僕のできる事

僕のできる事

古い手紙


今僕にできること、
2002年2月12日0時13分
この2日間追加眠材を飲まずに眠れることができています。
今、時間があると大平光代さんの貴女はひとりじやないを読もうとするのですがなぜか、すぐに寝てしまう・・・・・途中までで感じたこと
俺って子供だなあっておもいました、家族に眼をむけて欲しいから、まさか家の人にかぎってと言うような、幼稚な気持ちが残っていて、パチンコ、サラ金に手をだし、さらに繰り返し、家族の信頼を一気に失い、たとえ病があるにせよ、病をいいことにして、やりたい放題、その当時は年収750万から800万でしたから、ある程度計算をしながら使っていたんですが、気がついた時は、自殺未遂を3回、黙って死んで生命保険と引き換えにしたほうが家族の為、葛藤のまいにちでした。
誰にも、相談できず、会社にも、家にもなにも言わず、ただただ死場所を求めているうちにパチンコで、もうけた時に風俗というものを知り、もう自分をすてていました。
家族が、捜索願いを出して、心配していることもしらず、ただ、ただひたすら
自分のことを考えていました、自分を捨てたということは、家族を捨てたということにもなり、資金もほとんど使い果たした頃、どこかずるいところが残っていて、その時はすでに車を運転できる状態ではないので、せめて娘の顔を見たいいっ心で、フラフラの状態で、当時娘は、百貨店に勤務していましたので、遠くから見つからないよう明るく接客している姿を見て、なにか本当に寂しい、俺なんか生きている価値はない、とおもっった時は薬もなく、駅で船橋という字が目に入ったとき、西舟橋の友人に電話をし、頼みたいことがあるので駅まできて欲しいと言うと、元神奈川地区の同僚と言うことで、その当時は、自分は、栃木で単身赴任、彼は千葉地区でともに、SVと言う仕事で2週間に一回茨城の本部で全体会議で顔をあわせており、自分が行方不明という情報はすでにはいっていたらしく、
‘一杯いきましょう’‘もちあわせがない’‘ちょっと家によりますから’
ちょっと時間がかかるなとおもいながら待っていると、‘大のほうが催してしまって’
‘なにたべます’‘我侭で申し訳無いけど広東麺がたべたい’と注文し、待っている間に
ビールをいくらも飲まないのに、酔いが回ってしまい、車にのってきがついた時は、
自分の家の前でした、何がなんだかわからないで、家に入ると妻に20発ぐらい食らったところまで覚えているのですが、あとのことは・・・・1999年12月9日
それから、いろいろありましたが、素敵な女性にあわせていただいたことで
自分は、恥ずかしくない生きかたをしようとおもっています。
できれば、ここまで生かさせてくれた天に本当に感謝しています。
今自分が置かれている状況がわかってもらえるとおもいます
今、自分は命のあることに感謝し、一人で懸命に生きている女性に合わせてくれたことに感謝し、こんな状況の中で自慢できる娘と息子に育ててくれた、妻に感謝し、たとえ、家族として修復出来なくとも、これから負けないよういきていくこと、これからの自分は、今まで以上に真剣に生きなければいけないとおもいはじめています、
あせらず、頑張らず、諦めず、怠けず、よいことは皆さんのおかげ、悪いことは全て自分のせい!自分の家族になにもいえません、全て自分のまいた種
自分は、自分を信じることで、たとえ家族の許しが得られなくても、諦めず精進していこうとおもいます、こんな気持ちになれたのもであいのおかげ、
今、自分は毎日日記を書くことを自分に課しています。
課すことでどうしたらよいか考えています。
2002年2月12日4時7分秀次郎
今僕にできること、

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: