JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.19
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

鎌倉山の「檑亭」を後にして、次に訪ねたのが「日本山妙法寺」。
鎌倉市鎌倉山1丁目19−5。
民家のような建物であった。
2015年10月05日に設立した法華経系宗教法人「日本山妙法寺 鎌倉道場」であるようだ。



扁額「日本山妙法寺」。



題目塔「南無妙法蓮華経」。



「立正安国」の文字が。



境内の「五輪塔」。




鎌倉市鎌倉山2丁目27−11。



「鎌倉山神社
祭神 大山津見命(おおやまつみのみこと)
   御父 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
   御母 伊邪那美尊(いざなみのみこと)
当神社はもともと本村笛田の農民の鎮守でまた津村の漁民の海上守護の神・(「山の神」)で
あったのを昭和の御代に当地が鎌倉山住宅地として発展すると共に住宅地の鎮守として
奉斎された。
昭和十年に鎌倉山在住の有志達の浄財により改装され「鎌倉山神社」と改称された。
爾来今日に至るまで鎌倉山住人有志たちが社殿を御守りし毎年八月八日例祭を執り行っている。」



社号標「鎌倉山神社」。







「社殿」には、釈迦や、亀に乗った摩利支天の木像が安置されているとのこと。
石宮の屋根には「隅切り角に三の字」の紋が。
我が市内にある時宗総本山「遊行寺」の宗紋と同じ、その理由は??



相模湾が見えた。



湘南モノレールの先に相模湾が。




湘南モノレールの軌道が案外急勾配なことが分かるこの場所。



鎌倉山で一番高い場所から江ノ島の姿も。



そして更に東に進んでいくと、歴史を感じる黒門があった。
ここは別荘・「扇湖山荘(せんこさんそう)」の入口であったが閉まっていた。
この別荘を構えたのは戦前の実業家だった長尾欽彌氏で、胃腸薬「わかもと製薬」で財を
成した人物。東京世田谷の深沢に本邸があり、1934年(昭和九年)当地に土地を求めて
別荘としたものです。敷地は緩やかな傾斜地に一万四千坪もの広さを誇り、飛騨高山から
移築した民家や宮家の茶室などが点在し、名立たる庭師の手による庭園が広がるまさに
絵に描いたような大豪邸。戦後は人手に渡って「鎌倉園」の名称で料亭となり、三和銀行の
研修所を経て市に寄贈され現在に至っていると。

梅雨の合間の鎌倉探訪;三貴園跡・扇湖山荘・夫婦池公園周遊(前編) - 中高年の山旅三昧(その2)

「傾斜地に建てられてあるので変則的な三階建てになっており、土台として鉄筋コンクリート
造りの洋風建築を築き、その上に木造二階建ての民家を乗せてある」と。
ネットからの写真を転載させていただきます。



母屋(本館)の奥の部屋の囲炉裏をこちらもネットから。


   【https://hosaka.kanagawanet.jp/blog/2017/11/25/2033/】より

次に「聖福寺跡」を訪ねた。
「聖福寺公園」の中を歩く。



この公園の八重桜は今が満開。



シバザクラも濃いピンクの花を。



近寄って。



ネモフィラも。
和名を瑠璃唐草(るりからくさ)という花。



そして「聖福寺公園」を出た場所にあった石碑。
場所は、江ノ電・稲村ヶ崎駅手前の道をひたすら山に向かって上って行ったところ。
ここまで鎌倉観光で足を伸ばす人は稀有であろうと。
鎌倉市稲村ガ崎5丁目39−6。



北条時頼が子供のために建てた寺・「聖福寺阯」碑。
「あと」という読み方を持つ漢字には「址」「阯」「後」「迹」「痕」「趾」「 跡」「踪」
「墟」「蹟」「蹤」などがあり、石碑によって違うのだ。

「聖福寺ハ建長六年(紀元一九一四年、一ニ五四年)四月 関東ノ長久並ニ北条時頼ノ息、
時輔(幼名聖寿丸)時宗(幼名福寿丸)ノ息災延命ノ為建立セシモノニシテ、其ノ寺号ハ両息ノ
名字ニ因ミシモノト伝ヘラルモ、廃寺ノ年代詳ナラズ、此谷ヲ聖福寺谷ト呼ブ
鎌倉町青年團建」

【聖福寺は1254年4月に、北条時頼(ときより)により建てられた寺です。
その目的は、鎌倉幕府が長く続くことと、時頼の2人の息子、時輔(ときすけ、幼児の名前:
寿丸[しょうじゅまる])と時宗(ときむね、 幼児の名前: 寿丸[ふくじゅまる])が病気をせず
長生きできることとを願うためでした。寺の名前は、2人の息子の名前を採ったものと
伝えられていますが、この寺が廃止された時期よく分かっていません。 この谷を聖福寺谷(
しょうふくじがやつ)と呼んでいます。】と。

・建長6年:1254年。宝治-建長-康元。天皇は後深草天皇(89代)、将軍は宗尊親王(6代)、
 執権は北条時頼(5代)
・北条時頼:1227-1263。鎌倉幕府5代執権。建長寺を建立。出家後は最明寺殿。



次に近くにあった「熊野権現社」を訪ねた。
正面に石鳥居、その奥に石宮の社殿が。



社号標「熊野權現社」。



石宮の「社殿」。



「不動明王」の石像も。



そしてこの日の最後に「龍口明神社(りゅうこうみょうじんしゃ)」まで車で向かう。
駐車場に車を駐め石鳥居に。
鎌倉市腰越1548−4。



社号標「龍口明神社」。



「掲示板」。



石灯籠。



「記念碑 龍口明神社由来

 玉依姫は海神族の祖先豊玉彦命の姫君に在して彦炎出見尊の妃に在します上に
鵜鷀草葺不合尊の母神に在しまし、豊玉姫の妹御に在し給ひ、龍神として尊崇された。

 五頭龍大明神の御由緒は欽明天皇十三年四月十二日戌の刻より二十三日辰の刻に至る迄
大地振動して終日息ず。即ち孤島を湧出した此を江の島と云い天女降む。是辨戝天の作る
ところなり。天女惡龍の惡業を戒めた。龍は遥かに天女の麗質を見、其の後改心し村人に
害を与えることなく山と化した。村人はその山の海に突出た所の龍の口の様な岩上
(龍の口)に社を築き白髭明神と称し村の安泰を祈願した。此龍口明神社の発祥と
伝えられている。

養老七年三月より九月迄江の島岩窟中にて泰澄、慈覚両大師が神業修行中夢枕に現れた
神々を彫作し辨戝天一体を岩本院に、二体を白髭明神社へ納めた。即ち玉依姫命
(長さ五寸)と五頭龍(長さ一尺)の御木像が御神体である。此の時、龍口明神社と名付け、
江の島と当社の繁りと両地の平和と隆昌を祈願した。鎌倉時代には神䕶により如何なる
惡業をした者も此処に血を流すことにより世人に尽すと此の前の地を刑場とした事もある。

又氏子はその祟りを恐れ当社の移転改築を長年拒んできた。然し大正十二年関東大震災で
全壊した社を昭和八年改築し今日に至ったが、境内地が藤沢市片瀬地域内の飛地津一番地
に有ることゝ時代の推移と共に同地区の発展及び人口増加に伴い御祭神のご神慮に依り、
此度氏子百余名は江の島遠望清浄の地、竜の胴に当る蟹田ヶ谷一五四八番地の四の当地に
遷座申し上げ、此の地の守護神として奉祀するものである。」



「龍口明神社」の白い幟の先には。



「御神木」はタブの木であろう。



正面に「二の鳥居」。



「手水場」。



龍の手水口。



「社務所」。



「拝殿」前方に。
もともとは龍口(たつのくち)の龍口寺西隣に建っていたが、安政2年(1773年)に龍口が
片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われた。
鎌倉時代には刑場として使用された時期もあり、氏子達は祟りを恐れ、長年移転を
拒んでいたという。
大正12年(1923年)、関東大震災により全壊、昭和8年(1933年)に龍口の在のままで
改築したが、 昭和53年(1978年)に、氏子百余名の要望により、江の島を遠望し、龍の胴に
あたる現在の地へと移転した。
なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、
拝殿・鳥居なども、移転前の姿で「元宮」として残されているのである。



狛犬(阿形像)(右)。



狛犬(吽形像)(左)。



「五頭龍大神」は武相鎌倉と江の島に伝わる「五頭龍と弁財天」の伝説に登場する
一身五頭の龍神。



「拝殿」
御祭神は玉依姫命。五頭龍大神
創建522年と伝わる鎌倉一の古社といわれ江島神社とは夫婦神社と云われている。
723年江の島岩窟中で泰澄大師が修行中夢枕に現れた神々を彫刻。
弁財天は江島明神へ玉依姫命と五頭龍大神の御木像を白鬚明神へ納めたといわれ
その時に龍口明神社と名付けられたと。
60年毎に還暦巳年祭が行われ近年では昭和4年・平成元年に斎行。
平成13年には御鎮座1450年祭が斎行。この時と還暦巳年祭に限り五頭龍大神の御神体が
御開帳され江島弁財天と共に江島神社中津宮に安置されると。
龍口明神社は昭和53年、龍の胴に当たる現在の地に遷座され日本三大弁財天として名高い
江島神社と夫婦神社として崇敬されているのだと。



扁額「龍口明神社」。



「内陣」。



「拝殿」の屋根。



「五頭龍大明神」像が今年・令和三年(2021)十月鎮座予定であると。



「社務所」。



「絵馬」。



御朱印を頂きました。



境内を振り返る。



そしてこの日の最後に訪ねたのが境内社の「経六稲荷社」。
鎌倉市腰越1543−6。



石鳥居を潜り社殿に進む。



朱の「社殿」。



扁額「経六稲荷」。



境内の「庚申塔」。



「この庚申塔はもと手広と津村の境の庚申塚にありましたが、永く後世に伝えるため
龍口神明社のご厚意を得て当地に移しました。」



「板状駒型庚申塔
上辺に日月を浮き彫りし、中央に合掌六手の青面金剛像、その下に三猿がつきます。
像の向かって右に「庚申供養 久遠成就、左に「正徳三年(1713)葵巳」とあります。
下の壇には9名の名前がある。



「駒形庚申塔」
上辺に日月を彫り、中央に「庚申供養塔」と彫り、下に三猿がつく。
向かって右側面に文政十一年(1827)、左側面に九月吉日とある。



同じく「駒形庚申塔」。
上辺に日月を彫り、中央に「庚申(以下破損のため不明)」と彫り、下に三猿がつく。
向かって右側面に弘化五年(1848)戌申正月吉日とあった。



「舟型庚申塔」
上辺に日月を浮き彫りし、中央に合掌六手の青面金剛像が邪鬼の上に立っている。
像の足元向かって右に「奉」、左側に「納」と。
向かって右側面には安永三年(1774)、左手には十一月とある。



「石祠」。
(明治18年(1885年)銘)。



「山王大権現」碑。



「社殿」前にあった「石祠」には稲荷様が。



そしてこの日の2回目の「古都「鎌倉」を巡る」を終え、帰宅したのであった。

                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:25:12
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