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そして、この日の主目的である埼玉県の「続日本100名城」の一つ「杉山城跡」の駐車場に到着し散策開始。埼玉県比企郡嵐山町杉山605。「杉山城跡 大手口案内」。市野川左岸の山の上に築かれた山城である。築城主は不明。地元豪族の金子主水の築城によるとの伝承はあるが、文献資料にはあらわれない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは山内上杉氏時代の城である可能性が非常に強くなってきた。この縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違を「杉山城問題」と呼んでいたが、後に発掘調査を裏付ける文書の提示により文献史学的観点を含めた見解の相違へと深化している。2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(119番)に選定された。「杉山城跡保存会」の幟。「杉山城跡 大手口」に向けて坂道を上って行った。「杉山城跡」案内板。この先道路の左側には「嵐山町立玉ノ岡中学校」があった。そして右側の高台には「杉山城」の遺構が姿を現した。ここを右手に。案内に従い進む。そして大きな「大手口」前の広場に到着。「杉山城跡」案内板が前方に。「国指定史跡 比企城館跡群杉山城跡 --戦国期山城の最高傑作--杉山城の概要杉山城跡は鎌倉街道を見下ろす丘陵上につくられています。傾斜が急な切岸(きりぎし)、各郭(くるわ)にめぐらされた横堀(よこぼり)と屏風(びようぶ)のように連続する折れ、さまざまな形態の虎ロ(こぐち)などが複雑に組み合わされていて、高度な築城技術の粋を集めたこの城は、実戦のための城としての風格をもち、戦国期山城の最高傑作と高い評価を得ています。城郭研究者やお城好き、歴史ファンの方々が県外からも訪れる隠れた観光スポットです。これまで築城年代や築城者が不明でしたが、国指定文化財にむけた発掘調査で出土した土器などから1 5世紀末から1 6世紀はじめ頃であることがわかり、さらに"杉山の陣"についての古河公方・足利高基の古文書も発見され、関東中が戦乱となった長享・永正の乱において関東管領・山内上杉憲房が扇谷上杉氏に対抗するために築城したということがわかってきました。未だ、城郭の発掘調査が完了していないため、現在、保存整備計画も同時に計画中です。新たな発見、整備にご期待ください。国指定史跡 比企城館跡群杉山城跡 指定 平成20年3月28日 時代 戦国時代( 1520年代ころ) 築城者 上杉憲房(関東管領山内上杉氏) 嵐山町大字中窪513ほか」「杉山城跡 縄張図」。「出郭(でぐるわ)大手の前に配置された郭をいい、北側には低い上塁が見られます。一見無防備な広い空間に見えますが、この説明板の部分には発掘調査によって溝が掘られていることが分かり、大手には直線的に進入できないような工夫がされています。」昭和30年代に描かれた「杉山城址図」。平成に描かれた「杉山城址図」。そして、「比企城館跡群 杉山城跡」、パンフレットを頂く。「大手(出郭)」に向かって進む。「大手(出郭)」案内。ここにも「杉山城跡この城跡は、戦国時代の城と推定される典型的な山城です。総面積は、約八へクタールに及び、山の高低差を巧みに利用して十あまりの郭を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内で屈指の名城と評価されています。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。「馬出」や「枡形」の塁線を屈曲させて構える「横矢がかり」の多用はその典型とされるものです。また、城の立地についても、北方に越畑城・高見城と連絡し、西方全体に鉱倉街道を見下ろすという絶好の条件を備えています。当時の社会情勢から判断して、杉山城と鉢形城とをつなぐ軍事上の重要狹点の一つであったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いですが、地元では、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水(もんど)の居城と伝えています。この城跡は、すべて私有地であり地権者のご理解とご協力によって公開されているものです。文化財保護にご理解いただき、利用、見学をしていただくようお願いいたします。」「現在位置」。「大手口」に向かって上って行く。「大手口大手口は、左側へ細い通路を登ると外郭に入れますが、正面には高い土塁が立ちはだかっており、左側は深い空堀がL字形にめぐって左方からの横矢掛かりが仕掛けられています。また、防御だけでなく城内から反撃に転じることも想定して、右側にあるニ重の土塁奥の空堀道と、その右方にある馬出しに伏兵をひそませておくことができるようになっています。」現在地。「大手口横矢掛かり イメージイラスト図横矢掛かりとは?虎ロや土塁に近づく敵を横から弓矢で射るために設けられた工夫で、郭の塁線を突出させることで死角を無くすことができます。」左側は深いL字形の空堀。その奥下に「積善寺」の墓地が見えた。前方に「外郭 馬出郭口」が見えて来た。「外郭 馬出郭口外郭から南三の郭へ向かうには、馬出郭と呼ばれる小さな平場を通りますが、こには空堀がありますので、本来は木橋を架けて渡らなければなりません。この木橋は、敵の侵入に際しては、すぐに切り落とせるような簡易なものだったはずです。この橋にも斜め上の南三の郭側からの強力な横矢が仕掛けられています。」「堀に架かる木橋のイメージ 左は馬出郭」右手上に木橋があったのだ。「馬出郭」「馬出郭馬出郭は、南三の郭と大手の間に位置する、堀で囲まれた小さな空間です。南三の郭南虎口に向かい登っていくと左側の土塁が張り出しており、横矢掛かりが設置され、防御の工夫を見ることができます。」「馬出とは?虎ロ(門)前方に配置され堀で区画された小さな郭をいいます。攻撃の際には一気に攻めだすために兵を招集したり、守りの際には敵の攻撃から虎口を守るために兵の出入りを援護したりできるように造られた場所です。」更に坂道を上って行く。「南三の郭」。「南三⇒南ニへの食い違い虎口」。「食い違い虎口南三の郭と南ニの郭の間の虎ロは、左右の土塁が平行にずれている虎ロ(食い違い虎ロと言います)になっています。これも横矢掛りの変形で、敵の直線的な侵入を妨げ、ニの郭内部を見えにくくする工夫です。」「食い違い虎ロ敵が侵入する際に直線で進入できないよう土塁を平行にずらして防御し、方向転換させ行動を制限させるように工夫している虎口をいいます。杉山城跡では、ここ1箇所だけに見られる虎ロです。」そし「南ニの郭」の前方の丘に「本郭」が姿を現した。ここが「南ニの郭」。左手が「井戸郭」方面への堀。堀を歩きながら「本郭」方面に廻り込んで行った。左側の丘の上が「本郭」。歩いて来た「大手口」方面を振り返る。「東ニの郭」方向を見る。そして「本郭」に辿り着く。「本郭」。「本郭」の正面方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.31
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『鎌倉散策 目次』👈リンク県道21号線・横浜鎌倉線を「建長寺」方面に進むと右手にあったのが「長寿寺」。県道21号線から見上げる「長寿寺」の「山門」。「季節・曜日限定 足利尊氏公ゆかりの寺 特別拝観」この寺の前は何度も歩いているが、なかなか拝観出来なかったが、この日に初めて拝観出来たのであった。長寿寺の拝観時間【季節限定公開】 季節限定公開のお寺ですので、拝観時間にご注意ください。拝観時間:春季(4・5・6月)、秋季(10・11月)、金・土・日・祝 午前10時~午後3時(雨天中止)藁葺き屋根の「山門」。扁額「寶亀山」。「山門」前右の「五重塔」背負った亀趺(きふ)と「案内板」。亀趺(きふ)とは、亀の形に刻んだ石碑の台石のこと。そしてこの寺の山号は「寶亀山」。「長寿寺足利尊氏が邸跡に建武三年(一三三六)創建し、諸山第一位の列に定めました。尊氏没後、父の菩提を弔うため鎌倉公方足利基氏によって七堂伽藍を備えた堂宇が建立されました。尊氏の法名を京都では等持院殿、関東においては長寿寺殿と称します。開山は古先印元(こせんいんげん)禅師。正面本堂に足利尊氏坐像と古先印元禅師坐像が祀られています。右奧の観音堂は奈艮の古刹忍辱山円成寺(にんにくせんえんじょうじ)の多宝塔を大正時代に移築、改造したものです。境内奧に尊氏の遺髪を埋葬したお墓があります。」・宗派 臨済宗建長寺派・山号寺号 宝亀山長寿寺・創建 南北朝時代初期・開山 古先印元禅師」鎌倉市山ノ内1520「長寿寺 案内図」。境内の石仏。山門左の、蓮の上に乗った地蔵様の像、目がつり上がってユーモアも。「山門」の先に「本堂」が見えた。「拝観料」300円を払い境内へ。「本堂」。参道右側の庭園の姿。「山門」を振り返る。後ほど訪ねた藁葺き屋根の「観音堂」。そして玄関で靴を脱いで入る。正面で僧侶の方が御朱印を書かれていた。左手廊下を少し歩くと、「本堂」に入り本尊である「釈迦如来像」の前に出た。本堂には通称「二つ両引」と呼ばれる足利氏の家紋付きのお賽銭箱が前にあった。近づいて。御本尊の「釈迦如来像」。左手に開山の「古先印元(こせんいんげん)禅師像」。「鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧侶。薩摩国の人。鎌倉円覚寺の桃渓得悟に入門して13歳で得度する。文保2年(1318年)に元に渡り、天目山の中峰明本らに師事した後、嘉暦元年(1326年)に清拙正澄の来日に随って帰国し清拙正澄が建長寺に入ると、経蔵を管理した。建武4年/延元2年(1337年)、夢窓疎石に請われて甲斐国恵林寺の住持となり、更に足利将軍家の信任を受けて足利直義から京都等持寺の開山に、足利義詮から鎌倉長寿寺の開山に招かれ、更に天龍寺の大勧進を務めた。他にも陸奥国岩瀬郡の普応寺など彼を開山とする寺院が知られている。この間、康永3年/興国5年(1345年)に京都真如寺、貞和5年/正平4年(1350年)に万寿寺に居住、更に鎌倉浄智寺を経て、延文4年/正平14年(1359年)には円覚寺29世、ついで建長寺38世となる。晩年はここ長寿寺に居住した。80歳で没し、墓は建長寺広徳庵・長寿寺曇芳庵にある。」とウィキペディアより。右に「足利尊氏公像」。「本堂」から苔生した前庭を見る。写真正面左側が玄関。同じくこちらが「亀ヶ谷坂」への「出口門」。「本堂」の「小鐘」。住職の読経時にはこの仏具を御本尊前に移動して。この日は一般開放日なので移動して下さったのであろう。「本堂」を後にして「方丈」に進む。庭には白砂が敷かれていた。書院と小方丈の間は、坪庭になっていた。「小方丈」には緋色の毛氈が敷かれ、ご緩りお庭をご覧くださいと書いてあった。毛氈の上に座布団、椅子が用意され、前庭をゆっくりと鑑賞できるのであった。床の間。掛け軸には?「松無古今色 竹有上下節」(松に古今の色なく 竹に上下の節あり)と書かれているのでは。茶道をしている方には、掛軸の言葉としてもお馴染みの禅語であると。「松樹千年の翠」というように、松は四季を通事、年々歳々常に青々としてその色を変えない。竹もまたいつも青々としているが、これには上下の節がある。・松は「不変」と「変化」が同時に存在することを表す・竹は「違い」と「平等」が同時に存在することを表す「松も、竹も、私も、あなたも、ある細胞がこの瞬間に死に、また新たな細胞が生まれてきます。すべて生命は、みな違って、みな同じ。」と言う禅の教えであると。「小方丈」の前庭。前方に「書院」を見る。水墨画の如き「屏風」。近づいて。東山魁夷画伯の作品「映象」を想い出したのであった。白砂が一面に。紅葉シーズンに再びと。そして「書院」へ。瓢箪の灯り。書院にも緋色の毛氈が敷かれ観賞用の座布団が。「書院」。この中には仏殿が収められていると。「達磨図」のある床の間に近づきながら。床の間。「達磨図(白隠慧鶴筆)」の掛け軸。「直指人心見性成佛」の文字が。「直指人心見性成佛」とは、端的に言えば座禅により自己に本来備わっている仏性を発見し、真の悟りを得ることである と。「方丈」から「観音堂」を見る。前庭を見る。「書院」には座布団と椅子が。「本堂」前の「前庭」を見る。書院蓮の花であろうか。掛け軸と香炉。掛け軸には「大道無門 千差有路」と禅の言葉が。大道無門(だいどうむもん)千差路有り(せんさみちあり)真理の世界、悟りの世界に到るには、どの道を択び、どこから入ればよいかなどと云うこだわりは不要である。禅の悟りには直指人心、見性成仏といい文字や言葉によらずに、その本質である仏性を直視してつかむことだと教える、言葉であると。香炉。お経の書かれた屏風。「摩訶般若波羅蜜多心経」観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空・・・・以下略。様々な「書」。「絆」、「報恩」、「寿限無(じゅげむ) 」の文字が。「寿限無」は「幸福(寿)」が限り無いの意。簡単に言うと寿(命が無)限という事。「寿限無」という落語がある。 子供の幸福を願って住職にいろいろ書いてもらった名前を全部つけてしまい、「寿限無寿限無」に始まる長い名前となったおかしさを主題とする噺。「寿限無寿限無 五劫(ごこう)のすりきれ 海砂利(かいじゃり)水魚(すいぎょ)の水行末(すいぎょうまつ) 雲来末(うんらいまつ) 風来末(ふうらいまつ)食(く)う寝(ね)るところに 住(す)むところ やぶらこうじの ぶらこうじ パイポ パイポ パイポの シューリンガン シューリンガンの グーリンダイ グーリンダイの ポンポコピーのポンポコナの 長久命(ちょうきゅうめい)の長助(ちょうすけ)」「龍図」建長寺法堂の雲龍図に似ていたが。「志野 花入 陽山窯 水野澤三」と「赤楽茶碗」。「萩茶碗 人間国宝 千代三輪休雪 休和)」と「大明萬暦年制 水さし」。書院と小方丈の間の坪庭を別の角度から再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.31
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「万福寺」を後にし、ナビに従い「越畑城跡(おっぱたじょうあと )」を目指す。関越自動車道の脇の歩道橋手前に到着。愛宕歩道橋から見た「越畑城跡」。左側が郭Ⅱで右側が郭Ⅰ。歩道橋・「愛宕橋」から見た関越自動車道の深谷市方面。「嵐山町指定史跡越畑城跡指定 昭和三十七年九月一日所在 大字越畑字城山武蔵七党児玉党の庄権頭弘高の後裔荘山城守秀俊が築城し居城としたと新編武蔵風土記稿に記されている。昭和十九年一月荘家の子孫が、当地青木五三郎氏の後援を得て、本丸跡に越畑城跡の碑を建てた。本城は当時西に鎌倉街道が通じ、城域高峻嶮岨にして、北部の要塞であった。」と。郭Ⅱにあった「愛宕神社」。埼玉県比企郡嵐山町越畑。扁額「愛宕神社」。近くにあった「石祠」。これは「燈明置き場」であろうか。郭Ⅱと郭Ⅰの繋ぎの郭。郭1であろうが、殆どが高速道路工事で削り取られているようであった。「越畑城址之碑」を探したが発見出来なかった。ネット情報によると歩道橋を渡って行った西側でなく、車を駐めていた東側にあるのだと。下の写真の左側の坂道を上った先にあったようだ。Googleマップのストリートビューより。ネットより写真を。 【https://blog.goo.ne.jp/ihcirot/e/9cbdf810dd0340beaba4fb2b59ac65e9】よりそして「越畑城跡」を後にして関越自動車道の下を潜り市野川沿いを南東に進むと竹林の前の路端にあった石碑群。この日の最初の「続日本百名城」の目的地「杉山城址」に向かって進むと左手の石垣の上に多くの石碑・「杉山六万坂の石仏群」が現れた。石仏群が位置する道路は西の市野川筋から東の粕川筋へと通じる古道で、地元では通称「六万坂」と呼ばれているとのこと。緩やかな短い坂だが、昔は茶屋があるほど交通量があったのだと。「町指定有形文化財 考古資料杉山六万坂の石仏群指定 平成十六年六月ニ十日石仏群が位置する道路は、西の市野川筋から東の粕川筋へと通じる古道で、地元では通称「六万坂」と呼ばれている。道路脇に仏が散在し、このうち江戸期の五種類、十六基が町指定となっている。種類別には庚申塔八、馬頭観音四、地蔵菩薩ニ、如意輪観音一、六十六部納経塔一であり、造立年代は貞享二年(一六八五)を初出として慶応三年(一八六七)までの一八二年間である。杉山地区で確認されている年代の判明している石仏は三十八基あり、そのうち十五基がここに集中している。造立者は、個人四基に対して馬持講や庚申講といった、講中などの集団によるものが十二基と半数以上を占めている。この場所が、当時の杉山村の中で特別な場所であり、村でどのような信仰が行われていたのかという特色を示す貴重な資料となっている。石仏群の種類と年代 坂の頂上右から馬頭観音(自然石型文字塔)慶応三年(一八六七)庚申塔(駒形文字塔)延享四年(一七四七)庚申塔(角柱型文字塔)弘化五年(一八四八)馬頭観音(自然石型文字塔)文化十一一年(一八一五)庚申塔(自然石型文字塔)嘉永六年(一八五三)如意輪観音(舟型浮彫半跏像)文化八年(一八一一)地蔵菩薩(丸彫立像)文化八年(一八一一)六十六部納経塔(駒型文字塔)宝暦十一年(一七六一)庚申塔(自然石型文字塔)弘化四年(一八四七)庚申塔(笠付型文字塔)正徳六年(一七一六)庚申塔(駒型面金剛)貢享一一年(一六八五)庚申塔(駒型青面金剛)元禄一一年(一六八九)庚申塔(角柱型文字塔)文化二年(一八〇五)馬頭観音(笠付浮彫立像)文化十一一年(一八一五)三面馬頭観音(丸型浮彫座像)安永三年(一七七四)地蔵菩薩(丸彫立像)年代不詳(近世)御堂の中に石仏が2体。左から「地蔵菩薩(丸彫立像) 年代不詳(近世)」「三面馬頭観音(丸型浮彫座像) 安永三年(一七七四)」左から「馬頭観音(自然石型文字塔) 文化十一一年(一八一五)」「地蔵尊」。「馬頭観音(笠付浮彫立像) 文化十二年(一八一五)」「文字庚申塔」と「猿田彦大神」。「庚申塔(駒型青面金剛) 元禄ニ年(一六八九)」。「庚申塔(駒型青面金剛) 貞享ニ年(一六八五)」「庚申塔(笠付型文字塔) 正徳六年(一七一六)」「庚申塔(自然石型文字塔) 弘化四年(一八四七)」「大乗妙典六十六部供養塔(駒型文字塔) 宝暦十一年(一七六一)」大乗妙典、即ち、法華経を六十六部書き写し、全国の六十六箇所の霊場を巡り納めるために廻国し、成就した記念に立てた塔であると。「杉山六万坂の石仏群」手前の民家の庭に咲く黄色い花。モッコウバラ(木香薔薇)であろう。 モッコウバラは、中国原産の常緑性蔓バラ。モッコウバラには、白と黄の花色があり、それぞれ一重咲きと八重咲きがあるとのことであるが一重は見た記憶が??。マスクを顎にずらすと淡い香りの小さな花を大量に咲かせていた。たわわに咲いた淡い黄色の花は、庭の入り口を華やかに演出していた。他のバラとは違い、茎に「トゲがない」のであった。今更ながらであるが「トゲがない人物」でありたいが・・・?? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.30
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昨夕も我が家近くからの夕景を楽しみに。時間は18:26。昨夕は富士山の姿がはっきりとは見えなかった。なんとかズームして。三峰山・935mと鍋嵐山(なべあらしやま)・817mの間に沈みそうな夕日。三峰山 (みつみねさん)は 関東: 丹沢山塊の東端、宮ヶ瀬ダムの南側に位置する山。そして鍋嵐山(なべあらしやま)・817m山頂近くに沈む夕日。鍋嵐山の右手の裾に。じわじわと。そしてこの日の我が家近くからの日没。18:35。日没直後の西の空。富士山の姿も目立って来た。大山・1252m。そして雲も赤みを帯びて。昨日ほどではなかったが。
2021.05.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「洪鐘道」が南参道と合流する場所にも石碑が。道標「國寶大鐘道」。國寶大鐘への道と。裏門・通用門の守衛所になっている藁葺き屋根の「看門寮」。この裏門から工事用車両が出入りしていた。「看門寮」 に向かって右奥に「般若水」が湧き出ていた。そして中央参道に戻り、右手の階段上に「三門」を見る。次に訪ねたのが「桂昌庵閻魔堂(けいしょうあんえんまどう)」。寺号標石「閻魔堂」。境内右手には石碑や石仏が並んでいた。「身がわり地蔵」。「閻魔堂」、「矢柄地蔵菩薩」と刻まれた石碑。浄光明寺にも矢柄地蔵がある。ここの矢柄地蔵は、宝鏡寺の地蔵堂から明治以降に移されたものであると。桂昌庵は、円覚寺境内の塔頭で、十王堂とも呼ばれて木造十王像がまつられている。十王とは冥土の亡者に裁きを加える十人の王のこと。亡者は順番に十王の裁きを受けて来世を定められると言われている。もっとも象徴的な閻魔像が80センチほど。宋帝王の胎内に納められた名札から1717年(亨保2年)頃に次々と造られたことがわかっている。鎌倉市山ノ内409。「閻魔大王」。ズームして。「和顔愛語」。「和顔愛語は、「和顔」はやわらかな顔、「愛語」はやさしい言葉。つまり、文字通り、笑顔で愛情のこもった言葉で話すこと。この言葉は、学校での教訓になったり、額や書幅にも書かれたりして、おなじみになった。この言葉は『無量寿経』に出てくる言葉であると。桂昌庵には弓の道場があった。折しも、弓を練習する人の姿を見ることが出来たのであった。先代住職が造ったのだという。弓道において一番大事なのは「正射必中」。正しい射は必ず当たるという意味だが、正しい射には正しい射法を実践し、自分と向き合い、自己の鍛練によって平常心を保つことができなければならない。攻撃のためではなく、平常心で弓に集中することが、武道のひとつになって行ったのだと。高齢の先輩が練習中であった。弓道において「的に当たるか当たらないか」は使用した用具が同じであるならば、すべて自己の修練の足りなさに原因があるのだと。技も心もコントロールをし、平常心で弓を引く境地に達しないと「正射必中」とならない。そのため、弓道は所作や射法が精妙に決められ、きれいな姿勢、きれいな射形であることが求められるのだと。「弓道教室開講のご案内」。流派は?そして「桂昌庵」の入口左にあった「円覚寺」の案内板と「御朱印所」の建物を見る。「円覚寺 配置図」👈リンク。ここに示されている塔頭等の建物も、一般公開されていない「舎利殿」他を除き全て訪ねたのであった。その横に「円覚寺案内」👈リンク。円覚寺案内当山は、臨済宗円覚寺派の大本山であり弘安五年(1282)の開創。開山は中国(宋)より渡来の佛光国師無学祖元。開基は鎌倉幕府の執権北条時宗公。国師は時宗公の熱心な招請に接し弘安二年来日。初め建長寺に住し、時宗公はじめ鎌倉の武将を教化し、多くの門弟を育てた。時宗公は弘安四年再度の蒙古の来襲を撃滅した後、翌五年正法を興隆し、師恩に報じ、また文永・弘安の両役に戦死した敵味方両軍の菩提を弔うため当山を建立した。国師の流派を世に佛光派と称し、弟子に佛国国師、孫弟子に夢窓国師が出て、室町時代には国師の法孫は天下に満ち、五山学僧の主流となった。江戸時代やや衰微していたが、江戸時代末期に中興誠拙禅師が出、明治に至って今北洪川、釈宗演の二大禅師が出世され再び関東禅界の中心となった。山 門天明年間、中興の誠拙禅師が再建。「円覚興聖禅寺」は、伏見上皇の勅額。佛 殿大光明宝殿ともいう。大正十二年の大地震で倒壊後、昭和三十九年三月再建。唐様禅宗様式の鉄筋コンクリート造り。本尊は宝冠釈迦如来。禅宗様式七堂伽藍の中心の建物である。方 丈(ほうじょう)禅林の住持の居間をいう。維摩居士の居室が方一丈であったことに由る。今は主に檀信徒の法要、座禅会、研修会等の教化の場に用いられる。 昭和四年竣工。平成十年改修国宝 舎利殿(しゃりでん)源実朝公が宋国より拝請した佛牙舎利を弘安八年(1285)北条貞時公が当寺に遷祀した。舎利殿は日本に残る唐様建造物の中、最も代表的な美しい建物である。開山堂舎利殿の背後にあり、開山佛光国師の木像を奉安す。木像及び須弥壇は重要文化財に指定されている。開基廟佛日庵境内にあり、開基北条時宗公並びに貞時公、高時公の尊像を安置す。北条家歴代の祠堂でもある。白鹿洞(びゃくろくどう)円覚寺落成慶讃の日 佛光国師の法話を聞くため この洞中から一群の白鹿が現われたという。この奇瑞により山号を瑞鹿山と号することになった。居士林禅を志す在家の人の坐禅道場。もと牛込にあった柳生流の剣道の道場であったものを昭和三年に柳生徹心居士により寄進され移築した。国宝洪鐘正安三年、北条貞時が二千五百人の善男善女 当山二百五十人の僧衆の合力により鋳造。当時その巨大なること関東第一。江の島の弁天の助力により鋳造が円成したとして、側の弁天堂にその尊像を祀る。受付の向かい側にある「休憩所」では、ジュース類の自販機があるほか、グッズも販売していた。「御朱印所」以前戴いた「円覚寺 洪鐘大辨財天」の「御朱印」です。総門を入って左手に入山「受付」。そして「総門」。「総門」を潜り振り返る。これほどの大寺でありながら、誠に簡素な四脚の総門だが、築地塀には、門跡寺院級の格式を示す五本の白線がしっかりと刻まれている。万延元年(1860年)に「総門」が修復された旨の記録があるが、実際に建築された正確な年は分かっていないのだと。扁額「瑞鹿山(ずいろくさん)」。石段の途中から「総門」を見る。秋には紅葉の撮影スポット。2017年12月に訪ねた時の写真。朝の陽光に紅葉が輝いていた。寺号標「臨済宗大本山 円覚寺」。円覚寺は、鎌倉市山ノ内にある寺院。山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。調べてみると、新たに寺院を建立することを「開山(かいさん)」といい、その初代住職のことも同じく「開山」と呼ぶ。その際に経済的、政治的援助をした人物、つまりいわゆるパトロンのことを「開基(かいき)」と呼ぶとのこと。なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式であると。「北条時宗公御廟所」碑。掲示板には「花には散ったあとの悲しみはない ただ一途にさいた喜びだけが残るのだ 坂本真民」坂村真民は国民的な人気の持ち主の仏教詩人。坂村真民先生を知らなくても、「念ずれば花ひらく」の作者といえば誰でもが。円覚寺・説教会・座禅会等案内板「瑞鹿山 円覚寺円覚寺は一ニ八ニ年(弘安五年)鎌倉時代後期、北条時宗公が中国より無学祖元禅師を招いて元寇の戦で亡くなられた敵味方の諸霊位を供養する為に創建されました。当山は国宝舎利殿・国宝洪鐘をはじめ文化財指定の建造物を存し古都鎌倉時代の代表的な境地であり国際的にも親しまれる禅刹として今日に至りました。当山は専門道場、居士林の上曜坐禅会・土日坐褝会・学生坐褝会、毎朝の暁天坐禅会・日曜説教・夏期講座等仏法に帰依する老若男女にさまざまな門を開き、多くの人材を輩出し関東禅界の中心を成しております。「こころの寺」として多くの人々から親しまれることを祈願しています。」「円覚寺」の真ん前をJR横須賀線が通過する。新型車両であろうか?山手線のE235系の青色仕様。明治21年(1888年)以来境内を横切ることになった踏切を渡って進み石の太鼓橋を渡り「円覚寺」を振り返る。「白鷺池(びゃくろち)」は、総門の前、JR横須賀線を挟んだ反対側の左右対称の池。円覚寺開山の無学祖元(仏光国師)が白鷺に姿を変えた鶴岡八幡宮の神霊に導かれた場所がこの池だったのだと伝えられている。池に架けられている太鼓橋の名は「偃松橋(えんしょうきょう)」。1889年(明治22年)のJR横須賀線の開通によって、池の半分以上が破壊されてしまったが、名勝指定を受けている庭園の一つであると。県道21号線(旧・鎌倉街道)の南西側までが円覚寺の境内となっており、「大本山円覚寺」とある寺号標碑と素朴な五重石塔が総門正面の参道入口両脇に建っていた。そして引き返し、再び踏切を渡り総門前を右折し線路沿いを鎌倉駅方面に進む。少し進むと左手奥にあったのが先ほど訪ねた「円覚寺」の「裏門・通用門」。その先、生垣の奥にあったのが「臥龍庵(がりょうあん)」。臥龍庵は、第十七世大川道通(だいせんどうつう)の塔所。本尊:大川道通。室町期の「木造大川道通像」を安置。開祖書写の「金剛般若波羅密教」を蔵する。ここまでが「円覚寺」の境内の建物。この日は、久しぶりに訪ねて、今まで訪ねたことがなかった塔頭も可能な限り訪ね、新緑と牡丹、シャガの花等を楽しみながら「円覚寺」の全体像を掴むことが出来たのであった。その先の「北鎌倉古民家ミュージアム」の板塀には「おひなさま展」のポスターが。「北鎌倉古民家ミュージアム」。 江戸時代の古民家の館内で四季の様々な企画展を開催してと。様々な種類のポスターが貼られていた。「つるし雛」がミュージアムの入口に。そして更に進むと線路のカーブの先に、10名弱の若者が立派なカメラを構えて電車の通過を待っていたのであった。私も暫く立ち止まり待っていたが来たのはいつものこの電車であったため。この場を立ち去ったのであった。新型車両を待っていたのであろうか?ここが「明月院」へ向かう「明月院通り」。「明月院」と刻まれた石碑。紫陽花のシーズン他に「明月院」👈リンク は何度か訪ねているのでこの日は訪ねなかった。以前に戴いた鎌倉三十三観音霊場第三十番 「福源山 明月院」の「聖観音菩薩」の御朱印です。併せて、「東慶寺」👈リンク も同様である。以前に戴いた鎌倉三十三観音霊場第三十ニ番 「松岡山 東慶寺」の「聖観音菩薩」の御朱印です。「浄智寺」👈リンク も同様である。以前戴いた鎌倉五山 第四位 「浄智寺」の御朱印です。以前戴いた鎌倉三十三観音霊場第三十一番 「金宝山 浄智寺」の「観世音菩薩」の御朱印です。以前戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場十二番 「金宝山 浄智寺」の「聖比丘地蔵」の御朱印です。鎌倉十三佛霊場第六番 「金宝山 浄智寺」の「弥勒菩薩」の御朱印です。県道21号線に出て進むと右手にあったのが「創業文政元年 友野風呂」店。創業約200年の老舗。店頭には、風呂桶や腰掛け、まな板、おひつなどが並んでいた。その前の左手にあったのが「去来庵」。ビーフシチューが人気の店であると。暫く進むと右手にあったのが「デル クロッカス(Del Crocus's)」。スペアリブと肉のビストロ 店であると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.30
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「八和田神社」を後にし、県道296号線沿いにある一の鳥居に向かって参道を逆に進む。そして次に「普賢寺」を訪ねた。「多宝山 止観院 普賢寺」は、慈覚大師により創建、慶長8年(1603)に亮光法印により中興された。さらにそれ以前に15世にわたり住職が名を連ね、比叡山延暦寺の直末(直轄)寺であり「歴史」と「格式」を併せ持つ寺院。「普賢寺」が位置する小川町奈良梨(ならなし)は、往時には「奈良梨宿」といわれ、川越・児玉往還にあった宿場町であった。当時鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であり、旧来より歴史的に重要な拠点でもあった。埼玉県比企郡小川町奈良梨830。寺号標「天台宗 多宝山 普賢寺」。境内の「六地蔵尊」。この六地蔵は六道(天人・人間・阿修羅・餓飢・畜生・地獄)をあわらした もので、 天人・・日光地蔵六地蔵(預天賀地蔵)=宝珠人間・・除蓋障地蔵(放光王地蔵)=数珠阿修羅・・持地地蔵(金剛幢地蔵)=幢畜生・・宝印地蔵(金剛悲地蔵)=香炉 餓鬼・・宝珠地蔵(金剛宝地蔵)=錫杖地獄・・檀陀地蔵(金剛願地蔵)=蓮華「比叡山開創千二百年記念」碑。「道心の中に衣食あり」。仏門に入り、悟りをもとめる決心があれば、おのずと、衣類と食事はそろいます と。「出世大黒天」「掲示板」には「一隅を照らす」と。「一隅を照らす」という言葉は、天台宗を開いた伝教大師最澄(でんきょうだいしさいちょう)(767~822)の言葉。「一隅を照らす運動」は発足 から50 周年と。「本堂」。近づいて。「内陣」。普賢寺本尊の普賢菩薩は、増益、延命の大きな徳を持つ仏様。「みんなのしあわせを願う佛さま普賢菩薩の原名に梵語でサマンタバハダラ、中国では「偏吉」とは「みんなのしあわせ」という意味です。困ったとき、普賢菩薩を念じたらどこでもどのような姿にでもなって救ってくれる佛さまと信仰されています。南無大行普賢菩薩と三回お称えください。合掌。」「五重石塔」。「慈母観世音菩薩」。「なむなむ」と。「本堂復興記念碑當山は多寶山止観院普賢寺と称して天台宗総本山比叡山延暦寺の直末なり。慈覚大師 ご開山との傅あれど縁起 年代共に詳しからず 慶長八年 亮光法印 これを中興し爾来 法華一乗の教えに基づき 法燈不断 普く人心の開導教化に努め来たれりしかるに明治五年三月 不慮の火災に遭い本堂その他の堂宇寶財悉く消失せりここに於いて 再建を志念すといえども 時に利なく 資糧 亦 乏しければ 明治十六年篤信者家屋を移築して 之をもって佛刹となす。 ありがたきかな ご本尊の威稜ご先祖の冥佑 昭和四年十月 寄進する壇徒ありて仮堂を造作昭和八年十二月本堂を再建す。當山 苦難の時期にあるも 僧俗共に寺門を護持し よく佛恩報謝のまことをつくす。世に常なるものなき焉 本堂 星霜を経てすでに朽ち 修繕することあたわず。これによって昭和末年檀信徒相い談じて 本堂の復興を初願 真実信心の實を現し堂宇を復興す 茲に諸大施主の名を刻して 後世に 其の徳業をとどむ。伽藍安穏 興隆佛法院内上下 諸人快楽」この像は?「境内植樹 歴代住職移廟 紀念碑」そして右には「阿弥陀三尊 板碑」。「阿弥陀三尊 板碑」。「板碑この阿弥陀三尊碑は今から約610年ほど前、北朝・明徳元年(139)に建立された石塔です。種字の下に造立年月日、梵字で天明真言が刻まれています。当山に現存する最古の板碑です。」正面に宝篋印塔。「當山歴代先徳供養塔」。中央に「當院道賢大居士」、「寛永七年」と刻まれた石碑。「奈良梨地区地籍調査事業完成紀念碑」。「奈良梨(ならなし)二区集落センター」。地蔵尊が2体。そして「児玉往還」を挟んで向かいにあった「萬福寺」を訪ねた。寺号標「時宗 寶林山 萬福寺」。埼玉県比企郡小川町奈良梨924。車を駐めた場所近くの境内の藤の花が満開であった。「身代わり地蔵尊」。ここにも「六地蔵尊」が。御堂に入れられた石仏像の名は・・・。近づいて。「山門」。「十三重塔」。「本堂」。扁額は「萬福寺」。時宗の宗門の「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」の垂れ幕が。「子育観音」。石庭園の石灯籠。「放生池」。「放生池石工事紀念碑」。「播種」碑。「當山歴代和尚墓地整備改装、並び池改装工事一式」の記念碑であろう。歴代上人の墓地であろうか。「萬福寺三十七世 権少僧正桂光院其阿上人忍乗和尚」墓石。石庭の上から本堂を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.29
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昨日の我が家からの夕景です。我が部屋から見える民家の壁がピンク色に染まっていることに気が付きました。時間は18:57。そして、カメラを持ち我が家の裏に向かいました。西の空が真っ赤に染まっていました。既に太陽は沈んでいましたが。富士山と日大の高層校舎。富士山をズームして。真っ赤な西の空が刻々と色合いを変えていったのです。電線が無ければと我儘にも。そして再び富士山の勇姿を。
2021.05.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「庫裡」の玄関から外に出ると正面にあったのが「唐門(方丈正門(勅使門))」。大方丈の正門にあたる門。こちらが裏側。唐門としては小振りではあるが、寺格に相応しく鬼板、拝飾や木口飾の金具には菊の御紋があしらわれ、紅梁下や門扉の応龍の彫り物も見事であった。「唐門」の左側の柱の中間部の飾りにも「菊の御紋」が。唐門(勅使門)の龍の彫刻(方丈玄関側)。唐門(勅使門)の扉の彫刻が見事。この写真は以前に撮った写真であるが。唐門(勅使門)の扉には飛龍の彫刻(方丈側)。唐門(勅使門)の扉には飛龍の彫刻(百観音霊場側)。そして表に廻って。唐門(勅使門)に舞う2羽の鳥の彫刻。その上に浪の彫刻。唐破風屋根の懸魚には菊の彫刻。そしてその上の唐破風拝飾りや木口飾りにも「菊の御紋」が。そして左手には「円覚寺派宗務本所」そして南側の参道を下っていく。この後に訪ねた「国宝洪鐘(おおがね)・弁天堂」の案内板があった。前方右手に「佛殿」が見えて来た。手前の緑の場所は「法堂跡」。七堂伽藍の一つ「法堂跡」を帰路には反対側から見る。 「直指堂」と呼ばれた法堂は、元享三年(1323年)に建立されたが、応安七年(1374年)の大火で焼亡した後は再建されていないのだと。「佛殿」の南側に吊るされている梵鐘。この鐘は、仏殿で行われる諸行事の開始を告げるため、鳴らされるのだと。「国宝洪鐘」の案内に従い進む。左手に「蔵六庵(ぞうろくあん)」の案内板があったので、訪ねて見ることに。「蔵六庵」は、第二世大休正念(仏源禅師)の塔所。本尊:釈迦如来。正念が壽福寺に開創したのを、正念の示寂(僧の死)後、門弟によって円覚寺境内に移された。『大休正念法語』は国重要文化財。大休正念は宋の禅僧。八代執権北条時宗に招かれ、建長寺、壽福寺、円覚寺の住職を勤め、浄智寺や大慶寺を開創している。扁額「蔵六庵」。石段の横には竹林があった。そして南側参道の左側にあった「七堂伽藍 浴場跡」案内板。この辺りが七堂伽藍の一つ「浴場跡」で、現在は駐車場になっていた。前方の石段の上に石鳥居が見えて来た。石鳥居の左側に「洪鐘道」と刻まれた石碑が。「洪鐘(おおがね) 国宝一三〇一年「正安三年)に鋳造された国宝の洪鐘です。北條時宗公の子、貞時公が国家安泰を祈願して鐘の鋳造を鋳物師に命じましたが、鋳造がうまくゆかず、江ノ島の弁天さまに七日間参拝したところ、ある夜の夢の中で円覚寺の白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、その通りにしてみると池の底より龍頭形の金銅の塊を発見、それを鋳造してこの洪鐘を造ったといわれています。この霊験に感激された貞時公は江ノ島の弁天さまを洪鐘の神体として「洪鐘大舟才功徳尊天」と名付けて弁天堂を建立しました。」更に石段を上って行った。「弁天堂」碑。石段の上に「弁天堂」の姿が見えて来た。「弁天堂」。「弁天堂」正面。龍の彫刻。扁額「大弁財天」。「円覚寺 弁天堂執権北条貞時(時宗の子)か7日7夜江の島弁財天に参籠し天下泰平、万民和楽を祈り霊夢を感して大鐘を陦造(正安3年、1301年)し、当山に奉納した。あわせて弁天堂を建立し、弁才天を祀り当山の鎮守とした。以来霊験あらたかにして祈願すれは必す惑応を蒙むといわれて来た。又、この境地は眺望絶住にして遠く富士山をも望むことが出来、多くの人々より称賛されてきた。因に当弁才天の祭礼は11月28日である。又、60年毎の己の年に大祭を行い、江の島弁才天と当山との間て盛大にとり行なわれる。」内陣。上部に龍の透かし彫りの入った欄間、左右に随身を配した内陣の中央には、なんとなく仏壇風の御神座が置かれていた。石造蛇形の御神体は御簾に御隠れであったが、御神座には前立ての位牌があり「洪鐘大弁才功徳尊天 」と書かれていた。いかにも寺院の鎮守らしい社殿内部の造り。そして両側の壁面には絵画が。何かの行列の儀式が描かれていたが・・・。「弁天堂」と向かい合う位置に「洪鐘(梵鐘)」が。だんだんとズームして。1301年(正安3年)の刻銘があり、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれています。大旦那は九代執権北条貞時で、鋳物師は物部国光。鎌倉で最大の梵鐘で、鎌倉三名鐘の一つで建長寺の梵鐘とともに国宝に指定されている。関東で最も大きい洪鐘、国宝。「洪鐘」と書いて「おおがね」と読むのだと。円覚寺の開基である北条時宗公の子である貞時公により、正安3年(1301)国家安泰を祈願して寄進されたもの。総高259.4cm、口径142cmもの大作。「洪鐘(梵鐘)正安3年( 1301年)に北条貞時が国家安泰を祈って鋳造、寄進した時の住持は西潤子曇、鎌倉第一の大鐘で国宝に指定されている。物部国光の作て、形が雄大てありながら細部にまて緻密な神経がゆさわたり技法も洗練されている。鎌倉時代後期を代表する梵鐘である。」「表忠碑(ひょうちゅうひ)」。日露戦争の戦病没者を表忠する碑。表忠とは忠義をあらわすという意味。永冶宜雄さんの発願によって、明治39年2月、円覚寺の弁天堂脇に建立された。篆額は大教正宮路宗海氏、碑には船茂孝阿による慰霊のための歌が刻まれている。「表忠碑 加まくらや む可しな賀良乃 鐘の音 耳寄りつとふら志 も能ヽ婦能靈 孝阿」歌の内容であるが、「円覚寺の鐘は、北条貞時が父時宗と元寇の殉難者の冥福を祈って鋳造したものだという、今も昔と同じ音色を響かせる鐘の音には、日露戦争の戦病没者の魂も集まって来るに違いない」と。碑高140cm、幅90cm、厚さ20㎝、台石(3段)83cm「休縁禅定門 光清禅定尼」の墓碑であろうか。禅定門、禅定尼は仏門に入って剃髪した者を指し、禅定門士、禅定門尼の略であると。「弁天堂」横から「北鎌倉女子学園」の校舎、体育館が見えた。「東慶寺」の境内を「弁天堂」横から。「洪鐘弁天茶屋」はコロナ禍の影響で休業していた。「洪鐘」を後にして石段を下る。途中にあった石碑の上部は破損していた。「洪鐘道」と刻まれた道標。苔生した道が南側の「参道」に繋がっていた。石段の先に藁葺の山門が見えた。ここに塔頭「帰源院(きげんいん)」の「山門」があった。風情ある藁葺きの「山門」。漱石が書いた小説『門』が、この「帰源院」の門であることはよく知られている。藁葺の厚さに驚いたのであった。「山門」には「鎌倉 漱石の会」とあった。前からあったのだろうが、今回初めて気がついた。28歳の漱石は2週間ほど円覚寺で座禅を試みたが、神経衰弱は直らず、もちろん悟りも出来ず、山門にたたずんだまま帰って行ったと。ある意味、漱石にとって円覚寺は挫折の場所であったのか。「山門」の先の境内の参道。アーチ型の「樹門」が前方に。「山門」から横に廻って「帰源院」の正面に。帰源院は、第三十八世傑翁是英(けつおうぜえい)の塔所。本尊は傑翁是英。中興開山は奇文禅才(きもんぜんざい)、中興開基は北条氏康。是英は、大慶寺や浄智寺にも住した。1894年(明治27年)末から翌年にかけて止宿した作家夏目漱石は、釈宗演に参禅し、その体験は小説『門』に描かれた(参考:円覚寺の山門)。境内には、夏目漱石の句碑「仏性は白き桔梗にこそあらめ」が建てられているのだと。作家島崎藤村もここに出入りし、そのときの様子を『春』に描いた。開祖木像を安置していると。「山門」を見上げて。そしてこちらの円覚寺の「三門」横に戻る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.29
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次に訪ねたのが「曹洞宗 大貴山 普済寺(ふさいじ)」。小川町伊勢根236−1新装なった「本堂」。扁額「大貴山 普済寺」「普済寺本堂再建記念碑普済寺は、山号を大貴山と号し、永平寺を本山とする曹洞宗に属する寺院で、嵐山町遠山寺の末寺である。当寺の由緒は詳らかではないが、明治十九年武蔵国比企郡伊勢根邨寺院明細帳には、開創は天正年間(1573~92)、本尊は十一面観音、開山は笑巖祖□禅師、本堂は竪六間半、幅六間、庫裏は竪四間、幅三間、檀家は十二軒と記されている。大正十四年ニ月十六日の火災により本堂・庫裏が焼失し、火災後檀信徒の寄進により再建された。以来八十年余、檀信徒により護持されてきたが、近年老朽化が進み、平成十七年頃より檀信徒間で再建に向けての論議が起こり、同十九年度より建設資金の積み立てが開始された。平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災により、本堂の随所が破損したので、檀信徒から早急に再建の気運が高まった。同二十七日に檀信徒全体会が開催され、高倉住職から寺所有の山林売却による資金調達案の提案を受け、再建が決定した。同日、現在の檀信徒二十二名の中から建設委員五名が選出され、本堂建設委員会が発足した。以来、何回もの建設委員会や檀信徒全体会を開催し、本堂設計・建設業者選定、本尊十一面観音の再興、出山の釈迦修復等を決定した。その間、檀信徒の皆様から多額の寄進や本堂解体作業等の出役を頂いた。ここにようやく、建築関係の皆様方の努力により、立派な本堂の落慶を迎えることができた。あらためて、檀信徒をはじめ多くの関係者からのご支援、ご協力に深く感謝するとともに、山門興隆、檀信徒、篤信寄進者の家運隆昌を祈念し、再建を記念してこの日を建立し後世に伝える。」「六地蔵尊」。境内の石碑、石仏群。石仏群。「大乗妙典弐千部供養塔」衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した仏教経典である「大乗妙典」をニ千回、独誦したときの記念に建てた石碑。「葷酒禁梵刹」と刻まれた石碑。酒の匂いをさせて寺(梵刹)に入るべからず。石仏と本堂。「普済寺」の前の広場には「ダイコンバナ」が群生。「普済寺」の前の山林の中には「鎌倉街道上道跡」らしき姿が残っていたが案内板等は見つからなかった。そして車に戻り進むと左手の案内板に気が付き慌てて車を止めたのであった。「鎌倉街道上道(かみつみち)跡大字伊勢根 普済寺東鎌倉街道という呼び名は江戸時代に付けられたものですが、古くからの道として脇道も含め各地に伝承地があります。そうした中てここ普済寺東地点の堀割状の道路遺構は、昭和57年(1982)に試掘調査が行われその構造が確認された貴重な遺跡です。調査の結果、側溝が検出され、何度かの堀さらいが行われていました。堆積状況から5回ほど改修されており、時期によって道路幅も一定ではなかったことがわかりました。最近では、近隣の寄居町や毛呂山町でも発掘調査により道路遺構が検出されており、考古学的に少しずつ実態が明らかになってきています。」「鎌倉街道上道(かみつみち)跡」を見る。左手に続く凹みが「鎌倉街道上道跡」なのであろう。土地改良整備がされていたが、前方の農道も「鎌倉街道上道(かみつみち)」だったところ。奥の林の手前に後谷津川が流れていて、橋が架かっていないのでそのまま辿ることはできなかった。左折して進む。そして次に訪ねたのが「八和田神社(やわたじんじゃ)」。二の鳥居から境内に入る。一の鳥居から二の鳥居や拝殿、社叢までに長い参道があった。ちなみに一の鳥居は二つの県道が交わる『奈良梨』交差点沿いにあったのだ。埼玉県比企郡小川町奈良梨929。「神楽殿」が左手に。正面に「拝殿」。八和田(やわた)とは、かつてのこの付近の村名だった比企郡八和田村に由来する。元々諏訪神社といい、明治23年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村を作ったので、この諏訪神社もその村社として、幾つかの神社を合祀し、村社として、現在の社名へと改称されたという。「社務所」。「八和田神社の大スギ 諏訪神社の鰐口 大字奈良梨(ならなし)大スギは、目通り五・六七メートル、樹高三〇メートルを測り、形状から「逆さスギ」とも呼ばれています。天正十八年(一五九〇)に奈良梨に人った諏訪頼水が、所領を定める際に信州諏訪(長野県)から投げたスギがこの地に刺さったという伝説があります〔昭和三十八年三月十ニ日町指定〕に奉納されたもので、弘治三年(一五五七)に鉢形錦人(寄居町西ノ人)の鰐ロは、直径三ニ・五センチメートル、厚さ一ニ・〇センチメートル。陰刻された銘文によると、延徳三年(一四九一)に高坂郷(東松山市)常安寺に奉納されたもので、弘治三年(一五五七)に鉢形錦人(寄居町西ノ入)の新井佐渡守によって諏訪神社に再寄進されました。裏面には『薬師経』を出典とする(詩句)が刻まれています。諏訪神社は明治四十年(一九〇七)に八和田神社に改称されました。〔昭和五十三年三月十七日町指定〕(表)武州入西郡高坂郷医王山常安禅寺 住持比丘大成叟永順置之 延徳三辛亥年四月初八日(裏)我此名号 一経其耳 衆病悉除 身心安楽(内圏)弘治三年丁巳七月廿六日 敬白(側面)武州男衾郡鉢形錦入新井佐上守 奉諏訪大明神寄進施主者」「大スギ」。上部が根っこの如き形なので「逆さスギ」と。「昔、天正18年(1590)に信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が、東国に下る折、「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さり、そのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。」とネットより。境内の「住吉社」。「この神社は水の災いから人びとを守る神様が祀られています。」「招魂社」。「忠魂碑」。「日露戦役紀念碑」。「戦役記念碑」。「戦没者慰霊碑」。「安らかにお眠りください」と。狛犬(阿形像)。奉納 大正15年09月 と。狛犬(吽形像)。「拝殿」。拝殿の彫り物が見事。ここにあった八和田神社の「鰐ロ」は、町指定文化財(工芸品)として小川町の指定を受けていたが現在のものは別の大きな鈴に変わっていたが。扁額「八和田神社」。「本殿」を見る。「春日社」「この神社は村全体を守る神様として奈良の舂日大社と同じ祭神が祀られています。」「合祀記念」碑。「参宮紀念碑」。「菅原社」「この神社は学業の神様で成績の向上、試験の合格に大きなカ添えをいたします。」「神楽殿」横の石碑群。こちらも「参宮記念碑」。「祈国土平康願豊穣肥鮮 希武運長久望家内安全」国土平康(へいこう)を祈(いの)り豊穣(ほうじょう)肥鮮(ひせん)を願ひ、武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)を希(こいねが)ひ家内(かない)安全を望む。ここにも「参宮記念碑」。「参宮記念 奉献 弊殿透障子」「風八和田句会二十周年記念句碑」様々な句が。「聖徳皇太子」碑(左)と「御大典記念聖徳碑移転」碑(右)。「奈良梨陣屋跡」案内板。「奈良梨陣屋跡(ならなしじんやあと)八和川神社東測に残る堀と上塁の一部は、戦国時代から江戸時代にかけて築かれたものと思われます。当時、鎌倉街道上道の宿駅として栄えた奈良梨において、現在の八和田神社の境内地になんらかの施設がおかれていた可能性があります。平成8年に実施した試掘調査の結果、この堀と土塁は平行してほぼ一直線に走っていることがわかりました。堀の断面形は「箱薬研」と呼ばれる中世の城や館を取り巻く溝に非常によく似ていました。土塁には、幾層にも積み上げた状況が確認されました。あいにく時代を決定する遺物は出土しませんでしたが、以上のことから、周辺文化財・史跡等の総合的な見地で、広義の陣屋跡として指定されたものです。」そして境内から二の鳥居を振り返る。そしてその先には長い参道が確認できた。「二の鳥居」の手前の左側には「厳島社」とその周りには水堀のような池があったが、農業用の溜池だろうか。「厳島社」。「巌島社に祀られている弁財天は女人を守り芸能の向上を助ける神様です。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク円覚寺の境内の最奥にあった「黄梅院(おうばいいん)」を後にして参道を下る。「佛日庵」の「山門」の手前の右手にあった「烟足軒(えんそくけん)」。川端康成の『千羽鶴』や立原正秋の『やぶつばき』などの小説にも登場する茶室であると。もともとは北条氏の滅亡後、庵を再興した鶴穏周音(かくいんしゅうおん)が建てたもの。円覚寺の創建者・北条時宗の命日にあたる毎月4日には、「四日会」と呼ばれる茶会が開かれると。 「烟足軒」前に植えられた枝垂れ桜は、大佛次郎の奥方から贈られたもので、季節には清楚な彩りを添えてくれるのだと。扁額は「烟足」。「煙足」とはどのような意味か?再びシャガの群生を見る。再び右手に「佛日庵」の「山門」と「掲示板」。「佛日庵」では落語会が開かれているようであった。新緑のモミジの葉の陰が白壁に映り込んで美しかった。そして左手の小高い場所にあった「如意庵(にょいあん)」を訪ねた。寺号標石「如意庵」。階段を上りながら、「佛日庵」の「本堂」横を振り返る。そして正面に「如意庵」の「山門」。「山門」前に到着したが、ここも境内は一般公開されていなかった。扁額は「如意」。正面に「本堂」。如意庵は、第三十六世無礙妙謙(むげみょうけん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。開基は上杉憲顕で1370年(応安3年)の創建。伊豆の国市にある国清寺がその前身であるといわれている。国清寺は律宗寺院であったものを、憲顕が妙謙を開山に迎え禅宗の寺としたと考えられている。妙謙は、1369年(応安2年)に示寂。翌年、弟子たちによって庵が開かれた。開祖木像の頭部が残されている。山崎の昌清院は如意庵の末寺。ズームして。「本堂」の左側。そして参道に戻り下っていくと「妙香池」の石の上で大きな黒い鳥が羽を広げていた。羽を乾かしているのだろうか。羽を広げた形から「カワウ(河鵜)」であろう。やや不気味な姿なのであった。そして左手に「心字池」のある美しい「方丈」の「枯山水庭園」を再び見る。「方丈」につながって見えているのは「書院」。庭の苔の緑と茶の「うねり」・アンジュレーションも美しかった。「参道」を先に進む。左手に「百観音霊場」の入口。「百観音霊場」方丈の石仏「百観音」は、江戸時代に拙叟尊者(せっそうそんじゃ)が境域に岩窟をうがって、百体の観音石像を祀った事がそのはじまり。1888年(明治21年)に洪川禅師が西国三十三体の観音像を新たに刻み、補陀落迦観自在窟と名付けて境内の一部に安置した。1983年(昭和58年)、方丈前に移されたのだと。石碑・石仏の前には飛び石が置かれていて、中をぐるりと巡ることができるのであった。ゆっくり見るには多過ぎるのであった。これだけ見事に並んでいると、壮快そのもの、圧倒されるのであった。石仏も様々な姿で。前方には鬼瓦も置かれ北条家の家紋・「三つ鱗」👈リンク が確認できたのであった。こちらが「百観音霊場」の正式な入口か。「百観音霊場百観音霊場の由来は、養老二年(718)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、その後に出来た秩父三十四観音霊場の総称とされている。円覚寺方丈前の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に、百観音巡礼の札所が開設されました。昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印を戴いていましたが、それが現在のご納経帳または御朱印帳に変わったものです。行く先々の霊場で観音様の由来を知り、観音さまのご利益に預かり、観音さまを念じながらお参りすると、心は清浄になり安心を得られることと思います。柏槇(ビャクシン)市指定天然記念物向いの大木は円覚寺開山、無学祖元祥師により植えられたとの言い伝えから、七百年以上の樹齢だと言われております。幹の中心に木医による治療跡が見ることができます。開山様との御縁で平成ニ十四年に京都、南禅寺に若木が移植されました。」樹齢700年以上の「柏槇」。「ビャクシン治療」碑。上の写真のピンクの部分か。そして「庫裡」の玄関。こちらが「方丈」正面。「方丈本来は住職が居住する所を方丈といいまが、現在は本山行事の中心的な場所となっています。正面向かって右手の奥に「大書院」「小書院」が配置され、右手前の部分は褝宗寺院の台所でる「典座」になっております。今の方丈は震災後昭和四年に新築され、平成十年に改修工事が行われました。日常は檀信徒の法要、日曜説教、坐褝会、本山各種研修会、宝物風人、更には講師を招いての夏期講座やチャリティコンサートなどに使用されています。」「方丈」の中に上がることもできるとのことで「庫裡」玄関から内部へ。まずは「小書院」、「大書院」へ。「仏殿」にもあった、金澤翔子さんの「佛心」の書。「佛心」とは、慈悲心。親が子をおもいやるこころ。亡きお父さまに見守られ、母泰子さまのあたたかい思いやりを一杯に受けて育った翔子さん。「佛心」は翔子さん自身でしょう。」と円覚寺管長の横田 南嶺氏の言葉が。「方丈」の仏間には、仏像も拝観できた。「釈迦牟尼坐像」。「釈迦牟尼坐像」をズームして。この日は五百羅漢の描かれた大きな掛け軸が展示されていた。「円覚寺の五百羅漢図中国天台山の五百羅漢信仰羅漢とは、釈尊が涅槃に入った際、この世に留まり正法を護持する役を担った仏教の聖者です。五百羅漢の信仰は、中国の寧波(浙江省)から内陸に入った天台山の石橋が発祥といわれます。瀑布にかかる大きな石橋がある方広寺の周辺には、生身の羅漢が現れるといわれ信仰されました。日本から入宋した僧たちは天台山を訪れ、石橋の生身羅漢まに茶を供えて礼拝しました。五百羅漢図は、この天台山石橋の生身羅漢をテーマに描かれた絵画です。羅漢たちは、瀧を降ろして雨を降らせたり、猛獣である虎や獅子をてなずけ、空を飛び、海を渡ります。画面には、羅漢の不思議な神通力のほか、法会や喫茶、入浴など、僧院で行われる集団生活がさまざまな仏教説話を取り込みながら描かれています。円覚寺と羅漢図鎌倉時代(13世紀)、鎌倉幕府の執権・北条時頼が中国から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)禅師を招いて建長寺を開き、北条時宗が無学祖元禅師(仏光国師)を迎えて円覚寺を厩建すると、鎌倉に本格的な宋朝禅が導入されます。そして同時に、禅宗寺院は大陸文化の受容の場となりました。それを物語るように、円覚寺の什物記録「仏日庵公物目録」(南北朝時代)には、墨跡、水墨画、青磁など多くの大陸の文物が記されています。そして、十六羅漢図、十八羅漢図、五百羅漢図など各種の羅漢図が含まれています。円覚寺開山の無学祖元禅師には、羅漢にまつわる工ビソードがあります。北条時宗が外国から羅漢がやって来る夢を見ました。すると、ほどなく無学祖元禅師が来朝したという知らせが大宰府から届きます。夢占いをしてみると、羅漢が無学祖元禅師に姿を変えて現れたのだというのです。このような伝承は、無学祖元禅師が五百羅漢の聖地・天台山がある浙江地方の出身であるために生まれたのでしよう。円覚寺では、毎年十月に羅漢・舎利講式が行われます。方丈では、根本霊宝である仏牙舎利(釈迦の歯)を奉安し、周囲に十六羅漢図、五百羅漢図が掛けられます(写真)。五百羅漢図には釈尊の正法を護持する羅漢の役割を示すために、釈尊の象徴としての仏舎利や舎利塔が多く描かれています。円覚寺の法会でも仏牙舎利を護持する役割を羅漢が担うため、羅漢講式と舎利講式が同日に一体の儀礼として修されているのでしょう。円覚寺の五百羅漢図複製画の原本である円覚寺の五百羅漢図は、京都・大徳寺に伝来する五百羅漢図(一部、ボストン美術館、フリア美術館所蔵・南宋時代)に次いで古い貴重な作例です。現在は、伝張思恭筆(でんちょうしきょうひつ 中国・元時代)三十三幅、伝明兆筆(室町時代)十六幅、狩野養川筆(かのうようせんひつ 江戸時代)一幅の全五十幅で構成されています。各時代を通して、修理を重ね、欠幅が補われてきたことは、五百羅漢図が円覚寺の重要な宝物として大切に守られてきたことを伝えています。て、修理を重ね、欠幅が補われてきたことは、五百羅漢図が円覚寺の重要な宝物として大切に守られてきたことを伝えています。中世以来、円覚寺の五百羅漢図は名高く、幕末に活躍した絵師・狩野一信(かのうかずのぶ)は、百幅仕立ての五百羅漢図(東京・増上寺所蔵)の制作に際して、古画を学ぶために本図を拝観しています。」「大太鼓」。「方丈」内部から美しい「庭園」の姿を楽しむ。「心字池」が配されている。心という字をかたどっていることからこのように呼ばれ、禅宗様式の庭となっている。「心字池」の先に参道、「妙香池(みょうこうち)」が見えた。そして観光客の殆どいない中で「羅漢図」を大いに楽しんだのであった。五百羅漢図は、羅漢の神通力や仏教史上の逸話を基としたもの、喫茶や食事など羅漢の日常生活などが描かれているのだと。1幅に10人の羅漢さん×50幅で500羅漢が描かれていると。「亡魂救済」。「亡魂救済曲彔(きょくろく)に坐して前机の儀文を読誦する羅漢を中心に、亡魂供養の法会が行われている。木陰には亡者たちが姿を現す、戦いの神である阿修羅や鬼、甲冑姿の武者の姿もみえるため、戦没者を供養しているらしい。梁(りょう)の武帝が宝誌和尚のすすめにより始めたという水陸会との関わりが注目される主題である。」「月からの飛来」。「月からの飛来光背に火炎を帯び、手のひらに目がある羅漢が空中に浮遊する奇喘を描いている。青い衣を着た胡王は驚き、合掌して羅漢を礼拝するが、羅達達は平然として特に関心を示していない。虚空には月が描かれ、涅槃図に描かれる釈尊の生母である摩耶夫人を思わせる高貴な女性と侍女の一行が飛来する様子が描かれている。」「竹林致琛」「竹林致琛竹に羅漢が集まり岩に腰掛けている。背景には水面が広がり、画面に奥行きを与えている。右下には珊瑚などの宝物を載せた大きな盆を捧げ特つ西域風の胡人が描かれている。その足下には二本の象牙もみえる。竹林には、数羽の雀が飛んでおり、「竹に雀」という伝統的なモチーフも取り込まれている。」「双龍」「双龍羅漢たちが海辺の岩場に腰掛けて上空を見上げている。その視線の先では、黒雲がたちこめる虚空で二匹の龍の戦いが繰り広げられている。一尊の羅漢が指先から龍に向けて光線を放っている。落ち着いた様子で龍の戦いを見物する羅漢とは対照的に、右下に龍の出現に驚いて逃げ出す従者の姿が描かれている。」「仏涅槃図」。「仏涅槃図(ぶつねはんず)釈尊の臨終を描いた仏画仏涅槃とは、仏教の祖である釈迦の入滅を意味します。「大般涅槃経」などにもとづいて絵画化された図を涅槃図といい、釈迦の命日とされる二月十五日に行われる涅槃会の本尊として用いられました。釈迦はクシナガラ(インド)の跋提河のほとりで入滅しました。釈迦の死を悲しんで半分枯れてしまった沙羅双樹の下の宝床(べッド)に頭を北、右腕を枕にして横たわる釈迦の周囲には、釈迦の臨終に集まった会衆が描かれます。右上方からは釈迦の母である摩耶夫人が仞利天から雲に乗り駆けつける様子も描かれています。よくみてみると、会衆の悲しみの表現はさまざまです。釈迦に近い場所で静かに見守る菩薩(図1)、感情を露わにして悲しむ釈迦の弟子たち(図2 )、金剛力士(図3 )や象は全身で激しく嘆きや悲しみを表しています。この悲しみの表現の違いは、釈迦の入滅をどう捉えているかによります。つまり、菩薩は「人間としての死ではあるが、涅槃を経て永遠の存在となる」という涅槃の真の意味を理解しているため、他の会衆に比べて穏やかな表情に描かれているのです。涅槃図には動物がたくさん描かれています。鳳凰や迦陵噸師など想像上の生物のほか、鹿、馬、猿、ヘビ、蝶など多種多様な生物が描かれています。なかには、甲羅がある犀(図4 )など、わたしたちが知っている姿とは異なる不思議な生物もいます。ところで、涅槃図には猫を描かないと聞いたことがありませんか。その理由として、病気の釈迦のために薬を届けようとしたネズミを猫が食べてしまったから、など諸説あるようです。しかし、これは近世になって寺院の涅槃会に集う人々の興味を引く説話や俗説を盛り込んで絵解きされたためだと考えられます。実際には、中世の涅槃図の多くの作例に猫が描かれています。円覚寺の涅槃図にも描かれていますので探してみてください。(ネズミも近くにいます)。十大弟子ではなく十六羅漢が描かれている一般的な涅槃図では十大弟子といわれる釈迦の弟子たちが十人描かれます。ところが、円覚寺の涅槃図には通常より多い、十六人もの弟子が描かれています。おそらく、これは十六羅漢として描かれているからだと考えられます。十大弟子と羅漢はどちらも釈迦の弟子ですが、典拠となる経典が異るために別の存在として理解されて信仰されました。円覚寺では、三門(山門)楼上に十六羅漢が安置され、中世の五百羅漢図や十六羅漢図が伝わるように、羅漢に対する特別な信仰がありました。これは、円覚寺の根本霊宝として国宝・舎利殿に安置される仏牙舎利を守護する存在として、そして釈迦が涅槃に入って以後、この世に留まって釈迦の正しい教えを護り伝える羅漢の存在が重視されてきたからでしよう。このような円覚寺の信仰背景が、この涅槃図の画中に通例の十大弟子ではなく、あえて十六羅漢を描かせたのかもしれません。釈迦が人滅したのは二月十五日の満月の夜とされます。円覚寺では毎年仏殿で涅槃会(図5 )が行われています。現在は、江戸時代に制作された大きな涅槃図が掛けられています。そして、本図もまた、かって円覚寺の涅槃会の本尊であったと考えられます。」「方丈」についてのビデオによる案内も行われていた。そして「庫裡」の入口まで戻る。「座禅」する家族?の木造彫刻が並んでいた。「座禅姿勢を正し、ゆっくり 深く 呼吸することで 気は長くこころも穏やかに・・・・・ん、あくび?足も痛いねでも、努力することが大事だね、なんでも・・・・・自分のおろかさ いたらなさ つたなさに気付くそして はじめて 人の弱さ 痛みに気が付き慈悲の心に通じていく寄贈 創作人形作家 安部朱美先生」「写経」も受け付けていた。京都の相国寺で「若冲と近世絵画」展が行われると。東京での開催は?と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.28
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キャンプ場「かわせみ川原」を後にして赤浜小川線を走り本田小川線バイパスに入り次の目的地の「高見城跡」に向かって東へと進む。左側の四津山南麓の桜並木の先の四ツ山城から連なる丘陵部斜面にはメガソーラー発電所が見えた。1本道を間違えたが何とか「高見城跡」への入口に到着した。「高見城」は青山城主・青木氏久の家臣、石井政綱によって築かれた城だと伝わっている。その後は山内上杉氏方の鉢形城の支城として機能していたとみられ、扇谷上杉氏と山内上杉氏が戦った二度にわたる「高見ヶ原合戦」では、山内上杉方の背後を守る役割を果たしたと考えられている。現在、山頂の本丸跡には「四津山神社」が建てられているのであった。駐車場に車を駐め、散策開始。これが「四津山神社」の例祭用の大幟を上げる支柱。埼玉県比企郡小川町高見1125。「高見城縄張り図」👈リンク。 【http://hanatanbou2.web.fc2.com/ogawa_takami_zyo.htm】より「史跡 高見城址」碑。石碑裏面には「高見城は鎌倉時代治承四年石井九郎左衛門政綱により四ツ山に築城されたという その後文明??年増田四郎重富が再築城したものだと傳えられる 昭和三十七年十月十七日」と刻まれていた。石鳥居に向かって坂道を上って行くと左手に「石碑」とその先に「石鳥居」。「高見城」は比企丘陵最北部の丘陵部・四津山(標高197m、比高100m)に築かれた山城。山頂部全体を城郭としている。北から三ノ郭・ニノ郭・本丸が並ぶ。本丸は四津山神社が建っていた。築城は1180年頃、その後数々の居城となって、1590年の鉢形城と松山城落城まで、眼下を通過する鎌倉街道と宿を抑える役割を担っていたと。山頂部が4つに括れていることから四津山と呼ばれていたので「四ツ山」、元々は高見城と言っていたと。頂上の標高197mからは、比企丘陵や秩父山系、日光連山を望む眺望が。このあたりは城跡が多く要衝の地だったのであった。「邨社 四津山神社」碑。「四津山神社再建紀念碑秀峰四ツ山山頂に鎮座する四津山神社神社は、火遇突智命を始め十七神を祭神とし、御神体は勝軍地蔵なり。古来より火防の神としてその信仰厚く信者は関八州に及ぶ。 四ツ山はかつて鎌倉街道上道を押さうる軍事上の要所にして、戦国の世には城築かれ、長享二年(1488)の高見原合戦を始め数度にわたり戦場となる。天正十八年(1590)豊臣秀吉関東平定の際近隣諸城とともに、城としての役割を終え徳川家康の関東入国によりて泰平の世となる。降って宝暦九年(1759)山麓の古刹真言宗高見山明王寺第七世住職権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られし寺の氏神愛宕神社を三月二十四日山頂に遷座す。以来重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて登頂し神事を執行せられたといえり。 明治の世となりて、三十九年(1906)神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する勅令により、翌四十年四月三十日山麓高見の村社邊取神社及び能増の村社八幡神社を始め小社十一社を合祀し、山容地名に因み四津山神社と改称す。時に氏子数高見六十五戸・能増西地区十九戸なり。翌四十一年十一月神殿竣工以来益々氏子信者の崇敬の念厚く、事あるごとに神前に額づき、苦楽を分かちあいつつ、由緒ある郷土の歴史の中に多くの人材を育み来たれり。合祀以来大正八年(1919)神楽殿の竣工、同十四年峻険なりし参道を整然たる磴道に整備。昭和二十四年(1949)石鳥居の竣工。同五十八年参道の舗装等、氏子先人は一致協力して神域の保全に努め来たれり。しかるに、神殿は合祀以来九十年にも及ぶ星霜を経て、近年特に老朽化著しく、氏子一同は神霊の安らけきを願い、平成四年(1994)元旦祭に神殿改築を発願。同年五月九日氏子(百三名)総常会において再建を決議、建設委員会を設立せり。 以来五年広く信者に奉賛を願いつつ、建立に関する討議を重ね、平成八年四月二十八日宮司より御神々の遷座の儀を執り行う後県重要遺跡たる城址の発掘調査を経、十一月三十日初冬の紺碧の天空に三本の幟を立てめでたく上棟祭。翌九年(1997)三月三十日山麓に在りし神々の神霊を宮司祭主のもと関係各位列席し、荘厳の内にも盛大に遷御の儀を挙行す。氏子の慶事ここに極まれり。 これ偏に神々の御神徳と三百数十名にも及ぶ奉賛者及び関係各位氏子一同の努力の賜なり。この崇神の念に心より敬意と感謝を表すると共に奉賛者名簿を神前に献じ、神々に幾久しき御加護を願い、爰に御芳名を刻し其の徳行を後世に伝えんとす。 維持平成九丁丑年十一月吉日」「神楽殿記念」碑。写真はないが、村の方々が打ち合わせしていた、参道脇の集会場の如き建物が「神楽殿」だったのであろう。「四津山神社碑正四位勲二等男爵澁澤榮一題額明治四十年四月三十日武蔵國比企郡八和田邨大字高見六十五戸大字能増西組十九戸胥謀合祀高見邨社邊取神社無格社阿夫利神社同疱瘡神社同尺司社同六処社同浅間神社同天神社同八雲神社同熊野神社能増邨社八幡神社無格社菅原神社之十一社於高見四津山々頂無格社愛宕神社為兩字之鎮因地名改稱四津山神社葢奉明治三十九年勅令二百二十號之旨以表敬神之意也按口碑此山増田四郎重富之居趾云然其詳今不得而可考愛宕神社之創始亦然而山勢嵯峨高拔群山遠望之則峯頭四方所以有四津山之稱也明治四十一年改修神殿至十一月竣工仍爰勒其顛末於石以傳不朽云明治四十二年四月」「四津山神社碑」の文字は「澁澤榮一」によるものと。「四津山神社」の一の石鳥居。参道を戻りかけたが途中出会った散歩中の地元の女性に訪ねると、山頂に「四津山神社」の社殿があるとのことで、山頂を再び目指すことに。「昭和二十四年十月十七日」と刻まれていた。「四津山神社参道舗装記念」碑。前方に石灯籠。そして右側に「磴道碑」と刻まれた石碑が。「磴道」とは「石段」のある道のこと。なるほど石段の始まる場所に立っていた。『四津山神社磴道記 埼玉縣知事従四位勲三等齋藤守圀題額明治四十年四月移邨社邊取神社同八幡神社於此地与愛宕神社合祀其氏子九十有餘戸是以月之三日及祭日之參拜者頗多然參道險峻以不易登攀如老幼殊恐缺賽禮氏子亦憂之謀磴道之築造久矣雖然工費多大造營不容易大正四年會御即位大禮乗歡意大揚為其記念事業議決磴道之築造積資十年的成千餘圓也於是大正十五年十月起工直築造五階百五十餘級之磴道矣其工費實一千八百圓課役參百餘人以十一月告成十二月行奉告祭在天之神靈應以頷氏子等之欣抃不俟言也乃勒其顛末於石以垂不朽」四十年四月村社邊取神社及び村社八幡神社を始め愛宕神社等小社十一社を合祀し、大正十四年峻険なりし参道を整然たる磴道に整備したと書かれているようであった。階段左横に、「 ← 犬走り跡 」前方には急な石段が現れた。石段・男道には「神垂(しで)」の付いた「注連縄(しめなわ)」が奉納されていた。「紙垂」には「神聖」や「清浄」という意味かあり、しめ縄に「紙垂」を垂らすことで、神聖な場所てあることを表しているのであった。「不動明王尊」の扁額のある小さな御堂が石段下に。剣を2本持つ不動明王は享和三癸亥年(1803)三月二十四日の造立 と。その右側には「大黒天」と刻まれた碑が。「四津山公園」と書かれた案内板もあった。「大黒天」碑の前には小さな木の祠の中に賽銭箱が。急な石段を上がらずに右に進むと「本郭跡(女道)」であると。往路は楽そうな女道を上って行った。「本郭跡」、右手は「二の郭、三の郭跡」と。「二の郭跡」案内板が正面に。右に進むと「三の郭跡」があるようであったが、この日は左に進む。「堀切跡」。そして山頂の広場に到着。ここが「高見城」の本郭跡であり「四津山神社」が建てられているのであった。「四津山神社」は火遇突智命を始め十七神を祭神として、御神体は勝軍地蔵とある。古来より火防の神とされて信仰厚く、信者は関八週に及ぶそうです。宝暦9年(1759)に山麓の明王寺の住職、権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られていた寺の氏神である愛宕神社を、山頂に遷座して以来、重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて山に登り、神事を執行されてきたと。明治に入り神仏分離により山麓の高見、能増の村社十一社を愛宕神社に合祀して、山の地名より四津山神社と改称したとのこと。扁額「四津山神社」。「高見城」の本郭跡から南側の秩父方面の山々を望む。「案内板」を入れずに。「高見城」は四津山の山頂に築かれた中世の典型的な山城。城跡からは、北は荒川流域一帯、南は市野川筋を一望でき、鎌倉街道上道を押さえる軍事上の要所に建てられていることがわかるのであった。城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本郭と北に連なる三つの郭で構成されていて、それぞれの郭は土塁と堀切によって区画されていた。城の築城年代や城主については不明な点が多いようで、『新編武蔵風土記稿』には長享元年(1487)に没した増田四郎重富の居城と伝えていると。「県指定史跡 四ツ山城跡小川町大字高見字四ツ山一一二五ほか 平成十五年三月十八日県指定 四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に築かれています。市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。 城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要な廓によって構成され、それぞれ土塁と堀切によって画されています。 文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があります。長享二年(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられています。 また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。「関八州古戦録」によると、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃げたといいます」。「四ツ山城」が「高見城」の別称であることは承知していたが、新しい説明板を見る限りでは「四ツ山城」が主たる(正式)城名ということになったのでしょうか??「本郭跡」に咲く色鮮やかなピンクのツツジ。白い建物は「立正大学」であっただろうか。こちらのツツジも見事に開花。運が良ければ右手、南東方向に「東京スカイツリー」が見えるようであった。理由は境内にあった下の写真の紅白の鉄塔から。「本郭跡」から「四津山神社」を斜めから。境内にあった写真から、筑波山も大きく見えるようであったが。この日は・・・・・。そして帰路は急な石段・「男道」を下り振り返る。そして「勝山城跡」を後にして次に訪ねたのが「永昌寺大松跡」。 埼玉県比企郡小川町能増。ここには、以前は案内板が取り付けられていたのであろうか。「永昌寺の大松」碑。以前は樹齢800年とも言われていた(実際には、枯れて伐採された時は338年という)永昌寺の大松は「県指定天然記念物」になっていたが、昭和59年に松くい虫によって枯れてしまい、伐採されてしまったとのこと。この松に関する記録は多くはないが『小川町史』には群馬県太田市の玉厳寺に、この大松に関したものと思われる二つの伝承があることが記されていると。「伊勢根にある老人がいて、この老人にときの人が大松の年を聞いたところ、千年にして枝が地に達するとして、大松は一昨年地に着いたので、千と三つ也といった」という話と、「昔、某将軍がこの地を通って記念に松を植え、荒川を渡っていった。その時の渡しを植松の渡しと名付けた」というのが書かれていると。ここで語られている「ときの人」と「某将軍」はあの新田義貞だと。大松はもとは鎌倉街道沿いにあったのかもしれない。近くの鎌倉街道跡にも大きな木の切り株があったと伝えられているのだと。石碑の後ろの松が子孫の松なのであろうか。何代目の松なのか?様々な石碑も並んでいた。左側は「西国三十三箇所供養」と。西国三十三所は、近畿地方2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れているとのこと。中央の石碑には「如意輪観音像」と「二十二夜侍供養」、「女人」の文字が。「旧暦22日の月待の記念として、二十二夜講中によって造立された塔である。二十二夜講のほとんどは女人講、念仏講である。如意輪観音を本尊とするが、准胝観音を本尊とする地方もある。「二十二夜」「二十二夜念仏供養」などと刻まれた文字塔と如意輪観音の刻像塔があり、群馬と埼玉を中心に、宮城、福島、新潟、山梨、長野、岐阜、愛知にも分布する」とウィキペディアより。右側は「百八十八箇所供養塔」と。天保三年の文字が。西国33所、坂東33所、そして秩父34所を巡拝する百観音の霊場巡り、さらに加えて四国88所の弘法大師霊場を巡ったことを表すのが「百八十八箇所供養塔」。枝垂れ桜も美しく咲いたのであろう。そして「永昌寺の大松」碑の裏にあった「永昌寺」の本堂をズームで。「永昌寺の大松」碑の先の路地を入った農道の右にも大きな石碑があったが・・・。裏面であるが、これも高見城に関する石碑であろうか。昭和三十七年の文字が、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「正続院」を後にして、さらに円覚寺参道を奥に進む。左手にあったのが「佛日庵」。入口から「佛日庵」の「本堂」を見る。「佛日庵」は、「円覚寺」の開基 北条時宗公を祀る塔頭寺院。時宗公はこの場所に小さな庵をむすび、禅の修業を行ったと言われている。1284年に時宗公が亡くなると、間もなく廟所として創建された。北条氏滅亡後は次第に衰微したが、天文年間(1532~55)に鶴隠周音(かくいんしゅういん)が廟所の南に玉泉軒を営み、そこに居した。北条氏の末裔を称し鎌倉を治下に収めた後北条氏の庇護を受けた鶴隠周音は、玉泉軒を佛日庵と改称し、円覚寺の塔頭として中興した。川端康成の小説『千羽鶴』の舞台になったことでも知られる茶室 烟足軒(えんそくけん)も、もともとは常に茶を嗜んだという鶴隠周音が構えたもの。右手奥に「開基廟」が見えた。その先に「開基廟 山門」。「贈従一位北條時宗公御廟所」碑。「山門」から「開基廟」を見る。「開基廟」の前、両側には緋毛繊の縁台が置かれていた。ズームして。「開基廟圓覚寺大檀那である北条時宗・貞時・高時をお祀りしてあります。廟所とは、石碑を建てその上にお木像を祀るお堂を建てたものが正式のお墓で、国に特に業績のあった人にのみ許されたものです。時宗公は、一二八四年四月四日に亡くなられています。つまりは圓覚寺が建立されてから二年後のことです。時宗公が亡くなられた後に開基廟が建立されたようですが、現在の開基廟は江戸時代一八一一年に改築されたものとされています。新編相模風土記によれば、お堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるとの伝えが記されています。また、幾度の困難な戦災をくぐり抜け、ずば抜けた才能で幕府をまとめあげていたことから、学問の神・開運の神と崇められていました。」「開基廟」の内部には木造の「北条時宗像」が確認できた。出家した後なので剃髪と。この木造の下には石の棺があるそうで、そこに時宗の遺骨が納められているのだと。元の来襲を食い止めた時宗、元の植民地計画から日本を護った英傑。但し、この元の襲来こそが北条家滅亡を生んだのかもしれない。早世で円覚寺創建から僅か2年で亡くなったと。元寇からは3年目。更にズームして。貞時と高時の木像は、時宗の左側に並んであるとネットから。 【https://ameblo.jp/2055masumi/entry-12214788215.html】より「開基廟」の「山門」から「本堂」を見る。以前に戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第十四番「佛日庵」の「延命地蔵尊」の御朱印です。以前に戴いた鎌倉三十三観音霊場第三十三番「佛日庵」の「十一面観世音」の御朱印です。更に最奥に向けて坂を上って行った。右手にはシャガ(射干、著莪、胡蝶花)の群生が。佛日庵の向かい側にあったのが「白鹿洞(びゃくろくどう)」。「白鹿洞」碑。「白鹿洞円覚寺開堂の日、開山無学祖元禅師の説法を聴こうとして集まった多くの人々と共に、この洞穴より白鹿が群れをなし、禅師の説法を聴いたという。大衆は大いに驚異し、この奇瑞譚により山号を「瑞鹿山(ずいろくさん)」と定めた。これはお釈迦さまが初めて説法をおこなった鹿野苑(ろくやおん)の嘉例に擬したという。寺号は「円覚興聖禅寺』というが興聖の号は開山国師ゆかりの地、径山の「興聖萬寿禅寺」に由第している。」この洞穴より白鹿が群れをなし出て来たのか。左手奥にあったのが「續燈庵(ぞくとうあん)」の「山門」。寺号標石「續燈庵」。「山門」。扁額は「萬冨山」。「山門」が開いていたので境内へ。正面に「本堂」入口。「本堂」。続燈庵(ぞくとうあん)は、第三十世大喜法忻(だいきほうきん・仏満禅師)の塔所。本尊は観音菩薩。室町幕府の引付方頭人の今川範国が法忻のために創建し、のちに今川氏親によって再建された。本尊の観音菩薩は、もと東慶寺に伝えられた像。法忻は、浄妙寺・浄智寺・円覚寺・建長寺のなどの住職も勤めている。「銅造仏応禅師骨壺」(夢窓国師の1327年(嘉暦2年)の銘:重要文化財)を所蔵する と。右手に「寺務所」。墓地と奥には「やぐら」が。休憩所か?そして最奥にあった「黄梅院(おうばいいん)」を訪ねた。掲示板には「発願発願に燃えているものはみな若い いつまでも年をとらないあの菩薩たちのように」と。「黄梅院北条時宗公の夫人、覚山尼が時宗公追善の為に建立北条時宗公の夫人、覚山尼が時宗公追善の為に建立した華厳塔の敷地に円覚寺第一五世夢想国師の塔所として建てられ、国師の門弟方外宏遠(ほうがいこうえん)が文和三年(一三五四)に開創した。後の応安元年(一三六八)、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)が分骨され足利家の菩提所としての性格を帯びている。山号は「伝衣山」。 本堂には 本尊「千手観世音菩薩坐像」の他に「夢窓国師坐像」、室町期のものとされる銅像「千手観世音菩薩立像」、木造「聖観世音菩薩立像」がまつられている。」「山門」。扁額は「傅衣山」。木札「大本山円覚寺 百観音霊場 第二番札所 黄梅院」。左手に「本堂」が見えて来た。梅の古木に咲く白い花はセッコク(石斛)・長生蘭であろうか。岩の上や大木に着生して、花を咲かせる着生ラン。「黄梅院」の「本堂」。当初は夢窓疎石の塔所として建てられたが、足利将軍家の手厚い保護を受け、以来足利氏の菩提寺としての性格が強くなったとのこと。扁額「黄梅院」と書かれているのであろうか。「梅」の木偏は何処に?「黃乗◯」と私には・・・・。『先生』から木編を毎の下に持って来る「くずし字」であると。よってやはり「黄梅院」と書かれているのであろう。境内の「聖観世音菩薩像」。「愛は人の心を豊かに育む 献眼献腎なされし美しい心に思いを馳せ茲に聖観世音菩薩を奉安す 合掌」。近づいて。「献眼献腎供養塔」と。観音堂(武山堂)。武藤山治の寄進。「武山堂」碑。近づいて。扁額「聖観世音」。「聖観世音像」。安置されている「聖観世音像」は中国から請来したとされる。「武山堂」前から「本堂」を見る。朽ちた樹の切り株から彫り出した仏像が。「本堂」前から「山門」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.27
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「古都「鎌倉」を巡る」のブログを連日アップ中ですが、いつもの旅友と埼玉県にある「続日本100名城」を訪ねたので、併せて同時並行にはなりますが、これをアップさせて頂きます。埼玉県の「続日本100名城」は以下の3城。①杉山城:埼玉県比企郡嵐山町杉山614②菅谷館:埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷757③忍城 :埼玉県行田市本丸17-23既に「続」の前の「日本100名城」は攻城を「完了」👈リンク しているのである。登城開始日 2012年5月17日登城完了日 2015年9月03日所要年月日 3年3月17日公益財団法人「日本城郭協会」から頂いた「登城完了証」。「登録第793番目」と。そして散策ルート案を事前に検討し、旅友に発信。埼玉県にある「続日本100名城」近くの山城、神社仏閣、遺蹟、名所も併せて訪ねる旅を計画。()内は続日本100名城のスタンプ入手場所と時間)①、玉淀大橋②、埼玉県立川の博物館・・・日本一水車③、四津山城跡④、高見城跡⑤、永昌寺大松跡⑥、鎌倉街道上道跡⑦、八和田神社⑧、普賢寺⑨、越畑城跡⑩、杉山城跡(嵐山町役場 8:30~)⑪、鬼鎮神社⑫、稲荷塚古墳⑬、菅谷城址(埼玉県立嵐山史跡の博物館 9:00~)⑭、忍城(行田市郷土博物館 9:00~16:30)この日は4月20日(火)、自宅を5:30に出て茅ヶ崎の旅友邸へ。6:00前に旅友の愛車に乗り換えてこの日のスタート。圏央道を走り、前方に大山の勇姿を見る。圏央道を走り東名高速道路への入口「海老名JCT」前を通過。相模原市の「小倉山トンネル」。中央道への「八王子JCT」を通過。関越道への「鶴ヶ島JCT」手前4km地点。「鶴ヶ島JCT」で圏央道から関越道へ。関越道・埼玉県鶴ヶ島市脚折町の東武越生線の跨線橋の手前。「高坂SA」にてトイレ休憩。そして「嵐山小川IC」で関越自動車道を降りる。「杉山」交差点を左折し県道11号線・熊谷小川秩父線を進む。反対車線は通勤用の車?で混雑していた。緑溢れる道・本田小川線バイパスを走る。そして最初の目的地の「埼玉県立川の博物館」に到着。この日の主目的はもちろん「続日本百名城」の3城であったが、事前にその周囲の社寺仏閣や観光名所等にも立ち寄ろうと考え、事前にチェックしておいたのであった。前方に目的の巨大な水車の姿が現れた。「埼玉県立川の博物館」銘碑。車を別の駐車場に駐め、徒歩にて散策のスタート。右手に巨大な水車の姿。右側の鉄骨の柱に回転用の水配管あり、ここから水をバケットに供給し回転させているのであった。Iphoneを使ってネットで調べてみると「日本一の大きさの「大水車」水車の形式:胸掛け水車水輪の直径:24.2m水輪の幅:1.9m水輪の材質:ヒノキバケット個数:64個バケット容量:約0.1立方メートル架台(柱脚):鉄筋コンクリート造レンガ貼り」老朽化で2015年の夏から停止していたこの水車は、解体され新水車として2019年の夏に生まれ変わたっと。1997年に「川の博物館」のシンボルとして稼働を開始した当時は日本一だったのだが、2004年に岐阜県恵那市の道の駅「おばあちゃん市・山岡」にできた直径24mの記録に塗り替えられてしまったのだと。それから15年、ふたたびこの『かわはくの水車』が24.2mの記録で日本一を奪還したのだと。半径10cm分大きくして日本一を奪還したことに!!。開館時間は9:00~で駐車場ゲートはまだ開いていなかった。時間は未だ7:45。大水車の遠見だけで、別の駐車場に車を駐めて散策開始。左側に川博の本館の建物を見る。「施設案内」。本館の前には『荒川大模型173』があるとのこと。荒川の源流域から東京湾までの荒川流域の地形を1,000分の1の縮尺で再現した、日本一の屋外地形模型であると。 【https://iko-yo.net/facilities/427/attractions/12171】よりT字路の角にも「埼玉県立川の博物館」碑が。赤の「ハナミズキ」が青空に映える。その奥に「大水車」。「水車小屋広場」には小さな水車も。東秩父村大内沢で昭和20年頃まで精米水車として稼働していたものと。こちらの水車の形式も「胸掛け水車」。回転用の揚水出口が見えたのであった。1回転/1分間であるとのこと。ズームして。揚水配管が2本、これをトラス形支柱でサポートしていた。先端には樋を取り付けバケットに水を流し込む構造である。これが「胸掛け水車」形式。発電用のフランシス水車であろう。宮川に架かる橋には「かわせみ」の姿が。橋の名は「翡翠橋(かわせみばし)」。「やまざくら」も楽しめるようであった。「大水車」の全体像が解る場所を外から探すのであった。架台(柱脚):鉄筋コンクリート造レンガ貼り。水輪の材質は全てヒノキ製と。水輪の直径:24.2m(現在 日本一)水輪の幅:1.9mバケット個数:64個川の横にあった水槽。「宮川浄化施設」であると。ここは宮川の一部を引き久れて、木炭や小石の中を通過させ、きれいな水にする施設です と。要は木炭や小石の表面に浄化用の生物膜を付着生息させ浄化する原理。何故か、この分野は詳しい私である。「宮川」は「川の博物館」の中を流れ「荒川」に流れ込んでいるのであった。この川の水を引き込み、ポンプアップ、水を循環して水車を回転しているのであろうか。そして車に戻り「荒川」護岸まで進む。左手に「ようこそ 寄居」案内板。公園の隅にあったトイレの建物。ここにも大きな荒川沿いの観光マップが。中央にある寄居駅は、秩父鉄道の秩父本線(秩父線)、東武鉄道の東上本線(東上線)、JR東日本の八高線の3路線の接続駅となっており、東上線に関しては寄居駅が終点となっているのであった。中央を西から東に流れ東京湾に注ぐ「荒川」。「荒川」は流路延長173 km、川幅(両岸の堤防間の距離)は御成橋(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2,537 mになり、日本最大であるとのこと。「大水車」を振り返る。道路脇のフェンスには「カワセミ」が飛ぶ姿が描かれていた。この横を車で走ると、「カワセミ」が飛ぶ美しい姿が動画の如くに目に飛び込んで来るのであろう。徒歩にて「荒川」の川原に行くと前方に見えたのが国道254号の「玉淀大橋」。介護施設「かわせみ荘」が荒川沿いに。この川原は「かわせみ河原」と呼ばれているキャンプ場。川原からの「大水車」。円形の建物はレストハウス。キャンプする方への案内板「川のことをよく知ろう ~急な増水に備えて~」。「キャンプ場」受付小屋の壁にも様々な案内が。乗用車利用でキャンプは1泊1000円のようであった。 ・・・つづく・・・
2021.05.26
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タイトル 発表日大和市の神社仏閣を巡る その27 2021.09.14 聞称寺~正一位伏見稲荷神社~本道宣布会皇神乃宮~中央林間駅~帰路大和市の神社仏閣を巡る その26 2021.09.13 神草柳第3地点東遺跡~野鳥観察デッキ~大和配水池~矢倉沢往還~西鶴寺~大和斎場 ~やまと防災パーク大和市の神社仏閣を巡る その25 2021.09.12 大和市郷土民家園・旧北島家~笹山稲荷大明神大和市の神社仏閣を巡る その24 2021.09.11 泉の森・緑のかけ橋~水車小屋~大和市自然観察センター・しらかしのいえ大和市の神社仏閣を巡る その23 2021.09.10 草柳圓 釣り堀~くらやみ坂~泉の森・しらかしの池~しょうぶ田大和市の神社仏閣を巡る その22 2021.09.09 草柳山善徳寺大和市の神社仏閣を巡る その21 2021.09.08 大和墓苑 ふれあいの郷~東名大和3号橋~櫻森稲荷神社大和市の神社仏閣を巡る その20 2021.09.07 台湾亭大和市の神社仏閣を巡る その19 2021.09.06 ふれあいの森・熊野神社大和市の神社仏閣を巡る その18 2021.09.05 極楽寺~相鉄本線地下通路大和市の神社仏閣を巡る その17 2021.09.04 大和駅~山神社~法深寺~下草柳公園大和市の神社仏閣を巡る その16 2021.04.23 SiRiUS(シリウス)~大和天満宮~大和駅~桜ヶ丘駅~福田神社~金比羅神社~帰路へ大和市の神社仏閣を巡る その15 2021.04.22 佛導寺~深見台・石塔群~大和駅東プロムナード大和市の神社仏閣を巡る その14 2021.04.21 浄照院跡~深見神社~富澤稲荷神社大和市の神社仏閣を巡る その13 2021.04.20 西福寺大和市の神社仏閣を巡る その12 2021.04.19 新道稲荷神社~道祖神群~瀬谷左馬神社大和市の神社仏閣を巡る その11 2021.04.18 新道大橋~宗川寺大和市の神社仏閣を巡る その10 2021.04.17 相沢川~境川~渡邉組稲荷神社~上和田左馬神社大和市の神社仏閣を巡る その9 2021.04.16 横浜市瀬谷区:宮沢神明社~徳善寺別院 全通院大和市の神社仏閣を巡る その8 2021.04.15 横浜市瀬谷区:山王稲荷神社~宮沢遊水地~めがね橋大和市の神社仏閣を巡る その7 2021.04.14 日枝社~内田稲荷大明神~上和田城山遺跡~宮沢六道の辻大和市の神社仏閣を巡る その6 2021.04.13 左馬神社~大瀬戸稲荷神社~信法寺~薬王院大和市の神社仏閣を巡る その5 2021.04.12 若宮八幡宮~引地川・若宮橋~高座渋谷駅大和市の神社仏閣を巡る その4 2021.04.11 宗昌寺~飯都社奮趾~福田橋~蓮慶寺~山王社~第2引地Bv大和市の神社仏閣を巡る その3 2021.04.10 藤沢市長後地区・長後 天満宮~山王神社大和市の神社仏閣を巡る その2 2021.04.09 藤沢市長後地区・諏訪神社~双体道祖神~庚申塔2基大和市の神社仏閣を巡る その1 2021.04.08 藤沢市長後地区・泉龍寺~道祖神~正一位稲荷大明神
2021.05.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉・円覚寺内の緑溢れる参道を奥に向かって進む。左手に石段、その先の両脇に石仏が。右手の石仏。錫杖(しゃくじょう)を持っているので「地蔵菩薩像」。左手の石仏。仏像の手の指の形・印相は、「禅定印」。境内にも様々な石仏が。奥には「やぐら」が。左手には古い建物が。ここにも塔頭があったのだろうか?しかし、案内板等はなく。更なる詳細は不明。そしてその前の参道の反対側が「法堂跡」。「法堂跡法堂とは禅宗寺院で住持が説法をする重要な場である。円覚寺法堂は北条高時公の時代、北条貞時公十三回忌にあたる元享三年(一三ニ三)に建立。「直指堂」と命名された。円覚寺が創建されてから約四十年後のことであった。鎌倉時代未期には山門、法堂はもちろんのこと、方丈・華厳塔・佛日庵なども揃い寺の諸建物がことごとく整えられた。法堂落成から応安七年(一三七四)の大火で全山が焼亡するまでの約五十年間が寺勢の最も繁栄した時期だったのである。」。「旧法堂跡地」。右手の「百観音霊場」の壁の角にあったのが「佛牙舎利塔道」と刻まれた石碑。これは「佛牙舎利塔道」、「正続院」への「道標」であろうが数箇所にあった。左手にあったのが「寿徳庵」への石段。寺号標石「寿徳庵(じゅとくあん)」。前方に「山門」が見えた。通路が開いていたので、行けるところまでと進む。「山門」。「南山」という篇額が掲げられていた。「山門」が開いていたので中に入らせてもらった。正面に「本堂」が見えた。「寿徳庵」は、円覚寺第150世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。墓地には中興の三浦道寸(義同)一族の墓がある。三浦道寸は1516年(永正13年)北条早雲により滅ぼされた。これにより三浦一族は400年の歴史に終止符を打ったのだ。山号:南山(なんざん)寿徳庵宗派:臨済宗・円覚寺派中興開基:三浦道寸本尊:聖観世音菩薩寺宝:木造月潭中円坐像扁額「寿徳庵」。墓地の奥には「やぐら」があった。「寺務所」であっただろうか。ここまでに訪ねて来た「円覚寺」の境内を見下ろす。朽ち果てた藁葺き屋根の建物の姿が見えた。「寿徳庵」を後にし、緑豊かな石段を下りて行く。前方に帰路に訪ねた「方丈書院」の「信徒会館(宗務本所)」の屋根が見えた。更に参道を奥に進む。左手の「やぐら」の中の石仏。秋の紅葉も見事なのである。そして右手に「方丈」の庭園が姿を現した。心字池のある美しい「方丈」の枯山水の庭園。秋にはこの様な紅葉の絶景が。 【https://4travel.jp/dm_shisetsu/11348207】より帰路に訪ねることに。左手に「大用国師塔所」の標石が立つ。「大用国師(誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)延享2年(1745年)〜文政3年(1820年))」は伊予国出身の臨済宗の僧・歌人で、無用道人と号した。香川景樹に和歌を学び、歌集「誠拙禅師集」がある。また、円覚寺仏日庵の東山周朝に師事してその法を継ぎ、天明3年(1783年)に円覚寺前堂首座に就任した。晩年は京都相国寺に移ったとされるが、塔所は円覚寺塔頭「正伝庵」なのだと。江戸時代後期、修行道場を再興するなど、それまで一時衰退していた円覚寺を再興した人物であると。ここが「正伝庵」への入口。門扉越しに「山門」を見る。扁額「正伝」。正伝庵(しょうでんあん)は、第二十四世明巌正因(みょうがんしょういん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。1348年(貞和4年)、万寿寺(廃寺)内に創建された寿塔を、1354年(文和3年)、円覚寺に移した。正因は、円覚寺の国宝「洪鐘」の撰文をした西澗子曇(せいかんすどん)の弟子。南北朝期の「本尊宝冠釈迦如来像」と開祖「木造明巌正因坐像」(1365年(貞治4年)作 鎌倉国宝館に寄託)が安置され、木造明巌正因坐像は、2020年(令和2年)、国の重要文化財に指定された。禅の普及に努めた鈴木大拙が住まいしたことでも知られる と。「佛日庵墓地」への門扉は閉められていた。そして左手に「妙香池(みょうこうち)」。「妙香池」の上に見えているのは、国宝舎利殿がある塔頭「正続院」境内の「一撃亭」。「妙香池総門前の白鷺池と並び、円覚寺創定当初から知られた放生池である。建武ニ年( 1335 )頃の円覚寺境内図にすてに見られる。今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した。」夢窓疎石の作庭であると。「虎頭岩」。波浪の浸食に模して造られているとのこと。数匹の亀の姿が。そして前方に「舎利殿」への道が見えて来た。「贈従一位北條時宗御廟所」碑と「国宝 舎利殿」案内板。「正続院」の「山門」・「修行道場入口門」に向かって進む。新緑のモミジ葉が青空に映え輝いていた。「正続院」の「山門」前に「佛牙舎利塔」と書かれた石柱があり、表に「従大唐國能仁寺拝請」、裏に「寛政四年壬子十月十五日」、そして「征夷大将軍源実朝公」と刻まれていた。舎利殿には、実は佛牙舎利(ぶつげしゃり)、つまりは釈迦の歯が納められているそれを南宋から請来したのは源実朝であることがわかるのであった。「山門」・「修行道場入口門」には「本派専門道場」、「臨済録提唱」と書かれた木札が。その奥に「座禅道場に付き立入り禁じます」、「入制大攝心(にゅうせいおおぜっしん)」と書かれた看板が。「入制大攝心」の「攝心」とは、心を攝(おさ)めるという意味。正続院(しょうぞくいん)は、円覚寺の開山無学祖元(仏光国師)の塔所(開山塔)。本尊:文殊菩薩。鎌倉地蔵巡礼第13番札所(手引地蔵)。もともとここは、三代将軍源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めるために、九代執権北条貞時が1285年(弘安8年)に創建した祥勝院(舎利殿)があった場所。「舎利殿 国宝円覚寺の舍利殿には「佛牙舍利」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。この舍利殿は鎌倉にあった大平寺(尼寺・庭寺)の佛殿(鎌倉時代未~室町初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。関東大震災に倒壊しましたが、昭和四年に復元しました。内部正面に佛舍利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と地藏菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山無学祖元祥師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃の地となっています。正月の三が日、五月の連休日と十一月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、孫観を制限させて頂いております。」扁額「萬年山」。「山門」とその奥に「舎利殿」。ズームして。「舎利殿」をネットから。正続院の中心となる建物は舎利殿(昭堂)。源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めていることから舎利殿と呼ばれる。当初の舎利殿は、1563年(永禄6年)の火災で焼失し、現在の舎利殿は、西御門にあった尼寺太平寺の仏殿を移築したもの。我が国最古の禅宗様建築物といわれ、国宝に指定されている。 【http://www.a-utsunomiya.com/photos/uncategorized/2010/05/07/p5030335_2.jpg】より以前戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第十三番の「正続院」の「手引地蔵尊」の御朱印です。「正続院」の「山門」近くの建物・「一撃亭」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.26
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タイトル 発表日綾瀬市の神社仏閣を巡る その12 2021.02.17 蓮光寺2/2綾瀬市の神社仏閣を巡る その11 2021.02.16 蓮光寺1/2綾瀬市の神社仏閣を巡る その10 2021.02.15 御岳神社~妙法稲荷大明神~落合稲著社~正一位稲荷大明神~熊野社綾瀬市の神社仏閣を巡る その9 2021.02.14 神崎遺跡2/2綾瀬市の神社仏閣を巡る その8 2021.02.13 神崎遺跡1/2綾瀬市の神社仏閣を巡る その7 2021.02.12 綾瀬市役所~綾瀬ふれあい大釜~せせらぎ広場~吉岡・わさび田~吉岡神明社~正福寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その6 2021.02.11 日吉山王社~蟹ヶ谷公園~示現寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その5 2021.02.10 日枝神社~長龍寺~大法寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その4 2021.02.09 報恩寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その3 2021.02.08 龍洞院~五社神社~尾ノ井~(早川城)~子育て観音綾瀬市の神社仏閣を巡る その2 2021.02.07 小園子之社~東光山延命寺~お銀さまの墓~東名公園~長泉寺~大六天神社~済運寺綾瀬市の神社仏閣を巡る その1 2021.02.06 弁財天~蓼川神社~安産子育出世地蔵~風車公園~子之神神社~目久尻川綾瀬市・早川城跡へ(その2) 2020.09.12綾瀬市・早川城跡へ(その1) 2020.09.11
2021.05.25
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タイトル 発表日横浜市泉区の古道を巡る(その38) 2021.04.07 鎌倉街道西の道~八坂神社~福泉禅寺横浜市泉区の古道を巡る(その37) 2021.04.06 龍長院(横浜市戸塚区東俣野町)横浜市泉区の古道を巡る(その36) 2021.04.05 専念寺~三嶋神社(横浜市戸塚区深谷町)横浜市泉区の古道を巡る(その35) 2021.04.04 深谷通信所跡地横浜市泉区の古道を巡る(その34) 2021.04.03 イトーヨーカドー 立場店~かまくらみち道標~和泉町大丸の道祖神~馬頭観世音~遊林寺 ~下和泉地区センター前石碑群横浜市泉区の古道を巡る(その33) 2021.04.02 柏尾通り大山道~庚申塔道標~出羽三山供養塔~市川花十郎 生家~長後街道・立場交差点横浜市泉区の古道を巡る(その32) 2021.04.01 富士塚バス停~横根稲荷神社横浜市泉区の古道を巡る(その31) 2021.03.31 中田寺2/2~小山稲荷~奥津喬次郎翁頌徳碑~向森神社~中田駅~帰路へ横浜市泉区の古道を巡る(その30) 2021.03.30 中田町宮ノ前公園~石巻康敬の墓~稲荷社~中田寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その29) 2021.03.29 柏尾通り大山道~岡津公園~領家谷道祖神群~西恩寺~御霊神社横浜市泉区の古道を巡る(その28) 2021.03.28 永明禅寺(2/2)~白山社~石田建設(株)~永明寺別院~大山道道標横浜市泉区の古道を巡る(その27) 2021.03.27 永明禅寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その26) 2021.03.26 西林寺~阿久和川~新岡津橋~稲荷社~白山社~ルネ戸塚弥生台横浜市泉区の古道を巡る(その25) 2021.03.25 三嶋神社~稲荷社~普光寺横浜市泉区の古道を巡る(その24) 2021.03.24 五霊社~阿弥陀如来立像庚申塔~向導寺~富士塚~稲荷社~双体道祖神横浜市泉区の古道を巡る(その23) 2021.03.23 憩いのまほろば~中丸家長屋門~横山家長屋門横浜市泉区の古道を巡る(その22) 2021.03.22 観音禅寺(2/2)横浜市泉区の古道を巡る(その21) 2021.03.21 観音禅寺(1/2)横浜市泉区の古道を巡る(その20) 2021.03.20 四季の径~緑園都市駅東口~緑園都市噴水広場~フェリス女学院大学~庚申塔碑3基~神明社 ~新橋天満宮横浜市泉区の古道を巡る(その19) 2021.03.19 南万騎が原駅~相武国境之道碑~道しるべ碑~緑園須郷台公園~四季の径~山王神社横浜市泉区の古道を巡る(その18) 2021.03.18 佐婆神社~和泉第四遊水池~横浜市泉公会堂~横浜市消防局 泉消防署~横浜市 泉区役所 ~帰路横浜市泉区の古道を巡る(その17) 2021.03.17 和泉遊水地~正法寺~青面金剛塔+三猿 横浜市泉区の古道を巡る(その16) 2021.03.16 和泉川宮沢遊水池~めがね橋~ほしのや道・道標(庚申塔)~八幡神社 ~横山製糸跡 ~長谷川伸生母生家・横山家横浜市泉区の古道を巡る(その15) 2021.03.15 日枝神社~横山家のケヤキ~石塔群~六地蔵~青面金剛庚申塔横浜市泉区の古道を巡る(その14) 2021.03.14 柳明天満宮~柳明神社~観音堂横浜市泉区の古道を巡る(その13) 2021.03.13 せせらぎ緑道~第二柳明橋~羽太郷土資料館~石井仁左衛門翁之碑~稲荷社横浜市泉区の古道を巡る(その12) 2021.03.12 本興寺横浜市泉区の古道を巡る(その11) 2021.03.11 上飯田西公園~甲子塔~正一位飯嶋稲荷神社~いちょう団地~ニ十三夜塔横浜市泉区の古道を巡る(その10) 2021.03.10 持田製糸場跡~上飯田天神山古墳跡~小曲寺跡~神明神社~飯田神社横浜市泉区の古道を巡る(その9) 2021.03.09 いずみ中央駅~鎌倉街道上道~無量寺横浜市泉区の古道を巡る(その8) 2021.02.05 美濃口春鴻の地~日枝社~渡戸橋~子育地蔵~帰路へ横浜市泉区の古道を巡る(その7) 2021.02.04 いずみ中央駅~地蔵原の水辺~神明社~蚕御霊神塔~中和田村役場跡地公園~中和田公園 ~三柱神社横浜市泉区の古道を巡る(その6) 2021.02.03 中之宮左馬神社~泉小次郎親衡の館跡~長福寺~須賀神社~宮沢果樹園生垣横浜市泉区の古道を巡る(その5) 2021.02.02 左馬神社~和泉川親水広場~宝心寺横浜市泉区の古道を巡る(その4) 2021.02.01 中和田小学校南部分教場跡~東泉寺~琴平神社~双体道祖神~富士塚公園~古賢大菩薩横浜市泉区の古道を巡る(その3) 2021.01.31 密蔵院~鍋屋稲荷大明神~庚申塔~双体道祖神~矢澤家生垣~第六天神社横浜市泉区の古道を巡る(その2) 2021.01.30 俣野神明社~境川遊水地情報センター~天王森泉公園~天王森泉館~辨財天~鍋屋鯖神社横浜市泉区の古道を巡る(その1) 2021.01.29 俣野観音堂~俣野神社~相州春日神社~神鹿苑
2021.05.25
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そして最後に重要文化財になっている「旧石井家住宅」に向かって両脇に蕗が群生している通路を進んで行く。「石井家は室町時代後期、1500年代に地侍から始まったとされる旧家で、江戸時代にはこの辺りの名主を務めてきました。この住宅は幅約13m、奥行き約9mの規模を持った農家で、神奈川県内に多い「四方下家造り」の構造を持っています。室内は、板敷きの「ひろま」と、その奥に畳敷きの「でい」「へや」が配される「三間取り」。ひろまの前面にしし窓を付け、でい、へや周りも土壁塗りで閉鎖的で、おそらく江戸中期、元禄年間(1688〜1704年)の建立と考えられます。石井家住宅は、鎌倉から甲州に至る甲州街道筋である鎌倉市関谷にありましたが、近年に至り建物が老朽化し取り壊すことが検討されました。これを惜しんだ石井家の菩提寺、龍寶寺の住職が寺に寄贈を受け、境内に移築、保存を行い、現在に至っています。昭和44年(1969年)、国の重要文化財に指定されました。」とネットから。「旧石井家住宅」入口は潜戸になっていた。「国重要文化財 旧石井家住宅」案内板。「重要文化財竜宝寺旧石井家修理銘・・・前半(解体移築修理事業の概要)は省略・・・その後は下記にほぼ同じ」「重要文化財旧石井家住宅石井家は後北條時代の地侍から発したと伝えられる旧家で、近世はこの地の名主をつとめてきたと云う。この住宅は桁行七間半、梁間五間の規模をもった農家で「四方下家造り」の構造からなり、平面は「ひろま」の奥に「でい」と「へや」が配される「三間取り」である。「ひろま」の前面にしし窓をを付け、「でい」「へや」廻りも土壁塗りで閉鎖的で古式が感ぜられ、恐らく江戸中期の初頭を下らない頃(元禄時代)建立であろう。石井家住宅は鎌倉から甲州に至る甲州街道筋である鎌倉市関谷1575(倉骨)にあったが、近年に至り建物が老朽化し取り壊し建替することを菩提寺である龍寳寺の住職が、これを惜しみ、同寺に寄贈をうけて、境内に移築保存となったものである。この住宅は神奈川県下に例の多い「三間取り四方下家造り」農家の典型で様式手法より見て十七世紀の後半頃のものと推察される。建築後の経過については明らかでないが、後世は生活の便宜から諸々に改造の跡も見られたが、しかし側柱、内部柱等の主要材のほとんどは当初のまま遺存して今日に至ったものである。昭和四十四年六月二十日重要文化財に指定されて、昭和四十五年一月一日修理の工を起し、国庫補助金及び県費並に市費の補助金を得て工期九ヶ月をもって修理を行った。前述移築工事のため重要な建設位置の設定を初め、建物の解体と同時に入念に実測調査を行い、更に修理に先だち解体材の調査と後世改変の痕跡調査をして明確な資料にもとづいて文化庁の許可を得て現状変更を行ない、出来る限り当初の様式に復元整備した。」旧石井家住宅の向かいに展示されていたこの車は何であろうか?横から。馬車式霊柩車??霊柩車が個人所有??「踏柄臼」。杵の柄の部分を足で踏んだり離したりを繰り返すことで杵が上下し、臼の中の穀物などをつくもの。石井邸の内部土間に入る。土間は「ニワ」と呼ばれ、約9.1mと約6.4mの広さであると。正面が炊事場のようであった。土間から内部の部屋を見る。手前に板敷きの「ひろま」と、その奥に畳敷きの「でい」「へや」が配される「三間取り」。なお、「でい」は普段使うことがない客間、「へや」はでいの北側にある寝室。各室の名前がひらがななのは、昔の農民のほとんどが文字の読み書きができなかったので、名称が文字になることなく口頭で伝承されていたためであると。約9.1m☓約4.5mの「ひろま」には「囲炉裏(いろり)」が。周囲の竹は「火吹き竹」であっただろうか。別の角度から。畳敷きの10畳の「でい」には端午の節句の兜が飾られていた。10畳の畳の敷き方・中央に縦に5畳はユニーク?なのであったが・・・。そして隣の10畳の「へや」から客間「でい」を見る。「へや」には箪笥(たんす)類が置かれていた。天井・屋根下の柱と梁の姿。土間の竈(かまど)を見る。土間の天井。梁の曲線が歴史を感じさせるのであった。「天賜百福」と書かれた掛け軸。下の百の字は全て「福」の字であると。再び天井裏の梁の姿を。曲がりくねった木材を使ったダイナミックな梁は必見なのであった。ぐんにゃりと曲がりくねった木材を巧みに利用しており、まるで現代アートのごとし。この家屋を建てた人々のセンスと遊び心がひしひしと感じられたのであった。年季の入った達磨ストーブ。「茶づくり用火炉」。下から炭火を焚いて茶葉を手もみし、緑茶を作る道具。我が実家にも子供の頃あり、自宅で緑茶を作っていた。裏山。勝手口から30畳ほどの広い土間を見る。「旧石井家住宅」の横にあった「社」。弁天社であろうか。その手前にあった「横穴」。防空壕とはまた少し違った雰囲気を醸し出していたが。「やぐら」ではないし、戦時中の防空壕にしては高さがない。横井戸であろうか。「社」を正面から。正面の彫刻。脇障子の彫刻。(右)脇障子の彫刻。(左)。そして「旧石井家住宅」を後にして「山門」前まで戻ると右手にあったのが「玉縄幼稚園」。龍寳寺 が経営する幼稚園であろう。茅葺きの「山門」を後ろ斜めから。茅葺きの「山門」を前方斜めから。そして「日比谷花壇大船フラワーセンター」、「龍寶寺」、「玉縄歴史館」、「旧石井家住宅」の散策を終え、車に戻り帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.05.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉・円覚寺塔頭・「松嶺院」の散策を続ける。「拾翠巌佛」。「毘盧遮那仏立像(びるしゃなぶつりゅうぞう) 大日如来 江戸中期の作 ひつじ・さる歳生まれの守り本尊」と。よく見ると袈裟に一面仏像が彫られていた。石仏3体が並ぶ。「空」と刻まれた石碑。「この碑は、第二次世界大戦に於いて、祖国の平和と愛する人々の幸せを祈り、学窓より敢然と大空の決戦に参加、勇戦奮闘の果て、散華された本県関係の海軍飛行科予備士官、及び戦後本会の為尽瘁された物故戦友の霊を慰め、且つその偉業を顕彰するため、遺族と生存同期生により建立したものである。昭和六十三年十一月 社団法人 白鴎遺族会神奈川県支部」「白鴎遺族会 」は昭和18年、海軍航空隊に入隊した約5000人の第13期海軍飛行専修予備学生は三分の一を神風特別攻撃隊の中枢として失う。白鴎遺族会はその同期生と遺族の連帯のもとに発足、社団法人として活躍中とのこと。「青松観音(せいしょうかんのん)」。「聖観音菩薩立像 大慈悲を以って衆生を救ってくださる子(ねずみ)歳生れの守り本尊」。素朴な石仏。この石仏も。「松嶺院」の境内裏山の墓地内は撮影禁止。芥川賞作家開高健、中山義秀、俳優佐田啓二、女優田中絹代、オウム真理教の被害者坂本弁護士一家の墓もある。これらの墓には小さな案内板が付けられている。田中絹代の墓石には顔のレリーフが飾られ、墓誌には開高健だけが戒名ではなく俗名で彫られている。しかし、何と言ってもようやく裁判が結審したオウム真理教が起こした一連の事件で、一家が惨殺された坂本弁護士一家のピンクの御影石で造られた五輪塔に「和」と彫られた墓には新しい生花が供えられていた。「合掌」。写真中央の墓地の崖面には、コンクリートでやぐらを埋めた様な跡も見えたのであった。そして「遍路みち」で境内を一周して入口まで戻る。ここにも美しい豪華な牡丹の花が。前方に大きな石塔。「護國塔」。日露戦争戦没者の慰霊塔で、亀の甲羅の上に乗った石碑には「護国塔 従軍司教釈宗演 書」とあった。円覚寺二百七世・釈宗演は、日露戦争には従軍司教として出征しているのだと。夏場は、花と緑につつまれた美しい場所なのだ。「空手道始祖松濤船越義珍先生之論 空手に先手なし」碑。「空手道の始祖 船越義珍は、明治三年十月十日(明治元年十一月十日)沖縄県首里市に生を享け、十一才(十三才)の頃より安里安恒、糸洲安恒の両師に学び、その奥義を極めて大正初年沖縄尚武会会長に就任、大正十一年五月上京爾来、空手道の指導に専念、昭和三十二年四月二十六日、八十八才を以て天寿を全うされる迄斯の道の普及と向上に全魂を傾倒された空手道は先生によって唱道されたが、その主眼は伝来の唐手術の理念の換骨奪胎にあった空は武芸の極致は己を空しうするにあるの意であり、道は術から武士道への醇化を志向されたものであることから、「空手に先手なし」「空手は君子の武芸」の金言を以て術の乱用を戒められたのもこの理解に基づくものである。空手道の始祖としての先生の遺徳を偲び、その功績を顕彰するために門下生の有志により松涛会を結成し、拳禅一致の訓言に因みここ円覚寺境内にこの記念碑を建立する。昭和四十三年十二月一日 大濱 信泉 謹書」そして「松嶺院」を後にして隣の藁葺き屋根の「選佛場」を訪ねた。「選佛場選佛場とは、佛さまを選び出すという意味で、修行僧の坐褝道場のことです。創建時代の座禅道場は建武ニ年の境内絵図に山門と佛殿の間の左側に裳階(もこし)つきの大建築として描かれていますが、永祿六年十ニ月の大火で焼失してしまいました。元祿十ニ年(一六九九)、伊勢長島城主松平忠充が江戸の月桂寺、徳雲寺住職一睡磧秀の薦めにより円覚寺に大蔵経を寄付され、同じ位置に経典を収蔵する蔵殿と座禅道場を兼ねた現在の選佛場が建立されました。その後坐褝道場は正続院に移り、現在の選佛場には、南北朝時代の薬師如来が中央に祭られています。年ニ回地元の薬師講衆が参詣し、ご祈祷が行われ、また平成十五年より円覚寺百観音霊場の一番として、大慈大悲観音菩薩が安置されています。」「選佛場」内部。左右に畳が敷かれていた。この畳の上で座禅を。中央に南北朝時代の「薬師如来像」。衣紋を深く彫り出し、袖下を長く垂らす宋風のスタイル。穏やかにうっすら残る唇の紅が以前は印象的であったがこの日は・・・。お顔をズームして。「吊灯篭 」。「大慈大悲観音菩薩像」。お顔をズームして。そして次に「仏殿」へ。円覚寺の伽藍は、建長寺と同様に中国の径山(きんざん)・万寿寺に習った左右対称型の様式で、その中心となるのがこの仏殿です。 弘安五年(1282年)の創建当時から存在していましたが、長い歴史の中で遭遇した震災により幾度も倒壊・焼失を繰り返しました。現在の仏殿は、昭和39年(1964年)に落慶法要を迎えたもので、関東大震災で倒壊した先代の仏殿から頑丈な鉄筋コンクリート製に作り替えられました。なおこの外観は、元亀四年(1573年)の仏殿古図を参考に復元されたもの。「仏殿円覚寺の本尊さまをおまつりしてある建物で、関東大震災で倒壊しましたが、昭和三十九年に再建されました。本尊さまは冠を被っておられるので、宝冠釈迦如来とよばれます。華厳の盧遮那仏とも称されます。本尊様は一ニ八ニ年(弘安五年)佛殿開堂の際に建立されましたが、一五六三年(永禄六年)の大火で焼失、お顔のみが救出されました.後に江戸時代、天甫昌円によって一六ニ五年(寛永ニ年)佛殿が再建される際に体部が補造されました。その時、本尊様の両脇に梵天、帝釈天がまつられました。「大光明寶殿」の扁額は一三七八年後光厳天皇より賜りました。開山毎歳忌、達磨忌、臨済忌、祝聖などの諷経や毎朝の暁天坐禅がここで行われています。」「仏殿」内部。ご本尊は冠を被っておられるので、「宝冠釈迦如来(鎌倉市指定文化財)」と呼ばれ、華厳の盧遮那仏とも称されます。脇侍は、向かって左が「帝釈天」、右が「梵天」とされており、何れも鎌倉市の指定文化財となっている。冠を被っておられるので、「宝冠釈迦如来」。宝冠と胸飾りを纏うおごそかな姿は圧巻。以前戴いた「鎌倉五山 第二番 円覚寺」の「宝冠釈迦如来」の御朱印です。仏殿に入って左奥に鎮座する二体の坐像は、左が「達磨大師像」、右が「無学祖元像」。左 達磨大師(だるまだいし)坐像。右 無学祖元(むがくそげん)禅師像。「右 無学祖元(むがくそげん)禅師像 左 達磨大師(だるまだいし)坐像 寄木造(樹種不明)黒漆塗り 作風から十四世紀前半、鎌倉時代末期作製。 大変に若々しい青年のような達磨さま。 目を大きく見開き、ロをつよく結んでいる。 先師から嗣いだ「禅の教え」を中国の地に 広めんとする崇高な意志が伝わってくる。 像高 五ニ・七cm」天井の龍は「白龍図」。なお円覚寺仏殿の龍の爪は3本だが、建長寺仏殿の龍の爪は5本ある。「白龍図(天井画)前田青邨画伯 監修守屋多々志画伯 作」。「佛心」と書かれた大きな屏風。力強い作品を生み出し続け、「天使の書家」とも呼ばれるダウン症の書家、金澤翔子さん(30)の書展「心」が16日、鎌倉市山ノ内の円覚寺で始まった。同寺は金澤家の菩提寺(ぼだいじ)で、この日は52歳で亡くなった父・裕さんの十七回忌。翔子さんは席上揮毫(きごう)で、心を込めて「佛心(ぶっしん)」と書き上げた。参拝者ら約200人が見つめる中、1メートル数十センチ四方の紙2枚に書を書き上げ、「元気とハッピーと感動を、心を込めて書きました」と笑顔で話したと 神奈川新聞が報道。「木魚」と「太鼓」。そして「仏殿」の前から「三門」を見る。「選仏場」の横の道は「龍隠庵(りょういんあん/りゅういんあん)」の入口。寺号標石「龍隠庵」。参道角にあった石仏。道を進むとあった「龍隠庵」案内板。新緑のモミジ葉が美しく輝いていた。左に折れ、右に折れると正面に崖をくりぬいた「やぐら」が。見上げて。新緑のカオスを楽しむ。「やぐら」の中に「観音像」。この石段の上に「龍隠庵」。「やぐら」の中の五輪塔。「龍隠庵(円覚寺塔頭)」円覚寺百二世大雅省音(おおがしょういん)の塔所。もと龍隠軒と称した。長尾忠政により創建。本尊は観音菩薩。百三十七世芳隠省菊によって開かれた。法珠院の宿寮(龍隠軒)であったが、一四ニ六年(応永三十三年)に塔頭に列せられる。のちに法珠院が衰退し、龍隠軒のみが残った。そして引き返し「仏殿」脇の参道を奥に向かって進むと左手にあったのが「居士林(こじりん)」。「居士林(濟蔭庵(さいいんあん))明治の頃より円覚寺では、在家の人の座禅(居士林)が盛んになり、山岡鉄舟鈴木大拙、夏目漱石などの虎児が参禅しました。大正11年にこの濟蔭庵に居士の座禅道場として居士林が開設されましたが、大正15年に消失、早大濟蔭団が中心になり復興運動を起こしました。幸いなことに柳生新陰流の剣道場を柳生基夫氏が寄付を決断され、昭和3年にこの濟蔭庵に移築して以降80年近く、学生や社会人が中心となって雲水と同じように修行する学生座禅会、土日座禅会を運営してきました。堂内には本尊の不動明王がまつられ、「頭燃を救うが如し」の扁額が掲げられ、心の安らぎを求めて座禅に来る人を持ち受けています。」「山門」。「居士」とは在家の禅の修行者を指し、居士林は禅を志す在家のための専門道場。もと東京の牛込にあった柳生流の剣道場が、昭和3年(1928)柳生徹心居士より寄贈され、移築された。現在も学生坐禅、土日坐禅会など、初心者でも参加できる坐禅会が定期的に開かれている と。「仏殿」を横の参道から見る。左手にあったのは「円覚寺」関係者の住居か? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.25
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そして「玉縄歴史館」の2階に上がると、玉縄のくらしを伝える様々な農具や民具が展示されていた。中央に「こびき大鋸(おが/おおが)」が様々な大きさで。人力で製板するための幅広の縦挽き鋸を指して呼ぶ。動力による製材機械が登場するまではこれで板材に製材していたわけである。昭和20、30年代までは出番が多かったという。籾の選別用の「唐箕(とうみ)」👈リンク。脱穀した籾には、稲の葉や藁くずが混ざっているため、これをさまざまな方法で取り除く必要がある。なかでも風の力を利用する方法が風選(ふうせん)。風が吹くときに、籾と藁くずが混ざったものを高いところから少しずつ落とし、重い籾は下に落とし、軽い藁くずやゴミは遠くに飛ばす方法。風が無いときは、筵(むしろ)や団扇(うちわ)、農業用扇風機などで風を起こしました。明治時代になると人工的に風を起こし、籾や藁くずなど、それぞれの重さに選別する唐箕(とうみ)が中国から伝えられた。風選の原理を応用した便利な装置で、一般の農家に広く普及したのは大正時代と言われている。作業の絵が理解しやすいのであった。「種蒔き器」。箱の中に野菜種をいれ、土に種まきをする時に使う機具。「田舟」稲苗を入れて、田植えに水田の上に浮かせて移動して使う底の浅い小舟。「代撹車(しろかきぐるま)」稲の苗代(なえしろ)を作る土ならしの機具。様々な籠も。「馬鞍(木製)」と「杵」。「足踏み脱穀機」👈リンク。「俵編み機」👈リンク。「千歯こき」👈リンク。櫛状の歯の部分に刈り取った後に乾燥した稲の束を振りかぶって叩きつけ、引いて梳き取る。稲の場合にはこれで穂から籾が落ちるので、脱穀が完了する。「電動式脱穀機」。「イネコキ ミノル式 電動ベルト駆動式脱穀機 」「藁草履(わらぞうり)作り機」。藁草履(わらぞうり)。「鍋」、「釜」、「火鉢」。懐かしい「竹とんぼ」。「うどん作り機」「徳利」。「角樽」。2階展示室を振り返る。そして1階に戻る。「鎌倉・玉縄城址歴史ミュージアム絵図」。「玉縄城まちだより」。「玉縄城歴史散策のすすめ」。このパンフレットのマップが置いてあったので頂いて来ました。「玉縄城址マップ」。私は既に昨年に「玉縄城を偲ぶコース」👈リンク は散策済みなのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「雲頂禅庵」の前の風情ある板塀と白壁の道を振り返る。そしてここを左に曲がると石段が続いていた。円覚寺は今までに何回か訪ねたが、この道、塔頭を訪ねたのは初めてであった。石段を上り終え道なりに右に曲がり進むと左手にあったのが「白雲庵」への入口。「白雲庵」碑。花崗岩の石段を上っていくと大谷石の石垣と花崗岩の石畳が綺麗な「白雲庵」の「本堂」が左手に。「本堂」前の対の「七重石塔」。「本堂」。臨済宗大本山「円覚寺」の塔頭のひとつである。円覚寺第十世で暦応3年(1340)10月4日に示寂(じじゃく)した東明恵日(とうみんえにち)禅師の塔所(たっしょ)。塔所とは僧侶の墓所のことと。正和年間(1312~16)に退居寮として開創。禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。また、白雲庵学林を形成し、関東五山文学の中心拠点となった。室町時代末期に臨済宗に転宗。扁額「白雲庵」。「白雲庵」の名の由来は、禅師が中国白雲山の住職だったこと、また「白雲抱幽石」という漢詩の一節に因んでいる。円覚寺には、江戸時代前期には40の塔頭があった。現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。白雲庵はその中で最も古い塔頭である と。庫裡であろうか。右手に五重石塔が三基。扁額「幽石軒」墓地の前の見事な石塔。赤い牡丹の花。近づいて「本堂」を斜めから。少し離れて。「白雲庵」を後にして進むと石畳の道路脇には顔だけの石像が。羅漢像でもなさそう・・・!?。頭だけなのでかなり不気味な光景。なぜここに??まとまって、現代アート??更に進むと右下に下がる石段があり「塔頭 伝宗庵(でんしゅうあん)」と刻まれた石碑があった。しかし、この「塔頭 伝宗庵」も一般開放はしていない模様。円覚寺の「塔頭 伝宗庵」は、第十一世南山士雲(なんざんしうん)の塔所。本尊:地蔵菩薩。士雲が自らが開いた。土紋装飾の「木造地蔵菩薩坐像」は国の重要文化財(鎌倉国宝館に寄託)。その他、室町時代作の「木造南山士雲坐像」、「慈恩寺詩板」、「中世文書」を伝えている。境内には、北鎌倉幼稚園が設置されている。「伝宗庵」を樹の間から見る。左手にあったのが「富陽庵」と刻まれた石碑。石段の上に「山門」が見えた。「山門」。富陽庵(ふようあん)は、第六十一世東岳文昱(とうがくぶんいく)の塔所。本尊は文殊菩薩。文昱は、壽福寺に住し、建長寺七十一世となり、その後、円覚寺に移った。開基は上杉朝宗。開祖木像と大仙庵開祖桃渓徳悟像を安置している。その他、百二世大雅省音像などの蔵物があり、1416年銘の開祖供養塔がある。「富陽庵」の境内。ここも一般開放していなかった。更に進むと右側に「北鎌倉幼稚園」の正門が。「幼稚園 園内」。「北鎌倉幼稚園」。北鎌倉幼稚園は、戦後人心の虚脱と混迷の中で、幼児の将来を案じた地元の人々の要望に応え、当時円覚寺管長であった朝比奈宗源老師が設置者となり、昭和23年4月より開園した幼稚園と。そして「道標」今まで訪ねてきた3つの庵の名が。「これより左え 冨陽庵 白雲庵 雲頂庵」そして坂道を下って行くと受付もなく「三門」の横に出たのであった。「円覚寺」案内図。そして久しぶりに、「円覚寺」中心部の散策をゆっくりと。「三門」を正面から。楼上には十一面観音、十二神将、十六羅漢像が安置されている。現在の山門は、天明年間(1781~89年)、第189世誠拙周樗によって再建されたもの。山門は「三門」とも呼ばれ、三解脱門の略。解脱・涅槃に至る方法である3種の三昧(さんまい)。一切を空と観ずる空解脱、一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、その上でさらに願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱。扁額「圓覚興聖禅寺」は伏見上皇の勅筆と伝えられている。「山門(三門)県重要文化財山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払う門とされます。山門を通って娑婆世界を断ち切り、清浄な気持ちで佛殿の本尊さまをお参りしなければならないとされます。現在の山門は一七八五年(天明五年)開山五百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建され、「円覚興聖褝寺」の扁額は伏見上皇(北条貞時の時代)より賜りました。楼上に十一面観音、十二神将、十六羅漢像をおまつりしてあり毎年六月十八日に楼上で観音懺法(観音さまに懺悔をする儀式)が行われます。また毎年八月には山門を取り巻いての盆踊りがにぎやかに行われています。」「三門」の天井。「三門」を抜けると、その先に「仏殿」がある。巨大な「仏殿」は後に訪ねた。左手に見えたのが「松嶺院」。近づいて。扁額「松嶺院」。「松嶺院」を訪ねることにする。「山門」。扁額は「圓通山」。「山門」の先の左手には見事な牡丹の花が。100円を賽銭箱に入れて境内に入る。「円覚寺」境内の塔頭。「円覚寺」第150世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。もともとは「不閑軒」といわれていたが、松嶺院月窓妙円尼から寺領の寄進があったことから「松嶺院」と呼ばれるようになった と。「松嶺院」の建物の周囲・「遍路道」を巡り牡丹を中心とした花々を楽しむこととした。「たんちょうそう(丹頂草)」。「本堂」。 <宗派> 臨済宗円覚寺派 <山号寺号> 圓通山(えんつうざん)松嶺院 <開山> 廣圓明鑑禅師・大拙祖能 松嶺院は、1535年(天文4)に示寂した円覚寺第150世の叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の 塔所で、もともとは不閑軒と称し寺地には円覚寺第40世の大拙祖能(たいせつそのう)の塔所で ある。青松庵があったと伝えられており、足利高基の息女である松嶺院月窓・妙円尼 (みょうえんに)から寺領の寄進があったことなどから改称された。 境内には木造の大拙祖能坐像や木造の叔悦禅懌坐像が安置されている。その先に小さな枯山水の庭があった。そして「遍路道」沿いに咲く様々な色・種類の牡丹の花を楽しんだのであった。曲がった先にも。この日が「遍路道」の牡丹の花見のピークか。菩薩立像。白壁沿いに緩やかな階段を上る。歩いて来た道を振り返る。「松嶺院」の先に「円覚寺」の「三門」と「仏殿」が見えた。これでもかと真っ赤な牡丹。藁葺の「選仏場」の先に「仏殿」が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.24
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「龍寶寺」の散策を終え、「山門」前まで戻り、左側にあった「玉縄歴史館」を訪ねた。「玉縄ふるさと館」を改修して2020年8月1日にオープンした「玉縄歴史館」。鎌倉市植木128 。料金200円を料金箱に入れて入館する。「玉縄歴史館へようこそ令和2年8月1日、玉縄ふるさと館は、歴史民族資料館、国重文古民家旧石井邸を含めて、「玉縄歴史館」と名称を改めました。市民の声、市の博物館構想にも呼応して「歴史館ギャラリー」もオープン、市民学芸員も増員し、鎌倉・玉縄地域の文化センターをめざして再出発します。この民俗資料館は、龍寶寺先代住職が伝統的な「農家の暮し」を惜しみ、地域から民具農具の寄贈を受け、平成4年に展示したことに始まります.その後、収蔵品の老化が進んでいたことから、玉縄城址まちづくり会議は平成20年から美化、補修、展示替えを行い、龍寶寺と作業協定書、鎌倉市とリニューアル協働事業協定書を締結、平成23年3月「ふるさと館」を発足させました。ー階の展示は、主として玉縄城関係の歴史資料と自主制作したした玉縄城立体模型、玉縄城城鳥瞰図、玉縄から出土した縄文期や後北条時代の出土品、その奥が新たにオープンする「歴史館ギャラリー」です.そして2階には、玉縄のくらしを伝える農具や民具を展示しました。また、農家では鎌倉唯一の国重文古民家旧石井邸、ここでは江戸時代の農家の暮らしと住居様式を身近に体験できるよう、展示に工夫しています.皆さま、どうぞゆっくりとご見学ください。」「玉縄城」は永正10年(1513年)北条早雲(伊勢盛時)により築かれたとされているが、それ以前から砦か小城があった可能性も考えられてる。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面があった。大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争うが、長期戦となった。この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興が新井城に籠る三浦義同の援軍として挟撃してくることへの備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえ、また小田原城の守りとしての役割も担った。祖 :北条早雲初代:北条氏時二代:北条為昌三代:北条綱成四代:北条氏繁五代:北条氏舜六代:北条氏勝の幟が展示されていた。壁には多くの写真、そして模型展示も。玉縄城地形模型。玉縄城は、1512年(永正9年)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。1526年(大永6年)の安房の里見実堯の攻撃も、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えた。代々の城主は、氏時、為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝。しかし、難攻不落と呼ばれた玉縄城も1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城した。その後、本多正信が城主となったが、1619年(元和5年)に廃城となった。中央が「玉縄城本丸」そしてその下に「大手門跡」。出土した土偶埴輪や壺の展示コーナー。絵画と甲冑。花鳥風月図。「玉縄城大手門模型」。中央の空堀に「大手門」が。「玉縄城推定復元模型」。「鳥瞰図模型」をネットより。 【http://kahoo0516.blog.fc2.com/img/20151101221626e97.jpg/】より「玉縄城跡北東部の調査」。「発掘調査成果」。「玉縄城鳥瞰図の地名案内」。「近年は宅地化が進み周囲に数多くのマンションが建築された。清泉女学院中学校・高等学校に隣接する住宅地に「早雲台」、周辺地域に「城山」「城廻」「関谷」「植木」等の地名を残し、辛うじて龍寶寺から玉縄城大手口へと至る七曲坂、久成寺(鎌倉市)から同じく大手口へ至る、ふわん坂・陣屋坂等が残っているが、それ以外に往時の状況を偲ぶことは困難である。」と。「鶴岡八幡宮復元模型」(左)と「逆井城の物見櫓」(右)。「鶴岡八幡宮復元模型北条氏綱による天文元年(1532 )から天文九年(1540 )まで八年間に及ぶ八幡宮の造営は、その規模や建物配置は現存する仆物とはやや異なり今日知ることはできない。しかし、天正一九年(1591 )豊臣秀吉による造営計画の図面である「鶴岡八幡宮修営目録見絵図」が現存し、絵図はほぼ北条氏時代の建物を踏襲していると思われる。本模型はこの絵図により作成されているので、氏綱造営の八幡宮の姿を思い浮かべることができよう。しかしながら、その指図による修営は、秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄、慶長の役のために中断し、下宮の修理しか行われなかった。」逆井城の物見櫓(茨城県坂東市に復元)(右)四代城主北条氏繁が築いた『逆井城』。このような高度な重層造物が『玉縄城』にも林立していたと推察されます。」「早雲公肖像画」と「戦国北条家系図と花押・印章」。後北条氏の祖・初代・「早雲公肖像画」。「2万年前から神奈川の海岸線の変化」。6000年前は藤沢、茅ヶ崎、平塚地区は、かなり海岸線が奥にあったことが理解できたのであった。そして我が家・標高41mは6000年前も陸地であった事が解ったのであった。「鎌倉谷戸かるた」と発掘された貝殻類。【戦国時代の鎌倉、その発見と検証展】についてこの展示は、当会が企画協力した録倉歴史文化交流館における「戦国時代の鎌倉展」の貴重な展示資料を、当ギャラリーに移転し開催するものです。ーっーっ、当会が発見し検証してきた後北条氏、玉縄北条氏の事績を辿っています。頼朝が幕府を開き、その後、室町幕府が東国を管轄する銀倉府を置き、鎌倉府が減亡すると鎌倉が都市としての役割を失い荒廃していきます。そこに登場するのが伊勢宗瑞(北条早雲)でした。「枯るる木に 又花の木を植え添えて もとの都に 成してこそみめ」宗瑞は、こううたって幕府の再興を誓い、その永正9年(1512)に鎌倉鎮護の城、玉縄城を築きました。玉縄城は代々宗瑞遺訓を継ぐ玉縄城六代の城主が守り、関東経営に奔走し、そして鎌倉と周辺領国を治めました。特に三代綱成、四代氏繁など英傑名君の事績は輝きを放っています。宗瑞の後を継いだ小田原の北条氏綱は、玉縄城主と協力して、鎌倉八幡宮の再建を進め鎌倉の寺社を積極的に保護するなど、あらたな都市計画をすすめました。こうした鎌倉の再建には後北条氏の庇護をうけた多くの職人が当たり、後々まで鎌倉を拠点に活躍します。本展では、こうして荒廃した鎌倉で小田原の北条氏と玉縄の北条氏と鎌倉の人々がこの時代の鎌倉のまちづくりを進め、現代に繋がる基礎を築いていった様子を玉縄城の史料を通してお伝えします。玉縄歴史館ギラリーは、私たちの10年来の夢を形にして、昨年の8月にオープンしました。鎌倉の地域史を発見し、検証し、伝える場、地域の芸術文化発表の場としての役割を果たしてまいります。皆さまのご来場を心からお待ちしています。」「関東戦国時代のはじまり持氏の死後、鎌倉公方は不在の状態になりました。その間、関東では持氏の遺児を擁立したことにはじまる結城合戦(ゆうきがっせん)が、京都では将軍義教が暗殺される嘉吉の乱(かきつのらん)が起こり、日本の社会情勢は混乱します。その後、幕府の承認を得た足利成氏(しげうじ、持氏の子)が5代鎌倉公方になり、鎌倉府は再興きれます。しかし、上杉氏、幕府との対立は続き、享徳3年(1454 )に成氏が関東管領上杉憲忠(のりただ)を殺害したことにより、享徳の乱が起こります。鎌倉府は成氏方と、幕府に援助された上杉方に分かれ、再び争うことになりました。翌年、成氏は鎌倉から出陣し上杉方と関東各地で戦います。その後、成氏が鎌倉へ戻ることはなく、下総国古河(現茨城県古河市)を本拠とし、古河公方と呼ばれました。鎌倉は関東の中心地という役割を終え、荒廃していきます。「枯るる木に 又花の木を 植え添えて もとの都に 成してこそみめ枯れてゆく木に、また花が咲く木を植え添えて、もとどおりの都にしてみせよう伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲)」「後北条氏の関東進出初代宗瑞の跡を氏綱が継ぐと、姓を北条に改め、山内・扇谷上杉氏の領地である武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)を中心に領国を拡大していきます。一方、甲斐国(山梨県)の武田氏や駿河国(静岡県の一部)の今川氏との対立により敵勢力に囲まれてしまいますが、天文6年( 1537 )には扇谷上杉氏から武蔵国の河越城を奪い、北武蔵の覇権を握ります。3代氏康の代には、山内・扇谷上杉氏の勢力を打倒し、さらに領国を広げます。また、武田氏・今川氏との三国同盟を締結し、甥である足利義氏を5代古河公方に就任させることで、関東での支配を盤石にしました。」「北条早雲と玉縄城北条早雲は、永正9年(1512)鎌倉街道上之道の要所に玉縄城を築きました。以後、小田原北条氏と共に玉縄城主六代は鎌倉の寺社を守り、武家文化を守り玉縄城の総構えを充実させ、関東を制覇する北条軍の先頭に立って戦いました。」「北条氏の支配領域」。「戦国北条氏の主な武将の生没年」。「玉縄北条関係系図」。「後北条氏と鎌倉幕府の一家臣であった伊勢氏は、関東を支配する正当性を得るために、様々な手段を尽くしました。北条氏への改姓や古河公方への接近、そして鎌倉の寺社保護です。鶴岡八幡宮の修造は、その代表的なものと言えます。修造にあたり、氏綱は鎌倉在住の職人のほか、小田原、伊豆、遠くは京都、奈良から職人を集め、敵対する関東の諸将にも協力を要請しています。これらの動きは、修造事業が単に八幡宮の建物の修復を目的としたものではなく、関東支配の正当性を補完する意味を持っていたことを表しています。鎌倉を整備し、「もとの都に成す」ことは、鎌倉幕府、鎌倉府に続く存在として後北条氏を位置付ける上で、極めて重要だったのです。長尾景虎(のちの上杉謙信)が、鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行ったことからも、関東の武士たちにとって、鎌倉が重要な場所であったことがうかがえます。」「戦国時代の鎌倉の町明応6年(1497)の「善法寺分年貢注文」(相模原市光明寺蔵)は、戦国時代の鎌倉の町の姿を伝えてくれる貴重な資料です。米町青物屋の三郎次郎・中座紙屋の右衛門四郎・銀細工の源三郎塗師の助四郎など、商人や職人の名が記されています。彼らは、かって大町地域にあった善法寺の門前に住んだ人々でした。「米町」や「中座」は、いずれも大町の地名で、鎌倉時代から続く商業地でした。また扇ガ谷地域には、大工や仏師、鍛冶職人が居を構えていました。特に寿福寺門前には仏所があり、仏師が多く住んでいました。鶴岡八幡宮修造を担った後藤善右衛門も仏師後藤家の出身と考えられています。この後藤家をはじめ、三橋家・伊沢家・加納家などの仏師の家が、寿福寺門前にありました。」「扇ガ谷村絵図(鎌倉国宝館蔵)同様の絵図が、江戸時代天保年間(1830 ~1844)頃作られており、同時期に作成されたと推測されます。」「鎌倉の寺社復興後北条氏は、初代宗瑞から5代氏直まで、鎌倉の寺社に諸公事(飛脚や陣僧※)の免除や所領の安堵を度々行い、積極的に保護しました.代表的なものとして、建長寺、円覚寺、東慶寺の諸公事免除などが挙げられます。3代氏康は、荏柄天神社の再興のために関所を設けて関銭や造営費にあてた他、検地により各寺社に所領を寄進しています。※陣僧・・・合戦に同行し、戦死者の弔いや敵方への使者をつとめる。」「北条氏綱の鶴岡八幡宮修造大永6年( 1526 )、里見氏との合戦により、鶴岡八幡宮は大きな被害を受けました。これを受けて、氏綱は八幡宮の修造を計画します。その様子は、八幡宮の僧快元が記した『快元僧都記』に詳しく書かれています。それによると、まず修造にあたり全体を統括する総奉行が置かれ、大道寺盛昌ら5名が任命されました。その下に、仕事内容などにより担当が分けられた奉行や職人をまとめる大工、職人たちがいました。修造は天文元年( 1532 )から始まります。はじめに上宮仮殿の造営が行われ、同5年( 1536 )に仮殿が完成し遷宮を行い、同9年(1540 ) 11月に上宮の正殿が完成し、正殿遷宮が行われました。氏綱は、翌年死去しますが、その後も下宮の修造は続けられ、同13年(1544 )にようやく全ての修造事業が完了しました。修造と同時に、浜の大鳥居の造営も行われています。浜の大鳥居は、八幡宮創建当初に参道の最も南に建てられたといい、後北条氏の時代にはなくなっていました。氏康はそれを再建し、天文22年(1553 )に完成させます。1990年の発掘調査により、現在の一の鳥居から約200m北の地点で柱の跡が見つかり、これが氏康の建てた浜の大鳥居であると考えられています。」「後北条氏滅亡後の鎌倉天正18年(1590)に豊臣秀吉により小田原城を攻められ、後北条氏は滅亡します。玉縄城城主の北条氏の菩提寺であった龍宝寺の僧良達らの説得により開城します。勝は、はじめ降伏を拒みますが、玉縄北条氏の菩提寺こうして鎌倉は、後北条氏の手を離れます。しかし、後の時代になっても武家政権の古都として鎌倉は重要な土地であり、豊臣、徳川の時代にも手厚く保護されます。秀吉は、後北条氏を滅ぼした直後に鎌倉に入り、氏綱以来となる鶴岡八幡宮修造を徳川家康に命じます。天正19年(1591)には、その設計図として修営目論見絵図が作成されました。文禄元年(1592 に下宮が完成し、江戸幕府2代将軍秀忠のときに八幡宮全体の修造が行われます。江戸時代に、鎌倉は参詣・遊山の地となり、鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺などをはじめとする寺社は、人々の尊崇をうけ続けました。」「玉縄北条氏鎌倉の統治は玉縄城を中心に行われ、代々後北条氏の一族が玉縄城主になりました。氏綱の弟氏時が初代城主になり、氏綱三男の為昌が2代城主になりました。為昌が若くして亡くなると、為昌を補佐していた北条綱成が跡を継ぎ、これ以降は綱成の子孫が玉縄城主になりました。綱成は、福島氏の出身で、氏綱から「綱」の字をもらって綱成と名乗り、氏綱の娘(大頂院殿)を妻にしました。また、鎌倉を直接治める役職として、鎌倉代官が置かれ、主に大道寺氏がその役割を担いました。」「玉縄城史玉縄城は、永正9年(1512 に伊勢宗瑞により築かれました。相模国東部を支配していた三浦道寸(義同)を攻めるため、三浦半島の付け根の位置に築城されたと考えられています。また、武蔵国や房総半島に対する拠点でもありました。宗瑞の子である氏時が初代城主になり、その後為昌(氏綱三男)、綱成、氏繁、氏舜、氏勝と続きます。玉縄城は、永正15年(1518 )に扇谷上杉朝興、大永6年(1526 )に里見氏、永禄4年(1561)に長尾景虎(この時に関東管領に就任し上杉政虎と改名。のちの上杉謙信。)、同12年(1569)に武田氏の攻撃を受けますが、いずれも落城しませんでした。特に大永6年の里見氏との戦いは激しく、討死した甘粕氏以下35名を供養する「玉縄首塚」が現在も鎌倉市岡本に残っています。この戦いによって鶴岡八幡宮は焼亡し、氏綱の手で修造事業が進められました。」「玉縄城 ジオラマ」。「玉縄城のすがた」。「長谷川雪堤・画 植木村 龍寶寺」。「山門図」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「成福寺」を後にして「成福寺」背後の山(亀甲山)にある小袋谷の鎮守・「厳島神社」を目指して先程の道を引き返す。正面に「厳島神社」の石鳥居と石段が見えた。石段を上って行くと左手に石碑が3基と手前に「戌子九月吉日」と書かれた石柱があった。「市指定有形民族文化財 庚申塔(寛文十年銘)」庚申塔(寛文10年(1670年)銘)。下部に三猿の姿が。「鎌倉市指定有形民俗資料 石造庚申塔この塔は寛文10年( 1670・江戸時代)の舟型塔で上部中央にキリク(阿弥陀)、それより下方右にサ(観音)、サク(勢至)の種子(しゅじ)が刻んである。阿弥陀三尊の種子を塔につけた庚申塔としては鎌倉では最も年代が古い。塔身には願文と思われる文字が刻んであるが風化がはなはだしく全体は判読できない。下部の壇には、三猿が正面向きに右から「雄のいわざる」「雌のきかざる」「雄のみざる」が横に並び、悪いことは「いわない」「きかない」「みない」と教えている。厳島神社の参道へ移すまでは、小袋谷の「水堰橋」の北側にあった。平歳17年( 2005年) 小袋谷厳島神社氏子会注:庚中塔は干支(えと)の庚中(かのとさる)にあたる日に、人の体内にいる虫が天の神に その人の罪を告げようとするためこの日に限って徹夜するという信仰にもとづいて 建てられたものといわれます。 また、庚申様は豊作を祈り、病や災いを防ぐ神としても知られています。」種子(しゅじ)とは密教で、仏・菩薩(ぼさつ)の象徴として書き表す梵字(ぼんじ)。種字。種子字。その右隣には「文字庚申供養塔」(寛政12年(1800年)銘)と青面金剛童子(安政7年(1860年)銘)。更に「小袋厳島神社」の石段を上って行った。そして左側に「二の石鳥居」が現れた。狛犬(阿形像)(右)。狛犬(吽形像)(左)。「拝殿」。かつては「弁天さま」と呼ばれていた社で、成福寺の南側にあった(JR横須賀線の踏切の向こう側)。しかし、関東大震災で崩壊したため、周辺の吾妻社、八幡社とともに合祀され、厳島神社として現在地に移された。現在地は八幡社があった所で、成福寺の鬼門除けの宮だった。吾妻社は現在の小袋谷公会堂の場所にあったという。なかなか変遷された経緯が複雑である。八幡社は応神天皇、吾妻社は橘姫命、厳島神社の祭神は市杵島姫命で現在の祭神も同じである。祭神:応神天皇、橘姫命、市杵島姫命 例祭:七月二十二日以降の日曜日 神事芸能:鎌倉神楽、子供神輿渡御(例祭) 宝物:石造庚申塔寛文十年(1670)銘)「拝殿」正面の彫刻。境内から「拝殿」を見る。そしてJR横須賀線沿いを歩き踏切・第一鎌倉踏切が右側に見えて来た。湘南新宿ライン・横須賀線の逗子行きの電車が北鎌倉駅方面に。この踏切を渡らず手前を左手に折れ少し進み、県道21号線との交差点の先を右に入って行った。この辺りは鎌倉市台地区の住宅街で右側には山が迫っていた。右手に現れたのが、JR横須賀線へ抜ける素掘りの隧道。「台の手掘隧道」と呼ばれているらしい。坑口は周囲が金網で養生されており、シダが密集して若干ワイルドな雰囲気。この出口側には横須賀線沿いに道はあるが、途中で終わっており、ここを通過し回り込まないと先程の踏切には、辿り着けないのであった。私もこの隧道を潜り、横須賀線沿いの道に出て北鎌倉駅方面に向かう。そして暫く進むと左手に「八幡神社」への石段が現れた。石段の上に石鳥居が見えた。石鳥居を潜り更に石段を上る。「庚申塔群」。「青面金剛像」六臂で、手に、輪宝、鉾、羂索、蛇、弓矢、金剛杵、日月、劒などを持つ。「文字庚申塔」。下部の「三猿」。正面石段上に「本殿」。狛犬(阿形像)(右)。狛犬(阿形像)(左)。「奉納記念碑氏神に祈る心を心とし氏子皆幸あれと願うなり。われ長寿を感謝しこれを記念して左記を奉納する。一、石垣 玉垣一、石段一、狛犬壱対」以下略」「本殿」元禄十一年(一六九八)、将軍綱吉、小坂郷台村を石野、別所両人に領ち賜う。別所氏の領地は藤沢、鎌倉間。及び戸塚、鎌倉間の要路に当れるを以て、毎月五、十日の両日に市を立て諸物を売買交易し漸時股賑を来たし、小名を市場と称するに至りき、ここに領主別所氏享保二〇年(一七三五)八月十一日を吉日と撰び、字亀井なる高地を神地と定め平素敦く尊信せし石清水八幡宮を勧請し鎮守とす。「相模風土記」に「稲荷社、八幡宮二社ともに村の鎮守とす。とあるは当八幡神社を言えるなり」とある。又「神明、春日を合祀す」とも記されている。 社殿は関東大震災で全潰し、大正十五年十二月十日、再建し現在に至る。「内陣」。境内の「稲荷社」。多くの狐様が。「本殿」前から石鳥居、石段を見る。そして石段を下り、再びJR横須賀線に沿って進む。こちらは線路の反対側が崖。そして左前方に素掘りの隧道に赤い門の如き物が現れた。「好々亭門 (こうこうていもん)」。独特のデザインの隧道だが、これはもともと洞門山と呼ばれるこの山の尾根の向こう側にあった会席料亭「好々亭」の店主が駅から料亭への近道として開削したものであると。中央に「好好洞」の文字が。右側に「好々亭門」、左側に「御会席 成吉思汗料理」の文字が。好々亭は2007年に廃業し、現在この隧道は地域の生活道路として活用されているのだと。「好好洞」のトンネルを抜け向こう側の道路に行く。「好好洞」を抜けて振り返る。会席料亭「好々亭」は10年以上前に閉店したようだ。そして「好好洞」を戻らずに、右手に進むと前方正面に神社らしき建物が現れた。その手前右手5、6段の石段の上、左側にあった「庚申塔群」。「市指定有形民俗資料 庚申塔(寛文五年銘)一基」。その右側には「角柱型庚申塔」正面に「堅牢地神」(けんろうじしん又はじじん)と刻まれていた。文政十一年(1828)と刻んである。「堅牢地神」とは、バラモン教の中の12の神が仏教に取り込まれ、それぞれの方位や位置を守る十二天の一つ。「舟型庚申塔」上辺に梵字の「キリーク」(阿弥陀如来を表す)を刻み、中心に「奉供養庚申所願成就也 敬白」と刻まれているとのこと。右脇に「寛文五年(1665)」、左脇には「乙巳(きのと・み)十月十五日」と。下には三猿が彫られていますが、中央は「めす」、両側は「おす」とのこと。塔身は高さ136センチで、市内で最大といわれている。「自然石型庚申塔」中心に「青面金剛」と刻み、裏に「万延元年(1860)」とある。奥から「庚申塔群」を見る。「御嶽大光〇〇」。木曽の御嶽山(おんたけさん)を信仰する「起立講(きりゅうこう)」の碑であろうか。右が「尖頭角柱型庚申供養塔」 正面の上のほうに、よこ書きで「庚申」、その下にたて書きで「供養塔」と刻み、 下辺にはー猿が彫られていまる。 寛政十二年(1800)の銘が中央が「舟型庚申塔」 中央に「奉造立庚申供養」、右脇に「二世」、左に「安楽」と願文を刻んでいます。 下辺に三猿が彫ってあります。造立年代は不明」左が「尖頭角柱型庚申塔」 正面に「庚申供養塔」と。。 右側に寛政九年(1797)とある。 奥の右側に「舟型庚申塔」 上辺に「日月」を付け、中心に六手合掌の青面金剛像を刻みます。 造立年代は不明中央に「唐破風付笠塔婆型(現在は、笠がない。)」 上辺に「日月」を付け、中心に六手合掌の青面金剛像を刻み、 下辺には、三猿が彫られていますが、左右のものは横を向いている。 享保十二年(1727)と彫られている。左側に「尖頭角柱型庚申塔」 中心に「青面金剛童子」と刻み、 右側に「嘉永二年(1849)」とあるそして「八雲神社」境内へ。扁額「八雲神社」。「本殿」。鎌倉市山ノ内585。山ノ内の「八雲神社」は、鎌倉時代、疫病が流行した際に、村人が京都の祇園社(現在の八坂神社)の神霊を勧請したと伝えられ、「午頭天王社」と称されていた。室町時代に関東管領上杉憲房が武運長久を祈願して勧請したとも伝えられる。拝殿向拝に、一弦琴を弾く中国の伝説上の女性・玉巵と龍の彫刻が施されている。玉巵弾琴(ぎょくしんだんきん)。玉巵(ぎょくし)は、正式には太真王夫人(たいしんおうふじん)といい西王母の末娘である。絶世の美女であったと。「木鼻(右)」。「木鼻(左)」。そして北鎌倉駅方面からの正規の?参道である石段の先にある境内社の「稲荷神社」の石鳥居と左に石碑が見えた。石鳥居の先に「稲荷社」。「稲荷社」。「清瀧不動尊」碑。明治34年12月の建立。前方の石は「晴明石」とも呼ばれ、火難・災難よけの神の石といわれていると。「びっこ石」とも呼ばれる。むかし、鎌倉街道にあった鎌倉十橋の一つ、十王堂橋(今は暗渠)の際にこの大きな石が埋まっていたと。この石を知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏めばびっこになるといわれていた。現在は、八雲神社の境内のここにに移されているのだと。「趣意書 山之内稲荷社建立事業への御寄付お願い」。「國常立尊大神 大己貴大神 少彦名大神」が刻まれた緒神は、明治22年建立。裏に碑文があったが、難しくて読めなかった。台石の左に「世話人 関戸祐一 栗田安◯ 山之井庄右ェ門 河内弥三郎 鈴木定次郎」右に「発起人 関戸長左ェ門 桃田与惣右ェ門 伊藤喜三郎」などの銘が刻んであったが。高台から「本堂」を見る。狛犬(右)。狛犬(左)。石段を下りて行くと「村社 八雲神社」碑。石段を振り返る。こちらが本来の参道なのであった。そして脇の細道から「北鎌倉駅」のホームを覗く。そして線路脇の細道を左に曲がり進み長い石段を上る。階段の途中左には横穴が有り入口には扉が付いていた。民家への入口であろう。ポストや玄関チャイムもあったので。そして石段を上り切ると正面に山門が現れた。扁額は「大機山」。寺号標「雲頂禅庵」。「境内の拝観はできません」とあり、「山門」の下には格子状の扉が閉まっていた。ここは既に円覚寺境内であり、円覚寺境内の一番西にある塔頭・「雲頂禅庵」。正面に新装なった「本堂」。「「雲頂菴」は、もとは禅宗では五山、十刹に次ぐ寺格「諸山」に列せられていた大崎山 長勝寺の塔頭でした。長勝寺は1296年、大覚禅師 蘭渓道隆の法嗣 仏燈国師約翁徳倹により創建され、その後、二世 空山円印が開山塔頭として雲頂菴を興しました。開基は、長勝寺、雲頂菴ともつまびらかではありません。鎌倉幕府の滅亡、南北朝の混乱、室町幕府の成立など激動の時代にもよく寺勢を保ってきましたが、永享の乱(1438年)によりすっかり衰え、かろうじて命脈を維持していたところ、文明年間の1460年前後から、主の関東管領 上杉氏をおさえて台頭してきた長尾氏 ― 長尾尾張守 忠景・顕忠父子 ―が後ろ盾となって(中興開基)再び寺勢を盛り返し、戦国の乱世の時代に大檀那 長尾氏の厚い外護のもと寺勢を保ち、円覚寺において中心的な役割を果たしました。その後、江戸時代に入って円覚寺の塔頭に列せられ、今日に至っています。」とネットより。「本堂」の右手にある白壁の建物は「庫裡」であろうか。「雲頂菴について」をホームページより。「山門」前から南西方向の山の中腹には「北鎌倉女子学園中学校・高等学校」が見えた。「雲頂禅庵」の境内の隅にあった石仏を見上げて。水子地蔵菩薩(子安地蔵菩薩) であろうか。「雲頂菴」の関係者専用の入口がその先に。ここまでは車が入って来られるようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.23
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そして「日比谷花壇大船フラワーセンター」を後にし、帰路のトンネルを出た直後の右側にあった「龍寶寺」に立ち寄った。前回訪ねたのは、昨年6月9日で約1年ぶり。鎌倉市植木129。「龍宝寺●宗派 曹洞宗●山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺●建立 16世紀中頃●開山 泰絮宗栄(たいじょそうえい)●開基 北条綱成(ほうじょうつなしげ)玉縄三代城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ)が建立した瑞光院(ずいこういん)ともいわれる香華院(こうげいん)がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。また、境内には「正徳の治」を行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。」「陽谷山 龍宝寺 案内」石碑。宗派 曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏開山 泰絮宗栄大和尚開基 玉縄城主(北条綱成、氏勝)本堂 木造銅葺重層入母屋造 (昭和三十五年建立) 設計 大岡 実山門 江戸時代元禄年間造鐘楼堂 設計 大岡 実面山瑞方禅師の銘文記す一、玉縄北条氏の供養塔一、新井白石公の碑一、金比羅宮一、子育地蔵尊堂一、福徳稲荷堂(天保年間造)一、弁天堂一、道祖神一、玉縄ふるさと館一、旧石井家住宅(国重要文化財) 歴史民俗資料館(鎌倉市指定)「山門」の扁額は「陽谷山」。寺号標「曹洞宗 陽谷山 龍寶寺」。「三界萬霊寺」碑。「禁葷酒(きんくんしゅ)」碑。「酒の匂いをさせて山門を潜るべからず」という意味。「葷=くん」とは、酒や、ニラ、葱 の様に 強い香りのするものを意味している。ニンニク・ネギ・ニラ・ラッキョウ・ノビルなど、においが強くくさい野菜、これらの五つの野菜を五葷と言うのだそうです。五葷は、精力がつき過ぎて人間の心を乱すところから、修行の妨げになると考えられ禁止されたようです。「禁葷酒入山門」(この場合、普通は、「くん酒 山門に入るべからず」と漢語では読む。石畳の参道を進む。右手にあったのが「玉縄歴史館」👈リンク。ここは、後日ゆっくり訪ねたのであった。その先、右手にあったのが「子育地蔵堂」。「子育地蔵尊」。團野功雄の歌碑。「いぞそらは 吾が身散るとも 我が心 堅く護らん 皇孫の國 功雄」。裏面には「神風院殿至誠明道大居士 神風特別攻撃隊至誠隊隊長 従七位功三級勲五等海軍少佐團野功雄 支 昭和十九年十月二十九日大東亞戦争比島沖航空戦ニ於テ 第ニ神風特別攻撃隊隊長トシテ勇戦名譽ノ戦死ス 行年二十四歳」とあるそうだ。辞世の句だと。更に参道を進む。左手には石碑群があった。2基の庚申塔と馬頭観音と銘がある石塔が立っていた。「道祖神碑」。「力石」であろうか。「文字庚申塔碑」(左)そして左手には「芍薬園」があったが、ここも「日比谷花壇大船フラワーセンター」と同様に花のピークは終わっていた。参道の奥の小さな社は「福徳稲荷堂」。そして正面の石段上に「本堂」。鹿の姿がある石灯籠。「回向柱」。「本堂」「本堂」の扁額「龍寶寺」。内部から住職の読経の声が聞こえてきていた。法要が行われていたが3名のみが着席。これもコロナ対策であろう。家族でのご先祖への供養もコロナ禍でままならないのである。「本堂」横にあったのが「玉縄北条氏供養塔」。「玉縄北条氏供養塔永正九年(一五一二)伊勢宗瑞(通称北条早雲)が玉縄城を築城し、小田原城の支城として関東進出の重要な役目を果たしてきました。戦乱の渦中に、その名を轟かせた北条綱成、氏繁、氏勝は玉縄城主としてよくこの地を治め、外に向かっては勇猛果敢に戦いました。この供養塔は、龍賓寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永五年頃)元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍賓寺墓地裏の尾根上に移設しました。この度、玉縄城築城五〇〇年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いっも塔が倒れていて誰かが直しておくとすぐにまた倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。」「本堂」横にも「火灯窓」が。「本堂」の裏にも渡り廊下で繋がれている建物が。裏山への石段もあり、山頂には三代・北条綱成、氏繁、氏勝の墓所もあると知ったのでこの墓所も訪ねた。龍宝寺裏山には、龍宝寺四世の良順和尚によって、元和年間から寛永5年頃(1615年から1628年)に建てられた玉縄城主:北条綱成、氏繁、氏勝の墓といわれる石塔が並んでいた。中央に北条綱成:瑞光院殿實州宗心大居士右に北条氏繁:龍寶寺殿応大栄公大居士左に北条氏勝:上嶽寺殿角翁良牛大居士 裏山の墓地から戻り、本堂を振り返る。「寺務所」であろうか?参道の裏の細道の奥には「日本ミツバチ」の巣箱があったが、蜂の出入りは全く無かった。芍薬畑の隅には花菖蒲が咲いていた。純白の花菖蒲。そして竹林の先にあった「鐘楼」。「欅(けやき)一本造」と。鐘をズームで。反対側から。竹林の下には「旧石井家住宅」の姿が。そして参道を戻り「玉縄幼稚園」手前の細道を右に入るとあったのが「新井白石之碑」。「新井白石」の知行一千石のうち二百石分が「龍寶寺」の門前にあったことから、「新井白石」と「龍寶寺」僧との間に親交が生じ、享保11年(1726年)にこの石碑が建てられたと。「新井白石之碑」。碑文は室鳩巣(むろきゅうそう・室直清)の撰文といわれるが、風化によって全く読めない。「新井白石之碑」の横にあった「金比羅宮」。正面から。「内陣」。「金比羅宮」の脇の細い坂道を上って行く。右手に石仏、石塔、石碑が並んでいた。「越元童子」、「元禄十一戊寅十一月十六日」の文字が。様々な石碑が並ぶ。五輪塔と宝篋印塔。「大絶餓鬼会為當山門前捕虜収容所病疫者諸精霊菩提供養塔 當山」とある。戦時中は山門前に捕虜収容所があり、そこで病死した捕虜の菩提をここ龍宝寺が弔って来ているのだと。そしてこの後に訪ねた「旧石井家住宅(重文)」。元禄期に建てられた農家(名主)。参道から。「センダン」の木で、別名は”金鈴子(きんれいし)や“千珠(せんだま)"と呼ばれています。「センダン」と書かれた札。「栴檀は双葉より芳し」(センダンは苗の段階から良い香りがするように、才覚のある人物は幼少時からそれを発揮するという意味)で知られるが、本来これは熱帯アジア産のビャクダン(白檀)を語ったもの。センダンの枝葉や材には香りがないのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク次に訪ねたのが「甘糟家(あまがすけ)長屋門」。「高野の切通し」を下りると大船一の地主であり、大船村の名主であった甘糟家が見えて来た。母屋の前には寄棟造瓦葺きの長屋門があり、保永5年(1708年)築と言われ、昭和60年(1985年)に改築されたものであると。長屋門の奥に見えた木造平屋建の母屋の屋根は高く、寄棟造であることから、萱葺き屋根に銅版を被せたものであろう。入口にはチェーンが張られ「長屋門」の正面には行けなかった。もちろん、現在もお住まいの民家であるので已む無し。「長屋門武家屋敷門としては発生し、その後 侍屋敷や裕福な農家・庄屋でも造られた象徴的建物。 門の両側に門番や家臣・使用人の居室が置かれたり、納屋や作業場を配置した兼用家屋。 門中央の両開き大扉に付随する潜り戸が両・片方配置や壁仕上げに漆喰か板張りかにより、家の格式を見ることができるのであった。「甘糟家」👈リンク の「長屋門」と「母屋」を斜めから。「かっては大船駅まで地続きだったと云われ、今も1000坪からなる敷地には長屋門と高い屋根の母屋(58坪)、庭には池や小川を配し、屋敷まわりは林や畑作地で囲われ、その裕福な昔を偲ばせます。 当家が この地に館を構えたのは室町時代と云われ,吾妻鏡(鎌倉期)や相模風土紀(江戸期)にも出てくる歴史に名を留めている家系だそうです。近くには常楽寺や熊野神社、きれいな多門院がありますが、甘糟家を抜きには語れない歴史があり、又小型ながら原型をとどめた「高野の切通し」見晴らしの良い六国見山ハイキングコースもあり、静かな古都のたたずまいに触れられます。長屋門 : 木造平屋建て 寄棟造り 瓦葺き 母 屋 : 木造平屋建て 寄棟造り 下茅葺き 銅板葺き覆い 築 : 1708年(保永 5年) 改築 ; 1985年(昭和60年)」とのネット情報から。 続いてこの日の2つ目の切通しの「長窪の切通し」を目指す。途中のT字路角にあった「道標」。案内に従い右の「長窪」方面に進む。左に曲がると「高野経由六国見山」と。左手に進むと先程訪ねた、大船高校と熊野神社の間の「高野の切通し」に辿り着くのであろう。真っ直ぐ進んで行くと道が二手にわかれていて、右側が少し上り坂になっていた。民家の横のこの狭い山道が「長窪の切通し」への入口。こちらは、いきなりいわゆる「切通し」が始り、崖の高さも「高野の切通し」より高かった。高さは5m前後はあったのであった、うっそうと路端に茂るシダなどの植物に白い切り立った壁面、その上には根っこも顕になった樹々の姿が。人馬がすれ違うにはしんどそうな道幅。この「切通し」の崖にも地層がはっきりと現れていた。緩やかな曲がりが続く。この「長窪の切通し」も「高野の切通し」と同じくいわゆる「鎌倉七口」には含まれていないのだ。鎌倉北部の六国見山の西側にあり、少し南側に県道21号(横浜鎌倉線)が走っている。鎌倉七口のひとつ巨福呂坂切通しもある道なので、鎌倉時代にもそこが主要街道で裏街道的な「切通し」だったのであろう。そして出口へ。ここもすれ違う人もなく独り占めの「切通し」なのであった。「長窪の切通し」を後にして進むと右下にあったのが「辻遊水池」。「辻遊水池この池は、大雨の時雨水を一時貯留して下流へ少しずつ流し、河川の氾濫を防ぐ大切な役目をします。」貯水量:17,000m3水深 :6.4m池面積:2.59km2この場所は「高野3号緑地」と呼ばれているらしい。そして「大船高校」方面への下り坂を進んで行った。左カーブの始りにあったのが「高野台 (たかのだい)供養塔」。「高野台 供養塔」。「高野台供養塔」の横に「五輪塔」が2基。左奥の崖下には3基のやぐらのような横穴があり多くの「五輪塔」が安置されていた。「高野台供養塔」と書かれた石碑の裏には、「各戦場の諸武士之霊」と書かれ、これがかつて、ここ鎌倉の地において、激しい戦いの中に命を落とした、さまざまな時代の武士たちを弔うために建立されたことが理解できたのであった。坂を更に下り「高野台供養塔」を振り返る。平成元年に大船土地区画整理組合が高野台造成時に建立したもので、この辺り周辺に散在していた小さな五輪塔50余基をこの場所に集め供養されたのだと。右手の斜め方向に白き「大船観音像」が見えた。JR大船駅の近くにある巨大な像なのである。ズームして。鎌倉市岡本一丁目にある曹洞宗の寺。大船観音と通称される全長約25メートルの巨大白衣観音像。「大船観音」👈リンクは1929年(昭和4年)、地元有志の発起により、護国観音として築造が開始され、1934年(昭和9年)には輪郭が出来上がっていたが、戦局の悪化により、築造は中断。その後、20年以上放置される。第二次世界大戦後、財団法人大船観音協会が設立され、1960年(昭和35年)4月に完成したのだ。陸橋を下って行った。左下にあったのが「鎌倉市立小坂小学校」。そして「大船高校入口」交差点を左折し、JR横須賀線方面に歩を進めた。そしてJR横須賀線の踏切・「第二鎌倉道踏切」を渡る。この野草?の名は?「ツリガネズイセン(釣鐘水仙)」に似ているが?そしてタンポポの綿毛。タンポポの綿毛に息を吹きかけて、種を飛ばしたことは誰もがあるだろう。実は、このタンポポの種には、物理学者が注目しているのだと。タンポポの種は、そよ風(あるいは人の息)に乗って広がり、ときには数キロメートルも離れたところへ飛んでいくのだと。ツツジも開花して。様々な色で楽しませてくれた。右手には神社への階段があったが、ここは後ほどに。次に訪ねたのが「成福寺」。山門の手前にあったのが「成福寺」の「門信徒会館」。正面から。元の庫裏跡に平成15年2月に新築完成した。門信徒会館の2階には色々な行事が出来るホールがあるようだ。そして。藁葺き屋根の「山門」。「四足門」(しそくもん)と呼ばれる門。四足門とは、二本の親柱の前後に、それぞれ二本の控柱のある門。 「山門」は、江戸時代の初め頃、今の鎌倉市山崎の領主であった、 奥平氏の娘「崇高院」がこの寺の教えを受けたときに屏風などの宝物と一緒に自分の家の門を寄付されたものと。この「山門」はJR横須賀線の車窓から何回も見ており、気になっていたが、この日に初めて訪ねたのであった。寺号標「亀甲山 成福寺」。鎌倉唯一の浄土真宗の寺院であると。「宗祖聖人御舊跡」掲示板には「私の上にあるものは全部賜うたものである。念仏となって私の口から現れて下さるみ仏のはたらき」と細川巌師の言葉であると。「山門」を潜り石畳の参道を進む。左手に庚申塔が並んでいた。近世のものに紛れて中世の五輪塔・宝篋印塔がみられるのであった。左側。右側。そして「本堂」。鎌倉時代の創建で、本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は、鎌倉幕府第3代執権 北条泰時の子、北条泰次(「沙門院泰次入道」、後に改宗し「成仏」)である。泰次は幼少より仏の道に入り、天台宗の僧として成福寺の裏山で修行している時、親鸞聖人に会って弟子となり貞永元年(1232年)、浄土真宗に改宗して成福寺を開いたと伝わります。「成福寺の後方(北東側)の山は亀甲山といいます。厳島神社はこの山上にあります。かつてこの場所には、成福寺の鬼門除けの神社である八幡社がありました。また成福寺の南側横須賀線の線路を挟んだ辺りには弁天社(現 厳島神社)がありました。また近くには吾妻社もありました。横須賀線(明治22年(1889)開通)の開通工事のおり、弁天社は吾妻社の敷地(現 小袋谷公会堂敷地)に移されました。大正十二年(1923)、関東大震災でこれらの神社は倒壊しました。昭和二年(1927)、八幡社があった場所に、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主神として厳島神社(旧 弁天社)が移転し再建しました。昭和四年、吾妻社を合祀しました。昭和八年、八幡社を合祀しました。祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、橘姫命(たちばなひめのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)の三柱です。なお、弁天社は弁財天を祀っています。弁財天は仏教の神ですが、民間信仰では安芸の厳島神社の主神である市杵島姫命と同一視されることがあります。そこで明治の神仏分離のおり弁天社の多くが厳島神社と改名しました。」とネットより。鎌倉市小袋谷2-13-33。「親鸞上人像」。親鸞聖人七百五十回大遠忌法要記念 親鸞聖人像 平成二十三年十一月二日ズームで。東郷平八郎書の「忠魂碑」。当初建立されていた場所は、現在の鎌倉市立小坂小学校運動場の道路側(昔の正門を入った右側)であったが、戦後米軍の指示で撤去を求められ、この石碑を作る際当時の成福寺住職が石の手配等東北まで行ったご縁で、成福寺の境内に移設されることになったのだと。奥にあった「墓地」。俳優・笠智衆さんの墓所があると先程ネットで知る。本堂裏山に成福寺開基鎌倉幕府三代執権北条泰時の子泰次が"沙門院泰次入道"と名乗っていた頃、こもって修行した「亀の窟(かめのいわや)」といわれる岩屋跡があった。現在は危険防止のため柵があり立ち入り禁止となっていた。また、鎌倉幕府滅亡が無住の時代が続き、戦国期には小田原北条氏による弾圧を受け、九代宗全は伊豆国に逃れ成福寺で暮らしていたという。そして「山門」を再び横から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.22
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「グリーンハウス(温室)」を後にして、「本館」に向かって進む。広場の「ルピナス」を再び。「ヤマモミジ」の盆栽。「くろまつ」の盆栽。「紫陽花」と「ケイワタバコ」。「ハナショウブ園」の開花はこれから。今人気の「台湾パイナップル」か。「本館」近くにあった「クレマチス」。白の「ジギタリス」であろうか。ピンクの「シギタリス」。花の内側には、特徴的な斑点がある。「ネモフィラ」。「ネモフィラ」は森の妖精のような、澄んだブルーの花が愛らしい。青の「ガクアジサイ」。ホンアジサイは「移り気」「浮気」「高慢」というネガティブな花言葉を持つのに対して、ガクアジサイの花言葉は「謙虚」。そして「日比谷花壇大船フラワーセンター」にての最後に「アフリカのバラ」展が「本館」の2階で行われていたので訪ねたのであった。「本館」2階のフラワーセンターを訪ねた。入口の展示。全面の展示を正面から。「ケニア共和国」の国旗の中央にある「槍と盾」をデザインした敷物の上に色鮮やかなバラが展示されていた。ケニアで生息する「マサイキリン」3頭と色鮮やかなバラ。花に近づいて。左側のバラ。そしてその横には一輪挿しのバラが並ぶ。「バラ開発の最前線ケニアはイギリス・オランダ・インド・イスラエルなどから花のプロたちが集まり、3年後、5年後の流通を目指して、現地の生産者とともに新たなバラの開発を行っています。ケニアは世界でも有数のバラの産地バラは品種により好む環境が異なりますが、一般論としては、標高が高い島ほど大きな花をつけるとされています。テニアにある標高2000mほどの上地ては、気温が程よく安定しており、いくつもの品種のバラを栽培するのにうってつけの環境てす。」「栽培に適した気候ケニアは赤道地域に位置しますが、地方によって高度に大きな差異があり、蒸し暑い海岸から涼しい高地まで、多様な気候条件が存在します。1,500メートルを超えると温帯気候で、日中の気温は22℃~30℃、夜間は6℃~ 12℃てす。南の日は6℃~12℃です。雨の日は60~80日程度で、1年のほとんどはすばらしい日照に恵まれます。これは、温室を用いることなしに、高品質の花を1年中栽培できる理想的な環境です。ケニアの切り花産業ケニアからの園芸部門は.経済全体て最も成長の速い産業の1つであるとともに、観光と紅茶に次いて3番目に大きな外貨獲得産業てす。ケニアからの園芸産品の輸出の歴史は、独立前.当時英国の梳民地であったケニアが、東アフリカの財政運営に寄与することを求められていた時代にさかのほります。独立後も、園芸産業は、欧州向けの輸出が増え、輸出市場でのケニアの滋在能力が認められるのに伴い、成長を続けました。輸出が順調なのは、ケニアが1年を通して品質の良い製品を供給することがてきることによると考えられます。」。「カルーセル」。「シャポー」。後ろ側の展示コーナー。ケニア産の「マンダリンガーネット」と「セリコパラサイト隕石」のネックレス。「マサイ族の民族衣装(女性)」。「マサイ族の民族衣装(男性)」。こちらにも一輪挿しのバラが並んでいた。「トップギア」。「グッドタイムズ」。「ファイヤーフラッシュ」。「アテナ」。「ダウンタウン」。独り占めの空間と時間であった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.05.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「木曾塚(木曽義高の墓)」を後にして前の道を東に進み県道21号線・鎌倉街道に出てここを右折して進むと、右の高台にあったのが「鎌倉大船キリスト教会」。鎌倉市大船5丁目11−12。県道21号線・鎌倉街道を渡り、教会の先にある急な石段を上る。この鎌倉街道の場所は「切通し」の如き場所であった。路端にあったのは真っ赤なツツジだったであろうか。スマホの案内に従い大船の住宅街を進む。これから訪ねる予定の「多聞院」、「熊野神社」の案内板があった。「熊野神社」の石鳥居の前、「多聞院」入口の右側にあった「庚申塔群」。門前の右手に5基の石塔あり、そのうちの3基が庚申塔。ほかに念仏塔、 地蔵尊があった。一番右から「南無阿弥陀佛」と刻まれた「念佛塔」。「板状駒型庚申塔」日月雲台 青面金剛像 合掌六臂 邪鬼 三猿上辺に「日月」、中央に合掌した六手の青面金剛像。邪鬼を踏んで立っている。下辺に三猿。「元文五庚申十月吉日」(1740)と。右手に「奉供養庚申塔 粟船村」とあった。「粟船」は「大船」の地名の前身で、江戸の中期ころまで(「青船」とともに)使われていたと。大昔は大船あたりも海で、入り江があり、粟を積んだ船が出入りしていたのだと。「舟型庚申塔」日月雲台 青面金剛像 四臂 邪鬼 二鶏 三猿 蛇上辺に「日月」、右に「奉納庚申供養為二世安楽」中央に四手の青面金剛像。手には、輪宝、棒、縄(羂索)、蛇を持っている。下辺に三猿。右に「延宝八庚申十一月吉日」(1680)とある。石の頭部には切り込み?が。「板状駒型庚申塔」日月雲台 青面金剛像 合掌六臂 邪気 三猿 (上部継)上辺に「日月」、中央に合掌した六手の青面金剛像。ただし、顔の部分が欠損していた。下辺に三猿。左に「享保十三申年十一月」(1728)、右に「庚申塔」と(下に)「講中」と。そして一番左に「地蔵尊」。そして正面に「熊野神社」の石鳥居、右側に寺号標。「真言宗 多聞院」。「掲示板希望に起き 努力に生き 感謝に眠る人は幸福である。」プロ野球選手・監督の野村克也氏が座右の銘にしていた言葉であると。特に“感謝”は人生の基本だと説く。人間は決して一人では生きていけない。感謝の心を持って謙虚に生きなければいけない。そして、「それを言葉や行動に示すことが大切だ」と説く。「多聞院」の「本堂」。鎌倉市大船2035。扉は閉まっていたが「本堂」に近づいて。「多聞院」は、正式には「天衛山福寿寺多聞院」といい真言宗大覚寺派の寺院。永享の乱により衰退した山ノ内の観蓮寺を、後北条氏に仕えた地侍の甘粕長俊が、1579年(天正7年)熊野神社を勧請するとともにこの地に移し、同社の別当寺として創建したと伝わる。別名「多聞天」ともいわれる本尊の毘沙門天が寺号の由来。「とげぬき地蔵」として知られている。開山 南介僧都開基 甘糟長俊本尊 毘沙門天扁額「天衛山」。「衛」のくずし字がこの様に!?。「水手向き地蔵尊」。水子供養であるようだ。「鐵扉寄附者」碑。「本堂」の鐵扉であろうか。「台座」だけが残されていた。「最蔵坊塚」鶴岡八幡宮神職鈴木左近重安の墓と伝えられている と。宝形造瓦葺の「本堂」を再び。右手奥にあった「不動堂」。大きな扁額「不動尊」と「社号標」の「天衛山 福寿寺 多聞院」。墓地の奥には「やぐら」が並んでいた。そして隣りにあった「熊野神社」を訪ねた。扁額「熊野神社」。石鳥居とその先に「拝殿」への急な石段。石段を上って行った。狛犬(右)。狛犬(左)。そして正面に「拝殿」。扁額「熊墅社」。「琴平宮(大船)」。扁額「琴平宮」。中央に「拝殿」、右手に「琴平宮」、左手に「神楽殿」。「神楽殿」。境内にあるやぐらと祠。「地神塔」。「やぐら」の中に小さな木造りの社が。「天照大神宮千九百年歳紀年碑」。「陸軍工兵壱等喇叭(ラッパ)卒石井乙次郎君碑」。ここにも小さな社。そして「熊野神社」の帰路に「多聞院」の「本堂」の鐵扉が開いたので再び訪ねた。青い「鐵扉」には観音様の後ろ姿?が描かれていた。「本堂」の「内陣」。天井格子には様々な植物の絵が描かれていた。ご本尊・毘沙門天の他十一面観音菩薩座像、牛頭天王、弘法大師像、聖観音、不動明王、薬師如来像などがあると。「本堂」の襖絵。そしてこちらが「本堂」の如き「庫裡」。境内から「庫裡」を。そして「多聞院」を後にすると右手にあったのが「大船町内会館」。多聞院の前の道には、立派な素掘り隧道があったが、ここには入らず手前を左手の細い山道に入る。右手に入っていくと、ここが「高野の切通し」。鎌倉七口とは違ってあまり知られていない切通で、かつては、山ノ内荘と六浦荘とを結ぶ尾根道だったという。この切通しを進み、古道に沿って進むと大船高校の入口となるのだ。枯れ葉が積もった切り通しを歩く。横壁には洞穴が、昔の防空壕の名残か?途中、枯れ枝の山が。ご近所の方が片付けてくれたのであろう。だんだん崖の高さが増して来た。今気がついたが、上部からの木の幹は・・・・・危ない!危ない!。苔生した場所も。地層も確認できるのであった。馬一頭が何とかすれ違える幅。「高野の切通し」を独り占め。前方の路面は全体が苔生して。滑らないよう足元に注意して進む。そして下り坂に。そして出口へ。「六国見山登山道標」が立っていた。「至ル 六国見山(約六百米)」と表示されていた。再び「高野の切通し」を引き返す。左下には「多聞院」の墓地と庫裡が見えた。全く人の姿はなく。そして再び素掘り隧道まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.21
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「シャクヤク(芍薬)園」を後にして「グリーンハウス(温室)」に向かう。広場の先に「グリーンハウス(温室)」が。広場の花壇には「パンジー」と「ルピナス」が。我が趣味の養蜂場にも、種から育てたルピナスを植え付けたが、この様に咲いてくれればと。以前に北欧に行った折りには野山に野草の如くに群生して咲いていた事を想い出したのであった。そして「グリーンハウス(温室)」正面に到着。入口右にあった「チョウキンレン」。「中国雲南省に分布する植物で、バナナに近い仲間です。黄色の花びらのように見えるのは苞葉で、本当の花はその内側にあります。「地面から湧いてきた金色の蓮」という意味で、「地湧金蓮(元は中国名)」と呼ばれています。」苞の付け根に見えるたくさんの小さな筒状の器官が1つ1つの独立した花であると。そして入口左にある最初の部屋に向かう。「サボテン・多肉植物」紹介コーナーが「グリーンハウス(温室)」内で開催されていたのであった。最初の部屋。「ストロマンテサンギア”マルチカラー”」。別名としてはウラベニショウとも呼ばれています。こちらはその名の通りに裏が赤いことからのようです。可愛らしい赤い花が密集して。この植物は??。次は「ハイビスカス室」。天上には日除け用の白いシートが。ピンク、オレンジ等様々な色のブーゲンビリアの花が。ブーゲンビリアにも様々な名前がついているのであった。「チェリー ブロッサム」。「レインボー ピンク ゴールド」。「サンデリアーナ」。「サン ディエゴ レッド」。「カリフォニア ゴールド」。「デュランタ」。近づいて。デュランタは藤色や白の小花が集まって房状に垂れ下がって咲く人気の熱帯花木。花は長い花期の間次々と開花し、花後には丸い果実を実らせ、果実は熟すとオレンジ色になるのだと。。「ミツバチについて知ろう」コーナーがこの日も。「養蜂とは」コーナー。「ルリマツリ」。涼しげな青色の花が魅力。プルンバゴの名前で呼ばれることもあります。ブラシの木(赤)・「アカバナブラシノキ」。ブラシの木(白)・「シロバナブラシノキ」。「コエビソウ」。朱色の苞が重なったユニークな形がエビのように見えて美しいですが、その間から出る白い花はあまり目立ちません。そして「つる性植物室」。「アルビフロラ」。「ソラヌム シーフォーシアヌム」。ナス科のつる性常緑低木で熱帯アメリカ原産。「バナナ」。「ソラヌム ウエンドランディー」。中央アメリカのコスタリカが原産です。常緑または半常緑の蔓性で、長さは3~6メートルに。葉は長さ20センチほどですが、全縁から羽状裂するものなど変化に富んでいます。夏、茎の先に花序をだし、淡い紫色の花を咲かせます。花はやがて藤色から白色へと変化していきます。「すいれん室」へ。「ホワイト パール」。純白な花弁に、生えそろった黄色の蕊が美しい熱帯スイレン。「セントルイスゴールド」。熱帯性、昼咲き、黄色、小中輪の園芸品種。熱帯スイレンは、花茎を水面より上に数cm伸ばして花を咲かせます。「エルドラド」。イエローベースの強めな品種ですが、よりシャープな印象を与えてくれます。ほとんど、おしべと、花弁の色彩が同色である点も本種の特徴。「グリーン スモーク」。スイレンの中でも最も特殊で独特の色合いの花を咲かせます。花は中心部分が緑っぽい黄色で外側にかけて青みがかってくる独特の色合いをしています。その神秘的な色合い故に非常に人気が高い。「ドーベン」。花弁の先にほんのりとブルーの入る白花種です。花は小さいものの非常に育てやすく、秋遅くまで咲き続けます。「ティナ」。明るい青紫色で、やや小ぶりな花ですが、非常に花つきが良く、小さな株のうちから絶え間なく花を咲かせてくれます。「ミセス G.H プリング」。熱帯スイレンのブリーダーとして有名なジョージプリングが夫人に捧げて命名した品種。花色はややクリームがかった白で、葉はわずかに茶色のドットが入り、葉裏もわずかに赤みを帯びる。「スター オブ サイアム」。濃い紫色の模様が明瞭な昼咲き性の熱帯スイレン。花は青紫色で、大きくはないが、葉だけでも存在感のあるスイレン。そして「花鉢室」へ。ここでは「サボテン・多肉植物」紹介コーナーが開催中であった。美しいサボテンの花の写真が。そして展示されているサボテンの花を追う。そしてサボテンの不思議な姿を追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は4月9日(金)、「古都「鎌倉」を巡る」の3回目として、JR大船駅から北鎌倉に向けて歩き出し、最後は建長寺の裏山にある「建長寺半僧坊」まで歩いたのであった。小田急線、JR東海道線を利用して「大船駅」で下車し、東口からこの日のスタート。「松竹通り」を大船二丁目方面に進む。途中右手奥の「中央労働金庫大船支店」の建物の壁には一面に「つる植物」が美しく。道路の両脇にはツツジが開花中。そして右側にあったのが「山蒼(さんそう)稲荷神社」。北向きの一の鳥居から境内を見る。鎌倉市大船2丁目21。東を向く二の石鳥居の先に「社殿」があった。二の鳥居の扁額「山蒼稲荷神社」。「手水舎」。正面に狛狐とその奥に「社殿」。狛狐(右)。その後ろに真っ赤に塗られた社務所?狛狐(左)。台座の裏には「松竹株式会社」の文字が。各町内会の名前も。「奉献 山蒼稲荷神社由緒碑今世初期、或ル先覚カ遠大ナ都市計画ヲ目論ミ、此地一帯ノ開発ニ着手シタカ、当初ヨリ災厄ノ続出ニ事業ノ中断ヲ余儀ナクシ、為ニ、地元有志ト協議ノ末、霊主教某教主ニ本旨ノ時宜ヲ諮ッタ。スルト某ハ此地ノ、守護神トナスベク稲荷大明神ヲ招致シ、以テ、鎮守ヲ祈願スルニ然カス、トノ指教ヲ寄セラレ且昭和五年秋教主カ御神体ヲ刻マレタノテ時ヲ藉サス、眺望絶佳、樹林鬱蒼ノ丘ニ社殿ヲ建テ、山蒼稲荷神社ト命名シ御神体ヲ祭祀スルニ、以降、神助ノ故カ事業ノ都テカ順調ニ進捗シ初期ノ目的ヲ遂ケ大船今日ノ発展ノ因ヲ作シタ。而ルニ同九年、松竹蒲田撮影所カ此地ニ矚目シ進出セントスルヲ識リ本所ニ社殿ヲ遷シテ現今ニ至ッテイル。本神社カ此処ニ坐ス経緯ヲ敍述シタ所以ハ向後、尚、彌増シ、此処ノ伸張ト災厄祓除ニ既往ノ霊験ヲ垂レ給ワンコトヲ希ッテニ他ナラナイニ拠ル。 以上ノ考証ハ巷間、僅カニ散見サレタ記録ト流布スル口碑ニ基スイタモノテアル。昭和五十七年十一月三日 抍岡 智 撰」要旨は「大正11年(1922年)大船駅東口一帯を、東京の田園調布に倣って、高級住宅地にするという大船田園都市構想が計画されていました。しかし、開発に着手した当初から事故が続いたため、地元の有志が集い、昭和5年(1930年)に、松竹撮影所があった場所に山蒼稲荷神社(さんそういなりじんじゃ)を建立し祈願したところ、災厄が治ったと。その後、山蒼稲荷神社は、昭和9年(1934年)松竹撮影所建設のため、現在の場所に移された」と。「社殿」近づいて。道路脇の歩道には鎌倉市の花「リンドウ」、1975年(昭和50年)10月25日に制定された。「漢字で書くと「竜胆」、呼び名の「リンドウ」は竜胆(リュータン)が訛ったもので、中国でこの名が付けられました。これはリンドウの根から「リンドウコン」という薬がとれるのですが、竜の胆(きも)のように苦いということからだそうです。リンドウの薬効は古くから、世界的にも知られていて、主には苦味健胃、消化不良、食欲増進、解毒などに効果があるそうです。うさぎに化けた神様がリンドウの薬効を教えてくれたという言い伝えもあります。」とネットより。「松竹前」交差点を直進する。そして直ぐに右折したが道が間違っていることに気が付き戻る。「現在位置」。正面に「鎌倉女子大学 大船キャンパス」の正門が。鎌倉市大船6丁目1−3。1989(平成元)年、平成の幕開けとともに、校名を「京浜女子大学」から「鎌倉女子大学」に変更したのだ。「校章」。校歌・学生歌の作詞者でも あった学祖夫人・松本千枝子先生が日本神話の三種の神器をモチーフに 意匠化したもの。日本神話でいう「三種の神器(八坂瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)・矢咫(やた)の鏡・草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」でかたどられています。この3つは教育でいう「知育・徳育・体育」を象徴すると同時に、人間として最も大切な徳とされる「知・仁・勇」を意味しています。創立60周年を機に、英語の大学名”KAMAKURA WOMEN'S UNIVERSITY” と教育の理念である「感謝と奉仕」を意味す るラテン語“GRATIA ET MINISTERIUM”が入れられた。そして引き返すと左側にあったのが「松竹大船ショッピングセンター」。左折し、「松竹大船ショッピングセンター」の南側を進む。左側にあったのが「鎌倉芸術館」の建物。「鎌倉芸術館」の正面に廻り込む。「鎌倉芸術館催物案内」。そして「鎌倉芸術館」正面。鎌倉芸術館は1993年に開館した1500席の大ホールと600席の小ホール、展示ギャラリー、リハーサル室などを完備した大型文化会館。鎌倉市大船6-1-2。開館から2006年3月までは財団法人鎌倉市芸術文化振興財団が管理を行っていた。2006年4月からはサントリーパブリシティサービスグループ(サントリーパブリシティサービス株式会社・株式会社共立・株式会社東急エージェンシー)が管理を行っているとのこと。「共に生きる」の大きな書が正面玄関の2階の館内に展示されていた。書家・金澤翔子さんが揮毫した「共に生きる」で鎌倉市に今年の1月に贈呈されたものと。作品は縦約1m、横約4mであるとのこと。左手奥に「鎌倉女子大学」のキャンパスが見えた。左手にあったのが「大船中央病院」。正面に「三菱電機(株) 情報技術総合研究所」。正門横の八重桜が満開。ズームして。南東に進み、大船5丁目の住宅街の坂道を上って行った。右手の急な石段を上る。石段の上には「大船むくどり公園」があった。公園の奥を進むと石碑が現れた。ここは「常楽寺」👈リンク の裏山(粟船山)にあたり、「木曽義高の墓」と伝わる塚があった。塚の先に石碑が2ヶ所に。塚に生える木の近くには「卒塔婆」が奉納されていた。「木曽冠者義高之墓」碑。「義高ハ義仲ノ長子ナリ 義仲嘗(カッ)テ頼朝ノ怨(ウラミ)ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸(ヨウヤ)クナル 爾来(以後)頼朝ノ養ウ所トナリ其女(ムスメ)ヲ得テ妻トナス 後義仲ノ粟津ニ誅(チュウ:殺)セラルルニ及ビ遁(逃)レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 塚ハ元此地ノ西南約二町木 曾免(キソメン)トイフ田間ニ在リシヲ延宝年中(1673‐1681)此ニ移ストイフ 旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻ヲ伝ヘテ数奇ノ運命ニ弄(モテアソ)バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級(シュキュウ:首)ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ」意味は【木曽義高(きそよしたか)は、木曽義仲(よしなか)の長男であります。かって義仲は、頼朝の怨(うらみ)を招き、戦になろうとした時、義高を人質として鎌倉に送ることで、ようやく和解することができました。それ以後、義高は、頼朝の世話になり、 その娘を妻に迎えました。そして義仲が大津で殺害されたことを聞いた時、鎌倉を逃げ出しましたが、入間川で捕えられて斬られました。塚は、もとこの場所から西南に約200メートルの所の木曽免(きそめん)という田の間にあったものを、 1680年頃に、ここに移したそうです。旭将軍といわれた義仲は、激しく豪快な短い人生を送り、不運で薄命であったその息子の首が、この場所にて永い眠りを結んでおります。】と。「木曽清水冠者義高公之墓」と刻まれた石碑。もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、1680年(延宝8年)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫(源頼朝と北条政子の長女)の婿ということで鎌倉に送られてきている。しかし、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源範頼・源義経らが義仲を討つと、鎌倉の義高をも誅殺した と。そして塚の横の階段を下って行った。左手に石祠の如きものが現れた。「姫宮の墓(姫宮塚)」。北条泰時の娘の墓とも大姫(源頼朝と北条政子の長女)の墓ともいわれていると。「栗船稲荷 姫宮の墓」。「栗船稲荷」。下の写真の「影隠地蔵」は、入間川に架かる新富士見橋を渡って1キロメートルほど先の奥州道交差点に面して立つ。この地蔵が「影隠地蔵」と呼ばれるのは、源義仲の嫡男で頼朝の娘婿となった清水冠者義高が、実父の死をきっかけに頼朝から追われる身となったとき、難を避ける目的で一時的に地蔵の背後にその姿を隠したためといわれているのだ。現在は石の地蔵で柏原よりに立っているが、かつては木像でしかも広瀬側に地蔵堂があり、その中に安置されていた。石の地蔵になったのは明治7年(1874)のこと。その理由ははっきりしませんが、明治政府がとった仏教の抑圧・排除運動である排仏毀釈により、木像の地蔵が処分されたためと。・狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕・指定日:昭和52年(1977)9月1日【https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/citypromotion/tanoshimu/minamotoyoshitaka.html】より「清水冠者源義高終焉の地」👈リンク木曾義高(木曽義高)は4月26日、武蔵国の入間河原の八丁の渡で追いつかれれて、堀親家の郎党・藤内光澄に首を捕られました。享年12。首は鎌倉に送られたが、遺体はそのままだったようで、里人により、討ち取られた入間河原に葬られましたが、畠山重忠らの助言があったようで、その地に狭山・清水八幡宮が建てられている。 【https://hotokami.jp/area/saitama/Hkktp/Hkktptm/Dyymg/154780/】より「清水八幡市指定文化財 史跡所在地 狭山市入間川三-三五-九 八幡神社指定年月日 昭和五十ニ年九月一日清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。義高は源(木曽)義仲の嫡男ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子のとの間に生まれた娘、大姫の婿となっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふるかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町を目指して逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果たした地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡宮ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われます。」 【https://twitter.com/KagolaboJp/status/1502551514103316481/photo/3】よりそして再び階段を上り「大船むくどり公園」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.20
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「バラ園」を後にして隣りにある「シャクヤク(芍薬)園」に向かう。「シャクヤク(芍薬)園」は既に峠を越えていたが。「シャクヤク(芍薬)シャクヤクは、中国北部からシベリア東南部、朝鮮半島北部に分布するボタン科の多年草です。中国、朝鮮半島などから、奈良時代に薬用として渡来しましたが、観賞用としても栽培され、江戸時代中期には多くの栽培品種が育成されたと伝えられています。明治の末から、昭和の初めにかけて、この地にあった神奈川県農業試験場では、当時輸出を目的として品種改良か行われ、数多くの品種が育成されました。多くは戦災で失われましたが、残ったものの一部は維持され、大船系としてこのシャクヤク園で穀培しています。その他、高座寒川町の生産者、大谷応雄氏が育成した大谷系品種、イギリスやフランスで当同での花の見頃は5月上イリから中旬で、現在、約170品種2500株を植栽しています。育成され、その後わが国に導入された品種、近年アメリカで他のボタン属と種間交配によってな成された品種なども栽培しています。当園での花の見頃は5月上旬から中旬で、現在、約170品種2500株を植栽しています。」芍薬園を望む。「チョウテンコウ(超天功)」。薔薇咲きの超天功(チョウテンコウ)。「タマノウテナ(玉の臺)」深紅の花弁で シキン 、 タマボタン などと同じく「大船系」と呼ばれるシャクヤクの一つで、かってこの植物園で品種改良が行われていた頃の作出種であると。「リチャードカーヴェル」。中国北部~シベリア南部原産の多年草、古くより中国、わが国で交配改良が進み、西欧で更に改良の進んだセイヨウシャクヤクの一品種。花壇,切花用。草丈約80㎝,花期は5~6月、鮮深紅色八重咲きの大輪種。「ゲイパリー」。ピンクの花びらに白い内側(オシベが花びら状になったもの?)の対比が面白い。「ショウトウコウ(小桃紅)」。赤いのは雄しべの部分のみで、花弁は純白。 オオレンゲ 、 シキン 、 タマボタン などと同じく「大船系」と呼ばれるシャクヤクの一つで、明治から大正にかけ、園芸植物の品種改良が行われていた頃の作出種。「スイゲツ(酔月)」。以前に「大船系シャクヤク総選挙」で来場者人気1位の酔月(スイゲツ)。「ココノエニシキ(九重錦)」。明治期から実在し受け継がれる牡丹。 花弁の先が白くなる爪絞りの牡丹。濃い桃色と花弁を囲むように入る白色の花色が美しい古典品種。「カガリビ(かがり火)」。「ザンゲツ(残月)」。「イエロードリーム」。黄色い一重のような八重のようなシャクヤク・「イエロードリーム」。「イエローヘブン」。八重咲き。「イエローエンペラー」。芍薬園の先にあるのが鎌倉市立玉縄中学校。「オオタニベニ(大谷紅)」。「タニノホマレ(谷の誉)」。「シュウスイ(秀粋)」。「タクミノイロ(巧の色)」。「モミノソデ(紅の袖)」。「ヤマトゴコロ(大和心)」「アラナミ(荒波)」。「オオハナイカダ(大花筏)」。「ボール オブ ビューティー」。ヨーロッパから導入された洋種芍薬。オランダしゃくやくと呼ばれ、欧米では大型宿根草として人気が高く、多数の品種がある。「ダッチェス ドゥ ヌムール」。八重咲きの白花の艶やかなシャクヤク。「プリンセス マーガレット」。光沢のあるピンク色がとても美しい。花形も綺麗で、花弁の重なりがゴーシャス。「イエロードリーム」。花の中心部の赤味は歌舞伎役者のくまどりを連想。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.19
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鎌倉山の「檑亭」を後にして、次に訪ねたのが「日本山妙法寺」。鎌倉市鎌倉山1丁目19−5。民家のような建物であった。2015年10月05日に設立した法華経系宗教法人「日本山妙法寺 鎌倉道場」であるようだ。扁額「日本山妙法寺」。題目塔「南無妙法蓮華経」。「立正安国」の文字が。境内の「五輪塔」。そして次に訪ねたのが「鎌倉山神社」。鎌倉市鎌倉山2丁目27−11。「鎌倉山神社祭神 大山津見命(おおやまつみのみこと) 御父 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと) 御母 伊邪那美尊(いざなみのみこと)当神社はもともと本村笛田の農民の鎮守でまた津村の漁民の海上守護の神・(「山の神」)であったのを昭和の御代に当地が鎌倉山住宅地として発展すると共に住宅地の鎮守として奉斎された。昭和十年に鎌倉山在住の有志達の浄財により改装され「鎌倉山神社」と改称された。爾来今日に至るまで鎌倉山住人有志たちが社殿を御守りし毎年八月八日例祭を執り行っている。」社号標「鎌倉山神社」。「社殿」は石宮。「社殿」には、釈迦や、亀に乗った摩利支天の木像が安置されているとのこと。石宮の屋根には「隅切り角に三の字」の紋が。我が市内にある時宗総本山「遊行寺」の宗紋と同じ、その理由は??相模湾が見えた。湘南モノレールの先に相模湾が。ズームして。湘南モノレールの軌道が案外急勾配なことが分かるこの場所。鎌倉山で一番高い場所から江ノ島の姿も。そして更に東に進んでいくと、歴史を感じる黒門があった。ここは別荘・「扇湖山荘(せんこさんそう)」の入口であったが閉まっていた。この別荘を構えたのは戦前の実業家だった長尾欽彌氏で、胃腸薬「わかもと製薬」で財を成した人物。東京世田谷の深沢に本邸があり、1934年(昭和九年)当地に土地を求めて別荘としたものです。敷地は緩やかな傾斜地に一万四千坪もの広さを誇り、飛騨高山から移築した民家や宮家の茶室などが点在し、名立たる庭師の手による庭園が広がるまさに絵に描いたような大豪邸。戦後は人手に渡って「鎌倉園」の名称で料亭となり、三和銀行の研修所を経て市に寄贈され現在に至っていると。「傾斜地に建てられてあるので変則的な三階建てになっており、土台として鉄筋コンクリート造りの洋風建築を築き、その上に木造二階建ての民家を乗せてある」と。ネットからの写真を転載させていただきます。母屋(本館)の奥の部屋の囲炉裏をこちらもネットから。 【https://hosaka.kanagawanet.jp/blog/2017/11/25/2033/】より次に「聖福寺跡」を訪ねた。「聖福寺公園」の中を歩く。この公園の八重桜は今が満開。シバザクラも濃いピンクの花を。近寄って。ネモフィラも。和名を瑠璃唐草(るりからくさ)という花。そして「聖福寺公園」を出た場所にあった石碑。場所は、江ノ電・稲村ヶ崎駅手前の道をひたすら山に向かって上って行ったところ。ここまで鎌倉観光で足を伸ばす人は稀有であろうと。鎌倉市稲村ガ崎5丁目39−6。北条時頼が子供のために建てた寺・「聖福寺阯」碑。「あと」という読み方を持つ漢字には「址」「阯」「後」「迹」「痕」「趾」「跡」「踪」「墟」「蹟」「蹤」などがあり、石碑によって違うのだ。「聖福寺ハ建長六年(紀元一九一四年、一ニ五四年)四月 関東ノ長久並ニ北条時頼ノ息、時輔(幼名聖寿丸)時宗(幼名福寿丸)ノ息災延命ノ為建立セシモノニシテ、其ノ寺号ハ両息ノ名字ニ因ミシモノト伝ヘラルモ、廃寺ノ年代詳ナラズ、此谷ヲ聖福寺谷ト呼ブ鎌倉町青年團建」【聖福寺は1254年4月に、北条時頼(ときより)により建てられた寺です。その目的は、鎌倉幕府が長く続くことと、時頼の2人の息子、時輔(ときすけ、幼児の名前:聖寿丸[しょうじゅまる])と時宗(ときむね、 幼児の名前:福寿丸[ふくじゅまる])が病気をせず長生きできることとを願うためでした。寺の名前は、2人の息子の名前を採ったものと伝えられていますが、この寺が廃止された時期よく分かっていません。 この谷を聖福寺谷(しょうふくじがやつ)と呼んでいます。】と。・建長6年:1254年。宝治-建長-康元。天皇は後深草天皇(89代)、将軍は宗尊親王(6代)、 執権は北条時頼(5代)・北条時頼:1227-1263。鎌倉幕府5代執権。建長寺を建立。出家後は最明寺殿。次に近くにあった「熊野権現社」を訪ねた。正面に石鳥居、その奥に石宮の社殿が。社号標「熊野權現社」。石宮の「社殿」。「不動明王」の石像も。そしてこの日の最後に「龍口明神社(りゅうこうみょうじんしゃ)」まで車で向かう。駐車場に車を駐め石鳥居に。鎌倉市腰越1548−4。社号標「龍口明神社」。「掲示板」。石灯籠。「記念碑 龍口明神社由来御祭神 玉依姫命(神武天皇母君) 五頭龍大明神 玉依姫は海神族の祖先豊玉彦命の姫君に在して彦炎出見尊の妃に在します上に鵜鷀草葺不合尊の母神に在しまし、豊玉姫の妹御に在し給ひ、龍神として尊崇された。 五頭龍大明神の御由緒は欽明天皇十三年四月十二日戌の刻より二十三日辰の刻に至る迄大地振動して終日息ず。即ち孤島を湧出した此を江の島と云い天女降む。是辨戝天の作るところなり。天女惡龍の惡業を戒めた。龍は遥かに天女の麗質を見、其の後改心し村人に害を与えることなく山と化した。村人はその山の海に突出た所の龍の口の様な岩上(龍の口)に社を築き白髭明神と称し村の安泰を祈願した。此龍口明神社の発祥と伝えられている。養老七年三月より九月迄江の島岩窟中にて泰澄、慈覚両大師が神業修行中夢枕に現れた神々を彫作し辨戝天一体を岩本院に、二体を白髭明神社へ納めた。即ち玉依姫命(長さ五寸)と五頭龍(長さ一尺)の御木像が御神体である。此の時、龍口明神社と名付け、江の島と当社の繁りと両地の平和と隆昌を祈願した。鎌倉時代には神䕶により如何なる惡業をした者も此処に血を流すことにより世人に尽すと此の前の地を刑場とした事もある。又氏子はその祟りを恐れ当社の移転改築を長年拒んできた。然し大正十二年関東大震災で全壊した社を昭和八年改築し今日に至ったが、境内地が藤沢市片瀬地域内の飛地津一番地に有ることゝ時代の推移と共に同地区の発展及び人口増加に伴い御祭神のご神慮に依り、此度氏子百余名は江の島遠望清浄の地、竜の胴に当る蟹田ヶ谷一五四八番地の四の当地に遷座申し上げ、此の地の守護神として奉祀するものである。」「龍口明神社」の白い幟の先には。「御神木」はタブの木であろう。正面に「二の鳥居」。「手水場」。龍の手水口。「社務所」。「拝殿」前方に。もともとは龍口(たつのくち)の龍口寺西隣に建っていたが、安政2年(1773年)に龍口が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われた。鎌倉時代には刑場として使用された時期もあり、氏子達は祟りを恐れ、長年移転を拒んでいたという。大正12年(1923年)、関東大震災により全壊、昭和8年(1933年)に龍口の在のままで改築したが、 昭和53年(1978年)に、氏子百余名の要望により、江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転した。なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、拝殿・鳥居なども、移転前の姿で「元宮」として残されているのである。狛犬(阿形像)(右)。狛犬(吽形像)(左)。「五頭龍大神」は武相鎌倉と江の島に伝わる「五頭龍と弁財天」の伝説に登場する一身五頭の龍神。「拝殿」御祭神は玉依姫命。五頭龍大神創建522年と伝わる鎌倉一の古社といわれ江島神社とは夫婦神社と云われている。723年江の島岩窟中で泰澄大師が修行中夢枕に現れた神々を彫刻。弁財天は江島明神へ玉依姫命と五頭龍大神の御木像を白鬚明神へ納めたといわれその時に龍口明神社と名付けられたと。60年毎に還暦巳年祭が行われ近年では昭和4年・平成元年に斎行。平成13年には御鎮座1450年祭が斎行。この時と還暦巳年祭に限り五頭龍大神の御神体が御開帳され江島弁財天と共に江島神社中津宮に安置されると。龍口明神社は昭和53年、龍の胴に当たる現在の地に遷座され日本三大弁財天として名高い江島神社と夫婦神社として崇敬されているのだと。扁額「龍口明神社」。「内陣」。「拝殿」の屋根。「五頭龍大明神」像が今年・令和三年(2021)十月鎮座予定であると。「社務所」。「絵馬」。御朱印を頂きました。境内を振り返る。そしてこの日の最後に訪ねたのが境内社の「経六稲荷社」。鎌倉市腰越1543−6。石鳥居を潜り社殿に進む。朱の「社殿」。扁額「経六稲荷」。境内の「庚申塔」。「この庚申塔はもと手広と津村の境の庚申塚にありましたが、永く後世に伝えるため龍口神明社のご厚意を得て当地に移しました。」「板状駒型庚申塔上辺に日月を浮き彫りし、中央に合掌六手の青面金剛像、その下に三猿がつきます。像の向かって右に「庚申供養 久遠成就、左に「正徳三年(1713)葵巳」とあります。下の壇には9名の名前がある。「駒形庚申塔」上辺に日月を彫り、中央に「庚申供養塔」と彫り、下に三猿がつく。向かって右側面に文政十一年(1827)、左側面に九月吉日とある。同じく「駒形庚申塔」。上辺に日月を彫り、中央に「庚申(以下破損のため不明)」と彫り、下に三猿がつく。向かって右側面に弘化五年(1848)戌申正月吉日とあった。「舟型庚申塔」上辺に日月を浮き彫りし、中央に合掌六手の青面金剛像が邪鬼の上に立っている。像の足元向かって右に「奉」、左側に「納」と。向かって右側面には安永三年(1774)、左手には十一月とある。「石祠」。(明治18年(1885年)銘)。「山王大権現」碑。「社殿」前にあった「石祠」には稲荷様が。そしてこの日の2回目の「古都「鎌倉」を巡る」を終え、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.19
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更にバラ園の散策を進める。バラ園の北側を歩く。「Rose Garden」と書かれた小屋。「るる」。コーラルピンク色の丸弁咲きで、中輪サイズの花弁は裏が白っぽく表は濃い目のピンクという対比が美しい品種。「サンライト ロマンティカ」グリーンを帯びた丸蕾が開花につれ、中輪のロゼット咲きになります。サンライトの名の通り、光輝くような黄色の花色とクラシカルな花形、強い香りが魅力的。「エンチャンティッド イブニング」。たそがれ時の色あいをまとったような、幻惑的なラベンダー色のフリルがかった花弁は、中心に近づくほどに色濃く、裏弁にシルバー味をおびます。花付きが良く、房に次々と花を咲かせます。ブルー系の香りにフルーティな甘さのある強い香り」と評された、うっとりするような香り。「ニコール」。開き始めは淡くピンクを帯びます。数輪の房咲きで、花弁には軽くフリルが付きエレガントな表情を持ちます。「アイスバーグ」。20世紀を代表する名花で純白の花が数輪から大房に咲き、春から秋まで良く咲きます。 白の中輪の花が株一杯に咲かせる様は見事。白の「休憩所」がバラ越しに見えた。「フラウ ホレ」。真っ白な花が株いっぱいに咲きあふれ、ひらひらと散った花びらは雪化粧をしたように地面を覆う。花名はグリム童話の一つ、「フラウ・ホレ」に由来します。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.18
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『鎌倉散策 目次』👈リンク更に「檑亭」の山の斜面を活かした広大な回遊式庭園の散策を続けた。竹林の中には様々な表情の「十六羅漢像」が。「羅漢とは、完全に悟りの境地に入った仏教の修行者たちで、十六、十八あるいは五百羅漢と称され、しばしば、絵画、彫刻であらわされ、信仰の対象となっています。この十六羅漢像は石造で、山腹の竹林に座し、落ち着いた感をいだかせます。これらの像は江戸時代の作で、九州の国東半島からこちらに移し、安置いたしました。」と。様々な表情の羅漢様がここにも。タケノコも顔を出していた。レストランで出るタケノコ料理もここからのものなのであろう。竹林の中を更に進む。「この檑亭の庭は造園の係の方に、丹精して花や木やこの立派な竹林を育てております。庭を散歩なさる皆様も何卒静かに鑑賞していただき度いと存じます。柵をのりこえて中に入り、木や草花を決して取ったりなだらないで下さい。そして皆様で鎌倉に一ヶ所よりない自然に恵まれた庭を大切に育ててゆきましょう。檑亭主人」。休憩用のベンチも用意されていた。「甘味処 露庵」はこの日は閉まっていた。「コーヒー、そばだんご、おしるこ、甘酒、ところてん、氷水などをお楽しみいただける甘味処です。」「露庵露庵は茶室「月庵」に呼応じて月の光にぬれる露の美しさを想い小島二合庵師(元鎌倉市長)によって命名されました。」「石造十三重塔」。「石造十三重塔石の層塔には三重、五重、九重、十一重、十三重の塔がある。塔身に東、西、南、北の四方仏を梵字で彫った供養塔で鎌倉時代から造塔が流行した。塔右脇にめずらしい石造りの日時計もある。」これは?「日時計」。「水場」「仁王像」。阿形像。吽形像「石造 仁王像仁王さんは口を開いた金剛像と口を結んだ力士像この一対で阿吽の呼吸を示しお釈迦様の教えを守る。もと、九州国東半島にあったものといふ。」「八角堂」この堂の建つ丘は庭の中心で「まんだらが丘」と呼ばれている。「法隆寺夢殿を模して建立しました。壇の周囲には、古代瓦のコレクションを嵌入しています。また、この堂の建つ丘を仏の世界という意味で、まんだらが丘と呼んでおります。以前は本尊として観音菩薩が安置されておりましたが、盗難にあい今は置いておりません。」と。「石灯籠」。庭園の散策道を更に進む。萱葺き屋根の平屋建ての小さな建物は「寄付(よりつき)」。亀山宗月の設計、数寄屋師金子寿慶の作。石灯籠であろうか。藁葺き屋根の「寄付」を正面から。「この寄付は三畳半代目で南面中立用の腰掛をもち、亀山宗月の設計、数寄屋師、金子寿慶の作です。」茶室「月庵」「この茶屋は「月庵」と名付けられ明治四十三年(一九一〇年)京都の数寄屋師、木村清兵衛の作です。席は四畳半で水屋と台所が付属します。」明治43年、京都の数寄屋師木村清兵衛の作。4畳半で水屋と台所が付属している。別の場所から「月庵」を。「この辺りに咲く花 白芙蓉」。「酔芙蓉」と異なり赤くならない芙蓉である。6月になれば、紫陽花が咲くのであろう。「三重塔」。こちらは現代風の灯籠。そして「檑亭 本館」のレストランが見えて来た。「「檑亭」名前の由来「檑」とは「すりこぎ」のことです。古来、すりこぎは山椒の幹で造ったものを最上とし、この地に山椒の木が多くあったところから、檑亭の名がつけられました。」と。前庭には大きな石灯籠が。1階は予約無しの蕎麦処、2階は要予約の和懐石が楽しめるとのこと。2階には日本初のステンドグラスがあるのだと。前庭の菖蒲園。先ほど見た「三重塔」が前庭の奥に。ズームして。「八角堂」の屋根を前庭からズームで。そして1Fの「そば処」へ。昼食用のおにぎりをコンビニで既に購入済みであったため、「とろろ蕎麦」を注文。1000円と入亭代の倍であったが・・・・・。「福」と書かれた屏風が近くに。梅の花と菅原道真の歌『東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ』が朱記で。前庭から相模湾の水平線を見る。そして「檑亭」の「本館」を再び振り返る。そして「山門」に向かって進む。「山門」を入った右横がチケット売り場であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.18
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「バレリーナ」。ピラミッドのような大きな房咲きで満開時は株一面が花で覆われ非常に見事。風景をつくる能力が素晴らしく、庭がぱっと華やぎます。「鎌倉」。鮮明な黄色で高芯剣弁咲き、四季咲きで棘が少ない品種。器の水面にはバラの花が浮いて。「ファビュラス!」。花名は「素晴らしい!」の意味。花の大きさ9㎝ほど、白いバラの品種。真っ白で花びらの数が多く、丸弁平咲きの花型が特徴。「カウンティ・フェア」。はっきりとしたピンクの半八重咲き花で、一輪一輪に派手さはないが、花壇用への植栽ではかえってそのシンプルさが生きてくるバラ。株姿が美しく、赤みを帯びた新芽などの調和も美しい。耐寒性もあり育てやすい品種。「桜霞」。淡いピンクからじょじょに赤みを載せていく半八重咲きのバラ。「ニコロ パガニーニ」。花色は鮮やかな紅色で、花付き・花持ちが良く、秋口に至っても色褪せない優良品種。緑と真紅のコントラストが大変美しく、フロリバンダローズでは珍しい、剣弁高芯咲。ここにも水に浮かんだバラが。「春の舞」。花色は、やや青みを帯びたピンク。中輪・丸弁の半八重咲きで、房状にたくさん愛らしい花をつけます。花つきが良く、育てやすい品種。「サラバンドゥ」。花の大きさ5~7cmほど、朱色のバラの品種。退色しない朱色で、半八重咲きの花びらの数は10~15枚。平咲きですぐに開ききりますが、花持ちがよく、房咲きになる。「ジャルダン ドゥ フランス」。輝きをもったサーモンピンクの花が房咲きとなりひとつの花束のように咲く姿が特別に美しい。一輪一輪は中輪ですが、房咲きで特にまとまって咲くので、ボリュームがある。花付きも良く何度も繰り返し咲く。「フランスの庭」の意味。「センティッドエアー」。リルのかかったラベンダーピンクの花弁からは、濃厚な香りが漂います。「香りに満ちた空間」の意味の通り、辺りに甘い香りを漂わせます。とげが少なく、扱いやすい。「オリンピックファイヤー」。オリンピックの聖火のように燃え立つ朱赤のバラ。「レーゲンスベルグ」。桃赤色の花弁の裏は白で、その対比が美しく、冷涼な気候では、その美しさが際立ちます。秋に本来の色を楽しめるバラでもあります。中心の黄金のしべと相まって大変に人目を引く魅力があります。多花性で次から次へと房咲きに咲きます。「花房」。日本作出のバラ。1981年に京成バラ園芸の鈴木省三氏が作出したフロリバンダ系統のオレンジ色のバラ。「パーマネント ウェーブ」。名前どおり花弁が大きく波打ち、濃いローズピンクの花色と相まってとても華やかな雰囲気を持っている品種。大房咲きで花持ちも良く、樹高はかなり高くなる。「いろは」花弁は、平咲きとなって現れる中心の白とにじむようにとけ合い、裏弁の白とも相まって、あでやかなコントラストを奏でます。「ほのか」。四季咲き、花色はアイボリーにローズ色の覆輪だが今は、淡いピンクで縁取りが少し濃いピンク。「アイスバーグ」。20世紀を代表する名花で純白の花が数輪から大房に咲き、春から秋まで良く咲きます。 白の中輪の花が株一杯に咲かせる様は見事。世界ばら会連合、略称(WFRS)で殿堂入りを果たしたバラ。「ゴールドマリー’84」。花弁の外側が、赤みを帯びた濃黄色で、丸弁平咲き、葉は厚く光沢があり、葉脈もはっきりしているため、花色とのコントラストもすばらしい。「ブラス バンド」。季節により花色に変化があり、春の一番花は赤みがかったオレンジ色、 二 番花以降はアプリコットオレンジの発色を見せます。波状弁の丸弁八重咲きで華やかな色調の花で株が覆われる様は大変見事。「マーガレット メリル」。非常に香りの良い品種として知られています。アルバローズのような、レモン香をふくむすがすがしい白ばらの香りが楽しめます。濃い緑の照葉で花との調和良く、上品な雰囲気。水面に浮かぶバラの花がここにも。バラの維持管理をされている係員の姿が。「新星」。ツンツンとした立派な剣弁が、名前の通り星の様でかわいらしい。柔らかめの黄色は、咲き進んでも退色が少なく、長く花色と花型を楽しめる。1979年、鈴木省三氏作出と。「パローレ」。花名の「パローレ」は、「ことば」を意味します。その最大の魅力は豊かにひろがるフルーティな強い香り。「コンラート・ヘンケル」(手前)。四季咲き性大輪種の赤バラ。「ピエール・ドウ・ロンサール」(後)花はクリーム色の大輪、花の中心に向かうほどピンクを増す。系統はつるバラに属し、生育旺盛で丈夫で大変育てやすい品種。一季咲きの多いつるバラでありながら、よく繰り返し咲きをし、秋までたくさんの花を楽しませてくれます。「アカベラ」。表弁の赤と裏弁の白のコントラストが美しい。花付きが良く香りがある。「宴」。濃く明るい赤色の大輪花。鮮やかな赤花ですがとても優雅な咲き方をする。「シティ・オブ・ヨーク」。白地におしべの黄色が良く目立って非常に美しく、さらに葉の美しさも際立つ二重に優れたつるバラ。「ホワイト・マスターピース」。白が基調、中心がクリーム黄色になる大輪花。弁が厚くゆっくり咲きます。蕾の状態で薄く緑がかるところも魅力。「ピンク・パンサー」。四季咲きで10~13cmほどの中輪~大輪のサーモンピンク色の花を咲かせ、仄かな芳香がある。半剣弁高芯咲きで花弁の数は約30枚。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.17
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして次に訪れたのが「檑亭(らいてい)」。鎌倉山の「檑亭」は、鎌倉山が宅地開発された当時の様子を伝える貴重な建物で、鎌倉市景観重要建築物に指定されている。当初は「清香園」と称し、鉄道事業家・土木技術者として知られる菅原恒覧が 営んだ別荘。昭和3年7月に鎌倉山住宅株式会社が鎌倉山を宅地化しようとした際に 宅地の分譲を受け、関東大震災で倒壊した横浜戸塚の農家を昭和4年7月に移築し、 翌昭和5年に、先程訪ねた青蓮寺(鎌倉市手広)の玄関の材料を買い受けて、 本館の西北隅に増築し、これを玄関とした。昭和44年に現所有者が和風レストランとして開業し、現在に至っている。急カーブの手前右側に「山門」があった。鎌倉市鎌倉山3丁目1-1。高松寺から移築された「山門」。高松寺は1642年、日隆を開山とする日蓮宗の尼寺として西御門の太平寺跡辺りに立てられたが、1925年(大正12)の大正関東地震で本堂は全壊し、宮城県若柳町に移った。本館の北方、東側道路に面して建つ間口三・二メートルの四脚門で、切妻造桟瓦葺である。円柱の本柱間を冠木で繋いで絵様虹梁を重ね、控柱は頭貫と台輪で固める。皿斗付大斗の三斗を詰組とし、軒は二軒繁垂木、妻飾は虹梁蟇股である。禅宗様意匠を取入れた四脚門。山門の扁額は「壽延山」と当時の「高松寺」の山号がそのままに。「檑𠅘(らいてい)」と書かれた大きな看板が「山門」の先の道路脇に。「山門 ここは海抜約六十米鎌倉西御門にあった高松寺の山門(1700年頃築)当寺が宮城県に移転されるに際し、昭和6年(1931)この地に移築。高松寺は日蓮宗の尼寺であった山門形式は四脚門。もとは藁葺」。「山門」手前の右手にあった石塔にも「壽延山」と刻まれていた。「登録有形文化財 第14ー0177~0178この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」「鎌倉市景観重要建築物等 第24号 平成15年3月31日指定檑 亭 (RAITEI)檑亭は鎌倉山が住宅地として開発された当時の歴史を今に伝える貴重な建物です。本館は、横浜戸塚の養蚕農家を移築したもので、玄関部分は手広の青蓮寺からの移築によるものです。建物内部は太い梁を交差させた天井、ステンドグラスの窓、須弥壇を模した暖炉、古道具を用いた家具・照明器具など、和洋折衷の特異な空間が創り出されています。入口に立つ山門は、禅宗様を基調とした四脚門で、西御門にあった高松寺から移築されたものです。緑に囲まれた鎌倉山に佇む檑亭の建築物は、鎌倉山ならではの優雅な雰囲気を醸しだしています。 建設年 昭和4年(1929)設計者・施工者共に不詳 ◎ 一般公開はしていません 鎌倉市」「廻遊式庭園 檑𠅘」500円を支払い「檑亭」内部に入る。500円は「御食事券先払」扱いでレストランで利用できたのであった。「庭園裏山(百仏崖奥)に鎌倉山天満橋が祀られています。学業・成就・冤罪除の飛梅絵馬もおいてございます。ご参詣下さいますよう。」「山門」をくぐると、庭園へと続く石畳のアプローチが。正面に「青蓮寺」から移築された「玄関」と左手に「本館」。「玄関」上の彫刻。「玄関 鎌倉手広の青蓮寺(鎖大師)の玄関が関東大震災で倒壊した古材を補修移築 本館 2003年3月鎌倉市景観重要建築物に指定された本館は、横浜市戸塚の豪農猪熊家の旧宅を 昭和4年(1929年)に移築改築したものです。江戸時代の大地主の住宅建築の重厚さを しのばせます。」「檑亭散策マップ」。 【https://www.raitei.com/garden.html】より玄関の横から下に階段を下りていくと右手に石灯籠が並ぶ。 宝永4年(1707年)と… 山門と同じく、高松寺の灯籠らしい。別の角度から。「五重塔」。更に進むと「百仏崖」。「山門建立の際、崖地を埋め、石垣、石壁を築き、各所より無縁仏を迎え安置しました。この数およそ百体になったところから、百仏崖と名付け、現在でも春秋のお彼岸の際は、円覚寺僧堂の修行僧の方々に供養をお願いしております。読経の声がこだまし、荘厳な空気に満たされます」と。「百仏崖十王、十三佛、四天王、なぞは筑前國より昭和八年この地に移された。十王の本地は久成如来深位菩薩で、亡者が冥土に赴くとき初七日より第三周年まで順次十三法庁に於いて生前の善悪行為を◯明せるゝとのことである。故に現在は春秋の彼岸の折りには北鎌倉から供養の為に多数の僧侶にお参りして頂いています。」各所の無縁仏を迎え安置した数が百体。現在でもお彼岸の際は円覚寺の修行僧が供養を行っているのだと。様々な角度から無縁仏を追う。「無縁界法塔」。複雑に積み上げられた石塔。「石造碁将棋盤」。「碁盤」。縦横19本の線を持つ盤を19路盤と。「将棋盤」。縦横9マスずつ、計81マス。「石造碁将棋盤囲碁、将棋を中国では文人墨客の遊びと呼ぶ。この盤はいかにもそれにふさわしく深山に遊ぶ仙人の姿を彷彿させる。」「碁盤」の横には、対戦用の石椅子もあった。石造りの「貫なし鳥居」か?「鎌倉山天満宮」のものであろう。その先にあったのは「二宮金次郎像」。正面から。理知的な顔であった。本の上にはお賽銭が。そして「鎌倉山天満宮」が最奥にあった。「鎌倉山には戦前まで天満宮が祀られていましたが、参詣者も絶え、社殿も荒廃してしまいました。それを悲しんだ人々の尽力で昭和52年(1977年)に再建され、改めて筑紫大宰府天満宮から神霊を勘請いたしました。ご祭神の菅原道真公は、学問成就・冤罪祈願の神様として親しまれております。毎月25日には「月例祭」を執り行っております。また、檑亭では道真公由来の「飛梅絵馬」をお分けしております。祈願には白梅の絵馬、その御礼には紅梅の絵馬をご奉納ください。」と。石鳥居と石段の上に「社殿」が。「鎌倉山天満宮」の「社殿」。「内陣」。「天満宮昭和五十二年(一九九七年)旧正月に太宰府天満宮から分祀されたものです。学業成就、冤罪除にご参詣下さい。「御飛梅絵馬もお預け致して居ります。鶴岡八幡宮の古材を拝受して建てられました。」「社殿」の前から石段、鳥居を見下ろす。マップがここにも。「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」であろうか。宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。そして「石造十王像」。「閻魔大王を中心とした10人の地獄の王様で、亡者の裁きを司ります。国東半島から移動安置しております。」と。閻魔大王を中心に10人の地獄の王様たちが並んでいた。中心に鎮座する「閻魔大王」。向かって右側。向かって左側。「石造十三像閻魔大王を中心とした十人の地獄の王さまたち、亡者の裁きを司さどる。この一連の石造も九州からこの百仏崖に移動安置されたものである。」十六羅漢群(じゅうろくらかんぐん)。右手に三重塔であろうか?「羅漢とは悟りの境地に入った修行者の事、十六・十八・五百などの羅漢像が日本各地に存在し、信仰の対象にされています。檑亭の十六羅漢像は大分国東半島から移設したものだそうで、江戸期の作だと。静寂の竹林や草むらの中に鎮座しています。」と。様々な表情の羅漢様。苔むした散策道を足元に注意しながら進む。竹林の葉音を楽しみながら。竹林の中、正面に見えて来たのが「永楽洞門」。近づいて。潜って反対側から。高松寺の檀那水野家の家紋、「永楽通宝紋」と「沢潟紋」(おもだかもん)が浮彫りされた門。水野家は清和源氏の一流。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.17
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先日、自宅から車で30分ほどの場所にある「日比谷花壇大船フラワーセンター」へバラ、芍薬を愛でに行って来ました。高校時代の友人から、LINEで開花情報を頂いたのです。駐車場に車を駐め、歩道橋から9時の開園を待つ人達。そして150円でチケットを購入し園内に。「大船フラワーセンター 案内図」。「園内開花情報」各種バラは満開であり、芍薬は終盤であると。「グリーンハウス 開花情報」。入り口を入ると、すぐに園芸種の花壇があり、その向こうの噴水の池に睡蓮の葉が浮かんでいた。入場してすぐの広場にある石のアーチは「かたぐるま」というモニュメント。園内正面の花壇。「スイレン池」には噴水が涼しそうに。白のスイレン(睡蓮)の花。濃いピンクのスイレンの花。花時計は9時過ぎを示す。「スイレン池」に沿って進む。ズームで花を追う。「玉縄桜広場」の「蓮」の花は1ヶ月以上先に開花。そして目的のバラ園入口に。「バラ園マップ」。バラ園には、約370品種・1200株のバラが植栽されており、春と秋の見頃の時期にはバラの香りが園内を包み込み、訪れた人たちを楽しませてくれるのです。この日は、コロナの影響で人の接触を抑えるために「一方通行」になっていた。入口からバラ園を見る。左手に「ロサ・ルゴーザ(ハマナス)」。「ジャパニーズ ローズ」と呼ばれ、日本を代表する野生バラ。皇后雅子様が、皇太子妃になられた時に、お印しとして定められた花である。濃いピンクの小バラが満開で迎えてくれた。「プリンセス・ミチコ」。美しい朱色の、優しい平咲き。大きな房になって咲き、樹は直立気味に高く伸びます。美智子皇后陛下が皇太子妃時代にディクソン氏から捧げられた花として現在も良く知られ、多くのばら園で植栽されています。「エグランタイン(マサコ)」。雅子妃殿下の名を冠したバラ。美しいソフトピンクの花はかなり大きめ。「プリンセス チチブ」。どこか金属光沢を感じるラベンダーピンクで弁端は濃い紫をおびたローズピンクの覆輪がかかり、秋は一層花色が冴えます。「イザヨイバラ」。「ボニー」。淡桃色丸弁平咲き、円錐状の大きな房。「ヘンリー ネワード」。明るいローズレッドのクラシカルな中大輪の花は開花につれ青みを増す甘く濃厚な香り。「フラウ カール ドゥルスキー」純白そのもの。1901年に発表されて以来、白つるばらの名花として100年以上愛されてきた品種。かつては不二(ふじ:ふたつとないの意)の名で親しまれた。「花水仙」。近づいて。一面の荊棘の薗。「オスカル フランソワ」。清らかに澄み切った白の大輪花は、フランス革命の時代を情熱的に生きた男装の麗人オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの面影そのもの。「ブラック ティー」。紅茶のような花色で、独特な雰囲気を醸し出す薔薇、ブラックティー。その珍しい花色と存在感で、根強い人気がある。高温になると朱色に近くなるため、春バラよりも秋バラの方がより綺麗な紅茶色を楽しめる。「月光」。月光 (Gekko) は、ハイブリッドティー系統の剣弁高芯咲き。満月の日の月明かりは、こんな色合いなんだろうな・・と連想させるバラ。「ベルサイユのばら」。ビロードのようになめらかで、つややかな輝きを帯びた真紅の大輪花。「メイクイーン」。わずかにラベンダーを含むピンクで、オールドローズのように優雅なロゼット咲き。「ウェディング デイ」。咲き始めは淡黄色、のちに白に移ろう、色調変化の特に美しい小輪一重咲き。おしべが目立って美しいバラ。「ブリタニア」。白地にはっきりとしたローズ色の覆輪、半直立で樹勢強健、株もポリアンサローズの中では大型の部類。大きめの花で遠目からも目立つ。耐寒性もある。「アイスバーグ」。「アイスバーグ(氷山)」の名前の通り、透明感のある真っ白な半八重咲きの花弁で、ドイツ語で「白雪姫」の意味の「シュネービッチェン」とも呼ばれている。「ノヴァーリス」。花弁数: 80~ 枚、花径 9 cm。最強の青バラといわれるほど、青バラのわりに丈夫であると。「かぐや姫」。とても香りのよい品種。日本バラ会の1996年「香りの大賞}を受賞。「アライブ」。「生きて」の意味。元宝塚女優 瀬奈じゅんさんが命名したバラ。東日本震災復興の気持ちを込めて名づけられたと。「プリンセス・ドゥ・モナコ」。白とピンクの覆輪系のハイブリットティーローズの中でも、群を抜いて美しい「プリンセス・ドゥ・モナコ」。モナコ公国王妃となった、故グレース・ケリーに捧げられたこのバラは、その名前の通りとても存在感があり、上品で甘い香りがする。「ブルームーン」。木立性で10cm程度の藤色の花を咲かせる。四季咲き性で花形は半剣弁高芯咲き。強香でダマスクとティーの混在した、いわゆるブルーローズの香りがする。「トゥールーズロートレック」。丸弁の花びらの数は80枚と多く、シャクヤク咲きまたはロゼット咲きの花型。香りが強く、花茎が長いため、切り花としても人気の高いバラ。 ・・・つづく・・・
2021.05.16
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「青蓮寺」を後にして、次は裏にあった「熊野神社」に向かう。「鎖大師」バス停の横に名所案内があった。「青蓮寺」の脇の道を100m程西に向かって行くと正面に石鳥居が現れた。石段の上に「熊野神社」拝殿が姿を現した。狛犬・阿形(右)。狛犬・吽形(左)。「拝殿」。鎌倉市手広5丁目1−1。祭神:伊弉冉命(いざなみのみこと) 事解男神(ことさかのおのかみ) 速玉男神(はやたまのおのかみ)。手広の鎮守。もともとは青蓮寺支院の宝積院が管理していたとされ、本地仏は如意輪観音であったという。このことから青蓮寺の鎮守であったのかもしれないが、宝積院が江戸時代に廃寺になったので詳しいことはわからない。慶安元年(1648)の棟札には「別当宝積院」と見え、『新編相模風土記稿』にも「宝積院持」とある。またこの棟札には領主大岡氏・年寄和田氏・名主内海氏の他、官途衆(かんどしゅう)・百姓衆が見える。例祭の日に社殿の鰐口(社殿や仏堂につるされている金属製の音響具)を叩くと、「どんどん」という音がして神様が出てくるという伝説がある。社殿に棲みついた「てん」が音に驚いて飛び降りてくるので、このような伝説ができたと。扁額「熊野神社」。境内の石塔。石祠が並んでいた。「拝殿」前にはイチョウの老木が。「拝殿」前から参道を見る。そして同じ道を引き返し、「青蓮寺」前の県道304号線・腰越大船線まで戻り横断歩道を渡る。再び「青蓮寺」の山門を見る。道路を渡った場所にも「鎖大師」と刻まれた石碑がポツリと。そして直ぐ先あったのが「歓廣稲荷大明神(よしひろいなりだいみょうじん)」。足場パイプで出来た仮設の手摺を利用しながら慎重に石段を上って行くと朱の鳥居と「社殿」が。比較的新しい「鳥居」と「社殿」であった。扁額は古く「正一位 歓廣稲荷大明神」。「内陣」。祭神:稲荷神(宇迦之御魂神( うかのみたま )/ 五穀豊穣の神)。そして県道を西鎌倉方面に向かって、擁壁の下の歩道を進み、カーブを過ぎると坂の頂上になるが、その手前に左手に戻るような急坂があり、ここを進む。左手にあったのが鎌倉景観百選の一つ「谷戸坂の切通し」であったが・・・。残念ながらバリケードが設置され「危険 落石のおそれがあるので通行を禁止します」と。フエンスの隙間から「谷戸坂の切通し」を。昔はこの切通しを歩いた記憶があるのですが。いわゆる「鎌倉七口」とは別の切通しであるが、原型のよく残っている切通しの一つ。鎌倉では一番迫力のある切通しだと思うのですが、残念ながら。写真の石碑には漢字だけが刻まれていた。「惟時維安政年間我郷有篤志家細谷久兵衛 内海津左衛門 和田茂左衛門之三氏 大奨励実業転計公益当時於隣村津有荒野氏等斡旋 而共村民開拓之五町三段有歩称字猫池台大井窪于仝?仰其福徳爾来星移物変?恨?其功績不垂竹帛茲同志者相謀鏤石而顕彰之明治卅三年十月建之 当村 齋藤政吉作並書」であると「ネット」👈リンク より。安政年間(1854~1859)に細谷久兵衛、内海津左衛門、和田茂左衛門等有志が、隣の津村の荒野氏等を斡旋して、字猫池の辺り5町3段(反)を開拓した功績を称える顕彰碑の様である。一番迫力のある切通し・「谷戸坂の切通し」を意地でもカメラでとフェンスの隙間から。切通しの下の道は小竹が生い茂ってしまっていた。そして再び車に戻る為に、擁壁のある県道の坂道を、往路とは反対側の歩道を下る。そして途中にある「トンネル」は「ヤマノイハイツ手広」というアパートの居住者用のトンネルなのであった。何故かこの入口部分だけが黒変しているのであった。入口には「ヤマノハイツ手広」と「私有地につき関係者以外通行禁止」の看板が。そして歩道から、先ほど訪ねた「青蓮寺」の境内を望む。「本堂」を高見で正面から。そして「青蓮寺」の駐車場に戻り、車で次の目的地の鎌倉山にある「普賢光明寺」に向かう。民家の入口の様な「普賢光明寺」、表札には名字も。鎌倉市鎌倉山4丁目8−2。「普賢光明寺は平成19年に建立された新しいお寺です。故に、古来のお寺のように檀家やお墓を持たず、信徒の方々のご協力によって成り立っているお寺です。」とネットには。「山門」と「本堂」。「本堂」の「内陣」。次に徒歩で近くにあった「靈元根本道場」に向かう。途中、民家の生垣にはピンクの「トキワマンサク」の花が満開で迎えてくれた。「靈元根本道場」鎌倉市鎌倉山4丁目11−8−4「南無妙法蓮華経 靈元根本道場」碑。通称銭洗大黒天。開山は大本山本圀寺68世久村諦道上人(松葉谷長勝寺54世)とのこと。単立寺院であると。「銭洗大黒福聚尊天法華総本寺大本山本圀寺六十八世久村日鍳猊下により開眼された銭洗大黒聚尊天に、天・地・人を司る福禄寿無量の御利益を授け下さる神様てす。その御本地は久遠実成本師釈迦牟尼佛です。(大黒天神)。俗世の銭は、沢山の人々の欲念、執着心が凝り固まって災いを起こします。この悪想念を大黒天即ら釈迦佛・日天の威神力に依って洗い流し、清浄な神の銭に替える作法が銭洗なのてす。一心に大黒様に祈りながら、銭に御水を掛けて、己の邪悪な欲心と銭に憑いた執着心を共に大黒天に御供養するのです。銭洗い供養した銭のうちの一部を浄財・福銭としていただき、お守りとして次の機会まで身につけて幸・福を呼ぶのです。欠かさず大黒様に供養した人は必ず現世安穏後生善処と佛の世界へ行けるのです。大黒天神授文寿福増進安穏楽 除病延命息災我福我円満重果報 衆人愛敬従恭敬 入来衆人得七寳南無妙法蓮華経(大黒徳自在円満菩薩陀羅尼呪)法華総本寺大本山圀寺別院靈元根本道場 謹告」台座に「知法思國」と書かれた像は日蓮上人像であろうか。そして鎌倉山ロータリー。鎌倉市鎌倉山4丁目1-5。鎌倉山ロータリーには「鎌倉山」碑が建っていた。関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の鳥居の石柱を再利用したものであると。そして道を間違えながら、徒歩にて「夫婦池公園」の前まで行く。その先に「しのぶ塚」。しのぶ塚は笛田山佛行寺の「源太塚」と対になる塚である。この「しのぶ塚」は昭和48年(1973年)に建立されたもの。「しのぶ塚」は、梶原景季の妻・信夫のもの。景季の父景時は、御家人66名の弾劾に遭い、景季とともに謀反を企てて駿河国で討死した。信夫(しのぶ)は嘆き悲しみ自害したと伝えられている。そして再び車に戻り、次に訪ねたのが「鎌倉山さくら道」。「鎌倉山さくら道」沿いにあった「佐佐木信綱文学碑」。鎌倉市鎌倉山3丁目21−11。 「日ぐらしに 見れどもあかず ここにして 富士は望むべし 春の日秋の日」歌碑がある所に住んでいた弟子の要望により詠んだそうだが、今は竹林が迫っていて富士山の姿は見えなかったのであった。昔は案内プレートが石碑の裏にあった記憶があるが・・・撮影を忘れたのか?そして右手にあったのが「ル・ミリュウ 鎌倉山」。高台にあり鎌倉の景色が一望できる人気のカフェであるようだ。「鎌倉山記」に到着。「夫婦池公園」碑。ここからも「夫婦池公園」に行ける山道があるようだ。「夫婦池公園」案内図。「夫婦池公園」は、鎌倉山(鎌倉市の西に位置する)の山合いにある2つの池(上池・下池)と桜が有名。豊かな自然が残されており、ヨシの群生地、イワボタン、ツリフネソウ、ハンゲショウなどの貴重な植物が自生し、カワセミ等も生息する場所として鎌倉でも隠れ家的な公園となっているとのこと。開園時間 8:30 ~ 17:15(通常)休 園 日 12月29日 ~ 1月3日「夫婦池」への「山道」が確認できた。「【夫婦池の由来】約330年前の江戸時代天領の頃に代官(成瀬五佐衛門重治)が笛田村に灌漑用水として現在の下池を掘らせました。その後、笛田・手広の住民により中央の堤が建設されて上池と下池ができました。上下一対の池のため、現在「夫婦池」と呼ばれています。」とネットから。そして大きな石碑が道路脇にあった。「鎌倉山記「天慶の乱に平貞盛が将門を夷滅してより平氏の威勢漸やく東国に張り其孫直方鎌倉邸に在りて幾多の荘園を領有す、後冷泉天皇の世、源頼義相模守に任ぜられて鎌倉郡に入るや直方の婿となり源氏の根據を東國に植ゆ、當時京都奈良に於ける山門の豪僧が朝廷に迫るや頼義、直方等源平二氏相連引して朝廷を守護す、後頼義、義家の前九年、後三年の役に従事したる将士は實に此地方の荘園より抬頭したるものなり、當時鎌倉郡を周匝したる群峰を概稱して鎌倉山と言ふ、此等の丘岳は文献に記録せられたる以外に豪族闘爭の古戰場なりしことは親不知の嶮、戰道が峯等の地名が今猶ほ存するを見て之を知るを得べし、治承四年源頼朝が兵を相模に起し一勝一敗の後、漸やく房總の地に勢を張るや安達平九郎盛長の説に從って府を鎌倉に開き、之より荊棘の地變じて大都となる 昭和三年七月廿七日菅原通濟君同志と協力して鎌倉山を闢き道路を通じて住宅地となす、鎌倉が義貞の為に壊滅したる後六百年にして嶮峯の上に彩瓦の新屋起り戰道變じて自動車道となり朽創を裏む苔土に吉士の笑語を聞き釵玉の埋もれたる短草に妙婦の衣裙飜へり昇平の氣蒸々として山谷の間より湧く、昭和十年七月余此地に遊び菅原君と共に風物の變化を語り歩して鎌倉山神社の石磴に昇れば富士山、箱根連峰、天城山等の遠岫交も濃淡の色を示し斜陽陰裡に來徃する船影の彼方に大島を見天地双碧人と家と皆な畵中のものたるを覺ゆ、嗚呼、曽て鎌倉の大都が鬱然として荊棘の中より湧き出でしことを回想すれば百年の後鎌倉山の形勢それ如何ぞや之を思ふて感慨限りなし乃ち茲に此事を録して以って後世の語り草となす昭和十年七月 竹越與三郎 撰 菅原通濟 題東京青山 石勝刻 」と碑文には鎌倉山の由来が「延々と」記されていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.16
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『鎌倉散策 目次』👈リンク更に「青蓮寺」の散策を続ける。境内の「ししおどし(鹿威し)」。今年の若竹が使われて。ししおどし(鹿威し)とは田畑を荒らす鳥獣を音で威嚇し追い払う為に設けられる装置類の総称。中央付近に支点を設けて支え、上向きに一端を開放した竹筒に水を引き入れる。竹筒に水が満杯になるとその重みで竹筒が頭を下げ水がこぼれて空になり軽くなる。その軽くなった竹筒が元に戻る際に支持台(石など)を勢いよく叩き音響を生ずるのだ。十三重塔この塔は?これも横に線が十三本あるので十三重塔か。「動物供養墓」「動物供養墓近年、犬や猫等をペットとして飼うだけでなく、家族の一員として生活を共にする方が増えてまいりました。そして、動物たちは多くの場合、人より先にその寿命を終えます。その最後を手厚く供養し葬ってあげたいと考える方々から、ご相談をいただくようになりました。そこで当山は、皆様のそのお気持ちを大切に考え、動物供養塔を建立することにいたしました。当山では、動物が亡くなり火葬された御骨を合祀し永代にわたり供養することが出来ます。動物は、時に私たちの心を癒し、時に生きがいを与えてくれる存在です。そんな動物たちの最後が、皆様に温かく見守られ供養される事を、当山は心より願っております。供養を希望される方、またはご質問等ある方は、寺務所までお気軽にお越し下さい。・・・・・中略・・・・・十二神将のご真言 :オン クビラ ソワカ伐折羅大将のご真言:オン バザラ ソワカ 平成21年9月吉日 開眼 飯盛山 仁王寺 青蓮寺 手広山 寶積院 薬王寺」「本堂」を左斜めから見る。「大黒様」。「不動明王」と二体の「童子」中央に「不動明王」。背景の赤いモミジが不動明王の後背の火焔の如し。不動明王の後背の火焔は迦樓羅炎(かるらえん)と呼ばれるもので、不動明王が火焔の中に身を置き、自らを火焔そのものにすることによってあらゆる煩悩を焼き尽くすという凄まじい姿勢を示しているのだ。これを学んだのは、「旧東海道を歩く」で我が地元の「藤沢宿」を歩いた折に、大山道(田村通り大山道)が東海道と分岐する辻堂(藤沢市城南1丁目)の四ツ谷辻に大山道道しるべがありその道しるべの上の、下記写真の「不動明王」を見た後のブログ記載時であったのだ。「矜羯羅(こんがら)童子」「不動三尊において、制多迦童子 (Ceṭaka) と共に不動明王の脇侍を務める。通常は不動明王の左(向かって右)に位置する。「矜羯羅」とは、サンスクリットで疑問詞の矜 (kiṃ) と、「作為」の意味である羯羅 (kara) を合わせたもので、直訳すれば「何をするべきかを問い、その命令の通りに動く」という意味であり、奴僕や従者を指す普通名詞であるが、矜羯羅童子の場合は不動明王の奴僕三昧を表すとともに、仏法に対して恭敬であるさまを意味している。十五歳ほどの童子の姿をしており、蓮華冠をつけ、肌は白肉色である。合掌した親指と人差し指の間に独鈷杵をはさんで持つ。天衣と袈裟を身に着けている。」とウィキペディアより。「制多迦(せいたか)童子」。「不動三尊において、矜羯羅童子(こんがら Kiṃkara)と共に不動明王の脇侍を務める。通常は不動明王の右(向かって左)に位置する。「制多迦」とは、サンスクリットで奴僕や従者を意味する。十五歳ほどの童子の姿をしており、五智如来における「五智」示す五髻を結び、肌は紅蓮色である。左手には金剛杵、右手には金剛棒を持つ。瞋心悪性であり、袈裟は着けず、天衣のみを頸と肩に無造作に巻きつけている。」とこれもウィキペディアより。「奉寄進 不動明王 矜羯羅、制多迦 両童子」庭園の池に架かる石橋。「聖徳太子像」お顔をズームで。「南無聖徳皇太子」碑。「六地蔵」像の前の石碑には「奉寄進六地蔵 為雨親十三回忌追善菩提 平成ニ年七月吉日 藤沢市本鵠沼 林一郎 青蓮寺現住 権中僧正金弘代」墓地の最奥を見る。「本堂」を斜めから。月の模様のある石灯籠。「椿地蔵」。かつては、鎌倉街道(県道32号線)の手広の交差点付近にあった地蔵尊。大豆の数珠を供えてお参りすると「いぼ」が取れるという言い伝えから「いぼ地蔵」・「いぼとり地蔵」とも呼ばれていたのだという。地蔵の前には、いぼをイメージした丸い石?が祀られていた。庭園の池に架かる石橋には二羽の野鳥が日向ぼっこ中。「コガモ」であろうか?「大師像」。「大師像」。墓地の最奥まで墓石、石仏が並ぶ。古そうな石仏、墓石も多く。道路脇の擁壁の中に色の変わった部分が確認できた。ツツジも咲いて。「大師像」。「陣出の泣塔」その昔、洲崎合戦の戦死者の供養塔(宝篋印塔)を青蓮寺に移したところ、毎晩、すすり泣くような声がしたため、元の場所に戻したという言い伝えがある。境内には様々な花も咲いていた。「カラー」の花であろうか。滝の近くに「不動明王」。ズームで。滝の水は僅かに。書かれている文字は殆ど消えて。境内から本「本堂」、「山門」方向を見る。屋根の紋は?「塔頭寶積院薬王寺」と「弘法大師一千百年御遠忌供養塔」を見る。アセビの下の「大師像」そして蛙の像を。「蛙の像」。奉納された「灯籠」。「御朱印」。そして「山門」を出て、「鐘楼」を振り返る。「鎖大師 青蓮院」の「新規墓所受付」案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.15
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『鎌倉散策 目次』👈リンク青蓮寺の散策を続ける。「塔頭 寶積院 薬王寺(たっちゅう ほうしゃくいんやこうじ )」江戸時代まで、青蓮寺には、寶積院と東福院の二つの塔頭があった。その一つ寶積院が本堂の前に再建されている。本尊は薬師如来。江戸時代には熊野神社の管理も行っていたという。扁額は「手廣山(てびろざん)」。「青蓮寺塔頭手広山 寶積院 薬王寺(地下納骨堂)青蓮寺には、江戸時代に二つの塔頭寺院があり、その一つを再建したのが、この「手広山寶積院薬王寺』です。当時は、手広の熊野神社も『寶積院薬王寺』が管理運営に当たっていました。ご本尊「薬師如来」は、江戸時代に安置されていた仏像で、左手に薬壺(やっこ)を持ち、右手は施無畏(せむい)の印を結んでおられます。施無畏の印とは、人の心から恐れる気持ちを取り除く意味があり、病を應し恐怖を取り除いて下さる仏さまです。阿弥陀如来の西方極楽浄土に対して、薬師如来は、東方浄土を表します。」「本堂」横にあった井戸。石柱には「奉寄進為両親菩提井戸壱基」と。蛇口柱の上には大きな石の蛙が鎮座。懐かしい手押し井戸ポンプも健在のようであった。「本堂」前の「常香炉」の建物・香閣(こうかく)も立派。煙を浴びることで、心のお清めを行う場ですが、同時に、煙を体の痛いところや具合の悪いところにあてると、改善するといわれているのです。「手広山 寶積院 薬王寺」案内板。「手広山 寶積院 薬王寺 について 青蓮寺には、江戸時代2つの塔頭(たっちゅう)寺院、寶積院と東福院がありました。塔頭寺院とは、お寺の中にあるお寺を意味します。その1つを再建したのが、この手広山 寶積院薬王寺です。青蓮寺は安土桃山時代の天正19年(1591)に徳川家康から寺領を安堵される程に由緒あるお寺でした。寺領を安堵された印しを朱印と言いますが、徳川幕府になってなってからもこの朱印は更新されていました。寺領は、現在の手広交差点(山門から約500m先)付近までありました。その為に幕府の政策として青蓮寺から力を削ぎ、その力を分割する為に創られたのが寶積院であったと言われています。江戸時代は、手広の熊野神社も寶積院が管理運営に当たっていました。本尊の薬師如来は、江戸時代に安置されていた仏像で、左手に薬壺(やっこ)を持ち、右手は施無畏(せむい)の印を結んでおられます。施無畏の印とは、人の心から恐れる気持ちを取り除く意味があり、病を癒し恐怖を取り除いてくれる仏さまです。阿弥陀如来の西方浄土に対して、薬師如来は東方浄土を表します。 名 称:手広山 寶積院 薬王寺 (てびろざん ほうしゃくいん やくおうじ) 本 尊:薬師如来 宗 派:高野山真言宗 設 立:平成18年1月31日 高野山 金剛峰寺本山に正式登録され開山 建 物:地上 寶積院 地下 納骨堂 備 考:宗教法人としては、青蓮寺が寶積院を包括して管理運営しています。」「本堂」を斜めから。大師像。「本堂」。弘仁10年(819)に弘法大師空海が開いた寺。本尊の弘法大師像(重要文化財)は鎖大師[くさりだいし]とよばれ、両足の関節が動くようになっている。公開は1月21日・4月の第3土曜と8月16日、12月21・31日。静かな境内には薮内佐斗司の五輪塔童子が立つ。「鎖樋(くさりとい)」と「天水受け」。「鎖大師」の寺だけに「鎖樋」にも力が入っていたのであった。「天水受け」も歴史を感じさせるのであった。「本堂」正面。扁額は「鎖大師」。「関東八十八ケ所霊場 第五十九番 飯盛山 青蓮寺」。蟇股の見事な龍の彫り物。「木鼻」(右)。「木鼻」(左)。「大黒様」像。「弘法大師一千百年御遠忌供養塔」。「塔と庭園についてこの塔は、五輪塔を本尊として萬霊供養と諸祈願成就の為に建立いたしました。五輪塔は、真言宗=密教では、宇宙の主要構成要素の五大を形で表したものです。諸大を加えた六大で一つの完成された形となります。詳しくは、五輪塔近くの五輪塔の展開図をご参照下さい。完成された形=五輪塔=真理=大日如来となります。五輪塔は、密教の根本仏である大日如来を表す一つの形にもなります。塔婆は、この五輪塔を形どって作られています。この五輪塔の中には、水晶で作られた宝珠型の舎利器が安置されています。その舎利器のなかには、金・銀・瑠璃・硨硨磲(しゃこ)・瑪瑙・珊瑚・真珠等の宝玉と舎利が祀られています。舎利とはお釈迦様の遺骨のことですが、現在では青森県津軽半島の舎利が浜などで僅かに採取できる自然の力で生成された限られた色・形・大きさの瑪瑙系の石をお加持し、舎利として安置しています。五輪塔童子は、それぞれが頭の上に青い蓮の花を咲かせ、その上に金色の五輪塔を乗せています。この青い蓮は、青蓮寺の名前に由来しています。そして、五輪塔を表す5つの梵字をそれぞれの童子が持っている姿になっています。この五輪塔と五輪塔童子は、東京芸術大学大学院教授 薮内佐斗司先生の造立によるもので平成20年2月14日に開眼をいたしました。この塔周辺の造園工事は、有限会社フカワガーデン 普川清氏 監修の元に整備されました。そして、この五輪塔・五輪塔童子・基礎工事・塔周辺の造園工事費用は、全て東京都在住の信者さんが、ご先祖のご供養の為にご寄進されました。当山と致しましては、その行為に多大なる感謝をすると共に、そのお気持ちを寺院発展と社会貢献に繋げていきたいと考えています。青蓮寺は、当山がどなたでも気軽にお参り出来る場所に、ご先祖やご縁の有った方々のご供養に始まり、今を生きる私たちの願いごとをする場所として、子どもたちが楽しく遊べ、人々の心が癒される空間になることを目指し境内の整備を進めています。 飯盛山 仁王寺 青蓮寺 第64世住職 手広山 寶積院 薬王寺 第1世住職」庭園と前の道路脇の擁壁を見る。これでもかと「大師像」。シャクナゲ(石楠花)の花も満開。薮内佐斗司(やぶうちさとし)氏の五輪塔童子を追う。それぞれ金運、健康運、勝負運、出会い運、恋愛運をもたらすとされていると。優しく触れながらお願い事をすると願いが叶うとのこと。「きゃの五輪塔童子」。「きゃの五輪塔童子ラッキーカラーは青。ものごとの真実を観察する智慧を授かりたい時。やっぱり人生「愛」が大切。だからこそ愛や恋に悩んでしまった時、また西方を旅行するならこの童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「かの五輪塔童子」。「かの五輪塔童子ラッキーカラーは黒。正しい行いをする智慧を授かりたい時。出会いが必要な時、人や物事を引き寄せたい時、また北方を旅行するならこの童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「らの五輪塔童子」。「らの五輪塔童子ラッキーカラーは赤。自分の心やものごとを在りのままに映し出す智慧をを授かりたい時。自分を見つめ直したい時、勝負ごとに勝ちたい時、東方を旅行するならこの童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「はの五輪塔童子」。「はの五輪塔童子ラッキーカラーは白。宇宙との一体感、宇宙の一部である自分を感じたい時。やっぱり普段の生活が大切で、健康に過ごすのが一番の時には、この童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「あの五輪塔童子」。「あの五輪塔童子ラッキーカラーは黄色。全てを平等に見る智慧を授かりたい時。商売繁盛やBusinessでの成功、そして金運アップを目指す時、また南方に旅行に行くならこの童子をお参り下さい。優しく ” ふれながら ” お願いごとをして下さい。 住職」「五輪塔展開図」案内板。「五輪塔展開図真言:アビラウン ケン バザラダドバン萬霊(ばんれい)供養と諸祈願成就のために建立され、商売繁盛や勝負運、健康運、恋愛運などをもたらすとされ、手で触れながらお願い事ができます」「供養塔(五輪塔)」。「南無大師像」。この文字は「和」であろうか?正面から「南無大師像」を。「本堂」を再び。かなり古そうな「大師像」。「大師像」を何体カメラに収めたであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.14
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は「古都「鎌倉」を巡る」の2回目。この日は車で行き、古刹等の駐車場に車をその都度置かせて頂き、周囲の寺院、神社等を巡ったのであった。最初に訪ねたのが「稲荷神社(三十番神宮)」。鎌倉市手広3丁目13−8。「石鳥居」。「社殿」。小田原・北条氏の家臣であった腰越津村の玉縄北条氏の家臣「嶋村釆女氏」が、晩年津に移り住んだ時に隠居所の守護神として祀り、笛田の日蓮宗「佛行寺」が別当寺となった。明治八年ごろ、宮辺の指示(神仏分離)により取り壊されそうになったので、嶋村家の稲荷祠を遷座し、これは稲荷神社であると届出て取り壊しを逃れた(鎌倉こども風土記参照)といういきさつは興味深い。以来、稲荷神社として守られて来たと。「社殿」に近づいて。三十番神宮の祭礼としては、10月9日に佛行寺住職による祭礼、その後講中による直会(なおらい)が執り行われる。又、稲荷神社としての祭礼は、1月31日に岩瀬の「五社稲荷神社」の宮司によって行われ、合わせて稲荷講などを行う。過去のいきさつ(歴史)から、一つの神社で、仏式と神式の祭典がそれぞれ毎年あるのは珍しいとのこと。扁額は「三十番神宮」。古くから「番神さま」(ばんしんさん)と呼ばれてきた堂。「三十番神」というのは、「一ヶ月三十日間、交替で国を守るとされる神」のこととされている。また、日蓮宗では、「法華経の信仰者を守る神」として三十番神を祀るという習慣があった と。「内陣」。境内にある「稲荷神社祠」。登記上は主神。「庚申塔」は明治29年(1896年)の銘が。小さな五輪塔。「修行一千ヶ寺供養塔 南無妙法蓮華経 逆修霊隻院鶴?山?日林信士」。「平成御大典記念植樹」の梅の木?。そして次に「青蓮寺」へ。鎌倉市手広5丁目1−8。駐車場の周囲には石碑が並んでいた。「弘法大師一千年御忌供養塔」。「青蓮寺‥持‥記念之碑」。「鎖太師 護摩本山 桂林記念 之碑」「玄關一宇」と刻まれた石碑。「玄關一宇」の意味は?「南無大師遍照金剛」碑。この石碑は「神田末廣講」と書かれているのであろうか。「御自作 鎖大師 相州二十一箇所第十九番札所」「相州廿一ヶ所第拾九番札所 鎖弘法大師」碑。「青蓮寺飯盛山青蓮寺と号し、開山は弘法大師で本尊は鎖大師です。この本尊は鎌倉時代中期の写実的彫刻で国の重要文化財に指定されています。」そろそろ新しい物に更新をお願いいたします!!「山門」を正面から。山門に掲げられている寺標。右側「高野山 真言宗 準別格本山」左側「飯盛山 仁王院 青蓮寺」。「山門」を潜ると直ぐ右側、枝垂れ桜の先に「鐘楼」。「サクラ”八重紅枝垂”ゆるく垂れた枝に、紅色八重咲きの美しい花がつきます。」開花の時期には。廻り込んで別の角度から「鐘楼」を。立派な石垣台座の上に。近づいて。見事な三手先組物であろうか。梵鐘。「南無大師遍照金剛」の文字が。こちらも別の角度から。「鎖大師遍照殿」と刻まれていた。境内の至る所に様々な石像がこれでもかと言うほどあった。「不動明王」像。「弘法大師像」。右手に持つ「五鈷杵(ごこしょ)」、左手には「数珠」。「東高野山奥之院 東京永楽講」と刻まれた石柱。花を付けた大きなアセビの樹の下にも先程と同様な像が。これも「弘法大師像」であろうか。「第二番」の文字があるが。緑の溢れる境内の参道を「本堂」に向かって進む。「南無大師遍照金剛尊」の幟の間にあった石碑。「念佛碑記竝銘」であろうか。(明治33年(1900年)銘)。」青蓮寺由来が記されているようだ。ここにも「大師像」。それぞれの講中や信徒が奉納したもののようであった。これも。「手水場」。鉢には湧き水?が溜まっていた。「庫裡」。扁額「阿字第一生命」と「くずし字の先生」から。「大師像」。「南無遍大師照金剛」碑。右手に「寺務所」。「不動明王」。「南無大師遍照尊」。「稚児大師像」色の付いた「不動明王」。可愛らしいパンダ等の像も。「大師像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.13
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして次に訪ねたのが日蓮宗の寺・「仏行寺」。鎌倉市笛田3-29-22。正面に銅板を葺いた薬医門様式の「仏行寺」の「山門」。寺号標「笛田山 佛行寺」が「山門」左手に。題目塔「南無妙法蓮華経 日蓮大士」。裏面には「引導精霊法界万魂」と刻まれていた。法界とは、真理の世界、全宇宙のことで、万魂とはこの世の中の、一切の生きもののこととされている。この塔は供養塔としてありますが、造立することが供養の目的ではなく、造立し万魂をこの塔に宿らせ供養することが目的とのこと。側面には「笛田山佛行寺」と。「山門」を潜って境内へ。「仏行寺のあるここ深沢地域一帯は、名将として鎌倉幕府の創成と基盤整備に多大な貢献を果たした梶原景時を始めとする梶原氏ゆかりの地域であり、梶原氏ゆかりの梶原郷はいまも「梶原」という地名として残っているのだ。梶原景時は源頼朝亡き後、有力御家人たちに敵対視され、滅ぼされてしまいます。景季も父に従い鎌倉を去った後再起を狙いますが駿河において討ち取られます。これをきいた景季の妻、信夫(しのぶ)はこの地において自害。その悲しみは癒やされることなく、いつまでも悲しい泣き声が聞こえてきたといいます。村人たちは信夫の霊を慰めるため1495年(明応4年)、仏性院日秀に供養を依頼し、この地に庵を結んだのが仏行寺の始まりといわれています。」と。「本堂」。名将 梶原景時の嫡男、梶原景季ゆかりの寺院であり、笛田の静かな住宅地にあった。開 山 仏性院日秀創 建 1495年(明応4年)本 尊 十界互具曼荼羅「本堂」の横には竹林があった。「本堂」前の右手には寺務所が。そして「仏行寺」の裏山の斜面一面には「ツツジ」が植えられ、安養院と並ぶ「ツツジ」の名所ちなっているのであったが、この日はまだ開花が進んでいなかったので、4月16日に近くまで行ったので再び訪ねてみたのであった。この日も「本堂」脇を進み裏山に向かう。裏山の斜面への狭い通路には「やぐら」があった。その先の途中の崖にもやぐらがあり、また多くの石像が並んでいた。そしてこの日は斜面のツツジが開花して美しかった。この種類のツツジの開花はこれからが最盛期。斜面の高い場所から「本堂」の裏の「庭園」の景色を楽しむ。池には睡蓮の葉が確認できたが、花の姿は未だであった。そして斜面の最頂部まで行くと墓地が拡がっていた。そして途中の通路を左に上って行く。すると正面に現れたのが佛行寺の起源とされる「源太塚」の石碑。2~3段の石垣に囲まれた直径5メートルほどの立派な塚.これが「源太塚」。この塚には梶原景時の子源太景季(かげすえ)の片腕が埋められていると伝わっているのだ。景季は木曾義仲追討の戦いのとき、宇治川の合戦で佐々木高綱と戦陣を争った人物である。景季の妻信夫(しのぶ)は悲しみ、自害したといい、それから毎夜信夫のすすり泣きが聞こえるので村人が信夫の霊を慰めるため仏行寺を建てた、という伝説があるのだと。かつてはこの付近に信夫塚もあったそうだが、現在では鎌倉山に移されているのだと。「石灯籠」。「源太塚」を廻り込んで。しかし、何故に「腕」のみ、しかも「片腕」なのであろうか?そして「源太塚」を後にし、同じ細い坂道を下って行った。再び崖の「やぐら」の中の石仏群を見ながら下る。様々な姿の石仏が並んでいた。様々な種類・色のツツジが咲き乱れていた。「地蔵様」が「本堂」裏の庭園の入口に。サルスベリの老木も新芽を出していた。そして「本堂」裏から池のある庭園そして斜面のツツジを楽しんだのであった。そして後日に再び。そして境内の寺務所前の芍薬も開花。可憐な黄色の花。そして再び「本堂」を見る。扁額は「笛田山」。本堂前にはシンビジュームの花が。こちらはデンドロビューム。そして「仏行寺」を後にして坂道を下って行くと築地塀に歌川広重の東海道五十三次の浮世絵を陶版の大型タイルにして埋め込んでいるお宅が右手にあった。築地塀は比較的新しかったが。上段「日本橋」から「品川」、「川崎」と左に。我が「藤澤」。そして「京都 三条大橋」へと。どの様な方がお住まいの家なのであろうか。先に進むと左手にあったのが「笛田東芝町内会館」この付近は東芝の社員の方々の住む住宅街なのであろうか?しかし、近くに東芝の事務所、工場はないと思うが・・・・。道路沿いの藤の花も満開近かった。そして江ノ電バス「梶原口」から藤沢駅行きのバスに乗りこの日の帰路についたのであった。この日の歩数は・・・。頑張りました!! ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.12
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして山を下り次に訪ねたのが「八雲神社前」交差点の手前にあった「円久寺」。鎌倉市常盤621。寺号標石「常葉山 圓久寺」.「円久寺」門柱。「寺務所」であろうか。境内参道を進む。題目塔「南無妙法蓮華経」「本堂」。圓久寺は、文明年間(1469~1487)開創と伝えられる由緒正しい寺院で、江戸時代には、鎌倉比企ケ谷妙本寺の末寺であった。関東大震災によって一度本堂が失われたが、直ぐに再建し、現在に至っていると。境内を取り囲むのは、四季を通じて青々と茂る竹林。しっとりと佇む本堂の美しさを、よりいっそう引き立てている。圓久寺の本堂の裏側周辺には、「北条氏常盤邸跡」として昭和53年に国の史跡に指定されており、「コスモス寺」とも呼ばれているのだと。近づいて。何故か中心線がズレていて左右が非対称な珍しい「本堂」。圓久寺は山号を常葉山(じょうようざん)、院号を感光院(かんこういん)と号し、文明年間(1469~1487)開創と伝えられる日蓮宗の古刹です。開山は日伊上人(日惺上人)といわれ、江戸時代には池上本門寺・鎌倉比企ヶ谷妙本寺の末寺。なお、この常葉山という呼称により、常葉村と呼ばれ、現在の地名である「常盤」となっているのだと。次に「円久寺」の直ぐ左隣りにある「常盤八雲神社」を訪ねた。「常盤八雲神社 由緒常盤の鎮守、此の地は平安時代後期、塚原景時の領地であり、当社は治承年間(1177~1181)に除災祈願のため建立された。慶長年間(1596~1617)当村、矢澤与左衛門光広が熊野社を勧請、これを八雲神社に合祀し、さらに明治時代、村内鎮守、御嶽神社、諏訪神社の両社も合祀された。牛頭天王とも呼ばれた素盞嗚命を祀る当社の例祭(天王祭)にも現在も当時の天王信仰の盛大さをうかがわせる神輿渡御が行われる。伝 説昔、梶原にあった加護社のご神体が大雨で流された。それを見つけた農民が山に祀り麦飯を供えたのが起こりというものである。参拝の時「常盤の天王麦天王竹の子びしゃくで水かけろ」と唱えるしきたりがあるのはこの伝説による。祭 神 素戔嗚尊 速玉之男命 伊邪那美命神 徳 除災招福 農業守護 産業振興 良縁成就例 祭 七月」石段を上って行った。正面に「社殿」。鎌倉に4つある八雲神社の一つ。ここ常盤は平安後期から梶原景時の治めた地域。鎌倉市常盤534。創 建 1177年〜1181年(治承年間)祭 神 素盞嗚命(すさのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、 伊弉冉命(いざなみのみこと)蟇股の見事な彫刻。「常磐 八雲神社」と書かれた大きな提灯が「社殿」の両側に。「常盤八雲神社」を後にし「常磐口」を左折して進む。振り返ると見えたのが「フォルム鎌倉常盤」。所在地 神奈川県鎌倉市常盤422番6号総戸数 192戸階層 地上3階建 地下1階築年月 1998年7月眺望は良いのであろうが、湘南モノレール「湘南深沢」駅 から徒歩17分。その他はバスで「藤沢駅」か「鎌倉駅」に向かう必要があるのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.11
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「極楽寺」を後にして、「桜橋」の架かる道路を鎌倉山方面の北西に向かって住宅街を進んで行った。「熊野新宮」と刻まれた石碑が郵便ポストと電柱に寄り掛かるように道路右側に。両脇に「八雲神社」、「諏訪神社」とも刻まれていたのでネットで調べてみると「極楽寺駅から5分の熊野新宮は、極楽寺の鎮守杜です。新宮社と言われます。導地蔵の前を通り、最初の曲がり角を右折してすぐのところにあります。かつては、極楽寺の境内の中にあり、建武二年(1335年)に足利直義によって土地が寄進されたそうです。現在の社殿は昭和2年(1927年)に再建されたものだそうで、翌年に同地域の八雲神社・諏訪神社を合祀したそうです。」と。石碑のあったT字路を右折して「熊野新宮」に向かって山の裾野を進む。100mほど歩くと正面に石鳥居が見えて来た。「熊野新宮」に到着。鎌倉市極楽寺2丁目3−1。正面に「石鳥居」。石段を上って境内に。「狛犬(阿形像)」(右)全身が正面を向いた狛犬は珍しい?「狛犬(吽形像)」(左)。「極楽寺 熊野新宮祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 速玉男命(はやたまおのみこと) 素盞嗚命(すさのおのみこと) 建御名方命(たけみなかたのみこと)由緒 もと新宮社と称し文永六年忍性菩薩の勧請と伝えられ、鎌倉時代極楽寺全盛の当時より 熊野新宮と号し同寺の鎮守として広く神地を有し、厚く幕府の崇敬を受けて栄えた。 昭和三年に同地区の八雲神社、諏訪神社の両社を合祀し、極楽寺、稲村ガ崎全町の鎮守 として年々盛んな祭典を執行し、殖産興業の守護神として多くの進行を集めている。例祭 七月五日 八雲神社例祭 神輿発御 七月十二日 神輿渡御祭 九月九日 例大祭👈リンク 湯花神楽の神事あり 熊野新宮 宮司」「社殿」『忍性菩薩行状略頌』に文永六年(一二四九)四月、新宮草創のことが見え、又、永仁六年(一二九八)炎上、正安二年(一三〇〇)二月二十三日に年月を経ずして新宮を勧請したとある。建武二年(一三三五)二月には足利直義が百貫文の地を寄進している。関東大震災により昭和三年九月十日、村内の無格社・八雲神社と同・諏訪明神を合祀して極楽寺区の氏神社として年と共に盛大な祭典を行っている。現在の社殿は昭和二年の造営である。向拝唐破風懸魚、蟇股等の見事な彫刻。「本殿」を見る。向かって左の「脇障子」の彫刻。向かって右の「脇障子」の彫刻。境内の石碑群が「コ」の字型に並んでいた。右側から2基。「聖徳太子」碑。次に「庚申供羪塔」。正面右から「 白川神社 長﨑神社」碑。「神武天皇」碑。中央に「國常立尊(くにのとこたちのみこと) 御嶽山神社 八海山神社 三笠山神社」。日本神話の神。「日本書紀」では、天地開闢(かいびゃく)のときあらゆる神に先立って現れた第一神。国土生成の中心的神とされる。「古事記」では、国常立神の名で、第6番目に現れた神 であると。「大穴牟遅(おおなむじ )少名毘古那(すくなびこな)」碑。「三十三度登山」碑。富士山の登山記念碑か?「石仏」「富士浅間大神」碑。「古神札収納所」。そして引き返して先程の石碑のあったT字路を右折して進む。前方に見えて来たのが「鎌倉市立稲村ヶ崎小学校」。道路を挟んで東西に校舎が別れていた。それぞれの校舎は渡り廊下で行き来することが出来るようであった。現在でも、極楽寺3、4丁目は「西ヶ谷町内会」と呼ばれているのであろうか。民家の庭に白い珍しい花が咲いていた。ネットで調べてみたが「ヒトツタバコ」、別名「ナンジャモンジャ」であろうか?途中左に折れ進むと左手にあったのが「月影地蔵堂」。「月影地蔵」碑。境内の石仏群が左手に。正面に「月影地蔵堂」。数多くの墓碑が並んでいた。「月影地蔵堂」。もとは月影ヶ谷の阿仏尼邸にあった地蔵像をこの地に移したのでこの名があると伝えられている。地蔵堂の裏を上ると鎌倉山。陣鐘山を越えると聖福寺跡。扁額は「月影地蔵」。月影地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は、鎌倉二十四地蔵の一つ。赤い衣を着た白い地蔵尊。現在の月影地蔵尊は江戸時代のもののようであり、阿仏尼が参拝した月影地蔵尊を模したものであろう と。以前に戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第二十一番 「月影地蔵尊」の御朱印です。歴史を感じさせる墓石。更に極楽寺4丁目の住宅街のひたすら上り坂を進んで行く。山間の奥まで住宅地が続いていた。そして坂道を上り終えた場所にあった狭いトンネル。トンネル内部を鉄板で覆っていて照明が点灯していないトンネル。「打越トンネル」という名称らしいが「極楽寺のお化けトンネル」👈リンクとも呼ばれているのだと。興味のある方は上記👈リンク にアクセスして下さい。そして「極楽寺のお化けトンネル」を抜けると、鎌倉市笛田(ふえだ)6丁目に入る。よって極楽寺と苗田を繋ぐトンネルであるのだ。道路脇の「シャガ」の花が迎えてくれた。しばらく歩き「子守神社」を訪ねた。鎌倉市笛田5丁目34−6。石鳥居。その先に急な石段が続いていた。石鳥居の扁額「子守神社」。「社殿」。かつては、笛田本村という地区の一画で、「山の神」「産神」として崇められた蔵王権現社が祀られ、仏行寺によって管理されていた。戦後、開発が進み打越の住民が増えると、新たな鎮守を祀ろうという気運が高まり、昭和21年に子守神社に改称されたという。祭神は子守大神(こもりのおおかみ)玉依姫命(たまよりひめのみこと)「石祠」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.10
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「成就院」を後にして、「極楽寺坂」を下り「桜橋」まで戻る。朱色の欄干の「桜橋」。現在の桜橋は昭和32年3月に完成。江ノ電が下を走っており、赤い高欄が目印の小さな橋。再び「極楽洞」を見る。1907年(明治40年)に建造されたレンガ造のトンネルで、設計は土井治男による。平成22年11月24日に鎌倉市景観重要建築物33号に指定された。江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社は1902年(明治35年)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては日本で最古になる。極楽洞は レンガ造りの抗門で、桜橋から見ることができるのだ。江ノ電唯一のトンネルで、藤沢方は極楽洞、鎌倉方は千歳開道と表示されている。江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせるのだ。延長:209m、高さ:5.285m、幅:3.940m。アーチの頂部に2ヶ所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、現在でも建設当時の原型をとどめているのだと。赤い屋根の建物は「導地蔵尊」極楽寺の門前、一見民家のような御堂である。道行く人が縁側に座って寛いでいるこの御堂は「導地蔵(みちびきじぞう)」、「極楽寺地蔵」といわれ、中には鎌倉二十四地蔵の一つである立派な御地蔵様が。鎌倉市極楽寺2-2-2。扁額「導地蔵」。1267年(文永4年)、極楽寺の僧、忍性が運慶作の地蔵を安置したのが始まりといわれている。兵火によって当初の地蔵は焼失したというが、1333年(元弘3年)に起こった新田義貞の鎌倉攻めのこか定かではない。現在の地蔵像は室町時代につくられたものだと。「内陣」。「導地蔵」にズームして。以前に戴いた鎌倉二十四地蔵尊霊場第二十番「極楽寺」の「導地蔵尊」の御朱印です。堂の横にあった素朴な地蔵尊。そして久しぶりに「極楽寺(ごくらくじ)」を訪ねた。趣のある茅葺き屋根の「山門」。「極楽寺(ごくらくじ)開山は良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長2年(1262)に北条業時(なりとき)に招かれて多宝寺住持となり、その後文永4年(1267)に極楽寺に開山として迎えられました。極楽寺は正元元年(1259)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲むように多くの子院、そして療病院などの病院施設もあったことが当寺に伝わる絵図からわかります。 ● 宗 派:真言律宗 ● 山号寺号:霊鷲山感応院極楽律寺(りょうじゅせんかんのういんごくらくりつじ) ● 建 立:正元元年(1259) ● 開 山:忍性菩薩(にんしょうぼさつ) ● 開 基:北条重時 」寺号標石「極楽寺」。その右には「當山 開基 北條重時 開山 忍性菩薩 墓 寺ノ内ニアリ」と刻まれた石碑も。「鎌倉の旧地名 寺中(じちゅう)(現在の極楽寺三丁目)現在の極楽寺三丁目のうち北側の旧字名(あざめい)で、極楽寺の境内に含まれていることが地名の由来とみられます。かって、極楽寺の境内は、現在の稲村ケ第小学校や極楽寺ニ丁目・四丁目の周辺なども含めた広大な範囲に及び、多くの塔頭(たっちゅう)のほか、施薬院(せやくいん)などの医療施設もありました。極楽寺の開山である忍性(にんしょう)は、医療・福祉といった救済事業を行うとともに、道や橋、井戸などを造る事業にも取り組んだことで知られます。極楽寺地区の旧字名として、寺中以外にも、極楽寺の北側にある谷戸「馬場ヶ谷」(ばばがやっ/ばんばがやっ)があります。忍性が坂ノ下にあった馬用の病舎において治療した馬の調馬を行った場所とされ、地名の由来になっています。」「山門」の脇右下にある小さな「くぐり戸」から境内に入った。「境内配置図」【https://omairi.info/2018/09/30/gokurakuji-tpl-keidaisanpo/#outline__2】👈リンク より参道両側の桜並木は既に終わり新緑の若葉のトンネルになっていた。以前に桜の時期に訪ねた時の写真であるが、満開時にはこの様にソメイヨシノが。この日は、わずかに八重桜が花をつけていた。右手に「太子堂」。如意輪観世音が安置されている堂。「鎌倉観音霊場第二十ニ番」札所。以前に戴いた「鎌倉三十三観音霊場第二十ニ番 極楽寺 如意輪観世音」の御朱印です。本堂前のサルスベリ(百日紅)はかなりの古木・樹齢200年以上をと。開花すれば・・・こちらはネットより。 【https://iwalkedblog.com/?p=7685】より「八重一重咲分け桜」。八重の中に一重の花を見つけました。「八重一重咲分け桜北条時宗公が手植えと伝えられ、現在の桜はその古株より発生したものである。一枝に八重と一重とが混生し、淡紅色の極めて美しい桜である。一名御車返しと云う。原産地は鎌倉桐ケ谷と言われ、この桜は当地に存在する唯一のものである。」「本堂」。屋根には北条氏の三つ鱗。極楽寺(真言律宗)は、正嘉年間(1257~59年)、北条重時の発願で正永和尚が深沢に建てた念仏堂(極楽寺と称していた。)を起源としている。1259年(正元元年)、北条重時(二代執権北条義時の三男)が、その念仏堂を現在の地に再建し、1267年(文永4年)、重時の子長時(六代執権)、業時の兄弟が念仏寺だった極楽寺を律院に改めて、当時多宝寺にいた忍性を開山に迎えた。七堂伽藍と四十九の支院を持つ壮大な寺院であったが、新田義貞の鎌倉攻めによって焼失、以後再建を繰り返したが、その度に焼失し、現在は吉祥院を残すのみ。本尊は釈迦如来。寺宝として十三仏十二番札所である大日如来、木造清涼寺式釈迦如来立像 木造忍性菩薩像 木造文殊菩薩像など。「本堂」には扁額は無く。以前に戴いた「鎌倉十三佛霊場第十ニ番 極楽寺 大日如来」の御朱印です。境内「転法輪殿(宝物館)」の前に「千服茶臼 製薬鉢」が。「千服茶臼 製薬鉢開山忍性菩薩が施薬悲田院、癩病所を設けた折に使用されたものだと伝えられる。往古社会救済事業をなした極楽寺の貴重な遺品の一つである」。赤子を抱く「子育地蔵尊」。「寺務所 納経受付」。「御朱印受付所」もここに。境内の石仏。「八重一重咲分け桜」と左手に「転法輪殿(宝物館)」。白の藤の花は開花中。ズームして。「極楽寺の井」。「極楽寺の井山門前を掘りおこした時に発見された井戸です。鎌倉石を八段積み上げての大きなものです。ここで開山忍性菩薩が粥を施したと伝えられます。昔の人々にとって憩の井戸であったろうと思われます」。「客殿」の玄関。白菖蒲。そして桜の花が落ちた参道・花莚(はなむしろ)を「山門」に向かって歩く。花嵐中での桜吹雪も見たかったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.09
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして更に進むと左手のコンクリート擁壁には大きな案内板が。「明鏡山円満院星の井寺」と「舟守地蔵」の案内板。その上には白地に墨で「南無虚空蔵菩薩」と書かれた多数の幟が。まずは「虚空蔵菩薩」を祀る「明鏡山 円満院 星井寺」への石段を上る。幟には、「日本三虚空蔵、丑・寅年生の守本尊」とも。鎌倉市坂ノ下18-28。石段下には「本尊虚空蔵菩薩」と刻まれた石碑があった。石段の上に「明鏡山 円満院 星井寺」の本殿。この石碑には「南無遍照金剛」?。「本堂」前に狛犬。「星の井水神」。「星井寺」の境内には小さな「舟守地蔵堂」があった。小さなお堂の中に船の台座に乗った石製のお地蔵様・「舟守地蔵」が立っていた。昔から海上安全、大漁祈願など、船や水に関係のある人々から厚い信仰を集めていると。「明鏡山 円満院 星井寺」高僧行基と縁あると伝えられ歴史ある寺。成就院の境外仏堂となっている。ご本尊<虚空蔵菩薩> 虚空とは無限の知恵を表し、御真言<のうぼうあきゃしゃきゃらばやおんありきゃまりぼりそあか>を唱えることで、頭脳明晰になるといわれる。*丑・虎年生まれの方の守り本尊*鎌倉13仏霊場13番札所(朱印は成就院で承ります)と。扁額は「明鏡山」。「内陣」には御本尊の「虚空蔵菩薩」が。「明鏡山円満院星の井寺(御本尊虚空蔵菩薩安置)天平年間、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が当地の古井戸「星月の井」に明るく輝く明星の光りが移るとのうわさを地元民から聴き、井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現われていた行基はそのお姿を仏像に彫り当地にお堂を建立し安置した。かの像は明星の照曜の如き光を放ち、鏡に影の移る如くでありました。以後数百年経って幕下の征夷大将軍源頼朝公はこの菩薩を崇敬し、この菩薩像を内陣仏の秘仏とし、仏師運慶に外陣仏を作らせた、これが前立尊であるという。秘仏虚空蔵菩薩はわが国では唯三体の木彫の仏像で大変貴重な仏像であります。これに加えてこの御仏は明星と一体で、その分身であり限りない知恵をそなえた御仏で、経典では虚空蔵菩薩は、西方香集世界の教主で娑婆世界の苦難する人々の利益のために無不畏陀羅尼を説くことを、釈迦・敷蔵の二仏に許された御仏であります。即ちその本尊に礼するものは三世十方一切の諸仏を礼することと同じであるといわれます。又、虚空蔵菩薩を本尊として修業する虚空蔵求聞持法では心を静かにしこの真言を唱えれば天より明星が口に入り、菩薩の威はあらわれて頭脳は明晰となり記憶力は増進するといわれております。秘仏であるが衆生に縁を結ばせるべきでるとして三十五年一度に開帳し衆生にそのお姿を拝する事が許されました。近代に至り熱心な信仰者の意に添うようにと毎年正月十三日に開帳し善男善女もそのお姿を毎年拝することが出来るようになりました。正月十三日の初護摩供養には、丑年寅年の人々の守本尊として、また、知恵、記憶力をお授け下さる虚空蔵様として地元民をはじめ各地より善男善女が参詣にまいります。」以前に戴いた「鎌倉十三佛第十三番」の「星井寺」の「虚空蔵菩薩」の御朱印です。そして「星井寺」の隣りにあったのが「星の井」。「舟守地蔵(虚空蔵堂境内安置)いつの時代に開眼されたお地蔵であるか不明であるが、往年より海上安全、大漁満足、身宮安泰、海難、水難除け、その他船舶水に関係した一切の事業に従事しておられる人々に大きな功徳をお授け下さるお地蔵として近郷、近在の人々に深く崇敬されております。また、その昔より願主の心清く精進すれば願い事を数日で成就させていだける有難いお地蔵様であるとも言い伝えられております。 昭和59年7月 虚空蔵堂護持会」「星月井」碑。碑文には「星月夜ノ井ハ一ニ星ノ井トモ云ウ鎌倉十井ノ一ナリ坂ノ下ニ属ス往時此附近ノ地老樹蓊鬱トシテ昼尚暗シ故ニ称シテ星月谷ト曰フ後転ジテ星月夜トナル井名蓋シ此ニ基ク里老言ウ古昔此井中昼モ星ノ影見ユ故ニ此名アリ近傍ノ婢女誤ツテ菜刀ヲ落セシヨリ以来星影復タ見エザルニ至ルト此説最モ里人ノ為メニ信ゼラルルガ如シ慶長五年六月徳川家康京師ヨリノ帰途鎌倉ニ過リ特ニ此井ヲ見タルコトアリ以テ其名世ニ著ハルルヲ知ルベシ水質清冽最モ口ニ可ナリ 昭和二年三月建 鎌倉町青年団」【この井戸は鎌倉十井(じゅっせん)のひとつです。星月夜(ほしづきよ)の井とか、星の井とも言います。この地域の名前は坂の下です。昔この付近は、木が多く昼でも暗いほどだったので、星月谷(ほしづくがやつ)と言いましが、その後、星月夜に変化しました。 井戸の名前は、多分ここからきたのものです。またここの土地の多くの老人は、次のような話を信じています。昔はこの井戸の中に、昼間でも星の影が見えたので、この名前が付いていたが、近所の者が誤って包丁を落してからは、星影がみえなくなったという話です。 1600年6月に、徳川家康(とくがわいえやす)が京都より帰る途中、鎌倉を通り、この井戸を見たことがありました。その時以来世によく知られるようになったのです。水質は清く冷やかで飲むのに最適です。】と。「星月井」、「星の井」、「星月の井」、「十井之一 星の井」と様々な表現が。「星の井(ほしのい)この井戸は、鎌倉十井の一つで、星月夜の井、星月の井とも呼ばれています。昔、(この辺りは山深く、うっそうと木々が繁り、昼でも暗かったため、)この井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。奈良時代の名僧・行基は、井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあります。井戸の水は清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人の飲料水として売られていたそうです。 平成11年12月 社団法人鎌倉青年会議所」「星の井」には立派な屋根が取り付けられていた。そして「成就院」の東参道から境内に向かう。前方に寺号標石と東側山門が見えた。鎌倉のアジサイ三大名所として知られる有名な階段を上って行った。寺号標石「普明山 法立寺 成就院」。「相刕廿一ヶ所 第十三番 弘法大師」と刻まれた石碑。「弘法大師相模二十一ヶ所霊場」の石碑であるようだ。新たに出来た東側(長谷側)「山門」。扁額には「東結界」。「山門」を潜り更に石段を上って行った。振り返ると「由比ヶ浜」、「材木座海岸」の姿が。海岸への人出は少なく。鎌倉市大町5丁目にある焼却場「名越クリーンセンター」の煙突も見えた。そして成就院の「山門」が正面に。扁額は「普明山」。「宝篋印塔」。「御朱印」、「護摩祈祷」案内。「弘法大師像」。成就院(真言宗大覚寺派)のある地は、弘法大師が100日間にわたって虚空蔵菩薩をまつる修行を行なった場所といわれ、1219年(承久元年)、三代執権北条泰時がこの寺を創建し、北条一族の繁栄を祈願したと伝えられている(創建は1221年(承久3年)という説もある。「本堂」。成就院は、1219年に鎌倉幕府三代執権、北条泰時(ほうじょうやすとき)によって建立された寺院。この地は弘法大師が修行をした場所で、一族の繁栄を願って建立されたと。1333年、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにあい、戦火により伽藍は焼失した。その後、西ケ谷という場所に移されたが、勢いはすっかり衰えてしまった。1700年頃、成就院は祐尊(ゆうそん)という僧により再建された。現在は、アジサイの名所として、鎌倉だけでなく全国的にも有名な寺院となっているのだ。開山:弘法大師開基:北条泰時(伝)本尊:不動明王(縁結び不動明王)扁額は「成就院」。以前戴いた鎌倉三十三観音霊場・第二十一番札所「成就院」の「聖観世音菩薩」の御朱印です。境内には様々な石碑が。「成就院建立時の五輪塔の一部」。「伝文覚(もんがく)上人像萩原守衛(碌山)が文覚像制作に影響を与えた像」。「八角堂聖徳太子千三百年御忌記念に建立」扁額は「和貴」。「子安地蔵菩薩 子生石安産・子育・子授に功徳あり」。「縁結び不動明王像」近づいて。「本尊御分身 縁結び不動明王像ご縁日 二十八日」。「本尊 不動明王御分身 護摩祈祷」案内。「なで蛙善心廻幸は「善き心幸せを招きかえる」という意味であると。「十三重塔」。手水場。龍の手水は鎌倉一美しいといわれると。コロナ対策で休止中。そして「成就院」を後にして西側の参道を下っていくと、極楽寺坂の反対側に新しい阿弥陀如来像と五輪塔の姿が確認できた。ズームして。五輪塔には梵語が刻まれていた。五輪塔に刻まれている文字 ・梵字(種字、サンスクリット)は上から「キャ・空」、「カ・風」、「ラ・火」、「バ・水」、「ア・地」であると。 【http://www7b.biglobe.ne.jp/~boso/kiisobo/kiiso_04.html】よりこちらも新たに出来た「西山門」が前方に。潜り西側の「山門」を振り返る。扁額は「西結界」。「成就院境内」案内。「成就院」を後にし、次の「極楽寺」へと歩を進めたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.08
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「稲村ヶ崎公園」を後にし、国道134号を渡り稲村ヶ崎1丁目の住宅街を北上し途中を右折して進む。山の裾野の細い道を進んで行くと山の斜面にあったのが「白山神社」。鎌倉市稲村ガ崎1丁目6−5。石段の途中に朱の鳥居が有り、更に石段を上ると「社殿」が。「白山神社」を後にして来た道を戻り極楽寺川を渡り江ノ電近くのT字路を左折。江ノ電に沿って進み、踏切を渡ると直ぐ左にあった石碑には「持法日實法師」と刻まれていた。「文化八年(1811)辛未 八月二十一日」、「師は濱工實相寺歴代上人の弟子にして、当地に住し日蓮上人袈裟懸松を守りし法師なり。」の文字が刻まれていた。そして更に50m程進むと右手にあったのが「日蓮袈裟掛け松跡」。1271年9月12日、幕府に捕らえられ龍ノ口の刑場へとひかれて行く日蓮は、この地において、神聖な袈裟が血に染まるのは恐れ多いと近くにあった松の枝に掛けたといわれています。当時の松はもうなくなってしまっていたが、石碑とともに、一本の松が植えられていた。「文永八年辛未年九月十ニ日 南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 御袈裟縣松光則寺 日仁 第三十ニ世」と刻まれた石碑。まだ小さな松が植えられていた。江ノ電線路に沿った道を戻って行くと「針磨橋」の案内板があった。「この橋は、「針磨(はりすり)橋(ばし)」と呼はれ、古くから往来があった十の橋を選んだ「鎌倉十橋」の一つとして、江戸時代に刊行された『新編鎌倉志』や『新編相模国風l土記稿』にも記述があります。橋の名は、昔、この付近に針をつくる人が住んでいたことに由来するといわれています。」この場所には、以前、昭和13年3月に鎌倉町青年団が建て石碑があり、「鎌倉十橋ノーニシテ 往昔此ノ附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセシ者住ミニケリトテ此ノ名アリトイフ」と書かれていた。【この橋は鎌倉十橋のひとつです。昔この付近に、鉄を砥いで針に仕上げることを商売にしている職人が住んでいたので、この 名前が付けられたといいます。】 【https://4travel.jp/travelogue/10853556】より「十橋之一 針磨橋」碑。現在の橋を見る。この橋のあるあたりは、阿仏尼の屋敷跡で、この近くに針を磨く老婆(我入道)が住んでいたために、この名がついたと。民家の門であろうか?「御代川」と。更に北に進み江ノ電の踏切を渡る。踏切の直後、左手にあったのが「阿佛邸旧蹟」碑。鎌倉時代の有名な日記「十六夜日記」👈リンクの作者阿仏尼の住んでいた屋敷跡の石碑。阿仏尼は歌人藤原定家の子の為家の妻、為家が亡くなってから所領相続のことで争いが起こり、阿仏尼は執権北条時宗に訴えて裁判を受けたいが為に、1277年(建治三年)に京都から鎌倉に来たのですが、その道中と鎌倉滞在の日記が「十六夜日記」。「阿佛邸舊蹟阿佛ハ藤原定家ノ子為家ノ室ニシテ和歌ノ師範家冷泉家ノ祖為相ノ母ナリ為相ノ異母兄為氏為相ニ属スベキ和歌所ノ所領播磨細川ノ庄ヲ横領セルヲ以之ヲ執権時宗ニ訴ヘ其ノ裁決ヲ乞ハントシ建治三年京を出デテ東ニ下リ居ヲ月影カ谷ニ卜ス即チ此ノ地ナリ其ノ折ノ日記ヲ十六夜日記ト云ヒテ世ニ知ラル係争久シキニ彌リテ決セズ弘安四年遂ニ此ニ没ス」大正九年三月建之 鎌倉町青年会」【阿仏尼(あぶつに)は、和歌の名人として有名な藤原定家(ていか)の息子である為家(ためいえ)の妻であり、また名家冷泉(れいぜい)家を起こした為相(ためすけ)の母でもあります。あるとき、為相の義理の兄為氏(ためうじ)が、播磨(はりま:兵庫県)細川にある為相の領地を奪ったので、これを鎌倉幕府(北条時宗)に訴えるために、1277年に京都を出発して、東海道を旅行して、鎌倉の月影ヶ谷(つきかげがやつ)という場所、すなわちこの場所に住みました。その時の旅行記を「十六夜(いざよい)日記」といい有名です。裁判は長引き、生きている間には決着が着きませんでした。1281年に、ここで亡くなっております。】傍らの句碑には「月影能 谷若葉して 道清志」再び踏切を渡り、極楽寺駅に向かって線路に沿って歩く。右手・創作小物・服飾の店「趣味の部屋比呂」の入口近くにあった「江ノ電の絵」。「極楽寺・稲村ヶ崎 おおばひろし」と記載されていた。そして左手に江ノ電「極楽寺駅」。「江ノ島電鉄 極楽寺駅」。「関東の駅百選」にも選ばれている江ノ島電鉄「極楽寺駅」。ドラマやアニメのロケ地としても知られており、ファンから親しまれている駅。「文学案内板 極楽寺周辺○月影ヶ谷(阿仏尼滞在の地) 鎌倉時代中期の女流歌人、阿仏尼は夫である藤原為家の没後、先妻の子為氏と実子為相とのあいだにおこった遺産相続の訴訟のため、京都から鎌倉へ下った。その間のことを記したのが「十六夜日記」で、前半は東海道の紀行文、後半は鎌倉での日記となっている。鎌倉では月影ヶ谷に滞在した。「十六夜日記」には次のように記されている。 東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍なれば、のどかにすごくて、浪の音松風絶えず。 (引用文献 新日本古典文学大系51 岩波書店 平成2年)○極楽寺切通 極楽寺開山忍性が開いた道と伝えられ、京都・鎌倉間の往還路だった。鎌倉・南北朝時代の武将・新田義貞は、元弘3年(1333年)5月、一族を集めて倒幕の挙兵をした。各地の合戦で幕府軍を撃破し、鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三隊に分け、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂の三方から攻めた。一方、幕府軍も三方に手分けして防戦。「太平記」(巻第10 稲村崎干潟と成る事)はこの合戦のありさまを次のように記している。 さる程に、極楽寺の切通しへ向はれたる大館次郎宗氏、本間に討たれて、兵ども片瀬・腰越まで引き退きぬと聞えければ、新田義貞、逞兵二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯を掻いて、数万の兵陣を並べて並みゐたり。 (引用文献 新潮日本古典集成 新潮社 昭和55年) 詳細は鎌倉文学館(長谷1-5-3、電話23-3911)にお尋ねください。 平成8年2月 鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館」「第3回 関東の駅百選認定」碑。銘板「土木學會選奨土木遺産 2014 江ノ島電鉄(極楽寺駅)」「■江ノ島電鉄(極楽寺駅) 江ノ島電鉄は明治35年(1902年)に開業し、ほぼ、当時の路線で営業している電車としては 日本で最古である。 極楽寺は明治37年(1904年)年開業。駅舎はかなり古い(昭和10年代)木造形式で、緑豊かな 街並みの中に鎌倉らしい佇まいを見せる。 平成11年(1999年)に関東の駅100選に選ばれている。 駅舎の裏手に広がる石積擁壁は建設当時のもので、擁壁の上には駅名の由来にもなっている 真言律宗の極楽寺がある。」「極楽寺駅」周辺案内図。名所案内板。「極楽寺駅」前の坂道を上って行くと、「桜橋」手前左手にあったのが銘板「土木學會選奨土木遺産 2014 江ノ島電鉄(極楽洞)」■江ノ島電鉄(極楽洞・千歳開道) 江ノ島電鉄は明治35年( 1902・午)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては 日本で最古である。 極楽洞は、江ノ島電鉄唯一のトンネルで明治40年(1907年)鮻工。藤沢方には極楽洞、 鎌倉方には千歳開道と表示されており、建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている。 平成22年(2010年)、鎌倉市の景観重要建築物などに指定されている。 延長 209rn、高さ 5.285m、幅 3.940m「極楽洞」案内板。「極楽洞極楽洞は江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄が所有する煉瓦造りの杭門で、右手の桜橋から見ることができます。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形をとどめています。江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせます」「極楽洞」。暫く待つと鎌倉駅に向かう江ノ電が「極楽洞」に入って行った。「極楽洞」入口の煉瓦積みの上部には「要石」が2箇所に。「極楽寺坂」の入口にあった「上杉憲方墓」碑。上杉憲方は、関東管領上杉憲顕の子で、憲顕、憲方と続く家系が山内上杉家となった。鎌倉公方の足利氏満に仕え、1379年(康暦元年)、関東管領に任じられている。憲方は山ノ内の禅興寺を中興(現在は支院の明月院のみが残る。)。「明月院やぐら」にも上杉憲方墓とされる宝篋印塔が安置されている。西方寺址(極楽寺切通沿い)に並ぶ石塔群のうち、七重層塔が三代鎌倉公方の足利氏満の下で関東管領を務めた上杉憲方の墓で、隣の五重層塔は憲方の妻のものと伝えられている。極楽寺切通を挟んで反対側の崖には、妻が建てたとされる憲方の逆修塔が残されている(逆修塔とは、生前に建てる供養塔。)。「国指定史跡 伝上杉憲方墓 昭和2年4月8日指定この場所はかって西方寺と呼はれる寺院の一角てあった。極楽寺切通の出人口付近の斜面を人工的に削り、方形に造リ出した空間に石塔が建ち並んている。上杉憲方の墓と伝えられる安山岩製七重層塔1基を中心に、その妻の墓塔と伝えられる凝灰岩製層塔1基と、凝灰岩製五輪塔4基、その他五輪塔の残欠が散在する。七重層塔の現存高は約290cmで、相輪の頂部を欠いているが、全体的な残存状況は良好である。塔身に浮き彫りされた金剛界四仏の様相や、均整の取れた塔全体の形から、13世紀前半頃のものと推定される。上杉憲方(1335ー94 )は山内上杉氏の祖であリ、武蔵国・安房国などの守護や鎌倉公方を補佐した関東管領を務めた。山ノ内に所在する明月院の開基としても知られる。この七重層塔を上杉憲方の墓とするには年代が合わないが、彼の墓が極楽寺にあると伝えられ、また、この付近に永和5年(1379 )銘の彼の逆修塔(生前供養のための塔)も存在することから、この地が彼の基所であるとの伝承が残されている。」別の角度から。「上杉憲方の墓」・「七重層塔」の最下部の4方には仏像が刻まれていた。そして更に「極楽寺坂」を上っていくと、右側に「成就院」の西側の入口石段が。石段の横には「成就院」の山号の「普明山」と刻まれた石碑があった。「極楽寺坂切通し」を進む。極楽寺の開山忍性が切り開いたとされる「極楽寺坂切通し」(鎌倉七口)は、その旧状を留めていないが、かつては、成就院の山門前を寺とほぼ同じ高さで通っていたという。左手に石碑が。「極楽寺坂此所往古畳山ナリシヲ極楽寺開山忍性菩薩疏鑿シテ一条ノ路ヲ開キシト云フ即チ極楽寺切通ト唱フルハ是ナリ元弘三年(1333)ノ鎌倉討入リニ際シ大館次郎宗氏江田三郎行義ハ新田軍ノ大将トシテ此便路ニ向ヒ大仏陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ大将トシテ此所ヲ堅メ相戦フ」【ここは昔は山々が重なっていた所でしたが、極楽寺を開いた僧の忍性(にんじょう)が一本の路を切り開いたと伝えられています。その極楽寺切通(きりどうし)と言うのはこの道のことです。 1333年に新田軍が鎌倉へ攻め入った時、その軍の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)と江田行義(えだゆきよし)がこの道を進行して行きました。それを鎌倉軍の大将大仏貞直(おさらぎさだなお)は、この坂に陣をしいて相戦った場所であります。】。「歴史的風土特別保存地区指定図」。そして左手に「日限六地蔵尊(ひぎりろくじぞうそん)(日限地蔵尊)」。「日限地蔵菩薩」と書かれた木札。「日限地蔵尊当地蔵尊は道行く人々をお守り下さり、お地蔵様の眼のとどく範囲で事故がおきても大事にいたらないと云われ、また善男、善女が邪心を捨て心を清くもち願い事を期日を極めておすがりすれば、その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様であるとして、いつの世か日限地蔵と称されるようになったと云い伝えられております。近年になり盗難・悪戯が激しく、こともあろうに心ない酔漢により佛像が破壊されるに至りました。これ等保護のためやむなく見苦しいシャッターを取り付けました。日限六地蔵尊護持会」なるほど、シャッターの奥に「六地蔵」が。そして「成就院」への東側からの石段の前には「地蔵菩薩像」が。「地蔵菩薩像」をズームで。地蔵菩薩のシンボルといえば「錫杖(しゃくじょう)」と「宝珠」。「現在地」案内図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.07
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「海の見える坂道」そして「七高通り」を下り江ノ電踏切を再び渡り国道134号まで戻り左折し鎌倉方面に向かいながら江の島の姿を振り返る。すると「七里ヶ浜駐車場」を過ぎた場所に「海側歩道通行止め」の案内板とバリケードがあった。台風10号の高波で2019年8月13日未明に擁壁が被災し、鎌倉市稲村ガ崎三丁目・国道134号の稲村ヶ崎駅入口交差点付近で海側の歩道の一部が陥没。未だに復旧工事が行われており、歩道の一部区間を通行止めとしていたのであった。しかし山側にある歩道に渡りたかったが、横断歩道もなく交通量も多いため安易に手前にあった海岸に降りる石段を下り波打ち際を進む事を決断してしまったのであった。最初は、短い距離と考え気楽な気持ちで波打ち際を歩き、江の島の姿を撮影。満潮の時間であったのか、波がかなり近くまで押し寄せて来ていたのであった。左側前方には工事用の仮設架台が。しかし仮設架台の先は岩場となっており、滑らないように、そして波に注意しながら進まざるを得なかったのであった。この間、カメラのシャッターを押す余裕は全く無く。「西田幾多郎博士記念歌碑」は一時的に何処かに移動されているのであろうか?この後に訪ねた「稲村ヶ崎公園」にも見当たらなかったのであったが、現在何処に?300m以上進んだであろうか、この間歩道に上がれる場所はなく何とか「音無川」の河口まで進めたが、「音無川」を渡るルートはなく焦ったが、何とか川の堤防を通り国道134号の「音無橋」の下を潜るルートを発見し、国道134号の歩道に戻ることが出来たのであった。やれやれ!!そして前方に「稲村ヶ崎」の姿が確認できた。国道134号の「稲村ヶ崎駅入口」交差点を左折し向かったのが「十一人塚」。「十一人塚」碑。「十一人塚碑元弘三年(1333)五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏ヲ将トシテ 極楽寺口ニ攻入ラントセシニ 敵中 本間山城左衛門手兵ヲ率イテ大館ノ本陣ニ切込ミ 為ニ宗氏主従十一人戦死セリ 即遺骸ヲ茲(ココ)ニ埋メ 十一面観音ノ像ヲ建テ以テ其ノ英魂ヲ弔シ 之ヲ十一人塚ト称セシト云ウ」【1333年5月19日に、新田義貞(にったよしさだ)軍は、大館宗氏(おおたち 又は おおだち むねうじ)を武将として、極楽寺坂から攻め入ろうと準備している時に、鎌倉側の武将である本間山城左衛門(ほんまやましろざえもん)が大館の本陣に切込みました。 その結果、宗氏とその部下11人が戦死しました。 その遺体をここに埋め、十一面観音の像を建ててその魂を祭りました。それゆえ十一人塚と言うと伝えられています。】「鎌倉市指定史跡 「十一人塚」 昭和36年11月15日指定元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めに際し、新田氏の一族である大館宗氏は極楽寺坂の切通から鎌倉へ攻め込みました。しかし北条方の反撃にあい、宗氏以下11人は稲瀬川で討ち死にしたと伝えられます(『太平記』『梅松論』)。十一人塚は、その11人を埋葬し十一面観音堂を建てて霊を祀った所といわれます。」「大館又次郎源宗氏主従十一人墓」には「元弘三年癸酉五月九日」の文字が。「鎌倉時代の出土人骨の埋葬について昭和34年晩秋、極楽寺橋付近の造成現場で、鎌倉時代末期の武士ものと見られる多数の人骨が発見されました。発掘調査の後、鎌倉時代の人々を知るための貴重な研究資料として、その多くは東京大学人類学教室に運ばれました。一部は、地域の人によって左手の丸い石の下に埋葬されたことが、当時を知る人から伝えられ、その経過を記録として残すために本説明板を建てました。」正面の石碑には「新田義貞 稲村ヶ崎 古戦場入口」と。そして更に江ノ電の踏切を渡り直ぐに左折して進む。右手石段の上にあったのが「稲荷神社」。鎌倉市稲村ガ崎2丁目。「社殿」。「内陣」。前方左手に江ノ電「稲村ヶ崎駅」が見えた。再び「十一人塚」の角まで戻りここを左折。「音無川」に架かる「極楽寺橋」を渡る。「極楽寺橋」を渡った先に「一方庵」という座禅道場があるとのことであったが工事中のこの建物か?「稲村ヶ崎温泉」の敷地を通らせてもらい、「稲村ヶ崎」に向かう。国道134号の「稲村ヶ崎公園前」交差点を渡る。「鎌倉海浜公園稲村が崎地区・稲村ヶ崎公園」の中に入ると直ぐ左側にあった石碑群。「稲村崎」碑。今ヲ距ル五百八十四年ノ昔 元弘三年五月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祷レリト言フハ此ノ處ナリ 大正六年三月建之 鎌倉町青年會」【今から584年前の昔、元弘三年(1333)5月21 日に、新田義貞がこの岬を廻り、鎌倉に攻め込もうとしました。そこで、黄金の刀を海に投げて、潮が退くことを海神に祈ったと伝えられているのはこの場所です】 と。「史蹟 稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」碑。中央は明治天皇が詠んだ歌碑。 「明治天皇御製 新田義貞投げ入れし 剣の光あらわれて 千尋の海も くがとなりぬる 海軍大将 岡田啓介謹書」千尋:広い くが:陸地 の意。この石碑は表面が劣化し判読不能であった。「かながわの景勝50選 稲村が崎」碑。なぜこの石碑は「稲村ヶ崎」ではなく「稲村が崎」?「関東の富士見百景 富士山の見えるまちづくり地点名 鎌倉市からの富士」碑。この日は残念ながら富士の姿は・・・。「ボート遭難慰霊碑」1910(明治43)年1月23日に、ここ七里ヶ浜沖で、小学生1人を含む逗子開成中学の生徒が乗るボートが転覆し、12名全員の命が失われた海難事故の慰霊碑。海底で抱き合ったまま発見された兄弟(徳田4兄弟の長兄・勝治と末弟・武三)の姿をモチーフにブロンズ像が建てられたのだ。真白き富士の根(嶺) 歌碑「ボート遭難の碑真白き富士の嶺、緑の江の島仰ぎ見るも、今は涙歸らぬ十二の雄々しきみたまに捧げまつる、胸と心」ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に力も尽き果て、呼ぶ名は父母恨みは深し、七里ヶ浜辺」「ボート遭難の碑」建立への想いが刻まれていた。「みぞれまじりの氷雨が降りしきる この七里ヶ浜の沖合いで ボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら12人が遭難 転覆したのは 1910年(明治43年)1月23日のひるさがりのことでした前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は 当時世間をさわがせました……が、その遺体が発見されるにおよんで さらに世の人々を感動させたのは 彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした……友は友をかばい合い 兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです死にのぞんでも なお友を愛し はらからをいつくしむ その友愛と犠牲の精神は 生きとし生けるもの理想の姿ではないでしょうかこの像は「真白き富士の嶺」の歌詩とともに 永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞賛するために建したものです1964年5月17日 逗子開成交友会・鎌倉開成会」遭難者の氏名以下 省略させていただきます。真白き富士の嶺記念碑建設委員会鎌倉観光協会鎌倉市製作 菅沼五郎 別の角度から兄弟の姿を再び。「稲村ヶ崎」眼下の岩場。再び「かながわの景勝50選 稲村が崎」から江の島の姿を。海に切り立つ断崖を。ここが、1333(元弘3)年5月の新田義貞鎌倉攻めの突破口となった所。北条軍の強固な守りにより、新田軍は鎌倉へ攻めあぐんでいました。21日の深夜、稲村ガ崎の岩頭に立って、義貞は兜を脱ぎ海と竜神に祈り、自らの金造りの刀を抜き海に投げ入れ竜神に祈願しました。すると竜神はそれを聞き入れ、稲村ガ崎の潮がサーッと引き、一面平らな砂浜が広がりました。潮の引いたのを見て、6万騎を率いて岸壁沿いに鎌倉へ攻め入り、源頼朝以来141年続いた鎌倉幕府は滅亡したのであった。そして小高い山に向かって歩く。頂上に立つ石碑。「ローベルト・コッホ碑」1908年(明治41年)、弟子の北里柴三郎と鎌倉を訪れたドイツ人細菌学者ロベルト・コッホの記念碑。かつて、霊山山には「霊山園」と呼ばれた公園があって、眺望の良さで知られている場所だった。北里柴三郎は、「霊山園」にロベルト・コッホを案内し、のちに記念碑を建てた。しかし、大正12年に起きた関東大震災によって崖崩れが起こり、山容が変わってしまったといわれている。記念碑は、昭和58年、鎌倉市医師会によってに霊山山から稲村ヶ崎に移転された。「碑文の大意は明治42年( 41年の誤り) 7月、ドイツの大医コッホ先生が北里博士と一緒に鎌禽に遊び富士山を望みて大変喜ばれた。霊仙山頂でコッホ先生は日の出と日暮れの素時らしさを見て堪能された。帰国後数年も経たないうちに亡くなられたので、山の所有者である村田氏らと相談し、石碑を建てて事蹟を遺そうと考えた。山の下の稲村ガ崎は新田義貞中将が武運を祈って刀を沈めたといういわれのある地である。海と富士山のおりなす絶景のこの地を今は海外の偉人がここに留まって風景を賞した所として世に伝えるべきと考える。大正元年9月永坂周記弁書」「細菌学の泰斗ロベルト・コッホとその高弟北里柴三郎との師弟愛を語るこの碑は、もと霊仙山上にあったが、地盤の脆弱化により原状保持に懸念あるため、コッホの結核菌発見百年を機とし、各方面の協力援助を得て、碑を山の南端稲村ガ崎に移し、以て永くその保全を計るものである。 澤 壽郎 撰 小島寅雄 書 昭和五十八年十一月 鎌倉市医師会」「ローベルト・コッホ碑(解説)この碑は、世界的細菌学者ドイツのローベルト・コッホ博士の来日を記念して、弟子である北里柴三郎博士と鎌倉市関係者により大正元( 1 91 2 )年9月、建立されたものである。当初、霊仙山頂に建立されたが地盤の脆弱化により、昭和58 ( 1983 )年1 0月、鎌倉市医師会等によりこの地に移設された。コッホ博士は、病気と病原菌の関係を客観的に証明する方法を提案し、病原細菌学という新しい分野を開拓した人である。明治35 ( 1905 )年「結核に関する研究」でノーベル生理学・医学賞を受賞している。北里は破傷風菌の純培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見、それを応用した血清療法を確立し、現代免疫学の祖と言われている。」「碑文の大意」は上記に。「ローベルト・コッホ碑」から引き返しながら絶景を再び。「江の島」をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.06
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「行合川」を渡り直ぐに左折し江ノ電の踏切を渡り、坂道を上って行くと、右手の「田辺公園」のフェンスの隅の道路側にお題目の法塔が立っていた。「南無妙法蓮華経 行合川」と刻まれていた。「行合川」の歴史ある過去を偲ばせてくれる遺跡や案内板等はこれ以外にはなかったのであった。「田辺公園」入口。さらに、北に進んでいくとY字路があり下の如き案内板があった。「現在位置」の矢印ではなく左側の道を「行合川」に架かる「雨乞橋」に向かって進む。七里ヶ浜1丁目の住宅街を進む。150m程進むとT字路の角に「石柱」と小さな石の祠があった。「日蓮聖人雨乞霊跡道」の石碑。このT字路を左に曲がり「行合川」に架かる「雨乞橋」を渡る。更に坂道を上って行った。突き当りを左に進む。右手に見えて来たのが日蓮上人の雨乞い伝説で知られる霊光寺の「雨乞の池」干ばつに苦しんだ1271年、時の執権北条時宗は極楽寺の名僧・忍性に雨乞いを命じるものの効果が出なかった。次に日蓮がここ田辺ヶ池の淵に立ち「南無妙法蓮華経」と唱えると大雨に恵まれたという伝説の場所である。池の奥に社殿の如きものも見えたが、行き方が判らず諦めたのであった。道を引き返し左手に折れて進むと崖下にあった石碑。ここにも「日蓮聖人雨乞霊跡道」と刻まれた石碑。こちらは朱の文字で。その先にも石碑が。「日蓮上人祈雨旧跡」碑「古称金洗沢ハ此ノ池辺ナリ文永八年六月天大イニ旱ス幕府良観房忍性ニ命ジテ雨請ノ修法ヲナサシム顕ナシ時ニ日蓮此ノ池畔ニ雨ヲ祈ル忽チ甘雨地ヲ霑オストイウ世ニ伝ヘテ日蓮上人祈雨ノ霊跡トナスハ此ノ処ナリ 昭和三十一年三月 建 鎌倉友青会」【古い呼名での金洗沢(かねあらいざわ)は、この池の辺りです。1271年6月に、雨がまったく降らなかったため、幕府は僧の忍性(にんしょう)に命じて雨ごいを行わせましたが効果はありませんでした。その時、日蓮(にちれん)がこの池のほとりで雨ごいをすると、 たちまち雨がふり出し大地をうるおしたと世に伝えられています。その日蓮上人の雨ごいの場所がここであります。】更に崖の下の道を進んで行った。正面に「霊光寺」山門が姿を現した。「山門」に到着。「日蓮大聖人 祈雨現証 霊蹟 龍王山 霊光寺」「山門」の扁額は「龍王山」であったが、下に降ろされていた。「山門」前のお題目塔「南無妙法蓮華経 霊光寺」。「本堂」への石畳そしてその先の石段を上って行った。石段もクネクネと曲がり。石段横の斜面の石碑、石塔群。右手は「妙法大六天魔王」、左手には「風の神塔」と刻まれていた。天魔(てんま)とは第六天魔王波旬(はじゅん、より邪悪なもの)、すなわち仏道修行を妨げている魔のことである。天子魔(てんしま)・他化自在天(たけじざいてん)・第六天魔王(あるいは単に魔王)ともいう と。「風の神塔」は「風神様」であろうか?「南無妙法蓮華経 毛塚塔」(右)と石祠(左)。「毛塚塔」の前で手を合わせたのであった。「疫神塔」。スサノヲを祀っていると。スサノヲには疫病を払って貰う御利益があると信じられていたと。そして「疫神塔」の前でも合掌。「石仏」享保20年に江戸の講中が建てた題目塔。「日蓮大菩薩祈雨之舊跡也」と刻まれていた。側面には「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」。「日蓮聖人祈雨霊像」「雨乞の池」に向かって立っているのでは。雨乞いのお題目を唱えている日蓮聖人のお姿、そしてここが実際に祈祷された場所と。「日蓮聖人祈雨霊像」昭和40年(1965年)建立。ズームして。更に。迫力のある精悍なお顔。「手水場」と「石仏」。「遵亀海神塔」と刻む石塔が亀の甲羅に乗っていた。そして山の尾根の如き参道の前方奥に「本堂」が。手前の門柱は傾いて。左手の柱には「萬歳門」と刻まれていた。開基が大日本帝国海軍大将の上村彦之丞であることから「萬歳門」と?「本堂」。宗 派 日蓮宗本 尊 日蓮聖人創 建 明治末開 基 上村彦之丞(大日本帝国海軍大将)明治の末にこの地から1735年(享保20年)に造られ日蓮大菩薩雨乞いの地と書かれた石塔が出土したことから開かれた。これを聞いた大日本帝国海軍大将の上村彦之丞(1849-1916)が創建。上村彦之丞は日清、日露戦争で数々の軍功を挙げ、戦後は横須賀鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務めた人物。「観音像」。「山門」と同じ寺号標「日蓮大聖人 祈雨現証 霊跡 龍王山 霊光寺」。本堂の扁額「祈雨霊蹟」も下に降ろされて。上村海軍大将筆の扁額と。ここが本来あるべき場所なのだが。フェンスも傾いて。「妙詠◯尼 元禄四年」と刻まれた、浄行菩薩像であろうか。通称を「あらいぢぞう」という浄行菩薩の石像。浄行菩薩は、水で洗い清めるとご利益が有ると信じられ、自分の悪い部分をタワシで洗うと良いという。「田邊龍神塔」田辺が池の主で、日蓮の雨乞を擁護した龍神である由が刻まれていた。明治44年造。白椿の花。それにしても、歴史のある寺であったが、全く人気のない廃寺の如き寺であった・・・。そして「霊光寺」を後にして七里ガ浜東2丁目の住宅街を東に進む。大きなガラス窓のある建物は民家であろうか。そして丘の上に「鎌倉プリンスホテル」の客室が見えた。「海の見える坂道」を下って行った。左手にあったのが「バンケットホール七里ヶ浜」入口。「鎌倉プリンスホテル」連絡口でもあるようだ。右には「神奈川県立七里ガ浜高等学校」正門が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.05
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「小動神社」を後にし、国道134号を鎌倉方面に進む。再び「小動」交差点まで進むと右手にあったのが「鎌倉市腰越漁港施設案内図」。「小動岬」の周囲は石積みの防波堤で囲まれていた。道路の反対側には「津波避難情報」案内板。小動交差点脇・「津波避難情報」案内板の奥にあった「安曇野型双体道祖神」。平成元年八月吉日 龍護山 満福寺 (第二十九世住職岡沢嘉春建立)。その横にも2体の双体道祖神があった。原型を留めない程、激しい摩耗。海岸の傍なので、已む無しかと。鎌倉市腰越2-6-24、「小動」交差点の横断歩道を2回渡って遊歩道を進む。「遊歩道」の横を江ノ電が通っているのであった。藤沢駅から江ノ電に乗り鎌倉駅方面に向かうと、突然この場所から湘南海岸の海が目の前に迫って来る場所なのだ。三浦半島・逗子、葉山方面を見る。「小動岬」から江の島の「大堤防」そして「湘南港灯台」の姿が見えて来た。七里ヶ浜そしてその先に稲村ヶ崎が。左手に白き瀟洒な建物が姿を現した。「鎌倉海岸キリスト教会」。鎌倉市腰越1丁目4−17。線路脇に案内板が二つ。「鎌倉海岸キリスト教会の由来(旧腰越独立教会)恵風園胃腸病院の前身恵風園療養所の創立者中村春次郎博士の長女新居姜子さんはニ三才からアメリカで生活しておりましたが、ニ八才の時、聖書に出会いクリスチャンになりました。そして、生まれ故郷に教会を建てたいとの願いを持ち、三〇年間祈り続けました。それを知ったアメリカの五六の教会が教派を超えて献金してくださいました。六〇才になった一九四九年の八月、三七年ぶりに帰国し、恵風園から敷地の提供を受け会堂建設に着手しました。一九五〇年七月一六日、最初の礼拝が初代牧師戸川ニ郎師により持たれました。教会名は、どこの教派にも属さす、正統な聖書信仰をあらわす意味で腰越独立教会といたしましたが、ニ〇一三年七月、キリスト教会であることを明示するため、鎌倉海岸キリスト教会に変更いたしました。」「集会案内」「鎌倉海岸キリスト教会」の屋根の上の十字架が見えた。振り返ると「江の島シーキャンドル(展望灯台)」が姿を現して来た。3両編成の「江ノ電」が私の横を走って行った。「江ノ電」の踏切を渡り坂道を上り、「鎌倉海岸キリスト教会」を。入口は右側に北向きにあるのだろうか。「江の島」の全景が姿を現した。前方に「江ノ電鎌倉高校前」駅が見えて来た。「藤沢」行きの電車がホームに滑り込む。こちらは2両編成。「江ノ電鎌倉高校前」駅。「鉄道の日 第1回駅100選駅」との表示板。1997年(平成9年)選定の「関東の駅百選」らしい。「江ノ島大橋」そしてその後方に箱根の山々も姿を現す。右手には先程訪ねた「小動岬」の姿が。前方に「鎌倉高校駅前」交差点。交差点を左折し踏切を渡り、歩いて来た「小動岬」方面を見る。ここが腰越と七里ヶ浜の境界。ここは江ノ電の鎌倉高校前駅から鎌倉高校の正門へと続く坂で、「日坂」(にっさか)という切通。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めの際、新田軍がこの坂を通ったことから、「新田坂」と呼ばれていたが、いつしか「日坂」と呼ばれるようになったといわれるのだ。前方の七里ヶ浜は、稲村ヶ崎から小動岬までの約2.9㎞の海岸。日本の渚100選の景色。「日坂」。ちなみに、江ノ電「鎌倉高校前駅」は1953年からの駅名称で、それ以前は「日坂駅」というのが駅の名前だったという歴史があるのだ。このことからも、いかにこの坂道(日坂)が昔から地域のランドマーク的な存在だったかということが想像出来るのだ。鎌倉行きの江ノ電が踏切に向かって。この踏切は1990年代に人気を博した漫画で、アニメも制作された「スラムダンク」の印象的な場面で登場する場所のため、聖地巡礼の観光客が海外からも訪れる有名スポットにもなっているのだ。この地は「スラムダンク」以外にも数々の映画やドラマの舞台、モチーフとなった場所でもある。なお、この踏切はブラタモリでも登場。番組では、鎌倉の海と江ノ電の眺めが特徴的な国際的観光スポットとして紹介されたのであった。更に鎌倉方面に進むと藤沢行きの「10型」車両が来た。1997年(平成9年)に開通95周年を記念して造られた「レトロ⾞両」。外観はオリエント急⾏を彷彿とさせるデザイン・塗⾊となっているのだと。再び振り返って。この日は富士山は姿を現さなかった、もっと右にあるのだが。ここから江ノ電は国道134号と一時的に別れて行く。そしてこの先が複線区間となり電車の行き違い場所になっているのであった。山の上の民家、相模湾を一望できる絶景の場所。記憶では、表札は英語表示ではなかったろうか?よって外国から来られた方の住居か?この日は静かな湘南の海。もっと天気が良ければこんな光景がと・・我儘にも。 【http://blog.livedoor.jp/kagirohi2006/archives/50585000.html】よりそして反対方向の三浦半島を再び見る。左手にあったのが「顕証寺」。鎌倉市七里ガ浜1丁目5-21。「本門佛立宗 顕証寺」、「高祖日蓮大士ご降誕800年慶讃」と書かれた案内板。本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は、長松清風によって開かれた、日蓮を宗祖と仰ぐ、法華系仏教の一派である。宗派としての独立より日が浅く、新宗教に分類されることもある と。境内のストレリチア(極楽鳥花)が咲いていた。コンクリート製の白と朱赤が鮮やかな建物が「本堂」。顕証寺は七里ガ浜を前に、相模灘の正面には伊豆大島、東には三浦半島の眺望、西に江ノ島を見ることができる。そして、四季折々に素晴らしい景色を演出してくれる富士山を望む最高のロケーションに立地する新宗教である。「寺務所」であろうか。眺めの素晴らしい「墓苑」。「管理寺務所」「顕証寺の歌」碑。「朝日に映ゆる 富士の嶺 緑の江の島前に見て 我が法域は ここに建つ 恵みあり永遠の識神 妙法の五字 我等待たん」五字とは「妙法蓮華経」であろうか。更に国道134号から離れて1本山側の江ノ電に沿った道を鎌倉方面に進む。踏切もない先に民間の門が。この先にはこの様な線路を跨いで自宅に入る民家が多くあるのだ。そして緩やかなカーブの先、前方に見えてきたのが「七里ヶ浜駅」。「七里ヶ浜駅」入口前を通過。1903年(明治36年)、田邊駅として開業。その先に見えて来たのが「行合川」に架かる「行合橋」が。下を流れる「行合川(ゆきあいがわ)」日蓮が龍ノ口で処刑になりそうになったとき、急に雷雨が激しくなり、役人の太刀が折れるなど不思議な現象が起こったため、龍ノ口からは幕府に知らせるための使者を、幕府からは処刑中止(赦免)を知らせる使者を走らせた。七里ヶ浜駅の近くを流れるこの行合川は、両方の使者が行き合った場所ということから生まれた名と伝えられているのだ。時は1271年(文永8年)であった。前方に「行合川」に架かる国道134号の「行合橋」が見えた。「行合川」の鉄橋を走る江ノ電。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.04
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「浄泉寺」を後にして、国道134号の「小動」交差点まで行き横断歩道を渡りUターンして「小動神社(こゆるぎじんじゃ)」入口まで戻る。社号標「小動神社」海に突き出た爽やかな小動山に建つ小動神社。かつて風がなくても美しくゆらぐ松があったことから小動(こゆるぎ)と名がついたという風情ある場所。「小動神社」の石で出来た一の鳥居。左横にあったのが「鬼子母神(きしもじん)」。鎌倉市腰越2丁目6−10。扁額「子育て 子授けの神様 鬼子母神」鬼子母神は安産や育児の神様。しかし鬼子母神は仏教の神様。かつて日本もともとの信仰(神道)と外国から入ってきた仏教が融合し一つの信仰として合体した。いわゆる神仏習合(しんぶつしゅうごう)。その名残で神道の敷地に仏教の神様がいたり、その逆で仏教の敷地に神道のお社があったりするのだ。そういうわけで、大正時代まで近くの寺がこの小動神社を管理してした。小動神社の鳥居から道路を挟んだ反対側にある、先程訪ねた「浄泉寺」という寺と。左手に神輿舎。「お仮屋」の札が。「お仮屋」の前に「小動神社」の案内板があった。「小動神社主祭神 建速須佐之男命・建御名方神・日本武尊小動の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。縁起によれば、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた佐々木盛綱が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請したものと伝えられています。元弘3年(1333)5月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。7月第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭は、江の島の八坂神社との共同の大規模な祭で、町一帯を回る御輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わいます。」長い参道を進んで行った。「祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) (1月例大祭の祭神) 素盞鳴尊(すさのうのみこと) (7月天王祭の祭神) 【奥方:櫛稲田姫命(くしいなだひめみこと)、 御子神:八王子の命(五男三女神)】 建御名方神(たけみなかたのかみ) (8月諏訪祭の祭神) 歳徳神(としとくしん) (お正月の神様) 伝承 相模風土記に往時、弘仁年中( 810年~ 822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に 神女影向あり、この松を小動の松と云うとあり。新編鎌倉史に、土御門内大臣の歌 『こゆるぎの磯の松風音すれば、タ波千鳥たちさはぐなり』の歌は、此所の事とも云い、 或いは、大磯の浜を詠うとも云う。相模の名所「こゆるぎ」の歌、多しとある。 社名は、古くは八王子宮、八王子大権現などと称された。相模風土記には、八王子社を 鎮守とし、社地を小動(古由留義)と云うとあり。 明治初年、現在の『小動神社』と改称した。明治42年当所字、神戸の鎮守であった諏訪社を 合祀した。由緒 文治年中( 1185年)佐々木盛綱の創建と伝えられる。盛綱は、源頼朝に伊豆配流の時代から 仕えた武将で、源平合戦の時に、神恩報賽のため守護神である父祖伝来の領国、近江の 八王子宮を新たに勧請すべく、その地を探し求めていたが、ある日、江の島弁財天に参詣の 途次、小動山に登り、大いにその風光を賞せされ勧請の地と定められた。 新田義貞が、鎌倉攻めの戦勝を祈願をされ、後に『報賽』として『剣一振に黄金』を添えて 寄進され、社殿は再興された。 ハ王子宮縁起によれば、新田義貞を中興の祖と称している。江戸時代、小田原城主、 大久保忠真公( 113 , 000石)は【三神社】の扁額を揮毫し奉納された。 三神社とは、三柱の祭神を尊称したものである。社殿 文化14年4月(1817年)当所、井上氏の丹誠により、400有余の氏子により、再建されたと 棟札に記録がある。しかし、大正12年9月1日の関東大震災により被害を受け、昭和4年12月 本殿は修復されたが、拝殿は新築された。現在の、『神寶殿』・『山車小屋』は平成15年から 平成18年にかけて新築し、『本殿・幣殿』は平成19年4月大規模修復された。 境内社として、海(わたつみ)神社(海上安全の神様)・稲荷社・金刀比羅宮・第六天社を、 お祠りしています。祭礼 1月16日 例大祭(湯花神楽祭)【鎌倉神楽奉納】社殿内にて 4月第二土曜日 祈年祭 7月第二日曜日 天王祭 江の島八坂神社との共同の大規模な祭りで、午前11に海中渡御、午後2時 には江の島八坂神社の神輿が、龍ロ寺下より小動神社社頭まで神幸し、 腰越五ヶ町の祭囃子・山車がお迎えに出て、大いに賑わいます。 8月下旬 諏訪祭 12月第一土曜日 新嘗祭」右側に「直会殿」。左側に「手水舎」。石段の上に「二の鳥居」が見えて来た。右側に「授与所」。「拝殿」。ホッかぶりした狛犬(阿形)のマスクが外れていたので。正しい位置に直してあげました。狛犬(吽形)。屋根の見事な彫刻。こちらの紋は「丸に四つ目菱」という、佐々木家の家紋。1185年(文治年中)に佐々木盛綱が創建したと伝わっている。向拝の見事な彫刻。扁額「小動神社」。「内陣」の奥の扉は閉ざされていたが扁額には「三神社」とあったが、これが御祭神。建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと))、建御名方神(たけみなかたのかみ)、日本武命(やまとたけるのみこと)の三柱を尊称したもの。「本殿」を横から。「海神社(わだつみじんじゃ)」。「海神社祭神 綿津見神(わたつみのかみ) 別名 船玉神(ふなたまのかみ)とも云う漁業の神、航海の神例祭 一月十六日「社殿」。「龍王海神」。石碑群。右から、水神社、青龍不動、「國常立尊 八海山神社 三嶽山神社 三笠山神社」と刻まれた石碑。『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と表記されている。 別名を国底立尊(くにのそこたちのみこと)ともいう。 『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記される。右から「神武天皇 白川神社」、「日清役戦勝 献木紀年楠」、「登山三十三度 篠崎浅五郎」と刻まれた石碑。「日露戦勝紀念碑」。「稲荷社」。祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 併神 佐田彦神(さたひこかみ)=猿田彦神(さるたひこかみ) 大宮能売神(おおみやのめかみ)=天鈿女命(あめのうずめのみこと)商売繁盛・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の神例祭 二月二十七日両脇に石の社殿も。ズームして。「金刀比羅宮(ことひらぐう)」。祭神 大物主神(おおものぬしのかみ) 別名 大国主命(おおくにぬしのみこと)海神竜王ともいい航海安全、海難救助を司る神例祭 一月九日「社殿」。扁額「𨤾刀比羅宮」。「天皇陛下御在位六十年 社殿修復竣功記念碑」「二の鳥居」と「神寶殿」を見る。「神寶殿」。「神寶殿」の内部を覗く。「天王祭 相模神輿」「諏訪祭 江戸神輿」。「天王祭 相模神輿」。「天王祭 旧神輿」。そして「大六天社」。石鳥居の扁額は「六天王」。祭神 第六天神 別名 淤母陀流神(おもだるのかみ)諸願成就の神例祭 四月第一土曜日「庚申塔」と「猿田彦大神 堅牢大地神」碑。「大六天社」の「社殿」。そして「腰越八王子山遠見番所」「八王子山台場(設置当初は八王子山遠見番所)は異国船の相模湾渡来を監視・通報する為に天保9年(1838年)~同14年頃に、当地を治めていた烏山藩が設置したと推測されている。この番所は烏山藩の後に管理を引き継いだ川越藩によって大砲が据え付けられ、台場としての機能も持つにいたった。しかし台場となって以降も異国船をうち払うよりは、監視・通報する番所としての性格を強く持っていた。弘化3年(1846年)8月、八王子山台場の管理は川越藩から彦根藩へと引き継がれ、その後長州藩に管理を移管された。しかし鎖国が終わると、異国船を監視し、それらを打ち払う理由が乏しくなった。このため八王子山台場の重要性はさがり、自然に使われなくなっていったとみられている。」とウィキペディアより。「幕末相摸湾の防備を固めた腰越八王子山遠見番所天保十三年、当時の鎌倉郡腰越村は、慕府から相州警備を命じられた川越藩の管理のもと、愃常的な海防への協力を余儀なくされました。ここ小動神社展望台の左手には、かって番所が置かれ、主に異国船渡来の通報拠点としての役割を担ったとのことです。」大砲が据え付けられていた番所跡から「腰越漁港」そして「江の島」を見る。左手に「小動岬」。かつては「小動」という地名の由来となった「小動の松」が岬の山頂にあったと。番所跡から「小動神社」の「社殿」を見る。正面から。そして帰路の参道横にあった「腰越 小動會」の建物。内部に入っていた神輿。「令和三年 小動神社 祭事 予定表一月 九日(土) 正午十二時 金刀比羅宮 例祭一月十六日(土) 午前 十時 例大祭(湯花神楽祭) 海神社 例祭二月二十七日(土)午後三時 稲荷社 例祭四月 十日(土)午後ニ時 祈年祭 第六天車 例祭七月四日(日)~十一日(日) 天王祭(神輿神幸) 十一日 午後二時 江の島八坂神社神輿 腰越神幸八月下旬(日)~次週(土) 諏訪祭(神輿神幸)十二月四日(土) 午後二時 新嘗祭 予定通りに開催されることを、ただただ祈るのみです。そして「小動神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.03
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