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引地川方向に向かう。鵠沼神明2丁目3の民家の石塀の途中ににあった「地蔵堂」。 三叉路の角にあった立派な門のある民家。その先にあった「宮ノ前の道陸神・道祖神」。藤沢市鵠沼神明2丁目4−18。そして次の目的地の「空乗寺」に到着。真宗高田派の寺院。寺伝によれば、延宝5年(1677年)に入滅した僧了受が江戸初期に開山・創建したと伝えられる寺院である。正式名は金堀山 空乘寺。藤沢市鵠沼神明3丁目3−21。[空乗寺金堀山空乗寺(浄土真宗高田派)。本尊 阿弥陀如来。永禄八年(1565)に僧 了受により開山と云われます。勢州一身田(現三重県津市)の高田派本山専修寺末寺となったのは元文三年(1738 )のことで、それ以前の浄土真宗本願寺派でした。七世慶心の時、鵠沼の地頭大橋長左衛門重政が自分の采地鵠沼の五百石の内、九石(石上の辺り)を空乗寺に寄進し、慶安ニ年(1649)幕府に請うて将軍家光より朱印状賜りました。江戸期は檀家も少なく、寺領の朱印地九石といくらかの寄進地、境川の石上の渡船料、水車の権利等で寺を運営していたと云われます。明治になり、老朽した堂社は明治3年の暴風て倒壊し、明治42年ニ十ニ世慶心が厚木の中古本堂を移築したのが現在の本堂です。【大橋重政の墓碑】(市指定文化財)空乗寺の境内墓地には、江戸前期の領主だった大橋重政の墓碑があります。大橋家が領主となったのは大橋重政の父重保が、元和三年(1617)に将軍秀忠の右筆となり500石の知行地(鵠沼村と大庭村折戸)を賜ったのが始まりdeす。重保は能書家て知られ、秀忠家光ニ代にわたり右筆を務めます。右筆とは、幕府の事務官僚として文書・記録をつかさどる職です。寬永十一年(1634)に重保が病て職を辞すると、嫡子重政が家督を継ぎ、右筆の職にも就きます。重政もまた能書家て、はじめは父重保に書を学び、後に松花堂流の租となる瀧本坊昭乗に学びました。重政の書は、御家流の一派をなす"大橋流書道"と呼ばれました。寛文十ニ年(1672)に、重政が亡くなると嫡子重好が家督を継ぎますが、知行地は上地(暮府に返す)となり、大橋家はこの地の領主ではなくなります。境内にある大橋重政の墓碑は、息子重好と重尚の兄弟が、重政の三十三回遠忌となる宝永元年(1704)に建立したものです。墓碑の前の一対の常夜灯もその時に建立されたとみられます。墓碑と常夜灯には、重政の名「龍性院殿釋道樹居士」とともに、重政妻の名「上春院殿釋妙慶禅尼」も彫られている。また、空乗寺には文政四年(1842)の銘がある重政夫妻の位牌も納められている。位牌の背面には「大橋先生末門 筆官 濱田三之丞源恒久再造之」とあリ、没後100年を過ぎても大橋重政を書道の師と慕うものが再造立したことがわかります。 参考:『藤沢市文化財調査報告書第3集』「三.大橋重政の墓」より]「市指定史跡 大橋重政の墓」案内柱。 山門。慰霊碑同寺ゆかりの戦没者22柱を合祀した慰霊碑。平成12年10月建立。碑誌:「この慰霊碑は支那事変並びに大東亜戦争 に於て祖国の為に戦死をされた当時ゆかりの 英霊に対し心からご供養を申し上げると共に 永久にこの事を子孫に伝え二度と悲惨な 戦争を起さぬ事を祈念して造立した 次第です終戦後五十五年の歳月が流れ日本は世界 第二位の経済大国になりましたがその反面戦争の あった事も忘れられようとしています一枚の召集令状により妻や子を又親を残して 戦地に赴き祖国の繁栄を願って散華された 英霊の心を想う時万感胸にせまるものが ありますそのご供養を続けることが残された 私達の務であると思います 合掌平成十二年十月吉日空乗寺第二十六世 信明代慰霊碑寄進 林石材産業(株) 林一郎」基壇前面:「空乗寺ゆかりの22名の英霊の氏名 羽鳥 故宗野忠男殿 藤沢 故江成實殿 仝 故江成四郎殿 仝 越川常吉殿 東京都 故赤羽正己殿 鵠沼 故荒木与四郎殿 仝 故宮崎留吉殿 片瀬 故名和藤雄殿 大船 故船引竹三殿 鵠沼 故角田隆吉殿 仝 故角田春太郎殿 茅ヶ崎 故加藤重信殿 仝 故加藤元重殿 鵠沼 故大橋實殿 仝 故大橋正栄殿 仝 故大橋源蔵殿 横浜 故秦野實殿 藤沢 故田村四郎殿 鵠沼 故小島清殿 横浜 故當摩俊衛殿 鵠沼 故山口佐四郎殿 横浜 故山口春殿」空乗寺 本堂。扁額「金掘山」。 本堂前の石灯籠。寺紋「亀甲に三階松」。「市指定史跡 大橋重政の墓」に向かって進む。引地川沿いにある大きな墓地。大橋重政の墓。大橋重政年譜西暦 和暦 月 日 事項1617 元和 3 鵠沼村(300石)・大庭折戸村他の幕領分500石、旗本大橋長左衛門 重保知行地となる1618 元和 4 大橋重政、大橋重保の長男として生まれる。 幼名小三郎 通称長左衛門1627 寛永 4 重政、はじめて将軍家光に目見え。10歳1631 寛永 8 重政、家光の右筆となる。14歳1633 寛永10 重保、病により右筆を辞す。剃髪して龍慶と号す1634 寛永11 重政、家を継ぐ。鵠沼等の采地500石1639 寛永16 9 18 重政の書道の師松花堂昭乗、没。56歳1640 寛永17 大橋重好、重政の長男として誕生1641 寛永18 12 大橋龍慶(重保)豊島郡放生会寺の縁起2巻を撰し子重政これを書く1642 寛永19 重政、牛込の神木の榎が大風で倒れ、同木で龍慶寿像製作を発願→ 彫刻:藤原真信1642 寛永19 5 龍慶像完成→誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置1649 慶安 2 8 28 大橋重政、采地(石上付近)のうち9石余を空乗寺に寄進し、 将軍家光より御朱印を賜る1657 明暦 3 7 大橋重政の長男重好、はじめて将軍家綱に拝顔。18歳、幼名を重吉。 新五左衛門と称す1665 寛文 5 9 23 重政、寺社領御朱印の労により賞を受く1667 寛文 7 5 16 重政、日光山における家光の法会にあずかって褒賜に浴す1667 寛文 7 7 重好、幕府の大番となる1669 寛文 9 12 重好、廩米200俵を給されたが、間もなく小普請になる1672 寛文12 6 30 大橋重政、病により没す。寿55、龍性院殿道樹居士と謚して 空乗寺に葬る1672 寛文12 重好、家督を嗣いだが、幕府の不評をかったらしい1672 寛文12 大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領 (代官成瀬五左衛門重治)となる1704 宝永元 6 30 大橋重政33回忌。重好、空乗寺の霊前に父母の墓碑を建て、 常夜灯一対をささげる1755 宝暦 5 大橋流を継承した篠田行休が「大橋流初学当用集」を日本橋 宗文堂から上梓1871 明治 4 6 大橋重政200回忌、空乗寺にて供養。多くの門人が集う1965 昭和40 5 31 空乗寺大橋重政夫妻の墓を藤沢市の文化財として「史跡」に指定1966 昭和41 12 『藤沢市文化財調査報告第3集』藤沢市教育委員会編、空乗寺に 関する事項を掲載1971 昭和46 11 大橋重政300回忌、空乗寺にて供養 鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭墓石に近づいて。「市指定史跡大橋重政の墓👈️リンク大橋重政は重保の子で、元和四年(一六一八)に生まれ、通称を長左衛門という。寛永八年(一六三一)父重保とともに幕府に見出されて右筆となった。重政の書法は父重保の書法を受け愛瀧本坊昭乗(御家流書道家)に学んで一家を成し大橋流と称せられた。又、青蓮院法親王について御家流書道の奥旨を極めたとも伝えられる。この重政が空乘寺に葬られていることは、右筆として五〇〇石を受けると鵠沼に采地を有し、大檀越として同寺の外護に尽したからである。昭和四十年五月三十一日指定藤沢市教育委員会」 「龍性院殿釈道樹居士 上春院殿釈妙慶神尼」 左面に「承應ニ癸巳年二月一一十九日一色式部少輔源範勝娘」と。 背面に「龍性院殿第三十三回遠忌為追福修善造於石塔回向事菩提」、寳永元甲申稔六月晦日旋主 孝子 大橋新五左衛門源重好 仝 小兵衛尉源重尚」 大橋重政の墓から引き帰して本堂方向に進む。無縁供養塔であったか?再び本堂を。そして次に訪ねたのが、宮前公民館前にあった「首塚」碑。 [宮の前首塚宮の前公民館の脇に、新しい石碑と庚申塔を納めたお堂があります。この場所には、首塚、金掘塚、庚申塚と称された小塚がありました。塚のいわれが不明だったため、明治12年の鵠沼村の戸長関根伝左右衛門の発起により発掘調査されました。塚の下からは頭骨や脚骨発見され、それを甕に入れ弔い、供養のために石碑を建てました。その経緯が示された石碑の篆額“首塚”の文字は、時の縣令野村靖による揮毫てした。明治期に建てられ古くなったため、平成23年3月に現在の石碑に建て替えられました。塚のいわれは現在も判明していません。この辺りが戦いの場になったのは、康正元年(1455 )の鎌倉公方成氏が今川範忠に鎌倉を追われた戦い、永正年間(1504~21)山之内上杉と扇ガ谷上杉の戦い、永正九年(1512)伊勢宗瑞(北条早雲)の相模国東部への進出などが考えられます。]「首塚 野村靖許はふるくよリある塚にしあれど、何の塚てふことを知れる人なく、ただ里人の金掘塚或は首塚あるいは庚申塚などとりどりに呼び、きたかならぬを、今や文明の御代にあひ、千世の古道あきらけくなりゆくときにありて、かかることゆゑよしのしられぬこそ本意なれど、里長関根主はじめ里人のなげけるなんなめるこどなりける。さるほど人々あいかたらい塚をあばきみるに、とくろふたもとも、脚骨四つ出でければ、そをひどつかめに納め、懇に葬りのわざいとなみて、かくなん碑をたてたりける。なれどいつの頃、身うせたりし武部たちのかばねなるか知るよしのなきは、いとも口惜しかりけり。案ふに、このわたりは康生、永正の頃、ことに国の内みだれて、たゝかいのちまたなりしかば、其の頃のものとも思はるれど、證しにすべきものなれば、其姓さへ名さへ知るよしのなきにつけても、其の世のさまのおしはかられて、このわたりに住みけん人の、如何に世を憂しくなげきつらんとおもふにも、我も人もなみ風たつぬ御代にうまれて、おのがみのやすくたのしき月日をおくるは、仰くもたかき御恵ならずやといへば、人々も、実にさるこどなり、いそいでそのよしをこゑるまゝに、かいしるしぬ。神忝川県の里の古きあとの記しかきつくることをうけたまはりてつかうまつる。 星野輝茂剣太刀人刀とがみのにみ(身)をつくしけるむかしをもへば袖ぞぬれぬる。くちはてしうもれかばねもあきらけき みよのひかりにおうはれにけり、明治十ニ年歳次巳卯ニ月改坐相模国高座郡土甘郷鵠沼平成ニ十三年三月ニ十一日首塚碑寄進者 藤沢市本鵠沼三丁目一蕃十四号 林石材産業株式会社 代表取締役 林 一郎」 【現代語訳(首塚 野村靖)この塚は昔からありましたが、何の塚であるのか知っている人はおらず、里の人々は「金掘塚(かねほりづか)」「首塚」「庚申塚」など、それぞれ勝手に呼び、はっきりしないままにされていました。しかし今は文明開化の時代となり、世の中の古い道理さえ明らかになっていこうという時代に、このように由来の分からないままでは本意ではありません。里長の関根氏をはじめ、村の人々が嘆き、心を痛めていました。そこで人々が相談して塚を掘り返してみると、頭蓋骨が二つと、脚の骨が四つ出てきました。それらを一つの大きな甕(かめ)に納め、丁寧に葬ったうえで、このように碑(石碑)を建てたのです。けれども、いつの頃に亡くなった武士たちの遺骸なのか、確かめるすべはなく、それが何とも残念なことでした。考えるに、このあたりは康生・永正の頃(室町末期)、とくに国の内が乱れ、合戦がたびたびあった土地でしたから、その頃のものだとも思われます。証拠となるものはなく、名も姓も知ることはできませんが、その時代の有様は推し量ることができます。このあたりに住んだ人々が、どれほど世を嘆き、つらい思いをしたことでしょう。それを思うにつけても、今の世の中は波ひとつ立たない御代であり、私たちが安全で楽しく暮らしているのは、まことに尊い御恵みではないかと申すと、人々も「まったくその通りだ」と深く感じ入りました。そこで急ぎ、このことを後世に残すための記録を書き記すよう、この神奈川県の里の古跡について記す役目を拝命したのであります。 星野輝茂(署名)添えられた和歌(現代語訳)●剣・太刀・刀で身を尽くして戦った昔を思えば、袖が涙で濡れるばかりです。●朽ち果て、土に埋もれた遺骸も、今は明るい御代の光に照らされ、名誉を回復したのです。】次の目的地の「鵠沼共同墓地」に向かって進む。 右手には、この後に訪ねた万福寺の墓地。「記念碑虐けの跡は毒よりはけしけり 馬にくわする民草もなくこの歌は、田中正造翁が、公害の恐ろしさを警告したものである。昭和34年4月、日本電気硝子が、藤沢市に誘致されて引地川畔に進出し、操業するや、騒音・悪臭・粉塵等の公害を排出し、人体・家屋・農作物に甚大な被害を与えた。又、煙に含まれる亜硫酸ガスのため、樹木の枯死するもの多く、緑の絶滅寸前の状態であった。藤沢市長は公害の防止を怠り、放置したが、県の勧告により煙突の傘上げ、捨塵装置が設けられ、高い塀も造られて、公害は少しく緩和された。昭和46年3月、工場の内外に鉛中毒患者が多く発生し、住民に一大恐怖を与えた。住民は、公害対策委員会を強化し、公害追放運動を展開し、会社側と交渉すること十年に及んだ。一方、新藤沢市長葉山峻は、深くこの問題を愁い、吏員を督励し早期解決を図らしめ、斡旋に努めた。かくて、炉の移転、規模の縮小、酸化鉛の不使用となり、又、鉛中毒患者の治療も進んだ。遂に昭和57年3月、被害を受けた社寺・町内会に補償金を支払い、公害問題の局を結んだ。これより、再び大気は浄化され、青空が仰がれ、樹木は生い茂り、花は咲き、鳥はさえずる平和な郷土に蘇った。 昭和63年5月 鵠沼山主 識」 その先にはいずれも江戸時代の庚申塔が左側2基と大乗妙典六十六部供養塔が。「大乗妙典六十六部」とはなんぞやと調べてみると、壱岐国、対馬国を除く全国六十六の国の寺社に納経する修行だそうで、その修行を遂げた人の供養塔のようであった中央の石碑。相州鵠沼村願主造立石塔一基庚申塔。[鵠沼共同墓地 準四63番霊場万福寺の西側にある共同墓地は、昭和18年、日本精工の軍需工場拡大に伴い、その用地にあった墓地を軍の命で現在地に移しました。各家の墓地は点在していたものを、日本精工の斡旋によりまとめて、現在の共同墓地にになりました。そのため、旧家の墓が多く、宗派も異なる家が集まっています。この共同基地の中ほど、高松本家の墓所内のお堂に準四国八十八箇所第6 3番の弘法大師像があります。この大師像は、もとは仲東集落の毘沙門堂にて祀られていました。毘沙門堂は、教寶院という本山修験寺院(本尊 毘沙門天)であったが、明治に廃寺となりその場所は定かではありません。その位置を示す手がかりは、江戸期の新四国八十八箇所案内に“東観音堂”→“東毘沙門堂”→”原 地蔵堂”の順路が示されている程度です。御詠歌:つとにおき夜半につとめて生れ得し 道を守ればまもるこのかみ高松家の屋号は「毘沙門堂」てす。明治12年に書かれた『皇国地誌』によると、毘沙門堂が廃堂になる時の僧が高松家の人であり、廃堂後は「本尊も同人に帰す」とあります。おそらく、高松家の墓所が日本精工拡張地にあり、その墓所とともにこの場所に移されたものでしよう。参考:鵠沼を巡る千一話 「第0033話 旧家 高松家」]御詠歌の意味は【朝早く起き、夜ふけにもおつとめをして、生まれたこの世で授かった大切な信仰の道をきちんと守って歩んでいけば、ここにまつられている神仏が、必ずあなたをお守りくださる。】と。高松家累代之墓碑の先にあったのが相模準四国八十八箇所63番霊場があった。弘法大師像。四国八十八ヶ所つとにおき 夜半につとめて 生れ得し 道を守れば まもるこのかみその隣には、歴史を感じさせる墓石・石碑が並ぶ。移動して。別の場所にも小さな堂宇が見えた。内陣の石造。ここにも「記念碑」が。 「記念碑当墓地は大東亜戦争の為、日本精工藤沢工場敷地拡張と工場建設に伴ない下記名前の方々と日本精工株式会社の御協力により、昭和十八年二月二十七日付神奈川県知事より当地区に新設の許可が有りました。鵠沼の台地に眠る我々の先祖が今後共永遠に安眠できる様御祈りすると共に子孫の繁栄を祈り続けて下さい。昭和六十一年十一月二十一日建立之鵠沼墓地管理委員会(以下、寄進者名)省略」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.02
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普門寺を後にして、東海道線とは反対方向に歩くと直ぐ左側にあったのが現在の「藤森稲荷」。藤沢市鵠沼の住宅地の中に静かに佇む小さな稲荷社で、地元の「屋敷稲荷」「邸内社(ていないしゃ)」として祀られてきたものと考えられます。住宅地の開発以前から祀られていた古いお社が、現在も地域の人々に守られている形。 [藤森稲荷この神社は鵠沼最古と云われる稲荷社です。由来は、「元弘参年(1333)新田義貞が鎌倉の北条高時を討つ途中、この森に馬を止め近くの湧水を飲んだことからその武名を慕って本社を建立した」と云われています。かつては東海道線路の南側にこんもりとした木々に抱まれて鎖座していました。平成23年頃に、現在の地に移転しています。明治12年に書かれた皇国地誌には「東西十ニ間壱分(22m)南北五間(9m)面積六十壱坪 本村ノ農 関根伝左衛門所有ノ地ナリ」と記されています。関根伝左衛門は、名主を務めた鵠沼村の旧家です。また「今モ小渠社地ラ囲繞シテ湧泉僅ニ流ル 其旧泉ナルヤ否確ナラス」とあり、旧社地には社殿の周りにわずかだが湧水があったことを示しています。]かつての藤森稲荷の様子を転載👈️リンク■石造りの鳥居(明神鳥居)。正面には、風化の進んだ石の鳥居が見えた。2本の柱の上に乗った横柱の両端が上に向かって反っているのが特徴の「明神鳥居」形式。→ このタイプは江戸後期〜明治期の屋敷稲荷に多い形式。正面から。移動して。現在は旧家の広い敷地内にあり、フェンスに鍵がかかり中には入れなかった。その先、道路の右側にあったのが藤沢市立鵠沼小学校。その先を左折すると、左にあったのが、普門寺もちの墓地。相模国準四国八十八箇所を創設した浅場太郎右衛門墓。[浅場太郎右衛門墓普門寺の北側、少し離れたところに普門寺持ちの墓地があります。堀川大師堂の旧浅場家墓所にあった墓碑は、平成29年にこの地に改葬され、現在は新し墓石が建てられ浅場太郎右衛門とその父の功績を称えています。【堀川の浅場太郎右衛門】相模国準四国八十八箇所を創設した浅場太郎右衛門は、鵠沼村堀川の豪農てす。太郎右衛門の名は代々の当主が継承し、下総国相馬郡て四国八十八箇所を見て、この地にも創設を願った人物(父)と、相模国準四国八十八箇所を創設した人物(息子)ともに、太郎右衛門を名乗っていました。高野山慈眼院登山帳には、寛政十一年(1799)、十ニ年(1800)、享和三年(1803 )と浅場太郎右衛門が頻繁に参詣していた記録が残されています。いずれも、鵠沼村の人々と連れ立っての参詣と見られ、信仰の熱心さが伺えます。なお、鵠沼村には堀川の浅場太郎右衛門家の他に、堀川の浅場太郎左衛門(引地川の堤防建設・復旧で知られる)、原の浅場太郎右衛門(浅場家の総本家と云われる)など、複数の浅場家が存在しました。 参考:鵠沼を巡る千一話「第0089話 旧家4淺場家」]浅場太郎右衛門墓に近づいて。浅場太郎右衛門之記鵠沼堀川の浅場一(浅場家十一代)の本家にあたる浅場太郎右衛門は、文化二年(一八〇五)、相模にも準四国八十八ヶ所霊場を創設したいと発願しました。父の死後文化三年(一八〇六)、息子の太郎右衛門がその思いをつぎ、普門寺の住職善応密師に相談しました。真言宗の宗派を越えて、現在の藤沢市・鎌倉市・横浜市泉区、茅ヶ崎市、寒川町の寺社や村々に働きかけました。文化十四年(一八一七)、善応の弟子である鵠沼大東の観音堂の庵主浄心に、四国八十八ヶ所霊場の砂と宝印を集めさせ、寺院と村々に大師像と御堂を建てました。その後、百七十年にわたり、相模準四国八十八ヶ所霊場は多くの弘法大師篤信者により、巡礼され、親しまれてきました。ここに浅場一家十二台当主、浅場崇子、浅場太郎右衛門父子の、この霊場造立の篤信に敬意を表し浅場太郎右衛門家の墓標をここに普請す仏霊の霊地申す浅場家墓標をここ普門寺仏堂墓地に遷座す。こい願わくは、この篤信の浄行により、国土安穏、現世安穏、無病無難、諸災消除、子孫永久、富貴繁昌、諸願成就、浅場家、弘法大師の擁護にあづからんことを。密巖山遍照院院普門寺 第五十六世 川島弘之 師弟 川島弘耀 浅場家十二代 浅場崇子平成二十九年秋彼岸」そしてこの地域の、同じく旧家の宮崎家の墓もあった。その奥には、歴代住職の墓碑も確認できた。浅場太郎右衛門墓を後にして、再び普門寺横の道を引き返す。先程訪ねた、普門寺の横を北に進む。東海道線の線路踏切を渡る。藤沢駅方面を。辻堂駅方面を。「鵠沼道踏切52K412M藤沢市鵠沼3212」と。 そして線路を渡り、次に訪ねたのが法照寺住所 藤沢市鵠沼神明2丁目2-24[法照寺 準四48番震場善光山天龍院法照寺(ぜんこうざんてんりゅういんほうしょうじ)浄土宗本尊 阿弥陀如来。浄土宗総本山知恩院の直末として直為上人を開山に享保年間(1716 ~1736 )頃に創建されました。一説には寬文元年(1661)龍保上人の創建ともいわれています。法照寺の辺りの地名"宿庭"は宿場て働く人々ド住まいにしていた地域という説があります。法照寺の由緒には、「ある日、この宿庭に宿を求めた旅の僧に地域の人たちはぜひこの地に寺院を建立して欲しいとの請願をしました。旅をする人々の安全と、自らが住むこの地を明るく安らかなところにしたいと。この請願を受け知恩院から本尊阿弥陀如来をお迎えして法照寺が創建された」と伝えられています。本尊とは別に、秘仏十一面観音は安産にご利益があると云われており、毎年8月9日には四万六千日にて十一面観音の御開帳があります。 (参考:浄土家寺院紹介Navi 法照寺)境内には、堂宇が2棟ありいずれも弘法大師像が納められています。本堂に近いお堂が準四国八十八箇所の弘法大師像で、文政三年(1820)辰年六月吉日の日付と、講中と見られる名前が彫られています。鵠沼村以外の人と見られる名が複数あることも、藤沢宿と縁の濃い宿庭ならではでしよう。お堂の前の標柱は天保五年(1834)の銘があり、弘法大師像に世話人として名のある関根重三郎の寄進物と見られます。御詠歌:錦して みのりの庭を 照らすらん にしのはやしの 月のかつらはもう一つのお堂(本堂から遠い方)の弘法大師像の詳細は不明てす。傍らには置かれた杉板には、ご詠歌とともに、昭和51年の日付と宿庭町内の方々の名前書かれています.建築総費用とあることから、ニつの堂宇建築時のものとみられます。御詠歌の意味は【錦のように色あざやかに彩られて、仏の教えの実りに満ちた庭を照らしているのだろう。西方浄土の林にかかる月と、その月にそびえる桂の木は――。】つまり【信仰と修行(おつとめ)によって得られる仏の国は、錦のように華やかで、月の光が仏の実りの庭を穏やかに照らすような、豊かで澄んだ世界である】と。境内の参道の左に緑と赤の屋根を持つ堂宇が2棟。本堂に近い青い屋根の堂宇前から振り返って。準四国八十八箇所霊場 48番。弘法大師像。文政三年(1820)辰年六月吉日の日付の銘があると。もう一つの赤い屋根の堂宇。こちらにも弘法大師像が詳細は不明と。歴代住職の墓石?が並ぶ。近づいて。移動して。多くの石仏が並ぶ。入口の神社。朱の社。江の島弁財天道標。「ニ切衆生」の文字が。 <<江の島弁財天道標>>境内人り口には、江の島弁財天道標があります。この道標は、元禄ニ年(1689 )に杉山検校が、江島神社に詣する人々が道に迷うことのないように、江の島道に48基建てたもののひとつです。正面に弁才天の種子と「ゑ乃し満道」、右面に「一切衆生」左面に「ニ世安楽」と彫られている。誰かのいたずらか、現在はニ切衆生となっています。この道標は中学通り(現湘南高校通リ)の工事中に掘り出されたものが運ばれたそうてす。江戸時代どこにあったかは、現在も不明てす。「市指定文化財(建造物) 昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標総高一〇三センチメートル 各面幅二十三センチメートル 花崗岩製鳥居の脇にある石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。この道標は、近所の方のお話によると、昭和ニ十二~二十三年(一九四七~四八)頃、現在地に移設されたもので、少なくとも昭和初期にはここから北東約六十メートル付近(今の鵠沼神明一ー五、鳥居に向かって右方向に見えるT字路の日本精工内)にあったとのことです。江の島への参道は、市内西富の遊行寺前から片瀬・江の島に通じる江の島道が本道てすが、他にもルートの違う脇道があったと考えられています。建立当初の位置は明確ではありませんが、この道標もその脇道筋にあったようです。江の島道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を、江の島で考案したという杉山検校(一六一〇 ?ー九四)が寄進したと伝えられています。元は四十八基あったといわれていますが、現在市内を中心に残欠を含め同型同類の道標十四基の存在が知られています。いすれも頂部のとがった角柱型で、地上の高さ一〇〇ー一三〇センチメートル程度、幅ニ十ニーニ十五センチメートル程度、正面に弁財天を表す梵字「ソ」の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「ニ世安楽」と彫られています。江の島井財天への道をたどるすべての人が現世・来世での安穏・極楽を得られるように、との願いが込められています。ところで、この道標の右側面には、「二切衆生」とあります。「二切」という言葉はなく文意も通じません。書出の高さや書体の相違から当初の「一」を「二」としたものと思われますが、彫痕は深く古いものです。いつ誰が何のためにしたのかは不明とせざるを得ません。平成ニ十一年(二〇〇九)三月 藤沢市教育委員会」 本堂の前には小僧の像があった。そして境内にあった「宿庭町内会館」をお借りして、個人で準備した昼食をとる。会館内にあった 木製の作り物。宿庭町の人形山車・「源義経」の内部であろうか。「烏森神社」の愛称で親しまれる鵠沼地区の氏神様、皇大神宮(鵠沼神明2の11の5)で毎年8月17日に例大祭が催行されるのだ。この日に、藤沢市重要無形民俗文化財指定の人形山車の参進と湯華神楽(湯立神楽)が奉納されるのである。宿庭町の人形山車は「源義経」2023年に訪ねた時の祭りの写真。「鵠沼皇大神宮人形山車連合保存会宿庭町人形山車台車部軸受け修理東京浅草宮本卯之助商店平成三十年六月吉日」と。 平成23年の皇大神宮 例大祭👈️リンク の写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.12.01
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