JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.04.23
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カテゴリ: 国内旅行
東光寺の次は世界遺産登録を果たした萩反射炉を訪ねる。
駐車場に車を駐め反射炉への階段を登る。
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萩反射炉は、鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で、萩藩の軍事力強化の一環として
導入が試みられた。萩藩は安政2年(1855)、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に
藩士を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れますが、拒絶され、反射炉のスケッチのみを
許された。
現在残っている遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)。
オランダの原書によると、反射炉の高さは16mで、約7割程度の規模のものに。
また、萩藩の記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に試験炉が操業されたと

考えられているのだと。
反射炉の遺構は、萩のほか韮山(静岡県)と旧集成館(鹿児島県)にあるだけで、
わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡であると。【国指定史跡】。
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炉は玄武岩とレンガを使用し、基底は長方形で上部が漸次狭くなり、
2本の煙突にわかれていて、高さは11.5m。
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残っているのは煙突部のみで反射炉の部分は残っていなかった。
そして2月に訪ねた伊豆・韮山反射炉は、目的通り反射炉として稼働して大砲をいくつも
鋳造した数少ない反射炉であり実際に18ポンドカノン砲が4門、24ポンドカノン砲が1門、
80ポンドカノン砲が4門が作られたとのことであったが、この萩反射炉は実用炉としての
稼働の存在は認められず、現存する反射炉は試験炉であったという見方が有力視されて
いるのだとボランティアのオジサンが説明してくれたのであった。
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煙突に貯まる雨水を排水するホース?が2本。
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反射炉の構造と特徴
炉と煙突に大きく分けられる。燃焼室で焚いた燃料の炎と熱を浅いドーム形の天井に反射させて、
溶解室に置いた原料鉄に熱を集中させて溶解させる。高い煙突を利用して大量の空気を送り込み、
炉内の温度を千数百度にして、鉄に含まれる炭素の量を減らし、鉄製 砲に必要な軟らかくて
粘りのある鉄に変えるのだと。

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鉄製の洋式大砲を必要としたからである。 1854年佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させた。
その後薩摩藩や水戸藩など次々反射炉を完成させたが現存しているのは2か所のみ。
我が国の産業技術史上、貴重な遺跡であると。

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反射炉から離れて再びシャッターを。
桜の咲きシーズンは美しい光景になること間違いなし。
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そして次に車で5分ほどの場所にある恵美ヶ鼻造船所跡 (えびすがはなぞうせんじょあと)を
訪ねる。
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こちらも世界遺産。
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嘉永6年(1853)、幕府は各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、
のちに萩藩に対しても大船の建造を要請した。
安政3年(1856)、萩藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の
君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣。
尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝蔵らとともに萩に帰り、近海を視察、
萩市小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定した。
同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、スクーナー船)が、
また万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長43m)が進水したと。
現在も当時の規模の大きな防波堤が残っていた。【国指定史跡】。
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現存する石造防波堤は、当時の史料にみえる「今浦波戸」と考えられると。
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防波堤下には造船所跡の発掘現場が残されていた。
発掘調査後に保存のために埋め戻されている模様。
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萩市教育委員会では、平成21年度から平成24年度にかけて、恵美須ヶ鼻造船所跡の発掘調査や
文献調査等を実施したと。
その結果、丙辰丸建造に際して設けられた造船場「スクー子ル打建木屋」想定地点で落ち込み遺構、
「大工居屋」「綱製作木屋」と考えられる遺構、「カジ場」想定位置で炉跡遺構等を検出した。
また、平成24年度には庚申丸建造時の造船場に関わると想われる石積遺構を検出したと。
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造船所跡の説明パネル。
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船の絵は安政3年12月に進水、安政4年春に完成した「丙辰丸(へいしんまる)」。
丙辰丸の規模は総長81尺、肩20.15尺、深さ10.3尺、2本マストの「スクーナー君沢形」。
造船に必要な原料鉄は大板山鑪場(史跡大板山たたら製鉄遺跡)から供給された。
完成した丙辰丸は主に大坂や長崎を往復して物資輸送に当たったと。
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恵美須ヶ鼻造船所跡前に拡がる湾の景色。
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体が青みがかった灰色であり、ピンクの嘴と目の上から後頭部にかけて黒い
筋が見えるのでアオサギ(青鷺)であろう。
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そして、再び車を萩城下町の方面に走らせ「野山獄跡」へ。


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野山獄には、安政元年(1854)海外密航に失敗した吉田松陰が投じられたと。
松陰は、ここで仲間の囚人たちに孟子の講義をするとともに自らも俳諧や書を学んだと。
また獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたといわれており、前例のない教育活動を
行ったのだと。
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野山獄には維新前夜の文久・元治年間(1861~64)、藩内の論争に際して高杉晋作や楫取素彦ら
多くの志士も入牢し、また十一烈士など尊皇攘夷派だけでなく、保守派の坪井九右衛門や
椋梨藤太など、多くの人が処刑されたところでもある。
現在、当時の敷地の一部を保存して記念碑などが建てられており、萩藩の波乱に富んだ
維新当時の姿を偲ぶことができ、維新史を語るうえでも重要な史跡となっていた。
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そしてその手前には「岩倉獄跡」が。
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正保2年(1645)9月17日、酒に酔った大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛が、道ひとつ隔てた
西隣りの同じく大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという
事件が起こった。
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藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処したが、喧嘩両成敗ということで
両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に
非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢をここ岩倉獄としたと。
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そして萩の最後に未だ廻っていない街並みを急ぎ歩く。
北古萩町にあるこの「保福寺」は明治初年に廃寺になっており、山門と地蔵堂(本堂)、
墓地のみが残っている。萩八十八ヶ所めぐり霊場の第66番札所にもなっている寺。
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地蔵堂(本堂)
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山門前両側にはお地蔵さまが建っており、地蔵堂(本堂)には本尊の地蔵菩薩(向って左側)と
身がわり地蔵尊(向って右)を安置している。身がわり地蔵尊は頬が欠けており、言い伝えもあると。
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境内には水子地蔵を安置している堂があり、今でも水子供養の寺として、
萩の人々に信仰されているそうだ。
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白壁の続く路がここにも。これぞ城下町の風景。
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亨徳寺(こうとくじ)。
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道路に面して立つ木造の三門は、荘厳で堂々たる造り。
亨徳元年(1452)に創建され、元亀年間(1570~72)現在地に移された。
道路に面して立つ木造の荘厳な三門は、元禄8年(1695)に建立されたもので、
形式は三間三戸の楼で、上階周囲に高欄付の縁をめぐらしていた。
屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、桁行6.3m、梁間3.3m、軒高5.26m、棟高8.7m。
建立年代が明らかな禅宗楼門として貴重な遺構。(三門は、市指定有形化財)
享徳寺は、高杉家の菩提寺で、高杉晋作も墓参りに訪れていたと。
明治になり建てられた「高杉家祖歴代墓」と刻む墓碑があったが、平成4年に下関市に
移されたとのこと。
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「しあわせぐるま」
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「私のために、家族のために、親しき人のために、好きな人、嫌いな人、
 生きとし生けるものすべてが、幸せでありますように。
 下から、上に回して祈り願いましょう。」
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だるま堂。
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240cm達磨大師、元禄時代作。
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位牌堂前の水子地蔵か?
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境内から三門を再び。
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熊谷美術館(くまやびじゅつかん)。
熊谷家は問屋と金融、仲買、製塩を業とし、萩藩御用達として栄えた豪商で、熊谷五右衛門が
明和5年(1768)に新築したものといわれる「熊谷家住宅」は、主屋・離れ・本蔵・宝蔵の
4棟が国の重要文化財に指定されている。
熊谷美術館は、昭和40(1965)年4月に、文化資料を保存及び公開することを目的として開館。
萩藩の御用商人・熊谷家の蔵を改造した展示室に、熊谷家代々の当主が収集した美術品が
展示されている。収蔵品は、雪舟をはじめとする書画屏風類や、茶道具、香炉や硯箱などの
美術工芸品、代々伝わる文書類など、約3000点におよぶと。
中でも目を引くのが、4代五右衛門義比(ごえもんよしかず)が長崎において親交のあった
ドイツ人医師シーボルトに贈られたというピアノ。
イギリス製のもので、日本に残る最古のピアノとしても有名。
【 国指定重要文化財(主屋、離れ座敷、本蔵、宝蔵)】。
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北の総門。
​​脇戸付きの切妻造り本瓦葺き、柱間約6m、高さ7mの日本最大級の高麗門。
平成16年11月に、「萩開府400年」を記念して復元された。
本柱や「冠木(かぶき)」と呼ばれる横材などは、欅(けやき)の巨木を使って復元している。
北の総門は、藩政時代に城下から三の丸(堀内地区)に入るために設けられた総門の一つであり、
他に中の総門、平安古の総門があった。かつては門番が常駐して人の出入りを監視しており、
門は暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)までは閉じられ、鑑札を持った者以外の通行を禁止。
その後、総門脇の土塁や船着場などが整備され、外堀に架かるものとしては全国唯一となる
土塀付き土橋も整備。土塀には白漆喰(しろしっくい)仕上げが施され、平成23年度に
萩城跡外堀保存整備が完了したのだと。
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そして萩を後にし、県道262号線、国道9号線を利用して津和野に向けて
車を走らせたのであった。

                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2018.04.23 00:12:07
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