しあわせのかたち

しあわせのかたち

『大衆の反逆』その3


 今日あらゆる所を歩きまわり、どこであろうと自分の野蛮性を強制しているこの登場人物は、明らかに人類史の生んだ甘やかされた子供である。しかもこの甘やかされた子供は、相続人として振る舞う以外には何もしない相続人である。そして彼が相続した遺産は文明というか、つまり快適さや安全性など、要するに文明の便益である。(中略)生とはすべて、自己実現のための戦いであり、努力である。私が自分の生を実現させるに当たって直面する困難こそ、まさしく私の能力を目覚めさせ、行動をひき起こすものなのだ。

(中略)

 私は心からなる遺憾の念をもって強調するが、この不作法な傾向に満ちた人間、つまりこの最新の野蛮人は近代文明が、とくに、それが19世紀にとった形態が自動的に産み出した産物なのである。(中略)19世紀の文明とは、平均人が過剰の世界に安住することを可能とするような性格の文明である。しかし平均人は、その世界のなかにあり余るほど豊かな手段だけを見て、そこにひそむ苦悩を見ないのである。平均人は自分がすばらしい道具、卓効ある薬、未来ある国家、快適な権利にとり囲まれているのを見いだす。

(中略)

 これこそ絶対的な危険であり、根源的な問題である。人間の生が示しうる最も矛盾した形は「満足したお坊ちゃん」という形である。したがって、このようなタイプの人間が支配的な人間像になったときには、警鐘を打ち鳴らして、生が衰退の危険に、つまり、死の接近に脅かされていることを知らせなければならない。

 大衆という言葉を特に労働者を意味するものと解さないでいただきたい。私の言う大衆とは一つの社会階級をさすのではなく、今日あらゆる社会階級のなかにあらわれており、したがって、われわれの時代を代表していて、われわれの時代を支配しているような人間の種類もしくは人間のあり方をさしている。今日、社会的権力を行使している者は誰だろうか? また、時代に自分の精神構造を押しつけている者は誰だろうか? 疑いもなくブルジョワジーである。それでは、そのブルジョワジーのなかですぐれた階級として、つまり今日における貴族と考えられているのは誰だろうか? それは疑いもなく技師、医者、財政家、教師等々の専門家である。それではその専門家グループのなかで、最も高度にそして最も純粋に専門家を代表しているのは誰だろうか? 疑いもなく科学者である。(中略)したがって、今日の科学者は結果的には大衆人の典型ということになる。しかもそれは偶然のせいでもなければ、めいめいの科学者の個人的欠陥によるものでもなく、科学――文明の基盤――そのものが、彼らを自動的に大衆人に変えているからである。つまり、科学者を近代の原始人、近代の野蛮人にしてしまっているからである。(中略)専門化はほかでもなく、「百科全書派」的な人間を文明人と呼んだ時代に始まった。19世紀は、百科全書的に生きる人びとの指導下にその運命を歩み始めたのである。(中略)ここで、次のような否定しがたい事実の奇怪さを強調しておく必要がある。つまり実験科学の発展は、その大部分が驚くほど凡庸な人間、凡庸以下でさえある人間の働きによって進められたということである。すなわち、今日の文明の根源であり象徴である近代科学は、知的に特にすぐれていない者をも歓迎し、そういう人がりっぱな仕事をすることを可能にしているのだ。

(中略)

 物理学や生物学で行わなければならないことの大部分は機械的頭脳労働であり、それはいかなる人にでも、あるいはそれ以下の人にでもできる仕事である。(中略)しかしこの事実は、きわめて奇妙な人間の一種族を生みだしている。自然に関する新事実を発見した研究者は、当然ながら自分のうちに支配感や自信を感じるはずである。彼は表面的な判断から、自分自身を「ものを知っている人間」だと考えるだろう。(中略)これが、20世紀の初頭に極端に達した専門家の精神構造である。専門家は自分が研究している宇宙の微々たる部分については実によく「知っている」が、それ以外のことについてはまったく何も知らないのである。(中略)以前は人間を単純に、知識のある者と無知なるもの、多少とも知識のある者と多少とも無知なる者とに分けることができた。ところが専門家は、その二つの範疇のどちらにも属させることができない。専門家は知者ではない。

 問題は、今やヨーロッパにモラルが存在しなくなったということである。それは大衆人が新しく生まれつつあるモラルを尊重し、古くなった従来のモラルを軽視しているからではなく、大衆人の生の中心がほかでもなく、いかなるモラルにも束縛されずに生きたいという願望にあるからである。

(中略)

 こうした理由からして、今日の人間に向かってそのモラルの欠如を難詰するのは無邪気な行為と言えよう。その非難は通じないばかりか、むしろ彼らを喜ばせることになるだろう。非道徳的な行為は今やこの上なく安っぽいものとなり、誰でもがこれ見よがしに不道徳な行為をしているのである。(中略)大衆人は完全にモラルを欠いているのである。モラルとはその本質上つねに、何物かに対する服従感であり、献身と義務の自覚である。(中略)私はこの試論においてある種のタイプのヨーロッパ人を描き、彼の態度、特に彼がそのなかで生まれた文明そのものに対する態度を分析しようと努めてきた。私がそうせざるをえなかったのは、その種の人物が古い文明を相手に戦う新しい文明を代表する者ではなく、単なる否定、寄生虫的実体を内に秘めた否定を行う者だからである。大衆人は他の人びとが建設し蓄積したものを否定しながら、自分が否定しているものによって生きているのである。

ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』




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