はた坊のブログ   家庭菜園を始めて21年目に(菜園に専念に)なりました

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2013.08.28
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蝶の飛び方 ふらふらとしている

なぜかいなとnetをみてみた

蝶の飛び方は、トンボやハチなど他の昆虫に比べるとちょっと複雑。
蝶は翅を閉じるときに揚力が生まれるけれども、翅が大きい為そのまま開いたのでは空気抵抗で下方向の力が生まれ相殺されてしまう。
なので、
翅を閉じる際に前翅と後翅に時差を与え、翅全体にひねりを加えて揚力と前方向への推進力を得る。
そして、その推進力を上方への力にするよう体をひねり、体全体を上方へと持ち上げる。
ひねりを加えて再度翅を広げ、空気抵抗を抑えつつ揚力を得て上昇し、滞空を可能にしている。
滞空できれば、翅を広げ滑空することで何処へでも飛ぶことが出来る。

最高速こそ出せないけれども、エネルギー消費が少なく、最も長距離、長時間飛べる飛び方になっている。




蝶は身体に比べて大きな羽を同時に上下にゆっくり振って飛びます.
だから慣性の法則で胴体が上に行ったり下に行ったりします.

まっすぐ飛ぼうとするとトンボのように前後の羽を互い違いに振るか,
ハチやアブや小型の鳥のように小さな羽を慣性で引きずられないほど高速で振るか,
もしくは大型の鳥のように羽ばたかずに滑空している時間を増やすかです.

トンボのように虫を捕まえるわけでもなく,ハチやアブのように高速で飛び回るわけでもない蝶は,効率最重視であのような飛び方をしているのです.

蝶でもセセリチョウのように高速で飛び回るものは高速で羽を振るので直線的に飛びます.



蝶がふらふら飛ぶ、のは、外敵から身を守るのがあるらしいです。
うちは庭に蝶を呼びたくていろいろ植えましたが、真ん中が小道だと、そこと木の隙間をフワフワ飛ぶんです。空間を飛ぶ、みたいな感じで。
ハネを傷つけない目的も。





蝶さん 馬鹿にできない



東日本大震災 3月11日発生
8月28日は 既に900日後となった   阪神大震災は、1月17日で発生から18年

武田さんのブログ




「genpaturekisi02tdyno.355-(10:27).mp3」をダウンロード

広島・長崎の原爆の経験があるので、日本では軍事用の原子力利用にはアレルギーがあったので、「原子力の平和利用」を象徴する「非核三原則」と、「自主・民主・公開」の「原子力三原則」を表面にたてて政治的活動が行われた。

15年ほど後の沖縄返還の時にも、表面上は非核三原則を守り、密約で日本政府とアメリカで「沖縄への核の持ち込みは自由」ということになった。

このことから判るように、日本の核化は「政治、軍事、経済」が先行し、技術やエネルギーという視点ではなかった。つまり原子力の利用が大きな政治課題になったのは1950年代の終わりで、その後、1970年代まで、日本はエネルギーの不安は感じていなかったからだ。

それでは、原子力を導入する政治的な大がかりなキャンペーンの中で物理を中心とする原子力研究陣はどのような状態だったのだろうか?

戦争中に核反応(日本軍の原爆)を研究した理化学研究所の仁科芳雄、後にノーベル賞を受賞した湯川秀樹などの学者が日本の原子力研究の最初を担い、続いて戦後、伏見康司(日本学術会議会長)、茅誠司(東大総長)、武見太郎(日本医師会長)らが活躍した。

これらの人たちはその優れた頭脳で広島の爆弾が原爆であるということや、日本の原子力の平和利用に関する初期の段階で学者として活躍し、どちらかというと「批判派」でもあった。

つまり、正力松太郎、中曽根康弘などの政治、経済組がひたすら日本の核化を進める中で、主として軍事目的への原子力の利用を警戒し、かつアメリカからの安易な技術導入ではなく日本が自主的な研究開発を進めるべきであるというスタンスに立っていた。

しかし、今から歴史を振り返ると、政治・経済サイドが現実的で権力に基づく推進策を採ったのに対して、学者は理屈を述べていたこと、核物理や放射線の影響についてはかなりのレベルにあったものの、アメリカからの情報の不足もあって、原子力発電の安全性やそのエネルギー的意味などについては考えが及ばなかった。

基礎学問の面ではきわめて優れていた初期の原子力の人たちも、システムエンジニアリングのような分野は、概念すらはっきりはしていなかった。

当時、世界的には東西対立と原爆競争の中にあり、1955年のアインシュタインとバートランド・ラッセルによるロンドン宣言に見られるように「核の安全問題」はもっぱら「人類を死滅させる可能性のある核爆弾」に関心が集中していたことにもよる。

不思議なことで、人類の将来を脅かすものとしての環境問題が指摘されたのは、ロンドン宣言からわずか8年後のレイチェル・カーソンの著述物だった。世界の知性と言われたこの二人も、8年後を予測できなかったのだ。

それはともかく、当時、今日の原発の安全についてはほとんど意識されていなかったと言っても良い.またこの時代から科学者は必ずしも誠意がなく、たとえば仁科、湯川などの核物理の専門家は戦争中、原爆製造計画に携わっていたが、それは本人達からは明かされなかった.

(平成25年8月26日)武田邦彦


ふむふむ

はた坊





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最終更新日  2013.08.28 01:08:36
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