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「戌亥櫓[いぬいやぐら]」が復旧に向けて解体されることになり、11月にも関連工事が始まる。
被災を象徴し、全国から注目されてきた「一本石垣」は近く見納めになりそうだ。
現在の戌亥櫓は2003年、西出丸に完成した復元建造物。16年の熊本地震で石垣がえぐられる
ように崩落。飯田丸五階櫓(既に解体)と同様に角石[すみいし]が柱のように残っている。
11月にも、解体の際に櫓と石垣を安定させる鉄骨などの設置に着工。来年4月ごろから約1年
かけて解体した後、石垣を復旧して櫓を建て直す とのこと。
耐えぬいている石垣をズームして。
正面から見ると、石垣だけでなく櫓も傾いている事が理解できたのであった。
「戌亥櫓(いぬいやぐら)
戌亥櫓は西出丸の北西角に位置する三階櫓で、北西を意味する「戌亥」の名が付けられました。
「西出丸」は本丸の北西側に張り出した一帯のことです。
櫓は明治時代に解体されましたが、平成15年(2003)に木造復元しました。
平成28年(2016)の地震では、櫓下の石垣が大きく崩落して角石のみで櫓を支え、さらに東側に
延びる石垣もほとんどが崩落しました。」
「西南戦争 籠城将校家族避難跡」碑。
「西南戦争籠城戦
明治10年(1877)2月から9月まで続いた西南戦争は、九州各地で戦闘が繰り広げられ、
近代日本において最大かつ最後の内戦となりました。熊本城では籠城戦が繰り広げられました。
籠城したのは鎮台兵や将校家族ら約3000人、それに対し1万を超える薩軍が城を取り囲みました。
鎮台は城内の飯田丸・竹の丸などに築造した砲台から城を取囲む薩軍を砲撃し、薩軍は近くの
花岡山や市街地の砲台から城を砲撃しました。飯田丸などに多くの砲弾が落下したという記録が
残っています。
薩軍による城の包囲は長期化し、最終的には薩軍が坪井川を堰き止め、水攻めが行われました。
それでも鎮台は持ちこたえ、味方の軍勢が入城して籠城が解かれるまでの50余日の間、薩軍から
熊本城を守りぬきました。」
再び「戌亥櫓」を見る。
「大天守」、「小天守」、「宇土櫓」を見る。
「大小天守の再建
西南戦争直前に焼失した大小天守の再建事業が動き出したのは第二次大戦後で、熊本市政
70周年と加藤清正入国360年祭の記念事業として天守再建が決定しました。
江戸時代の絵図や明治初期の古写真を根拠として、外観が忠実に再現されています。
多くの市民のカ添えにより昭和34年(1959)に着工し、昭和35年(1960)に完成しました。」
昭和35年 再建工事中の大小天守。
「大天守」、「小天守」、「宇土櫓」前の石垣上の塀は全て倒壊したまま。
更に進んで。
「大小天守と宇土櫓
正面右側に見える大天守は、慶長5年(1600)の頃に加藤清正によって築かれました。
正面中央は小天守で、大天守築造後に別棟として建てられ通路でつながっています。
大小天守は明治10年(1877)の西南戦争直前に焼失し、昭和35年(1960)に鉄筋ンクリート造で
再建されました。正面左側は宇土櫓で、大天守・小天守に続いて「三の天守」とも呼ばれます。
宇土櫓は江戸時代から残る重要文化財建造物です。」
「宇土櫓」も傾いているのであった。
全て倒壊した石垣上の塀をズームで。
撮影ポイントなのであろう。
「大天守」を。
「小天守」を。
「宇土櫓」を、残念!!
熊本城二の丸から。
「熊本城二の丸由来記
慶長12年(1607) 加藤清正熊本城を築きこのあたり二の丸に重臣屋敷を置く。
寛永 9年 (1633) 細川忠利肥後領主となり熊本城に入る。
宝暦 4年 (1754) 細川重賢二の丸に藩校時習館を開設
明治 4年 (1871) 廃藩置県後城内に鎮西鎮台が置かれる
明治 8年 (1875) 歩兵第十三聯隊が置かれる
明治 9年 (1876) 神風連の変おこる
明治10年 (1877) 西南の役に鎮台将士が籠城する
大正14年(1925) 歩兵第13聯隊移転
昭和 2年 (1927) 熊本陸軍教導学校が置かれる
昭和 6年 (1931) 天皇行幸がある
昭和18年 (1943) 編成改編により熊本陸軍予備士官学校と改称される
昭和20年 (1945) 同校閉校
同校跡に官立熊本医科大学(後の国立熊本大学医学部)が置かれる
昭和27年 (1952) 国の史跡に指定される
昭和30年 (1955) 国の特別史跡となる
昭和37年 (1962) 国立熊本大学医学部・体質医学研究所移転
熊本県立第ニ高等学校が創立される
昭和43年 (1968) 同校移転
昭和47年 (1972) 熊本城二の丸公園として整備される」
そして日没前の夕日を駐車場で追いかける。
「二の丸広場の変遷」案内図。
「江戸時代の二の丸
熊本城本丸の西側に広がる二の丸広場一帯は、北に百間石垣、西に空堀、南に高い石垣や空堀、
東に空堀を扶んで西出丸(本丸)に面しています。江戸時代には上級家臣の屋敷が建ち並んで
いました。また、宝暦5年(1755 )には二の丸の一画に藩校「時習館」が開校しました。」
「藩校 時習館
宝暦5年(1755)に開校した時習館は、家臣の子弟のほか、庶民も優秀な者は入学が許可され
優秀な人材を多く輩出しました。時習館は南北約123m、東西約84mの敷地で、北側には教育を
行なう建物がありました。また、敷地の南西には武芸所が置かれました。」
「明治以降の二の丸
ニの丸は明治6年(1873)には陸軍兵営となり歩兵第13連隊が駐屯しましたが、
大正14年(1925)の連隊の移転後には学校が置かれました。その後、学校等の移転に伴って
陸軍以来の建物が解体され、昭和44年(1969)からは都市公園として整備が進み、現在は
市民の憩いの広場として親しまれています。」
「二の丸広場」を見る。
再び夕日を追う。
月の姿も。
この日の夕日も見納め。
そして熊本市中央区新市街2にあるビジネスホテルに到着する。
チェックイン後夕食に出かける
近くの「サンロード新市街」のイルミネーション。
そして「酒湊」で夕食兼本日の反省会を焼酎片手に。
注文した魚類。
しかし醤油が甘すぎるのであった。やはりMy醤油を携帯すべきであった。
・・・ もどる
・・・
・・・ つづく
・・・
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