JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.11.26
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カテゴリ: JINさんの農園
魚がし(二十三区)山車小屋 」の壁に取り付けられていた案内板。



小田原かまぼこ通り活性化協議会活動報告
世界一長いかまぼこ ギネス認定
2015年10月4日(日)、神奈川県小田原市で特産品の「小田原かまぼこ」を使った世界一長い
かまぼこ作り挑戦イベントが行われた。
この挑戦は神奈川県が推進する病気を未然に防ぐ取り組み「健康長寿日本一」で企画された
もので、かまぼこの持つ健康面に特徴に注目しての挑戦となった。
この「長い板かまぼこ(Longest ita kamaboko)」という記録は今回初めて挑戦が認められた

しかし、多くの方に参加していただき、インパクトのある挑戦にするため目指した記録は100m。
記録のルールとして、かまぼこの材料となる魚のすり身を仕入れるのではなく、挑戦のために
すり身を用意しなければならず約220キロのすり身を事前に作成した。
挑戦には他県からの応募も含め1500名以上からの参加申込があった。
その中から選ばれた 410名の参加者 は、用意されたすり身を使って丁寧に成形作業を行い
長さ100mの板かまぼこを作り上げた
その後、ギネス認定員が出来を審査。端の一部でかまぼこが分離したり、横幅が既定の5cm以下
だったりしたが、 87・95m分がギネス記録に認定 され、会場は歓喜に包まれた と。



未来の子ども達への贈り物
小田原かまぼこ通りの中心である千度小路地区では、後北条時代には「船方村」と呼ばれる
漁師まちが形成されました。江戸時代には東海道宿場町小田原の発展により魚食が普及し、魚の
需要の拡大に伴い、漁業関係者が多く居住するようになっていました。小田原の、漁業の発展と
ともに、小田原を代表する産物として名を馳せたのが「小田原蒲鉾」です。この地区は、数多くの
蒲鉾店の本店が集積する、全国に誇る小田原蒲鉾の聖地と言えると考えています。私たちは、次の
世代を担う子ども達に、これらの伝統を引き継いで行くために活動を続けていきます。」



この地域「魚河岸」とは
小田原には50台以上の山車(屋台)があると言われています。その多くは1階部分に出格子が
取り付けられ、2階部分は数多くの丸提灯(ほおずき)で覆われています。そして格子状の屋根の
前後に唐破風がしつらえてあり、その上には鬼板、下には懸漁が付けられているのが一般的です。
さらに様々な彫り物や真鍮の隅金具で飾られているのも多く見受けられます。山車の運行は
現代の交通事情と電線との戦いで、行く先々で電線係が竹竿で電線を持ち上げながら進みます。

進みます。
例年5月3日から5日の3日間に亘って行われる松原神社例大祭の時に、魚がし(23区)の
神輿に鰤(ブリ)が飾られ渡御が行われていました。
20~30年ほど前は景気が良く、毎年のように近隣の魚屋などから鰤の寄付がありました。
そのため、鰤を神輿に飾ることが恒例となり、時には山車に取り付けられたこともありました。
しかし景気の悪化や神輿の腐食などの理由から、鰤の飾りは姿を消しました。鰤の飾りは、
古くから行われていたと考えられていますが、祭に関する資料は関東大震災の時に焼失して
しまい、口伝で残されているのみで、正確にいつから行われていたかは定かではありません。
また、以前は、千度小路龍宮神社の神興なども鰤を飾っていたといわれています。鰤神輿の
復活を望む声は、毎年町内で挙がっていましたが、実現には至りませんでした。しかし、近年
会合内で「伝統をや魚がしらしさを出し、人目を引くには、やはり鰤神輿をやろう」と决断し
担ぎ手の中から相模湾で獲れた天然物の鰤が寄附され、ついに鰤神興が復活し、見物客の
注目の的となりました。神輿に取り付けられた鰤は、宮入り後には御幸の浜から海へと
帰されました。その後、5月の連休明けの7日に、米神で鰤が1.000本水揚げされ、大漁旗が
翻りました。鰤を海に帰したこととの因果関係は分かりませんが、本来、松原神社の例大祭は、
大漁祈願などを行う漁師の祭りです。「ご利益だったらいいね。」と、栗山茂男自治会長は
笑って話しています。
木遣(きやり)唄とは?
く木道り師> ソーリャァーセー木遣りしやニ分でも
く漁夫>    (網をつかんで)ソラドットコセェー
く木遣り師> 掛け声頼むそ
く漁夫>   ヨーイヤァ、ヨイトコセ、ヨイトコセ
( 3節に分けて網を引く)
漁木遣りは過酷な重労働にリズムと活気を加えるのに優れた効果を果しました。
掛け声の持つ「震力」と担ぎ手の「気」が一体化し、大きなエネルギーとなり神輿を動かします。
私達、松原神社氏子町内の神興の特徴である「静」と「動」を演出するのがこの神第木遣です。
木遣り唄の語尾や節回しは地域によって、またそれそれの木遣り師によっ多少の違いがあり、
一例をご紹介するに留めざるを得ません。



シャッターには 「魚河岸」紋



50m 直進 東海道小田原宿 龍宮堂 千度小路 」案内。



魚がし(二十三区)山車小屋



「​ 魚河岸山車 ​」 👈️リンク をネットから。



魚がし(二十三区)山車小屋 」の東側にあったのが「 籠清 本店
海沿いの漁師町、旧町名「千度小路(船頭小路とも言われました)」に構える本店。
関東大震災時に一帯が被害を受けたため、本店も大正13年に再築した。
軒先に掲げられた看板は欅の厚板で、「加古淸」と書かれた文字は、三井物産の創設者、
益田孝(鈍翁)の筆によるものと。
城下町小田原の老舗の佇まいをいまに伝える本店なのであった。
小田原市本町 3-5-13。



店内を暫し散策して写真撮影。
魚の干物や揚げ蒲鉾が並ぶ。



蒲鉾、梅干し。



様々な商品 ​👈️リンク が並ぶ。
籠清は、文化11年(1814年)の創業と。



引き返して、海岸方向に向かうと 前方左に 龍宮堂 」、 前方右手に 旧小田原魚市場 案内板 が。



浜辺の手づくりジェラード 龍宮堂 」。
「小田原なりわい交流館閉館中につき、街角スタンプラリー景品受け渡しとマンホールカードの
配布をしています」と。



づくりジェラード 龍宮堂 」をネットから。



その反対側にあったのが「 旧小田原魚市場 」案内板。



海なりわいと旧小田原魚市場
江戸時代、宿場町小田原の発展により魚の需要も拡大します。このことが漁業の発達を促し、
宿場にほど近い千度小路周辺には漁業関係者が多く居住しました。漁業の拠点となった千度小路
周辺について「新編相模国風土記稿」(天保12年(1841) )には、次のように記されています。
「千度小路 古くは船方村と曜へり、(中略)当町漁者多く、なかんづく十艘と唱る漁家十軒あり、
(中略)漁船五十ニ艘を貯う。(中略)魚座屋敷市場横町にあり魚市を開く、座役八十戸、名主代官
町清三郎(云々)」
当時の「市場横町の魚市」は宮前町にあり、その後も場所を移しながら存読。昭和42年に早川港へ
移転されるまで、現在地(市営プール付近)にありました。
魚市場での漁置も豊富であったことから、水産加工業も盛んに行われ、アジ、イワシ、カマスの
干物づくりやかまぼこづくりなどは全国的に知られ、今につづいています。」



在りし日の「 旧小田原魚市場 」。
明治時代、二見初右衛門、山田小兵衛、山田又市という3つの魚市場があった。
以後、両山田が合併して小田原魚市場となり、大正時代に合併して小田原魚市場が誕生した。
小田原魚市場はその後、早川漁港に移転した。 かつて、築港と呼ばれていた。 大漁に恵まれると、
網元から漁師に鮮やかな赤や青色などの万祝着が贈られた。
毎年8月1日、これを着、大山、成田山、道了尊などにお参りをし、船の安全と大漁を祈願した 
と ネットから 。

昔、魚市場があった「かまぼこ通り」 [小田原宿の面影を残す] - 伊能図で行く箱根八里 | 神奈川県 小田原市 古地図 歴史 地歴 ツナガルマップ

昭和20年代のブリ漁
黒潮の恵みを受け、多くの魚が生息する小田原近海は豊かな漁場です。ここでは江戸時代から
定置網漁が盛んでした。
戦後、特に活況を呈したのがブリ漁です。最盛期の昭和25年から30年頃には、水揚げされたプリが
市場にあふれ、足の踏み場もないほどでした。当時はまた漁港がなかったので、漁師たちは浜で
ブリを籠に入れ市場まで運びました。プリで巨万の富を得た漁師の家は「プリ御殿」と呼ばれ
ました。
しかし、昭和30年代後半になると水揚げ量が激減。漁師たちの中にはサラリーマンになる人、
釣り船の乗り合いや仕立てによって収入を得る人もいました。」



ブリ日本一だった頃の小田原のブリ定置網の大漁-昭和10~20年代頃。



旧小田原魚市場 」跡地の駐車場脇の小路を奥に進む。



右手にあった小社。
この「旧小田原漁市場」跡に鎮座する神社の名は?



近づいて。



引き返すと左にあったのが「龍宮神社」案内柱。



奥に進むと「 千度小路 龍宮神社 」が現れた。



手水舎の水盤にも 波に三つ鱗 」紋。



社殿を正面 から。
海の守り神である龍神様を祀っていた。
漁師たちは、大漁や安全を願ってこの神社に参拝していたと。



社殿の扉にも神紋の「 波に三つ鱗

三つ鱗は 戦国時代の小田原の領主 北条家の家紋でもある。北条氏に認められていた証であろう。



龍宮神社 」碑。



そして前方に「 海へと続くトンネル 」が現れた。



左手にあったのが「 二十三区公民館 」。



海へと続くトンネル 」に向かって数む。



海へと続くトンネル 」を通り抜け、振り返って。
台風や津波の時には、扉が閉まるのであろう。
津波の場合は遠隔操作が出来るのであろうか??



御幸の浜 」の伊豆方向を見る。
御幸とは「天皇や上皇、法皇の外出・旅行」を指す言葉。御幸の浜は、1873(明治6)年に
明治天皇と皇后が二人そろって訪れて、漁夫の地引網を見た浜であることが由来になった と。


房総半島まで眺めることがで来たのであった。



御幸の浜 」から相模湾の白き波頭を追って。





漁師の船をズームで。



「真鶴半島」その先に熱海の奥に浮かぶ「初島」を見る。



「初島」をズームして。



再び「真鶴半島」沖の「三ツ石」をズームして。



再び「 荒久の灯台 」を。



「御幸の浜」から 「西湘バイパス」の道路標識 を見上げて。



二宮、大磯海岸方向を見る。



「御幸の浜」から「 海へと続くトンネル の扉 を振り返る。



                                 ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2024.11.26 16:00:26
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