にかいどう じぇっと してぃ

にかいどう じぇっと してぃ

自己紹介(年譜)

1982年

11月10日、三重県T市に生まれる。名は薫。

生まれながらにアトピーで、そのとき母親が思わず発した言葉は「きたなぁい・・・」であった。

ファーストキスは家族のだれか。


1989年~

4月、三重県N市立Z小学校に入学。

6年間で習字、そろばん、スイミング、ピアノ、バイオリンなど様々な習い事をさせられるが長続きせず。

学級委員に3度なるが、生徒会長には2度とも落選。過激さだけでは権力は握れず。
生徒会を補佐する集会委員になるが、自分が中心になれないことに気がつき、どうでもよくなる。

サッカーだけは一生懸命に取り組み、6年のときに選抜に選ばれる。

同じく6年、給食の「卵とじご飯」を「残飯」と罵り、担任にひどく怒られる。
Z小学校前代未聞の「給食全残し」を達成。
この残飯事件を担任の電話により知った両親はその日、罰として夕食を与えなかった。

成績表の「よくできた」の最多記録はたったの3つ。


1995年

3月、Z小学校卒業。

文集における将来の夢はサッカーの選手。

「よく考え、責任を持って行動するように」と担任に言われる。


1995年~

4月、N市立Y中学校に入学。

サッカー部に入部。期待のホープとなる。
2・3年では選抜に選ばれ、全国選抜大会に出場し、活躍する。

級長、生徒会長などには一切立候補せず。
その理由として、サッカーで十分に目立っていたことが挙げられる。


1998年

3月、Y中学校卒業。

サッカーの名門校からの推薦が2件あるも拒否。

公立トップ校を受験し、失敗する。
その原因は主に内申点で、音楽4、美術3、技術家庭2(10段階)であった。


1998年~

4月、大阪私立X高校(男子のみ)に嫌々入学。
往復二時間の遠距離通学。

2週間経たずして絶望を悟る。

サッカーはあきらめ、本をよく読むようになる。

3年のとき、河合塾全統模試の帰りに友達と酒を飲み、偶然教師に発見される。

1週間の謹慎処分となる。

謹慎期間中に生徒手帳を3度丸写ししなくてはならず、発狂寸前にまで追い込まれる。

停学明け、2週間の生活指導を受ける。発狂寸前が続く。

同じく3年、放課後の遅い時間に教室の床や壁に全てのチョークを叩きつけ、教室を赤白黄緑青のチョークの破片だらけにし、そのまま帰宅。翌朝、担任の激怒を誘う。生活指導室の前で正座させられる。

反省用紙に「この学校の教師は大学受験に見合った授業もできない人間ばかりであり、私立高校として見事に腐敗している。だが、校則の厳しさだけは一流である。進学率と行き過ぎた生徒管理、僕たち生徒が望むのは無論前者である」とだけ書いて提出。

後日、校長室に親とともに呼び出され、校風に従うように厳重注意を受ける。

校内で3番以内の成績を確保するようになる(バカ高校で・・・)。

しかし学校はサボりがち。

予備校の自習室で受験勉強をしたり、図書館で読書したりの日々。


2001年

クソ高校の卒業式には出席したくなかったため、無理やり早稲田大学を受験。不合格。

最後まで反骨精神を貫き通す。

卒業証書は郵送。
2月、無事卒業する。

大阪教育大学に前・後期ともに不合格。
浪人が決定する。


2002年

早稲田大学第一文学部に不合格。
世の不条理を嘆く。

同志社、南山に合格するが、関西大は1点足らずに不合格。

国立前期は予定通り、QQ外国語大学を受験。合格。
後期は大阪教育大学。前期で決まったため受験せず。


4月、QQ外国語大学外国語学部地域文化学科ロシア・東欧地域文化専攻(ハンガリー語)に入学。肩書きが長い。


入学以降、学生生活

文芸部に所属。
部員の少なさ、活動の適当さに辟易しつつも、後に部員を増やし、部長となって黄金期を築き上げる。

一人暮しを経験。最初のうちは1週間に1度、母親から生存確認の電話がある。
料理が全くできず困惑する。納豆やキムチにずいぶんお世話になる。

本を読む生活。朝方まで読書。
通学時間が往復30分のため、自由な時間が増える。徹夜で読書。
もちろん朝の授業は自主休講。昼に起きてとりあえず学校へ(食堂が目当て)。

そんな1年次の取得単位数は32。副専攻の英語を2つとも落とす。かなりやばい。

アルバイトを経験し、資本主義の構造を自分なりに分析。
「バイトは搾取だ!」と結論付けるも小遣いくらいは自分で稼ぎたかった。

2年次、ハンガリー語(5コマ)・スペイン語(4コマ)・英語(1コマ)を筆頭に、血を吐くような授業日程。
50単位取得。受験勉強に次いで必死だった1年。

春休み、初めて海外へ(ドイツ・オーストリア・ハンガリー)。
日本以外の国を知ることで、すごく良い勉強になる。
外大生としてのモチベーションが上がる。

3年次、ハンガリーに関してまじめに取り組む。卒論以外のすべての単位を取得。
留学は断念。大した理由は無い。
ハンガリー語が話せても、それで口を糊することができるかと考えたときに厳しいと感じた。また大学入学が1年遅れたため、4年で卒業したかった。アトピーだった。ホームシックになるのが嫌だった。飛行機が怖かった。

4年次、授業2コマ。授業登録無しの卒論のみ。
就職があっけなく決まる。

何もすることがなくなり、人格破綻者のような日々を送る。
バイトの帰りに外食し、酒を買って帰る日々(その日のバイト代を家にたどり着くまででほとんど浪費)。
ちゃぶ台に空き缶、床に空き瓶などが無数にころがっている部屋。
ワインや梅酒ロックをお茶代わりに飲む日々。
『トリスを飲んでハワイに行こう』と本気で考える。
チキンラーメンをそのままボリボリ食べて飢えをしのぐ日々。
手が震え始める。
夢と現実の境界線が曖昧になる。
誰かが自分を殺そうと計画しているのではないかと常に危機感を抱くようになる。
みんなで自分をおとしめようと相談しているのではないかと感じる。
警戒して他人から食べ物を貰えなくなる。
友人に「アル中」だと指摘される。
毎日読書してるし、精神は正常だし、自分では大丈夫だと思っていた。
ある日、酒を買いたかったが、手が震えて自販機に100円を投入することができなかった。
初めて「・・・やばい・・・」と気づく。
慢性的な下痢と戦いながら、節酒に励む。
友人に監視してもらう。

なんとか復帰。自他共に認める「正常」。
再アル中防止のため実家に住所を移す。往復約5時間半の通学(週1、2回)。

ハンガリー旅行。たくさんの物事を修学。


2006年

命を削って執筆した卒論が最高評価を受け、研究室に保管される。

卒業式、首席のため専攻代表として壇上へ。

4月、地元で就職。社会人生活が始まる。

現在に至る。

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