しあわせのかたち

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『新世紀エヴァンゲリオン』観覧記(2)


 本日のお昼はクリームシチューでした。うむ。うまい。

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 エヴァンゲリオンについては唐沢俊一と岡田斗司夫が「これは純文学だ」と言っているらしい。純文学の要諦は「そこに人間が描かれているかどうか」だと私は認識している。

 そういう意味ではロボットもののアニメーションのいくつかは、エヴァ以前から人間を描いていた。鉄腕アトムや仮面ライダー、銀河鉄道999やサイボーグ009は「人間ではないもの(サイボーグやロボット)」を描くことで観客に「人間とはなにか」を問うていた。

 これは人間か? それとも人間以外のものか?
 そうした問いを重ねることによって、人間の沿革を浮かび上がらせてきた。

 こうした問いの元祖は「神学」にある。
 古来より人は、神と天使と悪魔を語ることによって、「人とはなんであるか」を考えてきた。
 もちろん結論はでていないわけだが。

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<5話~8話>(DVD2枚目)

 このセンテンスはふたりのヒロインが象徴的に描かれる。
 5話ではひとりめのヒロイン綾波レイが暮らすアパートの描写があり、主人公シンジ君との長い会話がある。また、8話ではドイツからの留学生というかたちでふたりめのヒロイン、惚流・アスカ・ラングレーがやってくる。

 内向的で無口な綾波に対し、多弁で活発なアスカ。
 これは3人目のヒロインともいえる葛城ミサトにも言えることだが、エヴァに登場する女性はよくシャワーや着替えのシーンが描かれる。まあここらへんは視聴者サービスだな、と思うのであるが、なんというか……あまにりも男性にとって「都合のいい女」として両名が描かれるあたりが、なんだか私は悲しい。
 どの女性もステレオタイプにすぎるのである。

 感情の多寡が認められるアスカと、明らかな感情の欠損が認められる綾波。
 どちらにも共通するのは「自分が認めうる【大人(社会)】に自分を認めてほしい」という強烈な思いである。
「わたしはわたしである」と、自分以外の誰かから認証をもらいたい。そういう欲求。

 その指向性自体は間違えていないとは思うが、彼女たち(そして主人公シンジも)が認めてほしがっている「大人(社会)」は、作中には存在しない。かろうじてその欠片を残す碇司令は、(前項で触れたように)人間的に壊れてしまっている。ここにこの作品のひとつのパラドックスがある。


 自意識過剰で不安定な主人公と、ステレオタイプな女性性。
 文学作品でいえば漱石の『それから』や紅葉の『金色夜叉』が想起されるところだ。視聴者のなかで「こんな女はいない」と思う人はいなかったのか。

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 また、主人公シンジとふたりのヒロイン(綾波とアスカ)のさらなる共通点として、「ここ(舞台)よりほかに帰る場所がない」という点が挙げられる。3人には帰るべき故郷も、そこで待つ家族も描かれない。この「逃げ場所がない」という心理状況は、自意識が肥大し、内向的な人たちによく見られる特徴だ。ようするに心に余裕がない。

 他者との接触を拒否し、「自分」に逃げ込んだ人々は、さらなる逃げ場所として自意識を深化していき、精神世界を掘り下げていく。その先にはなにがあるのか。
 いま目の前にあるリアルな現実(他者と社会と自己が絡み合う外在世界)から内在世界に逃げ出すことはできる。しかしその内在世界ですら追いつめられた人は、今度はどこに逃げればいいのだろうか。

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 DVD映像末尾に記されているライナーノーツによれば、第8話以降は「アクション編」と題され、エヴァ全体のなかでは明るく外向的な話が基本路線とされているようだ。
 これで外向的か。
 アスカという存在がそのモチーフとなっているのだろうが、父性はあいかわらず作品全体から欠損しており、従ってカタルシスは相変わらずない。

 ここにおいて指摘しておくが、主人公シンジ、綾波、アスカの3名にたいして、「なにか人間として大事なものが欠けている」と思う人が多かろうと思う(まあアニメの主人公たちにそういうものを求めるほうがおかしいのだが)。

 冒頭に記したように、「不在」を描くことでその「存在」を浮き彫りにさせようとしているんだろうな、と私は考える。ここにないのは社会性(使命と正義と他者性)だ。

 それが描かれることが、この先あるんだろうか。

 探しものはまだ見つかっていない。
「使徒」の目的も存在意義も、いまだ語られていない。

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