育てているのは未来です

育てているのは未来です

W君のこと


 彼の一家は、そのおじさんが経営するたくさんの事業のなかのひとつだったパチンコ店の二階に住んでいて、訪ねていく時に階段の隙間から何列にもなった台を上から見下ろせたので、足を止めてその様子を眺めていたものです。当時のパチンコは、台と台の間にある狭い空間に人が入っていて、落ちてきたパチンコ玉を受ける木箱の玉を、台の上にある玉の受け皿に上げるの作業をしていました。一心にパチンコ台に向かって玉を打っているお客さんと、壁一枚隔てたところで忙しく動き回る店の人の両方を上から眺めていると、なんだか不思議な世界を垣間見ている気持ちになったものです。
 そのころ、彼のお母さんが私に言った「パチンコは絶対にもうかるもんじゃない。もうかるんなら私らや店員は生活できやせんのじゃけ。パチンコはぜったいにしちゃいけん」という言葉が今でも忘れられません。
 当時は千円札しかない時代で、夕方になると彼のお母さんが山のようになったお札を数えているところに遭遇することもありました。時に、その千枚近いような札束を近くに住んでいたオーナーのところに届ける役を仰せつかって、Wくんと二人風呂敷包みをかかえて歩いて10分くらいのオーナーの家に持って行ったりしました。小学生のこどもにとっては空恐ろしいような役でしたが、彼の母いわく「子どもが大金をもっとるとは思わんから、そのほうが安全なんよ」ということでした。お使いのあとは、オーナーの家でお菓子やアイスクリームをご馳走してもらいました。
 彼はその後大学を出て、おじさんの企業グループに入り40代のころにはいくつかの会社の社長になっていました。そんな時代が約30年くらい続いたあと、バブルの崩壊も影響したのか、巨大な企業グループだったおじさんのところも、4社ほどを残す小さなグループになってしまいました。それでも彼はその残った会社のひとつの社長として、亡くなったオーナーの企業方針を守ってがんばっていたのですが、60歳を過ぎた頃、体の急変で急遽入院することになってしまいました。
 知らせを聞いて私が日赤にいった時には、もうかなり病が重くなっていて話をするのもやっとでしたが、何度か見舞いに行っている間にも病気はどんどん進み、寝込んでから1ヶ月余りで亡くなってしまいました。病名は「胆管ガン」です。葬儀のとき、ひさしぶりにお母さんに会いましたが、かける言葉もありませんでした。
 その後、彼がオーナーから預かって一生懸命守っていた会社は、後継者によって他の企業に買収されて名前も形も変わってしまいました。私がよく通っていた温泉もありましたが、それ以来行ったことはありません。諸行無常、人生もまたしかりです。

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