読書日和 ~Topo di biblioteca~

読書日和 ~Topo di biblioteca~

2004 7月~10月に観た映画



2004年7月~10月に観た映画

 スパイダーマン2
 キングアーサー
 LOVERS
 誰も知らない
 華氏911
 花咲ける騎士道
 ヴァン・ヘルシング
 スウィングガールズ
バイオハザード2
バレエ・カンパニー
下弦の月
モンスター
アイ、ロボット
2046
シークレット・ウィンドウ






スパイダーマン2

正義の味方で居続けるには心が繊細すぎる人かもしれない…と思って観てました。
もちろん、「僕が街を守っている」と自分の正義感に陶酔しちゃっているようでは
感情移入できないけれど。

一生懸命頑張っているのに理解されず、むしろ誤解されて心が傷つく。
言葉にして理解を求めることが出来ないもどかしさ。
そして別の生き方は出来ないかと模索したりする。

主人公ピーターのそんな悩みや、タイミングの悪さ、みたいなものが
今回はとても細やかに描かれていて柊は1よりも楽しめました。

ストーリー展開が漫画チックになってしまうのは(原作が漫画なので)
仕方がないにしろ、そういう心の内面を表情で演じてくれる役者さんの存在が
登場人物に深みを与えてくれます。

1で登場した悪役よりも、2で登場した悪役の方が柊は好きです。
どっちも不気味ではあるんだけど…。



キングアーサー

伝説、伝承といった言葉の響きに弱いです。
どうしてかって理由を考えたら、やっぱり「知りたい」っていう気持ち、
好奇心がうずうずしてくるようなエピソードが沢山散りばめられて
いるからだろうと思います。

キングアーサー公式HPはこちら

…で、映画を観て柊の好奇心が満たされたかというと
何か足りない、満足できない(逆を言えばもっと知りたい)気持ちに
なっちゃってます。

映像的には血を流して、生身の人間が必死に戦っている…そんな
戦場の場面なんかを観ていると
「伝説の人物も血や汗を流して必死に戦わなければならなかったのね」って
そういう現実感、生々しさは伝わってくるんだけど、
出来ればそれすら超越した鮮やかさ、が欲しかった気がするのです。
何といっても伝説だから(笑)
そういう懸命さだけに終始するならアーサー王が題材でなくても
いいように思うんだけど、これって言い過ぎかな。
柊が思いっきり期待かけちゃってるせいもあるので、不愉快に
思われる方がいたらごめんなさい~。ぺこり

でもね…すごく悔しいんです。
せっかく、アーサー王にまつわる伝説なんだから、って思うと。
劇場で無料で配られていた公式ガイドブックにも記載されていた
「いかにも伝説!」といったエピソードの数々は何処へ行っちゃったの~。

(以下ネタばれにも通じるかもしれないので念の為隠し文字にします)

宝剣エクスカリバーにまつわるエピソード(それは妖精が鍛えた剣で、
その鞘さえ失わなければ傷を負ってもたちどころに治る…)とか
円卓の騎士たちがそれぞれ持っている生い立ちや性格やその活躍とか
聖杯探求のエピソードとか、トリスタンとイゾルデの悲恋のエピソードとか
アーサーとグウィネヴィア、そしてランスロットの三人の関係性とか
何で描いてくれなかったの~!!

それに円卓の騎士って12人じゃなかったっけ?
人数足りなくない…?映画中何度も数えてしまったけれど☆


あれもこれも盛り込んじゃう訳にはいかないだろうし、
この物語も数ある伝承の一つにしか過ぎない、と言われたら
納得するしかないですが…。

ついつい満たされなかった欲求を書店にて、関連図書を読み漁って
解消しようとしてしまう柊でした。
円卓の騎士占いなんて本があってびっくりしました。
立ち読みで占う余裕がなかったのが残念です。




LOVERS

登場人物たちの表情、動き、間合い、空気、背景に至る全てが、
イーモウ監督の「こういうシーンが撮りたいんだ!!」という意欲に
溢れていて、それが遺憾なくビシビシ伝わってくるような映像の数々でした。

物語は主要登場人物三人がそれぞれに秘めている策略がどういう結末を
迎えていくか…なのですが、終わってみれば全ては監督の手中の中、
という印象が強いです。

どうしても前作の「英雄-HERO-」と比較した見方をしてしまうのですが、
前作が色で物語を伝えてくるなら、今回はそれに加えて音で登場人物たちの
気持ちの高揚を伝えてくる感じがします。
<衣装、そして背景(風景)の色彩は前作と変わらず鮮やかで、
美しく、印象深いです。>

「英雄」に比べると物語の展開はずっとわかりやすいです。
「英雄」よりももっと複雑な展開やどんでん返しを期待して観に行ったから
そう思うのでしょうか。
物語に凝るよりも、それにあわせた映像を作り上げていくことにより力が
込められているのかな!?
…とはいえ三者三様の心の動き、その表情とは裏腹な心中を探りたくなる
演技は見応えありました。

チャン・ツィイー…彼女が出演している映画ならきっとまた
柊は劇場まで足を運ぶことでしょう
予告にも使われていた舞踊のシーンを、大きなスクリーンで観られた
だけでも、観に行った甲斐があります。
「英雄」にも増して体当たり的な演技の連続に拍手を送りたい気持ち。

金城武…日本で撮影された映画、ドラマを観るよりもこうして
海外で撮影された映画で観る方がずっと自然体の演技をしているように
柊には思えます。
(「恋する惑星」「アンナ・マデリーナ」「初恋」「君のいた永遠」「ラヴェンダー」
などなど色々観たけれどその印象は濃くなるばかり…?
先日テレビで放映された「リターナー」ついつい?録画しておいたのですが
いつ観ることが出来るかな~、そっちではどんな演技を見せてくれるのでしょう)

アンデイ・ラゥ…前半の感情をぐっと抑えていた演技から一転して
後半に行くほどどんどん堰を切ったようにテンションをあげてくる…。
今回初めて観た俳優さんですが、目に力のある人だなあと思います。
一つ演技を間違えれば、滑稽にも映ってしまう人物像を目の力で説得力を
持たせるというか、観客を押さえ込んでいきます。



「誰も知らない」

可哀想だ、と感想を漏らすことは容易いけれど…。

「誰も知らない」公式HP

「誰も知らない」…本当にそうだろうか。
気づいた人はきっといるはず。「あれ、変だな?」って。

けれど、通り過ぎてしまえば、人は気にかかったことを忘れてしまえる。
自分に関わりのないことなら、なおさら。

子どもたちだけが過ごしたあのアパートの部屋の中では時間が停滞している。
川の流れをせき止めれば、次第に水が濁っていく様に、
時間もまた停滞していれば澱んでくる。心も、同じ。

唯一、流れを作り、外の世界とを繋ぐ命綱のような存在が母親なのに、
彼女は帰ってこない。

どうして子どもの出生届を出し、学校へ通わせることをあんなに拒むのだろう?って
その気持ちがどうしても理解できずにいます。
出生届を出していても、暴力という形で子どもを追い詰める親が現実にいる一方で
彼女にはまだ四人の子どもたちへの愛情が存在しているように思えたから。

「幸せになっちゃ駄目なの?」と母親に問われて「駄目だ」と言うことの出来る
子どもがいるかな…?それは卑怯な質問のように思う。
でも柊も時々「お母さんは○○しちゃ駄目なの?」と言っているような
気がする。(反省…

彼女に「幸せになるな」とは言わない。
でも、幸せになるのなら、子どもたちと一緒に、みんなが一緒に幸せになれる
方法を模索して欲しかった。自分一人の幸せじゃなく。

警察や福祉事務所に頼れば、少なくとも生活は保障される。
それを知っていてなお、「みんな一緒にいられなくなるのは嫌だ」と、それを
拒否し続けた明君のためにも…。

明くんを演じた柳楽優弥君の目と、タテタカコさんの挿入歌「宝石」の歌詞が
印象的です。
ゴンチチの音楽を聴いていると「無能の人」という映画を思い出してしまう柊です。

 この映画に寄せられた谷川俊太郎さんの詩が切ないです。

    生まれてきて限りない青空に見つめられたから
    きみたちは生きる
    生まれてきて手をつなぐことを覚えたから
    きみたちは寄り添う
    生まれてきて失うことを知ったから
    それでも明日はあると知ったから
    きみたちは誰も知らない自分を生きる

                        (谷川俊太郎)



華氏911

もうすぐ、9月11日がやって来ます。
あの日、繰り返される映像をテレビで観ていながら、一体何が起きているのか
理解できなかったことを思い出します。

そして今も。

なにがどうなっているのかわからないまま、
大きな流れに流されてしまっているんじゃないか…と思うと怖い。

マイケル・ムーア監督の「華氏911」も、側面の一つに過ぎないということを
頭の片隅で覚えておかなくては、柊のような単純な人間は簡単に
一つの考え方、見方に洗脳されてしまいそうだけど、
それでも戦争、偏った政治に対しての怒りはすごく胸を突いてくるものが
ありました。

アメリカも国内に矛盾を抱えているのですね…。
イラクで、空爆の被害を受けた人たちの映像は怖いほど痛々しく、
その反面、戦闘に高揚した米兵のインタビューには鳥肌が立ちました。
9・11のテロによって家族を亡くした遺族の人々、
イラクへの派遣で、戦死した兵士の家族の怒りと、涙。

テレビのニュースに映し出されているものは、何なのだろう?
こんなにも情報が氾濫しているように思えるのに、真実は何処にあるのか
判断できる材料が、自分には何もない。

アメリカで、イラクで、本当は何が起きているの?
日本だって今現在イラクに自衛隊を派遣しているけれど…
それは将来どんな流れに通じているのだろう?

 「人がこんなにも無知だなんて…」という遺族の言葉が辛かったです。

今はもう、知らない、という言葉で目を逸らすことは許されないのかも。

この映画ではブッシュ大統領が痛烈に批判されているけれども、
それよりももっと怒りをぶつけるべき相手は、9・11の首謀者といわれている
テロ組織、アルカイダ、ラディン氏では…?

彼らは今何処にいて、何を企んでいるのだろう…。怖い。

テロも、戦争も、地球上から、世界から消えてしまって欲しい。



花咲ける騎士道

ヴァンサン・ペレーズ、ひょっとして顔の雰囲気変わった…?
というのが第一印象。
役柄のせいかな。すっごくコミカル。

彼が演じるファンファンという人物は、一見女性の敵じゃないの?という
男なのですが、どうも憎めない性格しています。
ペネロペ・クルス演じるアドリーヌの嘘の占いを信じて
軍隊に参加するのだけれど、その結末はいかに…というあらすじ。
フランス国王ルイ15世や、王女、敵国のスパイ、などなど入り乱れて
実に華やかな雰囲気です

王とその側近のやり取りなどにはかなり風刺が効いていて可笑しいです。

時節柄、戦争するシーンや、徴兵に四苦八苦している軍の上官の様子
などには素直に楽しめないものがあるのですが、そこはそれ、
映画だと割り切らないと楽しめなくなりそう。

ヴァンサン・ペレーズのちゃんちゃんバラバラッ!というシーンの数々は
「三銃士」などの雰囲気を存分に醸し出していて好き
アドリーヌに甘い恋の言葉を語りかけるシーンではつい、
「シラノ・ド・ベルジュラックのときは、文才がなくてシラノに恋文の代筆を頼む
役柄だったのにね~!」と懐かしく思い出してしまったりもしました。

ペネロペ・クルスの男装はすらっと格好よくって、
感想を寄せていた池田理代子さんと同じく、柊もどきっとしてしまいました。




ヴァン・ヘルシング

頭を空っぽにして、難しいことは何一つ考えず、全身で楽しむための映画!!

観終えたあとの心地よい虚脱感。 「あ~、面白かった!!」 というこの感じを
味わうために、映画館に通うのだと思います

ああ、もう一度観たい。

由緒正しい?ヴァン・ヘルシングについては何も知らないのだけど、
パンフレットによれば「ドラキュラの不倶戴天の仇敵」なのだそう。
原作では結構年配の大学教授らしいのだけど、この映画ではぐっと若く、
ヒュー・ジャックマンが素晴らしく格好よく演じています。
しかも登場する怪物も、ドラキュラの他にもいろいろ登場してきます。

驚くような映像の数々に最も注目が集まるのだろうけど、
柊的にはよくぞこのキャステイングをしてくれました!!と思える実に
おいしい配役でありました。

特にドラキュラ伯爵を演じた リチャード・ロクスバーグ
「ムーランルージュ」では憎憎しげな公爵を演じていたけれど、
黒髪で、ずっと若返った雰囲気が実に怪しげで「ひゃああ!」って
画面に登場するたび心躍らせてました。ははは…。

ヴァン・ヘルシングの助手を務める修道僧カールは デイヴィド・ウェンハム
何処かで見た顔…誰だっけ?
「ロード・オブ・ザ・リングのファラミアだ~!」と気づいたときから目が釘付け。
こういうコミカルな役もとっても似合ってますね。
何といっても最初に彼を見たのも「ムーランルージュ」で・・・な役でしたし。

「アンダーワールド」では吸血鬼を演じていたケイト・ベッキンセール。
今回は吸血鬼を狩る側だったわけですが、こういう雰囲気を纏った映画に
ぴったり来る感じ…。

とにもかくにも、観終えてこんなにすっきり爽快になれた映画は久しぶりでは…。
2時間13分という上映時間が あっ という間でした。

ああ、もう一度観たい



スウィングガールズ

一緒にスウィングしたくなる~♪♪ってこんな感じでしょうか。

『スウィング・ガールズ』公式HP

一人では、奏でられない音楽ってあるよなあと、改めて感じます。
一人じゃないから、練習の辛さも、音が揃わず悔しくて泣きたい気持ちも、
わけあえる。そして、それ以上に楽しいことも嬉しいこともいっぱい、ある。

音を合わせた瞬間、音が共鳴した瞬間のどきどきするような高揚感…。
それはやっぱり仲間が傍にいるからこそ、味わえるものでしょう

もっと、もっと彼女たちのジャズスウィングを聴いていたい♪
出来れば仲間に入りたい(笑)

せめて、演奏を聴きながら、一緒に手拍子したり、
スタンデイングオベーションして思いっきり拍手を送りたかった!
(映画館なので叶わないけど…☆)

柊はジャズなんて良くわからない…と苦手意識を持っていたけれど
今度レンタルしてきて、聴いてみようかな~なんて思ってます。

映画の中で、彼女たちが演奏していたのは こんな曲目。

先ずはこれらの曲の入ったCDから借りてみよう!っと



バイオハザード2、アポカリプス

こういう映画は何処にも逃げる場所がないという閉塞感・緊張感で、
嫌でも心拍数が上がっちゃいます。
…とはいえ、覚悟を決めていったからなのか、前作よりも恐くなかったかも…。
「くるぞ、くるぞ~」というタイミングにむしろドキドキしていたかもしれない☆

それから、前作よりミラ・ジョヴォビッチ演じるアリスがかなりパワーアップしていて、
とても頼り甲斐ありそうにみえたからかな?

前作同様、何故、ゾンビというものは共食いしないのかな~という
疑問を抱きつつも、なんか、楽しんで見てしまいました。

銃の乱射の連続だったり、「やりすぎでは…」という感想も相変わらず抱いちゃうけど
やっぱりミラ・ジョヴォビッチが凛々しくて、格好良かったです。

気になる終わり方だったけど、また続編が出るのかしらん??

ゾンビ役の人たちって愉しそう…。柊も子ども相手に楽しんでみようっと!



バレエ・カンパニー

ダンス、或いはミュージカルをモチーフにした映画に柊は惹かれます。

バレエ・カンパニー 公式ホームページは→ こちら

舞台の上で人の体が描き出す軌跡、それを単純に美しいと思い、
感嘆し、魅入る瞬間が好きです。

映画には起承転結のようなはっきりしたあらすじはなくて、
バレエの公演、レッスンが生活の中心にあり、その周りにプライベートな
時間が存在する、そんなバレエダンサーの日常が淡々と描かれている感じです。

基礎レッスンや振付けられている光景、舞台裏、そして客席から見た舞台。
様々な場所から、視点から観たバレエの光景はとても興味深く、どのシーンも
まじまじと魅入ってしまいました。

観客席にいる自分には舞台から流れてくる音楽が耳に届いてくるけれど、
舞台の上は無音の世界なんじゃないか、と柊は何故か思い込んでました。
体重、重力?を感じさせない、軽やかに舞う人々…の印象が強いせいでしょう。

けれども舞台の上にしか聞こえないだろう音、例えば衣装や小道具のリボンが立てる
シュッという衣擦れの音や、つま先(トウシシューズ)が床についたときに立てるトン、という
音が映画ではやけにリアルに聞こえてきて、それらの音が演奏に混じって
聞こえてくるたび背筋がぞくぞくしました。

客席から見る舞台はとても幻想的だけれど、舞台上で踊っている人には
ものすごいリアル(現実)なのだという対比を感じました。




「下弦の月」

月から想起される数々のイメージ…満ち欠けの周期性や変身願望?などに
どうしてこんなに惹かれてしまうのかな~。

柊は月をモチーフに選んだ小説、映画、歌に興味を持ってしまいます。

ちなみにこの物語では19年に一度しか、同じように欠けた月は見る事が出来ない、
というのが重要なエピソードの一つになってます。

それからもう一つの、この映画を見に行くことにしたきっかけは主演が
栗山千明さんだったこと、です。

NHK教育で恩田陸さん原作の「六番目の小夜子」を放映したときに
サヨコを演じていたのが栗山さんで、以来彼女の醸し出す不思議な雰囲気に
一目惚れ、してしまったのでした。

次にみる機会があったのはタランティーノ監督作品の「KILL BILL」で
ゴーゴー夕張という一風変わった役立ったのですが、あの残酷さ、凶暴さに
「ひょえええっ!」と目を見張ってしまいました。
(この映画に出演するきっかけとなった「バトル・ロワイヤル」や、「死国」は未見)

「下弦の月」で栗山千明さんのごく普通の女の子、という役柄を観る事が
出来たわけですが…これまでの役柄が役柄だけに、“何か”を期待してしまう~。
うん、普通を演じるって一番難しいのかもしれないです。

今後の彼女の活躍に期待しているし、注目していきたいです。

物語は、柊が15,6歳くらいの頃に、この映画に、或いは原作に触れていたら
もっとどきどきして観たのだろうなあ~、というような内容なので、
物語に嵌れずに、むしろ赤面してしまいそうになってしまったことに、
少なからずショックを受けてしまったのでした。ううっ、年齢はとりたくないよう。

この映画の中で一番好きなシーンは緒方拳さんの登場シーンです。
過去を語る?語り部的な役柄での登場ですが、どこか一人芝居を見ているような、
落ち着いた感触があって、安心して観ることができました



「モンスター」

「人を殺してはならない。」
当たり前、常識、のはずだよね?

けれども常識、というのは同じ考え方、価値観を持っている人同士にしか通じない
合言葉みたいなものではないですか?
戦争、或いはテロ、正当防衛、そんな自分の命が奪われようとしている状態の時でも
自分を殺そうとしている相手にこの常識が通じるんだろうか。

 モンスター公式HPは→ こちら

アイリーンに、この常識は通用しない。
良心の呵責はある。けれど、彼女の内側には彼女なりの正義感や常識が存在してる。
それは世間とは相容れないもの。
幼い頃からレイプ、虐待の被害を受け続け、兄弟を養うために売春婦として街頭に立ち、
時には死を意識するほどの暴力と差別を受け続けてきた彼女。
彼女にとって殺人は報復であり、制裁である、という意識があったはず。
柊も女だから、娘がいるから、こんな暴力を目にするのは本当に嫌だった。

彼女を死刑にするのなら、彼女に暴力を振るった男たちに、彼女の中にそんな「常識」を
作った人たちにも同じだけの罰を与えてよ! と観終えたとき真剣に望んだ。
(はっきりいえば、死を、だ)

映画館を出たとき、通りを歩いている大勢の男の人たちの中にも
彼女が出会ってきたような、残忍さを隠し持ちながら平気な顔で歩いている人が
含まれている気がして、そういう想像を働かせてしまう自分にも落ち込んで嫌になった。

「立ち直るきっかけは幾度もあったのかもしれない。見過ごしていただけで。
努力が足りなかっただけで。…」
そんな風に言うのは簡単。だって私は彼女のような人生が
本当はどんなものかなんて、知らないんだから。
私には彼女の中にある常識を理解することが出来ないんだから。

気持ちが通じない、わかりあえない、ということがこんなに辛いことだなんて。

「人を傷つけてはいけない。尊重しあい、思いやりの気持ちを持つこと。」全ての人が
こんな考え方を内に持っていさえすれば、彼女だって違った生き方が出来たはず。
彼女の出会った悪意たちが、彼女自身をモンスターに変えてしまった。

セルビー…彼女の存在は“きっかけ”なんだろうか。
彼女に出会っていなくとも、命の危険を感じたアイリーンはいずれ殺人を
犯していただろう、と思うと悲しい。
二人の逃避行…イライラしながら観てた。
「誰か、救ってやって」と思いながら。
二人が本当に愛し合うには、セルビーは幼すぎたし、アイリーンは孤独すぎたみたい。

アイリーンを演じたシャーリーズ・セロンはこの演技で、彼女自身が抱える
過去を受け入れられたんだろうか。
恐ろしくなるほど、体当たりの演技でした。体重を増やし、顔を変えて、とか
そんな外見的な変化ではなく、彼女の目と叫び声が、脳裏に焼きついてしまう、
そんな演技でした。

この映画を観たら、どうしたってアイリーンに同情してしまう。
だけど、やっぱり同情しすぎてはいけないんだ。
最後の最期のときまで、私は「人を殺すのは悪いことだ」
「人を傷つけず、尊重し合い、思いやりの気持ちをもって接すること」という
考え方を持っていられますように…。



「アイ、ロボット」

人は機械(ロボット)が人間には不可能と思える作業を完璧にこなすことを夢見、
その一方で知能を持ち始めた機械(ロボット)はより人間に近い“感情”を
持ちたいと思い始める。

そういった互いのないものねだりが破綻をきたした物語…といえないかな。

ロボットが感情を持つなんてことが、近未来にはありうるんだろうか。
それこそ夢物語みたいです。

ロボットが人間とまったく同じ感情を持つことなどあり得ない。
(たとえそれがプログラムされたとおりの動きでも)人に近い動きを見せれば
人の方がその動きに「心」を感じてしまう、そういうことだろうと思います。

そもそも何故ロボットに人型に近い形を求めるんだろう。
作業効率のため?それとも愛かな。

…たとえば夏休みに会いに行ったASIMO君。
ちょっとした動きにも、感心してしまったし「可愛いっ!!」と
思ったのを思い出します。

実際に映画を観るまでは、機械の反乱もの?=「ターミネーター」みたいな
イメージしかなくて、観に行くのをためらっていたのですが、この映画を観た
夫曰く、「面白かった!」というので腰を上げてみました。

自殺?殺人事件?陰謀の首謀者は誰か?みたいなミステリ仕立てが
良かったです。
そういうのを察知するのが鈍い柊はおかげで最後の最後まで楽しめました。

ロボット三原則が冒頭に紹介されますが、
「規則は破るためにあるもの」・・・・妙に説得力がある台詞です。

観終えたあと、「人は機械を信頼してもいいんだろうか??」とぐるぐる
疑問が湧いてくるんだけど、機械を作るのも、機械に心を見てしまうのも
人であるなら、結局は「人が人を信頼できるかどうか」なような気もしてきました。




「2046」

なんだろう。掴みかけたものが、するりと逃げてしまう。
掴めそうで掴めない。一度観ただけでは物足りなくて、もっとじーっと
一つ一つの台詞の意味を考えたくなる…。

    「2046」公式HPは→ こちら

物語中に登場する「小説」は恐らくは未完の小説なのではないか、と
いう印象が柊にはあります。
映画、或いはこの劇中の小説のストーリーが中途半端だとか、
そういう意味ではもちろんなくて、この先に存在する<fin>の文字を
この映画を観た観客一人一人が見つけなければならないような、
作者に作品を委ねられたような、そんな感じがするのです。

どんな物語だったかは、実際に観ていただくとして…

この映画で柊が「おお!」と思ったのはその映像と使われている楽曲の
相乗効果、でしょうか。
劇場を出た後も、劇中で流れていた音楽が耳に残って離れない上に、
その曲を思い出すと、その場面が頭の中に鮮やかに蘇ってくる感じ。

映像と音楽といい、
小説家の主人公と、彼に絡んでくるそれぞれの登場人物たちの
バランスの取り方(重きの置き方)といい、絶妙な匙加減ではないかしらん?

…そういうわけで、誰の演技に一番注目してしまった、というような感想は
書けません。
作家を演じるトニー・レオンは別格としても、彼に拘ってくるエピソードの一つ一つ、
俳優一人一人がその持ち味を発揮していると思います。

観終えた直後は何だかとても頭の中がポーっとしてすっからかん状態なのだけど
しばし時間がたってくると、繰り返し、「あれはどういう意味だったんだろう」とか
考えて、それを知りたくて何度も頭の中で映像と台詞をリピートしてみるのですが
さすがにそれには限界があるのが悲しいですね。

もう一度観にいけたら、「それ」を掴めむことができるのでしょうか…。




「シークレット・ウィンドウ」

背中がぞわぞわしてくるような映画を観るのは勇気が必要なんだけど
今回はジョニー・デップが観たくて、出掛けました。

ボロボロのガウンを纏い、ボサボサ頭の髪、そして眼鏡をかけた姿…。
こういっては何だけど、「可愛い…」の一言に尽きます。

ああ、それなのに物語は否応なく怖い方向へ突き進んでいく~。

  「シークレット・ウィンドウ」HPは→ こちら

作家にしてみれば、「これは自分の書いた作品!!」という確固たる自信が
あるけども「どこかに似た様な作品が別にあるのでは…?」という
懸念もどこかに抱えているのかな…なんて主人公に原作者であるキング自身を
重ねてつい、みてしまいました。

アイデアの枯渇…、盗作疑惑…、愛読者からの脅迫…、そして〆切。
作家にとってはどれもこれも恐ろしいものに違いない!!

柊は原作は未読です。
映画の結末と、小説の結末は違っているらしいですね…。
映画を観終えたあと、俄然「もう一つのラスト」に興味を惹かれた柊は
書店で原作本のラストを立ち読みするべく、目的の本を探したのですが
見つけられませんでした。が~ん
(映画公開時に原作本はたいてい平台に置かれているものだと思うのですが)
どうやら柊と同じ興味に駆り立てられる人が他にも大勢いたのに違いありません。
(ラストだけ立ち読みしようという不届きな柊と違ってその方たちはきちんと
購入されていったようです…ははは☆)

う~ん、気になって仕方がないです、原作本のラスト!!

以下、途中のあらすじに触れてしまうので一応隠し文字にします。
ここから↓

離婚調停中の奥さんの気持ちに今ひとつ同調できないのは、夫役が
ジョニー・デップだからに違いない(笑)
前半~、彼に飼われている犬になりたい…と真剣に思いました。

結末については、「もしかして?」と思ったとおりの展開になったので
「ありゃりゃ」と思ったものの、むしろだからこそ原作本のラストが知りたいと
思ってしまいます。
…ラストの台詞が実に意味深だなあ…なんて思えてきたりして。


↑ここまで

前回ジョニー・デップを観た「レジェンド・オブ・メキシコ」では「あんまりだ~!」と
絶句してしまったのですが、今回は堪能できました

「シークレット・ウィンドウ」の音楽、フィリップ・グラスなんですね。
「めぐりあえた時間たち」の音楽がすごく印象深くてサントラ盤を購入しちゃったほど
なのですが…
今回も人を不安に(甘美さを伴いつつ!)させる旋律は健在でした。





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