸にして木にくくりつけるなど非常に極端な行為を対象にするもので、日常的に起こる私的制裁を対象にするものではありませんでした。 取り締まるとすれば、一般の刑法の「暴行及び傷害の罪等」を適用する。 —確かに、初年兵28人に「全治数日間を要する顔面打撲傷」を与えた陸軍上等兵は刑法の傷害罪で懲役6カ月の有罪判決を受けています。この事件は初年兵の一人が自傷を試みたことによって発覚しました。 かつて見た、「ア・フュー・グッドメン」という映画を思い出しました。トム・クルーズ氏が主演で、軍に勤める法務官。海軍の基地で、ジャック・ニコルソン氏演じる司令官が「コードR」(規律を乱す者への暴力的制裁)を命じて、若い兵士を死に至らしめる。法務官が法廷で大ばくちを打って、司令官を有罪に持ち込む、というストーリーです。この「コードR」に相当するものが、当時の日本の軍刑法には存在しなかったのですね。 吉田:軍法会議に関する研究は実は進んでいないのです。法務省が資料を保管し、公開してこなかったのが一因です。今は、国立公文書館に移管されたようですが。二・二六事件をめぐる軍法会議の資料が閲覧できるようになったのは敗戦後50年もたってからのことです。これから新たな研究が出てくるかもしれません。 ――――――――――――――――――――――――――――――― 吉田 裕(よしだ・ゆたか) 一橋大学大学院特任教授 専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。1954年生まれ。1977年に東京教育大学を卒業、1983年に一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年から教授。主な著書に『昭和天皇の終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など(写真:加藤 康、以下同)。
2021.05.05
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沖縄戦では、多くの日本兵や民間人が、米軍に追われて、ガマ(壕)に逃げ込んで、(人知れず)亡くなっている。見つからなかった遺骨の捜索は、今も続けられていて、ときどき思い出したように見つかっているという。 激戦地・硫黄島でも、日本人2万の遺骨の内、回収されたのは、1万だけ。しかし、DNA鑑定が進まず、身元が判明したのは、わずか4件のみだという。大半の遺骨は、当ても無く(一時保管)されている。 残りの1万の遺骨は、見つかっていない。多くの人骨が、壕内に遺されているわけだ・・・・ この歳になると、人の(生き死に)について、考えることが多くなった。遺骨は、故人の遺された(証明)でもあるので、遺された人々は、(弔ってやりたい)と思っている・・・しかし、それは、正しいのだろうか?? 昔の僕は、戦争で亡くなった死者の遺骨を探し続けるのは、戦争を始めた日本国の最低限の責任だ・・・と考えてきた。 しかし、それが正しいのか? 少し前から疑問がわいてくるようになった。 多くの日本兵が、硫黄島で亡くなったのは、確かだ。しかし、戦争で亡くなった(=殺された)のは、彼らだけではないだろう。多くの兵士や民間人が、殺されたのだ。戦闘艦艇や輸送船が、爆撃や魚雷などで、海底深く沈められた。多くの遺骨は、深海に沈んだままで、たぶん、引き上げられることはないだろう。 広島や長崎の原爆投下で、多くの市民が殺されたが、一瞬で溶かされて蒸発した肉体が、見つかることは、ありえない・・・遺骨は、存在しないのだ。 そう考えてくると、果たして、いつまでも(遺骨回収)にこだわることが、生産的なのか? と思うのだ。皆さんは、どう思われるか? インパール作戦では、敗走する日本軍の道中は、(白骨街道)と呼ばれたという。ジャングルと飢餓との戦いで、多くの日本兵が殺された。敵は、イギリス兵では無く、飢餓と密林だったのだ。当然、戦後の遺骨の回収は、難航した。 僕が、違和感を感じ続けてきたのは、(遺骨回収)だけではない。(墓)(葬式)(仏壇)などについても、同じことだ。 前に書いた・・・死んだ後の自分の事を覚えていてくれるのは、近しい家族、一部の親族だろう・・・その彼らも、やがては、亡くなり、遺品は、全て処分されて消え去ることに。そもそも(墓)(葬式)(仏壇)などは、遺された遺族たちの 形(かたち)づくり・・・で、それ以上の何物でもない。 (墓)(葬式)などは、時代や地域で、大きく異なるもので、(絶対)のモノでは全く無い。教会や神社仏閣などの変遷を俯瞰すれば、いかに人類はムダなこと繰り返してきたか・・・と呆れるばかりだ。 僕は、それらに(違和感)を持ち続けている。個人墓は、いつか見捨てられ、無縁墓に合葬されて・・・いつかは、それも無くなるのは、明らかだ。 それでも、皆さんは、(墓)(葬式)などに、こだわりますか??? 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ――――――――――――――――――――――――――――――老年期と思春期に違いはない(月夜の森の梟:40) 2021-4-3 小池真理子(作家) 朝日新聞デジタル 夫に残された時間がわずかになったと知り、或(あ)る晩、私は彼の高校時代からの友人A氏に電話をかけた。 壮年期はそれぞれ仕事に全力投球し、疎遠になったり、近づき合ったり。男同士、互いに妙な自意識の火花を散らしつつ、こまめに連絡することも稀(まれ)だったが、いざとなれば誰よりも理屈抜きで信頼し合える。二人はそんな間柄だった。 A氏はむろん、夫の病気の詳細を知っていたが、まさかそれほどのことになっているとは思っていなかったらしい。私の報告を聞いたとたん、電話口で絶句した。声を押し殺して泣き始めた。冬の夜のしじまの中、私たちは互いに言葉を失ったまま、しばし、むせび泣いた。 夫と同年齢で、昨年古希を迎えたA氏と、先日、久しぶりに電話で話した。 長く生きてきて、嵐のような出来事の数々をくぐり抜け、突っ走り、おかげで厄介な持病も抱えこんだ。しかし、別に後悔はしていない。とりたてて趣味もない仕事人間だったが、総じてよき人生だったと考え、このまま穏やかにフェイドアウトしていくはずだったのが、思いがけず、十五のころから親しくしてきた友を亡くした。しかもその直後、コロナに見舞われ、残された時間を漠とした不安と共に生きざるを得なくなった。いろいろな意味で、僕にとって藤田の死は、あまりにも大きかった、あれからすべてが変わってしまったように感じる……独り語りでもするかのように、彼は私にそう言った。 若いころ私は、人は老いるにしたがって、いろいろなことが楽になっていくに違いない、と思っていた。のどかな春の日の午後、公園のベンチに座り、ぼんやりと遠くを眺めている老人は、皆、人生を超越し、達観しているのだろう、と信じていた。ささくれ立ってやまなかった感情は和らぎ、物静かな諦めが心身を解放し、人生は総じて、優しい夕暮れの光のようなヴェールに包まれているのだろう、と。 だが、それはとんでもない誤解であった。老年期と思春期の、いったいどこに違いがあろうか。生命の輝きも哀(かな)しみも不安も、希望も絶望も、研ぎ澄まされてやまない感覚をもてあましながら生きる人々にとっては同じである。老年期の落ち着きは、たぶん、ほとんどの場合、見せかけのものに過ぎず、たいていの人は心の中で、思春期だった時と変わらぬ、どうにもしがたい感受性と日々、闘って生きている。 ここのところ、風の強い日が増えた。山から森に吹き降りてくる風は、ごうごうと凄(すさ)まじい音をたてながら、まだ芽吹きを迎えていない樹々(きぎ)の梢(こずえ)を大きく揺らして去っていく。 ミソサザイの鈴のような美しい声音が四方八方から聞こえる。振り仰げば、雲ひとつない群青色の空。あまりに青く眩(まぶ)しくて、どこまでが夢でどこまでがうつつなのか、わからなくなる。
2021.04.28
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圧倒的多数の日本兵が餓死した。こんな戦争を始めた指導者たちが、戦争責任を回避するという、ありえない行動が、あの東京裁判で明らかになった。 「東京裁判は、勝者の裁判で、認められない」と、よく右翼の人たちが言うが、戦争責任を回避するための方便、(ありえない戦争の正当性)を主張するための方便であり、断じて許すことはできない。 一発の弾を打つことも無く、餓死した多くの日本兵たち、B-29の絨毯爆撃下で逃げまどい、焼き殺された内地の人々の怨念は、決して消すことのできない(事実)だ。 彼ら、彼女らの(恨み)を、戦争指導者のトップに君臨したヒロヒト(昭和)は、一心に背負わなければならなかった。 それが、あるべき人間としての(あり方)だった。 ともすれば、(戦争反対)とか(悲劇は、繰り返しません)とオウムのように叫ぶ人たちは、ヒロヒトの取り返しのつかない(過ち)について、(見て見ぬふり)をするか、気づかず?スルーしているワケで、これも許されることではない。 それにしても、人間とは、なんと愚かな生き物(動物)だろう。人肉食が、戦時下で、繰り返されたにもかかわらず、あたかも無かったかのように、すまし顔で、何の総括も無く、のほほんと暮らしてきた。 嫌なことは、すぐに忘れる・・・権力によって(忘れさせられる) それが、人間という動物だった。そんな人間が、救いを、求めても与えられることはないだろうと思うが・・・・。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――――― ニューギニア・飢えとの闘い(写真集)(一億人の昭和史 日本の戦争9 1980年毎日新聞刊 p140-199) 10 “食なき戦い”ニューギニア転進記 佐藤豊治(当時、第二軍野戦貨物廠・陸軍主計大尉) “現地自活”を旗じるしに 千葉県柏市の近衛工兵連隊で編成された第三〇野戦貨物廠の先遣隊として、西部ニューギュアの首都マノクワリに第一歩を印したのは、昭和十八年十一月十二日であった。この年十月、激しさを加える連合軍の反攻に備えるため、在満州の第二方面軍(阿南惟幾大将)と第二軍(豊島房太郎中将)が南方に転用され、われわれは西部ニューギニアに進出する第二軍の兵姑を一手に引き受けることになっていた(同年十二月、第二軍野戦貨物廠に改編)。 しかし、すでに本土との補給線は連合軍におびやかされ、当時ニューギニアまで無事到着できる軍需品は四〇%以下といわれていた。 そのため、至上命令は現地自活であった。農耕、漁労、搾油作業などの研究準備、さらには現地民との物々交換用物資(人絹布、鏡、玩具など)も用意して、私たちは赤道直下の世界第二の島に乗り込んだのである。 十一月二十日、本隊の輸送船も無事マノクワリに入港、直ちに本格的な作業が始まった。 現地自活の主役・開拓勤務中隊は、千古のジャングルに斧を入れ、未開地を耕し、内地から持参した甘藷や野菜の植え付け準備に汗を流すとともに、サゴ椰子からの澱粉採取やパパイア、バナナなどの確保利用にも取りかかった。 だか、連合軍の反攻は急ピッチだった。東部ニューギニアのフィンシハーフェンをめぐる激しい攻防は、ついに十二月末、第二〇師団のレオ後退となり、一方、ニューブリテン島マーカス岬へ十二月十五日、米軍は上陸を開始していた。 マノクワリの波止場。同地の人口は6000弱、パプア族と少数の華僑が住んでいた。第2軍司令部は18年11月末同地に進出した。 十九年一月下旬のことである。廠長内田栄喜大佐から緊急召集がかかった。 緊迫する戦況説明のあと、大佐は一段ときびしい口調で訓示した。 『先般来、一年分の糧食を満載した二隻の輸送船がフィリピン沖、ジャワ沖で相次いで海没。今後は現在到着している半年分足らずの糧食を完全に分散貯蔵して空爆の被害から守るとともに、給与を一二分の一に減らし、不足分は可及的速やかに現地補給する」 ジャワ沖では、沈められた米で海面が真っ白になったと聞いた。 中部ニューギニア『ホトランジアの航空隊から、二人の兵が貨物廠にたどりついたのはその頃たった。 補給要請に派遣された下士官兵三十余人が、ホーランジア基地を出発したのは三週間前。敵襲と疲労と飢えとマラリアでパタパタと倒れ、ようやくマノクワリに到着したのは衰弱の極に達した二人だけであったという。 「戦友はまさに息絶えんとする時、どうかオレが死んだらその肉をくって任務を貫徹してくれと、励ましてくれました」と、涙ながらに語る二人の告白を聞いて、われわれは言うべき言葉もなかった。 すでに前線には急速に飢えが襲いかかっていたのだ。 現地民も動員して開墾作業 第2軍の野戦貨物廠には漁労班4、食品加工班3、搾油班3、開拓勤務隊4が配属され自足自給を目指した そして間もなく、われわれもまた同じ運命に見舞われることになるのである, 五月二十七日早朝、米軍はついにマノクワリの表玄関・ビアク島に未襲した。 わずか二ヵ月足らず前、私は補給基地設定のため同島を訪れたばかりであった。 海岸から百メートルほど切り立った崖を、日本軍は三ヵ月がかりで爆破し、道を作り軍需品を輸送したか、上陸した米軍はエスカレーターで、あっという間に物資を揚陸してしまったという。 飢えと病に半数が倒れた 同島の日本軍守備隊は八月中旬、ついに連絡を断つが、これに先立ちマノクワリにあった第二軍司令部と第三五師団の主力は一部を残して南方のイドレ、バポと西方のソロンに転進、持久を策すこととなった。軍司令部かマノクワリを出発したのは七月四日である。 われわれ野戦貨物廠約五〇〇〇の将兵も、 一部を除き数梯団にわかれて南を目指すこと に決まった。マノクワリ~ムミ~シンヨリ~ ヤカチ~イドレまで直線距離で約二〇〇キロ、 しかし前人未踏のジャングル、湿地帯、山岳 の道なき道を二本の足だけを頼りに進むので 背嚢にできる限りの物品をつめた。上衣袴下各一、外被一、米四・五キロ、乾パン三食分、牛缶五、マッチ、ロウソク、それに物交用の八絹布五メートルと有事の際の手榴弾二個をしのばせると、もういっぱいだった。こうして私の指揮する第三梯団四十人が、トラックでマノクワリを出発したのは七月十二日、私がマノクワリ入りしてちょうど八ヵ月後であった。 その夜、ムミの宿舎で一泊したわれわれは、二人あて一個の牛缶をあけて“最後の晩さん”をとった。そして翌日から、いよいよ“死の行軍”が始まったのである。 すぐにマングローブの生い茂る湿地帯になる。ちょっと油断をすると、マングローブの根から足を踏みはずして泥沼へ落ち込む。平原に出ると、赤道直下の太陽が容赦なく全身をこがす。そして、いつ来襲するかわからぬ敵機に神経を張りつめる。ジャングルに入ると、巨大な山ヒルがサラサラとまるで雨のような音を立てて、体の上に降ってくる。一時間五キロの行軍路程はたちまち二キロになり、一キロになった。 日の沈むまでに適当な宿宮地を探さなければならない。 ①水が確保でき ②地面が乾いて ③空からの攻撃を避けられ ④何か食糧になるものがとれ、そして ⑤周囲に死体がころがっていないところ――それが理想的な宿宮地の条件だか、なかなかそうはいかない。 重い背嚢を下ろし、さてと一握りの米でかゆを作り始めると、たいがいどこからともなく死臭が漂ってくる。 しかし、目をつぶって我慢することにする。 期待していたバナナ、マンゴウ、パパイアもまず手に入らない。先発隊によって、根こそぎとりつくされていたからである。 せいぜい木の葉を火にあぶって、浅草海苔のつもりでかじる。恐ろしいマラリア蚊の襲撃に悩みながら、疲れた体を横にする。こうして、十数日がたった。 体はみるみるやせていった。だれも彼もが、目だけを異様に光らせ、スズメのような便をたれた。 シンヨリに着く直前だった。当番兵のS上等兵は靴をはきつぶし、地下足袋は破れ、足がはれ上がっていた。 見かねて、彼にいった。 「おい、あそこに立派な靴をはいた兵隊がいるぞ。よく拝んでいただいてこい」「はい」とSが倒れた兵隊に近付き、巻脚絆を解こうとした時である。 「おい、食うには早いぞ、まだ生きてるんだ」――蚊細い声は、しかし私の肺俯を貫いた。 死肉を食べる――すでにうわさとして聞いていた。まさに「地獄絵だ」と思った。 S上等兵自身も、やがて一週間後栄養失調のため歩行不能となり、シンヨリで病死する。 ようやくたどり殖いたシンヨリでも、またいくつかの“悲劇”を見聞した。先輩の池田良貞獣医務少佐が、マラリアの高熱におかされ、呻吟していた。すでに意識も定かでない少佐は、大声をあげて命令する。 「予はパプア王国の王だぞ、花を集めて王冠を作れ!」 間もなく少佐は亡くなった。 シンヨリの南方二〇キロ、転進部隊のため大館克巳見習士官を長とする補給所が設けられていた。 フラフラになってやってくる将兵に、米一合と若干の椰子油を補給するのが任務だった。 確か私がシンヨリに着いて三日後、九月十五日のことである。 十数人の兵士か補給所に到着した。 ところが、たまたま川が氾濫して、イドレからの補給が間に合わず、糧食は底をついていた。 「明日はくると思うから、待ってくれ」と見習士官は断ったそうである。 ところが、たまたま奥で、一人の兵が一握りの米を炊飯しているのを目にした彼らは激高した。 「早く米を出せ」「ないとはいわさぬぞ」。 ついに、彼らは刃をふるって見習士官と兵一人を無惨にも斬殺してしまったのである。 飢餓が入間の正常な神経をいかに狂わすか、まさに“食なき戦い”の凄絶な一幕であった。 翌日、シンヨリを発った私たちが、ヤカチを経て最終目的地のイドレに到着したのは、マノクワリ出発後二ヵ月余がたっていた。 この悲惨な大転進で、約半数が犠牲となり、そして七〇キロあった私の体重は、わずか四五キロに減っていた。 11 八割余が海没した輸送船 「ああ堂々の……」と歌われた輸送船――兵員・軍需品を前線に送り込み資源の乏しい本土に南方から物資を運ふ文字どおり補給線の祖い手が輸送船であり、戦争の行方を左右したのが“輸送戦”だった。 そして戦局が苛烈の度を加えるとともにその被害も続出、大戦中実に二五〇〇余隻全使用量の八割二分を失うという、悲劇に見舞われたのである――
2021.04.22
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いつも思うのは、ヒロヒト(昭和)が、こういった現実をどこまで、知っていたのか? 知らされていたのか? ということだ。 もちろん、そのことによって、ヒロヒトの戦争責任が免罪されることがあってはならない。軍人たちや側近たちに利用されまくったとしても、多くの内外の民衆の凄惨な最期(さいご)を作り出すきっかけとなった、彼の言動は、未来永劫に消え去ることはない・・・この非人間的な原因を作ったのは、戦争を宣言したヒロヒト(昭和)しかいないからだ。 天皇という特権階級の頂点に(たまたま)生まれたというのも、運命でもあるし、そのために、その責任を最後までに追及されるのも、運命だと思う。決して、免罪されない(宿命)だということだ。 食料の途絶した南方の日本兵たちは、戦争する意欲を失って、ジャングルをさ迷った。赤道直下の太陽が容赦なく全身をこがす中、血を吸う巨大な山ヒルがサラサラとまるで雨のように降ってくる中、恐ろしいマラリア蚊の襲撃をかわしながら、飢えに苦しみ、主食は雑草、木の根、ヘビ、トカゲ、カエル、ネズミ、バッタ、沢ガニ・・・食べられる物は何でも口に入れたという。 このような、兵の苦難について、ヒロヒト(昭和)は、おそらく知らされてはいなかったのだろうことは、容易に推察できる。 飢えに苦しんで、死んだ友軍の死肉(人肉)を食らったという話は、戦線全域であった。誰にも話してはならない・・・と言いながらも、人間というモノは真実を隠しおおせるものでは無いらしい。 今の時代に、天皇制(皇室)を賛美する報道にあふれていることに、大きな違和感を感じてきたが、その翼賛記事に無理解なリベラルたちの言動にも、大いなる違和感を感じてきた。(人権)というなら、まず、その非人間性の頂点にある (天皇制に異議あり!)と叫んでほしいものだ・・・ 人生は、一度しか無い。沈黙は、金では無い。後悔、先に立たず・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――――― ニューギニア・飢えとの闘い(写真集)(一億人の昭和史 日本の戦争9 1980年毎日新聞刊 p140-199) http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/newginia/newginia.htm ① 補給が制した戦局 思えば太平洋戦争は海洋を舞台とした要地の争奪戦であった。 このため終始船舶が中心となり、船なくしては戦いを遂行できない特質を帯びていた。 そのため占領地への補給線の確保は絶対不可欠となり、逆に敵側からすればわが方の補給線を分断し、前線配備兵力の孤立化を策することは当然の考えであった。 果たせるかな、連合国側は潜水艦の大量生産と魚雷性能の強化、索敵電波兵器の開発等を急速に実用化し、輸送船を優先目標として攻撃を開始し、接敵地域においてはさらに空軍を増強して、日本軍の補給路を徹底的に妨害する作戦に出てきた。 こうなると補給の万全を期するには制空、制海権を常時維持することが前提となり、つまるところ膨大な戦力か必要となってくる。 このように海洋作戦における補給行為がいかに困難かつ重要であるか、極言すれば補給に勝った者が戦争をも制することにつながったのである。 当時、陸軍で船舶輸送業務を担当した機関は通称「暁部隊」といわれた船舶専門の部隊で、本拠は広島市宇品港にあった。 そもそも、この部隊は明治二十八年、台湾補給廠として同地に設置されたのが最初で、その後日露戦争時に陸軍運輸部、太平洋戦争開始直前に船舶輸送司令部と改称され、昭和十七年七月、大幅な編成改正により船舶司令部となって、多岐にわたる船舶業務の遂行にあたった。 しかし、戦争は後半期から完全に連合軍側の一方的ペースとなり、わが方は勝ち運から見放されたが、なお血みどろの輸送が続行された。そのため、各海域において洋上玉砕が現出し、交戦地域向けの船舶輸送にあっては、いつしか特攻への色彩を強め、大型船をもって揚陸地への“ノシ上ゲ”(擱座:かくざ=強行座礁)を敢行するまでに至った。 また局地間の輸送に挺進した大発をはじめ機帆船、漁船等小型艇も、ことごとく爆砕撃沈の憂き目をみた。 このように船舶輸送の末路はあまりにも悲惨で、最終時点では数隻を残すまでに打ち砕かれてしまった事実は“暁”の象徽とは裏腹の暗澹たる悲劇そのものである。 さて船舶部隊の戦闘経過をみると、開戦から翌十七年一二月、ジャワ島占領までの緒戦期には、上陸作戦はおおむね順調に推移し、輸送船の沈没被害は十八隻(八万三千総トンにとどまった。 このうち沈没第一号となったのは淡路山丸(九七九二総トン(三井船舶所属)で、マレー半島コタバル上陸戦闘時の空爆火災によるものである。 緒戦以降は占領態勢維持のための作戦が各域で展開されたが、十七年六月のミッドウェー敗退後から連合軍の反攻がはじまり、漸次憂慮すべき事態へと追い込まれていった。 こうした状況の変化は船舶輸送の上に直接影響し、それに従事する者には、いち早く肌で感じとることができたほどである。 ② “特攻輸送”の結末 中盤戦に入ってからの主戦場はソロモン、ニューギニア方面であるが、輸送船の沈没がようやく目立ち、本土からの輸送船団も随所で潜水艦に食われるに至った。 連合軍は反攻にあたり海洋陣地作戦の進め方を熟慮し、わが方の補給作戦を完封しつつ自軍の増強を推進する立体戦を展開した。真に海洋陣地作戦の典型を確実におし進めてきたのである。 これに対し、海上護衛力の低下する一方のわが方は、死にもの狂いの強行突破輸送をもって対抗したため、多大の損害を披るところとなった。その一例を示す。 ガ島強行輸送作戦では、延べ十七隻の高速船を出撃させたが、ラバウルに帰還したものは二隻に過ぎず、ニューギニアにあってもラエ輸送の困難性が強まる中で実施された五十一師団の輸送は十八年三月三日、八隻船団が全没する悲劇を招いた。 17年2月に就航した秋津丸(9190総トン)飛行甲板のある陸軍の“空母”として建造されたが、19年11月15日、レイテヘ23師団を輸送中沈没。 むろん輸送船にはある程度の武装がほどこされ、船舶砲兵が自衛を担当していたが、圧倒的な襲撃の前には手のほどこしようがなく、敢闘空しく沈没するのが実情で、それだけ要員の損害が多かったことも窺知できるであろう。 その後の上陸作戦は十九年末のレイテ島オルモックに対する多号作戦であるが、これは逆上陸と呼ばれ、同島への兵員、資材増強を企図するものであった。 すでにこの時点では特攻輸送と称する捨て身の揚陸作戦となり、第九次にわたって輸送船、輸送艦、88艇、機帆船、大発、バンカー(現地民の舟)などが使用されたが、大型船艇の被害についてみると、輸送船では出撃延ベ二十一隻中沈没十六隻、輸送艦では十九隻中七隻、88艇五隻中三隻と激しい損害を示し、その他の船艇にあっても、そのほとんどが失われた。 また一方では潜水輸送艇船“○ゆ”(全長四九・五八、幅四・七メートル、水中排水量三四六トン、潜航深度一〇〇メートル)も出動したが、目的を達することなく撃沈された。 この目を覆いたくなるような特攻輸送に参加した者は、大部分が散華したので本船の最後の様子は不明のものが多い。 一方、連合軍かレイテに来攻するまでの間、わが方の戦力を一皮々々はぐような艦船撃滅作戦を展開し、以後本土上陸戦にまで結びつけて実施した成果は特筆に値する。 これを簡単にいえば、在港中の艦船を空襲壊滅することで、これには数群からなる機動部隊をもって実施した。 その代表的なものかトラック、パラオ両島への大空襲で、その結果わが方は一網打尽の憂き目をみたのである。 トラック島(19・2・17~18)平安丸以下三二隻 一九九、〇〇〇総トン、パラオ島(19・3・30~31)あまつ丸以下二一隻七九、〇〇〇総トン、次いで九月以降ハルゼー提督指揮軍が来襲し、船舶は大被害を受け戦局は極めて憂慮すべき事態に追い込まれた。 筆者はセブ対岸のオポンでこの強襲をまともに受け、対空戦闘の末、全弾撃ちつくし、ついに沈没したが、グラマン二五〇機からなる大空襲がいかに強烈であるか身をもって休験した。 この日、虎の子の第一航空艦隊の零戦約七〇機が炎上撃破され、艦船二八隻が沈没、港湾施設、ドックなど甚大な損害を受け輸送機能は完全に停止するに至った。 空襲の激しさといい頭上を乱舞する二五〇機の威圧感といい、まことに恐るべきものであった。 このように輸送船は空爆により多大の損失を受け、激しい人命の消耗をきたしたが、輸送船にとってはもう一つ、潜水艦の脅威があった。 冒頭に述べたように、連合軍は新鋭艦を続々と送リこみ、苛烈極まる輸送船攻撃を展開したのである。 このため輸送船団の被害が続出し、前線は漸次崩壊のやむなきに至った。そこで潜水艦探知兵器を一部の船に装備して船舶兵が操作にあたったか、大部分の船は相変わらす肉眼監視で警戒を続行したため、沈没被害は月ごとに増大した。 全期間を通じ輸送船沈没の最高は昭和十九年十月で、実に一三八隻にのぼり、うち六八隻か雷撃によるものであった(米側公表では七一隻)。この月は連合軍潜水艦の出撃数が三五隻にのぽり、最高を記録したので被害の多かったのもうなずける。 この沈没被害の中で特記すべきものは、十月二十四日、南支那海東沙島東方で襲撃された「春風船団」で、十二隻のうち小型船三隻を除く九隻が相次いで撃沈された。 この時襲撃した米潜水艦は約五隻とみられるが、その経過は飢えた狼群が小羊に襲いかかるのに似て、反撃のいとまもなかったものと思われる。 ともあれ、戦局を維持するには兵員、資材の必要量を確保し盤石の態勢をとらねばならないが、これか輸送中に海没し予定量か届かねば自信ある戦闘は望むべくもない。そこへ敵が上陸して来たらどうなるか。 しかし、いくら輸送船団か出撃しても制空、制海権を失った後ではいたずらに沈没を重ねるばかりで、やがては合理性を無視した特攻輸送へ移行するようになる。 このように潜水艦の猛威によって次々と血祭りにあげられていったのである。 沈没した船はどれも兵員、資材、あるいは資源を満載したものばかりで、大損害を被ったものの顕著な例ともみられよう。 ③ 「暁部隊」の苦闘と悲劇 このように輸送船は各所で沈没し陸軍船、海軍船、民間船をあわせ終戦までに二四〇〇余隻、八〇〇万総トンが海底の藻屑と化した。 そして人的損害は船舶砲兵において一万余、船員が約四万、乗船部隊、便乗者等に至ってははかりしれぬ人命が水漬く屍となった。このほか軍馬・軍犬、戦闘資材等においても膨大な数量が海底に消滅したのである。 なお船舶輸送の中で最も苦労したのが、北方方面への輸送であった。 敵襲のほかに自然の猛威が立ちふさがり、難渋の度合いは南方の比ではなかった。 酷寒、暴風雪、流氷、濃霧等を克服してようやく目的が達せられるのであるが、しかしアッツ、キスカヘの突入はどういうわけか途中で護衛が打ち切られ、輸送船単独となって入泊していた。 このため、ひとたび入泊前に遭難すれば、救助は望めず、空しく凍死する運命に置かれた。 もんとりいる丸、琴平丸、あかかね丸等はこれに該当した船で、一名の生還者もなかった。 今はなきこれら輸送船の中には、とりわけ悲運を伴ったものが少なくない。 捕虜輸送中雷撃され、処置に適切を欠いたとして戦犯に問われた、りすぽん丸、沖縄からの学童疎開中、雷撃を受け多数のか弱い命を散らした対馬丸、緑十字船としての使命を持ちなから台湾海峡で撃沈された阿波丸などは代表的なものといえるであろう。 終わりに船舶兵の最後を飾った特攻艇について述べておこう, これは綸送とは別個のもので“○レ”または“○ハ”と呼ばれる長さ五・六メートルのベニヤ製高速艇で、両舷に爆雷を装着し、敵艦艇を奇襲するものである。この任務は海上挺進戦隊が担当し、その戦闘はルソン島リンガエン湾および沖縄で敢行され、敵を大混乱に陥れたといわれているが、細部については明らかにされていない。 船員も暁部隊の隊員であった。 そして、その損害率は、実に陸海軍を上回る四三%を記録したといわれる。 思えば船舶輸送の末路は無残の一語に尽きた。各船舶部隊は、それぞれの分担任務の遂行にあたり最大限の苦闘を続け、最終的には特攻をもって頑張ったが、ついにその努力は空しく、多くの“墓標なき戦死者”を生んだのである。
2021.04.20
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腐敗した日本軍の実態を 端的に示すのは、あの「特攻」(特別攻撃隊)だろう。多くの若者を死に追いやった将校連中は、戦後、何知らぬ顔をして、普通の生活を送ったのだから、死んでしまった若者たちは、浮かばれないのだ。 「必ず、私も後に続くから・・・」と送り出した高級将校たちの話を 今回も、知覧のガイドさんから聞いたし、本にも書かれているので、隠しようのないこと。 これを(腐敗)と言わずして何というか? 東条英機は、「生きて虜囚の辱めを受けず」の(戦場訓)で有名だが、本人は、あろうことか!敗戦後、虜囚にされ、東京裁判で裁かれた。戦争指導者のトップが、こんなブザマでは、あの「必ず、私も後に続くから・・・」と送り出した将校連中と、どこが違うのか・・・・・・・・・・ 生還を許さない航空特攻(自殺特攻)で、およそ4,000名の無駄死にが、発生。ノンフィクション作家の保阪正康さん(74)は「特攻は日本の恥部。美化することは、それを命じた軍当局と変わらない」と断罪する。 「卑怯な軍人たちに指導された日本軍が、負けて良かった!」と、つくづく思う。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ――――――――――――――――――――――――――――――― 僕の母は、今、97歳で、老人ホームに入所しているが、戦争中に(堺大空襲)を体験している。無数の焼夷弾が降る中、炎の中を逃げ回ったという。多くの堺市民が、殺された。もし、この時、母が亡くなっていたら、今の僕は、当然存在しない。戦争を命令したヒロヒト(昭和)は、戦争責任を追及されずに、ぬくぬくと生き続けた。不思議な感じがする・・・・ (はんぺん) (以下、堺市のホームページから) 戦争体験証言集「堺大空襲」を制作・貸出し 最終更新日:2012年12月19日 第2次世界大戦中の昭和20(1945)年、5次にわたる攻撃を受け、多くの市民が犠牲となった堺大空襲。堺のまちが一夜にして焼け野原となった、67年前のこの空襲で、炎の中を逃げ惑った人、かけがえのない家族を失った人、家財を焼失して苦難の戦後を生き抜いた人等、37人が語り継ぐ戦争体験証言集「堺大空襲」全4巻を制作しました。 証言者の方たちからは「とにかくものすごい焼夷弾が落ちてきましてね。『シャーシャーシャー』という音がしてね。その時は防空壕なんて全然入っていられないので、表に出てきて家に水をかけました。」 「防空頭巾を防火用水でぼてぼてにぬらして、それを被って、兄と僕は手をつないでとにかく浜のほうへ逃げたんです。」等、空襲の時の様子や「飛行機の部品とかね。あんなん作ってた。強制的にみんな動員に行かされた。さぼったりなんて絶対できへん。」といった学徒動員の話等、戦時下の堺のまちで暮らしていた方たちの体験談とあわせて当時の記録や写真等も収録しています。 現在、当館等で貸出しを行っていますので学校や地域等での平和学習にご活用ください。 ■堺大空襲(全4巻) 「vol.1 堺大空襲編(39分)」 「vol.2 学校生活・疎開編(26分)」 「vol.3 学徒動員編(28分)」 「vol.4 絵本編(28分)」 ■貸出しの申し込み 当館か人権推進課(電話:072-228-7420)まで電話等でお申し込みください。
2021.04.14
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