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しあわせのかたち
『大衆の反逆』
われわれが、今日支配的であるタイプの人間、つまり私が大衆人と名づけた人間がいかなるものかをひとたび理解すれば、次にはより実りある、より劇的な疑問が湧いてくる。つまり、このタイプの人間を矯正することができるだろうか? という疑問である。私は次のように言いたい。彼らが持っている重大な欠陥は、もしそれが取り除かれないと、必然的に西欧を絶滅に導くほどのものである。それほどのものが、いったい矯正にやすやすとして応じるだろうか? というのも、読者は後でお分かりのように、大衆とはほかでもなく、自分よりもすぐれた審判をいっさい認めない閉鎖的な人間だからである。私の考えるところでは、救いの可能性のすべてが懸かっているもう一つの決定的な疑問があるが、それは、大衆がかりに望んだとしても、個性的な生を目ざめさせることができるだろうか? という疑問である。
ことの善し悪しはともかく、今日のヨーロッパの社会生活において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に上ったことである。大衆はその本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、いわんや社会を支配するなどおよびもつかないことである。したがってこの事実は、ヨーロッパが今や民族、国家、文化の直面しうる最大の危機に見舞われていることを意味している。こうした危機は、歴史上すでに一度ならず襲来しており、その様相や、それがひきおこす結果は周知のところで、その名称も知られている。つまりそれは、大衆の反逆と呼ばれている。
(中略)
大衆の反逆というこの歴史的現象に近づく最良の方法は、おそらく、われわれの視覚的な経験に訴えて、われわれの時代の肉眼で見ることのできる一つの相貌を強調することだろう。
その事実は分析するのは容易でないが、指摘するだけならきわめて簡単であり、私はそれを密集の事実、「充満」の事実と名づけている。都市は人びとで満ちている。家々は借家人で、ホテルは泊り客で、汽車は旅行客でいっぱいである。喫茶店はお客で、街路は通行人で、有名な医者の待合室は患者であふれている。映画・演劇は、だしものがひどく時期はずれでないかぎり観客で満員となり、海浜には海水浴客がうようよしている。以前にあっては問題にならなかったこと、つまり、あいた場所を見つけるということが今ではたえず問題になりはじめているのだ。
(中略)
物事に驚くこと、不審に思うことは、理解しはじめることである。それは、知的な人間に特有のスポーツであり、ぜいたくである。したがって知的な人間に特有な態度は、驚きの気持ちに見開かれた瞳で世界を見ることである。しっかりと見開かれた瞳にとっては、この世にあるすべてのことが驚異であり、不思議である。この、不思議さに目をみはるということはフットボール選手には認められていない楽しみであるが、知的な人間のほうはそれとは逆に、この楽しみに導かれて世界を歩きまわり、たえず幻視者の陶酔を味わうのだ。驚きに見開かれた目こそ知的な人間の属性なのである。それだからこそ古代の人々はミネルヴァに、つねに目を光らせた鳥である梟[ふくろう]を与えたのである。
群衆という概念は量的であり、かつ視覚的である。その性質を変えないで群衆なる概念を社会学の術語に翻訳してみよう。そうするとわれわれは社会的大衆という観念を得る。社会というものはつねに、少数者と大衆という二つの要素からなるダイナミックな統一体である。少数者とは、特別な資質をそなえた個人、もしくはそうした個人からなる集団であり、大衆とは、特別な資質をそなえない人びとの総体である。したがって、大衆という言葉をただ単に「労働者大衆」だけをさすものだとか、あるいは主として「労働者大衆」をさすものだというふうには解さないでいただきたい。大衆とは「平均人」のことである。こういうふうにして単に量的であったもの、つまり群衆は、質的に規定されたものへと転化する。すなわち、大衆とは万人に共通する性質、社会において特定の所有者がないもの、他人と異ならず、自分のうちに普遍的なタイプをくり返すだけの人間である。
(中略)
われわれはたった一人の人間を前にしても、その人間が大衆であるか否かを知ることができる。大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に価値を見いだすことなく、自分を「すべての人」と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じであることに喜びを感じるすべての人びとのことである。
(中略)
「選ばれた少数者」について語られる場合、よくある悪意のために、普通この言葉の意味が歪曲されている。つまり選ばれた人間とは、他人よりも自分がすぐれていると考える厚顔な人間ではなく、自分では達成できなくとも、他人よりも多くの、しかも高度の要求を自分に課す人間であるということを、知っていながら知らないふりをしているのである。というのは、人間を最も根本的に分類すると、次のように二種類に分けられることが明らかだからである。すなわち一方は、自分に多くのことを課して困難や義務を負う人びとであり、他方は、自分にはなんら特別なことを課すことなく、生きるということがすでにある自己をたえず保持することで、自己完成の努力をせずに風のまにまに浮かぶブイのように暮らす人びとである。(中略)
したがって、社会を大衆とすぐれた少数者に分けることは、人びとを社会的な階級に分けることではなく、人間的な階級によって分けることであり、上層階級、下層階級といった階層分けとは一致しない。
(中略)
かつてのデモクラシーは、自由主義と法に対する情熱という効き目のある薬のお蔭で穏やかに生きつづけてきた。これらの原則を遵奉するに当たって、個人は自己のうちに厳格な規律を保持するように義務づけられていたのだ。少数者は自由主義の原則と法の規範の庇護のもとに活動し、生活を営むことができた。デモクラシーと法は合法的共存と同義語であった。ところが今日、われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているが、そこでは大衆が法を無視して直接的に行動し、物質的な圧力によって自分たちの希望や好みを社会に強制しているのである。この事態を、あたかも大衆が政治にあき、その仕事を専門家にまかせているかのように解釈するのはまちがいである。事実はその反対である。政治を専門家にまかせていたのは以前のことであり、それは、自由主義デモクラシーのことである。当時の大衆は、政治家という少数者にはいろいろな欠点や欠陥があっても、こと政治問題に関しては、結局のところ彼らのほうが自分たちより少しばかり良くわかるのだと考えていた。しかし現在の大衆はその反対に、自分たちには喫茶店の話から得た結論を社会に強制し、それに法的な効力を与える権利があると思っている。私は、われわれの時代におけるほど群衆が直接的に支配権をふるうようになった時代は、歴史上かつてなかったのではないかと思う。それだからこそ、私は超デモクラシーについて語るのである。
(つづく)
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