『とんとこひ・セクスアリテ』

February 6, 2008
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カテゴリ: ヒジリ地名図鑑

*『余多(よた)歩き菊池山哉の人と学問』( 前田速夫 )さんが、16 多麻考古行脚(引用者註)で、



芋窪の石川は地名のみならず、苗字としてもこの地では有力で、 「狭山裁判」の石川一雄被告 の名前を思い浮かべる人もいるだろう。貴種流転伝説と白山社の組合せも暗示的だ。そういえば、「武蔵悲田処」がこの街道沿いのすぐそばであったことも、このあたりがどういう場所であったかを暗示する


として<『多麻史談』>8巻3号、昭和十五年四月見学会(菊池山哉編/多摩史談会)より、抜粋されたのが、以下の記事です。


狭山 南麓地帯」
豊鹿島神社

 境内に樹齢九百年の大 。明治十九年以前はただ鹿島神社と呼んだ。境内摂社に白山社。石の正体に「人王百六代御奈良院御宇 白山権現 祭主梅満 願主石川麿呂 天文三歳甲午十一月三日」と刻してあるが、石碑の形も書体も幕末頃のもの。これはこの村に戸隠神の信仰が盛んになり、この社の神主御師さんが、その先達となって、非常に信仰された時代があったので、いろいろの改作が行われたものであろう。






 本社の北の山裏の小字に 石川 というところがある。石川入道なるものが住居した跡ともいわれ、本社の社伝に「天智天皇第四の姫宮又蘇我山田石川麿呂と申す人の建立なり」とある。
 すなわち 石川 の小字から、一つは正史に名高い山田寺の石川麿呂へ、一つは天智帝の第四の姫宮へ、紐がついたもので、その紐の年代も、(命がついたり、師がついたりするのであるから)本居宣長以降のものであろう。






 しかしながら源憲光といい、下総工藤入道といい、何か古伝説があったことは間違いない。古く芋窪村の鎮守。明治になってから村社となったが、天然記念物の が物語っているように、千年千早振る神の社で、当初から鹿島神が祀られていたのでないことは、明らか。付近に式内阿豆佐美神社があるところから推して、多麻郡八郷の一たる石津の郷は、ここ 狭山 南麓一帯の地であろう。・・・



 関連書籍の一覧です。

* 菊池山哉・編 多麻史談会
1.『多麻史談 3巻4号 - (主な目次から 二宮神社=多西郷・深大寺・大嶽山・御嶽山・霞村=奥多摩町板碑等々の事蹟)』昭10 \1,500

2. 『多麻史談 巻4号 - (主な目次から 「宇奈比(宇奈根=砧村)」 水戸義公と谷保天満宮 春宮帯刀木曽先生義賢史蹟の考証 砧村狛江村巡礼等々)』昭11 \1,500

3. 『多麻史談 6巻2・3号合併号 - 高幡山金剛寺不動堂の研究』昭13 \1,500

4. 『多麻史談 6巻4号 - (主な目次から 武蔵國造 市守神社の祭神 多磨墓地における名墓の変遷 宗教上より看たる奥多摩の金鉱について 神文巴紋の起源等々)』昭13 \1,500



6. 『多麻史談 7巻3号 - (主な目次から 武蔵國造 大國魂神社境内のみやのめさま 多摩川用水時代と上水 大久野村の野口氏 常久一里塚から長沼常楽寺へ等々)』昭14 \1,500




* 東原那美、東村山市教育委員会出版
『東村山市史研究第1号 武蔵悲田処に関する研究 ―並古道ぞいの寺社について』 1983(昭58)年

『東村山市史研究第2号 多摩郡衙・瓦塔・郡寺の研究ー東村山市史研究第二号』 1985(昭和60)年

『東村山市史研究第3号 白山神社と太陽信仰の研究-白山と伊勢神宮の関係を中心として-』 1987(昭和62)年





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Last updated  February 7, 2008 12:14:29 PM
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