全406件 (406件中 1-50件目)
36.歌川芳艶 東海道 吉原 文久3年(1863)「吉原の左富士の名所を、行列が通り過ぎています。将軍と思われる人物は、馬に乗り、従者が後方から赤い傘を差し掲げています。行列の従者それぞれの表情が異なるように描かれている点もみどころです。」37.歌川国綱 東海道 嶌田 文久3年(1863)「島田宿と企谷宿の間を流れる大井川を、島田宿側から見た風景です。しかありませんでした。大井川は川幅が広い上に川筋が一定していないため、橋や川も渡せず、人足による徒歩渡し(かちわたし)で渡るしかありませんでした。川の増水で川留めとなることも多く、そのため東海道ーの難所として知られていました。」38.月岡芳年 東海道 舞阪 文久3年(1863)「浜名湖と遠州灘がつながる今切の渡しを、行列を乗せた屋形つきの豪華な船が渡っています。この船は御座船と呼ばれる貴人を乗せる船のことです。」39.二代歌川広重 東海道 吉田 文久3年(1863)「吉田城は、現在の豊橋にあたります。画面手前に豊川に架かる豊橋(吉田大橋)が描かれています。豊橋は東海道の中でも屈指の大きな橋であり、橋と川と城郭を同時に描くことができる景観に好まれ、他の東海道作品にも多く取り上げられています。画面中景には吉田城が描かれています。」40.ニ代歌川広重 東海道 赤坂 文久3年(1863)「旅籠の前を通る行列と、旅籠の屋内から行列をながめる女性たちが描かれています。大きな火鉢にあたる女性たちは、豪華な簪(かんざし)や着物を身に着け、華やかな印象です。初代広重は「東海道五拾三次」の「赤坂」の場面において、宿の内部を俯瞰的に描いています。本作の右端に見切れてみえる中庭のソテツと石燈籠は、初代広重による赤坂の場面にも登場しており、まるで初代広重の画風を継承するような演出となっています。」41.河鍋暁斎 東海道 岡崎 文久3年(1863)「岡崎宿といえば、矢作橋の風景がよく知れらていまが、その矢作橋を雲で隠しあえて描かずに、矢作川の舟渡しの場面です。川は波が立ち、行列が乗った豪華な舟の吹き流しや幟が風を受け、動きのある描写がされています。その先の光景には、徳川家康の出生地とされる岡崎城が配されています。」42.歌川国綱 東海道 鳴海 文久3年(1863)「画面手前に白馬に乗った将軍の後ろ姿が大きく描かれています。鳴海宿は有松絞が名産として知られており、画中の店先にも色とりどりの有松絞がかけられています。店の看板には「正札付大安売」「現金掛値なし正札」の文字もみえます。行列の先の後景には、金のシャチで有名な名古屋城が見え、上空には鶴が飛び交い、おめでたい構図となっています。」43.歌川芳形 東海道 桑名 文久3年(1863)「将軍と思われる年若い人物が馬に乗りあがろうとしています。画面を左に桑名城の石垣い見えることから、この画は宮宿ら桑名宿の聞に広がる伊勢湾上をつなぐ海上路「七里の渡し」を渡り、桑名の渡し口に到着した場面を描いたものと考えられます。」44.歌川国周 東海道 水口 文久3年(1863)「行列が水口宿に入ってきました。これから休憩でも取るのでしょうか。従者の笠の紐を外すようなしぐさを見せ、茶店の女性は従者の荷物を受け取っています。茶店の屋根には色とりどりのまねきが飾られています。」45.歌川芳盛 東海道之内 京都参内 文久3年(1863)「長い旅路を経て、行列が京に到着しました。内裏の紫宸殿で、将軍が公家の正装である束帯姿を身に纏い、天皇に拝謁している場面が描かれています。」46.歌川国貞(三代豊国) 東海道 京都名所之内 四条河原 文久3年(1863)「京の四条河原の川床で、将軍を迎える宴が催されているようです。画面手前には華やかな装いの芸妓と禿の姿の少女が描かれています。」46.「浦賀圍図」「江戸時代末期の黒船来航により、江戸幕府は大きな緊張感に包まれ、その対応として、三浦半島から房総半島にかけての海岸線の守りを固めました。この海防を絵図に記したものが「御固図」とよばれるもので、この絵図でも海岸線沿いに諸代大名などを割り当て、強固な防御施設を配備している様子がわかります。江戸城に近い海上には砲台を備えた「御台場」が築造され、絵図中には櫓や大砲、藩主の家紋の入た幟旗も見えます。」47.伊豆相模武蔵安房上総下総太平鑑 嘉永7年(1854)「泰平鑑という表題ですが、幕末の海岸防備を擢いた「御固図」の一つです。この図の特徴としては、防備に当たる各藩の家紋や藩主の名前に加え目印となる纏や簡易な印を背に入れた陣羽織なども一覧の形で表しています。また、画面中央には、アメリカ国旗をはためかせた「蒸気船」が何艘も描かれその大きさについて長さ幅を詳細に記入しています。そして、そこから漕ぎ出した小船(カッター船)を望遠鏡で覗いたように大きく表現しており、交渉にあたる幕府とアメリカ使節団の互いの緊迫感が感じられます。」48.海陸御固御場所附 江戸末期「伊豆から房総に至る「御固場」を描いた瓦版です。防備に当たる各藩の家紋や藩主等の名前が記されています。左側にある「御台場」は他の2図よりもリアルに描力かれ、一番御台場・(武州川越藩)松平誠丸、ニ番御台場・(奥州会津藩)松平肥後守、三番御台場・(武州忍藩)松平下総守と担当する藩主の名が記されています。中央下には、小さく江の島が描かれています。また、左側には各大名等の配置表(場所附)が添付されています。こうした情報も、当時の庶民の関心事だったようです。」防備に当たる各藩の家紋や藩主等の名前が記されています。50.歌川貞秀 新版東海道五十三次名所双六 慶応元年(1865)「負秀は、歌川国貞門下の中でも特異な存在で、師風を超え、鳥瞰的な視点から描く、独自の画風を生み出しました。この作品は、その本領を発揮し、「御上洛東海道」を鳥瞰的な構図で表した双六となっています。最下部に、「振り出し」地点となる江戸が描かれ、右から左へ、蛇行するように上部へと上がり、「上がり」の京を目指します。旗のあるところが行列の目印です。上洛の行列はどこまで進んでいるのでしようか。ぜひ細部までご覧ください。」展示ブース。正面に藤沢宿コーナー「藤沢宿と江の島の美人画」。「おまけ展示」コーナー。「鳥瞰図の世界へようこそ鳥瞰図とは、ある一定の角度からの風景を見にろして描いた絵のことで、風景や地図によく使われてきました。別名、「パノラマ図」とも呼はれます。日本美術では、古くは安土桃山、江戸から幕末と継承してきた鳥瞰図表現が見られます。こうした流れの中で、浮世絵においても同様の描法を用いた作品が多くみられ、企画展でご紹介した歌川貞秀(作品番号・34・50 )も、その系譜を辿ります。初三郎は、日本美術史における鳥瞰図描法を最大限に活かした、「初三郎式鳥瞰図」を編み出しました。手前に海や市街地の広がりを描き、奥に青や縁の山地を描く手法が特微です。見晴らしの良さと、山海の美しさの両方を兼ね備え、鑑賞者を紙上の旅へといざないます。」「先駆者 吉田初三郎吉田初三郎( 1884 ~ 1955 )は、日本の烏瞰図の先駆者です。初三郎の手掛けた鳥瞰図は、「初三郎式烏図」と呼ばれ、制作した鳥瞰図は16000点を超えるといわれています。初三郎が活躍した大正から昭和にかけて、日本で旅行プームが起こりました。島瞰図は、旅行案内図として、需要が高またのです。見た目が楽しくわかりやすい、さらに、写真よりも自由に表現できたため、かってのメディアにとって、利用価値の高い手段でした。そのため、初三郎を筆頭に、当時は鳥瞰図絵師が次々と誕生します。初三郎は、工房体制で弟子らと協力をして多くの制作依頼をこなしてきました。弟子の中には、初三郎の工房から独立し、活躍した者もいます。まさに、企業や実業家から注文を受けて初作した、商業デザイナーの先駆けともいえる人物です。」吉田初三郎 箱根名所図繪 大正8年(1919)「初三郎の鳥瞰図の裏には、名所に関する説明書きが書かれています。「凡そ日本に著名な山水郷や温泉場の多い中に、箱根ほど交通機関の利用されてゐる所は少い。」箱根は日本各地の温泉地の中でも人気がありました。当時は珍しかた登山電車が走り、眺望が楽しめる自動車道路も整備されました。更に、馬車、人力車、駕籠なども利用でき、山間部を気軽に移動できる温泉地として、人気を博しました。」相模湾を箱根方向から見た景色。吉田初三郎 富士山名所図繪富士山を中心に置さ、手前に箱根、奥には日光から八ヶ岳、日本アルプスと、富士山を取り囲むように関東近辺の山々が描かれています。遠くにそびえる山々の色彩は、距離感を山すために、薄水色や薄紫色で表現されています。初三郎は富士山を好み、鳥瞰図を描く場合、とんなに富士山から遠い地域ても、必ずといってよいほど、富士山を描き込んでいたようです。初三郎は、当時「大正の広重」と称賛されていました。画面左上には、「大正廣重初三郎画」と書さ込まれており、自負していたことが伺えます。」「脇役として描かれた江の島メインではない地域を描く場合、その土地を象徴する名所を取捨選択し、少ない情報で、その地域だと分かることが重要です。湘南地域を拡大してみると、「大船」「かまくら」「よこすか」「づし」「江の島」・・・と記されています。江の島の大きさは、鳥瞰図全体から見ると非常に小さいですが、陸につながる橋もしっかりと描きこまれています。」この繪では「江の島」の位置が正しい位置に。しかしこの地図では「平塚」と「大磯」の間に。この地図ではほぼ正しい位置に。そして展示室を出て、エレベーターホールに。「広重と巡る名所江戸百景」が川崎浮世絵ギャラリーにて。「月岡芳年 血と妖艶」は太田記念美術館にて。「モノで読む古事記」は國學院大學博物館にて。そして帰路へ。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.08.14
コメント(0)
33.作者不詳 相州浦賀米国船入津之図 嘉永6年(1853)頃。「嘉永六丑年六月三日申ノ下刻 相州浦賀津江入舩北亜墨利加ハシトン舩十四日メニ 浦賀ニ入津ト云嘉永6年( 1853 ) 6月、米艦隊(黒船)入津の模様を記録した墨書画です。当時の記録等から抜き出して1巻にまとめたたものと思われます(横浜市歴史博物館蔵に類似の着彩画あり)。「アメリカ人栗(久里)浜上陸行軍ノ図(惣人数五百余人)」の図中、ニ角帽子をかぶって、下に「惣大将」と記されているのがべリー提督で、同行の童子が、書翰を入れた包を持ています。ます。巻末には、「久里浜陣押、荒増之図(惣人数一千百有余人)」が記されていて上陸時の日本側の態勢も記録されています。」武器、サーベルを持って、それぞれ異なる帽子を被っている。隊長(右)。「帽子」と「靴」。軍隊が行進する時に使用する楽器。「剣」と「端船」。外輪蒸気船「サスケハナ号」図。アメリカ人栗浜上陸行軍ノ図 総人数五百四人。総大将の横に国書を持った子供の姿も。日本の「久里濱陣営之図 惣人数一千百有余人」。「久里浜陣営之図」の「奉行本部」。川越藩と忍藩の武将たちがこの場所を担当していたと。「泰平(太平)の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰) たった四杯で夜も寝られず」浦賀沖のペリー艦隊の図。34.歌川貞秀 東海道勝景従日本橋至荒井 東海道勝景従白須賀京都迄一覧 文久3年(1863)「東海道の日本橋から荒井宿 (新居とも。静岡県湖西市)までの俯瞰図(大判錦絵3枚続き)と、白須賀宿(湖西市)から京都までの俯瞰図(同前)をつなげた絵図です。道を湾曲させることで東海道各地の宿場等の名所を織り込みながら6枚のの画面に収めてしまう技法は、のちの吉田初三郎の鳥瞰図につながるものと言えましよう。」東海道勝景従白須賀京都迄一覧。「江の島」が右手に。「白き富士山」。興津~江尻~~岡部~藤枝~島田~金谷~日坂~掛川~袋井~見附。浜松~舞阪~荒井。白須賀~二川~吉田~御油。池鯉鮒~鳴海~宮~桑名。関~坂の下。石部~草津~大津~三条大橋。35.月岡芳年 東海道御幸之図 明治元年(1868)明治元年( 1868 )に制作された作品で、左上の「西京」(京都)から右下の「東京府」に至る、明治天皇の東幸の様子を描いています。東海道の各宿が、ひとマスずつ双六風に描かれているのが特徴です。到着地点の「東京府」のマスには日本橋の背景に江戸城も描かれており、また人物は簡略化され、全てのマス内が鳥瞰的な視点で描かれています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.08.13
コメント(0)
そして次の江の島コーナー「明治の江の島を描いた浮世絵と石版画」も「前記」の展示と同じであった。歌川広重初代 「相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図」 弘化4年~嘉永5年(1847~52)「国貞の弟子であるニ代国貞(四代豊国)と、広重の弟子の二代広重による供筆作品です。江の島の岩屋の前で、海女の親子が海中から鮑を採ってくるようすを、将軍が上覧している場面でしよう。ただし、実際に家茂が上洛の途中て江の島へ寄った事実はなく、源頼朝に仮託したものと考えられます。画面中央の波を境に、陸上のようすをニ代広重が、海中のようすをニ代国貞が描いており、師匠同様に、風景描写に長けたニ代広重、人物が得意なニ代国貞が、それぞれの手腕を発揮しています。」右の平な俎板岩(まないたいわ)の上で緋毛氈(ひもうせん)を広げ酒肴を楽しんでいます。江島弁財天が歌舞音曲を生業とするものに篤く信仰されていたと。画面左の岩場や参道に角木瓜(もっこう)の日傘の常磐津(ときわづ)節、中央の三本杵は江戸長唄(ながうた)の杵屋(きねや)、菱に三つ柏は清元(きよもと)節、桜草の宮本節も。その傍では釣りをする清元節の女性たちもいます。三々五々岩場巡りをしたり、本宮岩屋に詣でたり、裸の子供たちに投銭をしてそれを海中で拾わせたりして芸者が楽しむ有様。左手には富士山の姿も。海中で投銭を拾う裸の子供と海女の姿。「江の島富土山を別格とすれば、浮世絵に描かれた風景の中でその数では江の島は、かなりの上位に入ると言えましようそれほどに、江戸時代の江の島詣では一大ブームでした。」江の島は湘南海岸と砂州でつながった島です。波の浸食でできた「岩屋」の存在は、古くは宗教的な修業の場として多くの修行者の来訪を伝えていますが、鎌倉時代に源頼朝の祈願により文覚が弁財天を勧請したという由来から、弁財天の島として信仰を集め、また風光明媚な行楽の地としても人気を得るようになリました。浮世絵では、初期には富士山や朝日などとセットで中国の神仙思想にある蓬莱山に擬して描かれたものが多く、江の島詣でが盛んになるにつれ、参集する人々を描いたものが多くなっています。」23.楊州周延 波枕江の島新語 明治13年(1880)「自序仲街を籠で通るや汐干貝とは。七世三升が吟にして能く深川の情を穿ち。八幡鐘のきぬぎぬに櫓下の迎ひ舟。なみの随意現なく、ゆふべの夢を波枕。その江の島に思ひ寄たる。歌舞伎の種を抄録もの。鳥居が画風の絵島。その顛末を七里が浜の。いとながながと記載せしを。丸鉄が梓にちりばめて発兌さんと乞ふに任せ。近頃流行三編読切。海鬼灯を鳴したまふ婦幼衆のお伽草。あたる満汐打かへす。浜の真砂の汐干貝。必らず拾ひ給はれと願ふものは竹芝の漁夫 久保田彦作記」歌舞伎の作者であった久保田彦作( 1846 ~ 1898 )が著した明治の絵草紙。画の周延は幕末から明治初期にかけて役者絵の第一人者で、さながら歌舞伎を見ているような作品です。こうした絵草紙類にも、名所江の島はたびたび取り上げられました。「「つづき」へも是より厳しき法 令いでいよいよ世の中静謐に及び男 女が風俗 ▲▲善かたに 改まりし と言つたふ めでたし めでたし めでたし」24.三代歌川広重 立斎漫画 明治12年(1879)「画面左上から、水鳥、歌舞伎の登場人物(『積恋雪関扉」の関兵衛)、翁面、江の島、ガス灯の点灯が張交絵で描かれています。画面右はガス灯の点灯の様子です。点灯方という専門の職業の人が、夕方になるとガス灯に火を灯し、朝になると消すために街中を走り回っていました。」25.楊斎延一 江の島美人の賑ひ 明治28年(1895)「江の島へ続く砂洲の道である洲鼻の入り口にて、貝拾いなどをして遊ぶ女性達が描かれています。楊斎延ー( 1872ー1944 )は楊洲周延の弟子で、美人画を得意としました。他にも役者絵や、文明開化頃の東京名所などを描きました。」26.小林清親 日本名所図会 江の島 明治29年(1896)27.楊州周延 名勝美人会相州七里ヶ浜 明治27年(1894)「明治期を代表する美人画絵師である楊洲周廷による本作には、三人の女性と、七里ガ浜から見た江の島の風景が描かれています。手前の姉さん被りをした女性は、一見すると若い娘のようですが、ニ人の少女を手招きしている様子から母親を若い女性の風俗で描いたものと考えられます。青色を基調にした背景や着物の淡い色により、近代の新しい美人画を象徴する柔らかな色彩の作品となっています。」ニ人の少女を手招きしている母親。ニ人の少女が母の下へ。28.鈴木年基 相州江之嶋 明治期「西洋絵画や写真の流入と共に写実的な風景が描かれるようになった一方て、浮世絵の画風を引き継いた絵師もいました。本作では高さは強調されていないものの、島の形などは写実とは言い難く、手前に見切れた樹木を配し遠近感を出すことも、浮世絵に見られる手法です。作者の鈴木年基(生没年不詳)は、幕末から明治にかけて活した浮世絵師である芳年の門弟で、大阪で活躍した絵師です。」29.尾形月耕 月耕随筆 江の嶌参り 明治29年(1896)「江の島への道中において、七里ヴ浜の浜辺で一休みする女性たちが描かれており、右奥には小動岬も見られます。本作を描いた尾形月耕( 1859-1920 )は浮世絵作品も手掛けましたが、特定の浮世絵の一門に属していたわけではなく独学で浮せ絵や菊池容斎の画風を学びました。画業の早い時期においては蒔絵や輸出用の七宝の下絵を描くほか、新聞・雑誌の挿絵に腕をふるい、後年には日本画家として万国博覧会等に作品を出品するなどして情力的に活動しました。」30.矢島知三郎 辨天娘 明治25年(1892)31.太田節次 江の島真景 明治26年。「デッサンスケールの上に江の島景が描かれています。明治になり西洋文化を取り入れる中、奥行きを正確に遠近法や一点透視図法、更には黄金分割などの絵画技法を日本でも取り入れるようになったことを物語っています。また明治22年( 1889)には東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校し、西洋絵画の研究が急速に進められました。」32.美術着色会社 相州江之嶋真景 明治22年「明治になると、江の島は実景に則して描かれるようになり、富士山よりも高さを誇張して描かれる傾向が弱まったことが感じられます。手前の女性は着物姿ですが洋傘を持っており、また奥の男性は洋服を着ていることから、風俗の推移も感じさせる作品となっています。」展示コーナー。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.08.12
コメント(0)
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮世絵」展(後期)へ行って来ました。6月下旬に「御上洛東海道と幕末の浮世絵」展(前期)👈リンク も鑑賞したので、展示品が変わっているようでしたのでこの日に「御上洛東海道と幕末の浮世絵」展(後期)に藤沢浮世絵館に出向いたのです。2年以上に渡る「旧東海道を歩く」👈リンクで江戸・日本橋~京都・三条大橋までを延べ32日間でこの3月末に完歩していたので、その「復習」も兼ねての再訪館となったのです。「東海道五十三次東海道五十三次とは江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道に置かれたの宿場のことです。日本橋を起点に三条大橋(京都)まで、約500kmの道のりです。「慶長6年( 1601 )正月、江戸幕府は東海道の駅制を定の、戦国期の宿駅を母体としつつ改めて宿駅を設定しました。宿駅には伝馬の常備を命じ、公的な交通機構を整備しました。古来、道中には風光明媚な場所や名所旧跡か多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられました。江戸後期の旅行(参詣)ブームを背景に五十三次をセットにした名所絵シリースも多種多様に版行されました。また、各宿の画題を一枚にまとめ浮世絵師が作製した「道中双六」の版行も流行りました。」「御上洛東海道文ス3年( 1863 )、1 4代将車徳川家茂は、公武合体のもとでの攘夷の決行を迫る孝明天皇に、開国を言上するために上洛しました。この上洛は、3代将軍家光の上洛から約230年ぶりの出来事でした。このような歴史上の重要な出来事も、浮世絵に描かれると、東海道をめぐる名所絵として楽しむことができます。このシリーズ作品は通称「御上洛東海道」と呼ばれており、25軒の版元による共同企画のもと16名の絵師が参加して刊行され、その作品数は162枚にのぼる超大作で、幕末の東海道作品として大ヒットしました。」1.ニ代歌川広重 東海道 川崎 文久3年(1683)六郷の渡しの場面を描いています。行列は、小分けに分かれて渡し舟に乗り込み、向こう岸に向かっています。すでに行列の先頭は向こう岸に着き、陸路を進んでいますが、行列の本体はまだ川手前にも続いています。後景に富士山が見えることから、江戸から川崎宿方面に渡るところと思われます。2.歌川国貞(三代豊国) 東海道 神名川「神奈川宿の台町の通りを行列が通っています。画面手前には、その場に居合わせた旅人が行列を遠巻きに眺めているような様子で描かれています。台町の坂には、海を一望できるニ階建ての茶屋が軒を連ねており、そこから見える景色が評判となっていました。図中でも、茶屋のニ階の部屋から遠眼鏡(とおめがね)を使って景色を見ている女性の姿が描かれています。」3.歌川芳艶 東海道 程ヶ谷 其二 文久3年(1683)「雨上がりの虹が後景の空に描かれています。画面手前で争っている人足たちは、雨宿りの間に博打をしていたのでしようか、地面には一文銭が散らばっています。脚絆の柄が違うことから、グループ間の諍いであることも伺えます。画面奥にむかって下り坂となっており、御長柄の先端が見え、行列が先に進んでいることがわかります。2人の従者が慌てて行列に追いつこうとしています。」前半の「御上洛東海道」展示コーナーを見る。4.二代歌川国貞 東海道 戸塚 文久3年(1683)「戸塚には宿から山発しようとする、将軍家茂と思われる人物が描かれています。江戸時代では徳川将軍を描くことはご法度であったため、本作においても明らかに家茂であるという表記は見られませんが、この人物に当時16歳であった若き将軍の姿が重ねられていることは、当時の人には明らかであったと推察されます。」5.歌川貞秀 東海道名所の内 江之嶌 文久3年(1683)「南古(茅ヶ崎の南湖)の浜から下田まで相模湾の海岸線が続き、富士山のふもとには箱根山が連なっています。江の島についても、右から「岩本院(現・岩本接)」、「下の宮(現・辺津宮)」、「三重塔」、「上の宮(現・中津宮)」、「ちごがふち(稚児が淵)」、「りゃう師町(漁師町)」とあり、画面左には「小由るぎ(小動岬)」の断崖も描きこまれています。小動岬あたりから江の島を望んた景観が描かれていますが、貞秀はこういった島瞰図を得意としていました。また、貞秀は緻密な描写にも定評があり、本図も多くの武士の姿が描かれています。この作品は、貞秀という絵師の特徴がよく表われた一枚でもあります。」6.歌川国綱 東海道名所之内 四ツ谷 文久3年(1683)「四ツ谷の立場(宿場と宿場の間の休憩所)の場面です。四ツ谷の立場は東海道と大山道の追分として栄え、画面右下に見える道標にも「右大山道」と記されています。後景には富士山と並ぶように大山が描かれていまが、これは実際の風景とは異なった構図となっています。」7.河鍋暁斎 東海道の内 鴫立沢(しぎたつさわ)文久3年(1683)「鴫立沢に刻きれた碑の前を行列が通っています。平安時代の歌人である西行は、この辺りの海岸を見て歌を詠みました。その復、歌が詠まれた当時の面影を残す景色の良い場所に碑が建てられました。画中には画面右の碑の前に、俳人らしき人物が平伏している姿が見えます。」8.河鍋暁斎 東海道名所之内 梅澤 文久3年(1683)「梅澤は、山西村(現在のニ宮町)にあった東海道の立場(宿場と宿場の間の体憩所)です。次の小田原宿との間を流れる酒匂川が、たびたび増水し川留めとなるので、この梅澤で休憩する旅人で賑わったそうです。」9.二代歌川広重 東海道名所之内 酒匂川 文久3年(1683)「人足による徒歩渡し(かちわたし)が行われている酒匂川(さかわがわ)に仮橋が架けられ、将軍と思われる人物が歩いて渡っている様子です。後景には箱根のニ子山がみえます。」10.ニ代歌川広重 東海道 小田原 文久3年(1683)「大きな波がたっている海沿いの街道を行列が通っています。画面左奥の箱根山のふもとには、松の木の間から小田原城が見えます。」11.ニ代歌川国貞・二代歌川広重 東海道 ハコ子(ね) 湯治 文久3年(1683)「湯あがりと思われる女性を手前に、後景には箱根の山と湯治場の全景が描かれています。ニ代国貞が手前の女性を、ニ代広重が背景を手掛けたと思われます。行列は、箱根の山並みの中の街道を進んでいます。」「御上洛東海道」の展示の途中にあったのが藤沢宿コーナー「藤沢宿と江の島の美人画」。「藤沢宿」「藤沢宿は東海道の日本橋から数えて六番目の宿場です。江戸幕府の道中奉行所の記録では藤沢宿の名物を「大山詣で、江の島弁財天詣で」と記しています。」藤沢宿コーナー「藤沢宿と江の島の美人画」は「前期」と全く同じ展示内容であった。12.ニ代目歌川豊国 和国名所江ノ島 全勢揃 鶴屋内かくし 文政11年(1828)「本作は画面上部に青の濃淡で絵柄を表現する「藍摺」で江の島と富士の風景が配されており、下部には当時評判の遊女が手紙を書く様子が描かれています。鶴屋というのは吉原にあった遊女屋の名前で、「かしく」が遊女の源氏名です。」13.歌川芳晴 藤沢 天保14年~弘化4年(1843~47)「旅支度をする女性が描かれ、こま絵には遊行寺と大鋸橋(現・遊行寺橋)が見られます。女性の腰ひもを結ぶ仕草や風景の絵から、国貞の描いた「美人東海道」の藤沢の図を元にした作品であることがわかります。落款に見られる「芳晴」は歌川芳春の早い時期の表記です。芳春は歌川国芳の弟子として、幕末から明治にかけて活動しました。」 14.歌川国貞(三代豊国) 二代歌川広重 諸国名所七里ヶ浜 文久2年(1862)「手前の女性は国貞(三代豊国)、背景はニ代広重によって描かれた双筆の作品です。江の島への道中、七里ガ浜から海を眺めながら、煙草を一服する女性が描かれています。女性の装いをみると、手ぬぐいを陂り、大きめの浴衣を羽織っています。こちらは浜辺での砂や埃をよけるためのもので、江の島へ向かう女性の江戸時代における定畚ファッションでした。本作は「団扇絵」と呼ばれるもので、江戸時代の人々はこのような団扇絵を買い、その年に流行に合わせて団扇の紙を張り替えて使用していました。団扇絵は実用品であるため、現存の少ない希少な作品とされています。」15.歌川広重 東海道五十三図会 七 藤沢(美人東海道) 弘化4年~嘉永5年(1847~52)「広重の美人東海道と呼ばれるシリーズの内、藤沢宿を描いた作品です。画面上部の枠には、大山の眺めと藤沢の宿場風景が一つの画面に描きこまれています。女性は手に江の島名物である貝柄杓(貝殻の器のっいた杓)と干し雲丹を持ち、駕籠の上に乗っている品物は、鮑の漬けと貝屏風です。おみやげをたくさん買って、江の島から帰る様子とみられます。」16.歌川芳虎 書画五拾三駅 相模藤沢 山帰定憩 明治5年(1872)「この作品は、画面上部に文人墨客の文章と絵、下部には各宿駅ゆかりの故事や伝承、風景が描かれているシリーズ作品です。藤沢の図には、上部に其角堂(俳人・穂積永機[1823 ~ 1904] )の俳句、下部には茶屋でお茶を差し出す女性の姿が描かれています。表題の「山帰」の山とは大山(雨降山)のことで、女性のうしろにある縁台には、大山詣をあらわす御神酒枠(大山から水や酒を持ち帰る容器)が置かれています。また、右端に描かれている柱は当時設置されたばかりの電信柱で、明治の街道を象徴しています。」17.豊川国周 善悪三拾六美人 照姫 明治9年(1876)「照姫相州金沢瀬戸浦なる照姫松の由来を聴に小栗孫五郎満重は持氏公の怒に触れ主従わづか十一人流浪なして藤沢在の横山先生安春の邸に一服なす折から主人安春毒酒を以て小栗主従を害せんとす照姫察し満重に告其身も逃れ野島が崎に隠れ居しが宿の老女の嫉妬のために松葉に熏され危難に逢しが六消千光寺観せ音の利益によって、助りしとぞ。藤沢山の縁起を略して 深川山人誌」18.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 黃 嘉永4年(1851)「五行説において重要な色とされていた「青」「赤」「黄」「白」「黒」の5色にそれぞれ美人が当てはめて描かれています。また、この美人たちは、歌舞伎の登場人物に擬えて描かれており、各色は、その役が決まって着る衣装の色と対応しています。黄:お駒(『恋娘昔八丈』より)黄色地に縞模様の、"黄八丈"の着物を着た、材木問屋の娘である「お駒」が描かれています。お家騒動に巻き込まれるお駒と髪結いの才三郎の情話『恋娘昔八丈』は、安永4年に浄瑠璃、翌年には歌舞伎の世話物狂言として上演され、人気を博しました。黄八丈は、歌舞伎の初演で三代目瀬川菊之丞がお熊役として着ていたことをきかけに、江戸で大流行しまた。八丈島の特産品てもあり、将軍家の御用品としても献上されています。」19.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 黒 嘉永4年(1851)「黒:小梅(『隅田春妓女容性』より)か本作に描かれた美人は、侠客「梅の由兵衛」の妻「小梅」とされています。歯には既婚女性の証である”お歯黒”が見られ、褄の部分には梅の紋様が配されています。また着物は鳥の柄となており、黒の色と対応しています。褄を取りながら船の乗り場に立っていることから、降りた船を見送っているところでしようか。」20.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 青 嘉永4年(1851)「青:照手姫(小栗判官ものの物語より)小栗判官は藤沢の遊行寺とゆかりのある人物で、照手姫は小栗判官の恋人です。」21.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 赤 嘉永4年(1851)「赤:八重垣姫(『本朝廿四孝』より華やかな赤い振袖を着た「八重垣姫」が描かれています。八重垣姫は上杉謙信のひとり娘、また武田信玄の息子「勝頼」の許婚でもある設定です。なお『本朝廿四孝』などの時代物の歌舞伎に登場するお姫様を”赤姫”と呼び、赤い着物が定番となっています。手に持つのは武田家の宝の一つ「諏訪法性の御兜」です。兜の白い毛部分や着物の裾には空摺りが施されています。空摺りとは版木に絵の具をつけず、刷り圧だけで紙面に模様をつける技法のことです。」22.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 白 嘉永4年(1851)「白:役名未詳白地に絣の着物を着た美人が描かれています。役名は未詳ですが、髮型から芸者であると考えられ、屋根舟の後方に立ち、扇子を口にくわえながら帯を直すという仕草で描かれています。空には満月がさえざえと輝き、その下に見える橋は、竹材問屋が見えることから江戸の京橋と思われます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.08.11
コメント(0)
60.歌川芳盛 東海道 草津 文久3年(1863)「草津名物の姥が餅を売る茶屋の風景です。先触れに促され、土下坐をして行列を待つ人の姿も見えます。」61.河鍋暁斎 東海道名所之内 京筑地承明門 文久3年(1863)「内裏の南面正門である建礼門を入ると、その先に承明門があります。画中では、公家の正装である束帯姿の将軍が承明門に入ろうとする場面が描かれています。御所の警備にあたる検非違使などの官職がそれぞれの配置についている様子も見られます。」62.作者不詳(かわら版) 伊豆相模武蔵安房上総下総総泰平鑑「泰平鑑という表題ですが、幕末の海岸防備を擢いた「御固図」の一つです。この図の特徴としては、防備に当たる各藩の家紋や藩主の名前に加え目印となる纏や簡易な印を背に入れた陣羽織なども一覧の形で表しています。また、画面中央には、アメリカ国旗をはためかせた「蒸気船」が何艘も描かれ、その大きさについて長さ幅を詳細に記入しています。そして、そこから漕ぎ出した小船(カッター船)を望遠鏡で覗いたように大きく表現しており、交渉にあたる幕府とアメリカ使節団の互いの緊迫感が感じられます。」63.作者不詳(かわら版) 海陸御固御場所附 江戸末期「伊豆から房総に至る「御固場」を描いた瓦版です。防備に当たる各藩の家紋や藩主等の名前が記されています。左側にある「御台場」は他の2図よりもリアルに描力かれ、一番御台場・(武州川越藩)松平誠丸、ニ番御台場・(奥州会津藩)松平肥後守、三番御台場・(武州忍藩)松平下総守と担当する藩主の名が記されています。中央下には、小さく江の島が描かれています。また、左側には各大名等の配置表(場所附)が添付されています。こうした情報も、当時の庶民の関心事だったようです。」防備に当たる各藩の家紋や藩主等の名前が記されています。64.作者不詳(かわら版) 浦賀圍図 江戸末期 「江戸時代末期の黒船来航により、江戸幕府は大きな緊張感に包まれその対応として、三浦半島から房総半島にかけての海岸線の守りを固めました。この海防を絵図に記したもののが「御固図」とよばれるものて、この絵図でも海岸線沿いに譜代大名などを割り当て、強固な防御施設を配備している様子がわかります。江戸城に近い海上には砲台を備えた「御台場」が築造され、絵図中には櫓や大砲、藩主の家紋の入った幟旗も見えます。」65.ニ代目歌川国輝 東海道末広五十三次名所双六 慶応元年(1865)「末広(扇子)をマスに見立てた東海道五十三次の道中双六です。振り出しは右下の日本橋、上がりは中央に位置する京です。すべてのマスに行列が描かれており、また京のマスでは束帯姿の人物が書状を与える場面が描かれています。このことから、第14代将軍徳川家茂の上洛を意識して描かれたことがうかがえます。藤沢のマスでは「南湖のまっ原」が描かれています。現在、南湖は茅ヶ崎市域ですが、当時は藤沢宿の範囲として捉えられており、藤沢宿の名所のひとっとして多く描かれました。」「おまけ展示コーナー」。「ちりめん絵ちりめん絵は一見小さな錦絵のように見えますが、実は和紙に摺った普通の大きさの錦絵を、棒に巻きつけ縮めて作ったものです。近くで見ると、ちりめんに似た細かい皺があります。ちりめん絵は外国向けのものとして量産され、クレープ・ジャポン(ちりめん織をフランス語でクレープと呼ぶ)、略してクレポンと呼ばれました。当時は比較的安価に買えたものであったらしく、画家のゴッホもちりめん絵を多く集めていたとされます。」それにしても、上の説明ではよく理解できない私、棒に巻きつけ縮めて???豊原国周・三代歌川広重 東海道ート眼千両 藤沢 弁天小僧菊之助 慶応3年(1867)豊原国周・三代歌川広重 東海道ート眼千両 見附 三作妹お辰 慶応3年(1867)豊原国周・三代歌川広重 東海道ート眼千両 沼津 黄瀬川 亀鶴展示コーナー。豊原国周・三代歌川広重 東海道ート眼千両 岡嵜 和田志津馬最初の展示コーナー入口左にあった「浮世絵の中のこれは何かな?」再び展示室入り口にあった歌川広重初代 相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図。制作時期:弘化4年~嘉永5年(1844~1853)頃。板元:住政これは「相州江之嶋弁才天開帳参詣群衆之図」と同時に江戸の四谷傳馬町二丁目の住吉屋から刊行された作品で、江の島弁財天を参詣するために参道に列をつくった女講中音曲(おんぎょく)連中のその後版とも言えるものです。画面左の岩場や参道に角木瓜(もっこう)の日傘の常磐津(ときわづ)節、中央の三本杵は江戸長唄(ながうた)の杵屋(きねや)、菱に三つ柏は清元(きよもと)節、桜草の宮本節も右の平な俎板岩(まないたいわ)の上で緋毛氈(ひもうせん)を広げ酒肴を楽しんでいます。その傍では釣りをする清元節の女性たちもいます。三々五々岩場巡りをしたり、本宮岩屋に詣たり、裸の子供たちに投銭をしてそれを海中で拾わせたりして芸者が楽しむ有様は、天保9年(1830年)に書かれた『富士大山道中雑記附江之嶋鎌倉』にも「…嶋入口并此所にても子供数多居、少々の出銭にて海中え飛入り、種々の芸事いたし候事」とあります。当時の江の島詣の様子をよく表現しています。。画題にある「本宮岩屋」は、窟(いわや)弁財天の開帳に合わせて刊行されたことを証明していると。そして展示室入口前の案内板。そして「江の島」に関する様々な浮世絵の一部が切り取られて。歌川国貞画 東海道名所之内 江ノ島(御上洛東海道・行列)将軍が江の島の岩屋の前で、海女の親子が海中から鮑(あわび)を取ってくるようすを上覧している場面。以前にはなかった説明文が。「月岡芳年 今様げんじ江之嶋兒ヶ淵」元治元年(1864)田舎源氏の光君が江の島遊覧に訪れ、稚児ヶ淵で海女(あま)達の鮑漁りを見物している様を描いています。光の君は特徴のある海老茶筌髷(えびちゃせんまげ)に豪華な衣裳を身につけています。いわゆる源氏絵で版の色数も多く、空摺(からずり)の技法も駆使した入念な錦絵海女たちの鮑取りの姿。江の島の稚児ヶ淵にて、アワビ採りをする海女と、それを眺める男性とお付きの女性が推かれています。「作者不詳 相州江ノ島 弁財天上下ノ宮 己巳年御開帳繁栄之全図 文化6年( 1809)多くの作品で江の島でアワビ採りをしているのは女性として描かれていますが、この作品では男性の姿で描かれている点が注目されます。「歌川広重 東海道 七 五十三次 藤沢 弘化4年-嘉水5年頃(1847-52)藤沢宿の夜の風景が描かれています。江の島一ノ鳥居と大鋸橋(現・遊行寺橋)が見えます。旅籠の前で客引きをする人などが描かれ、当時のにぎわいが感じられます。「歌川貞虎 鎌倉七里ケ浜ヨリ江の嶌 遠見ノ図 天保年間(1830- 44)」右手の手拭いを髪に巻く「姉さん被り」そして煙管を持つ女性の姿をズームで。江の島詣をする華やかな女性たちが描かれています。手拭いを髪に巻く「姉さん被り」は海の潮風から髪を守るためのもので、浮世絵によく擢かれています。「歌川芳形 東海道藤澤 文久3年( 1863 )」馬方が飾りを付けた馬の足の具合を見ているところです。馬が見据える背景にみえる緑の三角は大山です。「FUJISAWA UKIYOE MUSEUM」。「歌川国貞(三代豊国) 東海道名所之内鎌倉七里が浜の風景 文久3年( 1863 )」菅笠を被った旅装束の女性が、若い娘が引く牛に乗り、七里ガ浜の浜辺を悠々と行く様子が描かれています。海はやや波立ち、海上には船の白い帆が漂っています。「魚屋北渓 江島記行兒ヶ淵 天保年間( 1830-44 )」男性が遠眼鏡(望遠鏡)であたりを眺望しています。江戸時代の記録によると、江の島では遠服鏡で景色を眺めることがよく行われていたようです。「歌川広重 冨士三十六景相模七里か浜 安政5年( 1858 )」広重の最晩年に制作されたシリーズ作品「冨士三十六景」の一つです。縦の構図を生かし、七里ガ浜から江の島と富士山を望む風景です。「喜多川歌麿 風流四季の遊弥生の江之島詣 享和年間(1801-04)」女性は商家の女房と思われ、後ろには荷担ぎの若衆がいます。荷物には紐でくくりつけられた貝屏風や干し雲丹といった江の島名物の土産が描き込まれています。エレベータホール 正面。反対側通路にあったポスターコーナーの「はだの浮世絵ギャラリー」ポスター。「これも五十三次」ポスター。そして7階の窓から、江の島方面を見たが、江の島の姿は見えなかった。「ココテラス湘南」を出て駐車場に駐めてある車に向かう。右手前方にあったのがショッピングモール「テラスモール湘南」。東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道線辻堂駅北口に、2011年(平成23年)11月11日にオープンした商業施設。湘南地域最大級の大型ショッピングモール。 辻堂駅北口と歩行者デッキで直結しているのだ。大きな公園の先が駐車場。大きな公園は「神台(かんだい)公園(シークロス公園)」。そして左手に「テラスモール湘南」を見ながら駐車場に戻り、帰宅の途に。 ・・・END・・・
2020.07.13
コメント(0)
そして展示コーナーの途中にあったのが「江の島弁財天道標昭和41年(1966)1月17日指定/江の島道の道標です。江戸前期の鍼医・杉山検校が藤沢宿から江の島へ続く約4㎞の江の島道周辺に48基の道標を建立したと伝えられています。のちに移設されたものもありますが、市内では藤沢橋脇、白旗神社境内、遊行通りロータリー内、砥上公園、法照寺境内、片瀬小学校、密蔵寺向かい辻、大源太公園、西行戻り松脇、湘南モノレール「湘南江の島」駅付近、片瀬洲鼻通り、江島神社参道福石横の12基が指定されています(市内で未指定もあり。鎌倉市・東京都にも各1基確認されている)。いずれも火成岩製、ほぼ同型同寸。標身高120㎝の尖頭角柱形。」これはレプリカなのであろう。四面のうち三面に「一切衆生」「ゑのしま道」「二世安楽」と刻まれています。「一切衆生」:この世に生きているすべてのもの。生きとし生けるもの。特に人間に対して いうことが多い。「二世安楽」:来世のこともこの世のことも、仏様に任せ切って南無阿弥陀仏とお念仏を称える 身になってこそ、本当の安らぎがいただけるのです。ソーシャルディスタンス 2m と注意喚起のパネルも。正面に藤沢宿コーナー「藤沢宿と江の島の美人画」。そして再び「御上洛東海道と幕末の浮世絵」展示コーナーの続きへ。「御上洛東海道と幕末の浮世絵東海道を日本橋から京都へと向かう徳川家茂の上洛を描いた、通称「御上洛東海道」と呼ばれるシリーズは評判となり、その作品数は1 6 2点にも及びました。その人気を受けて、同じく「御上洛」を扱った浮世絵作品や絵双六などが登場しています。長い行列を描くために俯瞰的な構図の作品が流行り、横浜の開港を描いた「横浜絵」にも受け継がれます。また、将軍上洛の起因でもあた外国船の来航も、当時の一大関心事であり、絵巻や瓦版(事件の速報記事を一枚摺りにしたもの)に写し取られています。実に様々な物事を対象として描かれた作品から、幕末当時の時代の息吹を感じていただきたいです。」41.歌川国貞(三代豊国) 東海道名所之内 鎌倉七里ガ浜の風景 文久3年(1863)「菅笠を被た旅装束の女性が、若い娘が引く牛に乗り、七里ガ浜の浜辺を悠々と行く様子が描かれています。海はやや波立ち、海上には船の白い帆が漂っています。波打ち際を見ると、若干の雲母が施される等、摺りの工夫が見られます。実際の上洛の際に、将軍が七里ガ浜に訪れたわけではなく、あくまても想定で描かれた作品と考えられます。」42.歌川貞秀 東海道名所之内 由比ヶ浜 文久3年(1863)「鶴岡八満宮一ノ鳥居の前あたりから、稲村ガ崎、腰越、江の島、さらには遠く箱根山、ニ子岳(双子山)、下田、そして富士山にまて及ぶ景観が、地名と共に描きこまれています。また、中央に画面をニ分するように松の木が描かれるといった斬新な構成も見られます。波打ち際に立っているのが将軍家茂と思われますが、実際の上洛の際に家茂がこの場听に立っことはなく、他のシリーズ作品同様に、源頼朝に仮託して描れたものと考えられています。」43.二代歌川国貞 二代歌川広重 東海道名所之内 江之嶌 文久3年(1863)「国貞の弟子であるニ代国貞(四代豊国)と、広重の弟子の二代広重による供筆作品です。江の島の岩屋の前で、海女の親子が海中から鮑を採ってくるようすを、将軍が上覧している場面でしよう。ただし、実際に家茂が上洛の途中て江の島へ寄った事実はなく、源頼朝に仮託したものと考えられます。画面中央の波を境に、陸上のようすをニ代広重が、海中のようすをニ代国貞が描いており、師匠同様に、風景描写に長けたニ代広重、人物が得意なニ代国貞が、それぞれの手腕を発揮しています。」44.河鍋暁斎 東海道名所之内 箱根山中猪狩 文久3年(1863)「将軍が座す御前で、勢子(狩猟の際に、獲物を追い込む役目の人夫)が追い立てた猪や鹿などが、崖から逆落としになっています。猟師たちの動きや表情には、北斎漫画的な描写が見られ、自身も絵手本をよく出した暁斎の興味の幅広さが出ています。画中にある「惺々周麿」とは、「暁斎」と改める以前の画号です。」45.作者不詳 相州浦賀米国船入津之図 嘉永6年(1853)頃。「嘉永六丑年六月三日申ノ下刻 相州浦賀津江入舩北亜墨利加ハシトン舩十四日メニ 浦賀ニ入津ト云嘉永6年( 1853 ) 6月、米艦隊(黒船)入津の模様を記録した墨書画です。当時の記録等から抜き出して1巻にまとめたたものと思われます(横浜市歴史博物館蔵に類似の着彩画あり)。「アメリカ人栗(久里)浜上陸行軍ノ図(惣人数五百余人)」の図中、ニ角帽子をかぶって、下に「惣大将」と記されているのがべリー提督で、同行の童子が、書翰を入れた包を持ています。ます。巻末には、「久里浜陣押、荒増之図(惣人数一千百有余人)」が記されていて上陸時の日本側の態勢も記録されています。」武器、サーベルを持って、それぞれ異なる帽子を被っている。軍隊が更新行進する時に使用する楽器。外輪蒸気船「サスケハナ号」図。アメリカ人栗浜上陸行軍ノ図 総人数五百四人。総大将の横に国書を持った子供の姿も。日本の「久里濱陣営之図 惣人数一千百有余人」。「久里浜陣営之図」の「奉行本部」。川越藩と忍藩の武将たちがこの場所を担当していたと。「泰平(太平)の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰) たった四杯で夜も寝られず」浦賀沖のペリー艦隊の図。46.歌川貞秀 東海道勝景従日本橋至荒井 東海道勝景従白須賀京都迄一覧 文久3年(1863)「東海道の日本橋から荒井宿 (新居とも。静岡県湖西市)までの俯瞰図(大判錦絵3枚続き)と、白須賀宿(湖西市)から京都までの俯瞰図(同前)をつなげた絵図です。道を湾曲させることで東海道各地の宿場等の名所を織り込みながら6枚のの画面に収めてしまう技法は、のちの吉田初三郎の鳥瞰図につながるものと言えましよう。」【https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Bunkyu3Harunomiyakoji/01.html】より東海道勝景従日本橋至荒井一覧。中央右端の江の島の姿が。東海道勝景従白須賀京都迄一覧。47.歌川芳員 横浜明細全図 慶応4年(1868) 「日米修好通商条約の締結により、安政5 (1858)年に開港した横浜の様子を描いた絵図です。港には欧米各国の帆船が描かれ、中央下部の「御台場」の向かいの「ハトバ」は、現在の通称「象の鼻」です。その上側、アメリカ合衆国の国旗が描かれているのが「亜役館」(アメリカ合衆国の公使館)、その右手「番所」脇には、「仏役館」「デニマルカ(デンマーク)役館」「プロシェン(プロシア)役館」も見えます。また現在の外人基地のあたりには、「英軍衛」「仏軍衛」などの兵営も見えます。現在の県庁部分に見える「御裁判所」の文字は、刷られたものではなく朱印で、慶応4 ( 1868 )年刊行時に加えられたと考えられます。」地図の右側。地図の左側。48.歌川芳盛 東海道之内 岡部 文化3年(1863)「岡部宿から丸子宿へ向かう途中には、宇津の山(宇津之谷峠)とよばれる峠道を越えます。本作では宇津の山で将軍が鷹狩をする様子が描かれています。多くの家臣たちに囲まれ、椅子に座り扇を持った人物が将軍でしよう。そばに控える多くの家臣の表情が細やかに描かれているのも印象的です。」49.歌川芳虎 東海道 藤枝 文化3年(1863)「藤枝宿を江戸に向かって進む家茂の行列を旅籠の中から見た構図となっています。行列の手前で土下座をしている旅籠の男性たちに対して、女中たちは興味深々といった様子で顔をあげています。旅籠の店先にはいくつもの木札が下げられているのが見えます。これらは講札といい、参詣の旅をする講の一行が、あらかじめ決められた茶屋や旅籠を見つける目印として掲げられたものです。まるで現代のツアー予約のようなイメージです。画面右手前の講札には「絵草紙講中」など洒落のきいた制作の講が書かれたものもあります。行列の向こうに見える旅籠の看板には、この版の版元を表す遠川屋の文字が記されています。」50.歌川芳盛 東海道 金谷 文久3年(1863)「将軍を駕籠に載せたまま大きな輦台で大井川の渡しを渡っています。従者はその身分に応じてか、平輦台や肩車で渡っている様子が見られます。行列の先頭は、向こう岸の山間に見える金谷宿の前を通り、すでに峠の向こう側を下っているようです。」51.歌川国貞(三代豊国) 東海道 日坂 文久3年(1863)「日坂宿は、急勾配の坂が続く難所として知られる小夜の中山峠の西側に位置します。画面奥には、小夜の中山峠が描かれています。画面手前には、日坂宿名物の「あめの餅」の看板を掲げた茶屋に立ち寄り駕籠を降りた将軍と、出迎える茶屋の女性たちが描かれています。」52.歌川国貞(三代豊国) 東海道 掛川 文久3年(1863)「宿場を通過する行列を、画面手前の若い男女が振り返って見ている様子が描かれています。色味を抑えた山々などの背景とは対照的に、色彩豊かな男女の装いが映える一枚です。」53.歌川国綱 東海道 白須賀 文久3年(1863)「海岸に沿って東海道を進む行列が描かれています。行列の進む道は遠州灘を一望できる名勝地の潮見坂と思われます。潮見坂は京都から江戸に進む際に初めて富士山を見ることのできる場所として知られ、絵にも「富士見松」と名のついた松が見られます。」54.歌川芳虎 東海道 藤川 文久3年(1863)「藤川宿を通過する行列を鳥瞰的に描いています。店先に「泊」や「休」の文字が見えることから旅籠であることがわかります。それぞれの店から人々が土下座をし、恭しく行列を出迎えている様子です。」展示コーナー。55.歌川芳虎 東海道 宮 文久3年(1863)「熱田湊の船渡場が描かれています。画面右手前には熱田神宮の浜の鳥居、後景には伊勢湾が広がっています。宮は熱田神宮の門前町として栄え、海上七里の渡しの渡しロでもあり、様々な物資が集まる要所でした。島居越しに見える赤い豪華な船は御座船といわれる貴人を乗せる船のことです。将軍はこの船に乗って渡ってきたのでしよう。」56.二代歌川広重 東海道 石薬師 文久3年(1863)「石薬師といえば「義経桜」がよく知られています。馬にまたがる若武者も、右手前の桜に目を向けているようにも見えます。」57.歌川国綱 東海道 庄野 文久3年(1863)「街道を粛々と歩を進める行列の様子が描かれています。画面からはみ出すように大きく描かれた松の木を手前に配すことで、この2本の松の間からみえる後景に奥行きを感じさせる構図となっています。行列の人々も、持ち道具の種類によって、それぞれ着物の絵柄に違いがみられており、細やかな意匠が見受けられます。」58.二代歌川国貞 東海道 亀山 文久3年(1863)「坂道を行列が続いています。画う右に見える石垣上にそびえ立つのは亀山城です。この城は当時、歌舞伎や合巻などを通して広くられており、亀山の仇討ち物碆の舞台として人気を博していました。」59.歌川芳年 東海道 石部 文久3年(1863)「行列が石部宿の本陣に到着した様子です。たき火の煙が画面を縦に覆う構図で、煙の色にも濃淡がほどこされ、構図の工夫が感じられます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.12
コメント(0)
「御上洛東海道」の展示の途中にあったのが藤沢宿コーナー「藤沢宿と江の島の美人画」。「藤沢宿」「藤沢宿は東海道の日本橋から数えて六番目の宿場です。江戸幕府の道中奉行所の記録では藤沢宿の名物を「大山詣で、江の島弁財天詣で」と記しています。」「江戸時代の藤沢宿の特色の一つは多くの道が集まる場所であったことです。メインの東海道を西へ、四ッ谷から北東に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江の島道(江島神社・江の島弁財天へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあリ、観光、流通の中心地となリました。主な名所に、時宗総本山清浄光寺(通称は遊行寺)、江の島(江島神社)一ノ鳥居(江の島は、宿場から一里ほど南)、四ッ谷の立場(宿と宿の間の休憩地)、南湖(茅ヶ崎市)の左富士などがあリました。」「江の島詣や大山詣りの追分として栄えた藤沢宿や、風光明媚と讃えられた江の島の風景は、浮世絵の格好の画題として採用され、それら人気の風景を背景にした美人画は、江戸の人々に好まれました。本コーナーでは、藤沢宿・江の島の風景を背景にした艷やかな美人画の数々を紹介いたします。絵師たちによる表現の違いもお楽しみください。」展示コーナー。20.ニ代目歌川豊国 和国名所江ノ島 全勢揃 鶴屋内かくし 文政11年(1828)「本作は画面上部に青の濃淡で絵柄を表現する「藍摺」で江の島と富士の風景が配されており、下部には当時評判の遊女が手紙を書く様子が描かれています。鶴屋というのは吉原にあった遊女屋の名前で、「かしく」が遊女の源氏名です。」21.歌川芳晴 藤沢 天保14年~弘化4年(1843~47)「旅支度をする女性が描かれ、こま絵には遊行寺と大鋸橋(現・遊行寺橋)が見られます。女性の腰ひもを結ぶ仕草や風景の絵から、国貞の描いた「美人東海道」の藤沢の図を元にした作品であることがわかります。落款に見られる「芳晴」は歌川芳春の早い時期の表記です。芳春は歌川国芳の弟子として、幕末から明治にかけて活動しました。」 22.歌川国貞(三代豊国) 二代歌川広重 諸国名所七里ヶ浜 文久2年(1862)「手前の女性は国貞(三代豊国)、背景はニ代広重によって描かれた双筆の作品です。江の島への道中、七里ガ浜から海を眺めながら、煙草を一服する女性が描かれています。女性の装いをみると、手ぬぐいを陂り、大きめの浴衣を羽織っています。こちらは浜辺での砂や埃をよけるためのもので、江の島へ向かう女性の江戸時代における定畚ファッションでした。本作は「団扇絵」と呼ばれるもので、江戸時代の人々はこのような団扇絵を買い、その年に流行に合わせて団扇の紙を張り替えて使用していました。団扇絵は実用品であるため、現存の少ない希少な作品とされています。」23.歌川広重 東海道五十三図会 七 藤沢(美人東海道) 弘化4年~嘉永5年(1847~52)「広重の美人東海道と呼ばれるシリーズの内、藤沢宿を描いた作品です。画面上部の枠には、大山の眺めと藤沢の宿場風景が一つの画面に描きこまれています。女性は手に江の島名物である貝柄杓(貝殻の器のっいた杓)と干し雲丹を持ち、駕籠の上に乗っている品物は、鮑の漬けと貝屏風です。おみやげをたくさん買って、江の島から帰る様子とみられます。」24.歌川芳虎 書画五拾三駅 相模藤沢 山帰定憩 明治5年(1872)「この作品は、画面上部に文人墨客の文章と絵、下部には各宿駅ゆかりの故事や伝承、風景が描かれているシリーズ作品です。藤沢の図には、上部に其角堂(俳人・穂積永機[1823 ~ 1904] )の俳句、下部には茶屋でお茶を差し出す女性の姿が描かれています。表題の「山帰」の山とは大山(雨降山)のことで、女性のうしろにある縁台には、大山詣をあらわす御神酒枠(大山から水や酒を持ち帰る容器)が置かれています。また、右端に描かれている柱は当時設置されたばかりの電信柱で、明治の街道を象徴しています。」25.豊川国周 善悪三拾六美人 照姫 明治9年(1876)「照姫相州金沢瀬戸浦なる照姫松の由来を聴に小栗孫五郎満重は持氏公の怒に触れ主従わづか十一人流浪なして藤沢在の横山先生安春の邸に一服なす折から主人安春毒酒を以て小栗主従を害せんとす照姫察し満重に告其身も逃れ野島が崎に隠れ居しが宿の老女の嫉妬のために松葉に熏され危難に逢しが六消千光寺観せ音の利益によって、助りしとぞ。藤沢山の縁起を略して 深川山人誌」26.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 黃 嘉永4年(1851)「五行説において重要な色とされていた「青」「赤」「黄」「白」「黒」の5色にそれぞれ美人が当てはめて描かれています。また、この美人たちは、歌舞伎の登場人物に擬えて描かれており、各色は、その役が決まって着る衣装の色と対応しています。黄:お駒(『恋娘昔八丈』より)黄色地に縞模様の、"黄八丈"の着物を着た、材木問屋の娘である「お駒」が描かれています。お家騒動に巻き込まれるお駒と髪結いの才三郎の情話『恋娘昔八丈』は、安永4年に浄瑠璃、翌年には歌舞伎の世話物狂言として上演され、人気を博しました。黄八丈は、歌舞伎の初演で三代目瀬川菊之丞がお熊役として着ていたことをきかけに、江戸で大流行しまた。八丈島の特産品てもあり、将軍家の御用品としても献上されています。」27.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 黒 嘉永4年(1851)「黒:小梅(『隅田春妓女容性』より)か本作に描かれた美人は、侠客「梅の由兵衛」の妻「小梅」とされています。歯には既婚女性の証である”お歯黒”が見られ、褄の部分には梅の紋様が配されています。また着物は鳥の柄となており、黒の色と対応しています。褄を取りながら船の乗り場に立っていることから、降りた船を見送っているところでしようか。」28.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 青 嘉永4年(1851)「青:照手姫(小栗判官ものの物語より)小栗判官は藤沢の遊行寺とゆかりのある人物で、照手姫は小栗判官の恋人です。」29.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 赤 嘉永4年(1851)「赤:八重垣姫(『本朝廿四孝』より華やかな赤い振袖を着た「八重垣姫」が描かれています。八重垣姫は上杉謙信のひとり娘、また武田信玄の息子「勝頼」の許婚でもある設定です。なお『本朝廿四孝』などの時代物の歌舞伎に登場するお姫様を”赤姫”と呼び、赤い着物が定番となっています。手に持つのは武田家の宝の一つ「諏訪法性の御兜」です。兜の白い毛部分や着物の裾には空摺りが施されています。空摺りとは版木に絵の具をつけず、刷り圧だけで紙面に模様をつける技法のことです。」30.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 白 嘉永4年(1851)「白:役名未詳白地に絣の着物を着た美人が描かれています。役名は未詳ですが、髮型から芸者であると考えられ、屋根舟の後方に立ち、扇子を口にくわえながら帯を直すという仕草で描かれています。空には満月がさえざえと輝き、その下に見える橋は、竹材問屋が見えることから江戸の京橋と思われます。」「藤沢ー江ノ島」歌川広重「江の嶋弁才天開帳詣」「藤沢ー江の島」歌川広重『六十余州名所図会』「相模 江之嶋 岩屋ノ口」そして次の江の島コーナー「明治の江の島を描いた浮世絵と石版画」へ。「江の島富土山を別格とすれば、浮世絵に描かれた風景の中でその数では江の島は、かなりの上位に入ると言えましようそれほどに、江戸時代の江の島詣では一大ブームでした。」江の島は湘南海岸と砂州でつながった島です。波の浸食でできた「岩屋」の存在は、古くは宗教的な修業の場として多くの修行者の来訪を伝えていますが、鎌倉時代に源頼朝の祈願により文覚が弁財天を勧請したという由来から、弁財天の島として信仰を集め、また風光明媚な行楽の地としても人気を得るようになリました。浮世絵では、初期には富士山や朝日などとセットで中国の神仙思想にある蓬莱山に擬して描かれたものが多く、江の島詣でが盛んになるにつれ、参集する人々を描いたものが多くなっています。」「明治の江の島を描いた浮世絵と石版画本コーナーでは、浮世絵(木版多色摺り)と石版画で描かれた近代の江の島の風景を紹介いたします。江戸時代から人気の名所でもあった江の島の描かれ方の変化を、技法の違いだけでなく、風景や風俗のとらえ方の違いもご覧ください。」歌川広重初代 相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図 弘化4年~嘉永5年(1847~52)31.楊州周延 波枕江の島新語 明治13年(1880)「自序仲街を籠で通るや汐干貝とは。七世三升が吟にして能く深川の情を穿ち。八幡鐘のきぬぎぬに櫓下の迎ひ舟。なみの随意現なく、ゆふべの夢を波枕。その江の島に思ひ寄たる。歌舞伎の種を抄録もの。鳥居が画風の絵島。その顛末を七里が浜の。いとながながと記載せしを。丸鉄が梓にちりばめて発兌さんと乞ふに任せ。近頃流行三編読切。海鬼灯を鳴したまふ婦幼衆のお伽草。あたる満汐打かへす。浜の真砂の汐干貝。必らず拾ひ給はれと願ふものは竹芝の漁夫 久保田彦作記」歌舞伎の作者であった久保田彦作( 1846 ~ 1898 )が著した明治の絵草紙。画の周延は幕末から明治初期にかけて役者絵の第一人者で、さながら歌舞伎を見ているような作品です。こうした絵草紙類にも、名所江の島はたびたび取り上げられました。「「つづき」へも是より厳しき法 令いでいよいよ世の中静謐に及び男 女が風俗 ▲▲善かたに 改まりし と言つたふ めでたし めでたし めでたし」32.三代歌川広重 立斎漫画 明治12年(1879)「画面左上から、水鳥、歌舞伎の登場人物(『積恋雪関扉」の関兵衛)、翁面、江の島、ガス灯の点灯が張交絵で描かれています。画面右はガス灯の点灯の様子です。点灯方という専門の職業の人が、夕方になるとガス灯に火を灯し、朝になると消すために街中を走り回っていました。」33.楊斎延一 江の島美人の賑ひ 明治28年(1895)「江の島へ続く砂洲の道である洲鼻の入り口にて、貝拾いなどをして遊ぶ女性達が描かれています。楊斎延ー( 1872ー1944 )は楊洲周延の弟子で、美人画を得意としました。他にも役者絵や、文明開化頃の東京名所などを描きました。」34.小林清親 日本名所図会 江の島 明治29年(1896)35.楊州周延 名勝美人会相州七里ヶ浜 明治27年(1894)「明治期を代表する美人画絵師である楊洲周廷による本作には、三人の女性と、七里ガ浜から見た江の島の風景が描かれています。手前の姉さん被りをした女性は、一見すると若い娘のようですが、ニ人の少女を手招きしている様子から母親を若い女性の風俗で描いたものと考えられます。青色を基調にした背景や着物の淡い色により、近代の新しい美人画を象徴する柔らかな色彩の作品となっています。」ニ人の少女を手招きしている母親。ニ人の少女が母の下へ。36.鈴木年基 相州江之嶋 明治期「西洋絵画や写真の流入と共に写実的な風景が描かれるようになった一方て、浮世絵の画風を引き継いた絵師もいました。本作では高さは強調されていないものの、島の形などは写実とは言い難く、手前に見切れた樹木を配し遠近感を出すことも、浮世絵に見られる手法です。作者の鈴木年基(生没年不詳)は、幕末から明治にかけて活した浮世絵師である芳年の門弟で、大阪で活躍した絵師です。」37.尾形月耕 月耕随筆 江の嶌参り 明治29年(1896)「江の島への道中において、七里ヴ浜の浜辺で一休みする女性たちが描かれており、右奥には小動岬も見られます。本作を描いた尾形月耕( 1859-1920 )は浮世絵作品も手掛けましたが、特定の浮世絵の一門に属していたわけではなく独学で浮せ絵や菊池容斎の画風を学びました。画業の早い時期においては蒔絵や輸出用の七宝の下絵を描くほか、新聞・雑誌の挿絵に腕をふるい、後年には日本画家として万国博覧会等に作品を出品するなどして情力的に活動しました。」38.矢島知三郎 辨天娘 明治25年(1892)39.太田節次 江の島真景 明治26年。「デッサンスケールの上に江の島景が描かれています。明治になり西洋文化を取り入れる中、奥行きを正確に遠近法や一点透視図法、更には黄金分割などの絵画技法を日本でも取り入れるようになったことを物語っています。また明治22年( 1889)には東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校し、西洋絵画の研究が急速に進められました。」40.美術着色会社 相州江之嶋真景 明治22年「明治になると、江の島は実景に則して描かれるようになり、富士山よりも高さを誇張して描かれる傾向が弱まったことが感じられます。手前の女性は着物姿ですが洋傘を持っており、また奥の男性は洋服を着ていることから、風俗の推移も感じさせる作品となっています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.11
コメント(0)
6月24日(水)に「藤沢市藤澤浮世絵館」を久しぶりに車で訪ねました。「藤沢市藤澤浮世絵館」はJR辻堂駅から徒歩で10分弱の「ココテラス湘南」のビル内にあります。「Cocco(ココ)」は、イタリア語で「かわいい子、秘蔵っ子」などを意味するのだと。「ココテラス」は、日本語で「此処を照らす」明るい子どもたちの未来の言葉にかけられていると。住所:藤沢市辻堂神台二丁目2番2号。ビル入口にあった「案内板」。「藤沢市藤澤浮世絵館」は「ココテラス湘南」ビルの7Fにあるのです。新型コロナの影響でしばらく閉館していましたが、6月16日(火)から事前予約制で体調に問題ない方のみが、事前に体温の申告、マスク着用で入館できたのです。この日の目的は6月16日(火)から開催されている「御上洛東海道と幕末の浮世絵」(前期)展示の鑑賞のため。「藤沢市藤澤浮世絵館」にてこの展示の動画「藤澤浮世絵館 解説ムービー 御上洛東海道と幕末の浮世絵」のそれぞれ(1)👈動画リンク、(2)👈動画リンク、(3)👈動画リンクがネットに掲載れていましたので👈動画リンクにて紹介させていただきます。私も2年以上に渡る「旧東海道を歩く」👈リンクで江戸・日本橋~京都・三条大橋までを延べ32日間でこの3月末に完歩していたので、その「復習」も兼ねての訪館となったのです。東海道を京都へと向かう徳川将軍(御上洛)の姿を描いた、通称「御上洛東海道(ごじょうらくとうかいどう)」と呼ばれるシリーズを展示しているのです。「御上洛東海道」は文久3年(1863年)に多数の版元と絵師が参加して刊行され、江戸時代の浮世絵の掉尾(ちょうび)を飾るといわれるほどの技術と、シリーズの全作品数が160点を超える揃いものとして知られているのです。本展では、所蔵の74点を前期・後期に分けて展示。また、幕末期の浮世絵も紹介すると。7Fエレベーターホールの壁に掲げられた「浮世絵とは」のパネル。「浮世絵とは、江戸時代に発達した版画絵のことです。現実の世相や風俗といった「浮世」を損いた絵画で、その名はに17世紀中頃には見られるようになります。」そして浮世絵は「歌川広重 東海道五拾三次之内 藤澤」。この鳥居は江の島弁財天のもので四人の座頭たちが通り抜けようとしている。大鋸橋の向こうに開けるのが藤沢宿。さらにその向こうの山の上に見えるのが遊行寺で、藤澤は遊行寺の門前町として開けた宿場であったのです。そして、受付で予約そして健康を確認していただき展示場内へ。「ごあいさつ藤沢市は、市民の郷土、の愛新を育み、市民の文化の向上に寄与することを目的として、東海道藤沢宿や江の島の浮世絵をはじめとした郷土資料の鑑寳ができる施設「藤沢市藤澤浮世絵館」を聞館いたしました.藤沢市の浮世絵等資料コレクションは、1980年(昭和55年)に、市制40周年を記念して、日本大字元総長の呉文炳氏から譲り受けた江の島浮世絵等が中心となり、以来、郷土資料の一環として、藤沢宿、江の島を題材とした浮世絵や、関連資料を収集してきたものです。浮世絵は、人々のくらしや世相を描く絵画作品であり、江戸時代の庶民文化として発展しました。さらに、19世紀末には、ゴッホなどに代表されるヨーロッパの画家たちに大きな影響を与え、世界中から注目される美術品でもあります。藤沢の地は、江戸時代には東海道藤沢宿がおかれ、また時宗総本山清浄光寺(遊行寺)が立地し、信仰・行楽の地であった江の島や大山(雨降山)への参拝道の入口として、名所や伝説に根ざした多くの浮世絵が描かれたところです。藤澤浮世絵館は、今後も皆さまに地域の文化を伝え親しんでいただき、楽しくご利用いただける施設となりますよう取り組んでまいります。皆さまのご来訪を心からお待ち申し上げます。」「東海道五十三次」東海道五十三次とは江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道に置かれたの宿場のことです。日本橋を起点に三条大橋(京都)まで、約500kmの道のりです。「御上洛東海道文ス3年( 1863 )、1 4代将車徳川家茂は、公武合体のもとでの攘夷の決行を迫る孝明天皇に、開国を言上するために上洛しました。この上洛は、3代将軍家光の上洛から約230年ぶりの出来事でした。このような歴史上の重要な出来事も、浮世絵に描かれると、東海道をめぐる名所絵として楽しむことができます。このシリーズ作品は通称「御上洛東海道」と呼ばれており、25軒の版元による共同企画のもと16名の絵師が参加して刊行され、その作品数は162枚にのぼる超大作で、幕末の東海道作品として大ヒットしました。1.歌川国貞(三代豊国) 東海道 日本橋 文久3年(1863)「画面中央に大さく描かれた日本橋の向こう側に、毛槍が見えていることから、行列が近づいている場面であることが分かります。足早に通り過ぎようとする棒手振りや、足をとめて見ている者など、橋の手前にいる人々のざわめきも伝わってくるような臨場感のある作品です。画面上部には赤いぽかしが施され、上空には鶴い舞い、将軍の旅の始まりを寿ぐかのような、おめでたい構図となっています。」2.歌川国貞(三代豊国) 東海道 品川 文久3年(1863)「江戸時代から花見の名所として知られる御殿山の場面を描いています。画面手前の桜の下にみえる男性は、まさに花より団子と言わんばかりに、両手に団子を持って楽しんている様子です。」3.歌川芳虎 東海道 神奈川 文久3年(1683)「神奈川宿の台の茶屋を通る行列が描かれています。後景に見える丘のような台地は野毛の切通しで、その奥には開港されたばかりの横浜の開港場が描かれており、湾には洋船が停泊しています。」4.歌川芳艶 東海道 程ヶ谷 文久3年(1683)「行列が本陣を山発したところてしようか。画面奥に進む行列の中ほどで、馬に乗った後ろ姿の人物が将軍です。その行列を遮るように、たき火から立ちのぼる煙が画面全体に広がっています。画面上部に連なっているのは、保土ヶ谷宿の旅籠です。旅籠の人々が一人ずっ控える様子が細やかに描かれています。たき火の色が黒くなっていますが、これは丹焼けといって、丹(あざやかなオレンジ色の絵の具)が酸化したもので、本来は鮮やかな朱色で摺られていました。」5.河鍋暁斎 東海道名所之内 権太坂 文久3年(1683)「権太坂は、東海道て江戸を発ってから最初に出会う上り坂の難所として知られています。後景には権太坂を上る旅人の姿が博暗く描かれている一方、画面手前の茶屋の風景は色鮮やかに描かれているのが対照的です。」 6.歌川貞秀 東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 文久3年(1683)「藤沢の場面では、遊行寺の前を通る行列が描かれています。題字の右には「鎌倉道」、左には「江戸の方」とあり、遊行寺の林には「小栗堂」「小栗十騎の基(小栗の家臣の墓)」、右下の江の島一の島居付近には「江の嶋みち」といった表記が見られ、周辺の名所がクローズアップされています。現在でも、長生院の境内には「小果堂」と記された石の標柱があり、往時の賑わいが偲ばれます。」前半の「御上洛東海道」展示コーナーは右側の壁。7.歌川芳形 東海道 藤沢 文久3年(1683)「馬方が飾りを付けた馬の足の具合を見ているところでしよう。行列はすてに宿場を抜けようとしていて、馬がそちらを見据え-ている様子が印象的です。背後にある緑の三角は大山です。」8.河鍋暁斎 東海道名所之内 南湖 文久3年(1683) 「南湖は現在の茅ヶ崎市南部の海岸に接した地域名ですが、この地域の北端は東海道を含んでおり、ここに立場(宿と宿の間の休憩所)がありました。松並木と「左富士」が東海道の名所の一つとなっています。」9.二代歌川広重 東海道 平塚 文久3年(1683)「行列が相模川の下流域である馬入の渡しを通過しています。画面手前の馬にまたがる若武者は将軍を彷彿とさせますが、画面中央ではためく吹流しには、源頼朝を表す笹竜胆が描かれています。実際の上洛の際も、馬入の渡しに橋は架けられていませんでしたが、この図は鎌倉時代に相模川に架けられた橋の落成式に頼朝が参列したという地域の伝承にちなんで描かれたものと思われます。」 10.歌川国貞(三代豊国) 東海道之内 大磯 文久3年(1683)「東海道の名所を背景に、画面手前に美人が配されるという国貞ならではの構図です。手前の女性は、大磯にゆかりのある虎御前です。浜千鳥柄の着物は、恋人の曽我十郎の着物と同じ柄であることから、ニ人の関係を暗示しています。」11.歌川国綱 東海道 小田原 文久3年(1683)「室町時代から小田原で外郎薬の販売を続けている外郎屋の屋の前を行列が通っています。外郎薬は万能薬として広く親しまれ、小田原の名物として知られていました。屋の入口に見える虎の置物は、小田原の城主であった北条家の当主が代々用いていた虎朱印にちなんで描かれたもの、あるいは、歌舞伎の演目『外郎売』の台調にある「欄干橋の虎屋の藤右衛門・・・」の一節にちなんだものではないでしようか。」12.歌川芳盛 東海道 箱根 文久3年(1683)「箱根関所を通過する行列が描かれています。関所の役人たちが大番所の縁側から降りて土下座をしています。実際の箱根関所は小田原藩の管轄にありましたが、画中の大番所に貼られている幕には、小田原藩主の家紋ではなく、笹竜胆が描かれていることから、この画でも将軍を源頼朝に仮託して描いていることが分かります。」13.歌川国貞(三代豊国) 東海道 三嶋 文久3年(1683)「三島宿は、三島大社の門前町てあるとともに女郎衆とよばれる飯盛女を多く抱えて賑わう宿場でした。画の手前には、身支度を整える飯盛女たちの様子が描かれ、後景には三島大社の鳥居の前を通る行列が描かれています。」14.歌川国貞(三代豊国) 東海道 原 文久3年(1683)「茶屋で休想する旅人とお茶を差し山す女性の奥に行列が見えます。さらにその後景には富士山が大きく描かれています。富士山の名所として知られる一本松の立場(宿場と宿場の間の休憩所)の場面と思われます。この辺りから見る富士山が、東海道中て一番大きく見えると評判でした。」15.二代歌川広重 東海道 蒲原 文久3年(1683)「行列が舟に小分けに乗り込み、富士川の渡しを渡っています。従者の持ち物が大きく描かれている点が特徴です。画面手前にみえる舟に張られた幔幕には笹竜胆が描かれており、こちらも将軍を源頼朝に仮託して描かれていることがわかります。画面手前側にあたる富士川の西側に、次の宿場の蒲原宿がありました。」16.二代歌川広重 東海道 由井 文久3年(1683)「行列が薩埵峠を通っています。この薩埵峠から見る富士山は絶景として知られており、画面中央に突き出した崖の奥に富士山の姿が見えます。」17.歌川国綱 東海道 江尻 文久3年(1683)「行列が本陣に到着した様子を描いているものと思われます。出迎える人、荷を降ろす人、宿場に繰り出す人など、様々な様子が見てとれ、宿場の賑わいが伝わる構図となっています。将軍の姿はすでに見えませんが、本陣の幔幕には他の図と同様に笹竜胆が描かれています。」18.歌川芳盛 東海道 府中 文久3年(1683)「府中宿を行列が通ります。中景にみえる黒い門は、府中宿にあったニ丁町の遊郭です。ちょうど門の手前に見える白馬に赤い傘をさしている人物が将軍に見立てられています。ぼかしの奥の後景には、駿府城と富士山が大きく配されています。」19.二代歌川広重 東海道 鞠子 文久3年(1683)「鞠子宿(現在は丸子)といえば、とろろ汁が有名です。画中ても、街道の両脇に「とろろ汁」の看板を掲げた店がいくつも連なっています。鞠子宿は東海道で最も小さな宿駅でしたが、宇津之谷峠を控えた休憩地として賑わっていました。画面手前右の茶屋の店先にいる女性たちは、ちょうど行列に気づいたところのようです。茶屋の屋根の奥から、大名行列の先頭をゆく毛槍が顔を出しています。」前半の「御上洛東海道」展示コーナーを振り返る。 ・・・つづく・・・
2020.07.10
コメント(3)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして『三条大橋』東詰が前方に。『三条大橋』に遂に到着したのであった。やったぁ!!2020年3月23日、12:58:34 『東海道53次 旧東海道を歩く』 完歩。『日本橋』をスタートし、延べ32日目での『三条大橋』到着。延べ492kmを『完歩』したのであった。東詰南前方には『花回廊」と刻された平成11年(1999)6月建立の石碑が中央に。丁度この前が、京阪電車の三条駅、地階からの南西側出入口になっていた。「「花の回廊」整備について平安建都1200年を契機に「京の川づくり」が着手され、その一環として鴨川東岸の三条~七条の間に、「花の回廊」を京都市とともに整備しました。「花の回廊」は、鴨川の川面を眺めながら四季折々の花や木を楽しめる、水と緑の散策路となっています。また、散策路には、京都を代表する鴨川が、私達の共有財産として後世の人々にも広く親しまれるよう、公募した俳句・短歌の碑も設置しました。山紫水明の歴史都市・京都の象徴として、いつまでも美しく愛される鴨川であることを、皆様とともに祈念します。」「花の回廊」とは、鴨川左岸約2kmに渡って桜の木を植樹し花見の名所を作ったのだ。その際三条大橋袂に記念碑が建てられたのだと。場所は、鴨川沿いの三条通~七条通が「花の回廊」と呼ばれる地域。桜の咲く時期には、多くの花見客で賑わうのだが、今年はダメ。『歌碑』(右) 我が心 きよめ流るる 鴨川は 優しき母の まなざしに似て 堀井由紀子『句碑』(左) かもがわに どこからきたの ゆりかもめ 東詰から『鴨川』の下流を見る。『鴨川』はこの後に『桂川』と合流し、最後は『淀川』に合流するのだ。歩いて来た東海道五十三次の地図を描いた手拭い(袋井宿で購入)を持っての『三条大橋』・東詰から記念撮影。旅友と二人で。『広重作・東海道五拾三次大尾 京師 三条大橋』、「江戸より124里半(約492km)、この加茂川に架かる三条大橋を渡れば京都である。三条大橋は長さ57間2寸、巾4尺1寸で、一部は石製の基礎杭を初めて使った橋であるという。橋の上には雅やかな姿も見られ、そこを渡る人々の取り合わせもおもしろい。遠景には東山36峰と比叡山が描かれている。当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程であったという。」しかし、遠景の山の位置がおかしい。広重はここ『三条大橋』は訪ねていないので想像で描いた絵であるとの説が有力であるようだ。「大尾」とは「最後、終局、終わり」の意。『三条大橋』の南側高欄の東端の宝珠柱には漢文の文字が。ネットで調べてみるとこの刻銘の内容は『都名所図会』から原文のまま引用されているのだと。「洛陽三条之橋、至後代化度往還人、盤石之礎入地五尋、切石之柱六十三本、蓋於日域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初之御代、奉増田右衛門尉長盛造之」洛陽三条の橋は後代に至るも往還人を化度し、盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十五本なり。蓋(けだ)し日域に於いては石柱の濫觴なり。天正十八年正月日、豊臣初之御代に増田右衛門尉長盛奉じて之を造る。(京都・三条のこの橋は後の時代までも往来する人の助けとなる。非常に安定し揺るぎない基礎は地中5尋(ひろ)の深さがあり、石材の柱を65本使っている。おそらくは日本において、橋に石柱を使う第一号である。天正18年正月、豊臣初代(=秀吉)の時に、増田長盛が奉行となりこれを建造した。)の意であると。『三条大橋』を渡り、西詰に向かう。現在の『三条大橋』は、長さ74m、幅15.5m。「擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた三条大橋由緒がこちらは日本語で『三条大橋』は、明治45年三条通拡張のとき幅員を倍加して14.5mに、橋長は101mに、橋脚はコンクリート造としたが、橋面は従来の風格をもつ木造橋であった。たまたま昭和10年6月の洪水にあい、橋の一部と擬宝珠一個を流失、この水害に鑑み鴨川を改修し、川底を深くしたので、天正以来の改修で、礎石は取り除かれた。重ねて今回この橋の改築に際し、橋を鴨川と疎水の二>部に分け、橋長は鴨川部74.03m、疎水部16.97m、幅員はいづれも15.5mとし、橋面構境コンクリート床版として架け替え、この擬宝珠も新に追補した。」『三条大橋』の中央附近の擬宝珠で再び記念撮影。そして西詰にあった『弥次喜多像』と案内板。『弥次喜多像』。以前は下記の如きパネルもあったようだが、今回は?撮り忘れであろうか?「弥次喜多像この像は。江戸時代後期に十返舎一九が書いた滑稽本「東海道中膝栗毛」の主人公である弥次郎兵衛と喜多八をモデルにしたものです。「東海適中膝栗毛」とは二人が伊勢詣でを思い立ら、数々の失敗や滑稽を繰り返しながら、東海道を江戸から京、大阪に旅する様子を描いた滑稽紀行文です。物語では、大阪に行く前に三条大橋に近い宿屋に泊まって、ハシゴを買わされる話になっています。このブロンズ像は、三条小橋商商店街が、二科会の会員で彫刻家の小山由寿氏に制作を依頼し平成六年に建立し、西院春日神社内にある旅行安全・還来成就の神である還来(もどろき)神社に御祈祷をして頂きました。「撫で石「無事に還り来る」の信仰で有名な還来神社にならい、旅の安全を祈願Lて「撫で石」を設置しました。昨今、旅行中に何が起こるか分かりません。旅行に来ておられる方、また、これから旅行に行く方、どうぞこの撫で石を撫でて旅の安全を研願し、楽しい旅にましょう。また、この石は牛若丸(源義経)で有名な鞍馬から産出した鞍馬石で、酸化鉄の含有により玉葱状剥離が現れ、鉄錆色が全面を覆っているのが将漱です。」 【https://okamotoorimono.com/jizo/sanjoohashijizo/】より『撫で石』。「三条大橋商店街町定わたしたちは、京の玄関口 としての歴史 と文化 の蓄積を大切に守りまちに住み、働き 、集ううすべての人がカをあわせ、訪れてよし、働いてよし、住んででよしの三条小橋 を目指して、ここに「三条小橋商店街町定 」を制定します。 一、東海道 の正面玄関 としての歴史性と、まちなか への導入部 としての界限性を大切にする 都心をつくります。 一、三条大橋 、 三条小橋 、ヒト・モノ・コトの出会いが生まれる都心をつくります。 一、人にやさしく、環境にやさしく、人とモノの息づかいが表出する都心をつくります。 一、安心と安全と心地よさと、歩く人の気持ちをわる都心をつくります。 一、美しいくらし・美しいなりわい・美しいまち、美しい京の洗練 を守り育みます。 一、清らかな水の流れに親しみ、四季の移ろいを感じることのできる心をつくります。 平成十七年二月 三条小橋商店街振興組合」「三条大橋 擬宝珠刃傷跡三条大橋西側から二っ目の南北擬宝珠に刀傷があります。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刃傷です。三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。」西詰の『地蔵堂』。『三条大橋』を西詰南から。西詰北には『天正一七年・・・』と刻まれた石柱が。「旧三条大橋の石柱高欄に付けられた擬宝珠には、三条大橋は、豊臣秀吉に名により増田長盛が奉行となって、天正一八年(一五九〇)正月に日本で初めての石柱橋として架けられたと書かれています。この石柱はその時の橋脚に使われたものと考えられ、『天正一七年津國御影七月吉日』と刻まれていることから、現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製であることがわかります。なお、現在の三条大橋の下流側の橋脚にも当時の石柱が使われています。」「高札場高札場とは幕府が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板に書き、人目を引くように高く掲げる場です。絵図は、文化二年に三条大橋西詰の御高札場(現近江屋ビル前広場)に掲げられていた高札です。当中島町には天保十二年にこの高札の文面の写しが残っています。それを見ますと、大半が正徳元年(一七一一)に定めた事が多く、親兄弟と仲良くし、家業に専念せよと書かれた「親兄弟の札」や、人足(荷役などの力仕事をする労働者)に担がす荷物の重さや料金が書かれた「駄賃の札」などがあります。他にはキリシタンの不審者を発見すれば銀五百枚の褒美が出るとした「切支丹 の札」、毒薬、偽薬の売買を禁じた「毒薬の礼」、放火を見つけたらすぐに届けよと書かれた「火を付る者の礼」もあります。文化二年の「唐物抜荷之儀の札」は、密輸品が見つかれば差し押さえ、役人が立会いの元、封印すると書かれています。」『三条大橋』の北側歩道を引き返す。 池田屋騒動の刀傷が残る擬宝珠三条大橋西側から二つ目の南北の擬宝珠 ( ぎぼし ) に刀傷があります。 これは、 池田屋事件の時についたのではないかといわれています。『鴨川』上流側を見る。中洲の緑の上には人々の姿がこの日には、まだ長閑な光景が。『三条大橋』の中央付近から『鴨川』上流を再び。再び『三条大橋』東詰南に戻る。「三条大橋この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。また、擬宝珠(ぎぼし)は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度(けど)とせしむるもの也、磐(ばん)石の礎は地に入ること五尋(ひろ)、切石柱は六十三本也(以下略……)」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは74メートル、幅15.5メートル。なお、橋の西詰め北側には、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。」『駅伝発祥の地』碑。「日本初の駅伝は,1917(大正6)年.京都三条大橋から東京上野不忍池までを23区間にわけて開催された。2017年(平成29)年4月29日はちょうど100年となる。今や国際的にも普及発展し「EKIDEN」という語が世界共通の競技として認められるようになった。駅伝発祥から100年を迎えたことを記念して.この地に記念碑を建立した。 2017(平成29)年4月29日 一般財団法人 京都陸上競技教会」『駅伝の碑』「駅伝の歴史はここに始まる我が国、最初の駅伝は、奠都50周年記念大博覧会『東海道駅伝徒歩競走』が大正6(1917)年4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。」同じ碑が上野公園の不忍池東岸にもあったことを想い出したのであった。駅伝の襷をデザインしているのであろう。<東海道駅伝徒歩競走≫日本で最初の駅伝「日本のマラソンの父」といわれる金栗四三が、長距離ランナの育成を目的に発案したといわれる。三条大橋から東京の上野不忍池まで、約508kmを、3日間昼夜を通して、23区間に分けて行われた区間三条大橋一草津一水ロー北土山一亀山一四日市一長島一名古屋一知立一藤川一豊橋一新居一見附一掛川一藤枝一静岡一興津一吉原一三島一箱根一国府津一藤沢一川崎一東京・上野不忍池『東海道駅伝徒歩競走』の全コースは下記であったと。柳の木の下に『京の川づくり』の銘板碑が立っていた。「千年の古都京の変遷を眺めつつ悠久に流れる鴨川を守り「美しい心と自然を後世に」伝えるのはわたしたちのつとめです」そして帰路に。「三条京阪」駅から地下鉄に乗り「山科」駅へ。そしてJR琵琶湖線に乗り換え瀬田駅へ。瀬田駅から徒歩にて、旅友の愛車の待つホテルへ向かう。途中、丸亀うどんの店で腹ごしらえ。そして愛車に乗り換え、ひたすらの帰路へ。時刻は14:55。国道1号線を利用して四日市方面へ。前方に近江富士を見る。鈴鹿トンネルを潜る。車窓からの夕焼けを楽しむ。時間は17:51。そして国道23号線からの四日市・東邦ガステクノ(株) 四日市のガスタンクに描かれた絵は万古焼の茶碗で伊勢茶を飲む小僧の姿が。そして「YOKKAICHI」の街並みも描かれて。そして前方にコスモ石油 四日市製油所の煙突が見えた。辺りも暗くなり、国道23号線・四日市市天カ須賀新町の手前の「冨洲原橋」を渡る。そして旅友の巧みな運転でひたすら東海道・国道1号線を走り、茅ヶ崎に無事到着。時間は0:45。そして午前01:15過ぎに無事自宅に到着し、今回の『旧東海道を歩く』の全行程を完了したのであった。振り返れば、2018.02.15に日本橋を出発し、品川宿まで歩いたが、その後半年以上のブランクがあったが、2018.10.26に品川宿からの『歩き』を再スタート、そして2019.01.04に箱根を下り三島宿まで辿り着き、その後は、夏場の6月~9月中までは、熱中症の危険もあり休みとしてその後9月中から本格的に再スタートし、今日のゴールに至ったのであった。『旧東海道を歩く』をスタートさせたきっかけは 2016.05.07に小田原・三枚橋から箱根の石畳を踏みしめ、箱根関所まで歩いた事。その後2017.10.13~2018.3.30まで車の移動ではあったが『四国八十八箇所お遍路の旅』に今回の旅友Sさんと挑戦し、これを結願したのであった。次に何に挑戦しようと考えた折に『旧東海道を歩く』を決断したのであった。目的は、旧東海道を歩くことによって、旧東海道沿いの風景を楽しみ、また旧東海道にまつわる歴史・文化を学ぶこと、そして歩くことで健康維持をしたいと考えたのであった。更には、齢(よわい)70を目前として、何か新たな目標を持ちたかったのであった。現役時代から目標達成のための「SMART」の法則が好きなのであった。1. Specific(明確な) 2. Measurable(測定可能な) 3. Achievable(達成可能な) 4. Relevant (関連性がある) 5. Time-bound (期限のある)旧東海道には様々な場所にかつての面影を残す場所や歴史的な史跡、更には数々の伝説・物語・秘話などが残っていて、それを今更ながら多いに学ぶことが出来たのであった。そしてそれぞれの『旧東海道を歩く』の前日までには、IphonesのGoogle Mapに歩くべき旧東海道のルートや訪ねたい神社仏閣にチェックマークを入れて望んだのであった。黄色のマークが歩くべき旧東海道のルート、赤が訪ねようとした史跡や神社仏閣そして緑が訪ねようとした史跡や神社仏閣の入口なのであった。特に神社仏閣の入口を以前確認しておくことは、時間の無駄を防ぐには必要な事であった。(最初は入口が判らず、寺の周囲を1周して漸く境内に辿り着いた事が何度かあったのだ。「日本橋」から「新居宿」までは、全て日帰りでの『旧東海道を歩く』を繰り返した。毎回、早朝のJR東海道線に乗り、その日のスタート近くの駅で下車し『旧東海道を歩く』を8~9時に開始した。そして16~17時までひたすら歩いたのであった。途中の昼食の時間ももったいないので、コンビニでオニギリやパンを購入しこれを食べながらの歩きがほとんどであった。浜松以西は、日帰りは無理であり、初日はスタート地点まで旅友Sさんの愛車で経費削減も兼ね有料高速道路の利用は避け、往復とも現国道1号線を中心に一般道をひたすら利用したのであった。そして毎回2日間の『旧東海道を歩く』を計画し、移動日を含め2泊3日の行程を繰り返したのであった。ホテルは無料朝食付格安ホテルをネットで予約、現地での朝夕の移動は主に電車とし当日の『旧東海道を歩く』を完了した後は愛車で戻り、次のホテルまで愛車で移動したのであった。旧東海道を歩くだけでは面白くないので、旧東海道沿いの神社仏閣・旧跡等を訪ねることも積極的に行ったのであった。よって毎日35,000歩から40,000歩を歩き、旧東海道だけの距離の1.5倍以上を毎日歩いたのであった。江戸時代には日本橋から京まで、一般的に、徒歩で13日から15日前後かかっていたと。江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約492km。15日とすると、1日平均約33kmも歩く計算になるのだ。おそらく当時であれば、季節にもよるが、川止め、舟便の欠航、悪天候などでその所要日数はかなり伸びたのではないかと容易に想像出来るのであった。因みに、元禄年間に日本に滞在したドイツ人医師ケンペルは12日、幕末に日本を訪れたオランダのお抱え医師シーボルトは17日の旅であったと。この両名は、自らの脚で全行程を歩いたのであろうか?そして我々は32日間(移動日を除く)の旅なのであった。もちろん、旧東海道沿いの神社仏閣・旧跡等を訪ねなければ、もっと早く到着したであろうが・・。旅友から下記の歩数データを頂き、自分の歩幅で換算し纏めて見た。全歩数は約125万歩となり850km~900kmを歩いたことになるのだ。これは旧東海道沿いの神社仏閣、名所旧跡を意識的に訪ねた事によるのだがなんとか目標の2020年春先・3月末までにの目標をクリアーしたのであった。そして今回の『旧東海道を歩く』はツアー参加ではなく、個人計画に依るものであった為に『旧東海道を歩く』の『完歩』の「EVIDENCE(証)」を入手出来ないのであった。EVIDENCE(証)があるとすれば、このブログの内容、写真そして一緒に歩いた旅友Sさんなのであろうが。よって、上記の如き『完歩証』を自ら作り、これをA4サイズの写真用紙に印刷し額縁に入れて「四国八十八ヶ所巡り 結願証」と共に我が家の床の間に掲げているのである。江戸日本橋から京都三条大橋までの長い道のりの中で、見知らぬ土地での人々や寺のご住職や神社の神主との一期一会の出会い、その土地の風土や歴史、さらには旧東海道沿いに次々と現れる数多くの史跡や歴史的建造物に触れ、写真を撮りまくったことは、ネット情報やガイドブックの文字からは到底得られない貴重な体験、そして感動に満ちた時間であったのだ。更に帰宅してその都度、歩いて来た行程の復習を兼ねての備忘録としてのブログをアップし東海道53次の全ての行程について完遂出来た、充実した日々なのであった。最後に、この『旧東海道を歩く』の移動に関して、愛車を提供してくれ、移動行程の全てを運転してくれた旅友のSさんに熱く御礼申しあげます。終わりにあたって、東海道53次にご関心のある方は下記にアクセスください。★東海道五十三次(全解説)https://www.youtube.com/watch?v=Ygd4PngrLfY★東海道を歩く(全宿場ガイド) https://www.youtube.com/watch?v=yLNNmtr_QXY ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.06.11
コメント(3)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『インクライン』を後にして、仁王門通りを『蹴上』交差点まで坂道を上る。小さな休憩広場にあった『付近観光案内図』。その隣には『京都市国際交流会館』が280mの場所にあるとの案内板が。「kokoka(ココカ)」とは、「国際(kokusai)交流(koryu)会館(kaikan)」の頭文字で、公募によりつけられた愛称とのこと。そして右手下にあったのが『蹴上発電所(けあげはつでんしょ)』。蹴上発電所は、京都府京都市左京区粟田口鳥居町1番地に設置され、関西電力が管理する水路式・流込み式の水力発電所である。 琵琶湖第一疏水から取水し、琵琶湖疏水に放水している。運転開始から125年以上経った今なお、現役の発電所として電気を送り続けているのだと。「1890年(明治23年)に通水を開始した琵琶湖疏水第1疏水に関連して、翌1891年(明治24年)6月に第一期蹴上発電所が運転を開始した。営業用としては日本最初の水力発電所である。当発電所の電力は、近接する蹴上インクラインの動力源として用いられ、近隣に配電されたほか、1895年(明治28年)に開通した京都電気鉄道(後の京都市電)でも使われた。1912年(明治45年)、第2疏水の完成に伴い第一期蹴上発電所が取り壊され、第二期蹴上発電所が開業した。1936年(昭和11年)には、第一期発電所の跡地に第三期発電所が建設された。1942年(昭和17年)に京都市から関西配電に現物出資され、2017年現在は関西電力の発電所となっている。」とウィキペディアより。左手の1段高い場所に合ったのが『ソティスウェスティン都ホテル京都』。右手にあったのが『立正佼成会 京都教会』。左手奥にあったのが『佛光寺本廟』。『佛光寺本廟』の『山門』をズームで。左手に『合槌稲荷神社 参道』。「合槌稲荷大明神ここには刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える。宗近は信濃守粟田藤四郎と号し、粟田口生條坊に住んだので三条小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助を得て名僧小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、そのとき合槌をつとめて、明神を祀ったのがここだともいう。なお宗近は 平安中期の人で、刀剣を鋳るのに、稲荷山の土を使ったといわれる。」合槌稲荷神社の先左手に『粟田神社』の一の鳥居があった。粟田神社は、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として創建したと云われている。「粟田神社由緒古くは山城国愛宕郡下粟田郷に属し、粟田郷は上粟田(北白川・浄土寺・鹿ケ谷・岡崎)下粟田(三條以南)に分かれ、 この地は上古のころ孝昭天皇(人皇五代)の皇子天足彦国押人命を祖とする一族が住み鉱物を穿ち粟や瓜を主食として、 中古熱田神宮が奉祀されるや、一族熱田の社人として移り、土地名を残すのみとなれり。 その氏神として上古より祠ありしが人皇五十六代清和天皇貞観十八年(八七六)悪疫流行のため、 奉行藤原興世に勅して都の東、白雲の泡立つ郷の霊地に一社を建つ。」これ当社の社伝による創記である。 又伝う往古八坂神社を感神院と称するに対し、当社を感神院新宮と称し、祇園会無き年は当社の祭礼として祇園会の代わりとなす記録あり。 依りて当社代祭礼は祇園会の始めの形なりと云う。」訪ねなかった『本殿』をウィキペディアより。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE】より手前に『三条神宮道』交差点。「平安神宮」、「知恩院」への案内表示が。神宮通りの『平安神宮 大鳥居』をズームで。三条通神宮道西北角にあったのが『平清の道(へいせいのみち)』碑。[東] 平清の道 [南] 左 八坂神社から清水寺[北] 右 南禅寺から平安神宮 [西]特許庁登録 平成九年十一月 と刻まれていた。「平清」とは平清盛のこと?それとも平清経?『三条神宮道』交差点を先に進むと、街道左手のパークウォーク京都東山というマンションの前に『坂本龍馬お龍「結婚式場」跡』が建っていた。側面に『此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡』と刻まれていた。「坂本龍馬お龍「結婚式場」跡当地は青蓮院の旧境内でその塔頭金蔵寺跡です。 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。 お龍(鞆)は1906年まで生きていました。 一般には慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。 が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。 この地が選ばれたのはお龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。 その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。 しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。 龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。 当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟としてここに建碑します。」ここがパークウォーク京都東山というマンションの入口。暖簾には「丸に花菱」の家紋と浅井氏と書かれていたがどの様な関係があるのだろうか?前方に歴史を感じさせる石橋が。『白川』に架かる『白川橋』の袂に、『三条白川橋道標』が建っていた。正面に「是よりひだり ちおんいん ぎおん きよ水みち」この道標は、延宝6年(1678)建立で市内に現存する最古のものであると。ここを左に折れて『白川』の流れに沿って進む。白川は、滋賀県大津市および京都府京都市を流れる淀川水系一級河川鴨川支流の一級河川である。流域のほとんどは京都市東山区および左京区に属している。我々の目的地は『明智光秀の塚』。『白川』沿いの柳の芽吹きを楽しみながら。美しい新緑が青空に映えて。一本目の白川『一本橋』が前方に。『一本橋』手前左角に石碑が現れた。『東梅宮 明智光秀墳』」 刻まれた弘化2年(1845)の道標。ここを左折すると明智光秀の塚があった。『明智光秀の塚』案内板。左手に『明智光秀の塚』。「明智光秀の塚天正一〇年(一五八二年)六月二日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害させました。しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引きあげてきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、十三日に山崎(天王山)で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れます。そしてその途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を打たせたといわれています。光秀の首は、家臣によって隠されたといわれます。ですが吉田兼見という公家が記じた日記『兼見卿記』によると、光秀の首は十五日までに発見されています。十八日からは、粟田口(左京区)で重臣の首とともに晒されました。晒されたのは数日で、二十二・二十三日には近くに埋め、塚を築いたことも記されています。実際、『雍州府志』や「都名所絵図」など江戸時代の京都にっいて記した地誌類には、その塚が蹴上附近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されています。多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえます。その後、江戸時代中期の安永~天明初年ごろ(一七七〇~八〇ごろ)に、蹴上の塚にあった石塔婆がこの地に移されてきました。以来、この地が、明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首もここに埋められたと伝えられています。また明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚があります。」『明智光秀の塚』のこじんまりとした小さな社。『長存寺殿明窓玄智大禅定門』と刻まれていたが光秀の戒名であると。『子孫が解き明かす 明智光秀の実像』案内板。著者の明智憲三郎氏についてウィキペディアには「明智光秀の子の於隺丸(おづるまる)の子孫であると称している。しかし、明治まで一族は明田(あけた)の姓を名乗っていて、曾祖父が伝承品を添えて政府に明智姓への復姓を願い出て改名したという経緯だと云う。明智光秀生存説(天海=光秀説/天海=秀満説)を唱えた明智滝朗は祖父。」と。『明智光秀の塚』への路地の入口にあった、天保年間から続いている和菓子屋『餅寅』。『光秀饅頭』の文字も。様々な饅頭、和菓子が。『光秀饅頭』、食べればよかったと・・・時既に遅し。 【https://ameblo.jp/k224679/entry-12163129424.html】より一本目の『一本橋』。こちらは、有名な方の橋ではなく、橋の幅も広い。石が3つ並べられていた。橋上で人同士ならぎりぎり行き違いできる幅があった。明治時代までは、この橋も下流の一本橋と同じ幅だったと。石の橋を一幅足して三本にして渡りやすくしたのだと。『一本橋』を渡る。柳の新緑の清々しさを楽しむ。わずかに風に揺れて。そして三条通りに戻り、この『旧東海道を歩く』もエピローグへと。右手に紙専門の老舗『紙嘉』が。『三条大橋』の文字も気のせいか大きく。『東山三条』交差点。そして『三条京阪』交差点を渡る。左手にあったのが『高山彦九朗皇居望拝之像』そして手前に『高山彦九郎先生皇居望拝之跡』碑。三条大橋の手前の交差点左角に土下座して御所を遥拝する姿。高山彦九郎は、群馬県の出身で18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、京都御所に向かって拝礼したと。「高山彦九朗皇居望拝之像江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。 今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(一七四七~一七九三)の姿を写したものである。 高山彦九郎は、群馬県の出身である。 十八歳の時以来、前後五回、上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向って拝礼した。 その姿は 大御門 その方向きて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと 橘曙覧と和歌に詠まれた。 明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。 後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上 遥かに皇居をネ伏し拝み 落つる涙は鴨の水アサノサ と謡いつがれた。」『高山彦九郎歌碑』をズームで。寛政三年三月十五日 恐れみ畏れみ恪み謹みてよめる 正之「われをわれと しろしめすぞや 皇(すめろぎ)の 玉の御声の かゝる嬉しさ」『高山彦九郎正之先生御直筆歌碑』標柱もズームで。寛政三年三月十五日恐れみおそれみつゝしみしみて謹みてよめる「われをわれと しろしめすぞや すめろぎの 玉のみ声の かゝるうれしさ」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.10
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『光照寺』を後にすると、右手に地蔵堂があり、この先府道143号線の三条通に合流するまでに6つの地蔵堂があった。山科区日ノ岡朝田町の旧東海道を進む。非常に狭い旧東海道を進むと左手にも地蔵堂が。地蔵堂が多くみられる街道に家屋は建っているが、その数軒は明らかに空き家であった。祠の外にも石仏が安置されていた。日ノ岡西部町地蔵堂。右手前方にっ道標と新しい案内板が。『旧東海道』道標と解説板。「旧東海道(日ノ岡の峠道)この道は、江戸時代には東海道と呼ばれ、日本を代表する街道の一つであった。江戸幕府を開いた徳川家康が整備したものである。東海道では幕末まで車の往来が禁止されてぃゑに近い大津京都開けは例外であった。人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分けて、車道には舗石が並べられ車石と呼ばれていた。当初、この辺りの日ノ岡の峠道は、大津から京都への難所の一つで、牛車の通る車道は深くえぐられて、人馬が通る道との段差が生じ、雨が降るとぬかるんで牛車を立ち往生させていた。そこで木食正禅上人が享保一九年(一七三四)頃から道路の改修に取り組み、車道に土砂を入れ人馬が通る道との段差を無くしたり、峠の頂上を据り下げ、その土砂を坂道に敷いてゆるやかな勾配にするなど工夫し、元文三年(一七三八)に改修を完成させた。こうして峠道は大きく改善されたのである。またその後、木食正禅上人は、峠道近くに「梅香庵」を建て峠道の維持管理をすると共に井戸を掘り、水を亀の口より落として量救水と名付け、旅人や牛馬の乾きを潤したり、石の竃を設けて湯茶の接待をしたりした。」左手に『栄花山荘』が。ここは山科区北花山山田町。「150 years house」の表示が入口に。古民家を改修した庭・裏山付シェアハウス兼イベントスペース。茶会を中心に開かれたイベントを催し、新たな文化の創造・発信を目指していると。左手のここにも地蔵堂が。2体の石仏が安置されていた。そして右下から来る三条通(府道143号線)に合流した。「旧東海道」と「150 Years Old House Eikasansou(栄花山荘)」案内板も。左手前方に荷車のモニュメントと車石が置かれた広場があった。『車石広場』すぐ先左手の道端に小ひろばが設けられ、4個の車石の実物や、俵を7俵乗せた台車と解説板があった。実際に使われたと思われる車輪も。「平成9年10月の京都市営地下鉄東西線開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通の四車線化及び歩道整備の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛馬道を模した広場を設置する」と解説している。石には車輪の通る箇所が線路上に凹面に刻まれていた。俵を7俵乗せた台車。「車石平成9年10月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した本事業の完成を記念して三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛車道を模した広場を設置する。」車輪も。荷車のモニュメント。こちらは俵を6俵乗せた台車。1俵は何処に?三条通りの坂道を上って行く。左手に案内板が。「粟田口刑場跡この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠に続く高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。元文元年(1736)には、五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられました。文化年間(1804-17)には、車道に車石舗装がされ、人馬道には燈籠が建てられました。幕府最後の慶應3年(1867)には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられていました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者によって何基もの供養塔が建てられました。明治5年(1872)には、この刑場跡地の後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。しかし、明治初期の廃仏毀釈や現代にいたる開発によって、供養塔や経王塔などが破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8年~10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6年~8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁壁には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。」粟田口刑場跡を過ぎると、東山ドライブウェイの高架手前右手に地蔵堂があった。地蔵堂の中央には地蔵菩薩立像が安置されていた。「左卍(ひだりまんじ)」は大乗仏教などの伝統的なシンボルとして使用されているのだ。東山ドライブウェイ高架橋の下をくぐる。東山ドライブウェイは三条通りの左手の坂を上ると将軍塚に至る。将軍塚は桓武天皇が平安京の造営時、王城鎮護のため、征夷大将軍、坂上田村麻呂の土像を作り、 都(西方)に向けて埋めたと伝えられるところ。東山ドライブウェイの高架下を過ぎると、下り坂にさしかかる。ここから地名は京都市山科区から東山区に変った。そして左手にレンガ造りの建物の蹴上浄水場(けあげじょうすいじょう)があった。蹴上浄水場は、日本最初の急速ろ過方式の浄水場として、明治45年(1912)、京都で初めて給水を開始した施設であるのだ。「蹴上」の地名の由来は「源義経が牛若丸と呼ばれていた頃、鞍馬寺で金売吉次(伝説上の人物の可能性あり)という商人に出会います。1174年。義経が彼の案内で奥州平泉へと向かう途中、一行は、山科の日ノ岡峠の日向(ひむかい)大神宮へ道中の安全祈願をするため立ち寄りました。その後、日ノ岡峠の清水(現在の蹴上)で義経が供の者との別れを惜しんでいた時です。平家の武者・関原輿市重治(せきはらよいちしげはる)と9人の従者が馬に乗って通りかかり、彼らの馬が、水溜りの水を義経に蹴りかけ、義経の衣服を汚してしまいます。晴れの門出を台無しにされた義経は、無礼を詫びるように迫りますが、武者たちは平家の威光を笠に着て、かえって居丈高な態度に出ます。そこから両者の争いとなり、ついには義経が興市の家来たち9人を斬り捨て、與市の耳と鼻を削いで追い払ったのです。この、馬が水を蹴り上げたエピソードが蹴上の由来となりました。」と。『蹴上浄水場 水質管理センター』当寺の給水能力は1日68,100m3であったが、その後、水需要の増加に対応するために、昭和37年(1962年)11月には、創設期の第1系統の改良とともに、新たに第2系統が新設され、給水能力が1日198,000m3になったと。10年以上前に仕事で訪ねた浄水場なのであった。「蹴上のつつじ」で有名な蹴上浄水場なのだ。GW頃に開花すれば多くの人々が。しかし今年は・・・???。 【http://gottuan7.blogspot.com/2019/05/blog-post_7.html】よりゴールの『三条大橋』の文字が道路標識に現れた。ここを目指して日本橋から490km近くを歩いて来たのだ。岡崎は、京都府京都市左京区の南部に存在する地域のこと。右手にあったのが『日向大神宮』社標と『青瀧山 安養寺』の寺標が建ってた。参道を進むと大神宮橋の手前に2基の常夜燈があり、参道を15分ほど登ると手水舎の前に出て、拝殿・外宮・内宮と続いているのだと。『日向大神宮』は、第23代顕宗天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられている。境内奥には、天岩戸の戸隠神社があり、神田稲荷神社の裏から山道を登ると伊勢神宮遥拝所があるようだ。『蹴上浄水場』に沿って下って行く。右手にあったのが地下鉄東西線の「蹴上駅」の出入り口。そして右手に赤レンガのトンネルが姿を現した。トンネルの入り口の「雄観奇想 (素晴らしい眺めと優れた考え) 」の文字。「ねじりまんぼ「ねじりまんぽ」は三条通から南禅寺へ向かう道路の造成に伴って建設され、明治二十一(1888)年6月に完成しました。高さ約3m、幅約2.6m、長さ約18mで「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉です。トンネルの上部に敷設された、台車に載った船」が行き交うインクラインの重さに耐えられるように、内壁のレンガは斜めに巻かれ、トンネルはインクラインと直角ではなく斜めに掘られています。トンネルの東西には、トンネルの完成を祝い第3代京都府知事の北垣国道が揮毫した扁額があります。西口の「雄観奇想」は「見事なながめとすぐれた考えである」、東口の「陽気発処」は「精神を集中して物事を行えば、どんな困難にも打ち勝つことができる」という意味です。このような形状のトンネルは全国的に施工例が少なく、また多くが老朽化や廃線等で撤去されました。「ねじりまんぽ」は、明治時代の土木技術を物語る貴重な遺産といえます。」「京都一周トレイル」案内柱。「京都一周トレイル」は、京都の東南、伏見桃山から、比叡山、大原、鞍馬を経て、高雄、嵐山、苔寺に至る全長約83.3キロのコースと、豊かな森林や清流、田園風景に恵まれた京北地域をめぐる全長約48.7キロのコースからなると。赤レンガのトンネルを潜る。トンネルを出ると右側の石段の上にあったのが『琵琶湖疏水工事殉職者碑』。「殉職の碑この碑は、琵琶湖疏水の建設工事中に事故や病気により殉職された方を弔う為、昭和16年11月、琵琶湖疏水事業を所管していた京都市電気局の職員により建立されました。明治23年に竣工した琵琶湖疏水は、我が国最初の事業用水力発電所や運河、灌漑用水等に利用され、東京遷都により産業が衰退した京都のまちの復興を果たしてきました。現在も京都市民の命を支える水道や発電、防火用水等に広く利用されています。この琵琶湖疏水の建設工事は、主任技術者である田邉朔郎を中心に外国人技術者の手を借りることなく実施し、当時の日本人の学び得た技術を最大限実地に応用した画期的かつ大規模なものでした。題字は当時のの京都市長加賀谷朝蔵によるものです。京都華頂ライオンズクラブ 結成40周年記念事業琵琶湖疏水工事 殉職者之碑 京都市電気局」『インクライン(傾斜鉄道)』琵琶湖疎水は、明治時代初期に琵琶湖の水を京都へ引き、琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防災などに利用して京都の産業振興を図るために開削された。途中の蹴上船溜から南禅寺船溜までは落差が36mあるため、この間はインクラインという傾斜鉄道を使用した。公園内には、写真の『インクライン(傾斜鉄道)』が復元され、疎水工事の総括責任者・田辺朔郎像、琵琶湖疎水工事殉難者碑が建っていた。因みに、インクラインとは英語の「incline」で「〔物が〕傾く、傾斜する」の意味から。『インクライン(傾斜鉄道)』上で和服姿で記念撮影する女性たち。卒業記念写真なのであろうか?桜が満開であれば。こちらにも。「インクライン(傾斜鉄道)大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種で琵琶湖から水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として伝承されてきました。明治2年(1869)の東京遷都以降、衰退する京都経済の復興策として京都府三代目知事北垣国道、青年技師田邊朔郎、測量技師嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民の力で明治18年(1885)8月、水力動力、舟運、かんがい、精米水車などの多目的な効用をはかるため、疎水開削工事に着手しました。インクラインは、蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した舟から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に乗せて昇降させる目的で建設されました。当初、蹴上から分水した水力動力(20馬力、15KW)によって水車場内のウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていました。その後、明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員が訪米し、アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国発の蹴上発電所を建設することになりました。この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)など産業用、電灯用として活用されました。明治27年(1894)には伏見区掘詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客約13万人を記録しました。しかしながら、時代の流れで大正4年(1915)には、京津電車、京阪電車が開通旅客数が3万人大に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも東山トンネルが開通して大正10年に現在の山科駅が開設されたため、京津間の足としての疎水の機能は実質的に失われることとなりました。一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925)には、史上最高の22万3千トン、1日約150隻を記録しました。やがて、陸送化がどんどん進み昭和26年(1951)9月、砂を積んだ30石船が最後に下り疎水舟運60年の任務を終えました。こうして、琵琶湖疎水、インクラインは文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たしました。平成8年(1996)6月には、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた遺産として後世に長く伝えるため形態保存しています。概 要着工 明治20年(1887)5月竣工 明治23年(1890)1月運転開始 明治24年〔1891〕11月(以上発毛所営業退転開始)約22m幅 約22m勾配 15分ノ1所要時間 10~15分電動機 直流440V、70Aドラム工場 両禅寺船溜北側(白い建物)」『インクラインで使われた台車の復元』👈リンク後方から。「三十石船と蹴上インクラインこの「三十石船」は、明治23年に竣工した琵琶湖疏水で使用されてきた運輸船を復元したものです。明治から昭和にかけては、琵琶湖疏水を通航する運輸船により、滋賀と京都の物資(米、薪炭、醤油、酒など)の物流が盛んに行われていました。琵琶湖疏水の蹴上船溜から南禅寺船溜までの間は、高低差が大きいため、船ごとインクライン(傾斜鉄道)の台車に載せて、この坂を昇降させていました。本インクラインは、琵琶湖疏水関連施設として、平成8年に国の史跡に指定されています。この「三十石船」は、京都滋賀県人会様から、同県人会の創立50周年を記念して、平成22年3月に寄贈を賜り、蹴上インクラインの当時の面影を再現するために、船の「積み荷」につきましても、平成6年3月にご寄贈いただいたものであります。」明治40年6月時の掲載写真を見てみると、蹴上げのインクラインが写っていた。南禅寺方面の道も、平安神宮への道も、その地形に変わりないことがわかる。船が上がれない急な坂を貨車を使って引っ張り上げるための線路で、大津から来た船をそのまま貨車に載せて、次の水路へと運んでいたことが、理解できる写真なのであった。インンクラインに昇降する舟(写真は琵琶湖疎水記念館のもの)。こちらの写真の時代は大正期らしい。 【https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201706150000/】より『蹴上インクライン』QRコード 案内板。QRコードをスマホで読み込んでみてください。因みに、移動用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転。通過時間は10分から15分だったと。『琵琶湖疏水』👈リンク ルート図。『第1疎水縦断面図』。南禅寺船溜から琵琶湖方面への最初の登りが標高差36mの、この蹴上インクラインであることが解る。怒涛のごとく琵琶湖の水が流れていた。この場所の水路勾配は1/15であると。琵琶湖の取水口から蹴上までの距離は約8kmとのことだが、この間の高低差はわずか3.4m。現代のような精巧な測量器械のない時代に、正確な勾配を計算しながらつくられていることに驚愕したのであった。蹴上から先は山の斜面を下らなければならない。水平距離にして582m、高低差は36mであると。水路は暗渠にすることができるが、舟を通すことは出来ない。そこで舟を運ぶために考えられたのがインクライン(傾斜鉄道)なのであったと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.09
コメント(2)
我が趣味の養蜂場のある菜園のスイカも順調に生育しています。見守ってくれている案山子のズボンも破れワイルドな姿になっています。そろそろお色直ししなければ可哀想なのですが、なかなか・・・・ネットで種を購入し、苗に育てて定植しました。既にソフトボール大に成長しているスイカもあります。そしてこちらは実を下部につけた雌花。我がミツバチが受粉を手伝ってくれていますが、念の為、雄花をちぎって人工受粉しました。スイカは受粉した日から35日~40日、 植え付けをしてから85~90日 ほど経ったものが、 収穫に適していると言われているのです。昔、母は人工受粉をした後に、日付の書いたTAGを蔓に取り付けていました。私は6月6日を覚えておくつもりでいます。よって収穫開始時期は7月11日から私の誕生日の7月16日前後になりそうです。既に旅友のSさんから、スイカの予約のメールを受信しているのです。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次緩やかにカーブを描く山科区御陵進藤町下りの道を進むと、右手に黒塀の美しい家や長屋門の旧家があった。中二階には虫籠窓も。旧家の向かいには、二体の地蔵尊が祀られた『地蔵堂』が。長屋門のある民家。直ぐ先で、三条通(府道143号線)に合流し右に進み東海道本線の高架下をくぐって行った。山科区御陵別所町の交差点まで進む。横断歩道を渡った前方の冠木門のモニュメントが『天智天皇陵』の入口と勘違いし横断歩道を渡ってしまった。この冠木門は『陵ヶ岡みどりの径』の入口であることに気が付き引き返し、再び横断歩道を渡り道路の反対側に戻る。「周辺観光案内図」。横断歩道を渡り戻ると正面に『山科警察署 御陵交番』があった。「御陵」の読みは「ごりょう」ではなくて「みささぎ」と読むのだと。入口左にあった『日時計』をズームで。日本最初の時計を考案した天皇の徳を称えてこの『日時計』が建てられたのであろう。実際は日時計ではなく、漏刻(ろうこく)という水時計を設置して、時刻に合わせ鐘や太鼓をならしたと。天智天皇は時間を知らせる報時制度をも作ったのだ。ちなみにその漏刻を設置した日は6月10日、つまり時の記念日として制定されているのだと。右手に天智天皇(てんぢてんのう、てんじてんのう)陵の参道が北に向かって延びていた。樹木が生い茂る参道を400mほど入ると、京都で最古の天皇陵である山科陵と呼ばれる八角墳(上円下方墳)があったのだ。参道口にある宮内庁の禁札「天智天皇 山科陵一.みだりに域内に立ち入らぬこと一.魚鳥等を取らぬこと一.竹木等を切らぬこと 宮内庁」樹木に覆われた長い参道を進む。ここにも人の姿はなかった。飛鳥時代の第38代天皇である天智天皇を祀る「天智天皇 山科陵」は数多い京都の天皇陵の中でも最古のものとされる由緒ある存在で、考古学的には御廟野古墳という名の古墳。以前は○○天皇陵という呼称だったのが、近年になって○○古墳と名を変えている場所があるのだ。古来からの伝承で○○天皇陵とされてきたものでも、実際には被葬者が断定できない場合が多いのだとか。昨年・2019年7月に世界遺産登録された「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」の、かの有名な前方後円墳の仁徳天皇陵も現在では大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)という呼び名が優勢になっているのだ。前方にあったのが天皇陵入口門であろうか。長い参道が途切れると、前方に玉垣で囲まれ、その玉垣の中に鳥居が立つ『天智天皇の陵墓(みささぎ)』が現れた。白砂に囲まれ、鳥居の奥はうっそうとした森になっていた。一般人が入れるのは白砂の手前まで。誰も入れない白砂にも、きちんと手入れがされ綺麗な砂紋が描かれていたのであった。大津近江京で西暦671年に崩御された天智天皇はここ山科陵に1300年以上にわたって眠っているのであった。ズームで。『天智天皇』は第38代天皇で、在位期間は668年2月20日 - 672年1月7日。陵所としては京都市山科区にあるこの山科陵に治定されている。一般には中大兄皇子として知られいる。中大兄皇子と言う名前で知られ、645年7月10日に中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こした(乙巳の変)。日本と関係が深かった百済が唐・新羅に滅ぼされたため、援軍を送り戦ったが敗北(白村江の戦い)。その後に都を大津京に遷都しているのだ。『天智天皇山科陵』碑。★天智天皇の略年譜★を【https://ameblo.jp/morikuma1103/entry-12573955638.html】 より。◎626年:舒明天皇の第2皇子として誕生◎645年:6月、乙巳の変。蘇我宗家を滅ぼす。◎645年:12月、難波長柄豊碕宮へ遷都◎646年:改新の詔◎653年:孝徳天皇の意に反し、群臣らを率いて板蓋宮へ遷る☆654年:10月、孝徳天皇崩御☆655年:1月、母・斉明天皇即位(皇極天皇重祚)◎659年:阿倍比羅夫に蝦夷国(東北地方・北海道)遠征を命じる☆660年:百済が唐と新羅に攻め滅ぼされる。◎661年:7月に斉明天皇が朝倉橘広庭宮にて崩御◎663年:7月、白村江のたたかいにて唐・新羅連合軍に大敗◎667年:3月、近江大津宮へ遷る◎668年:1月、第38代天皇として即位。◎671年:12月3日崩御『天智天皇山科陵』の平面地図。 【http://moundtomb.blogspot.com/2015/03/blog-post_22.html】より「天智陵」は山囲みの地勢で、墳丘下段に「方形壇」が設えられて、墓室が八角形墳丘の外に開く、八角墳丘部対辺間距離が約42mで、横穴式石室(墓室)全長が約24mと大規模な八角墳の分類に含まれていると。 【http://19481941.blog.fc2.com/blog-entry-261.html?sp】より築造年代は7世紀末~8世紀。古墳の大きさは、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルであると。 【https://akiokun.muragon.com/entry/16.html】より宮内庁書陵部月輪監区山科部事務所。参道を戻る。そして再び三条通りを渡り旧東海道に入る。先に進むと狭い路地となるが、要所要所に黄色い旧東海道標示があるので、これに従って進んでいく。この道標がなければ、ほんとうにこの道筋でいいのかと疑ってしまうような道筋なのであった。道幅の狭い路地の如き旧東海道を更に進む。更にここ山科区御陵鴨戸町の旧東海道を真っ直ぐ進む。更に坂道を上って行った。ここが東海道中で最後の峠越えで、峠の名前は「日ノ岡峠」。更に急な峠道を上って行くと『亀の水不動尊』の案内表示を見つける。『木食上人(もくじき)』はこの峠道の改修に心血を注いて、元文3年(1738)から3年がかりで安心して通れる道を完成させたと。その手前のフェンスの中に大きい方の道標が。「右妙見道」と刻まれ、南東方向にある妙見宮を指しているようであった。『亀の水不動尊』入口『亀の水不動尊』の赤い提灯が下がる門。亀の水不動尊は、元文3年(1738)木食正禅養阿上人が道普請の際、人足寄場として建てた梅香庵跡であると。そしてここの井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の喉の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待したと。『亀の水不動尊』。亀の口から水が出ていた。『亀の水不動尊』そして『亀の水不動尊』の直ぐ先に『大乗寺』の寺標があり、参道の石段を上がって行くとそこに小さな建物の『大乗寺』があった。『大乗寺』は、約300年前に京都七本松に建立され、その後、禅宗系の寺から法華宗の寺に改宗されたと伝えられているのだと。「南無妙法蓮華経 法華宗 大乗寺」寺標。「酔芙蓉の寺 大乗寺大乗寺は、戒禅比丘隆韶大和尚が、約300年前に七本松の内野(現在の上京区鳳瑞町)に開き、禅宗系の寺から法華の寺に改宗されたと伝えられています。 その後は、代々尼寺として受け継がれ、無本山の寺でしたが、約200年前に法華宗の大本山本能寺の末寺になりました。 昭和55年に現在の地に移転したものの、無住の荒れ寺となっていた大乗寺でしたが、平成4年以降、移り住まれた住職により、参道整備などの復興が進められるとともに、 寄贈された酔芙蓉の苗100本ほどから挿し木して育て、今では1500本もの酔芙蓉が群生する「酔芙蓉の寺」として知られています。」急な石段参道を上って行った。『山門』。『大乗寺 本堂』は民家のごとし。『水子地蔵尊』『酔芙蓉観音』の入口左には『歌碑』があった。『源宗千歌碑』「山里は 冬ぞさびしき まさりける 人目も草も かれぬと思へば」「小倉百人一首 第二十八番👈リンク山里は 冬ぞさびしき まさりける 人目も草も かれぬと思へば 源 宗于朝臣歌意 山里は(他の季節でさえさびしいが)冬にはさびしさが、いっそうまさって感じられることだ。 人の往き来もとだえてしまい、草木も枯れてしまうと思うと。鑑賞 ここ、山科の里は三方を山々に囲まれ、南に開けている閑静な地で都の人々が余生を過ごすのに 適切なところであったろうかと思います。 第五十八代光孝天皇の皇孫源宗于も、賜姓皇族の一人としては不遇であったとされる生涯の余生を この山科の地で送ったのでありましょうか。 世にある人から見れば、四季それぞれに趣もある山里ですが、定住する身にとっては、本当に淋しい 片田舎です。 官途にあった頃には、それなりに寄り集まった人々も今は少ないままに他の季節でも淋しい田舎ですが 冬ともなると荒涼の世界、草も枯れ果て人の訪れも途絶えて淋しさも限界に達します。 過ぎ来し方を振り返り、歌人宗于は何と思ったでありましょうか。 疲れ果てた人生荒野の旅路を重い宗于はいま真冬の茅屋に臥して、一人静かに御佛の目に迎えられて いる自分を見出したのでは。(寄進主 近藤清一)」『光孝天皇歌碑』「君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」「小倉百人一首 第十五番👈リンク君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ 光孝天皇歌意 あなたのために春の野に出て、若菜を摘みとっているわたしの着物の袖に、雪がしきりに 降りつづいているよ。鑑賞 何んというお優しい大御心の御製でありましょう。春まだ浅く、特に降雪を見る 肌寒い日ではありますが、息災であるようにと、臣下一同に 賜る若菜を摘みに野に出で給うという。その御心には、本当に肌の寒さも感じない ほのぼのとした、慈父の情を感ずるでは ありませんか。この御製を口ずさむと、自ら御歴代天皇の御仁慈が国民われわれの胸に 伝わって来るのであります。 遠い昔の平安朝の御代にあった光孝天皇この御製と拝誦して感激するのですが、更に近くは、 今からわずか五十年前のこと。 わが国が戦争に敗れ、1億国民が飢餓に頻した時に昭和天皇は皇家の私有財産と 敵将マッカーサー元帥の前に差し出されて国民に食を与えてほしいと懇願されました。 国氏のための食料を求められたのであります。 真に真に有難き極みであります。」『酔芙蓉観音菩薩』「酔芙蓉」が咲くと。 【http://tomonakayama3.ikora.tv/e1229759.html】より『青龍歌碑』「清浄を 得されば花も 世の塵と おしゆこころの 吟の道ゆく」『日蓮上人歌碑』「立ちわたる 身のうき雲も 晴れぬべし たえぬ御法(みのり)の 鷲の山風」『大乗寺』の先の旧東海道にあった『光照寺』案内。左へ上る石段があり、石段脇には圓光大師御旧跡碑が建っていた。この階段を上り詰めると、木曽義仲軍が京へ乱入した時に、法然上人が避難されたという頂後山光照寺があるのであった。階段もここまでで引き返す。「光照寺 當寺は大宇日岡の地にあり、頂後山と琥し、浄土宗にして、京都の金戒光明寺末であり、寺格は三十等である。本尊は阿弥陀如来を安置し、創立の年代は詳かでない。寺傅によると、宗祖法然上人乱を避けて此地に来り住居せしとき、自身の木像を彫刻して、末世までもその舊蹟たることを示さんとて遺し置いたとのことである。其の後僧観誉閑月と云えるものが、上人の舊蹟を慕って堂宇を再建して之れに住した。因って此の僧を富寺の中興開山と云う。境内は八十坪を有する。」『光照寺 本堂』。 【https://yaokami.jp/1266625/】より『光照寺』から旧東海道に戻ると、右手に地蔵堂があり、この先府道143号線の三条通に合流するまでに6つの地蔵堂があったのだ。いずれも大日如来と思われる石仏や地蔵尊が安置されているのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.08
コメント(0)
一昨日、我が家の横の我が趣味の菜園から、妻がキュウリを収穫してきました。そして妻が、1本のキュウリを我が目の前に。良く見ると、キュウリ本体から1枚の葉っぱが。葉っぱは、トゲトゲのある場所がやや膨らんでその場所から出ているのであった。しかも出ている葉っぱは、本来のキュウリの葉っぱとは形が異なる葉っぱなのだ。下記の双葉、本葉とも異なる、葉っぱの表面がやや凸凹の細い葉っぱ。こちらは、種を撒いた後の、最初の双葉。こちらはキュウリの本葉。私にとっては初めて見る不思議な姿であるためネットで調べてみたら、多くの投稿があったのだ。「キュウリから葉っぱ」👈リンク で検索してみるとリンクの如きページに。「キュウリの実から葉や弦が出てくることがありますが、これは野菜の「全能性」という性質によるもの。全能性とは野菜のどの部分も葉・茎・花・根になる性質のことです。原因はキュウリが何らかのストレスを受けている(気温・乾燥・病気)と発生すると言われていて特に珍しい現象ではなく、食べても問題はありません。」と。要は「時々ある突然変異。本来はイボになるのが葉になったのでは。温度や栄養の違いで出ることがある」ということらしい。葉の出ている場所で切ってみました。「表面の皮の一部が盛り上がって、葉が出ているキュウリ」なのであった。そしてこの後、モロキュウで食べてみたが「味は普通、美味しかった」のであった。本当に葉っぱだけ突如生えた「面白キュウリ」なのであった。---------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次京都市山科区四ノ宮南河原町を流れる『四宮川』に架かる橋を渡る。『四宮川』は南流して山科川となり、山科地蔵の古里である六地蔵を通り宇治川に流入する。橋を渡ると左側にあった『地蔵堂』。この先、いたるところにこのような地蔵堂が安置されていたのであった。『四宮川を渡ると右手に臨済宗南禅寺派の『徳林庵 地蔵堂』があった。『臨済宗南禅寺派 徳林院』寺標。「山科地蔵と徳林庵山科地蔵は、小野篁(たかむら)公により852年に造られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡禅師が1550年に開創した。境内には、人康親王、蝉丸供養塔(室町時代)、茶所の四休石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。」『わらべ六地蔵尊』。「徳林庵柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派 の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したものという。この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水といわれている。地花堂本尊は、参議小野篁が一木から刻んだ大地蔵の一といわれ京の町から諸国諸地方へ向う東遊道の出口にあたり物詣や疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり地蔵菩薩信仰として栄えた。また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔ともよんでいる。江戸時代には検校位を有する盲人が毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を奉じ親王の御霊を慰めたという。」「山科地蔵徳林庵旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は、小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅命により、京の都の主要六か所に安置された地蔵のうちの一体です。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもあります。六地蔵巡り850年の伝統を持つ行事で、8月22日、23日に都の主要街道にある伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)そして、山科地蔵(徳林庵)の六体の地蔵を巡り、お礼を集めて家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるとされています。」『徳林庵山門』。『人康(さねやす)親王供養塔』 ・ 『蝉丸供養塔』。人康親王(831-872)は、平安時代前期、仁明(にんみょう)天皇の第4皇子。 天長8年生まれ。母は藤原沢子。上総(かずさの)太守、弾正尹(だんじょうのいん)、常陸(ひたちの)太守を歴任し、貞観(じょうがん)元年病気のため出家し、ここ京都の山科(やましな)に山荘をかまえた。貞観14年5月5日死去。42歳。法名は法性(ほっしょう)。名は「ひとやす」ともよむ。また、親王は琵琶の名手であったという。そして何故、『蝉丸』の名が連名で?ネットで調べてみると「一説によると、宇多天皇の皇子、醍醐天皇の第四皇子、また人康親王と同じ仁明天皇の時代の人ともいうのだが、その人物像は謎のままである。逢坂の関に住み、琵琶を好み、その腕は名人の域を超えていたというのも、人康親王と共通するところである。そんな処から、蝉丸は人康親王でなかったのかという異説まで飛び出しているようである」と。そして宝筺印塔の後ろには、2体の地蔵菩薩像が。『手水舎』。『伏見六ぢざう』碑には『南無地蔵尊』と。『徳林庵』の横の路地の桜は開花を始めていた。『人康親王御墓(さねやすしんのうのはか)』道標。繰り返しになるが、人康親王は・生没年:天長8(831)年~貞観14(872)年・続 柄:(父)仁明天皇、(母)女御藤原沢子仁明天皇の第四皇子であり、同母兄に時康親王(光孝天皇)がいる。成年後に弾正尹兼常陸太守を務めたが、病により、職を辞し山科諸羽山の麓(現在の四ノ宮)に隠遁した。また、親王は琵琶の名手であったという。享年42歳。桜が開花を始めた路地の入口にあったのが『十禅寺』寺標。この路地の先、京阪電鉄京津線を渡った突当りに『十禅寺』があると。『十禅寺』は聖護院門跡の末寺で、平安時代の859年、仁明天皇の第四の宮人康親王を開山として創建され、この辺りが 「四の宮」 と呼ばれる所以となったと言われている。 境内の東北隅の樹の下に開山人康親王の廟があるのだと。開花を始めた桜をカメラで追う。更に進むと右手に『大谷派 圓光寺』寺標があった。参道を入って行くと京阪電鉄京津線を渡った突当りに、真宗大谷派の圓光寺の長屋門の山門が見えた。『圓光寺寺標』の一軒隣に『諸羽神社鳥居』があった。石鳥居に架かる扁額も『諸羽神社』。「諸羽神社天孫降臨(てんそんこうりん)の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、兩羽(もろは)大明神と称したという。貞観(じょうがん)四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。 この後、正殿(せいでん)に応神天皇、脇(わき)殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。 当社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神(うぶすなのかみ)として人々に崇敬された。 神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。山科区四ノ宮中在寺町」その先右手に『四ノ宮中在寺町地蔵堂』。左手にあったのが『毘沙門尊天 是より北へ八町』と刻まれた道標。右手の安朱保育園の隣にあったのが浄土宗西山禅林寺派の『九品山 来迎寺』。『浄土宗西山禅林寺派 九品山 来迎寺』寺標。来迎寺は、鎌倉時代の嘉禄3年(1227)西山国師により建立され、元亀元年(1570)織田信長と戦った浅井長政の兵に焼かれ、寛永8年(1631)に再建された。安朱保育園は、来迎寺の敷地内にあるようだった。『来迎寺』の直ぐ先の右手エスタシオン・デ・山科三品の前に『東海道道』標が建っており、「東海道 大津札の辻まで一里半 京三条はし迄一里半」 と刻まれていた。傍らには車石があり、入口奥には 「御菓子司三品老舗」 の看板があり、昔は菓子屋さんだったようである。前方に『山科駅前』交差点が。右手角にあった「旧東海道(旧三条街道)この地を東西に貫く街道は、古代から都と東国を結ぶ日本の大動脈であった。関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、支配確立の一策として、道路制度の改革と整備に乗り出した。この時整備した五街道の一つが東海道である。起点である江戸の日本橋から終点の京都三条大橋の間に宿場が五十三箇所あったことから、これらを総称して東海道五十三次といい、葛飾北斎や歌川(安藤)広重の浮世絵や、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」など、絵画や文学の題材ともなった。五街道では幕末まで車の往来が禁じられていたが、都に近い大津・京都間だけは例外で、人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分け、車道には雨後のぬかるみに車輪が取られないよう、車石という石が敷き並べられた。今の山科駅前にはかつて奴茶屋という茶店があり、近世の地誌に紹介されるほど著名であったが、平成二十一年に惜しくも廃業した。また、当地の西方、日ノ岡峠の麓には、東海道では市内唯一の一里塚が設けられていたが、残念ながら残っていない。」『山科駅前』交差点を渡ると右手奥にあったのが『京阪 山科駅』。山科駅前交差点を渡ると、右手のホテルプラトインシティ京都山科の植栽の中に『旧東海道碑』が建っていた。『旧東海道碑』の直ぐ隣に『明治天皇御遺蹟碑』が。「明治天皇御遺蹟碑この石碑は、明治元年(1868)9月、明治天皇東幸の際、同2年3月の御還幸及び同11年10月の御還幸の3回に亘って、古く戦国時代より東海道の茶店、宿場又本陣として洛東山科の名刹毘沙門堂御領地内にあった 「奴茶屋」(現RACTO・A2階)に御注輦されたことを記念して建立された。」右手前方に石碑が。『明治天皇御遺蹟碑』から程なく、街道右手に高野山真言宗の『吉祥山 安祥寺』寺標が。『安祥寺』は嘉祥元年(848)仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子の発願により入唐僧・恵運によって創建された。寺標からは東海道本線を越えた山裾に位置している。寺標の直ぐ奥に地蔵堂があり、大日如来と地蔵尊が安置されていると。『安祥寺寺標』の直ぐ先の十字路に南北に流れる『安祥寺川』に架かる大津畑橋があった。左手に虫籠窓のある旧家が。その向かいにあったのが『愛宕常夜燈』。『愛宕常夜燈』の向かいにには『地蔵堂』があった。二体の地蔵尊が祀られているようであった。『愛宕常夜燈』から程なく右手に浄土宗西山禅寺派の『弘誓山 當麻寺』が。『當麻寺 山門』。『本堂』。「弘誓山 當麻寺永観堂禅林寺を本山とする浄土宗西山禅林寺の寺院である。派祖西山空上人が天福2年(1234)に創建と伝えられている。本尊は「山科大仏」とも呼ばれる像高2.6mの寄木造の丈六阿弥陀如来像である(昭和59年京都市文化財に指定)。寺宝の當麻曼荼羅は「観無量寿経」という経典を絵で説いたもので、古代インドのマガタ国の「王舎城の悲劇」と称される親子間の悲劇を描いた「韋題希夫人物語」を題材として釈迦が夫人に説いた阿弥陀様と極楽世界の様子を表現している。奈良・當麻寺の當麻曼荼羅に基づいて室町時代末期から江戸時代初期に制作された。縦3m、横2.25mで平成28年6月に3度目の保存修理が行われた。極楽世界の鮮明な色彩が残っている。境内、正面には「やすらぎ観音さま」が安置されている。」本堂脇の『やすらぎ観音』。境内の石仏群。旧東海道を進むと左手のクリーニング丸江の先の路地角に『五条別れ道標』があった。 ここは三条通りと五条大橋の追分で、道標の北面には「右ハ三条通」 、東面には「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛今ぐ満きよみず道」 南面には「宝永四丁亥年十一月」と刻まれていると。ここ五条別れ道道標から京都三条大橋までは約6㎞程の距離。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.07
コメント(0)
昨日6月5日の17時頃、マスクをした郵便配達の方が我が家のポストに、あの「アベノマスク」を届けてくださいました。安倍首相が各世帯に「布マスク2枚配布」を発表したのが確か2020年4月1日。そして昨日6月5日に漸く我が家に届いたのであった。「みなさまへ みなさまには、コロナウイルス感染拡大防止に向けた取り組みにご協力いただいていることに、感謝申し上げます。感染拡大を防ぐため、これまでどおり「3つの密(密閉、密集、密接)を避けていただくとともに「新しい生活様式jを実践いただくようお願いします。その際、目分は感染者かもしれないという意識をもっていただき、症状がない人でもマスクの着用をお願いします。 この度、一住所あたり2枚の布マスクを配布いたします。十分な量でないことは承知しておりますが、使い捨てではなく、洗剤を使って洗うことで、再利用可能ですので、ご活用ください。」「新しい生活様式」の実践例。①一人ひとりの基本的感染対策 感染防止の3つの基本②日常生活を営む上での基本的生活様式このマスクは洗っていただくことで、再利用できます。布マスクの利用・洗濯方法新型コロナウィルスを防ぐには。日常生活で気をつけること縦95mm✕横135mmの布マスクが2枚、ビニール袋に入れられて。報道では今回の「アベノマスク」配布について、かまびすしく、その大きさ、効果や経済性について論じられているが、どうしたらこの21世紀型の疫病であり、人類の生存に大きく関わる課題そして医療システムを破壊する全く新しいタイプの疫病に立ち向かい、一人でも多くの国民を救えるか、ということに集中すべき時なのに、この問題が政治利用されて国民が分断される方向に向かっていることに甚だ疑問を感じているのである。そんな中、今回の「布マスク」、「2枚郵送」について、的確に説明してくれているページ👈リンク があったのでここに紹介させていただきます。製造、品質管理、配送等に関わったすべての方々に感謝し「大切に」使わさせていただきます。-------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次追分道標を右に旧東海道を進む。追分町自治会館前に『追分町標柱』が。「この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点に当たっていました。追分の名は、このような街道の分かれ道で、馬子が馬を追い分けることからきたものです。なお、江戸時代、付近の街道沿いには、鬚茶屋町、南北追分町の三か町が並んでいました。」 と記されていた。『追分町標柱』の直ぐ先右手に高い『山門』が姿を表す。真宗大谷派の『放光山 閑栖寺(かんせいじ)』の『鐘楼門』。その門脇にある『東海道』道標と『車石・車道』の説明駒札。「車石・車道東海道大津・京都間三里(約12㎞)の道には、物資を運送する牛車の通行を楽にするために、花崗岩の厚板石が敷き詰められていた。これが車石で、溝は牛車の頻繁な通行によって擦り削られて出来たものである。文化2年(1805)には、画期的な車石施設工事が行われ、歩車道分離が整備された。この付近は、京に向かって右側が車石の敷かれた車道で、左側は人や馬の通る人馬道であった。人馬道は、旅人の安全の確保のために、一段高く設けられていた。境内には、当時の状況を一部復元して保存している。」『車石』。『放光山 閑栖寺』寺標と『鐘楼門』。『閑栖寺 本堂』。再び『宝暦時代期 車石本堂内陣 余間基礎石 二基 斜め溝 一基』文化二年(一八〇五)以前の宝暦年間(一七五一~一七六四)に西原宗佐エ門が用いたとする車石。元禄2年(1689)和風句碑「大津絵の源流 追分絵追分の 絵師もしらしな けさの春」緩やかな下り坂を進む。『閑栖寺』の先の国道1号線と西大津バイパスの合流地点の脇にプラスチックの鞘堂が現れた。『上横木町地蔵堂』。国道1号線側に回ると京銘菓で知られる「井筒八橋本舗」の追分店があった。玄関には名水「走り井」と、大津絵発祥の地碑が建っていた。江戸時代にこの水で作った名物「走り井餅」を食べ、のどを潤したと。駐車場には坂上田村麿像と天智天皇像が。坂上田村麻呂は、桓武天皇から征夷大将軍を任じられたほか、清水寺(京都市東山区)を創建したとされ、京都市山科区の西野山古墓に埋葬されたとみられる。石像は台座も含み、高さ約7mと。急ぎ足で旧東海道に戻る。『旧藤尾小学校跡地』碑が建っていた。地蔵堂の先左手筋角に小さな道標が建っていた。道標には 『牛尾山を指していると思われた。『法厳寺』は、牛尾山の中腹にある寺院で創建は不詳であるが、奈良時代の創建と伝わっており、かつては清水寺の奥の院と言われ、通称を牛尾観音と呼ばれているのだと。左手には連子格子の旧家そしてその先に蔵が。旧家の板壁の年輪の板目模様の見事さに感動。こちらは蔵の板塀。『煌めき大津賞 都市景観部門受賞』振り返って。直ぐ先で国道1号線に突き当たり、旧東海道は分断されるが、横断するには手前の横断歩道橋を渡らなければならなかった。歩道橋上から国道1号線の大津方面を。山科方面。電波塔であろうか。歩道橋を渡り暫く進み前方の三叉路を右に進む。『旧東海道マップ』を確認。三叉路にあった横木一、二丁目『住宅表示区案内図』。『車石』案内板。「車石大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきまよした。江戸時代中期の安永8年(1778)には、牛車だけでも年間15,894輌の通行がありました。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。京都の心理学者脇坂義堂は、文化2年(1805)に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけて約12㎞の間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の石を敷き並べ、牛車の通行んき役立てました。これを車石と呼んでいます。」『車石』絵図。その下にも『車石』案内。「旧東海道をお歩きの皆様へ「以前この地は近江の国藤尾村横木と言われました。その横木とは牛車や大八車が泥濘で通行に大変な苦労をしたので、堅い丈夫な木を横に敷き詰め荷車の通行に役立っていたので、その名前が付いたと言われています。しかし、荷物の重さで直ぐに取り換えなくてはならず、以後花崗岩の石に取り換えられ車石となりました。」別の場所にも、同様な案内板が。「旧東海道をお歩きの皆様へ江戸時代この地は近江の国滋賀郡藤尾村北上ゲ田、(以後横木)と言う地名でした、現在の地名は大津市横木1丁目です。近江米を京都に運ぶ重要な街道で水車を使って精米する米屋が点在して、小関道の石碑角に立派な縁台の付いた茶店も御座いました。」『車石』。右手に石灯籠と道標が。道標には 『三井寺観音道・小関越・願諸来者入重玄門・文政五季十一月建立常飛脚問屋』と刻まれていた。三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院。三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分(分岐点)。北国街道を利用する旅人にはこの道が近道だったのだと。明治36年(1903)の『常夜燈』。『三井寺観音道』を振り返る。小関越道標の筋を5mほど入ったところにあった『地蔵堂』。旧東海道に戻り進むと滋賀県大津市から京都府京都市に入る。標識の建っているところに細い水路があり、ここが県境になっているようであった。右手の民家の塀の角の中にあったのが『四ノ宮岩久保町地蔵尊』。『山科四宮郵便局』が左手に。『道標 山科区 四ノ宮大将軍町』。前方に『旧三条四ノ宮』の案内標識が。標識『旧三条四ノ宮』。ここを右手に入ると京阪京津線『四宮駅』があった。更に暫く進んでいくと「シティホール山科 玉泉院」手前の右側にも旧家が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.06
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次先に進むと左手の民家前に『大津算盤の始路・片岡庄兵衛解説碑』が。江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長十七年(一六一二)、片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。 同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。 なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。」この石碑は、見落としていたが、旅友Sさんに教えていただき50m程引き返して撮影。左手に『月心寺』。「東海道五十三次 大津宿 保永堂版」に描かれている井戸「走井」が残る寺。「走井餅」が名物として親しまれた「走井茶屋」。名前の由来となった清水の湧き出る井戸「走井」。。この辺りは京への輸送路であったため、荷車が通りやすいよう石・「車石」を敷き、轍の幅で溝が作られていた。今も残る、走井の月心寺。内部の走井庭園の特別公開は2019年度まで週末行っていたようだが、2020年は実施しない事になったようだ。『道標』。『道標 「右一里丁 左大谷町」』。この付近に江戸日本橋から数えて123里目の一里塚があったと。ここは滋賀県大津市大谷町。石垣に沿って先に進むと左手の階段の上にあったのが『瑞米山(ずいべいさん) 月心寺(走井居)』の『山門』。寺号は日本画家・橋本関雪の戒名月心院から、山号は夫人ヨネの戒名瑞米大姉からとったものであると。山門の扁額には「往来」の文字が。逆光の『月心寺 境内』👈リンク。月心寺はかつては走井の茶屋として繁盛していたが、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったという。月心寺の庭園に有る井戸は、歌川広重が描いた東海道五十三次大津宿走井茶屋に描かれた走井の水であると言われている。境内の『五輪の塔』は橋本関雪夫妻の墓所or供養塔であろう。『月心寺 本堂』。境内の石垣は膳所城の石垣を移築したという。十三重塔と石仏の姿も。『月心寺 本堂』を横から。走井居は国道1号線に面して建っていた。日本橋から487.5km。この場所・『月心寺』の外れに立っていた電柱には『元一里塚町』、現『大谷町』と。街道はしばらく山間の道を進むが、隣には車の往来の激しい国道1号線が走り、その隣に京阪電鉄京津線と名神高速道路の高架が並行していた。そして前方の高架下を進む。名神高速道路の高架をくぐると旧東海道は左の旧道に入るが、右手の国道1号線と京阪電鉄京津線を渡った段上に浄土宗の『光明山 摂取院』。『大津市追分町』歩道橋手前を左に折れる。この先を暫く進むと、道筋の北側が滋賀県大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、我々は滋賀県と京都府の県境を歩いて行ったのであった。『摂取院』は天正2年(1574)道春による開基であり、境内には大小5つの地蔵堂があると。また東海道と京街道の分岐点である追分町髭茶屋にあった道標が、中程で繋ぎ補修された状態で保存されているとのこと。再び山門と本堂の巨大な屋根を見るが訪ねなかった。左に折れると右手にあったのが『大津警察署 藤尾交番』。交番の先左手に『地蔵堂』があり、正面の香炉には大日如来と刻まれていた。御堂内を覗き込むと、いくつかの地蔵尊や石仏があり、中央に大日如来?と思われる石仏が。『地蔵堂』の直ぐ先右手に本門佛立宗の『長松山 佛立寺』が。『山門』。道路から『佛立寺 本堂』。佛立寺は、安政6年(1859年)に開創された本門佛立宗最初の寺院で、初転法輪道場と呼ばれ、また、慶応4年(1868)開導聖人初の法難にちなみ法難地道場とも称される。本堂に掛かる『長松山』の扁額。慶應2年(1866)の『常夜燈』。『開導日扇上人像』。「開導日扇上人像禁門の変(元治元年)の後、当地に御住居当寺(聖寿四十八才頃)を偲ぶお姿なり。仁和寺の宮家の御内人となり今大路法橋清風延斎と名のると共に菊華金紋の使用と帯刀を許される居宅を今大路屋敷と称されしなり。」『佛立開導 日扇上人御法難之地碑』。『佛立開祖 日扇霊碑』。「追分にほど近く酒造業を営む小野山勘兵衛は、永年胃病に苦しみ、思い余って自殺を図るが、信者の高橋儀三郎の命がけの勧めにより入信。熱烈な夜通しのお助行の甲斐あって翌朝、見事平癒。余りの有難さに自宅での御講を乞われ、安政6年8月、目出度く「大津佛立講」がご開講された。更には2年後、勘兵衛の親戚に当たる信者御牧卯兵衛と妻イホ女は、茶畑(現佛立寺の土地)をご有志され、翌年文久2年、立教開宗記念日に当たる4月28日に、法華堂の棟が上がり、ここに「本門佛立講」最初道場が建立されたのである。」とウィキペディアより。『南無妙法蓮華経題目碑』。『今大路御旧邸』慶應元年(1865)2月、法華堂の西隣に三牧卯兵衛の発願で、開導日扇上人の住居として建立したと。旧東海道から『佛立寺』を振り返る。左手に複雑な『表示板』。この先、道路の左手が京都市、この先右手と、手前の歩いて来た両側は大津市であると。ーが府県境で旧東海道の道路左側に、そしてその手前で大きく左に。よって、この先の道路はしばらくは大津市であると。道路の中央ではなく左側が府県境界線であるのだ。左側の京都市の旧家の前に昔の『糸より機(撚糸機)』か。『糸より機』を見ていると、この家にお住まいのお母さんが出て来てくれ、暫しの歓談。これぞ一期一会。玄関の前にある縁石は『車石』であると。お土産にと手作りの『お香入り福鈴』を頂きました。早速お守りにとリュックに取り付けました。「お香入り福鈴紐結びは人とのご縁を結び鈴の音はよく鳴る(成る)と云われ何事も良い方向に進み大変演技がよいといわれています。」部屋の奥からお宝の『木の化石』も見せてくださいました。「珪化木」と言い岩石になった木の幹。もう1個には、時計が嵌め込まれていた。二畳紀(2億9000万年~2億5000万年前)アリゾナ州USAと書かれたTAGが付いていたが本物であろうか?振り返ると道路の左側には『滋賀県大津市』と。右・大津市、左・京都市の旧東海道を更に進む。すると三叉路の正面の分岐場所に石碑と案内板が。ここが「伏見道(髭茶屋)」の追分。『道標』正 面:みきハ京みち右側面:柳緑花紅東海道と京街道の追分でがここ。東海道57次と言う場合はここ髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となるのだ。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼ぶ。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのだと。この道標は昭和29年3月再建とあり、摂取院にあった道標のレプリカ。そして『蓮如上人御塚』碑。石碑には「明和三丙」と刻まれていると。いずれの道標も下部は鉄板で包まれて保護されていたのであった。こちら赤い線が『東海道57次』・『京街道』のルート図。京街道とは、大坂から京都へ向かう街道の総称であるが、大津宿の先、ここ髭茶屋から伏見、枚方などを経て大阪市内、高麗橋までの道をいう。徳川家康は大名が京都で公家と接触するのを禁止したため、大名行列は髭茶屋で京へ向う東海道と分れ、京を通らずに大坂へ向うことになった。この間は東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた。このため4宿を足して『東海道57次』・『京街道』と呼ばれる。元々文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が淀川左岸に築いた「文禄堤」が起源である。全長約56kmであると。ここから『東海道57次』・『京街道』にも挑戦するか? 【http://kurokamikousaku.blog.fc2.com/blog-entry-3818.html】よりここは『髭茶屋町』・現追分町。「歴史に刻まれた街道(追分)分岐点にあたり、馬子が馬を追い分けることからその名前の由来となっています。「大津絵の 筆のはじめは 何仏」と芭蕉も詠んでいる大津絵は追分で生まれ大津算盤も当地で日本人向けに改良され全国に広がりました。」『大津 追分 絵図』ここ髭茶屋追分は東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点となっており、江戸時代から交通の要所として栄えていた。京都と江戸を結ぶ東海道の宿場町として多くの旅人が往来し、土産品として大津絵が定着していったと。更にズームで。大津絵は江戸時代初期に近江国追分(おいわけ)の髭茶屋追分で発祥したとされていると。京街道(東海道57次)に入った直ぐ左にあった社と頌徳碑(しょうとくひ)。そして、右の旧東海道を山科方面に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.05
コメント(1)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次大津市逢坂1丁目の旧東海道を進む。「日本一のうなぎ店 かねよ」の看板があった。先に進むと、右カーブの手前右側にあったのが『弘法大師堂』。門前右に寛政6年(1794)の弘法大師常夜燈、『逢坂山 弘法太子堂』寺標、そして『弘法大師御舊蹟碑』が見えた。ここは車が多く往来し、カーブで見えないこともあり、道路を渡るのは危険と判断し道路の反対側から写真撮影した。中央に弘法堂があり、中には小さな弘法大師像が安置され、脇の不動堂には阿弥陀如来像と不動明王像などの石仏が安置されているのだと。『弘法大師堂』の先の道路脇にあった寛政6年(1794)の『逢坂常夜燈』。更に右カーブの『逢坂』を上って行った。左手の坂を上っていく道は『逢坂山 水車谷 不動尊道』と呼ばれているようであった。更に切通しの如き『逢坂』を上って行く。左の石垣に『車石』を描いたプレートが埋め込まれていた。「大津ー京都間を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資として利用されてきたが、この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。 京都の心学者・脇坂義堂(わきさかぎどう)は、文化2年(1805)年に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを車石と呼んでいる。」いたずらであろうか?絵は黒く上塗りされてしまっていた。本来ならば・・・・。 【http://youyou.way-nifty.com/blog/2014/05/post-984e.html】よりその先のこれは??『逢坂』を上りきった右手に平成21年(2009)に完成した『逢坂の関記念公園』があった。横断歩道手前にあったプレートには「蝉丸 これやこの ゆくも帰るも 別れては 知るもしらぬも 逢坂の関」と。昔、子供の頃百人一首の遊び方の1つ「坊主めくり」をやったことを想い出したのであった。その時のルールは確か・絵が描かれた方の札=絵札(読み札)を使う。 シャッフルした絵札を、裏向きにして積む。(=山札)・参加する人は、山札の周りに丸く円を描くように座る。・順番を決め、参加者が順に山札から1枚づつ札を取る・絵札が男性(殿)の場合、そのまま、自分の手札にする。・絵札が僧侶(坊主)の場合、引いた人は自分の手札全てを捨てる。捨てた札は山札の横に置く。・絵札が女性(姫)の場合、山札の横に置かれた札(坊主を引いた人が捨てた札)、 全てをもらう。・山札が全てなくなった時、一番たくさん札を集めた人の勝ち。その時の坊主札の代表がこの『蝉丸』の札であったのだ。百人一種の『蝉丸』の一例。しかし、姉からは “これは坊主じゃない” と言うような事を聞かされた記憶が有ったような無いような・・・。平家物語では、『蝉丸』は醍醐天皇の第四皇子となっているのだと。 【http://photozou.jp/photo/show/215898/190839139】より寛政6年(1794)の逢坂『常夜燈』を見る。その横には『逢坂山関址碑』(右)と『関門の基礎蹟と手水石』(左)が。横断歩道を渡り近づいて。その左下には『関門の基礎蹟と手水石』が。『逢坂山関址』碑。『逢坂の関』案内板。「逢坂の関●歴史と自然あふれる町 大津市大津は京都に隣接していることもあり、歴史の舞台に何度も登場してきた地です。このような背景から、世界文化遺産の比叡山延暦寺をはじめ、三井寺や石山寺などの歴史遺産を有し、平成15年10月には、全国で10番目の「古都」指定を受けました。また、日本一の大きさを誇る琵琶湖、比叡山系や比叡山などの自然に恵まれ、これらが生み出す美しい風景と自然を、四季を通じて楽しむことができます。数多くの歴史遺産と豊かな自然、それらが育む温かい人情にあふれる大津は、多くの人々を魅了しています。●逢坂の関逢坂の関の初出は、平安京建都の翌年延暦14年(795)に逢坂の関の前身か廃止されたという「日本紀略」の記述です。その後、逢坂の間は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。逢坂の関の位置については現在の関蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺のある辺り)の周辺にあったともいわれますが、いまだにその位置は明らかになっていません。」現国道1号線の「瀬田川大橋」(滋賀県大津市瀬田1丁目)の上空からの写真か。逢坂の関。常夜灯の隣りに実際に使用された『車石』が埋め込まれていた。車の轍(わだち)に合わせて溝が掘られていた。この上を物資を運ぶ牛車が通ったのだ。ここ休憩所横壁にも別の『逢坂の関』案内板が。左に「周辺の社寺」1・2 関蝉丸神社上社・下社3 蝉丸神社4 月心寺5 長安寺・牛塔」長安寺の牛塔と呼ばれる長安寺の重文・石造宝塔。高さ一丈(約3.3m)、八角型の礎石の上に周囲16尺の巨大な壷形の塔身をおき、笠石をつけたもの。1018~22年に恵心僧都が再興した折に、牛が大いに働き、その牛の供養のために造立されたと伝えられている。 【https://ameblo.jp/teravist/entry-12543122827.html】より「逢坂の関と文学」●小倉百人一首これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言●源氏物語 「関屋」の巻 常陸芥と共に東国に下っていた空蝉と石山詣の途中の光源氏が再会する非常に印象的な 場面が描かれています。 「賢木」の巻 斎宮下向の日、思いを募らせた光源氏が、娘と共に伊勢へ下る六条御息所に歌を贈ります。 それに対する御息所の返歌 「またの日 関のあなたよりぞ 御返しある」(「関」とは逢坂の関) その他 「枕草紙」の中にも逢坂の関について記述があります。●「逢坂峠と東海道」 大津は、奈良時代の昔から、物資の集散する京の玄関口として大いに栄えましたが、 この繁栄を支えてきたのはまぎれもない東海道でした。特に、逢坂峠は、東海道の中でも 要塞の地とし重視されており、逢坂峠から瀬田を含む大津宿周辺は、街道一の繁栄を 極めました。街選沿いには、大津絵や針、大津算盤などを売る多くの店が軒を連ねる ようになります。また、車右と呼ばれる石を敷き詰める街道の整備も行われました。伊勢参宮名所図会 逢坂越 【http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1202.html】より『車石、大津算盤、大津針、大津絵』案内板。●車石 江戸時代に逢坂越は、大津港で陸揚げされ京都へ運ばれた米俵などの輸送にも重要な役割を 果たしました。 これら物資を運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が 敷設されました。 その工事は文化元年(1804)から翌2年にかけて行われました。 車石は、今も京都・大津間の旧東海道沿いに残されており、当時としては画期的な街道整備を 知る重要な文化財となっています。」●大津算盤 大津は日本国内での算盤発祥の地と伝えられています。大津算盤は、慶長17年(1612) 大津一里塚町(現大谷町の西側)の片岡庄兵衛が、長崎で朝(中国)から算盤を手に入れ、 改良を加えたことに始まります。材質は、珠がツゲ、ヒイラギ、ウメ、枠がカシ、カキ、 黒たん、紫たんなどで、桁の軸には丈夫な細竹が使用されていました。また枠や梁の 裏側(底部)には、作者の居住地と名前が木版印刷された和紙が貼られているものも 多くあります。算盤製造は明治期に入って廃れていきましたが、算盤師の看板や製作道具、 宝永2年(1705)銘の算盤などが現存しています。なお製作道具と宝永銘の算盤は 市指定文化財です。●大津針 江戸時代の「東海道名所絵図」によると、逢飯山付近の名物として「大津絵、算盤。縫針」の 人気がありました。貝原益軒は「逢坂山この辺の町に針を売る所多し。虎屋を良工とす」と 評しています。このように大谷の虎屋針は良質の針として知られていました。 また追分池川針やみすや針も有名で、当時は人気を得ていたと伝えられています。 いずれも現在は途絶えています。●大津絵 大津絵がいつごろから始まったものか、はっきり年代を示す史科はありません。 しかし、17世紀前期には、東海道を往来する旅行者用の土産物として絵が売られるように なったと考えられています。その後、大津絵は近松門左衛門の「傾城反魂香」 (宝永5年(1708)初演)によって全国にその名前が知れわたることとなりました。 大津絵は庶民向けの絵であることから、生産コストを抑えるために描写も簡略化し、 細かい描写は小型の版木を押して、すぱやく描けるように工夫してあります。 そして、その素朴な画風は様々な画家に愛され円山応挙や富岡鉄斎、浅井忠なども大津絵を モチーフにした絵画を描いています。また大津絵の魅力に魅せられた愛好家は全国各地に 沢山おられ、その伝統は今でも受け継がれています。「逢坂峠と車石」 鈴木靖将画【https://kitahata55.co.jp/untiku/kengaku/neziri-bangai/01-kuruma-isi/kuruma-isi.htm】大津算盤 案内部をズームで。御針所 看板 【https://japan-geographic.tv/shiga/otsu-otani.html】より大津絵・鬼の念仏『清少納言歌碑』「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ」👈リンク。『三条右大臣歌碑』「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」👈リンク。『蝉丸歌碑』「是れやこの 行くもかへるも 別れては 知るもしらぬも 逢坂の関」👈リンク。右手の坂道の入口にあったのが『大津絵販売之地』碑。逢坂の関では走井餅や算盤と並んで大津絵が旅人の間に人気があった。大津絵とは江戸時代初期東海道53次の大津の宿場(大津の追分、大谷)で軒を並べ、街道を行き交う旅人に縁起物として神仏画を描き売ったのがその始まりである。浜大津の印鑑店「ハン六」の二代目松室六兵衛が明治時代にこの地で大津絵を刷って売りさばいていたことを示していると。『逢坂の関記念公園』の斜向かいに『地蔵堂』があったが、一体の地蔵尊が安置されていると。地蔵堂を見ながら更に進む。『東海道五拾三次 大津宿 走井茶店』。■大津名物「走井餅」茶店、茶店、店の前に「走り井」がコンコンと湧き出ている。 牛車は、のんびり京都へ向かう。『地蔵堂』の先に明治5年(1872)創業の老舗 『かねよ』という『うなぎ屋』が。「寒うなぎは今が旬!!」の幟が。現在では鰻は夏の土用の行事食ということになっているが、、江戸時代には冬の土用、つまり立春前の寒中にも鰻を食べる風習があったと。これを寒鰻というのだと。うなぎは冬のほうが脂が乗っているため、冬にうなぎを食べるのは理に適っていることを初めて知ったのであった。「鰻福感(まんぷくかん)」と。座布団一枚!!道路の両側にあった老舗『かねよ』。慶應時代の峠茶屋風景を暖簾に描いていた。そして、残念ながら営業時間は、11時から20時(ラストオーダー)と。『ウナギの上に極厚玉子焼きがのった日本一のきんし丼』を食べたかったが・・・。 【https://minnanoshare.net/theme/200035291/】よりこちらでも。 【https://tabelog.com/shiga/A2501/A250101/25002530/】より大津市大谷町の旧東海道を更に進む。老舗 『かねよ』の直ぐ先右手に『蝉丸神社』がここにもあった。右手に『蝉丸神社』社標。「蝉丸神社の由来当社は天慶九年(九四六年)蝉丸を主神として祠られております。蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものです。その後、万治三年(一六六〇年)現在の社が建立され、街道の守護神猿田彦命と豐玉姫命を合祀してお祀りしております。これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさか乃せき 蝉丸」急傾斜の石段参道。手前に元文5年(1740)の『蝉丸大明神常夜燈』と阿吽の『狛犬』。上り詰めに建つ鳥居。見学はここまでで階段を降りる。蝉丸神社「神楽堂」をネットから。 【https://hidachi.net/temples/semimarujinjya.html】より「拝殿」をネットから。 【https://yaokami.jp/1250035/】より旧東海道に戻って坂道を下ると、左手の民家の植栽の中に道標が建っていた。道標には、「右 京三条」、「左 伏見」 と刻まれていた。右手の民家の前にあった『河合清楓荘』碑。『元祖走井餅本家』走井茶屋は、安藤広重作「東海道五十三次」の大津宿にも描かれているのだ。「東海道の中でも最も栄えた大きな宿場でした。「走り井は逢坂大谷町茶屋の軒場にあり、後の山水ここに走り下って湧き出づる事、瀝々として増減なく甘味なり」とある有名な泉のある茶屋のありさまが描かれています。米俵を運ぶ車が連なる図は、大消費地京都を間近にひかえ、物流の流通が盛んであったことが偲ばれます。」『走り井餅』。 【http://www.hashiriimochi.co.jp/shop/】より『道標 大谷町 京阪大谷駅前』。「逢坂山関址碑平安時代、逢坂越えの道(東海道)は京都と大津を結ぶ幹線道路であり、不破・鈴鹿と並ぶ三関として弘仁元年(810)逢坂がおかれた。 逢坂検問所前にある関址碑は、昭和6年から8年(1931~1933にかけて行われた国道改修工事の際に建立されたものである。」この後、旧東海道は『京阪京津線』を越えて国道1号線と合流するため歩道橋を渡る。歩道橋から京都方面を見る。こちらは大津方面。歩道橋を渡り、国道1号線を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.04
コメント(3)
一昨日、漸く我が家にも『特別定額給付金に関するお知らせ』が送られて来ました。「特別定額給付金のご案内・給付対象者は令和2年4月27日(基準日)において、我がF市の住民基本台帳に 記載されている方。・受給者は給付対象者の世帯主。・給付額は給付対象者1人につき10万円。・申請方法 1)送付されて来た「特別定額給付金申請書」の郵送申請 本人確認書類(マイナンバーカード、運転免許証など)のコピー 振込先口座の通帳やキャッシュカードのコピー(金融機関名、口座番号、口座名義人が わかるもの)を同封する、 2)オンライン申請(マイナンバーカードを持っている方のみ) マイポータル上で特別定額給付金の申請画面から、世帯主及び世帯員の情報並びに 振込口座情報を入力した上で、振込先口座情報の確認書類をアップロードする。・申請締切日 令和2年8月31日 「特別定額給付金申請書」給付対象者名の欄の最後に、『希望されない方は「❌」を記入して下さい』と。無記入の場合や「◯」、「レ」などを記入された場合は全て振込対象とみなします。と我がF市は非常に丁寧・親切に表現されています。しかし、手続きで、誤って受給を辞退してしまうケースが懸念されているのだと。郵送申請書の記入が分かりにくいため、勘違いをして「受給を希望しない」の欄にチェックしてしまう人が少なくないとして、自治体が注意を呼びかけているとテレビのニュースで。市民が誤って受給を辞退することがないよう、国の標準様式からチェック欄を外した市もあるのだとも。「本人確認書類のコピー」の例の説明書。「振込口座が確認できる書類のコピー」の例の説明書。「特別定額給付金 Q&A」「新型コロナウイルス感染症に関わる相談窓口」そして生活支援:もらえるお金や借りられるお金、支払いの猶予などの一覧表も。「教育・子育て支援」「経済支援:事業者が対象の給付金、協力金、融資など」説明書。そして「記入例」も。これらの書類は、国の原案(標準様式)に基づき各自治体で独自に作成したものらしい。そういう意味で我がF市は市民に優しく、記入しやすい配慮がなされていると感じたのであった。私は1週間以上前にネットで既に申請済みであるが、指定口座に振り込まれるのは、いったいいつになるのであろうか?友人の中には既に振込を確認した方もいるのであるが・・・・。-------------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次京阪電鉄京津線の踏切を渡ると右手に『逢坂』碑そして『蓮如上人旧跡碑』が門前にある浄土真宗本願寺派の『逢坂山 安養寺』があった。「逢坂山 安養寺本堂には、重要文化財阿弥陀如来坐像が安置されている。また、同寺は、蓮如上人の旧跡で、上人「身代わり名号石」が残っている。なお、境内の「立聞観音」は古く東海道名所図会等に記載されて有名である。」『蓮如上人舊跡』碑。「圓満院宮御抱所 三井寺南別所 蓮如上人舊跡」と刻まれているようであった。円満院は三井寺内にある門跡寺院。地理的に三井寺の南にあるので南別所もわかるが、そこに浄蓮如上人旧跡が重なるのは?。『山門』。『安養寺 本堂』。本尊の阿弥陀如来坐像(行基、作)は国指定重要文化財に指定されていると。蓮如が身代わりに彫ったという蓮如上人や蓮如が身を隠したと伝わる石などがある。『観音堂』。『安養寺』の手前隣りにあったのが『うなぎの養殖場』?。うなぎの生簀(いけす)があったので『仲卸』屋であろうか。この先に老舗 「かねよ」 という 「うなぎ屋」 があったがそこに卸しているのであろうか。『安養寺』を後にし更に坂を上って行った。右手にあったのが『大谷加圧ポンプ場』。大津市・山上浄水場の水道水配水設備であろう。45m3/hr✕85m✕18.5kwのポンプで送水していると。逢坂山の上部まで送水しているのであろう。前方に『名神高速道路』の高架橋の姿が。そして右手にあったのが『旧逢坂山ずい道東口』案内板。この隧道は、日本人の技術者・技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道である。明治11年(1878)10月東口から、また同年12月西口から、それぞれ掘削を進めて約1年8か月の歳月を費やして、明治13年(1880)6月に竣工したもの。左が明治13年(1880)建造の『逢坂山隧道東口』で鉄道記念物に指定されている。現存する最古の鉄道トンネルで石と煉瓦で造られている。右は明治31年(1898)の複線化工事により増設された上り線の隧道。両隧道とも大正10年(1921)の線路変更によって廃線となった。現在は京都大学防災研究所付属地震予知センターの逢坂山観測所として使用されている。トンネルから出る清水は大津市の水道水として活用されているそうだ。「旧逢坂山ずい道東口この隧道は、日本人の技術者、技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道です。明治11年(1878)10月5日東口から、また同年12月5日西口からそれぞれ掘削を始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年(1880)6月28日に竣工したもので、大正10年(1921)8月1日、線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものです。全長664.8mに及ぶこの隧道は、当時の工部省(「明治3年(1870)に鉄道・鉱山・工作・灯台・電信・造船など、殖産興業のための官営事業をつかさどるために創設された中央官庁。85年廃止。」)の直轄であった生野銀山の労働者が伝統的なノミやツルハシを主体とした手掘りで掘り抜いたとされています。こうして完成した逢坂山隧道は、鉄道の歴史に残る記念すべきもので、日本の技術史の上でも大きな意義を持つものです。坑門上部にある「楽成頼功」の扁額は、竣工を記念して時の太政大臣・三条実美の揮毫によるもので、「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であることから、縁起の良い「楽成」の字を充てました。」『旧逢坂山ずい道東口』トンネルの入口上部には、開通当時太政大臣であった三条実美の筆による「楽成頼功」の扁額が掲げられていたのでネットから転載。落成が「楽成」とあるのは、「落」は不吉としてこの字をあて、「功」は「工」の意味とされる。「明治庚辰」は開通した明治13年(1880)をあらわす。 【http://nostalghia.asablo.jp/blog/cat/otsucity/?offset=34】より『隧道内部』はこの先で封鎖されていた。『レンガ作りの天井』。『近代化産業遺産』の標示プレート。『京都大学防災研究所 附属地震予知研究センター 逢坂山観測所』の案内板。当観測所は,1970年に地震予知研究を目的として設立 された。現在,長さ670mの主坑道(旧逢坂山隧道) とそれに交差する2本の分岐坑道(観測所設立時に掘削) 内に各種の計測装置を設置して,主として地殻変動の観測を行っていると。案内板は至急、交換をすべき。『逢坂一丁目』交差点を通過。西近江路(161号線)は、国道1号線と合流した。 西近江路には歩道が無く、1号線の歩道に渡りたいのであったが、車が多くかつスピードが出ているために、渡るのに苦労したのであった。何とか歩道にたどり着き前に進む。左手に『京阪京津線』の電車が。左手の山の斜面には墓石群が。日本橋から485kmの表示であろう。下の9の意味は?そしてこちらは見慣れている国道1号線 日本橋から486km表示板。そして二つの『名神高速道路上下線高架橋』下を通過。形 式:上路式2ヒンジアーチ橋橋 長:62.2 m最大支間長:54 m完 成:1991年所在地:滋賀県大津市逢坂1丁目管理者:日本道路公団設 計:大和設計・横河工事施 工:横河工事特 徴:本橋は名神高速道路完成後25年余り経過し、当初はRC床版の損傷が生じ、 その後補剛桁、縦桁・垂直材等の鋼部材に亀裂などの損傷が発生し抜本的な対策が 必要となっていました。改良工はアーチ主構を除くすべての部材を交換するとともに 橋の剛性を高めるため斜材・対傾構を追加してスパンドルブレースアーチとしました。 床版はアーチの負担軽減等を考慮して鋼床版としました。線路沿いの国道1号線、大津市逢坂1丁目を進む。名神高速道路の高架下を過ぎると右手に『関蝉丸神社上社』があった。社殿は国道1号線に面した反対側の斜面にあったが、ここは横断歩道があり、押しボタン式信号も設置されていたのであった。『関蝉丸神社上社』は、社伝によれば平安時代、嵯峨天皇(809-23)のときに猿田彦・豊玉姫をまつり、円融天皇(969-984)の代に蝉丸を合祀したと云われている。『郷社 関蝉丸神社上社』社標。両部鳥居が壊れ簡素な鳥居になっているのだと。喜撰法師 和歌 「わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり」 訳 : 私の庵は都の巽(たつみ)1 都を離れた山の中で、このように住んでいるのだ。 その山を、俗世を「憂」しとて入った、「う」じ山と世の人々は 呼んでいるそうな。紫式部 和歌 「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」 訳 :せっかく久しぶりに逢えたのに、それが貴女だと分かるかどうかのわずかな間に あわただしく帰ってしまわれた。まるで雲間にさっと隠れてしまう 夜半の月のように。『紅梅』であろうか。それとも『花桃』?急傾斜の参道石段の先に『拝殿』が。「郷社關蝉丸神社由緒略歴一 當神社は嵯峨天皇御宇弘仁十三年(822)三月近江守小野朝臣岑守 逢坂山の山上山下の ニ所分析して坂神稱奉 是 當富社鎮座起原なり 上社祭 神猿田彦命 相殿蝉丸靈 所在地大津市上片原町 下社祭神 豊玉姫命或道反大神と云ふ 相殿蝉丸靈 所在地大津市清水町一 文徳天皇御宇天安元年(857)四月に改めて逢阪の関を闘設し、當社関所の鎮護神と 崇敬し給い坂神を関明神と稱し奉る一 圓融天嘔御宇天禄二年(971)五月論旨を給い、當神社を音曲藝道祖神とせられる。 爾来明治維新迄斯道専念の人士へ希望に任せ免許状を下附せらる一 朱雀天皇御宇天慶六年(943)九月詔を奉し、蝉丸霊を二所に合祈し仍て關大明神蝉丸宮 と稱し奉る一 正徳三年(1713)十二月二日ニ品覺尊観王法幣御參拜あらせらる一 享保十七年(1732)四月二十五日実相院宮義周観王法幣御参拝あらせらる一 文政六年(1823)季冬正二位平朝臣時章卿は音曲隆昌祈願の皐賽として自筆の法華経を 奉納せらる一 文政九年(1826)八月平松前大納言より和琴(銘瀧水)一面に譜若菜巻を添えて奉納し 音曲隆昌を祈願せらる一 當神社祭神は陸海路を守護し給ふとて旅行の安全を祈り、殊には音曲藝道祖神として 一般人士の信仰厚く亦髢の祖 神なるとて人毛製造組合亦女髪結等の信仰多し一 祭日往古は九月二十四日、今は五月二十四日に氏子十二ヶ町ぺ御輿の渡御あり一 大谷町蝉丸神社は當神社の分社なり、或る年の神事に神奥は逢坂山の峠限にて大谷町三ヶ町は 氏子中より離して大谷御林山の一部を借用しささやかなる社殿を造営して萬治(万治)三年 當神社の御分靈を奉戴して三ヶ町(上大谷 中大谷 下大谷)氏神とす 蝉丸社の三所にあるは之が爲なり」これも百人一首(右から)清少納言 「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」 訳: 夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、 函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。 (だまそうとしても、決して逢いませんよ)蝉丸 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」 訳 : これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、 皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。三条右大臣 「名にし負(お)はば逢坂山(あふさかやま)のさねかづら 人に知られで くるよしもがな」 訳 : 恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」 その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、 誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。『逢坂山』の様々な出典からの開設、近江百人一首の『逢坂山』を詠んだ句一覧4.音羽山 音羽山今朝越え来ればほととぎす梢はるかにいまぞ鴫ぐなる5.音羽山 音羽山さやかに見する白雪を明けぬと告ぐる鳥の声かな6.逢坂山 吾妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし7.逢坂山 逢坂のゆふつけ鳥にあらぱこそ君が往き来を泣く泣くも見め8.逢坂山 逢坂の木の下露に濡れしよりわが衣手は今も乾かず9.逢坂の関 逢坂の関の岩かどふみならし山立ち出づるきりはらの駒10.関の清水 君が代に逢坂山の石清水木隠れたりと思ひけるかな11.走井 走井の筧の水の涼しさに越えもやられず逢坂の関12.大津 わが命し真幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波そして『月心寺』案内。伊勢参宮名所図会より「走井」一ノ十六(株式会社井筒八ッ橋本舗 所蔵)『牛車を助けた峠道の車石』案内。【江戸時代のレール】 江戸時代、逢坂山の峠道には「車石」というものが敷かれていました。花崗岩に車の轍(車輪を通すための溝)を掘り、二列に並べた車石が、大津から京都の三条にかけての約3里(12キロ)に敷き連ねられ、荷車が峠を越える手助けとなりました。▲かつて逢坂山の峠道に敷かれていた車石。石に車輪を通すための溝を掘り、それを敷き連ねて荷車が峠を越える助けとしました。西洋のレールと逆の発想がおもしろい。▲奥に牛車が通っており、その通り道だけ一段掘り下げられているのが分かります。この頃にはすでに通行の安全を図るため、歩道と車道が区別されていたようです。【滋賀から京都へ】鉄道が引かれるまで琵琶湖は、北海、北陸からの海産物や米等を京都へ運ぶ重要な水運でした。それら多くの物資は、大津港から馬車、牛車により逢坂山、九条山を越えて京都へ運ばれて行きました。しかしながら逢坂山は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。そこで、文化2年(1805)京都の心学者脇坂義堂が一万両の工費を投じて工事にあたったもので、これによって牛車などによる荷物の運搬が円滑に進むようになったのです。【工夫を凝らした一方通行】道は、歩道と車道に分けられていて、歩道は車道よりも高くしてあり、通行の安全を図るため、また、車の通行の邪魔にならない様に配慮してあったようです。また、車石は単線の為、午前は京都行き、午後は大津行きと、時間による一方通行になっていました。【歌人も詠んだ名水】京の都と近江を分かつ逢坂山。その逢坂越えの大津追分には、清らかな水が勢いよく湧き出す井戸があり、古来より「走井(はしりい)」と呼ばれてきました。枯れることのない清浄な泉として平安時代から名高く、大宮人たちが歌に詠んでいます。「走井の程を知らばや逢坂の関ひきこゆる夕かげの駒 元輔」「走井の 筧の水の涼しさに 越えもやられず 逢坂の関 清輔」【走井と走井茶屋は、いま】走井は下の大谷町にあり、石を畳みて一小の円池とす。其の水甚だ清涼にして、冷気凛々たり。今は茶店の庭とし、旅人憩いの便とす。茶店の主、築山泉水を設け、且つ薬を売る。誠に此の水の如きは、清うしてなめらかなり。右より名を得しもことわりかな、湧き出づる水の勢走井の名もうべなり。枕草子に"走井は逢坂なるがおかし"と」(『近江与地志略』1734)蝉丸 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」解説文👈リンク。現代語訳 : これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、 皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。清少納言 「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」解説文👈リンク。現代語訳:夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、 函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。 (だまそうとしても、決して逢いませんよ)三条右大臣 「名にし負(お)はば逢坂山(あふさかやま)のさねかづら 人に知られで くるよしもがな」解説文👈リンク。現代語訳:恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」 その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも 知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに。『逢坂山、逢坂の関 あれこれ』解説文👈リンク。『和歌に詠まれた逢坂の関』解説文👈リンク。逢坂山とは京から大津(滋賀)に向かう途中にある標高325mの小高い峠である。山の高さはそれほどではないが、勾配がきついため昔から難所として有名で、さらに都と東国、北国を結ぶ北陸道、東海道、東山道(後に中山道などに再編)が交わる交通の要所でもあり、京都防衛のため逢坂の関がおかれていた。不破関や鈴鹿の関とともに天下の3関と称されている。この逢坂山は名前からして大阪の近くにあると勘違いされやすい。しかし平安時代から度々「人に逢うと人通さぬ峻険なる山の二面性」から和歌にもよく読まれている。百人一首に記載されている蝉丸の「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」とか清少納言の「夜を込めて 鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」や、紀貫之は「逢坂の 関の清水に かげ見えて 今やひくらん 望月の駒」などと名だたる歌人が逢坂山を読んでいる。清少納言は「枕草子」の作者としてあまりにも有名だが、一条天皇の時代、正暦4年(993年)に私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、殿上人と才気ある受け答えをして宮廷社会に溶け込んでいた。そんな折に関係があった男性の一人が藤原行成で、彼は一条天皇の蔵人頭として抜擢され、天皇と執政の藤原道長の両方から信任され、書がうまく三蹟の一人して数えられている。清少納言の百人一首の歌は彼への歌で中国の孟嘗君の故事に基づいている。秦の昭王に命を狙われた孟嘗君は、秦国から脱すべく、夜間に函谷関に至った。しかし関は、鶏の声が朝を告げるまで開かない取り決めになっていた。そこで孟嘗君は、食客の一人に鶏の鳴き真似をさせ、函谷関を突破したという。「史記」に載っている話。「夜をこめて鶏のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」「嘘の鶏の鳴き声などでは、私の恋の関は開きませんよ。しっかりした関守がいますからね」と、強く突っぱねた歌。それに対して行成の返歌は「逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」「逢坂の関は誰でも越えやすい関で、いつも開け放って待っているのだと聞きますが」とひどい返歌に清少納言は怒ったとか。一方、蝉丸は醍醐天皇の第4皇子との説があるが定かではない。蝉丸は生まれつき盲目で琵琶の名手として有名で琵琶の名器、無名を愛用し、逢坂の関に庵を結んだ。彼にいつわる話は色々と取り上げられている。平家物語の「海道下」には一の谷の戦いに敗れ生捕りになった平重衡(たいらの しげひら)が、京都から鎌倉へ護送される場面が描かれている。「四宮河原になりぬれば、ここは延喜第4皇子蝉丸の関の嵐に心をすます、琵琶を弾き給いしに、博雅の三位と言いし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨のふる夜も降らぬ夜も、三年があいだ、歩みを運び、たち聞きて、彼の三曲をつたえけん わら屋のとこのいにしえも、おもいやられてあわれ也。逢坂山踏み越えて、瀬田の唐橋駒もとどろにふみならし、——」。と書いてある。管弦の名人であった源博雅が、逢坂の蝉丸のもとに三年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉」「啄木」を伝授されたという伝説が重衡の鎌倉への護送という悲運の場面をもり立てる様に引用され、益々哀れさを掻き立てられる。今や、逢坂山は京都と大津を結ぶ国道1号線として昔の面影はありませんが、それでも狭い谷間の道を京阪電車が車がひしめき並行して走っています。その京阪電車の小さな無人駅「大谷駅」のすぐそばに蝉丸神社や逢坂の関跡がある。『蝉丸本宮』。参拝者は全く無くて、社務所も無人。実に静か。『関蝉丸神社上社本殿』の内陣。更に鏡にズームしたが・・・・。『郷社關蝉丸神社由緒略歴』がここにも、そして様々なスナップ写真が。関蝉丸神社 上社・下社『御朱印』案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.03
コメント(3)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次JR東海道本線の上を越えると、徐々に坂道になって行った。そして右手にあったのが『水上山 妙光寺』があった。神社の参道には京阪電鉄京津線(けいしんせん)が横断していた。京阪電鉄京津線の電車が眼前ですれちがった。『山門』とその手前左に安政4年(1857)の『妙見大菩薩碑』。『妙光寺 本堂』。妙光寺は、天正元年(1573)反織田方であった武将長谷川久兵衛が難を逃れて仏門に入り、現在地に一宇を建立、本光院日性を開山に迎える。開山100年記念に毘沙門天を勧請(堂は昭和35年建立)、年代不詳であるが旧東浦妙見堂の妙見大菩薩を奉安する。本堂は安政初年の再建。本堂に掛かる『妙光寺』の扁額。『鐘楼』は昭和48年の建立。『妙見宮』。本尊は妙見大菩薩、脇に七面天女、三十番神などを祀る。『妙見宮』右隣の『毘沙門堂』。『妙見宮』左隣の『三社大明神』。『三社大明神』。『境内』『寺務所』の玄関であろうか。そして県道558号線に架かる東海道線跨線橋を渡る。JR東海道線に架かる『蝉丸跨線橋』を右側に見る。このレンガ積みは京津線とJRが交差してる「蝉丸跨線橋」&「上関寺隧道」。何故か名前が2つ。京阪が「蝉丸跨線橋」、JRが「上関寺隧道」と言うらしい。そしてその下の右手に「新逢坂山トンネル」東口(右)とそのすぐ横にある赤レンガの「上関寺トンネル」(左)。現東海道本線は複々線になっており、右側のコンクリートトンネル・新逢坂山トンネルにも線路が2本通っていた。赤レンガの『上関寺トンネル』 大津側坑口。大正10年にトンネルを経由する大津~京都間の新ルートが完成し、勾配緩和、曲線改良により、輸送力と速度の向上に貢献したのだと。上を通っているのは京津線で下を通る東海道本線に対して京津線は斜めに敷設されたので坑口がずれているのであった。更に坂を上って行く。右手にあったのが『関蝉丸神社』案内板。「関蝉丸神社琵琶の名手蝉丸をまつる神社は、東海道沿いに三社があり、当神社は下社にあたる。平家物語、謡曲「岬丸」などにも、その名が見え古くから歌舞音曲の神として知られる。また.境内には紀貫之の歌で有名な「関の清水」や「小町塚」、重要文化財の『石灯籠』がある。」『蝉丸宮常夜燈』が前方に。『音曲蓺道祖神』碑。『関蝉丸神社』社標。京阪電鉄踏切際に建つ『鳥居』。正面に『拝殿』。『関清水神社』。関の清水は既に枯れているのだと。『貴船神社』。『貴船神社』社標。『神門』。謡曲『蝉丸』と『関蝉丸神杜』「幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをすることが未来への助けになると諦めた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。一方、延喜帝第三皇女逆髪(さかがみ)の宮も前世の業因強く遠くの果てまで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に惹かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていくという今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸能の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。」『関蝉丸神社 本殿』。関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ)の祖神ともいわれている。蝉丸は醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられている。境内には、時雨燈籠ほか数基の歌碑・句碑があった。本殿手前の絵画。清龍(HIDEKI)作の龍神様。琵琶湖の絵画。「近江伝景図滋賀には、琵琶湖、比叡山比良山をはじめ自然が豊富で、歴史街道や文化の豊かな土地があります。今回、古来から伝承されてきた滋賀の自然や文化を形にしたいと思い琵琶湖の景色と中世以降多くの絵師に描かれてきた「近江八景」と滋賀の民謡にまつわる情景などを描きました。又、近江の自然や人々の豊かな暮らしが永遠に続くようにと願いをこめて絵の中に金箔の雲海をあしらっています。」歴史を感じさせる石灯籠。『時雨燈籠』と。「石灯籠(時雨燈籠)「時雨燈籠」 の名称で知られる六角形の石燈籠です。六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、その上に建つ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯をつくり、六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。六角形の火袋は簡素なもので、火口を一か所と小さな丸窓を設け、壁面も上部にだけ連子を彫っています。六角形の笠も薄く、蕨手はよく古式をとどめています。最上部の宝珠と請花は後補。いずれにしても作成年代を示す銘文はないが、様式上、鎌倉時代の特色を持った良い石燈籠で、貴重なものとして昭和37年6月に国の重要文化財に指定されました。」「石灯籠(時雨燈籠)」横の祠。『句碑』「逢坂の 流れは清し 初桜」『紀貫之歌碑』「逢坂の 関の清水に 影みえて 今やひくら 望月の駒」。『蝉丸歌碑』「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」境内の桜も満開であった。更に旧東海道を上って行く。『逢坂』交差点の左奥にあった祠をズームで。京阪電鉄京津線の踏切を渡る。中央の山に向かって更なる登坂となる。京阪電鉄京津線の踏切を渡ると右手に浄土真宗本願寺派の『逢坂山 安養寺がありその入口に『逢坂(おうさか)』碑があった。『逢坂(おうさか)』碑。「「日本書紀」 によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.02
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020.03.23。『旧東海道を歩く』の32日目そして『旧東海道を歩く』のゴール地点の『京都三条大橋』へのいよいよ最終日。この日は大津駅前から旧東海道を『京都三条大橋』に向けて歩いたのであった。瀬田駅近くのホテルの部屋から、日の出の光景を楽しむ。時間は6:01。そしてビルの裏からのこの日の日の出。時間は6:05。赤く染まる空。そして太陽が完全に姿を現した。時間は6:10。この日・最終日も天気は良さそうであった。7時からの朝食を楽しむ。朝食会場の壁には広重の東海道五十三次が掲げられていた。これは我が地元の『藤澤』宿。そして『近江八景 瀬田夕照』。瀬田唐橋と中の島、橋を往来する旅人、瀬田川と帆船、近江富士が描かれていた。「露時雨 もる山遠く過ぎきつつ 夕日のわたる 勢田の長橋(つゆしぐれ もるやまとおく すぎきつつ ゆうひのわたる せたのながばし)」そしてホテルを出てJR瀬田駅に向かって歩く。宿泊したホテルは『大津温泉 おふろcaféびわこ座』に併設されていたホテル。『大津温泉 おふろcaféびわこ座』は「東海道五十三次の宿場町」をコンセプトにした温浴施設に加え、「大衆演劇」も楽しめる多くの世代の方に愛される施設。JR瀬田駅から琵琶湖線を利用して大津駅を目指す。途中、『瀬田川』を渡る。そして『大津駅』から、中央大道りを旧東海道に向かって歩く。『大津駅』は当初、現在の場所にはなかったと。最初の大津駅は、 明治13年(1880)の大津~京都間の鉄道が開通したとき、現在の京阪電鉄浜大津駅あたりに設置された。ちなみに大津駅から先は、長浜まで湖上を鉄道連絡船が結んでいた。その後、明治22 年(1889)に東海道線が全通。大正2年(1913)に馬場駅(現在の膳 所駅)の名が改称された。これが2代目大津駅。 現在の大津駅は大正10年(1921)に、東海道線の大津~京都間の ルートが変更された時、新たに設置された駅。そのため大津駅 の名の付いた駅舎としては3代目ということになる。当初の駅舎 は木造建築で、今の駅舎の西寄りにあった。現在の大津駅舎が出来たのは、昭和50年(1975)のこと。平成28年(2016)にリニューア ルされ、商業施設「VIERRA大津」が完成し、現在にいたっているのだと。前日も見た大津駅前の中央大通りにある銅像・『若鮎』。大津駅のほうを見つめていた。旧東海道手前の歩道横にあったモニュメント?それともベンチ。爆弾(不発弾)の如き形であったが。そして旧東海道と交わる角にあった道標『京町三丁目 旧東海道』。そして左折して旧東海道・京町ニ丁目を西に進む。左手に真宗大谷派の『竹越山 唯泉寺』があった。『唯泉寺』は、弘仁2年(811)道河による開基で、慶長3年(1598)に天台宗から真宗に改宗している。『唯泉寺』の山門は閉ざされており、境内に入ることは出来なかったが、山門脇に地蔵堂があり大日如来・地蔵尊が安置されているとのこと。更に旧家の残り旧東海道を進む。『唯泉寺』の横にあった『御堂』・『延命地蔵尊』。左手にすだれ老舗店・『森野すだれ店 京町店』『森野すだれ店』は明治元年の創業以来、琵琶湖産のヨシを使ったすだれづくりと和室室内の装飾に携わっていると。入口上には『よし工芸品の店』と書かれた木製看板が。その前右側にあったのが『餅兵(もちひょう)』という和菓子屋・『御饅頭處 橋村商店』。『御饅頭処 餅兵』は、宝暦年間(1751年〜1763年)に大津東海道沿いに創業したのだと。昔は店の前に床几を置き、ここで旅人が足を休めて一服したと。その向かいにあったのが『大津 魚忠』明治38年建設、高い軒や木割の繊細な構えを持つ明治後期の商家。『うお?忠』と刻まれた石碑と「さんしゅゆ(山茱萸)」の花。登録有形文化財明治38年建設、高い軒や木割の繊細な構えを持つ明治後期の商家。直ぐ向かいにあったのが『ぶつだんや大弘』。『ぶつだんや大弘』と金文字で書かれた店の木製看板。2階窓には木製の肘掛けを付け、町家の雰囲気が。おおくの仏具が展示されていた。可愛らしい木製のお地蔵さん。更に進むと右側に全面格子の旧家が。そしてその向かいの路地の角には石碑が。『此附近露国皇太子遭難之地』「露国皇太子遭難地の碑明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪(たいぎゃくざい)を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院(だいしんいん)法廷では、謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)を適用、無期徒刑(むきとけい)の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。」「5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づくことができたのは津田が取り押さえられた後だった。」とウィキペディアには。全面連子格子の旧家。更に京町一丁目に向かって進む。「中央二丁目」交差点を渡ると左側にあったのが『犬矢来』のある旧家。『大津菓子調進所(有)鶴里堂(かくりどう)』。鶴里堂という屋号は、昔、比叡山より望んだ大津の里が細長く弓形(ゆみなり)で、鶴が翼をひろげてまさに飛び立とうとする姿に似ていたことから「鶴の里」とよばれていたことに因んでいると。大津菓子調進所という名が表す通り、京菓子と並び称された「大津菓子」の流れを伝える和菓子の老舗として、一世紀以上にわたり、東海道筋上京町(かみきょうまち)に店を構えているのだと。先に進んだ『京町一丁目』交差点は、江戸時代に高札が建てられた四つ辻であった。旅人たちに馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。ここは、東海道と北国街道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国海道であった。横断歩道を渡った左角に『大津市道路元標』が建っていた。『大津市道路元標』碑をズームで。しかし、『札の辻』の石碑などは見当たらなかった。『札の辻』は、江戸時代に高札が掲げられ人馬会所も置かれた四つ辻で東海道と北国海道(西近江路)の分岐点であり、大変にぎわったと。『札の辻』で西へ曲がらずに直進すると、小関越えと呼ばれる道。小関越えは山科の手前あたりで再び東海道と合流するのだ。そして『京町一丁目』交差点を左に折れ進んでいくと『京阪京津線(京津線(けいしんせん)』の電車が姿を現した。『京津線(けいしんせん)』は、京都府京都市山科区の御陵駅から滋賀県大津市のびわ湖浜大津駅までを結ぶ京阪電気鉄道の軌道路線である。『京町一丁目南』交差点を渡る。左手の滋賀労働局の立看板のところに『大津宿本陣跡』があった。五条大橋まで11.8km、草津宿ぁら14.4km。 滋賀県大津市御幸町の滋賀労働基準局付近にあたる。大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅。現在は、明治天皇聖跡碑が建つだけだが、江戸時代当時の本陣は広く、3階の楼上からの琵琶湖の眺めは絶景だったという。その他に脇本陣1軒、旅籠71軒があったと。『八町通』木標。「上関寺町から札の辻までの距離が八町(約872m)あったからとも、その間に八か町あったことによるともいわれています。江戸時代の東海道にあたり、道の両側には多くの旅籠屋がありました。なお碑の立つ場所は大名などの宿泊する本陣跡です。」「大津宿本陣跡本陣とは、大名や公家などが宿泊するために設けられた施設で、大津宿では大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋におかれていました。八丁筋には、旅籠などが多数軒を連ね、旅行く人々を迎えていました。大津は、北国海道と東海道の合流地点であり、また湖上交通の拠点でもあったことから繁栄を極めました。しかし、現在は本陣に関する遺構などは残っておらず、大塚本陣のあったこの場所に、明治天皇の休憩所として利用されたことを示す 「明治天皇聖跡碑」 が建つのみです。」『広重 木曽街道六拾九次之内 大津 七拾』大津は、天智天皇が大和から遷都、律令国家の基盤を築こうとした歴史の地。都が京に移ってからも、都への出入口として、 琵琶湖水運の中心地として、また、北陸道、東海道、中山道の分岐点という要所に位置する宿として栄えた。中山道の宿場数は69であるが、この連作では出発地の日本橋を1番とし、最後の大津宿を70番とする朱印が入っているとのこと。聖跡記録碑 明治天皇聖跡碑聖跡記録碑聖蹟 明治元年9月20日 明治天皇御東幸之際御駐泊同年12月21日 明治天皇御還幸之際御駐泊同2年3月7日 明治天皇御東幸之際御晝餐同2年10月5日 昭憲皇太后御東啓之際御駐泊 以上大塚本陣當時明治9年12月4日 昭憲皇太后御西啓之際御駐泊同10年1月26日 英昭皇太后京都行幸之際御駐泊 以上??学校當時道標『御幸町』。道路の反対側にあったのが大津市逢坂2丁目の『井上米店横 地蔵堂』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.06.01
コメント(4)
久々の我が趣味の養蜂のブログアップです。前週の日曜日に巣箱を開けて、内見を行いました。現在は2群を飼育しています。巣枠の上方の白い部分は蜜を貯めて、濃縮が完了したので蜜蓋で覆っています。蜜蓋を接写で。花蜜は貯蜜されてから、働き蜂によって羽を震わせ水分が飛ばされて完熟したら蓋がされるのです。ハチミツは水分量が多いと発酵してしまうのです。私の場合は蓋がされた貯蜜巣房の割合が巣枠全面に拡がっているのを確認して採蜜するのです。よって濃厚、完熟した蜂蜜を味わうことが出来るのです。こちらの茶色い蓋は産卵し成長の途上にある蛹(さなぎ)の部屋です。働き蜂が産卵されてから成虫になるまでには、働き蜂は、卵3日間、幼虫6日間、蛹12日間のおおよそ21日程度の日数が必要です。女王蜂は成虫になるまでの日数が、16日程度ですので、それに比べると働き蜂の成長は遅いと言えるでしょう。卵から孵化した幼虫は、若い働き蜂(内勤蜂)によって育てられます。 幼虫が大きくなると巣房に蓋がされ蛹になるのです。写真の働き蜂は幼虫の世話をしている若い働き蜂(内勤蜂)なのです。これから巣房に蓋をしようとしているようです。よく見ると、六角形の単房の中に白い幼虫がいるのが解るのです。そしてこの群の女王蜂です。女王蜂はローヤルゼリーによって特別に育てられたメスの蜂であり、同じメスの働き蜂に比べて大きく、寿命も数年と長くなるのです。女王蜂の役割は産卵のみであり、群を維持していくための活動や管理は全て働き蜂が行っていると言われています。オス蜂の役割は女王蜂と交尾をするだけであり、交尾をした時点でその役割を全うして死亡してしまうのです。交尾は決して同じ群同士では行いません。巣箱から嬢王蜂は空中に飛び出し、他の群の雄蜂と空中交尾するのです。群の勢力も大きくなり、貯蜜枠も増えて来たので3段の巣箱としています。内見で巣箱を開けたために、多くの働き蜂はビックリして外に飛び出しましたが巣箱を元に戻すと、皆巣箱入り口に戻り、落ち着きを取り戻しているのです。働き蜂の内勤蜂も、やはり長い時間は外出せず「STAY HOME」を守っているのです。---------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の大津市中央4丁目には真宗大谷派『月見山 成覚寺』山門が右手に。寺の入口に「山門不幸」と書かれた立札が立てられていた。寺の住職または、その家族などが亡くなった時に掲げられるもので、一般の忌中にあたるもの。『山門』前から『成覚寺 本堂』。その先の狭い路地の角にあったのが『浄土真宗 本願寺派 青雲山 西榮寺』と。その先で『吾妻川』に架かる『常磐橋(ときわばし)』を渡る。『吾妻川』。右手にあったのが浄土宗本願寺派『青雲山 清源寺』の『山門』。『浄土宗本願寺派 青雲山 清源寺』寺標。そして次の信号がある交差点を渡ると、左手に見えたのが『滋賀県庁舎 本館』。本館は、総工費200万円で昭和12年より改築に着手、同14年5月に竣工した。設計は早稲田大学大隈講堂、群馬県庁等を設計したことで知られる佐藤功一氏。鉄筋コンクリートの4階建で中央には塔屋がそびえ、左右に事務室、そして正面玄関には大きく車寄せを配したその容姿は、ルネサンス様式らしい格調高い存在感を放っており、滋賀県を代表する近代建築の一つとされていると。道標『本町三丁目 滋賀会館前』。左手に『善正寺』。『善正寺 山門』。そして『天孫神社(てんそんじんじゃ)』を訪ねた。「天孫神社御祭神 彦火々出見命(ひこほほでのみこと) 大名牟遅命(おおなむちのみこと) 国常立命(くにとこたちのみこと) 帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)御例祭 歳旦祭 一月一日 月次祭 毎月十日 例祭 十月十日御由緒 社殿によれば人皇第五十代桓武天皇の勅令により、其地鎮護の神として四座の神を齎ぎ奉らせ 給う今の四宮の社であります。 当社は歴代国司の崇敬を受け文禄四年十月近江守源朝臣高次より当郷の内三拾石之地を寄付 せられ又元亀年中の御遷宮につき佐々木家より造営寄進あり豊臣秀吉公の大津城築城以来 全城下の鎮護神として当寺の摂家たる近衛家の尊崇殊の他篤く文政十三年寅年六月拝殿拝所の 造営に預かったのであります。 例祭を十月十日にして曳山十三本祭禮の行粧として綾羅錦繍の◯帳を垂れ笛◯鼓を以て囃し 種◯者に乞うことあれば諾して傀儡をなし氏子の町々を巡行するその美観壮麗は大津祭と称し 湖国一の大祭であることは人の良く知るところであります。 当社は元四宮神社又は天孫第四宮大明神とも奉称せしを明治維新の際単に天孫神社と改称した のであります。」 『本堂』は修復工事中。『手水舎』。左から境内社の『八幡神社』、『稲荷神社』、『輻輳神社』。この神社はお花見のスポットであるようだが、ソメイヨシノもようやく開花を始めていた。河津桜の如くピンクの濃い桜も。下向きに咲く桜。夜間のライトアップお花見は予約制と。しかしこれも中止になったのであろう。そして『中央大通り』に出てここを左折し『JR大津駅』方面に向かう。左手にあった建物の壁には耐震補強材が。この建物は『大津地方裁判所』。『中央大通り』の分離緑地帯には像が。『若鮎』と題しているが、タオルを持って体を拭いてるような姿。台座には「若鮎によせて 芸術は人生になくてはならぬ。芸術を愛し、尊重する風習を大切にしたいものである。 今、この「美」から、何を聴き何を想う。人、それぞれの思いに委ねる。 時は一九八〇年、春爛漫、市民の繁栄を祈って、建立する。」と。そして正面にこの日のゴール地点『JR大津駅』の姿が。『大津市市街地案内図』と『JR大津駅周辺案内図』。『大津市市街地案内図』『大津駅 北緯35度』案内。大津駅も北緯35度の線上に位置するようだ。大津駅からJR琵琶湖線に乗り瀬田駅で下車し、徒歩でこの日の連泊のホテルに到着。ホテルのレストランにて夕食を楽しむ。そしてこの日の長い一日を終えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.31
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『義仲寺』を後にし、更に旧東海道を西に進む。街路灯の柱には「行秋を 淡海の見ゆる 駅に立つ」と。そしてその下には祠が。『祠』。その先直ぐ同じく右手に。大津市打出浜の旧東海道を進む。「打出浜」の地名からこの辺りに琵琶湖の湖岸があったのであろう。旧東海道を二人占。前方に現れたのが京阪石山坂本線の「石場」踏切。右手奥に「京阪石場駅」が見えた。『道標』。「呼次松の由来江戸時代、この辺りには石場の渡し場(港)があり、対岸の矢橋への船客でにぎわっていた。 渡し場には、「呼次の松」とよぶ一株の老松があって船頭がこの松の根元に立って客を呼んでいたので、その名がついたというが、現在は、児童公園の名称として残るだけである。」左手にあったのが『福蔵寺』。「真におろか者と気がつけば、人の教えを聞くこころになる 暁烏敏(あけがらすはや)師」『福蔵寺 山門』。『真宗大谷派 福蔵寺 本堂』。本堂には「現在 住職は体調をくずしておりますので・・・・」と。左手筋に社標と常夜燈があった。この先に『平野神社』があったが訪ねなかった。『平野神社 神門・拝殿』をネットから。平野神社は、天智天皇が大津宮へ遷都されたとき、都の3里以内に守護神として祭祀され、藤原鎌足により創建されたと言われている。御祭神は大鷦鷯皇命(おおささぎのみこと)・猿田彦命であり、境内には愛宕神社・天満宮などの境内社がある。【http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=68】更に旧東海道を進む。左手の水路脇に風化の進んだ『地蔵尊』が建っていた。『地蔵尊』の直ぐ先左手に浄土宗の『月見山 往生院 西方寺』があった。入口の両脇には白モクレンが開花中。『山門』手前の『せいし丸』像。法然は幼名を勢至丸(せいしまる)と言った。『山門』。『開運弁財天堂』。境内の庭園。『茶室無量寿庵』。扁額『無量寿庵』。『御寺院昇降口』。無縁仏塚。『西方寺 本堂』。『西方寺 本堂』を横から。『水子地蔵尊と石仏群』。「水子地蔵和讃産みなす父母のまよいより、水子のうちにこの世さり、母の乳房をさがしつつ、いとし闇路の幼霊や 哀れ愛しと抱きと給う、大慈大慈の地蔵尊、阿弥陀如来の姿かえ、育て導く最尊なり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」大津市京町4丁目の旧東海道を進む。『道標』。「旧東海道東海道は、京都と東国を結ぶ、平安時代以来の幹線道路。 江戸時代には、京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人でにぎわっていた。 また、この道は西国三十三所観音巡礼の札所、三井寺と石山寺を結ぶ巡礼の道としてもよく利用された。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.30
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次枡形道を抜けると、門扉の閉ざされた『福正寺』・『光林寺』があり、続いて左手に『義仲寺(ぎちゅうじ)』があった。『義仲寺』は無名庵ともいい、元暦元年(1148)に木曾義仲の死後、巴御前が草庵を営み供養を続けたので巴寺と称したのに始まると言われ、戦国時代に荒廃したが天文22年(1553)近江守佐々木義文によって再興された。山門脇には、巴御前を弔うために祀った巴地蔵があり、境内には義仲供養塔・芭蕉句碑などがある。この前の通りは、旧東海道。かつてはこの辺りは粟津ヶ原といい琵琶湖に面した景勝の地だったと。『山門』前の石柱群。左から『朝日将軍木曽義仲御墓所』碑、『芭蕉翁墓所』碑、『史跡義仲寺境内』碑そしてその右には歌碑があった。一番右の碑は紫金句碑「しぐれても 道はくもらず 月の影」 この灯籠はキリシタン灯籠だと言う人もあるとのこと。「義仲寺境内 (大津市馬場1丁目)義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。境内にはこの句をはじめ。芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。昭和四二(一九六七)年一一月に国指定の史跡となりました。」『義仲寺』山門横にあった『巴地蔵堂』は巴御前を追福(ついふく)するための御堂。『巴地蔵堂』では巴御前を追福するため『石彫地蔵尊』を祀っていた。境内は細長く、そのあちこちに20余句碑、墓、供養塔、神社などが並んでいた。受付で頂いた『義仲寺境内見取図』。『義仲寺境内の俳句案内』境内は有名人の墓や句碑や記念碑が所せましと並んでいた。受付で頂いた『義仲寺境内見取図』を片手に句碑を追いかける。羽州 句碑「身のほどを かえり見る日ぞ 初しぐれ」露城 句碑「粟津野に 深田も見えず 月の萩」芭蕉桃青 句碑「行く春を あふミの人と おしみける」朝日堂(義仲寺本堂)内陣本尊は聖観世音菩薩で、厨子には木曽義仲と嫡男・義高の木造が納められ、義仲、松尾芭蕉などの31柱の位牌が安置されていりと。『佐渡の赤石』今や「幻」といわれる日本三大銘石の一つであると。蝶夢幻阿佛 句碑「初雪や 日枝より南 さり気なき」蝶夢法師は義仲寺を中興する。蟻洞 句碑「よい処へ ちればさくらの 果報かな」魯人 句碑「月の湖 鳰(にお)は浮たり しづみたり」朴因居士 句碑「いく夜寝ぬ 身のおろかさよ ほととぎす」双玄 句碑「木曽殿と 脊中合せの 寒さかな 」三浦義一翁 歌碑「かくのごとき をみなのありと かってまたおもひしことは われになかりき」芭蕉 句碑「古池や 蛙飛こむ 水の音」『巴塚(供養塚)』は巴御前の墓所。「木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が強いての言葉に最期の戦を行い、敵将恩田八郎を討ち取り涙ながらに落ち延びた後 鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。」『山吹供養塚』は義仲の側室・山吹御前の塚は『身余堂文庫』の前に。「山吹は義仲の妻そして妾とも云う病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである。」巴御前と共に信濃から京へと付き添ってきた召使。『木曽義仲墓』義仲の忌日(義仲忌)は毎年一月の第三日曜日。近寄って。土壇の上に宝篋印塔をすえる。芭蕉翁は木曽塚ととなえた。『芭蕉翁墓』 「芭蕉翁墓芭蕉翁は元禄七年(一六九四)十月十二日午後四時ごろ、大坂の旅舎でひくなられた。享年五十一歳、遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸(じょうそう)の筆といわれる。芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の気節に合わせて、毎年十ー月の第二土曜日に営む。芭蕉句碑「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」「病中吟」と題した芭蕉最後の句、元禄7年(1694)10月8日。芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。享年51歳。遺言に従って、遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角ら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。14日葬儀、深夜ここに埋葬したと。角上 句碑「葉を配る その根やここに 冬木立」三浦義一翁 歌碑「としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬの みずうみのうえを わたりゆく月」北川文素 句碑か?「三日月の 影をのばすな 蕎麦の花」 『翁堂(おきなどう)』蝶夢法師が明和6年(1769)に再興。後類焼して安政5年に再建。『翁堂』に近づいて。『翁堂』内陣の天井には伊藤若冲筆四季花卉の図左艸居士(左) ・ 芭蕉翁(中) ・ 去来先生(右)天井の下の周囲には三十六俳人の画像が。「翁堂(おきなどう)正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師胸像を安置する。正面壁上に「正風宋師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。天井の絵は伊藤若冲筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師暇獅法師が明和六年(一七六九)十月に再興。翌七年に画像完成。安政三年(一ハ五六)類焼、同五年再建。現在の肖像は明治二十一年(一八八八)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。芭董翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。」露城 句碑「さまざまの 露ひとむらの さかり哉」『木曽八幡社』木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。昭和51年(1976)社殿鳥居を併せ新造、11月13日夜、遷宮の御儀を行った。『菅沼曲水の墓』。芭蕉の金主で門人の膳所藩重臣。其桃 句碑「鶯の 頻に鳴くや 雨の花」方堂 句碑「むべ三顆 翁を祀る けふにして」 兼輔 句碑「木曽塚の 夏艸(くさ)ひくも 宿世かな」『朝日将軍木曽源公遺跡之碑』 碑文は風化されて読めませんが、拓本に取って判読された銘文が『義仲寺と蝶夢』に載せられているのでご紹介します。「義仲公に四子あり 長子義隆は右大将に殺され 次子義重先に卒し三子義基 四子義宗逃れて外戚に依ったその裔室町将軍に従って信中を受封し代々讃岐守また伊予守を相承し 或いは織田氏に属して筑摩 安曇二郡を領した者伊予松山に在って千石を領した者 或いは剣道を以て尾州藩に仕えた者など錚々(そうそう)たる人士が綿歴して居り義仲伝研究上に得る処が少なくない尚筆者男谷思考は通称彦四郎燕斎と号し 養子に男谷下総守あり 勝海舟の伯父に当たる人である」この碑の題額は信濃松代藩主で徳川吉宗の曾孫に当たる真田幸貫、選文(文章)は林羅山から八代目の大学頭林述斎、それに儒者で表右筆(おもてゆうひつ)、男谷思孝の筆と一流のメンバーです。なお、義仲の系譜を「西筑摩郡誌」 では初代を木曽義仲として2代目を二男義重としていますが、江戸時代、木曽代官山村家が編纂した「木曽考」によると、義仲を初代とし、2代目は三男義基としています。乙也 句碑「行燈の ひとり消けり けさの秋」栃翁 句碑「鶯の ほつと出らしき 初音哉」車友 句碑「おもふまま 月夜にあいぬ 遅さくら」資料など収蔵する『身余堂文庫』『粟津文庫』。蝶夢法師の創設。蕉門関係の貴重な資料を上梓、収集して収蔵する。『無名庵』芭蕉が数度にわたってこの庵に滞在する。『史料観』(左)と『寺務所』(右)『史料観』に入る。『史料観』入口にあった案内板。「義仲寺略誌当、義仲寺の地は、その昔は粟津原(あわづがはら)といはれ、寿永三年一月二十日、征夷大将軍木曽義仲公はここで討死せられた。その後、年を経て、一人の尼が来り、公の墓に侍して、供養ねんごろなるによって、里人いぶかしみ、その有縁を問うに、「みづからは名も無き女性」と答えるのみだったが、この尼こそ巴御前の後身にて、これが往昔当寺を、巴寺と呼び、また無名庵の名の出た由緒である。戦国の世に至って、近江の国守佐々木侯は、木曾公墓を護持するため当寺を修復された。その頃の義仲寺の景観は、湖水を前にし、現在の龍岡あたりに及ぶ山地を後にし、境内極めて広大であったと言われる。元禄の俳聖松尾芭蕉は、木曾公の心情に同情し、慕って無名庵に来り滞在されること多く、大坂の宿で死去される時、遺骸は近江義仲寺なる義仲公の御墓の隣に埋めよ、と遺言され、現在、義仲公の墳に並んで、芭蕉翁の墓が建っている。無名庵は芭蕉翁の没後、その高弟内藤丈艸が庵主となった。代々の俳人によって、我国俳諧道第一の聖蹟とされてきたのである。天明の頃の俳僧蝶夢は、芭蕉翁を深く敬慕し、蕉門の俳風を顕揚した。芭蕉翁の二つの重き遺蹟として、無名庵と嵯峨の落柿舎の復旧に努めた。義仲寺無名庵は、国史上有数の名所として、昭和四十二年十一月二十日、境内地全部が、文化財保護法によって、文部省より「史跡」と指定された。現在寺内には、朝日堂、無名庵、翁堂、粟津文庫が建ち、義仲公墓、芭蕉翁墓、巴塚があり、翁の句碑を始め碑文が多い。粟津文庫は蝶夢法師の開設になり、俳諧の古書籍書画を収蔵する。今も新著の俳書等を奉納する例がある。名高い巴地蔵尊は、山門前右側の堂内に安置され、古より信仰厚く親しまれている。「大津市指定史跡」なる龍岡俳人墓地には、丈艸以下代々の無名庵主の墓石が並んでいる。本寺は、古から「よしなかでら」とも呼ばれ、現在は天台宗なれど、宗教法人上の単立寺院である。」芭蕉の句。芭蕉の句。芭蕉の『椿の杖』。『芭蕉真筆短冊』。芭蕉の真筆句の『版木』。木曽義仲と芭蕉の掛け軸。芭蕉像の掛け軸をズームで。木曽義仲の掛け軸をズームで。木曽義仲(よしなか)は、源義経や源頼朝の従兄。この絵は、右が義仲、左が部下の今井兼平。木曽義仲、芭蕉関連の書物を販売中。「朝日将軍」の御朱印をいただきました。『義仲寺』の『山門』を出て直ぐ左にあったのが『俳句を訪ねて』俳句コンクール 平成27年度 優秀作品。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.29
コメント(2)
我が家の横の菜園のゼニアオイ(銭葵)の花が次々と開いています。アオイと聞くと、日本原産の植物のように感じますが、ゼニアオイはヨーロッパの地中海沿岸が原産で、江戸時代に中国を経由して日本に渡って来たようです。マロウブルーというハーブティーとして知られるウスベニアオイの変種で、ゼニアオイもハーブティーに利用されることもあるのだと。最初は種を撒き育てたのですが、冬になると地上部は枯れてしまうが、根っこは生きて残っているようで、春先になると自然に芽吹いて大き過ぎるほどに育っています。3cmほどの小さな紫色の花をたくさん咲かせています。アオイ(葵)の名の由来は葉に向日性があり、太陽を仰ぎ見る、つまり「あうひ(仰日)」から来たとする説や神を饗応する日からアウヒ(饗う日)、あるいは韓国語の名から来た等、やはり諸説あるようだ。更に、この花の大きさが一文銭と同じくらいであったことから、名付けられたともされているのです。そして我が家に近い農家の畑の隅にも。こちらは♡型の花の色がやや薄く紫色の濃い縦筋が目立っています。こちらは、我が家のものとは異なり、姿がそれほど大きくなっていないのです。-----------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次道標『西の庄 大津浄化センター前』。旧東海道は左にカーブ。そして右にとクネクネと。左手の旧家風建物は『おくすえ整骨鍼灸院』。平成29年度 「きらッと大津景観広告賞」を受賞した建物であると。「看板の設置位置、形状、書体、材質、配色の全てが計算され、バランスのとれた広告物です。白壁に映える黒文字の書体は、町家建築にフィットしながら、落款風の「P」の赤がよく効いており、今日性と古都大津の伝統を兼ね備えた広告物と言えます。」と。そして左手に『石坐神社(いわいじんじゃ)』が。「石坐神社御由緒石坐神社は、天智天皇が琵琶湖の神様を祭祀したのに始まる。 その創始は、天智天皇御代八年旧九月九日神奈備山(御靈殿山)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに小祠を建てて祭祀なされた。 これを御霊殿神社と申し上げる。 持統天皇御代・朱鷺鳥元年旧五月一日栗津の王林の地・石坐野に、八大龍王宮と正霊天王宮との両殿が創建された。 八大龍王宮とは、琵琶湖にゆかりの神殿で龍神と伝えられわが国では、水徳の恵みの神で古来より両乞いの神・福寿の神として信仰がある。 主祭神豊玉比古命は、人皇第一代神武天皇の御祖父神にあたり、産坐王は、彦坐命と申し上げ、人皇第九代開化天皇の第三皇子・近江国造活田連の祖霊神であり、近江開拓の祖神に坐しまして八大龍王宮の御祭神である。 近江大津宮を開かせ給ひし天智天皇は、大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛(大友皇子御生母)と共に正霊天王宮の御祭神である。御祭神八大龍王宮 豊玉比古令 神武天皇御祖夫神 彦坐王 開化天皇第三皇子正霊天王宮 天智天皇 天命開別天皇 大友皇子 弘文天皇 伊賀宅子媛 大友皇子御生母奥宮 御霊殿神社 石坐大神 八大龍王神」『式内 石坐神社』社標。「八大龍王神の御縁起八大龍王宮は、粟津八宮と称され、八柱の高貴な神達が御祭神である。奥宮の御霊殿神社は、今から1342年前(平成二十四年より)より龍燈飛来の奇瑞により天智天皇は、勅使をして御霊殿山の磐座に小祠を建て石坐大神を御鎮祭なされた。その後、石坐野に持統天皇・朱鳥元年旧五月一日・正霊天皇宮・八大龍王宮の両殿が創建された。今から1325年前、これが石坐神社の創始である。・・・以下 略。「延喜式内社 石坐神社御由緒御祭神 八大龍王宮 豊玉比古神(海津見神) 彦坐王命 正霊天王宮 天智天皇 大友皇子(弘文天皇) 伊賀宅子媛命御創立 天智天皇八年(西暦六六九年)旧九月九日御霊殿山(御龍燈山)の神奈備の天津磐座に 豊玉比古神御出現 朱鳥元年(西暦六八六年)旧五月一日石坐野の王林の広庭に両殿を御創建 光仁天皇宝亀四年旧十二月三日正一位勲一等の神階を贈り給い鎮護国家之神也と御勅宣あり 同五年十二月三日勅祭を行わせ給ふ 鎌倉時代文永三年(西暦一二六六年)旧八月廿九日に現在地に両殿御遷座 慶長五年 関が原の役で大阪方の大軍来りて神域に陣し敗軍に及んで社頭に火を放つ時に 八大龍王宮は災いを免れたるも上古より伝われる古記録宝物焼失す 江戸時代・膳所城主の篤い崇敬を受ける 明治時代高木神社と改称・大正六年旧称石坐神社に復す主な御祭礼 歳旦祭一月元旦 節分祭 二月三日 祈年祭 三月春分日 大祭 五月三日 漏刻祭 六月十日 夏越の大祓 六月下旬 千燈祭 九月秋分日 神奈備磐座祭 旧九月九日 新嘗祭 十一月二十三日 御火焚き祭十二月上旬 神奈備山登拝十二k月二十九日 月始祭(おついたち参り) 毎月一日 神奈備磐座月次祭 毎月旧九日 厄除け交通安全 諸願成就月次祭 毎月十五日御神徳 神を敬い祖先を崇め神習う道を教え導き給い救世済民の恩頼を垂れ給ふ厄祓い祈祷 (大厄三十三歳・四十二歳)厄除け守護矢授与 災難除祈祷 災難よけ特別守授与 誕生祭祈祷 交通安全祈願・社運隆昌・商売繁盛・ 家内安全・ 病魔退散等諸願成就祈願 地鎮祭・清祓い・宅神祭など執り行います。」「延喜式内社 石座神社御由緒当社は、天智天皇8年旧9月9日神奈備山(御霊殿山-ゴリョウドヤマ)の磐座に湖中より龍灯が飛来し、御神託のまにまに勅使を遣わし、大石の上に小祠を建てて祭祀なされた。壬申の乱ののち、持統天皇朱鳥元年旧5月1日、粟津の王林の地・石坐野(イハスノ・現錦駅周辺)に八大龍王宮(豊玉比売命・彦坐王)と正霊天王社(天智天皇・大友皇子・伊賀宅子媛)との両殿が創建された。・・・以下略」『社務所』。四方柱に屋根が乗ったのは『拝殿』。内部に鉄筋コンクリート造の建物。「石坐神社この神社は延喜式に近江国滋賀郡八社の一に数えられていたことからその創建の古いことを思わせる。 祭神は海津見神を主神とし天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子、豊玉比古命、彦坐王命を祭っている。 むかし干害にあったこの地の人が雨乞いをしたら、ひじょうな応験があって里人の信仰が深かったと伝えられている。 またこの社は八大龍王社とか高木宮の社号を有したことがある。 重要文化財 木造天命開別命坐像(平安)〃 木造伊賀采女宅子媛坐像(〃)〃 木造弘文天皇坐像(〃)〃 木造彦坐王坐像(鎌倉)」『拝殿』横から『中門(神門)』そして『本殿』を。『石坐神社碑』。本殿左手に『彦坐王石像』を祀る『石神社』が。本殿左に『倉稲稲荷大明神』の鳥居が建ち、奥に境内社が見えた。扁額は『正一位 倉稲稲荷大明』。鳥居をくぐって正面にあったのは『辯財天社』。その右に『稲荷社』。『中門(神門)』。「滋賀県指定文化財建造物 石坐神社本殿 一棟 (大津市西の庄)三間社流造、屋根桧皮葺の社殿で、まわりを平唐門と塀によって囲まれています。社殿の前面にある向拝部やまわりの縁は後世に付けられたものですが、身屋には建築当初の古材が残っており、桁や舟肘木などの様式は古いもので、脇障子が社殿の前寄りに付いているのは珍しい形式です。この社殿の建築年代は、棟札の写しによって文永3年(1266)に建造されたことが知れ、鎌倉時代の社殿建築として貴重なものです。昭和32年8月に県の有形文化財に指定されました。」境内南には御霊殿山遥拝所があった。奥宮は御霊殿山にあり、石坐大神(主祭神の豊玉比古神)と八大龍王神を祀っていた。そしてその中央に推定樹齢800年の御神木の榎が。保護樹木『エノキ 石坐神社』。『中門(神門)』と三間社流造、屋根桧皮葺の文永3年(1266)の『石坐神社本殿』。『石坐神社』の直ぐ先右手に臨済宗永源寺派の『吉田山 桃源寺』があった。『桃源寺 山門』。『桃源寺 本堂』。『桃源寺』は、永禄13年(1570)の開基で、もと浄居寺といい、ご本尊は阿弥陀如来である。境内には、琵琶湖子安地蔵尊、過去歴代最長の住職岩城大和尚の鎮魂碑などがあると。『石坐神社』の先で街道が枡形になる右手角に『膳所城北総門跡』碑が建っていた。しかし、他には何も遺構は残っていないようであった。さらに大津市西の庄の旧東海道を進む。『膳所城北総門跡碑』の斜向かいに『地蔵堂』があり、可愛い地蔵尊が色付けされていた。昔、お世話になり通った大津板紙(株)本社ビル前にあった『地蔵堂』はアルミフェンスに囲まれて。左手奥にあったのが真宗大谷派の『常磐山 福正寺』。『真宗大谷派 常磐山 福正寺』寺標と奥に『山門』。『山門』は閉まっており境内に入れなかったので、旧東海道から『本堂』屋根を写す。大津市馬場1丁目にある交差点を渡る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.28
コメント(0)
我が趣味の養蜂場のある畑のスイカ栽培の状況です。順調に生育し、親づるは本葉5~6枚で摘芯し、第1節の子づるは摘除し、他の子づるを4本残しました。周囲には、咲き終わった菜の花、そして冬越しで栽培していた麦を抜き取り全面に敷きました。スイカの苗は約1m間隔に植え付け、昨日ご近所から頂いたコンパニオンプランツのマリーゴールドをその間に植え付けました。異なる野菜を混植すると、互いの性質が影響しあって、病害虫が抑えれたり、野菜が元気に育つようになるのです。こうした相性の良い組み合わせがたくさんあることが知られていて、この関係をコンパニオンプランツ、共栄作物と呼ばれています。マリーゴールドは様々な植物と相性がよく、根の分泌液が土中のセンチュウを遠ざけ、葉っぱのにおいには防虫効果が期待できるのです。既にスイカの花も咲きだしています。Iphonesで撮影したためかややピンボケですが、雌花の元には小さかスイカの姿が。---------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道に戻り、大津市丸の内町を進む。左手にも虫籠窓、犬矢来のある旧家が。先に進むと左手に浄土宗の『梅香山 縁心寺』があった。左に『梅香山 縁心寺』寺標と右に『旧膳所城主御菩提所』碑。『山門』。『縁心寺 本堂』。『縁心寺』は、慶長7年(1602)に本多康俊が父忠次の追善のため三河国西尾(愛知県西尾市)に建立したもので、元和3年(1617)に膳所藩への移封に伴い一緒に移ってきた。ここは膳所城主菩提所であり、境内には武家から庶民まで信仰を集めた八臂弁財天が祀られていた。八臂弁財天を祀る『弁天堂』。『膳所城主歴代墓所』。『縁心寺』は、膳所城の初代城主戸田一西が、慶長7年(1602)に創建した浄土宗知恩院の末寺で、洪誉法師が開基。もと栄泉寺といい、瓦寺とも通称されていた。当時、膳所や大津には瓦葺の寺院がなかったなかで唯一同寺が瓦葺であったからと。また、膳所藩主戸田・本多両家の菩提寺でもあり、境内の本堂裏には歴代藩主の墓が並び、本多氏代々の墓や戸田一西の墓も残されていた。『五輪塔』。旧東海道に戻ると。ここにも虫籠窓の旧家が。続いて旧東海道の左手に『和田神社』『石鳥居』。『石鳥居』に掛かる『和田神社』の扁額。膳所藩の藩校『遵義堂』の高麗門を移築した『表門(神門)』「神社縁起(由緒) 神社名 和田神社 御祭神 高龗神(たかおかみのかみ) 創 建 白鳳4年5月勧請(紀元675年) 社 殿 本殿(重要文化財)(一間社流造軒唐破風附) 建 物 拝殿、神饌殿、収蔵庫、社務所、表門、石鳥居 境内社 五社ノ社、祭神 天照大神、菅原道真公 稲荷社、 祭神 蔵稲魂命(天保5年3月勧請) 山神社、 大山祇神 境 内 743坪 縁 起 持統帝の朱鳥元年頃(686年)から八代龍王社と呼ばれ仁明帝の 承和2年(825年)から正霊天王社と改称され、明治時維新の際膳所藩主の 令達により和田神社と改称さる。現在の本殿は鎌倉時代の建築様式を代表する他に 比類稀な特色を誇り古代建築技術を保存するものとして著名である。 明治35年国宝の指定を受けその後、 昭和39年文化財保護法第115条の規定により 重要文化財となった。」『古札納所』。『拝殿』。『拝殿』越しの『中門(神門)』。『中門(神門)』。『和田神社 本殿』。『中門(神門)』と『本殿』を角度を変えて。「和田神社本殿 一棟本殿は、一間社流造の小さな社殿で、東面して建てられ、屋根は檜皮葺です。 また正面には軒唐破風を付けるという、県内では珍しい建築様式をもっています。 この建物には、後世の補修のあとも多く認められますが、側面にあるすっきりとした美しい蟇股などの細部については、鎌倉時代の様式をよく残しています。 檜皮葺の屋根の、棟から前後の軒先へ流れるような線は、檜皮のもつ柔らかさと相まって美しく、建物の特色の一つとなっています。 明治三十五年七月三十一日に国の指定文化財となりました。 」石田三成が繋がれた大イチョウ。「天然記念物 和田神社のいちょう一株このいちょう(公孫樹)は滋賀県下において他に例を見ないほどの巨木で、樹高約24m、目通り周囲約4.4mあります。樹齢はおよそ約600年を経ていると推定され、多数の気根(地上の幹から出て空気中に露出した根)を垂れています。樹勢もすこぶる盛んで枝葉が密生し、樹形も均斉のよくとれた美しい姿を保つなど貴重な名木です。また、このいちょうは和田神社の神木として、さらに琵琶湖上から和田の浜の目標樹となっていたと思われます。石田三成が関ケ原合戦後、捕われて京へ護送される途中、休止の際につながれた樹でもあると伝わっています。昭和51年12月に大津市保護樹木に、昭和53年2月に大津市の指定文化財となりました。」『神輿庫』であろうか。『社務所』。『奥村大明神を祀る稲荷社』。扁額には『奥村大明神』と。『天満宮』。旧東海道に戻って先に進む。『石仏』が2体。般若心経の書かれた涎掛けが。左手に東海道道標があり、突き当りの寺の前を右折して行くよう道筋が示されていた。東海道道標に示されたように街道の突き当りに真宗大谷派の『春台山 響忍寺』の『山門』が見えて来た。藩家老村松八右衛門の屋敷門を移築した『山門』。ここ『響忍寺』の前の東海道は、江戸時代には、京都と江戸を結ぶ国内第一の幹線として、行き交う旅人で賑わっていた。また、この道は西国三十三観音巡礼の札所、三井寺と石山寺を結ぶ巡礼の道としてもよく利用されたのだと。真宗大谷派の『春台山 響忍寺』社標『旧本堂の鬼瓦』。『鐘楼』。『親鸞聖人像』。『響忍寺 本堂』。更に曲がりくねった旧東海道を進む。前方に『びわ湖大津プリンスホテル』の姿が。琵琶湖のほとりに建つ38階の高層ホテルで、高さは地上133mのホテル。世界的な建築家の丹下健三が設計を手掛けた。この先スーパー「フレンドマート」前を左斜に入って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.27
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『若宮八幡神社の先を右に直角に曲がって進むと左手に日蓮宗の『徳栄山 妙幅寺』があった。『手水舎』。『妙福寺 本堂』。妙福寺は、慶長年間(1596-1615)の創建である。本堂に掛かる『徳栄山』の扁額。京阪電鉄の瓦ヶ浜駅前(かわらがはまえき)前の踏切を越える。瓦ヶ浜駅前。大津市中庄1丁目の旧東海道を進む。左手にあったのが臨済宗『専光寺』。『専光寺 山門』そして右手に大きな『鐘楼』が。フェンスがあり境内には入れなかった。『山門』越しに『専光寺 本堂』を。専光寺は、寛正6年(1465)正善による開基であり、本尊は阿弥陀如来である。左手に連子格子、虫籠窓の旧家が2軒続いて。続いて旧東海道左側に真宗佛光寺派の『膳所山 三昧院 光源寺』があった。『光源寺 山門』。『光源寺 本堂』。光源寺は、康永2年(1343)光心による開基であり、ここには岩倉具視の継室の岩倉槇子(旧姓野口)の分骨が、岩倉家が建てた野口家累代の墓に合葬されていると。更に旧東海道を進むと左手にあったのが『篠津神社(しのづじんじゃ)』。『縣社 篠津神社』社標と一の鳥居。石鳥居に掛かる扁額『篠津神社』。『表門(高麗門)』。表門である高麗門は、旧膳所城北大手の城門を、明治3年(1870)に移築したものであると。「篠津神社表門 一棟 (大津市中庄1丁目)この表門は、旧膳所城の北大手門として建てられたもので膳所城取り壊しのあと、明治5年(1872)に篠津神社で再建されたことが棟札でわかっています。門は高麗門形式で屋根は本瓦葺きとなっており、旧膳所城主本田氏の立葵紋がみられます。扉は内開きで、堅格子、腰部横板張目となり、脇門を付けています。この高麗門という形式は、背面に特色があり、正面の主体部から両方へ袖のように直角に屋根にでているものをいいます。この形式は城門にも多く用いられており、この門は桃山時代の城門の一つと考えられます。大正13年4月、国の重要文化財に指定されました。」『拝殿』。入母屋造 間口三間 奥行三間。『社務所』。『中門(神門)』。この奥に『篠津神社 本殿』があった。境内から『『篠津神社 本殿』』を見る。「創祀年代は不詳であるが、往古は「大梵天王社」と呼ばれていたという。近世には本多氏を始めとする歴代の膳所藩主から崇敬され、また有栖川宮などの崇敬も深く、同宮による鳥居の寄進や度々の社参記録が残されている。万治4年(1661年)に本殿が造替された。明治元年(1868年)に現社号に改められ、村社に加列、その後大正11年(1922年)には県社に昇格した」 とウィキペディアより。一間社流造 間口二間 奥行二間。「大津中庄鎮座篠津神社一.祭神 素戔嗚尊一.例祭日 五月三日一.由緒 当社は古くは牛頭天王と称し膳所中庄の土産神です。創建は詳ではないが康正二年の棟札が 現存している処から見ても室町時代には己に鎮座になっていた。 大津圓満院門跡常尊法親王や覚淳親王、有栖川宮家の御尊崇高く鳥居や額等種々 寄進されている。 膳所城主戸田、菅沼、石川諸氏並びに本多家の崇敬長く続き社領二十二石の外、社殿の修復も 本多家で時々行われた。現在重要文化財に指定されている表門は膳所城北大手門で旧藩主の 信仰をしのぶよすがとなっている。 明治四年篠津神社と改称、旧社格は県社であった。」左手の境内六社『白鳥神・菊理姫神・松尾神・熊野樟日神・活津彦根神・天津彦根神』。『神饌所(しんせんしょ』。『神饌』とは神様の食事のことであり、その食事の支度をするための社殿が『神饌所』であると。『神輿庫』。前方に枡形が現れた。この蔵の如き建物は?以前は歯科医であったようだが。そして枡形角に『晴耕雨奇亭跡』碑があった。ここは、奥村管次寿景(1788-1840)という膳所の名金工師初代管次の家があったところである。「奥村菅次寿景(1788~1840) 膳所の名金工師初代菅次は湖東目川出身。湖を一眸する景勝のこの地に居を構え、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作した。頼山陽、貫名海屋なども屡々来遊し、山陽は晴好雨竒亭と名付け額を揮毫して与えた。五十三歳で病歿し唯伝寺に葬らる。墓誌は海屋の筆。」板塀に貼ってあったポスターは『三井寺 秘仏御開帳』。これも新型コロナウィルスの影響で中止になったのであろう。『旧東海道』道標に従いこの先・桝形を右折。大津市中庄1丁目の旧東海道の左右に旧家が。右手に『景沢寺』。『景沢寺 本堂』。左手にあったのが真宗佛光寺派の『拱養山 文応院 大養寺』。「当時の門は、高禄又は由緒ある武家屋敷の門で、膳所の六門(長屋門)の一つです。」『大養寺 本堂』。『親鸞聖人像』。道標『本丸町 膳所城跡公園前』。『大養寺』の直ぐ先の信号交差点を左折すると、『膳所神社』があった。「膳所神社一.祭神 豊受比売命一.例祭日 五月三日一.由緒 社伝によると天智天皇の大津の宮に遷都の際、この地を御厨所と定められた。 天武天皇六年に大和の国から御食津神を奉遷して大膳職の御厨神とされた。 慶長年間に至り大政所豊臣秀頼徳川家康などが当社を厚く尊信されて種々の神器の 寄進があり東山天皇は膳所大明神の宣下をされました。 また、慶長六年膳所城創始以来、歴代の藩主本多候は崇敬が厚く、社領の寄進や社殿の造営が たびたび行われました。 現在の当社表門は旧膳所城の城門で重要文化財に指定されています。」『表門』は膳所城から移築された薬医門である。「重要文化財建造物 膳所神社表門 一棟この表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入り口にあった城門で、明治三年(一八七〇)の膳所城取り壊しの際に移築されました。門は、棟筋と扉筋が同一の垂直面にない薬医門(やくいもん)で城門として多く用いられています。屋根瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋(たちあおいもん)がみられ、桃山時代の建築として貴重なものです。脇には潜り戸を付け、頑丈な造りで、城門としての貫禄を持っています。大正一三年(一九二四)四月に重要文化財に指定されました。」『國寶表門』碑と『舊膳所城々門』碑。『境内』。『授与所』。『拝殿』。社伝によると、天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりと云われる。左手に『北門(旧膳所城から移築)』。『中門(神門・随身門)』。『稲荷大明神』。『松尾社』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.26
コメント(1)
昨日の我が趣味の養蜂場のある畑を散歩するメスの雉(キジ)です。そしてその後ろをツガイのオスの雉(キジ)が。時々、あの独特の金属的な高い声で鳴いていました。「雉も鳴かずば撃たれまい」という諺がありますが「ケーン」と大声で鳴き、「バタバタ」と音をたてて羽で体を叩く縄張りを主張する行動のようです。 特にメスを従えているときに見かけるので、 外敵を威嚇しているのでしょう。赤い鶏冠と金属光沢がある胸が目立つのです。オスの後ろ姿。美しい羽の模様はかなり複雑。オスのキジの真っ赤な鶏冠は「肉冠」と呼ばれる。この肉冠、よく見ると肉の塊ではなく穴が沢山空いているように見えます。そして、突起物の集合体の如くに。友人の中には、この写真を見て「美味しそう」とのコメントが。しかしこのキジは日本の「国鳥」なのです。更に「国鳥」を狩猟対象としている国は日本以外には無いのです。何処に巣があるのでしょうか?巣は、地面を浅く掘って、枯葉を敷いていると。キジの胸板は厚く、肋骨と筋肉が発達しているので飛翔はできるが、高く飛べるわけではないのです。せいぜい数百mを飛んで沢を渡ったり、樹上に飛び上がったりする程度なのです。 そろそろ産卵の時期ではないでしょうか。昨年は生後間もなく親について歩く4羽のヒナの姿を見ることが出来ましたが今年はどうでしょうか。それではいつもの『旧東海道を歩く』のブログの『記事』を。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次京阪石山坂本線唐橋前駅横の踏切を渡る。『唐橋前』駅。踏切を渡りながら『石山駅』方面を見る。左手に近江牛の専門店『松喜屋』。明治16年(1883)日本の近江牛のすき焼き屋の元祖として東京で「松喜屋(まつきや)」が開店した。当時「すき焼きは銀座の松喜屋」といわれ、明治・大正・昭和の三代にわたり宮内省御用達として、大膳寮に天皇が召し上がる牛肉(近江牛)を納めていた事実もあると。「松喜屋」の暖簾を継承した三代目「西居義雄」は、瀬田川畔石山に店舗を構え、現在は、四代目店主「西居基晴」が石山の本店と京都四条店の2店舗を営業していると。『松喜屋』の横にあったのが『逆縁之縁切地蔵大菩薩』碑。碑の表側に「地主之守大神 逆縁之縁切地蔵大菩薩 蓮如上人御影休息所」と、裏面には「逆縁をも救う願なれば 現世安穏後生善虡とたのみ参るべし 施主古川政雄」と銘記されているのだと。連如上人が布教行脚された際に、ここにあった旅籠伏見屋で休憩されたのが始まりで、その後もお立ち寄りになったのを記念して建立されたものであると。寛政の法難で逃れた蓮如上人の足跡はあちこちにあるのだと。以前、蓮如上人を調べて驚いたのは、結婚が5回、子供の合計27人、なんと最後にもうけた子供は84歳の時だとか。布教活動にも精力的だったようだが、子作りにも精力的だった事間違いなし。『鳥居川』交差点の先、左手にあったのが真宗仏光寺派の『長徳寺』。『長徳寺』の『山門』、『鐘楼』、『本堂』が見えた。『長徳寺』は、長徳元年(995)の開基で天台宗であったが、嘉暦3年(1328)に了源上人により中興され、真宗に改宗した。『長徳寺』前の角にあったのが『中興了源上人御舊跡』碑。『鳥居川』交差点で、旧東海道は右折して進む。前方左手に『大津栄町郵便局』が。前方に国道1号線の高架が。その先には「京阪石山坂本線」の踏切が。坂本比叡山口行きの電車が通過。『松原町西』交差点を渡る。その先でJR琵琶湖線の高架が。琵琶湖線(びわこせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線のうち、滋賀県米原市の米原駅から京都府京都市下京区の京都駅までの区間、および北陸本線のうち米原駅から滋賀県長浜市の長浜駅までの区間に付けられた愛称。高架下の側道(歩道)を潜って行った。東海道本線・琵琶湖線の高架下を潜った直ぐ先の横断歩道右手の路地にあった『地蔵堂』。地蔵堂には綺麗に色付けされた地蔵尊が安置されていた。左手前方に『今井兼平の墓』案内標識が。案内標識から石山駅前を通り500m程入ると盛越川沿いに今井兼平の墓がある。今井兼平は木曽義仲の腹心の武将であり、義経軍に敗れ討ち死にした義仲の後を追って、口に刀を含んで馬から飛び降りて自害した。ここにある墓碑は篠津川の上流の墨黒谷から寛文6年(1666)に移設したものである。往復1kmあると判ったので、残念ながら訪ねるのを諦めたのであった。この写真が『今井兼平の墓』。 【https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/a2346442664db986c75b265cf166c936】より左手にROHM(株)。右手の大津市立粟津中学校校庭の前に、『農業試験研究発祥の地碑』が建っていた。明治28年(1895)、この辺りに滋賀県農事試験場が開設され、植物ウィルスが昆虫の媒介によって伝染されることを発見した世界的な研究や、日本稲作史上初めて人工交配により、新しい品種を育成、実用化に成功したことなど、農業の発展に貢献した試験研究が行われた。左手に『名残松』。大津市立粟津中学校前の旧東海道は、膳所城下町の南総門から鳥居川の間に美しい松並木が続いており、近江八景の一つ 「粟津の晴嵐」 として知られた名勝であったと。歌川広重の浮世絵などにも、湖辺に城と松並木が続く風情ある景色として描かれている。『歌川広重画 近江八景 粟津晴嵐(あわづのせいらん)』晴れたある日、湖上を渡る風が粟津の松林を吹き抜け、悲しげな口笛を鳴らす…。遠方に見えるのは比叡山。そしてこちらも若い頃通ったガラス関連の本社工場。昔からのこの外装、色は変わっていなかった。『晴嵐』交差点角に地蔵堂があった。地蔵堂には目鼻を描かれた一体の地蔵尊が安置されていた。更に進むと、旧東海道が左に枡形状に曲がる右手角に『膳所城(ぜぜじょう)勢多口総門跡碑』が右手に建っていた。『膳所城勢多口総門跡』碑。若い頃には、この様な姿があったのだが。いつ頃撤去されてしまったのであろうか? 【https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12540372948.html】より『膳所城勢多口総門跡』碑の近くに『地蔵堂』があり、一体の地蔵尊が祀られていた。連子格子の旧家が左手に。再び京阪石山坂本線の宮町踏切を通過。踏切を渡った直後、道路の左側に、お地蔵様を数多く祀った御堂が。その先、右手にあったのが『若宮八幡神社』。『若宮八幡神社』社標。膳所城から移築した『表門』。右に脇門があり、屋根に鯱と軒丸瓦に立葵紋があった。その先に『拝殿』の姿も。「若宮八幡神社表門 一棟この表門は、膳所城の犬走り門で明治三年(一八七○)の膳所城取り壊しの際に移築されました。 大棟の背面に切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、正面向かって右側に脇門を設けています。 門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。 屋根は本瓦葺で、大棟の両端に鯱と鬼瓦をあげ、軒丸瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられます。 後世の補修はかなりみられますが、膳所城の数少ない建物であるとともに、江戸時代初期の城門建築として貴重なものです。 昭和五十三年(一九七八)二月に市の指定文化財となりました。」『拝殿』。『稲荷社』か?『若宮八幡神社中門(神門)』が2つ。こちらは正面左側の中門(神門)。右奥に本殿の屋根が。『社務所』。「若宮八幡神社御祭神 主神 仁徳大神 例祭 五月三日 放生会祭 九月十五日由緒当神社は壬申の乱(672)があって三年後の白鳳四年(675)に天武天皇が、宇佐八幡の御神託「近江の湖水辺り粟津に、わが子仁徳を祀り崇敬すべし」によりここに当神社社殿を造営されることになり、この浦(湖辺)上下八丁(約八百米)での殺生を禁じられ、以後漁夫は恐れてここを特別の浦(別浦)と云い、のちに別保と呼び、現在もこの地域の地名として残り翌年(676)八月(九月)十五日放生会が行われました。当神社の社殿等が完成したのは、四年後の白鳳八年(679)で九州の宇佐八幡宮の次に古い八幡宮で、当初は粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治からは若宮八幡神社となりました。ところで当神社の社殿等は延喜十七年(917)雷のために全焼。その後、寿永三年(1184)源頼朝と木曽義仲の粟津の合戦でまたも全焼。勝った源頼朝が社殿等を再建。更にこの社殿等も、応仁の乱(1467)の兵火で焼滅しました。しかしその後、立派に復興され、膳所城の築城後は歴代城主、本多公が寄進し、社殿を始め境内建物の修繕等を行ってこられました。境内には皇大神宮を始め沢山の摂社・末社が奉祀されておりますが、これは当神社の歴史が古く、この間に多数の氏子が奉仕崇敬され、極めて霊験あらたかな氏神さまであることを示しております。」『新羅神社』社標と石鳥居。『新羅神社』社標。やはりこの地域に渡来系の人々が定住していたということとの関係の神社であろうかと。道標『杉浦町 瀬田・石山の道分岐点』この先を右に曲がる。この付近は旧東海道が右に左にと枡形状に続いていたのであった。赤が瀬田・石山の道。この地図は北が下になっており解りにくかった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.25
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『瀬田の唐橋』は、近江八景 「瀬田の夕照」 (せたのせきしょう) で有名であり、別名 「瀬田橋」や 「長橋」 とも呼ばれ 「唐橋を制するものは天下を制する」 と言われ、古来より京都の喉元を握る交通・軍事の要衝として重視されたのだ。『瀬田の唐橋』は中島によって橋が二分されている。東側大橋は九十七間、西側小橋は二十七間。京の宇治橋、山崎橋とともに日本三古橋と呼ばれている。琵琶湖から唯一流れ出ている瀬田川に架かる橋で、右に湖水、左に石山を望む。大橋の入口左側に、『常夜燈』、山崎茶酔『歌碑』、『祠』、『雲住寺寺標・道標・地蔵堂』『勢田橋龍宮秀郷社』の案内板などがあった。『常夜燈』。山崎茶酔『歌碑』昭和三十年三月に瀬田町観光協会が建立した高さ2.25m。「松風乃 帆にはとどかず 夕霞 茶酔」。山崎茶酔、この人がどんな人なのかネットからも全く解らないが。東詰めから見た唐橋中之島方向。急がば回れの語源は、宗長(室町時代の連歌師)の歌「もののふのやばせの船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」であると。「もののふ」とは武士、「やばせの船」とは矢橋の渡しを意味するのだ。「矢橋の渡し」とは、東海道五十三次草津宿(滋質県草津市矢橋港)~大津宿 (大津市石塔港)を結ん惣町上水運で、「瀬田の長橋」とは、日本三大名橋のひとつ「瀬田の唐橋」である。当時、京都へ向かうには、矢橋から琵琶湖を横断する海路の方が瀬田の唐橋経由の陸路よりも近くて速いのだが、比叡山から吹き下ろされる突風(比叡おろし)により危険な航路だったため、このような歌が歌われたのだと。そして、昭和時代に入り、矢橋の渡しの先の琵琶湖沖には琵琶湖総合開発事業で人工島の矢橋帰帆島が出来、ここに湖南中部浄化センター(下水処理場)が建設され、私が若い頃は仕事で何回か通ったのを想い出すのである。【https://www.city.kusatsu.shiga.jp/shisei/sisetsuannai/community/UDCBK/school/udcbk120180718.files/20180616-1.pdf】『瀬田の唐橋』。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。古代の瀬田橋 672年 壬申の乱 近江朝廷軍(大友皇子)、大海人皇子軍に瀬田橋の戦いに敗れる 764年 藤原仲麻呂の乱 仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため、孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。 1988年唐橋下流80米の川底から壬申の乱まで遡ると思われる橋脚台(基礎)を発見。 940年 俵藤太伝説(雲住寺伝承の「俵藤太略縁起」より)藤原秀郷による百足退治。中世の瀬田橋 1184年 源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曽義仲軍と戦う。 木曽義仲・今井兼平戦死。 1221年 承久の乱 後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦う。 1582年 本能寺の変 瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼き、明智光秀の安土城進撃を一時阻止する。瀬田の唐橋唐金擬宝珠 水に映るは膳所の城」『瀬田の唐橋』「俵藤太 百足退治の図俵藤太のムカデ退治伝説とは次のようなもの。「瀬田の唐橋に大蛇が横たわっており、人々は恐れて橋を渡ることができませんでした。しかし俵藤太は大蛇を踏みつけて橋を渡りました。その夜、美しい娘が藤太のもとへ訪ねてきました。娘は琵琶湖の龍神で、藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えていたのでした。娘は藤太に「三上山のムカデに苦しめられているので助けてください」と言いました。そこで藤太が三上山に行くと、山を7巻き半する大ムカデが現れました。藤太は八幡神に祈って矢を射、それが大ムカデに命中しました。藤太はムカデ退治のお礼にと、龍神の娘から米の尽きない俵をもらいました。またのちに藤太は朝廷より平将門の乱平定を命じられましたが、龍神のおかげで将門の弱点を見破り、討ち取ることができました。」と。俵藤太というのは、彼が龍神から米のつきない俵をもらったところからつけられた愛称で、本名は「藤原秀郷」。『上田 太神山 不動寺』道標。瀬田唐橋の手前の道標。ここから9kmほど東南の太神山山頂付近にある不動寺。平安時代の初期、智証大師円珍が創建。本堂は南北朝時代に再建され、巨大な花崗岩の上に建っているとのこと。『芭蕉句碑』。『五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋』「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋瀬田の唐橋は、近江八景の一つ「瀬田の夕照」の地として有名で芭蕉翁も何度か訪れたことがあります。琵琶湖やあたりの気色のすべてが、五月雨にかすんでいる中で、さすがに瀬田の唐橋だけは、雨にも隠されることなく、長々と横たわって見えている。五月雨に煙る湖と唐橋を詠んだスケールの大きなこの句は、貞亨5年(1688年)の夏に作られました。」江戸後期の浮世絵師・歌川広重によって描かれた錦絵による名所絵(浮世絵風景画)揃物『近江八景』の『勢多夕照』。富士山の如き山は「近江富士」なのであろう。『瀬田川』上流方向。多くのカモ(鴨)が餌を啄んでいた。額から頭頂がクリーム色なのは『ヒドリガモ』であろうか。道路の反対側にあったのが『西光寺』。『浄土真宗 本願寺派 夕照山 西光寺』寺標。『山門』。山門に掛かる夕照山 の扁額『鐘楼』。『瀬田の唐橋』は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われます。宇治橋、山崎橋とならんで日本三古橋の一つとされてきた。また、日本の道100選にも選ばれている。『瀬田川』は、琵琶湖から流れる唯一の川で、「宇治川」、「淀川」と名称を変えて、大阪湾に注ぐのだ。『唐橋中之島』を見る。白木蓮の花が輝いていた。県道599号線「夕照の道」沿いをを引き返す日蓮宗の『永光山 妙真寺』。『妙見宮』と刻まれた『常夜燈』。『妙真寺 本堂』『妙真寺』は、建長5年(1253)日蓮上人による開基であり、境内には妙見大菩薩を祀る御堂と稲荷社の境内社がある。流出河川の一つである瀬田川に設置された『唐橋流心水質自動監視所』。『瀬田の唐橋・大橋』約172 mを渡る。「唐橋」と呼ばれているのは、擬宝珠を備えたデザインが「唐風」だったからと言われているのだと。 再び『瀬田川』上流方向。国道1号線の『瀬田川大橋』が見えた。中之島の道路の反対側にあった『西沢十七星碑』「瀬田蜆(しじみ) 藤咲きしかば うまからむ」。『西沢十七星碑』の奥、中州の小高い丘の上に「俵藤太秀郷の像」が鎮座していたのでズームで。像は三上山の方をじっと見据えているのだと。『瀬田唐橋架換記録碑』。瀬田の唐橋の大橋西北詰め(唐橋町23番街区)に建立され、昭和50年着工から54年7月竣工までの工事概要を記している。また、前回大正11年起工・同13年竣工の記念碑文を付していた。高さ1.35mで「瀬田唐橋架換記録」と題していた。瀬田唐橋架換記録着工 昭和五十年 三月竣工 昭和五十四年七月瀬田唐橋は古来、京都と東国を結ぶ交通の要衝として「唐橋を制する者は天下を制す」と言われました。 以下文字が擦れていて判読が困難であった。「瀬田の唐橋俵藤太秀郷むかで退治豪傑の誉れ高き秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。 すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れた。 何事かと話を聞けば、三上山に7回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという話。 しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。 そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたと言う。 秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。 この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。 琵琶湖に暮らす人々を守るべく一千年余昔から瀬田橋に住むという。 漁民の暮らしや、豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。 秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。 そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。」『道碑』。日本の道100選唐橋 昭和61年8月10日更に『瀬田の唐橋・小橋』約52 mを渡る。擬宝珠は木造橋の時から引き継がれており、江戸時代のものもあると。再び『瀬田川』上流を見る。『瀬田川ぐるりさんぽ道』案内板。4.1km下流先に瀬田川洗堰(せたがわあらいぜき)があると。琵琶湖の出口にはこの瀬田川洗堰があって、大雨が降った時は淀川の下流部を守るために、国交省琵琶湖河川事務所が洗堰の全閉操作を行う。淀川の水位が下がり始めたら、洗堰のゲートを開けて琵琶湖の水を放流することになっているのだと。びわ湖毎日マラソンではこの瀬田川洗堰を渡るコースになっているのだ。『唐橋西詰』交差点。渡って来た『瀬田の唐橋』を振り返る瀬田の唐橋西詰北側、唐橋旅館の玄関先に鎮座する『橋姫竜神の祠』。古来より天災人災から人々を守り反映の守護神として祭祀しており、また千古より清き大川瀬田川の日本における歴史的な唐橋で道行く人々を守りつづけている竜神であるとネット情報より。旧東海道・県道104号線沿いの連子格子の旧家。道路の反対側には『太田瓦店』。様々な瓦が展示されていた。こんなものまで瓦で。巨大な鬼瓦。「此の鬼瓦は、愛知県愛西市勝幡町塩畑2645 福應寺の本堂、大棟の鬼瓦です。鬼瓦の構造は、十個の組み合わせで一つの鬼瓦となります。高さ、1米97センチ、巾、2米30センチ、厚さ、68センチ、総重量、430キログラム。お相撲さんが、手を広げると同じ位になります」『大萱瓦幸謹製瓦』「此の瓦は、向かいの野口家が今から約百年前に建立された、楼閣で通称、竜宮城と称された建造物の瓦の一部です。 (平成二十一年十二月解体される。) 八咫烏と兎の餅つきを観ていると、古代人の夢とロマンを想い感じる。 八咫烏は、中国では火の鳥と言われ、太陽を表わし、兎の餅つきは、月を現し、縁取りには、蓮が型とられています。 又、三猿もしかりで感心させられます。 鴟尾は唯一無二の最高傑作と想われます。」非売品であると。ご自由に中へどうぞと。横笛を吹く天女大津宿家並み前方に踏切が見えて来た。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.24
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次一里山橋を渡り、更に小川を渡って緩やかな坂道を上り、大津市一里山一丁目の旧東海道を更に進む。先の信号交差点左角に『一里塚趾』碑が建っていた。ここ『月輪一里塚趾』は江戸日本橋から数えて120里目の一里塚である。「一里塚跡一里塚は、徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。 ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。 その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。 現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。」『一里山一丁目』交差点が前方に。そして渡った先に◯に十の描かれた石碑が。『一里山一丁目 一里塚前』の現代の道標。『道標』「祈 安全火車往来」と刻まれた、平成22年に篤志家が建立したという道標.道標は十字に刻まれ、上に 「三条大橋迄五里余り」、下に 「江戸日本橋迄百二十里余り」、右は 「膳所藩札場より大萱港常夜燈に至る」、左は 「旧朝倉道信楽より伊勢・桑名に至る」 と刻まれていた。道標の先から緩やかな下り坂となった。交差点を渡り進むと直ぐ左に大きな蔵が。左手民家の庭の常夜燈。大津市大江4丁目の旧東海道を進む。旧東海道を進んで大江四丁目交差点を越えた左手に『地蔵堂』があった。ここにも人の姿は殆どなかった。大津市立瀬田小学校の手前にあったのが『大江の史跡 文化財マップ』。「大江」の地名は、平安前期以来、朝廷の文章道(史学・文学)をつかさどる家柄として知られる貴族であった大江氏(大江千里)が、この地を開発されたことから地名になったと伝承されている。 千里は「ちりんさん」と呼ばれ、村人から敬われた三十六歌仙の一人として著名で、没後、住居の旧跡に小祠(野上社)を建て遺徳をしのんだと。さらに旧東海道を進む。ここにも小さな『祠』、これも『地蔵堂』であろうか。大津市大江三丁目の交差点を渡る。電柱の『旧東海道』道標と左に『大江三丁目 市立瀬田小学校前』道標。。西行屋敷跡西行法師は、俗名佐藤義満といい、百足退治の伝説で知られる俵藤太(藤原秀郷)の後裔で、鳥羽上皇の院御所を警固する北面の武士であったが、 23歳のとき出家し、諸国行脚を重ね、仏道修行と歌道に精進した平安末期の代表的歌人だが、一時この大江の地(瀬田小学校の南の忠魂碑の近く)に住んでいたという伝承がある。」しかし、伝、西行屋敷跡碑や忠魂碑は見当たらなかったが、道路脇の法面全面にシートが敷かれている場所があったが、ここにあったのか?旧家が所々に点在。『祠』。『旧東海道』道標のあった場所を右に曲がり進む。真っ直ぐ進むと『近江国庁跡』へ向かうが、この日は立ち寄らなかった。『近江国庁跡 掘立柱建物跡』。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E5%BA%81%E8%B7%A1】より「史跡 近江国庁跡国庁は、律令という中国の法律制度にならって、天皇を中心とする統一国家を作ろうとした頃に、全国68ヶ国にそれぞれ設置された役所で、近江国庁は、奈良時代前半(今から約1300年前)に置かれ、平安時代後半(約800年前)まで存続したようです。ここでは、都から派遣された国司(現在の知事のような役職)を中心として、徴税、裁判、軍事など今でいう県庁、警察署、裁判所、税務署として近江国の統治と都との連絡にあたっていました。国庁は、前殿、後殿と東西の脇殿を中心に、門や築地からなり、東西二町(約216m)南北三町(約324m)の区画をいいます。また、その外側には、九町(約972m)四方の広がりを持つ規格化された街路が広がっています。これを国府といい、役所の所在する市街地にあたるものである。近江国庁は、日本で初めて古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です。 【https://myagi.jp/ja/html/travel/travelEt.html】より直進して更に進むと右手に浄土宗の『帰法山 浄光寺』があった。『帰法山 成就院 浄光寺』寺標と『山門』。山門脇の『道祖神』と『大日如来』の小祠。『浄光寺 本堂』。『浄光寺』は寛文元年(1661)に中興された寺院で、木造阿弥陀如来立像は滋賀県の重要文化財となっている。『水子地蔵尊』。『阿弥陀如来標柱』。旧東海道に戻り先に進むと左手に大きな『山桜』の木が立っていた。「大場の桜この山桜は樹齢的二百年の古木です。旧東海道筋にあり毎年美しい花を咲かせています。旧東海道と芦浦街道との分岐点付近にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。この桜は、江戸時代には参勤交代で、みやびやかな列をなして、毛槍を振り振り供奴を連れた大名行列が、物々しく西に東に行きかっていたのを見つめていたことでしょう。」小さな祠。左手に金魚鉢をイメージした外装のユニークな民家があった。大場の桜の先でT字路に突き当たる。旧芦浦街道の脇に㈱内田組があり、その前に小さな『地蔵堂』があった。脇には巨大なタヌキ像が建っていた。その手前生け垣の中に埋もれていた石碑が、昭和55年(1980)の『旧芦浦街道』の道標であったのだろう。芦浦街道は、東海道の枝道のひとつで、近江国を南北に貫いていたが、浜街道が整備されると、その役割を譲っていったのだと。㈱内田組の前の信号交差点を渡ると、『高橋川』に架かる赤い欄干の『和田一号橋』があった。左手『高橋川』の堤防の法面(のりめん)には枝垂れ桜が満開。『和田一号橋』を渡ると『建部大社末社 檜山神社』の社号と石鳥居が。左手の小山の上に建部大社の境外末社である檜山神社がある。参道途中には横尾山1号墳があるが、これは京滋バイパス建設に伴って移設されたものだという。『一の鳥居』。しかし、先を急ぐので訪ねることは出来なかった。これが『檜山神社 本殿』であると。 【https://4travel.jp/travelogue/10954624】より右手に日蓮宗『八景山 正法寺』案内板。『正法寺 本堂』をズームで。正法寺は昭和8年(1933)信暢による開基であり、境内には日蓮上人像があり、やや離れたところに鉄筋コンクリート造の本堂があるのだった。『八景山 正法寺』寺標と山門。『日蓮上人』像。正法寺の先で東海道は斜め左の小道に進んで県道16号線に合流する。この分岐に山村石材店があり、この石材店が造ったと思われる道標が建っており、「左旧東海道 右瀬田唐橋」 と刻まれていた。山村石材店の横にも歴史を感じさせる石灯籠が。そして県道16号線に合流。左手奥にあったのが『建部大社』。建部大社は、景行天皇46年(316)に御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷に日本武尊の神霊を祀ったのが始まりと云われ、その後、天武天皇白鳳4年に近江国の中心であった瀬田の地へ遷祀されたという。本殿には日本武尊を祀り、境内には菊花石・菊紋壺・本殿を囲む左右に八つの摂社などがある。『瀬田名物 たにし飴製造元』の辻末製菓舗。もちろん原料が「たにし」ではなく、形が「たにし」に似ているところから、「たにし飴」のようです。ニッキと黒砂糖の味のようです。これが『たにし飴』である。 【https://tabelog.com/shiga/A2501/A250101/25005960/】より歩道には『瀬田の唐橋』が描かれた石版が埋め込まれていた。そして正面の『唐橋東詰』交差点の先に『瀬田の唐橋』が姿を現したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.23
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道は草津市南笠東1丁目で右からの狼川沿いの道路と合流した。『狼川』に架かる『狼川橋』を渡る。狼川橋で渡り、信号交差点を越えると、左手の狼川児童遊園脇に『常夜燈』が建っていた。南笠東四丁目に立つ『木造常夜燈』には「東海道狼川」と書かれた木札が。。ここからが『大津宿』なのであろうか。草津宿本陣3.7km⇔瀬田唐橋4.9km。日本橋より469km。若い頃通いお世話になった会社が左に。懐かしく当時のことを想い出したのであった。左側に『日蓮正宗 啓道寺』の案内表示版が。狼川児童遊園を過ぎると、街道は緩やかな上り坂道となり、日本黒鉛工業㈱瀬田工場の先で下り坂となって行った。この辺の桜はほぼ満開。この桜の種類は?淡いピンク色の花と「赤い」若葉から『ヤマザクラ』であろうか。『大津市 汚水マンホール蓋』市制施行から100年目の大津市の景観をモチーフにした、琵琶湖、琵琶湖大橋、ミシガン船、ヨット、観覧車、 市の鳥・ユリカモメ、市の花・エイザンスミレ、市の木・ヤマザクラ、 花火大会、レガッタ、びわ湖花噴水、犬などと市章に下水の「下」を組み合わせたマークが所狭しと描かれていた。日本黒鉛工業㈱瀬田工場を右に見て下り坂になると、右手筋角に『地蔵堂』があり、中に一体の地蔵尊が祀られていた。ここは滋賀県大津市『月輪三丁目』。住宅街にある旧東海道。『地蔵堂』の先を進むと長屋門の家や虫篭窓の付いた家などが並んでいた。右手奥に浄土宗の『寶國山 新福寺』寺標が立っていた。『新福寺 山門』。境内から『新福寺 本堂』を見る。『新福寺』は延宝4年(1676)編誉によって中興され、ご本尊は阿弥陀如来である。『本堂』前には『本尊阿弥陀如来碑』もあった。旧東海道に戻り進むと左手には立派な門のある白壁の蔵を有する大きな民家が。道路沿いの塀の下には『犬矢来』が。前方の月輪自治会館の手前の左に入る筋の角に『道標』が建っていた。道標には 『名勝 月輪大池 南約1粁』と刻まれていた。昭和57年建立の新しい道標。月輪は、月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれているのだと。『月輪』碑。月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、月輪殿九条兼実の圧園内にあったからともいわれていす。元来は原野でしたが、江戸時代にはいって開墾がすすめられ、延宝四年(一六七六)大萱新田となり、明治七年(一八七四)月輪村と改称されました。」月輪自治会館のすぐ先左手に曹洞宗の『普門山月輪寺』があった。入口には様々な石碑が立っていた。写真左に『月輪寺』寺標が。『明治天皇御東遷御駐輩之所碑』。『新田開発発祥之地碑』。元々は原野であったが、江戸時代に入って開墾が進められた。1676年(延宝4)大萱新田となり、1874年(明治7)月輪村と改称されたと。 『月輪寺 山門』。『大本山永平寺 御直末 月輪寺』の木札も。古来から寺格は、本山・直末・末派と分かれていたが、この内、本山の直接の末寺を直末と呼ぶのだと。山門に掛かる『月輪寺』の扁額。扁額の裏には、「松の色 こずえ(梢)の春や ますかがみ 月の輪寺の 名にのこるらむ」と詠まれていると。『地蔵堂』。『月輪寺 本堂』。この寺は安永2年(1773年)開村者の一人長野助右ヱ門が大和大峰山に登り「役の行者」の古儀を招来し東海道と浜道との交差点(中筋)で、村の中心地であったところに堂を建て 「行者堂」と称してお祀りした。その後、文久3年(1863年)十四代将軍徳川家茂が上洛の途上の際に休憩され、二条城で月輪寺の寺号と歌の額を頂いた。これ以後 「普門出月輪寺」(曹洞宗)と呼ぶようになつた。『徳川家茂公の歌』。『宝篋印塔』。道標「東海道」。石碑群を振り返る。『月輪寺』の先の信号交差点を渡ると、左手の「下月輪池」の前に『東海道立場跡』碑が。月輪大池はもっと南1kmにあるとのことで訪ねなかった。この写真の池は東側が「下月輪池」、西側が「山ノ神池」であると。月輪(つきのわ)の地名由来は、1、この池に映った美しい月の姿から。2、月輪殿九条兼実の荘園がここにあったから。という2つの説があるのだと。大津市一里山の旧東海道を進む。『一里山三丁目』交差点を渡る。旧東海道はここから再び狭くなっていた。『長沢川』に架かる『一里山橋(いちりやまはし)』を渡る。桜が咲いていればと・・・。『瀬田東学区 歴史マップ』この地図では、濃茶の旧東海道---を左から右に歩いて来たのであった。水路に架かる橋を渡ると左手の民家のブロック塀の中に小さな『地蔵尊』が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.22
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『教善寺』を後にし、更に旧東海道を進むと右手に大きな欅の木が姿を表す。右手にブロック塀に囲まれた遠藤権兵衛家があり、塀の上に案内板があった。そしてその隣に『平清宗の供養塔』の写真が。「平清宗平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。 後白河上皇の寵愛をうけ、3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。「吾妻鏡」 に 「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」 とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 遠藤権兵衛家 当主 遠藤勉」『平清宗の供養塔』の本物を見たくて周囲を探す。欅の周りにはなかった。この植栽の中ではと近づいたが。いろいろな碑があったが、写真の『平清宗の供養塔』の姿は見つからなかった。すると、自宅で今回の『旧東海道を歩く』の予習をした折、この『平清宗の供養塔』の位置をGoogle mapで確認し、その場所に行くには横の道を進み、右に折れ民家の裏のごく狭い路地を進むことを思い出したのであった。そしてその通り、入って良いのかと思いながらも敢えて狭い路地を進んでいくと『平清宗の供養塔』が姿を現してくれたのであった。「清宗塚文治元年(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(8歳)は入水。平氏の総大将宗盛・長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都に上る途中、野洲篠原にて宗盛の首を刎ね、本地に於いて清宗の首を刎ねる。清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向かい静かに手を合わせ、掘弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年6月21日の事、清宗ときに17歳であった。首は京都六条河原にて晒される。平清盛は義経三歳の時、あまりにも幼いという事で命を許した。 時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて三一歳で殺される。夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。」「庭の奥にある覆屋の稲荷社」。先に進むと、街道が右にカーブする手前左手に真宗大谷派の『玉川山 浄泉寺』があった。『真宗大谷派 玉川山 浄泉寺』寺標と『山門』。『手水舎』。境内からの『鐘楼』。『浄泉寺 本堂』。 浄泉寺は長禄4年(1460)円実による開基である。野路城主・黒川駿河守宗次は本願寺第八代法主・蓮如上人より御化導を受けて得度し、法号を円実と賜わっている。「玉川山浄泉寺縁起長禄四年、本願寺蓮如上人東国へ御巡化の途次、野路城に入り遊ばさる。城主黒川駿河守宗次、上人に鄭重に供応し奉り、今宵は名に逢う九月十三夜なれば、草生い繁る篠原の月を御覧ありて、御心を慰め申しければ、上人限りなく悦び遊ばされ、「玉ほこの 野路の篠原分け行けば 名に逢う月を 常不住に見る」と一首の御詠歌遊ばし、城主宗次を側に召して誠に人間の世は空行く月の如く敢えない仮の宿なり、されば只々阿弥陀仏の本領に帰命し安心決定も専ら佛を念ずべし と御化導を教教なし給え 上人の御教化こそ悉く覚え今宵こそ千遇の縁ぞと慶喜しあわれ御弟子となし給はり 佛恩を報じ奉りたき旨懇願申し上人より剃髪を戴き得度し法号を圓実と賜り浄泉寺開基となる。親鸞聖人御真筆大品十字名号 蓮如上人御筆六字名号を賜る。然る後十禅念佛三昧道場を改め玉川山浄泉寺の寺号を恩許遊ばし○に一字の浄刹となれり。」本堂に掛かる『玉川山』の扁額。『本堂』の鬼瓦。『鐘楼』。『石灯籠』と『十三重塔』。『ようこそ南草津「遺跡と萩の育むまち野路」の玉川へ』『浄泉寺』の直ぐ先左手筋に新宮の鳥居が建っており、鳥居を潜って100m程進むと左手に『新宮神社』があったがこの日はパス。『新宮神社』社標。その後ろに文政8年(1825)の『常夜燈』が。一の鳥居の先にある『地蔵尊群』『新宮神社 拝殿』。天平年間(729~749年)に行基によって創建されたといわれていると。付近の住民からは別名、野路神社と呼ばれているそうです。 【http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/kusatsu/singu010/noji.html】より旧東海道に戻ると右手に寺標があり、奥に進むと長屋門の山門の真宗大谷派の『白萩山 願林寺』があった。『膳所城』の『長屋門』を移築した『山門』。本堂前に枝を張る松。『親鸞聖人像』。『鐘楼』。『願林寺 本堂』。願林寺は永正9年(1512)祐正による開基でであり、ご本尊は阿弥陀如来である。本堂に掛かる『白萩山』の扁額。本堂前に枝を張る松を別の角度から。『十三重塔』。旧東海道道に戻ると右手筋門に『野路在郷軍人用地』碑が。この付近は野路という地名であり、この辺りに在郷軍人の用地があったようである。在郷軍人は郷土に在住する軍人・団体で、普段は民間人として何らかの生業につき、必要に応じて召集されたのだと。更に旧家が点在していた南草津の旧東海道進む。先に進むと右手にレンガ造りの『地蔵堂』が、何故か旧東海道に背を向けて建っていた。地蔵堂内には白くお顔を着色された5体の地蔵尊が安置されており、『子守地蔵尊』と呼ばれているようであった。ネットサーフィンしていると、こんなページ(https://ameblo.jp/wanganwalker/entry-12550858032.html)に遭遇。「右手前方に赤レンガの構築物がありました。後ろから見るとゴミ置き場のようですが、前に回ってみると、中に「子守地蔵」と呼ばれる五体のお地蔵様が並んでいました。江戸時代のこと、参勤交代の行列の際道端で土下座していた母と息子の前にカブトムシが飛び出し、それを取ろうとした男の子が行列を乱したため、二人とも切り殺されしまいました。「子守地蔵」が中山道を背にして立っているのは、子供を守れなかったのが理由でしょうか。」と。そして更に先の右手にも小さな祠が2社並んでいた。この付近がこの後訪ねた『野路萩の玉川』の湧水場所であったようだ。旧東海道を進んで県道43号線を越えると『萩の玉川遺跡』と書かれた案内板が姿を現した。民家の車庫の奥のにも小さな社が鳥居もついて。右手に『野路萩の玉川』があった。 野路は平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として栄えた所であり、この野路に玉のような綺麗な湧水が有ったことから 「玉川」 と呼ばれ、「日本六玉川」 の1つに数えられていた。 ここには復元された湧水があり、往時の姿を偲ばせているのであった。正面には『玉川』碑があった。源俊頼の歌碑で『あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり』と。しかし、現在は泉は枯れポンプに依る循環式になっていると。「野路萩の玉川「野路 」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅 として栄えた所である。 源平争乱の時代ここ野路は、數多くの武将の宿陣となり時には火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。ここ萩の玉川 は多くの歷史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり都から公郷、貴族、詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも千載集 (1188 年)所載の源俊頼 の作「あすもこん 野路の玉川萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記 (阿仏尼 作)には「のきしぐれ ふるさと思う袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」と詠んだ。十禅寺川 の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵 によく描かれいつの頃か歌碑も建てられた。その後野路宿が草津宿に移り、次第に玉川も亦さびれる運命となった。近年は泉も涸れ形も 小さくなり、風情は一変した。かっては天下の名勝萩の玉川もわずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、我等地元住氏は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次来である。」「古き宿駅 野路駅の名残り野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりは、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。『千載和歌集』の源俊頼の歌に あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけりと詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、『近江名所図会』や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺など多くの歴史遺跡が所在する。」『野路 萩の玉川』碑。『野路 萩の玉川』碑の奥にあった社。復元された『萩の玉川』。別の角度から。萩の玉川隣の民家脇に安置された『地蔵尊』。旧東海道を更に進むと『弁天池』に突き当たり、浮島に向かって細い橋が架かっていた。東海道名勝として名高い弁天池。野路は平安から鎌倉時代にかけて宿駅として、戦略拠点として栄えて来たと。しかし、東海道の宿駅として草津ができると衰退していった地域でもあると。この橋は浮島に架けられた『浄財弁財天参道橋』。真ん中が太鼓橋のごとくにこんもりと盛り上がっていた。橋の左にあった『弁天池常夜燈』。『浄財弁財天参道橋』の渡り詰めの鳥居。『弁財天覆屋』。この弁財天社は琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天が祀られているのだと。『境内社』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.21
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次草津宿の京口に平成14年(2002)に天井川の旧草津川から川筋を変えて付替えられた草津川があり、ここに『矢倉橋』が架かっていた。新草津川に架かる『矢倉橋』の位置図。青が「旧草津川」、これをほぼ真っすぐな赤の「新草津川」に流路変更。現在は「草津川放水路」とも呼ばれている。『矢倉橋(やぐらはし)』橋標。『草津川上流域』。住宅の建っていた場所を移転してもらい掘削してこの「草津川放水路」を造ったのだと。『矢倉橋』を渡った直ぐ左手に、浄土宗の『法照山 光伝寺』があった。奥に『光伝寺 山門』と『光伝寺 本堂』の屋根が見えた。『浄土宗 法照山 光傅寺』寺標。『光伝寺 本堂』『光伝寺』は、承平年間(931-38)の開基であり、本堂は応仁の乱で焼失したが、明暦年間(1655-57)に再興された。本尊の木造阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)は、国の重要文化財に登録されている。本堂に掛かる『法照山』の扁額。『子育地蔵尊』。『水子地蔵和諧』「産みなす父母のまよいより 水子のうちに この世去り 母の乳房をさがしつつ ひとり闇路の幼霊(おさなご)や 哀れ愛しと抱きたもう 大慈大悲の地蔵尊 あみだ如来の すがたかえ 育て導く 最尊(ほとけ)なり」」『鐘楼』。『本堂 新築 記念』。「ありがたや まことの心で 願いなば 法のみ寺の 建つぞうれし」。旧東海道に戻ると、直ぐ右手に『武甕槌(たけみかづち)神社』があった。『武甕槌(たけみかづち)』。『武甕槌神社』の由緒等は不詳であが、武甕槌神は、日本神話にある神の名で、建御雷神などとも記される。右手の矢倉集会所の前に、色付けされた『地蔵尊』が祀られていた。『小さなパン屋さん』。中2階には『虫籠窓』が。そして『地蔵尊』の直ぐ先、右手に明治以前から創業する『古川酒造』があった。『古川酒造』入口。無料で酒蔵見学ができたようだが、「天井川」は『古川酒造』の代表的な銘柄のようであった。前方右手に社が。『◯◯地蔵尊』右手に『姥が餅屋旧跡』がありその前に道標が。その名の通り「姥が餅」が名物の店でしたが、昭和13年に廃業してしまったらしく、現在、同地には瓢箪(ひょうたん)専門店『瓢泉堂』が営業していた。『道標』には『右やばせ道 是より廿五丁 大津へ船渡し』」と書かれていた。ここから二十五丁(2.7Km)入ると 「矢橋舟着場」で、大津まで湖上一里の近道だが、「もののふの 矢ばせの船は 早くとも急がばまはれ 瀬田の長橋」と詠まれた通り、近道であっても西風が吹いて湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをするよりも回り道でも瀬田橋回りが確実だったと。「急がば廻れ」の語源となっているのだと。『矢倉立場』「矢倉立場東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿南に続く矢倉村。 立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。 この地に、そのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。 浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。 旅人は、俗謡に「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、 旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。 そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で「急がば回れ」の語源になったところでもある。 武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、 遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したのである。 安藤広重『東海道五十三次』(保永堂版)より草津「名物立場」この茶店は下図で正面を横切る東海道と、画面右奥に進む矢橋道(やばせみち)との分岐点でもありました。上の絵の茶店の端、矢橋道の入り口にある道標は現存していて、『瓢泉堂』の玄関先に立っていた。浮世絵の中に「うばがもちや」と建物右手に道標が描かれていた。浮世絵に描かれている道標が、今も軒先に立っているのであった。名物の『姥が餅(うばがもち)👈リンク』。 【https://ameblo.jp/matasichi/entry-12454315828.html】より安藤広重『東海道五十三次』(隷書版)より「矢橋の渡し口 琵琶湖風景」右手に『愛宕神社』。『愛宕神社』社殿とその隣に色付けされた地蔵尊が祀られた小社があった。。街道に戻ると、右手の民家前に目鼻を色付けされた『地蔵尊』が。前方左手に朱の鳥居が見えた。『稲荷神社』。このあたりが「矢倉城遺構」となっていたが、全くの詳細不明。奥まで探索したが、石碑や案内は一切なかった。本当にここに城があったのだろうか?築城年代や城主なども一切不明と。参道には朱の鳥居が続く。漸く左手に折れた場所に社殿が。社殿が二つ。『朝日大明神 伊吹大明神』の幟が並んでいた。右手に『草津市立矢倉小学校』。電柱に『東海道 ここは矢倉2丁目』と。『ようこそ南草津』案内板。前方に『一里塚』の赤い文字が。「上北池公園」内に一里塚があったのだった。『東海道五十三次之内 草津 』。『野路一里塚跡』碑。本来は北東20m程度の民有地にあったとのこと。「野路一里塚は、この石碑より北西に約三十米の所と道路(旧東海道)を挟んだ北東約二十米の所の二ヶ所あった。 明治十四年頃に官地が私有地に払い下げられ、消滅するにいたった。 ここに野路一里塚の旧地を証するため、この石碑を建立する。」「野路の一里塚関ヶ原の合戦で天下を手中にした徳川家康は、慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を発布するなど、いち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。 慶長9年(1604)には引き続き東海道、中山道、北陸道の街道沿いに一里塚を設置した。 一里塚は江戸日本橋を起点とした一里ごとに旅の里程の目安として設けられた塚で、その中央に榎などの樹木を植えたために、旅人の疲れを癒す格好の場ともなった。 東海道分間延絵図(文化3年作成)には、ここ野路の北川の北方の街道の両側にも長い松並木とともに一里塚が描かれているが、 その木立は天保14年作成の東海道宿村大概帳や元禄3年刊行の東海道分間絵図によれば、双方とも松であったことが明らかである。」公園の西出口から真直ぐ方面が旧東海道であったが、ここでは道路を注意して横断すると左手に『東海道道標』が建っていた。矢倉南交差点前に有った東海道道標と同様、国道1号線とかがやき通りで分断された旧道の迂回路が示されていた。旧東海道に再び入り更に進み、小さな川を渡ると左手にあったのが浄土宗の『本誓山 来迎院 教善寺』。『教善寺 山門』。『教善寺 本堂』。教善寺は、承応2年(1653)隋誉による開基であり、境内には聖観音菩薩・十一面観音菩薩立像・勢至丸像などがあると。本堂に掛かる『本誓山』の扁額。『勢至丸像』は法然上人の幼名。『聖観音菩薩』。後ろに『鐘楼』。『鐘楼』前の『草津歴史街道 東海道』案内板。「東海道東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。その里程は、江戸日本橋から相模小田原宿を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山。水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町家があった。また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)野路の玉川跡など社寺名所が在り、 矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。」『教善寺』の隣に『地蔵堂』があり、全体を白く塗り、目を黒く塗った『地蔵尊』が祀られていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.20
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次正定寺の西隣に『八百久』店舗兼主屋があった。『八百久』は寛保年間(1741-43)から日用品(鋤・鍬・天秤・火鉢など)を扱う商家だった。現在の建物は、昭和3年(1928)に建てられたもので、厨子二階建であり、二階は格子窓と虫籠窓の伝統的な意匠が用いられ、平成19年(2007)に国の登録有形文化財となっている。更に草津3丁目の旧東海道を進む。家と家の間にある狭い路地の先にあるらしい『遍照寺』の案内板が。中に入っていくと正面に『地蔵堂』が。そして『本堂』。『真言宗 泉涌寺派(せんにゅうじは)遍照寺』。旧東海道に戻り進むと、交差点の先、右手に朱の鳥居が見えた。『立木神社』。県道141号線前に建つ鳥居。朱の欄干の立木大橋を渡り立木神社境内に入った。扁額『立木神社』。『立木神社』社標と奥に『御神鹿 狛鹿(こまじか)(牡鹿)』。『御神鹿 狛鹿(雌鹿)』。御神木の『ウラジロガシ』は県指定自然記念物で推定樹齢400年の巨木であると。「滋賀県指定自然記念物」滋賀県自然環境保全条例第21条第1項により指定名 称 立木神社のウラジロガシ所在地 草津市草津四丁目1番3号幹 周 6.3m 樹高10m 樹齢(推定)300年以上指定理由 当神社は草津市中心部の市街地に所在し、緑豊かな鎮守の森を形成しており、 周辺住民の憩いの場となっている、その中でもこの樹木はひときわ大きく、また 当神社の御神木として崇められており、地域住民に親しまれている。」『神門』。『神門』を潜る。『拝殿』。『拝殿』で参拝。入母屋造の妻入拝殿は、境内の中心に凛として建っていた。武甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られていた。武甕槌命といえば、鹿島神宮の御祭神。鹿島や同じく武甕槌命を祀る春日大社の神獣は鹿である。『ゑびす(恵比寿)神社』。『天照皇大神宮』。歌碑『御製 ともしびの 静かにもゆる 神嘉殿 琴はじきうたふ 声ひくく響く』昭和32年歌会始お題「ともしび」の昭和天皇の御歌。『宮城遥拝所・皇大神宮遥拝所』『英霊殿』。扁額『英霊殿』。『境内社』七社 -『 竹生島神社・愛宕神社・日吉神社・稲荷神社・廣田神社・八坂神社・大将軍神社』そして右手に『松尾神社・天満宮社』。『神門(中門)』。神門前にも神鹿の像が狛犬たちと仲良く左右に居並ぶ。767年に鹿島神宮から1本の柿の木を植えたことに社名は由来するらしい。『幣殿・本殿』。『境内社』。五社 - 『多賀大社・熊野神社・龍田神社・下鴨神社・上鴨神社』。「立木神社 由緒』碑。祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)創立と由来 称徳天皇神護景雲元年(七六七年)六月二十一日命、常陸国鹿島を立ち給い(旅立つことを鹿島立ちというはこの縁による)この地に着き給う。 よって里人新殿を創建して命を斎祀し奉ったのが、当神社の起源であると伝えられる。 この時命、手に持つ柿の杖を社殿近くの地にさし給い「この木が生えつくならば、吾永く大和国三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」と宣り給いしが、不思議にも生えつき枝葉繁茂す。 人々その御神徳を畏み、この木を崇め社名を立木神社と称し奉る。崇敬と神徳 光仁天皇宝亀八年(七七七年)大旱魃にて琵琶湖の水涸渇す。 ために天皇中臣諸魚を以て勅使とし、当社に遣わし雨乞いの祈願をせしめられしところ、忽にして霊験ありて大雨沛然と降り万物蘇生す。 天皇殊の外嘉し給い殿の造営を命ぜられ、立木大明神の勅額を下し給う。 桓武天皇延暦五年(七八六年)正一位の神階を授け給う。 征夷大将軍坂上田村麿(田村神社祭神)東北鎮圧するにあたり当社へ大般若経一部を寄進して道中安全を祈る。 室町時代には将軍足利義尚は武運長久を立願して四脚門を奉建し、江戸時代には膳所城主尊崇あつく、代々社領を寄進し、また社殿の造営にも力を尽せり。 かくの如く当社は古来より朝野の尊敬厚く、又五穀豊穣、家内安全、安産、商売繁昌、交通安全、厄除開運、火災鎮護並びに勧学の大神として神徳高く広く庶民の信仰を蒐め来る。」「厄除開運・文通安全の守護神 立木神社の御由緒について立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百五十数年前の称徳天皇(第四十八代)神護景雲元年(七六七年)のこと、御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(ひたちのくに)(茨城県)の鹿島紳宮を白鹿に乗り旅に出られ「古来初めて旅立つ事を鹿鳥立ちと云うのはこの縁による」、諸国をへてこの地に到着されました。そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。『この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山〔今の春日大社〕に鎮まらん』すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を称え、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。ご祭神の武甕槌命は天孫がこの国土にご降臨前に、その道中安全を守護されたご神徳の高い神様で、昔から国家鎮護の神として朝野の信仰が篤く、田村神社のご祭神である坂上田村麿将軍は、東北地方鎮圧に山発前、当神社へ大般若経の一部を寄進して道中安全と厄除開運を祈願せられました。また当社の境内には旧東海道と中山道との分岐点を示す県内最古の道標があり、徳川時代参勤交代の制により、諸大名が草津宿を通過の際には、必ず当神社に道中安全を祈願され、不思議にも事故災難がなかったと伝えられています。付記 例大祭 五月三日 節分厄除大祭 二月三日祈願 交通安全・厄除開運・安産・初宮参り・七五三・結婚式 正月新年祈願・受験・入居祓い・地鎮祭等諸祈願」『儀式殿』。巨大な『絵馬』。こちらには明治天皇御製(ぎょせい)と刻まれた石碑。「いにしへの すがたのまゝに あらためぬ 神のやしろぞ たふとかりける」『参集殿』。『神馬』。境内から『拝殿』を見る。旧東海道に出る参道を進む。ここにも親子の鹿像『鹿神獣』が。『追分道標』。「みぎハたうかいどういせミち ひだりハ中せんだうをた加みち」「市指定文化財 石造道標 一基 24.0cm × 17.5cm × 213.0cm 江戸時代 (延宝 八年 = 一六八〇年) 指定年月日 昭和五十七年十二月六日 「刻銘」 (南面) 伊勢大神宮 延宝八庚申年 (カーン) 七ヶ年中履行月参詣願成就所 みぎハたうかいとういせミち 山城愛宕山 十一月吉日 (西面) 京みぶ村 ひだりは中せんたうをた加みち万宝院 あしたの行者 刻文よりこの道標は、東海道 と中山道 との分岐点である草津宿 の 中央部に位置する追分 の地に建てられていたことがうかがわれ、現 在の草津追分 に建てられている文化十三年銘石道標 (一八一六年) の前身のものと推定されます。 道標の建立年代は、「延宝八庚申年」(延宝八年 = 一六八〇)と 刻銘にあり、滋賀県下で最も古いものです。 建立の背景については、京都壬生村のあしだの行者万宝院 という 人物が、伊勢太神宮と山城愛宕山 (愛宕神 )への七年間毎月の参 詣成就を記念・感謝して建てられたものと推定されます。 近江名所図会に見られる草津追分 東海道名所図会に見られる草津追分」近江名所図会に見られる草津追分・東海道名所図会に見られる草津追分。『日本新聞学研究の祖 小野秀雄翁生誕之地』碑。「日本の新聞学研究の開拓者 小野秀雄 先生小野秀雄先生は、立木神社の中臣家38代宮司の小野秀国の長男として、1885(明治18)年8月14日に、草津のこのちに生まれる。東京帝国大学大学院に入学し直し、新聞の学問的研究及び新聞記者教育の開拓と発展に主導的な役割を果たした学者で、東京帝国大学文学部新聞研究室主任、東京大学教授、銅新聞研究所初代所長、上智大学教授、同文学部新聞学科長、日本新聞学界初代会長、同名誉会長などを歴任。主著に「日本新聞発達史」、「新聞原稿」、かわら版物語」のどがある、1955(阿養和30)年に、その功績にたいして日本新聞協会から新聞文化賞が授与された。没年、1977(昭和52)年7月18日(91才11ヵ月)」旧東海道側の『鳥居』と『立木神社』の扁額。その奥に石灯籠が並ぶ参道。旧東海道に戻り進むと、直ぐに前方に見えた橋は『矢倉橋』。草津川に突き当たる手前左手に『黒門跡』があった。ここは草津宿の京口で、文化14年(1817)に『黒門』が設けられた。よってここまでが京に上る東海道の草津宿の出口。「黒門の由来草津宿は、東海道と中山道が交わる宿場町であるため、宿場の入口は東海道の江戸方よりの入口と京方よりの入口および中山道よりの入口の三つの入口がありました。宿場町の入口には、一般に見付と呼ばれる施設が設けられていました。見付には石垣や土塁が築かれ、さらに柵などを設ける場合もあったようです。草津宿では、東海道の入口に 「坂口見付」 と中山道の入口に 「札の辻見付(追分見付)」 と呼ばれた見付がありました。一方、東海道の京方の入口である宮町と矢倉村との境には、文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を限る施設として存在していたようです。しかし、この黒門は幕末期に草津宿役人を勤めた駒井興左衛門の記録に基づけば、もともとは六町目と宮町の境を流れる宮川に架けられた宮橋の南詰めにあった見付の石垣の上に建てられていたものですが、その後石垣が壊れたため、上記のとおり矢倉村境に移築されるにいたったようです。ただ、この黒門の規模や形状については、詳細な記述がなく不明と言わざるを得ませんが、見付と同様な、宿場町の保安的機能を有していた門であったと考えられます。また、付近に黒門川(俗称)が流れていましたが、旧草津川の抜本的な放水路計画により分断され、上流・下流で一部その姿を留めることとなりました。」『東海道五十三次之内 草津 名物立場』「東山道と東海道の分岐点で交通の要でにぎわい、草津宿は本陣2、脇本陣2、旅籠72軒を数えていた。」『 歌川 広重 東海道五十三次之内 草津 名物立場 』草津宿を過ぎた矢倉の立場の様子。名物、姥が餅を食べさせる「うばがもちや」があった。画中奥の茶屋では多くの旅人が休憩してこの餅を食している。画中手前には、姥が餅など食する余裕もないのか、早駕籠と荷物担ぎが行き交う。『新しい草津川ができる以前』「新しい草津川は、多くの方々の土地提供によってできた川です。中でも当地区は、多くの方々が移転されました。この事業にご協力いただいた方々に深く感謝します。」-----内が現在の草津川が流れている場所。この場所には多くの住宅が建っていた事が解る航空写真なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.19
コメント(0)
昨夜は我が家の上空に『国際宇宙ステーション・ISS/きぼう』の飛行する姿が見えました。ISS計画にはアメリカ、ロシア、ヨーロッパ、カナダ、日本の15ヶ国が参加しており、各国が最新技術を結集したこの国際プロジェクトに、日本も日本実験棟「きぼう」や宇宙ステーション補給機「こうのとり」(HTV)などで参加しているのです。その大きさは約108.5m×72.8mとほぼサッカー場ほどの大きさとなり、質量は約420トンもあるのだと。時間は19:55前から4分ほど、南西上空から北東へ移動。−2等星ほど?の明るさでした。地上から約400kmの上空を秒速約7.7km(時速約27,700km)で飛行していて、地球を約90分で1周、1日で約16周しているとのこと。新型コロナ沈静化への『きぼう(希望)』になることを願って妻と二人で追いかけました。---------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次草津宿の旧東海道を更に進む。左右両側に旧家が。右の路地の白塀は『草津本陣跡』のもの。左手に『藤屋与左衛門脇本陣跡』があった。明治時代に御茶屋となった吉川芳樹園の店舗兼主屋は、平入り正面上部の虫籠窓風の意匠や漆喰で塗り込められ、出桁などが町屋らしい雰囲気を醸し出している。鬼瓦に文政13年(1830)の銘があるこの建物は国の登録有形文化財に指定されている。『名産茶』『東海道 脇本陣 藤屋與左衛門』の木札。「吉川芳樹園店舗兼主屋平入り正面上部の虫籠窓風の意匠や漆喰で塗り込められ出桁などが町屋らしい雰囲気をかもし出しており、鬼瓦には又政13年(1830)の銘がみられます。街道に並行した切妻造の背面で、棟が直交するT字形の屋根形式となっており、草津宿の町屋にみられた特徴を持っています.草津宿には、本陣が2軒、脇本随が時代によって2~4軒ありましたが、この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたります。」『藤屋脇本陣跡の隣に『脇本陣仙台屋茂八跡』があり、ベーカリー&カフェ脇本陣という店舗になっていた。店舗の右側には、『草津宿 脇本陣跡碑』が建っていた。『草津宿 脇本陣跡碑』。左手に『マンポのとなりのこ』とその前に『くさつ』と刻まれた石碑。以前は『マンポのとなり』でコミュニティーセンターになっていた模様。ここで絵画展開催や琴等の和楽の稽古場として使われていたようだが、現在は店名も変わり・・。その入口の先にあった石碑と案内板。江戸時代は、草津宿にあった二つの本陣の、もう一軒だったようだ。田中九蔵本陣跡(知新学校跡)草津宿にあったニ軒の本陣のうちの一軒13代将軍に嫁いだ篤姫や14代将軍家茂が利用本陣廃止後跡地に知新学校が建てられた。草津市観光ボランティアガイド協会」『知新學校』。草津村三丁目島田右衛門の建物を借り受け、借り校舎にあて矢倉・草津・大路井・小柿の4か村の連区によリ『知新學校 』として明治6年9月12日に創立。旧東海道は緩やかにカーブ。前方左手に『はこずし』の幟が。『老舗・寿司清』。創業78年の老舗。「全国すし技術コンクール」で金賞を受賞した店主の木村孝一(きむらこういち)さんが腕をふるう。この店の草津名物の「はこずし」はハモを丁寧に骨きりし、店独自の特製タレで仕上げているのだと。これを目当てに来店する客が多いと。草津名物の「はこずし」の写真を『老舗・寿司清』のHPより。美味しそう!!「草津名物 はこずし当店の「はこずし」は関西寿司の押しずしから来ています。押しずしは、バッテラや箱ずしの総称ではこずしは、京都吉田神社の「鈴鹿家のこけら寿」から来てると言われています。大阪流はこずしは、エピや白身、玉子やアナゴを使いますか、当店の「はこずし」は京都祇園祭りで有名な「鱧ずし」をいかに安価に提供できるかで、創業者孝三郎が1937年に当店の「はこずし」を謹製販売いたしました。当店の「はこずし」は大阪流「箱ずし」と区別するため、ひらかなで「はこずし」と表記いたします。草津でハモというのが似つかわしくないと思われますか、1861年(文久元年)秋和宮親王の将軍降嫁の行列で草津宿本陣に昼休のおり初めて「ハモ」がご用意されました。(ただし当日精進日のため急きょ精進科理に変更されました)「はこずし」は、ハモを骨切りし独自のタレで焼き上げ皮をはぎ飯を詰めた型枠につぶしたハモを乗せ押し抜き、秘伝のタレを塗り。炒った芥子(けし)の実をふりかけ作ります。一口大に切った「はこずし」はお子様からお年寄りまで幅広い層のお客様に喜ばれております。今では他府県からのお客様にもわざわざお買い求め頂いております。草津観光の折、また草津へお越しの際は、草津名物「はこずし」をどうぞ…。」と。左手にあったのが『無料休憩所』。『くさつ夢本陣 (観光案内所・無料休憩所)』『くさつ夢本陣』は、街道や宿場町が育んできた出会いと交流の文化を継承する市民と観光客の憩いの場。コミュニティ F M 放送局を併設し、情報発信ステーションとしての役割も担っていると。植栽の前の石碑。右側にあった石碑を振り返る。『右 以し山ミち』と刻まれていたが「石山道」の意か。右手前方は『野路屋』。『野路屋』は婦人服洋品店。そして左手に『草津宿街道交流館』。江戸時代、東海道と中山道が分岐・合流する宿場として栄えた草津宿。『草津宿街道交流館』は、その中ほどに建つ歴史資料館。江戸時代の旅と街道を中心に、展示と体験を通して草津の歴史・文化を紹介していた。買っていたチケットで入館。『草津宿街道交流館』のリーフレット。裏面。中に入ると『弥ニ』さん、『北八』さんの姿が。『弥次郎兵衛』、『喜多八』と思っていたが、この絵には『弥ニ』、『北八』と。1階は、無料情報検索コーナーで、2階は、有料の展示室になっていた。街道や草津のことがよくわかる書籍や地図、草津宿のオリジナルグッズなども販売していた。1階展示は近江国と五街道、草津宿の地図を展示していた。『東海道五十三次地図』。『草津宿』案内図。2階展示は模型、体験コーナーを通して、宿場町・草津と江戸時代の旅の歴史を詳しく学ぶことができるのであった。常設展示では旅の道具や道中記類などの歴史資料を展示していた。江戸時代後期の草津宿のまちなみを200分の1の大きさで再現した「草津宿まちなみ模型」や二階の旅籠コーナーでは道中着の半合羽、薬入れ、胴巻き財布など旅道具を紹介していた。古文書コーナー。そして1階で浮世絵の製作過程を版画の重ね摺りで簡単に体験できる「浮世絵摺り体験」にTRY。更に1階の入口には『汚水用カラー盤マンホール蓋』が。歌川広重「東海道五十三次之内草津」をモチーフにした『汚水用カラー盤マンホール蓋』。マンホールカードも頂きました。しかし、残念ながら路上では見ることが出来なかった。『草津宿街道交流館』前の『石造道標』。「正面 東海道」 「右面 天明七年五月吉日」「江戸時代に江戸と京都・大阪を結んだ「東海道」(当館前の道)。もともと立てられていた場所はわかりませんが、曲がり角や分岐点で東海道の道筋をしめしていたものと思われます。右側面に天明七年(1787)の年号が刻まれていることから、現存する道標の中では比較的古いものと思われます。」『街道交流館』の向かいに『浄土宗 布薩山 常善寺』があった。『常善寺』は、天平7年(735)良弁僧都の創建お伝えられる草津町最古の名刹であり、かつては堂塔伽藍も整っていたが、兵火や水害によって荒廃したものである。本尊の阿弥陀如来坐像と観音菩薩・勢至菩薩の三尊が重要文化財に指定されている。左手に老舗の菓子屋『松利老舗』。「松里もなか」が代表的な銘菓だが、今の一押しは「草津たび丸 どら焼き」だと。ひとつのどら焼きに小豆、栗入り白あん、抹茶あんと三色あんが入っているのだと。その先に左手に白壁と格子造りの『太田酒造道灌蔵』があった。『太田酒造株式会社』の表札も。『道灌』と書かれた歴史を感じられる木製看板。江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、街道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていた。『道灌蔵』。太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のことで、大吟醸『道灌』・本醸造『千代八千代』などがある。『草津宿と政所』「草津宿は東海道53次の宿場の中でも大宿で水陸交通の要所でもあることから関所的な役割を担ってきました。草津宿でこの付近一帯は、政治的な中心地として、宿場における旅に必要な馬や人足の用意をしたり、宿の管理を行う問屋場がありました。併せて東海道筋では三ヶ所しか置かれていなかった荷物などの重要検査を行う貫目改所も設置されていましたので太田家を中心とするこの付近は、草津の政所(まんどころ)と云われてきた所以です。」木札『東海道草津宿 問屋役人 太田又四郎』も。道灌蔵入口の菰樽・「道灌」。反対側から。『道灌蔵』入口。杉玉も。1階の店内。道灌蔵の西隣奥に『浄土宗 佛國山 正定寺』があった。『正定寺 山門』。歌碑「法然上人の歌月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」「月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月(月の影)は、はっきりと存在してくるのです。月の光は阿弥陀仏の救いのことで、それが届かない里はない。すべての里に届く。したがって、阿弥陀様の救いは万人を対象としている。ただし、目で見て認識しない限り月はないも同然である。見ることによってこそ月は存在するのである。見れば必ず見る人の心にまで届くものです。見さえすればよいのです。(念仏さえすればよい)。阿弥陀様のすべての人を漏らさず救うというお誓い(本願)は、月の光のように誰にもどんな里にも平等にふり注いでいます。しかし眺めた人にしか月の光の存在が分からないように、南無阿弥陀仏と念仏を称えた人だけが阿弥陀様の本願によって極楽浄土に生まれること(往生)ができるのです。」と。『観音堂』。『水子地蔵尊』と『水子地蔵和讃』碑。「産みなす父母のまよいより 水子のうちにこの世去り 母の乳房をさがしつつ ひとり闇路の幼霊や 哀れ愛しと抱きたもう 大慈大悲の地蔵尊 あみだ如来のすがたかえ 育て導く最尊(ほとけ)なり 」『無縁仏塚』。『法示自然』。『正定寺 本堂』。「文献によると弘治天(1555)年 今から約460年ばかり前に寺に大火事があり、建物、仏像、諸記録のことごとくを焼失した。そのため開基の年代、開祖の名前等全てが不明である。『栗太郡史』にも「委細不明」と記されている現在の住職が第三十三世であることから、創建は500~600年前かと推測される。また創建当初は何宗であったか定かではないが本堂に現存する木製の簾の記録によると安永6(1777)年11月14日に念佛道場を開くとあり、4この時より浄土宗に開宗したと思われる。国史跡の草津宿本陣(木屋本陣…田中家)も当時の檀家であり、境内墓地には田中家代々の墓石が約50基現存する。」と。本堂に掛かる『佛國山』の扁額。文政5年(1822)の『南無阿弥陀仏』名号碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2020.05.18
コメント(1)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次草津1丁目の旧東海道を進むと右手にあったのが『草津宿 楽座館』。2014年4月、史跡草津宿本陣の隣接地に開館した資料展示施設。館内では、本陣ゆかりの襖絵や田中家拝領の品々を展示していると。また、本格的な伝統芸能を気軽に鑑賞出来る「本陣楽座」を毎月第1土曜日に開催していると。『草津まちづくりセンター』の隣、『草津宿 楽座館』の向かいにあったのが『東海道草津宿 脇本陣 大黒屋弥助』。木札『東海道草津宿 脇本陣 大黒屋弥助』。脇本陣は、江戸時代の宿場に設置された本陣の予備的施設。大きな藩で本陣だけでは泊まりきれない場合や、藩同士が鉢合わせになった場合に格式が低い藩の宿として利用されるなど、本陣に支障が生じた場合に利用されたのだ。脇本陣は時代によって変遷はあるものの、2軒~4軒(大黒屋弥助・藤屋與左衞門・仙台屋茂八・柏屋十(重)右衞門・平井屋彦右衞門)を数えていた。そして直ぐ右にあったのが、『史跡 草津宿本陣』。『史跡 草津宿本陣』入口を正面から。江戸時代、宿場町に置かれ、大名や公家などが休息・宿泊した「本陣」。入り口に立つ『史跡 草津宿本陣』碑。表札『草津宿本陣』。【入館料】:一般240円、大学・高校生180円、小・中学生120円 ※草津宿街道交流館にも行かれる場合は共通券がお得です。【共通券】 一般350円、大学・高校生260円、小・中学生180円 ※共通券は本陣と交流館でご利用いただけます。【共通券】を購入し、『草津宿 本陣』に入館する。『史跡 草津宿本陣』は、江戸時代の休泊施設。街道を往来する大名や公家等、貴人の休泊施設として活用され、草津宿には2軒あった。現在1軒が残っており、内部を見学をすることが可能。本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は栗太郡役所や公民館として使用されていたが、昭和24年に国の史跡に指定され、その後も公民館として活用されて来た。現在、全国に残る本陣の中で最大規模を有しており、当時の面影を今に伝えているのであった。「国指定史跡 草津宿本陣草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726平方メートルにのぼる敷地内には、かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、弘化三年~文久三年頃(1846年~1863年)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。敷地内には、正面、向かって左手に、表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されています。」『昭和15年頃の本陣表構え』。『館内案内図』。敷地面積約4,700㎡ 本陣の建築面積は約1,706㎡でその俯瞰図。『玄関 式台の間』には宿札の掲場(復元)がされていた。大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。宿札に記された「松平出羽守」は、出雲国(島根県)松江藩主です。松江藩はここ田中七左衛門本陣のいわばお得意様であり、田中七左衛門家は同藩の専用継飛脚の御用を務めていました。ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。壁紙は鳳凰に見立てた柏の大葉を描いており、明治時代に明治天皇が本陣へ行幸された際に使われたといわれています。なお、現在の壁紙は復元されたもの。草津宿本陣に保存されている数々の宿札が右手に。壁の鳳凰に見立てた柏の大葉。中央に『島津藩宿札』。『玄関広間』からこの『畳廊下』が奥へと続き、その両側には六畳から八畳ほどの広間がいくつも並んでいた。上段へと通じる廊下(写真は下段側から撮影したもの)。本来は襖がたてられており、利用人数が多い時には部屋として使われていた。通常本陣には30~40人が宿泊するが、畳廊下を利用すれば70人あまりを迎え入れることもできたとのこと。左に『御前所』宿泊者の料理を作ったところ、いわゆる台所。『江戸下り島津随真院道中日記』(左)『藩存続のために奔走した佐土原藩』(右)ペーパークラフトを販売していた。『表板間』。街道に面していて宿泊者の荷物を収納する部屋。ここに往時の品々が展示されていた。ピンボケを無料ソフトにて編集。木札『行在所』。『明治天皇の調度品』『新時代を告げる大行列・・・明治天皇東幸・・・』。1868(慶応4)年4月、王政復古を経て樹立した明治政府に江戸城が引き渡された。さらに政府は同年七月に江戸を東京に改めるなど、東京を中心とした近代国家を目指す政策を進めていった。そうした時期に、明治天皇の東幸が行われた。9月20日に明治天皇を乗せた鳳輦(ほうれん)は京都御所を発し行列を組み、およそ20日をかけて東京へ向かった。行列には岩倉具視、中山忠能ら公家、伊達宗城ら諸侯のほか木戸孝允など総勢3,300人余りが供をした。『台子の間』。『上段の間』にある床の間。座敷部の最も奥にある一番格式の高い部屋で、一行の主客が休泊する部屋です。中央に「置畳」と呼ばれる二畳分の畳が置かれています。ほかの部屋と比べて豪華な設えになっており、床の間・違い棚・書院を備えているほか、格天井(ごうてんじょう)が設えられています。奥に進んでいくと。『上段雪隠』、男性専用?『上段雪隠』、大用?「上段雪隠(じょうだんせっちん)上段雪隠は、大名など主客要用の便所です。手前の小便所と奥の大便所からなり、いずれも畳数きで漆衝りの木製便器が据えられています。大便所の便器の下には木箱が置かれ、使用されるごとに、木箱が取り出され、処理されていたと考えられます。また、大便所には床の間が設けられ、軸をかけ、香がたかれていたようです。」渡り廊下の先、最奥にある『湯殿(ゆどの)』。主客専用のお風呂です。釜の下から火を焚く五右衛門風呂ではなく、お湯は屋外にある「湯沸かし屋形」で沸かしたものを湯船まで運び入れていました。床は板張りで、排水用の溝が切られています。湯船の大きさに対して部屋が広いのは、外からの攻撃が届かないようにするためだったとも言われています。「湯殿(ゆどの)大名など主客専用の風占場です。畳教き四畳は脱衣場や供回りの控えの問であり、板蔵り八畳は、中庭の竃(湯沸屋形)で沸かした湯を湯舟へ運びへれ、その湯で湯浴みをする浴室として使用されました。また、板問中央には排水用の溝が設けられ、床下には、漆喰仕上げの排水溝や湯船を支えるための置台が残されています。」『庭園』。主客の目を楽しませるために、築山がつくられ、手入れが施されていました。『向上段の間(むかいじょうだんのま)』。「向上段の間 上段の間に次いで格式の高い部屋で、上段の間に対面することから向上段の間と呼ばれています。広さは十二畳で、正面に向かって左手奥には、幅二間の床の間が設けられています。鴨居の上には竹節欄間・菱格子欄間を付けるなど、格調高く仕上げています。なお、隣の向上段次の間の襖には、松村景文の雪南天図が描かれています。」「向上段の間の、西側正面と南側の間仕切りに使われていた襖書。書は、江戸時代中期の京都を代表する儒者・皆川淇園(みながわきえん)による。淇園は「開物学」という独自の学問の創始者だが、詩文や書画にも優れた風流人でもあった。また、膳所藩の賓師として招かれていたことから、当本陣とも縁故があったと考えられる。」『希望雛』。『ひな段飾り』。『台所土間』。一度に多人数の調理ができるように、五連式のかまどなどを備えています。一番大きい釜とその横の釜の2つで、一度に30人分の食事を準備することができた と。『お勝手』の竈(かまど)廻り。大きな竈(かまど)が並ぶ。住宅の『奥の間(仏間)』。中庭から蔵屋敷を観る右手に『湯沸屋形』でお湯は屋外にあるここでで沸かしたものを湯船まで運び入れていたと。『土蔵』本陣に土蔵は4棟あり、用途はそれぞれ異なっています。うち2棟は、布団蔵などに利用されていました。建築年は特定できませんが、「天保三辰十月取替」の墨書が発見されており、天保3年(1832)以前から存在していたと考えられます。土蔵前には白木蓮が。楽座館(展示館)内部の『草津本陣と田中家』展示コーナー。本陣ゆかりの襖絵や田中家拝領の品々を展示していた。『御用絵符』の文字が。「『絵符』とは、江戸時代に朝廷・幕府・公家・武家・寺社などが物資を輸送するにあたって、当該荷物の所属の明示のために付けられた荷札。行李符・絵符・伝符などとも。朝廷・幕府のものは、菊や葵の御紋とともに墨書で「御用」とのみ書かれ、その他の場合は、紋章とともに「○○御用」「××家中÷÷御用」などと記された。会符の付いた荷物は宿駅の人馬を利用する際に幕府が定めた御定賃銭(おさだめちんせん)で輸送を受けられる特権を有した(なお、将軍家の荷物(将軍家御用物)は無賃での輸送が義務付けられていた)。ところが、18世紀中期以後、商品流通が盛んになる一方で、民間の輸送相場である相対賃銭(あいたいちんせん)と御定賃銭の格差が広がった。そのため、公家や武家、寺社が金を取って商人や百姓に会符を貸し出して御定賃銭で輸送させることが行われたため、幕府はこうした行為をしばしば禁じたが、効果は無かった。」とウィキペディアより。『現存する本陣・脇本陣』を示す日本地図。本陣にまつわる武将等の資料のパネル展示。浅野内匠頭、吉良上野介義央、天璋院篤姫のパネルが。大名等の宿泊に際し、本陣の主人が着用し対応にあたったと言われている「裃(かみしも)」。裃には、その大名の家紋が。「丸に十文字」は「島津家・島津義弘」の家紋か。島津家が用いていることで有名。派生形も多く、島津一族だけでも70近い「丸に十文字」を使用しているといわれる。島津家は平家追討ちで武功を挙げ、鎌倉時代に征夷大将軍・源頼朝より拝領した と。『長屋(ながや)』。長屋内部のここは『塩作り』の現場か?「長家本陣の間取絵図には、「撮醤入」と記されており、塩や醤油を保管するのに使用されていたと思われます。建築年代を特定する資料は確認されていません が、少なくとも19世紀中ごろに建物はあったと考えられ、明治以降、2度改築されています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.17
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次草津市に入り、旧東海道を進む。左手に草津川の土手道へ上がる『旧東海道分岐』があった。分岐の手前の左の土手に推定樹齢150年以上のいろはモミジがあり『わが町のシンボル いろはモミジ』碑が立っていた。「草津の名木 イロハモミジ樹 高 9m樹幹周囲 200cm推定樹齢 150年以上旧東海道の草津川を渡り伊勢路に至る堤防を下った現県道草津・六地蔵線との合流点にあり、少なくとも明治、大正、昭和の激動期をじっと見つめてきた木に違いないと思われます。 百有余年、風雪に鍛えた太い幹、左右に広く伸びた枝張り、それにふさわしい樹高はモミジの王者の風格があります。 春の芽ぶきの萌黄、夏の深緑、真っ赤に燃えるような秋の紅葉、冬は裸木に雪化粧の清らかさ四季折々の美しさには道ゆく人も足を留めます。」現在、この先は草津川を開削して国道1号線の工事をしているため、土手道への坂の入口にはバリケードが設置されていたので、直進する必要があるのであった。よって真っ直ぐに先に進むと、右手に地蔵堂があった。前方に『大島三丁目』交差点が見えて来た。この交差点で左折し、従来の歩道橋の先に新設された黄色の歩道橋を渡らなければならなかったが、従来の歩道橋を渡ってしまった為、再び旧東海道に戻るのに大廻りをしてしまったのであった。しかし黄色の歩道橋にどの様にアクセスしたら良かったかは未だに不明なのである。そしてなんとか大廻りしながらもなんとか文化13年(1816)の『常夜燈』に辿り着いた。道標の彫刻には「文化十三年丙子三月建」、「左 東海道いせ道」、「右 金勝寺しがらき道」と。ここが草津宿の東の入口。「草津宿の江戸方の入り口でありました草津川の堤上一建つ火袋付石造道標です。総高は約三・九メートルを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化十三年(一八一六)三月に建てられました。竿には「右金勝寺志がらき道」「左東海道いせ道」とそれぞれの行き先を刻んでいます。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました。」『常夜燈』の向かい側に『高野地蔵堂』があり、地蔵堂には2体の地蔵尊が安置されていると。この地蔵堂の直ぐ後ろには、真新しい社殿の『立木神社御旅所』があった。『立木神社御旅所』をズームで。草津川は天井川であったが、平成14年流路の付け替え工事が完成し、廃川となった草津川は「草津川跡地公園 de愛ひろば」となっているのだ。そして草津市草津の旧東海道を進む。2階建ての旧家が両側に。草津市の汚水管マンホール蓋。右 東海道、左 中仙道と書かれた、草津宿の追分道標が描かれたカラーマンホール。更に進むとT字路に突き当たり、ここで右から来る中山道と合流したのであった。前方左手には、『脇本陣 大黒屋跡』があり、現在は、『草津まちづくりセンター』となっていた。右手のトンネル脇には、文化13年(1816)の諸国定飛脚問屋が寄進した追分道標の『常夜燈』が建っていた。『常夜燈』。文化13年(1816)建立で高さ4mの火袋付きで「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれていて、江戸時代の「草津追分」を示す道標を兼ねていた。「道標 右東海道いせみち 左中山道美のじここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。 トンネルのできるまではこの上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。 しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。 多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化13年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、 高さは1丈4尺7寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は、たびたびの風害によって取り替えられたが、 宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。」「この道標は、東海道と中山道が分岐合流する草津宿の要所に文化13年(1816)3月に建てられた火袋付の道標で、現在の高さは392.2㎝を測り、 江戸時代に東海道や中山道を行き交う多くの旅人の道しるべとなっていました。道標竿部南面に 「右 東海道いせみち」、西面に 「左 中仙道美のぢ」 と東海道、中山道の行先が刻まれています。また、基礎部北面、南面、西面に京都、大阪、尾張、岐阜などの飛脚問屋、宰領中や江戸、播州、備前の日雇方などの道標寄進者の名前がみられます。なお、草津4丁目の立木神社境内には延宝8年(1680)に、この草津追分に建てられた県内最古の道標があるほか、草津宿および草津宿周辺には多くの道標が残っています。」名所図会に見る渡し場の風景。隧道入口横に上記の解説付でこの絵図が掲げられ、昔の草津追分はこんなんだったんだと、往時に思いを馳せらせることが出来たのであった。草津追分に道標と高札が並び、追分から草津川渡しに向かう中山道の様子がよくわかるのであった。このマンポの上がかつて天井川だった草津川。現在は隧道が通っているが昔はここをよじ登って川を渡っていたのだ。そして中山道と東海道が合流する場所。中山道はこのマンポの向こうあたりが船着場で、渡し舟で草津宿へ入って来たのだと。『草津川隧道』の銘板が埋め込まれていた。中山道は、江戸五街道の一つで江戸の日本橋を起点として西の京都三条大橋までの135里(526.3km)を繋いでいる。ここ草津までは日本橋から129里(505.7キロ)あり、その間に67宿が置かれていた。またその間には中山道の難所と言われる木曽路が横たわり、木曽谷に沿って11宿が置かれていた。マンポの内部(左)。マンポの内部(右)。草津まちづくりセンター前にあった案内板。「草津川ずい道(トンネル)の由来草津川トンネルは草津川が天井川であったことから出水に悩みまた通行にも不便をきたしていたことから、 従来の堤防を登り川越のルートから草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画し、 ときの大路村戸長長谷庄五郎は明治17年(1884)8月24日付で中山道筋草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事)中井弘あてに提出した。 これが容れられて明治18年12月4日総工事費7368円14銭9厘を以て着工された。 翌明治19年3月20日の突貫工事で完成した。 構造はアーチ式煉瓦両側石積みで長さ43.6米幅4.5米のずい道が造られた。 同年3月22日より旅人通行の事、車は3月25日より、馬車荷車は4月5日より従来左方斜めに堤防にのぼって川を渡り大路井村側で右方へ下った。 中仙道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった。」『広重 木曽海道六拾九次之内 草津追分』昭和39(1964)年の草津川隧道の写真。現地の案内板をズームで。昔は円形の隧道であり川の水から受ける圧力に耐えるために天井は丸かったが、現在は川ではなくなり上から受ける圧力が小さいため天井が四角くても耐力があるのであろう。『高札場』。近寄って。「草津宿の高札場高札場は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では東海道と中仙道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていた。寛政九年(1797)の「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」によると、屋根つきで柵に囲まれた高札場が描かれている。高さ一丈三尺(約3.9m)、幅一丈五尺(約4.5m)で、石垣の上に建てられていた。掲げられていた高札は、親子・兄弟の和親を説いた「親子兄弟札」をはじめ、荷物の賃銭を定めたもの、社会秩序の維持を定めたものなど、多いときには十枚が掲げられていた。この高札の管理は格別に留意することが申し渡されており、強風洪水で草津川の堤防が決壊する恐れのあるときなどは、宿場の南に鎮座する立木神社まで運ぶことなども決められていた。」『延命地蔵尊』。「道標草津宿高札場左 中仙道みのみち右 東海道いせみち」旧草津川の堤防まで上がって見た。ここが『草津川の渡し場跡』。草津川は天井川であったが、平成14年流路の付け替え工事が完成し、廃川となった草津川は『草津川跡地公園』となっていた。『草津川跡地公園』内には様々な建物が、しかし日陰となる様な緑が少ないのでは?夏場には、高齢者には不適な公園なのではと。昔の草津川の流れがオレンジ色、それを青色に変えたのであった。「草津川の渡し場」草津川は土砂の混入と堤防の決壊を繰り返すうちに、周囲の土地より川底が高くなった「天井川」です。「旧草津川の成り立ち」この草津川跡地公園は、平成14年に流路の付け替え工事が完成し、廃川となった旧草津川を整備したものです。天井川であった旧草津川が、いつ頃からこの場所を流れるようになったのか知る由はありません。江戸時代に草津宿が設置されると、旧草津川の堤防整備や、川底の浚渫などが行われるようになりました。江戸時代中頃より、上流の荒廃した山々から土砂の流出が続き、長年に渡り土砂が堆積したことにより、川床が周辺民家の屋根よりも高くなる天井川化が進んだことは、歌川広重の浮世絵からもうかがえます。江戸後期には、草津川の川底が高くなり、中山道口から草津川堤防への上り坂が急になったため、脇道の造成を膳所藩に願い出ています。旧草津川は、雨が降らないと水の流れない砂川でしたが、一旦大雨になると、堤防の決壊を招くほどの水量が流れる川でした。「草津川の渡し場天保3年(1832)の「橋銭川越賃定書」によれば、水が無くても、1人3文の川越賃が徴収されていたとの記録があります。水が流れている時は、人に担がれて渡りましたが、水嵩に応じて、1尺(約30cm)で8文、1尺5寸、2尺、2尺5寸と、段階的に増加して、3尺で32文の川越賃を徴収され、時には、川留めになることもありました。天井川の渡し場は、草津宿の特徴的な光景として、数多くの浮世絵や名所図会に描かれており、当時の様子がうかがえます。」「歌川広重画 東海道五拾三次之草津」。「六拾八 木曽海道六拾九次之内 草津追分」 (一立斎)廣重画 錦樹堂。『草津町道路元標』。『草津追分』再び振り返る。マンホール蓋が方向を示してくれていた。東海道、中山道、分岐点、慶長七年と書かれた道標のデザイン。『➡草津宿本陣』。『書状集箱』「このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業当時使用していたものと同じ型のものです。 草津宿は、東海道と中山道の分岐・合流点という交通の要衝として、発展してきました。 また、国史跡に指定されている草津宿本陣は、現存する本陣の中でも最大規模で、当時の面影を今に伝えています。 なお、このポストは、他のポスト同様に取り集めを行いますので、ご利用ください。」『堯孝法師 歌碑』「近江路や秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき 覧富士記」後ろにあるレンガ造りの建物が『草津まちづくりセンター』。「近江路や秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき 覧富士記将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ作者紹介 覧富士記 堯孝法師(1390~1455)この歌は『覧富士記』に収められており、堯孝法師の作といわれている。室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永二十一年(1414)には二条派の中心歌人であった。正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、永享四年(1432)の富士見にお供して『覧富士記』を残した。堯孝法師が東常縁に伝えた古今伝授は、後、宗祇(近江出身)に継承された。」「草津歴史街道・東海道東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(草津川)を渡り、11町53間半(約1.3Km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。」『時の旅人』草津まちづくりセンター前のポケットパークという感じのところに立っていた。鈴木典明作『時の旅人』。正面から。ランナーがすれ違っているような造りになっていた。数m先に「中山道の道標」があり、「時の旅人」という雰囲気がよく解る作品。江戸時代、この地は東海道と中山道が交わり、多くの旅人が行き交っていた場所。そんな歴史をイメージさせるし、現在の我々にも「過去から現在、そして未来への旅」を彷彿とさせるのであった。人の過ぎ去っていく軌跡をみると作者の思いが伝わって来そうな印象的な作品なのであった。左手の『草津まちづくりセンター』の前に『草津宿』と書かれた看板が建っていた。この看板の題字は、草津市在住の書師 「秀蓮」 氏の作品であるとのこと。「草津宿東海道五十三次のうち、江戸より数えて五十ニ番目の宿場町で東海道と中山道が分岐合流している交通の要街でした。天保十四年(一八四三年)の「東海道宿村大概帳」によれば草津宿の宿内家数は五百八十六軒、うち本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠七十二軒だったそうです。」『ふるさと「くさつ」風景の記憶絵』。そして草津宿の真っ只中へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.16
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次栗東市目川の『金勝川』沿いの旧東海道を進むと、右手に石碑、案内板が。『東海道 一里塚』碑と案内板。日本橋から118里。左面には『目川ひょうたんの里』と。現在、塚はなくなり石碑が建っているだけであった。右面には『草津宿まで半里』と刻まれていた。「一里塚東海道には一里ごとに距離標として一里塚が設けられていた。 一里塚は道の両側に五間四方の塚の上に椋(むく)や松などの木立があった。 目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅と、その向かいの旧北野家敷の西隅にあり、椋の大木があったといわれ、当時の一里塚は西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)にあったといわれている。」全く同じ内容がカーブミラーに固定されて。こちらは目川自治会のもの。一里塚跡から程なく右手に、『真宗大谷派 久遠山 専光寺』があった。『専光寺 山門』『真宗大谷派 久遠山 専光寺』寺標。『専光寺 本堂』推定樹齢350年の大イチョウが『本堂』前にデンと。『鐘楼』。『殉國諸霊頌徳碑』。昭和44年9月とあるが、太平洋戦争で亡くなった地元の方々の慰霊碑なのであろうか。『仏堂』旧東海道に戻ると右手にあったのが『治田(はるた)郵便局』。滋賀県栗東市目川524-2。草津市史によると、律令時代の栗太郡治田郷がここにあったと。左手には大きな旧家が。更に進むと右手に石碑が。『田楽発祥の地 滋賀県栗東市岡三八四番地』 碑と領界石 『従是西膳所領』があった。「目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。 ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。 天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。 与野蕪村に師事し、その力量は「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の覧に供す」と記録されている。 作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている。」ちょっと先には『目川田楽 古志゛ま屋跡』の石柱があった。直ぐ先で十字路を渡ると、左手に『真宗大谷派 東護山 乘圓寺』があった。『乘圓寺は、天和元年(1681)近江の国栗太郡岡村士民の発願により創建された。残念ながら入口の扉は閉まっており境内には入れなかった。『真宗大谷派 東護山 乘圓寺』寺標。寺標の裏側には「當寺院は近江の国栗太郡岡村士民の発願により天和元年6月創建せしものなり昭和60年6月 先祖の遺詔により西岡忠資建立」『乘圓寺』を過ぎると右手に石碑が。『目川田楽 京いせや跡』碑。「名代 田楽茶屋 京伊勢屋跡東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。 ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。 田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野屋)と、この古志ま屋(寺田家)、京伊勢屋(西岡家)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。 当家の藤棚は明治初期に新善光寺へ奉納された。伊勢屋は、元伊勢屋と京伊勢屋の2つあり、古しま屋と合わせて三軒の茶屋が田楽を扱ったようです。」この三軒はいずれも三重県出身なのであろう。『目川田楽 いせや跡滋賀県栗東市岡三八八番地東海道間の宿岡村菜飯田楽京いせや西岡中兵衛屋敷』京伊勢屋跡の斜向かいに 『舊跡 人吉藩主相良候 御対面所跡 山本家』 碑が建っていた。平成26年移築とあるが、解説もなく何の石碑か不明である。しかし、相良家は、肥後南部を支配した戦国大名の氏族であり、江戸時代は肥後人吉藩主家として明治維新まで存続しているのだと。しかし5W1Hが残念ながら不足であった。旧東海道は緩やかに右にカーブ。直ぐ先で街道が右に折れる左手に、『田楽茶屋ほっこり庵』があった。大正時代以降、田楽を販売する店は途絶えてしまったが、目川田楽保存会が再現し、このほっこり庵で食べられると。田楽セットは要予約のようであった。左手に『東海道』道標。ここでは目川田楽・菜飯・季節の野菜の煮物などのメニューがあり、隣の『ほっこり庵』には、ヤマキ酒店が設置する足湯があるのだと。「岡ほっこりマップ 岡まちづくり委員会」。「ほっこり」とは、この地域の合い言葉のようであったが、「心が落ち着く・ほっとする・心が温まる・癒される・心が落ち着く・まったりする・ほんわかする」といった”癒し”の感情を「ほっこり」と言うのであろう。「めがわ田楽 由来関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、その翌年の慶長6年(1601)、東海道に伝馬制を制定した。宿駅が定められ草津宿や石部宿が置かれた。宿場には人馬の継ぎ立てを行う問屋場や公用宿の本陣職が指名されて宿場機能が整えられていった。旅をする人達が旅に必要な物を総て宿場町で賄うことが出来ないため、幕府は宿場と宿場の中間に 「間の宿」 を置き、ここで必要な物が整えられるようにした。間の宿の中心施設が立場である。 石部宿と草津宿間には六地蔵の 「梅ノ木立場」 と、岡の 「目川立場」 が置かれた。目川立場を担ったのが屋号を 「伊勢屋」 とした岡野五左衛門家である。 伊勢屋は精進料理を味付けで工夫して商品化に成功し、「めがわ田楽」 として売り出した。主食=菜飯。副食=田楽。お酒=菊の水。の三点セットである。 「安くて・美味しくて・腹持ちがよい」 と大評判になり、商品名の 「めがわ田楽」 は全国へ波及していった。 京都・大阪・江戸にも 「めがわ田楽」 の店が営業していると 「江戸総鹿子大全」 や 「守貞漫稿」 等に記録されている。岡でも伊勢屋一軒では旅人を賄い切れず、寺田家の 「こじまや」 や西岡家の 「京いせや」 が続いて店を開いている。往時のグイ呑み茶碗や看板が多く残され、繁盛の様子を今に伝えている。大田蜀山人は 「改元紀行」 (享和元年=1801)に 『目川の立場には、菜飯と田楽とありと、今いずくにても目川菜飯とよぶは、此の所より起これりと聴きて、伊勢屋といへる家にいりて、かの菜飯をもとむるに、田楽の豆腐あたたかにものして味よろし。ここに目川とも女川とも染め付けたる茶碗もて、茶をすすむ。めずらかなれば二ッとも買ひぬ。銘酒あり。御銘菊の水と記せり』 と記している。めがわ田楽の復元に当たっては、「田楽茶屋こじまやの伝承の味付け」 を忠実に守って復元した。」『田楽茶屋ほっこり庵』の隣に、『膳所城大手門』が移設されていた。この門の形式は高麗門と言い、城の枡形虎口の一の門で、攻城戦に耐える堅牢さと威厳を備えた意匠である。屋根は本柱通りに切妻を設け、控えにはそれより低い切妻屋根を乗せる。乗馬のまま通れる寸法で、内法高は8尺3寸(2.5m)である。「伝 膳所城大手門膳所城は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直後に大坂方への供えとして徳川家康が築城した。縄張りは藤堂高虎に、工事は諸大名に命じて築城した天下普請・第一号の徳川家の城である。この門の形式は高麗門と言い、城の枡形虎口の一の門で、攻城戦に耐える堅牢さと威厳を備えた意匠である。門は左手に潜り戸を設け、控柱は八双に開く。屋根は本柱通りに切妻を設け、控にはそれより低い切妻屋根を乗せる。乗馬のまま通れる寸法で、内法高は8尺3寸(2.5m)である。膳所城は、寛文2年(1663)5月1日に起きた安曇川地震で、大破したため、時の城主本多俊次によって大規模な改修・改築がされた。この門の主要な部材の経年変化と、屋根瓦の家紋が改築当時の城主・本多氏の「本多立葵紋」であることから、地震直後に建築されたと推定される。甍部分に徳川家の「三つ葉葵紋」の紋瓦が6枚残ることから、膳所に築城された当時の家紋瓦は、すべて「三つ葉葵紋」が使われていた可能性が高い。明治の廃藩置県で城の建物は膳所藩領の村に移築された。この門は膳所藩領だった栗東市林の長徳寺へ移築されていたが、今般建て替えられ、同じ膳所藩領の当地へ移築したものである。膳所藩領の村へ移築された城門の例は、膳所の膳所神社や矢橋の鞭埼神社が知られている。移築にあたっては、主要部材は現状のまま使用した。屋根は長徳寺への移築時に寺院用に改築されていたことが判明したため一部を復元した。併せて耐震補強を施した。」『膳所城復元模型図』。寛文2年の大地震後修築された膳所城復元模型図。門前には、芭蕉が田楽の酒 「菊の水」 で田楽料理に舌鼓を打ったときに詠んだ句碑がある。芭蕉句碑「草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒」 元禄四年重陽芭蕉平安の頃より9月9日は五節句の一つ、「重陽の節句」といい、菊を用いて不老長寿を願うことから「菊の節句」と言われます。『菊の節句など隠者の自分には関係ないことと思っていたが、日が暮れる頃、思いかけず節句の祝いの酒が届いた』という一句。 誰にも気にかけてもらわなくても寂しくないけど・・・やっぱり誰かに気にしてもらえると、ちょっとうれしい!という気持ちが伝わってくる句なのであった。 そしてもう一句、沙弥随縁の句、「田楽で 芭蕉も飲んだ 菊の水」 沙弥随縁『田楽茶屋ほっこり庵』を振り返る。旧草津川の土手に沿った道を進むと、東海道新幹線の高架が横断していた。栗東市小柿の街並みを進む。東海道新幹線の高架の先右手に、平成18年8月15日に復元された領界石 『従是東膳所領』が。更に進むと右手に石碑が。『史蹟 老牛馬養生所趾』碑が右手に。「史蹟 老牛馬養生所跡栗太郡志等に「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、 これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めるようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、 ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。」「打はぎ」とは、老いさらばえた牛馬がまだ息のある臨終前において、強引に牛馬の皮革を剥ぎ取る作業に入るという意味合いでしょうか。これはなるほど残酷そのもの。続いて右手に小柿村の『高札場跡』があった。木札には『東海道 小柿村 高札場 大谷』と。『東海道 小柿村 天秤棒 棒喜(ぼうき)』天秤棒の販売を生業にしていたのであろうか?木札『東海道 小柿村 天秤棒 棒喜(ぼうき)』。そして『高札場跡』の直ぐ先で、栗東市から草津市へ入って行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.15
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次上鈎東信号交差点を越えて、更に進むと『葉山川』に架かる『葉山川橋』があった。『葉山川橋』。『葉山川)(はやまがわ)』。『葉山川』を見る。『葉山川』も、周囲より一段高い所を流れる天井川であり、橋の渡り詰め左に東海道道標が建っていた。「東海道道標」。雑草の中の道標には、「東海道」「上鈎」 「川辺」 「安養寺」と刻まれており、ここより旧川辺村へ入って行ったのだった。更に旧東海道を進んでいくと前方左手に『う越菊』と書かれた看板が見えて来た。『割烹、仕出し う越菊(うをぎく)』。桜が咲くと美しそうであったが。右手の民家の玄関には様々な動物の像や仏様?の像が。『葉山川橋』を渡ってしばらく進むと、右手に『真宗大谷派 圓重寺』が見えた。『圓重寺』は、延宝4年(1676)光英の開基であるが、その後の寺歴などは不明であると。『圓重寺』を過ぎると長閑な川辺(かわづら)の町並みが続いていた。川辺の名前は、川の畔に沿ったことに由来するが、「かわづら」 と読むのは珍しいのでは。『川辺』の交差点を渡り進む。栗東市川辺の旧東海道を進む。川辺信号交差点を過ぎると、左手に『真宗大谷派 養煙山 善性寺』があった。『真宗大谷派 養煙山 善性寺』寺標。「善性寺縁起慶安2年(1649)僧玄龍開基、道場を開き竹林坊と号し、宣和法王より佛像を受く。正徳3年(1713)二世了悦、木仏安置、寺号公稱を許さる。寛保3年(1743)三世示教、本堂再建。寛政6年(1794)四世恵観、本堂改修。シーボルト善性寺を訪ねる文政9年4月善性寺第五世僧恵教のときオランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの帰途善性寺を訪ねている。 そのときの見聞 「シーボルト江戸参府紀行」 に 「かねてより植物学者として知られている僧恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍らしい植物を見物せり」 云々とある。」『善性寺 本堂』。善性寺は、慶安2年(1362)僧玄龍の開基であり、文政9年(1826)4月シーボルトが江戸からの帰途、善性寺を訪ねている。境内にはうす黄緑の花の苗木が。トサミズキ(土佐水木)の花であろうか?境内は極めて狭く、窮屈なところに『鐘楼』が建っていた。左手の路地の角にあったのが『稲荷神社 東海道』道標。上鈎・手原⬅川辺(かわづら)➡坊袋・目川。「稲荷神社の由来伏見稲荷神社に勧請し建立されたもので笠杉、三吉、枇杷大明神の三神が祀られている」前方右手に朱の鳥居、社殿が。「稲荷神社昔から「お稲荷さん」と親しみ崇められており、往時お社を囲うように松の大木が生い茂っていた。昔東海道の川辺村周辺の交通量は通行人一日二千人、馬四百頭の往来があり商店も十五軒あったと伝う。商売繁盛を祈願して伏見稲荷神社に勧請して建立、三吉、笠杉、枇杷の三大明神を祀る。その昔、笠杉大明神は神祇を寄せるため小槻大社拝殿南巽の位置に遷座されるも再度稲荷に還る。以来川辺村の祭礼当番の際にこのお社前でお神輿をあげるのが慣例となる。この稲荷のお守り役は青年会であったが現在は地元有志で「稲荷神社を守る会」を結成し初午祭やお火炊き祭等伝統行事を奉仕している。」朱の鳥居。『社殿』。『社殿』の『内陣』。「しんびょうしの霊水この井戸の水源は金勝(こんぜ)の山なみにあると伝う。井戸の井筒が二つしかない浅い井戸であるが、古き時代から涸れることなく湧き出し、夏はことのほか冷たく冬は温かいことから、地元民の飲み水として大変よろこばれ重宝されたものなり。昔、東海道を往来する旅人達、大名といわず町人にいたるまで多くの人がこの冷水で口をすすぎ喉をうるおし、旅の疲れを癒やす憩いの場として楽しんだものと謂う。この地が新日吉と呼ばれるようになったのは、参勤交代やお殿様がこの井戸の冷水を飲み心身とも疲労が回復した喜びから「しんびょうしとせよ」と云われたと伝う。」「しんびょうしの霊水「しんびょうしの霊水」は金勝(こんぜ)川の伏流水で井筒が二つぐらいしかないので水面が浅いことから非常に汲みやすく、その上夏はことのほか冷たく、冬は温かいために昔から飲料水として多くの人に重宝されてきた。この道を往来する大名をはじめ、旅人、町人に至るまで旅の疲れを癒したり憩の場にと足をとめ、このの霊水を飲みながら旅をしたものと思われる。」竹垣で囲まれた『しんびょうしの霊水』。『しんびょうしの霊水』を覗く。小さな社。『しんびょうしの霊水』の守り神であろうか?ところで「しんびょうし」とは漢字でどのように?そして意味は?旧東海道に戻り、『金勝川』に向かって歩く。旧東海道はT字路に突当り、正面に道標が2基建っていた。前方は『金勝川』の堤防が高く聳えていたが、この川も天井川であろうか?『道標』 ↱東海道「川辺 坊袋 目川・岡・新屋敷を経て草津へ至る。」←中郡街道『川辺・下戸山・上砺山・御園・東坂を経て石部へ延長一里24町26間(約6.6km)現県道、川辺ー御園線起点」と下に刻まれていた。左横面には「川辺灰塚山古墳群栗太郡史に大友与多君の墳墓とあり、弥生式土器が多く出土。他に塚が数基あり素焼式大瓶等が出土。栗の大樹を焼いた灰で塚をつくったのが、灰塚山の伝承(東へ約500m)。灰塚山(砦)跡足利義尚公が六角勢討伐のため東方山安養寺に陣し、急ぎ築城した砦との推測あり。」と。右の道標は、正面に 「東海道 やせうま坂」、左側面に 「金勝寺こんぜ」右側面に「中仙道でみせ」、 と刻まれていた。ここより旧坊袋村へ入って行く。T字路を右に曲がると、右手に『浄土宗 延命山 地蔵院』があった。「皇太神宮の碑ここ目川地蔵院の境内には天照皇大神宮、八幡大菩薩、春日大明神という銘のある碑があり、側面には「元禄年間亥年」の刻印がある。神仏混文の時代の名残りであろうが由来は明らかでない。」『子安地蔵尊』。『天照皇大神宮・八幡大菩薩・春日大明神と刻まれた元禄年間の石碑』。『北向地蔵尊』。『三界萬霊塔』。『地蔵院本堂』。本堂に掛かる『地蔵尊』の扁額。『本堂内陣』。本尊の『地蔵菩薩像様』をズームで。内陣『右の間』。内陣『左の間』。見事な『欄間の天女』の彫刻。『地蔵院』を後にし、『地蔵院』の先で左にカーブし『金勝川』に沿った旧東海道を更に進む。左手に 『目川ひょうたん展示・販売』の看板を掲げた家があった。目川は草津宿に接する立場であり、瓢箪(ひょうたん)は旅人が、お茶や酒などを入れる容器として売られていたものである。江戸時代中期から明治時代まで農家の副業的地場産業であった。店頭には、車輪のついた牛と馬の作り物がビニールで被われて置かれていた。『目川ひょうたん』👈リンク はインターネットで購入できると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.14
コメント(0)
そしてこちらは「趣味の養蜂場」のある菜園です。1列に並んでいるのは、手前からスイカ、カボチャ、ズッキーニ。植え付け後に、保温用の「苗キャップ」を被せました。スイカ、カボチャの苗床の周囲には、花も終わった菜の花を抜き取り敷き詰めました。そしてその上に、栽培しておいた小麦も根から掘り上げ、藁代わりに上面に敷き詰めました。畝に藁を敷く目的は ①畝の乾燥防止(土壌の保水性の維持) ➁強風対策:蔓(つる)が藁(わら)に絡まり、強風に煽られるのを防ぐ。 ③降雨時の泥跳ね防止:スイカ、カボチャを病気と汚れから守る。なのです。もう少し、成長したらマルチの上部の黒い場所にも藁を敷く予定です。そしてこちらは「枝豆」。こちらは「長芋」とその支柱。昨年は台風の強風で、支柱が折れ悲惨な状態になってしまいましたので今年は補強の支柱を増やしインシュロックで固縛する場所も増やしたつもりですが・・・。既に「長芋」の蔓が1m以上に伸びてネットに絡まっています。そして「そら豆」の前には、見張り役のお兄さんが頑張ってくれています。そろそろズボンはお色直しの時期に来ていますが・・・・。------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年3月22日(日)、『旧東海道を歩く』のプロローグである京都三条大橋までの2日目の朝。日本橋をスタートして31日目の朝でもあった。昨夜宿泊したホテルは大津市月輪1丁目にある『天然温泉 ニューびわこホテル』。7時からの朝食会場にて朝食を楽しむ。朝食は通常はバイキング形式とのことだが、新型コロナウイルスの関係で弁当式になっていた。また前の宿泊客が食べ終わり退席するとその席を直ぐに消毒してくれていたのであった。そして7:20過ぎにホテルを出てJR瀬田駅まで徒歩で向かう。そして20分ほどでJR瀬田駅に到着。8:10発の草津線の電車で手原駅で下車。1922年(大正11年)11月5日 - 日本国有鉄道草津線の石部駅 - 草津駅間に新設開業。 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。そして前日の夕方にカメラを向けた駅前ロータリーのモニュメントを再び。「ようこそ 馬のまち 栗東へ」の横断幕も。ここ栗東市は日本中央競馬会の栗東トレーニングセンター(トレセン)があることでも有名。 【https://www.pref.ibaraki.jp/bugai/koho/kenmin/hakase/info/47/index.html】よりそしてこの日・31日目の『旧東海道を歩く』のスタート。この日の目的地はJR大津駅。右手奥にあったのが『浄土宗本願寺派 光輪山 圓徳寺』。正面に『山門』その奥に『圓徳寺 本堂』。「圓徳寺は、享徳2年(1453)真覚法師が蓮如上人に帰依して手原道場として開基した。その後、昭和38年(1963)不慮の火災で堂宇と共に寺宝も灰燼に帰したが、導師御真筆の三帖和讃は焼失を免れた。山門前に蓮如上人御旧跡碑があり、境内には親鸞聖人像・蓮如上人像がある。」その隣りにあったのが『浄土宗 三雲山 真慶寺』。境内の『水子地蔵尊』。『地蔵尊』。『地蔵尊・無縁仏・五輪塔』。『聖観世音菩薩像』。『真慶寺 本堂』。『手孕地蔵尊』碑。「手を孕んだ伝説が歌舞伎(源平布引滝)に安産守護の地蔵菩薩となる。」「三雲山 真慶寺 由来白鳳時代(推定)、三雲山栗本寺と号し名刹栗の大木にまつわる伝説に由来するとも伝わる大地(寺)。開祖不詳。中世室町時代、近江源氏ゆかりの大西大和守一族にて三雲山真慶寺と改号、再興。本尊 阿弥陀如来立像(仏工春日作)脇仏 地蔵菩薩立像(聖徳太子作)手孕地蔵として、子授け、歯痛と無病息災、安産守護のご利益あり(栗太郡誌より)明治維新で廃仏の受難。農地改革で寺財の消失があり荒廃。昭和12年まで尼寺であった。昭和51年より手原区による管理。手原駅前区画整理事業で、寺・墓地を整備、千体地蔵尊の供養もされた。平成14年自治会に、真慶寺委員会が設置される。浄土宗本山知恩院に属す。」旧東海道に入り西に進む。前日歩いた旧東海道を振り返る。右手には『手原稲荷神社』が。左手に『旗本渡辺領代官猪飼邸跡』があった。長屋門の遺構が残っており、現在はこの門の横に猪飼時計店があった。更に旧東海道を進む。代官邸跡の直ぐ先の十字路を越えた右手に『東経136度子午線標柱』が。正面に「東経136度子午線」、右側面に「北緯35度01分22秒」と刻まれていた。そして左側面には 「太陽南中時刻午前11時56分 05年11月建立」と刻まれていた。真っ直ぐ延びた手原の街道の両側には、立派な造りの旧家が建ち並んでいた。立派な白壁の蔵。街道の右側にも旧家が。再び左手の旧家を。屋根には鍾馗様?が。先に進むと右手筋の手前に石柱が。『東海道 すずめ茶屋跡地』と刻まれた石柱。右側面には「石部へ伊勢参道」と。左側面には「草津へ中仙道」と。石柱の残りのニ面にも道筋が刻まれ、この石柱は道標になっており、右手筋は琵琶湖東岸の志那津の湊へ通じる道。徳川家康は大阪冬の陣の際にこの志那津の湊から船で渡り、この時、志那津は 「死なず」 に通じ縁起が良いとされたのだと。「東海道毛原村 田楽茶屋 すずめ茶屋 葉山東街道まちづくり」の木製看板。ここには茶屋があり、菜飯と豆腐の田楽が名物であり、雀が多く集まる木があったことから 『すずめ茶屋』と呼ばれたとのこと。先に進んで県道55号線を越えると、左手の上鈎池の堤脇に『鈎(まがり)の陣跡』があった。ここは足利幕府第9代将軍吉尚公が、幕府に反抗する六角高頼を討伐する為この地に着陣するも、25歳の若さで病没してしまった所であると。『九代将軍足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地碑 文明十九年(一四八七)年』。『陣中で詠まれた歌碑』などが並んでいた。左から「坂本の はまちを過て なみ安く やしなふ寺に 住とこたへよ」父八代将軍義政公へ 長享元年十月四日義尚着陣の時「やがてはや 國治まりて 民安く やしなう寺も 立ちそかへらん」義政公の返歌 長享元年都より「かへりねと 志賀の浦浪 たたぬ日も 君を都に またぬ日はなし」中納言入道宋世義尚へ 鈎へ陣かへ霜月廿日「君すめは 人の心の鈎をも さこそはすぐに 治めなすらめ」土御門天皇より足利義尚将軍へ 鈎の滞陣を慰める歌(長享元年九月十二日)『陣中で詠まれた歌碑』を反対側から。堤防に上がり『上鈎池(かみまがりいけ、かみこういけ)』を見る。市街地の中にあって野鳥の楽園の様相の池。浮き島のようなものも見える『上鈎池』であった。交差点は『上鈎東(かみまがりひがし)』。『上鈎東』交差点を渡り直進する。左側の旧家は『魚屋 林長三郎』。木札『東海道 上鈎村 魚屋 林長三郎』。右手の旧家。二階には虫籠窓(むしこまど)が。右手の現代風民家の石塀にも木札が。木札『東海道 上鈎村 米屋庄兵衛』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.13
コメント(0)
我が家の横の菜園作業も、外出が無いために順調に進んでいます。昨日にブログアップした「イチゴ畑」の反対側には「キュウリ」を植え付けました。種を撒き、育てて来ました。そして昨日はポールを立てキューリネットを張りました。そしてこちらには、トマトの苗を植え付けこちらも支柱を立てました。こちらも種から育てました。その他、ナス、ピーマン、オクラ、チンゲンサイの苗も、この我が家の横の菜園に植え付け完了です。ジャガイモ「インカのめざめ」と「シンシア」も芽を出し、日に日に成長し花の開花も数日後の様子です。一部、芽の出なかった場所には、農園の堆肥置き場から自然に発芽したものをスコップで掘り出し移植しました。------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次前方に西日本旅客鉄道(JR西日本)草津線の駅・『手原駅』が。駅前のロータリーには『東経136度の子午線が通る駅』というモニュメントが。日本の標準時子午線135度から1度ずれたところにある石碑。360度÷24時間から15度=1時間となり計算しやすいので、15度の倍数が標準時子午線として決められたと。よって15×9=135度が日本の標準時子午線となったのだと。明石市が日本標準時となったのはなぜか? 東経135度上には・京都府・京丹後市・兵庫県・淡路市・和歌山県・和歌山市などが存在するが、明石市が真っ先に標識を立てたため、「早い者勝ち」的に認知されるようになったのだと。『東経136度の子午線が通る駅』碑。日本は、・東 … 南鳥島(153度58分)・西 … 与那国島(123度0分)の範囲にあるのだ。そしてその他、様々な案内板、石碑があった。「手原(てはら)地名由来白凰時代の斉明天皇の頃(六五五年)、名代村造布佐が伊弉諾(イザナギ)命、伊弉冉(イザナミ)命の祭神を勧請して女の腹に毎夜手を置いて唱名したところ男児が産まれた。手孕児といゝ後安産の神様として多くの参拝をみた。(天満社記)この「手孕説話」が後に変形、表記の手を産んだ孕村として伝奇話がひろまった。人口の動態 世帯数明治十三年(一八八〇) 三七九人 七一昭和二十九年 五七ニ人 一〇ニ〃 五十年 一◯九ニ人 三一七平成十七年 一六一ニ人 五八五 」「平成十七年三月、手原駅改築、周辺整備の完成を記念して、手原自治会住民、関係者の協力を得てこの記念碑を建立主催 手原自治会、・・・・以下省略」「手孕村伝説 斉明天皇の時代(六五五)この地を冶めていた村造布佐(王)は9人もの女児ばりりで男児を願い、イザナギ・イザナミの神(天満神社)に勧請。腹に手をおいて一心に祈ったところ、男児が生まれた。手が孕ませたとよろこび信心を深めた。後の「東海道名所記」には、親友から妻を預かり、毎夜、彼女の腹に手をおいて守っていたところ、手を孕んだとのわらい話記として伝わった。手の部分を取り上げ脚色、人形浄瑠璃や歌舞伎に、この舞台にちなみ、手原駅舎ば入母屋造デザインで建設された。」『古代建物群 手原遺跡』碑。「手原遺跡は、異方位の条理を残す約東西七百米、南北五百米の地域で、商工会館建設により発掘調査の結果、白凰時代から平安時代前期にかけての寺院域を画す築地跡と思われる遺構。平安時代後期から鎌倉時代前記にかけての掘立柱建物群を、又多量の土器や古瓦、土馬を検出した。更に附近地から平安時代後期の大規模な掘立柱式建物群石銙帯・巡方等も検出した。これらのことからこの地は旧栗太群北東域の中心地(役所)であったと推定される。」『ぶらり栗東』案内地図。「手原駅の沿革明治廿ニ年(一八八九)関西鉄道会社の草津~三雲間が開通。後、葉山村会の決議や大宝・治田・金勝村長の請願等力強い運動により大正十一(一九ニニ)年十一月に開駅、里内新助氏一族の土地の提供や鉄道講等、地元の協力は多大であった。土地寄進里内藤五郎氏開設前は一面竹藪と桑畑で、切り開かれたホームや駅舎が整備された。古くは栗太郡北東部の中心地で官衛的な性格の地域であった(手原遺跡)昭和四十七年蒸気機関車からディゼル者に昭和五十五年三月には電化された。同五十七年(一九八ニ)には土地区画整理事業により駅前の拡張、南北の自由通路が完成。平成十六年十一月地元の強い改築要望で新駅舎が完成。」「「手孕(てはらみ)伝説」由来新駅外観デザイン 竣工記念碑に導入「手の赤ん坊、手が孕ませた村」この奇妙な伝説(十七世紀初頭の文献)により「東海道名所記」にこの地名由来が記され、「源平布引滝」は寛延二年大坂にて人形浄瑠璃で初演、歌舞伎でも上演された。平成十一年栗東でもこの地が舞台の「手原村秘聞」が上演、百姓九郎助の茅葺入母屋が新駅外観のデザインに導入(さきらオープニング)この記念碑は駅構内を通る東経136度の子午線上に九郎助の娘小万が握り守った「源氏の白旗」がモチーフにほゞ四百年を経て伝説が甦った。」『ものがたり街道、関西「文化の道」源平布引滝 三十三所巡礼 駅舎一番札所』碑。そして次の貴生川方面への電車まで時間があったので駅前にあった浄土宗『口称念佛 根本道場 手原山 清久寺』を訪ねたのであった。『山門』。扁額『手原山 清久寺』。『呼号響願』碑。「PEACE BE UNTO ALL BEINGS」・すべてのものの平和のためにと。『清久寺 本堂』。『六重塔?』。『地蔵堂』この宝篋印塔(ほうきょういんとう)の如き墓石は?地蔵群。そして『手原駅』に戻る。『手原駅』からJR草津線を利用し『貴生川駅』に戻る。貴生川(きぶかわ)駅に到着。貴生川という名は、1889年(明治22年)に内貴、北内貴、虫生野、宇川の4か村が合併した際に各村名から1字ずつ取って付けられた合成地名に由来するものらしい。貴生川駅に停車していた、JR草津線と信楽高原鐡道で走行している、忍者の姿を描いたラッピング電車「SHINOBI-TRAIN(忍びトレイン)」を駐車場近くから。貴生川駅横駐車場から旅友Sさんの愛車に乗り換え、この日の宿泊地の滋賀県大津市月輪1丁目のホテルに向かって進む。車窓からこの日の夕焼けを助手席から楽しむ。山の端周辺が赤く染まって。土地改良記念碑であろう。国道1号線から見る夕焼け。助手席からの贅沢。国道1号線家から野洲川に架かる甲西大橋を見る。近江富士(三上山)がシルエットのごとくに。野洲市南櫻にある菩提寺山が近づいて来た。そしてこの日の長い一日も終わり、大津市月輪にある「天然温泉 ニューびわこホテル」に19:00前に到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.12
コメント(0)
我が家の横の菜園の「イチゴ畑」です。イチゴの収穫の最盛期ですが、夜中にイチゴを狙って来る動物がいるのです。イチゴの畝に防鳥用の網を被せましたが、その網の目に前足を突っ込んでイチゴを引っかき出すのです。赤い実ばかりでなくまだ未熟の実も網の外に転がっているのです。そして網を破っている場所もあるのです。姿は見ていませんが、明らかに鳥ではなく、四足の動物。ハクビシン、アライグマのどちらかではないでしょうか。よって先日に、対策の追加で、「イチゴ畑」全体を四角に囲むネットフェンスを取り付けました。もちろん1ヶ所だけ中に入れるようにしました。これが功を奏して、その後の被害はなくなりました。しかし、隣に余った苗がそのまま残り、赤い実をつけた場所、ここは何の対策も施していないのですが、何故かここには来ている様子がなくイチゴの赤い実がそのまま残り大きな実に成長して収穫出来ているのです。リスクがないと面白くないのでしょうか?それとも何もされていない事を罠と考えているのでしょうか?これが理解不能、残された課題なのです。昨日の収穫物です。大きいのはそのまま食べて、小さいのは妻がジャムにしています。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧手原村の旧東海道を進む。光圓寺の直ぐ先右手に『肩かえの松』があった。旅人足等がこの松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所と言われているのだ。「肩かえの松小野村は慶長年間の東海道整備によってこの地に移る。旅人足等がこの松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所である。」『肩かえの松碑』の隣に『真宗大谷派 石谷山 西巌寺』寺標。『西巌寺 本堂』。本堂のみ建っていた。西巌寺は、天和3年(1683)秀岳の開基であり、本尊は阿弥陀如来である。交差点を渡る。ここは栗東市『手原一丁目』交差点。交差点を渡り更に直進する。先に進むと国道1号線から名神高速道路栗東インターチェンジへの高架連絡道が横切っていた。高架を潜ると右手に『行者堂』が。1820年(文政3)開基、里内九兵衛が大和国より役行者大尊像御告げにより背負って持ち帰り、小堂を建てたのが始まり、と彫られていた。役行者(えんのぎょうじゃ)とは、7世紀後半の山岳修行者で、陰陽道、神仙術と密教を古来の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立したようだ。保守的な神道側から虚偽の罪を申告され伊豆大島へ流されたのだと。『行者堂碑』。 「ここ東海道手原 ← 上鈎 小野 →」右側面には前述の「文政3年(1820)開基、里内九兵衛が大和国より役行者大尊像を御告により背負って持ち帰り小堂を建てたのが始まり、権現僧都となる。」と。左側面には「手孕(てはらみ)説話の由緒・天満神社へ大橋へ至る」と。左手に進行方向・西に向いた祠が。『行者堂』から程なく右手に『里内呉服店』が姿を現した。呉服商を営んだ家で、旧東海道に面して屋敷を構える。主屋は、接道して建つ町家で、2階を低く押さえた外観など、明治初期の町家の特徴をよくそなえていた。庇を正面から西側面に矩の手にまわし、上部に雨除けの小庇を設けるなど褄の意匠に工夫がみられるのであると。『里内呉服店』は、明治5年(1872)創業で、大正11年(1922)まで呉服店を営んでいた。この建物は国登録有形文化財となっていた。『かぎて屋 里内呉服店』案内書。「里内呉服店は、明治5年創業(1872年)~大正11年廃業(1922年)し、50年間呉服店をここ手原で営んでまいりました。平成19年(2007年)85年振りに呉服店を再開し、創業当時のままの明治町屋を生かし現代に沿った呉服店を目指し現在に至っています。「着物を着たいけれど、なかなかねえ‥・」という方はおられませんか?当店では、着物を1枚1,000円から販売しております。古い着物には独特の模様があり、着る事はもちろんですが、リメイクして洋服や小物バックのアクセントとして使用する事もできます。着物の他にも、洋服や小物や裂き織り、バックなども置いておりますので、お気軽にご来店ください。また当店で着付け教室もしております。時間等はお気軽にお問い合わせください。」木札『東海道手原村 里内呉服店』。その先には『塩屋』の蔵が。『里内呉服店』の隣に『手原醤油塩屋藤五郎』が建っていた。木札『東海道手原村 手原醤油 塩屋藤五郎』。現在は営業していない様子であったが。店脇には『手原醤油顕彰碑』が。三代目藤五郎(幼名長之助)と四代目藤五郎(幼名菅次郎)について細かく刻まれていた。「三代目 藤五郎 幼名 長之助弘化三年(一八六四)旗本竹中主水家(代官職)生まれ。明治維新後二十七才で栗太第四区町に、明治十二年初の県会議員に当選、明治三十年栗太銀行を創設、頭取として経済、郷土の隆盛の礎を築く。醤油醸造では家訓を守り、勤倹節約を旨としながら、慈善事業や公共工事には多大な資金を投じられた。明治三五年没。四代目藤五郎幼名菅次郎文久元年(一八六ニ)生れ、三代目の弟、家業を引き継ぎますますの隆盛を極める。原料の研究に取り組まれた。大正十二年に開業された手原駅には多大な協力をされた。昭和二年没。栗太銀行最後の頭取。」「手原醤油歌あまりにおいしく、たいへん評判が良いので長文の歌がよまれた(その一部)」色如葡萄紫而滑 色はブドウの如く紫にして滑らかなり人間百食益佳良 人が食べるすべて益々おいしくなる王侯饌差美如玉 王様のごちそうもおいしくなること玉のごとし」その先に白漆喰の外壁の酒屋の蔵が。木札『東海道手原村 酒屋 塩新』直ぐ先、左手の手原赤坂会館前に明治8年創立の『厚進学校跡』碑が建っていた。先ほど見た六地蔵村を出たあたりの「修斎学校」ともう1校が合併し、現在の「葉山小学校」となっているのだ。碑の奥にはかつての学校門柱が保存され、傍らに学校門柱碑・赤坂山記念碑があった。『学校門柱碑』。「赤坂山記念碑抑 赤坂山6町7反余は 徳川中期より下柴下草採立入場として手原区が権利を有し、明治22年の頃、当時の現住民72名の共同名義にて仮登記。以来手原の共有山として区長管理の下に玉梅社等の協力を得て、その保安に努めて来たのである。この間明治42年金勝山紛争のため全山を皆伐これが買戻金に充当。その後植栽を行い葉山佐瀬両河川の決潰時の用材又は潅漑用の諸施設の資材資源として、区の財政に多大の寄与をなして来た。然るに名神高速道路の開通に伴い、仝付近の開発頓に進み、昭和43年開発事業団の要請に応ずるの止むなきに至り、永年の愛着を捨て譲渡に決する。即ち茲に永く全区民の管理愛育せし赤坂山を永遠に記念し、区民の福利増進施設として手原赤坂会館と命名。之を建設する。」「抑」は「そもそも」と読む事を知ったのであった。手原赤坂会館の隣に『手原稲荷神社』があった。街道沿いには『常夜燈』が。『明治天皇手原御小休所』碑。手孕(てはらみ)ベンチの手のモニュメント「手孕ベンチ伝説が歌舞伎 「源平布引滝」 に、子供を守るため産んだのは手だけだと偽り助けた。(源平の戦いで有名な後の木曽義仲)子どもを守り育てるベンチ。(物語は手原駅舎及びモニュメントを参照)」『稲荷神社由緒碑』。「稲荷神社由緒里中大明神 木造男神座像 (明応9年開眼)室町時代」当社は栗東町手原に鎮座、稲倉魂神、素盞嗚尊、大市比売神を祭る。 寛元3年(1245)馬淵広政この地を領し勸請する。 子孫手原氏と称し代々当社を崇敬、文明3年(1471)同族の里内爲経社殿を修し、神域を拡張、天文4年(1535)手原重政武運を祈り尊崇を深める。 慶長17年(1612)宮城丹波守豊盛社殿を造営、貞享3年(1686)と享保8年(1723)に社殿の再建あり、明治2年改築、明治9年10月村社に列す、昭和61年修復工事を施行。当社は里中稲荷大明神又笠松の宮とも称される。 東海道名所記に 「左の方に稲荷の祠あり、老松ありて傘の如しなり、傘松の宮と言う」 と記され江戸時代は傘松が有名であった。」『稲荷神社』の扁額が掛かる鳥居。『拝殿』。『里中大明神碑』が建つ『稲荷神社覆屋』。『明治天皇御聖跡碑』。『手原稲荷神社』前の十字路左角に『素月漢詩碑』があった。中央の碑に 『栗太八景👈リンク 手原行人 雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々 寛延3年12月 素月作』 と刻まれていた。「雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑(ぬれ)る万里天 終日鞭を著け痩せ馬は馳せ 往来故(ふる)くから有り幾年々」と。左の碑に『手原を通る旅人 雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑る万里天 終日鞭を著け痩馬は馳せ 往来故くから有り幾年々』と。『手原稲荷神社』前の石材屋の作品群。そして、この日のゴール地点の『手原駅』に向かって旧東海道を右折した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.11
コメント(3)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次先に進むと左手の県道116号線との合流地点手前の左に小さな公園が。そして藤棚の下に休憩用ベンチも。そこには大きな信楽焼の狸が2頭。親子なのであろうか?携帯している案内書のコピーを見て現在地を確認する旅友。誰かに似て。それにしてもビッグ!!更に進むと左側の緑地の中に石碑が。『六地蔵の一里塚』跡碑。一里塚碑は道標になっており、『和中散のまち・六地蔵 東へ至石部の宿」』と刻まれていた。塚の姿はなかったが整備された場所に一里塚碑が立っていた。反対の面には『間の宿・六地蔵 西へ至目川一里塚』 と。ここは江戸日本橋から数えて、117里目の一里塚跡である。傍らに『東海道名所図絵 「梅の木」 碑』が建っていた。「江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。 宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)がおかれ、梅木(うめのき)立場と称された。 「ぜさい」 を名のる道中薬、腹薬の 「和中散」 を商う店があることで、京・大坂・江戸にまで知れ渡っていた。」こちらは伊勢参宮名所図会「梅の木」であるが、同じ様な情景を。 【http://saigyo.sakura.ne.jp/umenoki.html】より『東海道六地蔵村 酒店 鈴鹿川』江戸時代の、東海道の各種の店が有った家に其の名前と業種を書き込んだ木札がこの村にも。『六地蔵村 両替商 ◯茶太』二階には虫籠窓(むしこまど)が。右手に『天理教栗東分教会』。『脩齋学校跡』碑そして『巡査駐在所跡』。手原に造られた厚進学校は明治8年だったが、こちら六地蔵地区には明治6年に『修齊学校』が建てられたのだと。明治24年に簡易梅ノ木小学校となり、明治26年に厚進学校ともう一校の3校が統合されて現在の「葉山小学校」になったと。巡査駐在所は、明治14年六地蔵分署として設置、昭和35年まで存続したのだと。更に旧東海道を進むと、六地蔵会議所を過ぎた左手の路地脇に『地蔵堂』があり、2体の地蔵尊が祀られていた。『六地蔵村 綿屋』。木札『六地蔵村 綿屋』。畑に植わっている状態は『棉』、そして白い実を摘んだ瞬間から『綿』である事を先日、仕事支援のやりとりの折り想い出したのであった。右手に屋根付きの白塀の立派な家が。白塀の屋根瓦には鳩の像が。旧東海道は緩やかに右にカーブ。右手に虫籠窓付きの旧家が現れる。『高念寺』手前の右手にあった蔵。左手に『六地蔵村 表具師 古梅堂』身近な襖や障子に限らず、寺宝、美術品等の表装物は伝統的な京表具技術を身につけた表具師が手作業で行っている店。掛け軸。布袋様のモデルになった中国禅僧の名前は「契此(かいし)」。七福神の中で、唯一実在する人物のモデルがはっきりされている神様。布袋様が持っている軍配は、人間の吉凶を占うためのものと。出会った人のこれからの人生での幸運を占ってあげていたとのこと。美しく五重塔が切り抜かれて「行灯」の如く。更に進んで十字路を過ぎると、左手に『真宗大谷派 香雲山 高念寺』があった。『真宗大谷派 香雲山 高念寺』寺標。正面に『太鼓門の山門』が。『地蔵堂』。『高念寺 本堂』。『高念寺』の創建年代は不詳であるが、宝徳3年(1451)道順により中興された。山門は長屋門に二階を乗せたような太鼓門であり、境内には庭園風の植栽の中に五輪塔などが配されていた。『親鸞聖人御像』。石碑には『弥陀成佛ノコノカタハ イマ二十劫ヲヘタマヘリ 法身ノ光輪キハモナク世の盲冥をテラスナリ。』意味は「阿弥陀如来が法蔵菩薩の昔、一切衆生を救いたいという願いをおこし、永い永い修行の結果、さとりを開き仏をなられてから、釈尊が説法されたその時までに、すでに十劫という長い時間が経っている。阿弥陀仏の成仏以来、その仏の御身より放たれる光は、限りなく、十方のいずこをも、また過去、現在、未来を通して、どこでも、いつでも照らし続け、智慧のない私たちに信心の智慧を与え続けていてくださるのである。」という『親鸞聖人』の教え。『太鼓門の山門』の屋根瓦には天女の姿が。折しも、境内に来られた若い住職が本堂を案内して下さいました。そしてたわけ者の『たわけ』の語源について住職から学んだのでした。たわけ者の「たわけ」は、「田分け」と書き、子供の人数で田畑を分けると、孫の代、ひ孫の代へ受け継がれていくうちに、それぞれの持つ面積は狭くなり、少量の収穫しか入らず家系が衰退する。そのような愚かなことを馬鹿にして、「たわけ者」と呼ぶようになった、と住職から。しかし、帰宅してネットで調べてみると「しかし、「たわけ」という言葉は、「ばかげたことをする」「ふざける」などを意味する動詞「戯く(たわく)」の連用形が名詞となった言葉であるため、「田分け」の説は「戯け」と「田分け」を洒落た俗説で、「戯け者」が正しい語源である」説が有力と。「へー、なるほど!!」とその時は思いましたが・・・。そしてペットボトルのお茶・「綾鷹」👈リンク も頂きました。これぞ『一期一会』。そして旧東海道は旧小野村に入って行った。『小野村 五葉の松』。こちらのお宅の中に『五葉松』あるようです。『五葉松』は、普通の松の葉に比べ、極端に松葉の長さが短いのが特徴。盆栽に仕立てることが多いが、放置すれば10m以上に育つのだ。我が家の庭の五葉松の芽摘みもしなければと!!木札『小野村 五葉の松』。その『五葉松』が屋号になっていたのだろう。旧手原村に入ると、右手に『真宗大谷派 小野山 光圓寺』があった。ここまで見てきた浄玖寺・福正寺・高念寺と同様、街道から細い参道の先に山門があった。常夜燈の建つ参道の先に『光圓寺 山門』。『光圓寺 本堂』。『光圓寺』は、明応2年(1493)幸円の開基であり、本尊は阿弥陀如来である。『鐘楼』。本堂に掛かる太鼓と梵鐘。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.10
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次先に進むと右手の筋角に『新善光寺道道標』と明治24年(1891)の『常夜燈』が建っていた。 先にあった『新善光寺道道標』より大きく、道標には 「是より一町餘」 と刻まれ、傍らに新善光寺300mの道路標識があった。『新善光寺道』(左)、『是より一町餘』(右)、『為浄徳妙蓮菩提 施主今里村中』(裏)と刻まれた道標。明治24年(1891)の『常夜燈』。『新善光寺』への道。草津線を渡り進むと、この角から300m程で『新善光寺』へ。旧東海道はこの先の突き当りを左折。先に進んでY字路を右に進むと、左手に『法界寺 地蔵院』があった。「重要文化財 木造地蔵菩薩立像 明治33年4月7日指定 福正寺(法界寺)法界寺の本尊である当像は、僧形の丸い顔で、半眼・閉口し、衲衣の端を右肩に懸け、偏衫と裳を着けて直立する。 現状では右手に錫杖、左手に宝珠を執る。像高96.5㎝ヒノキの一木造。平安時代(10世紀)ころの作とみられる。 ここ六地蔵の地名となった六躯の地蔵像の一躯であると伝わる。」『地蔵院 山門』。大正15年(1926)の『国寶 地蔵尊』碑。『地蔵院(旧法界寺』ごあんない』「当院は奈良時代(聖武天皇)の天平6~7年(734~735年)頃「陀羅尼寺」として創立。その後戦火等で焼失。寛永16~18年頃(1639~1641年)現在地に法界寺地蔵堂として建立された。昭和初期まで尼寺でした。昭和53年8月地蔵院を新築し今日を迎える。本尊の地蔵菩薩立像は平安時代に造られたもので、像高96.5cm、重要文化財に指定されている。『近江興地志略』には地蔵堂六地蔵村にあり。「相伝往古は六体ありと、今僅かに一体存す、長尺三尺三寸、行基菩薩の作なり」とある。」『地蔵堂』。地蔵堂に掛かる『地蔵尊』の扁額。『昭和御大典記念碑』。昭和3年(1928)の昭和天皇即位を記念した御大典記念の碑。『昭和御大典記念碑』のご案内。昭和天皇が即位した御大典の記念事業として建設。朱の鳥居の先には『白龍稲荷大神拝殿』そして内部には『本殿』が。こちらは『愛宕神社』『愛宕神社』の内陣。愛宕さんと呼んで、観しまれている愛宕神社のこの建物は、それ迄のお社が雨漏り等老朽化した為、平成8年8月に新築されました。(鳥居は朽ちて取り外し)。愛宕さんとは、京都に有る山で、山頂(標高924m)に愛宕神社が祀られています。旧称は、阿多古神社。京都の愛宕神社は、全国に約900社を数える愛宕神社の総本宮として京都の愛宕山上に鎮座され、古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られています。愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には、勝軍地蔵を本地仏とし、火産霊命(かぐつち・ほのむすぴ)が祭神とされていました。これ等から、現在でも愛宕さんの縁日は、地蔵さんと同じ毎月24日です。勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく、武神としての信仰もされてきました。愛宕神社の御祭神は、本社雅産日命(生産水の神)、埴山姫命(土の神)天熊人命(稲司の神)、豊受姫命(五穀の神)、若宮社雷神・伽俱槌命(火の神)、大國主命以下17柱の神々に防火、火伏、鎮火の神としてお護り頂いている愛宕神社のご神体をお祀りし「愛宕講」と呼ばれる講も組織されてきました。六地蔵民は、冬期には山仕事が主になる為、山を火災から守る大切さは肌身に沁み込ませており、更に、家族がよりどころとする家を火災から守ることは、戦の六地蔵大火での恐ろしさも冷めやらずその上落雷も多く有って、火事を起こさない事、延焼させないことは、最も肝要な事でした。当地六地蔵では室町時代(1336~1573)中頃、法界手{現地蔵院・当時は130m北側・JR草津線の走っている所}を陣所に、足利九代将軍側と六角佐々木軍側との大きな戦いがあり六地蔵大火(1487)と呼ぱれる戦災大火があり、法界寺や六地蔵村・隣の今里村は壊霞的戦禍に遇しました。(時は12月・この頃の家は、わら屋根・おくどさんの傍や、家の周囲には 冬の寒さしのぎで、山からの枯れ木や木の葉、田のわらが積まれていた)年代はまだ未確定なれど、小宇野田口道への始点で、山へ行く道筋の入口である葉山川堤防道口、里道との分れとなる、ぜさいや横の角地に、村を火災から守る事は重要な課題で、巨石のご神体が愛宕さん信仰として祀られていた。江戸時代の末期、法界寺中興の祖義陽尼が病で寂され、法界寺は無住職。時代は、直ぐに明治となり新政府方針で、廃仏毀釈が推進(住職や檀家の無い寺は取り壊し、神杜があれば免除)の為、庄屋・年寄・地元民は対策に苦慮し困感するも、愛宕さんを地蔵院へお移しし、神社である事が一目で判るようお社と鳥居を建て、更にお稲荷さんを祀る事で確実に法界寺・地蔵菩薩様・観音菩藍様・諸佛様を御護りし、明治の廃仏殺釈の波を乗り越えてきました。(愛宕さんに移座頂いた後地には、戦禍等で長年ハゲ山だった日向山を私財で明治期に全山松苗を寄贈、今の緑豊かな山・保水の山になった大恩人)のお名前 塚本定右衛門様の顕彰碑を滋賀県が建立、後世にその功績を残す碑があります) 地区民は毎年、当番家を決めておいて。当年度役の家・来年度役の本を持ち廻り順番で、八月二十四日に愛宕さんへのお供え物を欠かす事なくされてきた。役の当たらないお家や自治会も、愛宕さんにご献酒・スルメや野菜、菓子等のお供え物をし、夜には献燈して、日頃の感謝を込めてお祀りしてきました。地蔵院境内へ愛宕さんがお移りあって、宿場所も本堂で行なえ今迄にない団欒も出来、楽しい一日(平成二年迄は毎月二十四日、家廻り順で百灯の燈火を点けていました、硯在は、神事の日のみ点燈)・・お供え物は今も続く。※当地、愛宕さんにも、火伏の神花である樒が有ります。一葉を摘まんで持ち帰り、竃(火元の上部棚)等にお供えし、お祀り下さい=防火の御まじない。(神社ですので、お榊も植えられています。お社の左前と後方に植栽されています)」旧東海道に戻るとここにも旧家が。水路を過ぎた左手に浄土宗の『日向山 印松院 浄玖寺』があった。『浄玖寺』は、天正13年(1585)定玖の開基であり、境内には一石六地蔵尊、男女双体道祖神などがある。『浄玖寺 山門』。『鐘楼』。「六地蔵像地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。」と別のネット情報より。『一石六地蔵尊』。『浄玖寺 本堂』。本堂に掛かる『日向山 印松院』の扁額。『旅立ちの法然様』像。「十三才御姿 父の遺言を胸に最愛の母と別れ比叡山へ旅立たれる幼名勢至丸さま」。続いて右手に真宗大谷派の『高野山 福正寺』があった。『福正寺』の創建年代は不詳であるが、寛政2年(1461)蓮如上人に帰依した住職・正善が浄土真宗に改宗し、その後の大谷本願寺の破却 「寛政の法難」 で逃れた蓮如上人は一時、福正寺に逗留しているのだと。左手参道入口に『蓮如上人御舊跡碑』、右に『真宗大谷派 福正寺』寺標。『福正寺 山門』。『蓮如上人御像』。『常夜燈』。『福正寺 本堂』。『本堂』前にあった『石造多層塔』。「石造多層塔当寺は真宗寺院であるが、元は金勝寺二十五別院の一つ多喜寺の一院で六地蔵を安置していたと言われ、寛政2年(1461)僧正善の時に本願寺蓮如の教化に帰して真宗道場となり、後に親鸞の弟子円鸞が開いた松原興敬寺の配下に入ったと伝えられる。当寺にある層塔は、塔身に四方仏を配し本来九層塔であったと思われ、笠の第4・6・7層と相輪部が失われているものの、鎌倉時代末期の美を今に伝える貴重なものである。」本堂前の枝を広げた見事な枝振りの松。『福正寺』を出ると街道が右にカーブしたところに『史跡旧和中散本舗(大角屋)』が。ここ六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗として栄えました。薬を売るだけでなく、草津宿と石部宿の「間の宿」として、公家・大名などの休憩所も務めたといいます。和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前といいます。ここ六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る 「ぜさいや」 の本舗として栄えたのだと。手前に『史跡舊和中散本舗碑』が建つ『表門』。『史跡 旧和中散本舗』。「国指定名勝 大角氏庭園平成一三年一月二九日指定書院の南庭(離れ家の西庭)である。 正面に芝生張りの大小の築山を配し、背後にツバキ、カエデ、ヒサカキ、カナメモチ、アオキ、マキ、ネズミモチ等の混植の生垣を仕立て外部との仕切りとしている。 背後の日向山を借景とし、築山上からは三上山が眺望できる。 築山の西部に滝石組があり、山裾の東西に細長い池に注ぐ。水は、葉山川から取水していた。 池の護岸は石組でめぐらし、池中には中島と平天の浮石があり、東部には切石橋を設け、築山へ渡れるようになっている。 ただし、中島は明治の後設とされる。建物に沿って大小の飛石を打ち、沓脱石から池畔や石橋へとたどることができる。」小堀遠州作という言い伝えがある池泉鑑賞式庭園の本庭には、東海道という連続した旅情の一場面を切り取った庭という趣が感じられるのだと。『根本梅木 本家 ぜさい』の木製吊り看板。ここが店内への入口であったが、見学は予約制のようで『旧和中散本舗(大角屋)内部』👈リンク に入れなかったのでご興味のある方はリンクにアクセス願います。街道の反対側には『大角屋隠居所』隣に建つ『薬師堂』が。左の塀が見える家が『大角屋隠居所』である。「大角屋住宅隠居所隠居所は、真向かいの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。その後、所蔵文書より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和46年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。建物は床と付書院を備えた6畳の座敷の南に4畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の4室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している。この建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である。」『薬師堂』の奥に、先程訪ねた『福正寺』の鐘楼も再び見えた。『旧和中散本舗』、『大角屋庭園』が5月末の土、日を中心に『特別公開』される予定であるとのことであったが・・・・。新型コロナウィルスの影響でどうなるのであろうか?やはり中止。ここは『栗東八景』の『積日の街道と城壁~深緑の日向山と和中散~』の場所であると。漢詩碑があるのが『栗太八景』であり、紛らわしいのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.09
コメント(4)
昨夜2020年5月7日は「フラワームーン」の日。5月の満月は、伝統的に「フラワームーン」と呼ばれていると。 この名前は、暖かい春の天気と、今月は豊富な花に関連付けられている。 この5月の満月の他の名前には、トウモロコシの植栽月、牛乳の月、母の月などがあるのだと。最初は雲に隠れていましたが、20時過ぎにようやく満月が姿を表しました。時間は20:19。農家の温室の屋根に月光が輝いて。「フラワームーン」👈リンク。「餅をつくうさぎ」の姿がくっきりと。カメラの設定を変えて。日本では「餅をつくうさぎ」と呼ばれていますが、「世界で見え方が違う月の模様」⇔リンク。月面の南部に位置するクレーター・ティコ (Tycho) 。直径は85kmもあるのだと。ズームで。クレーターのまわりに放射状に広がる、白い模様が見られる。これは「光条」(英語ではレイ: ray)と呼ばれています。約1億年前の衝突によってできた新しいクレータであるとのこと。-----------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次東海道石部宿 西縄手跡を後にし、更に旧東海道を進む。右手には見事に手入れされたカイズカイブキ(貝塚伊吹)の生け垣。カイズカイブキは、古木になったり強剪定をすることで、「先祖返り」した杉葉が出やすくなってしまうのだ。我が家も最初はこのカイズカイブキ(貝塚伊吹)の生け垣であったが、手入れが大変でコンクリート+アルミフェンスに替えたのであった。『村井川』に架かる『第3号町道橋』を渡り大きな道と合流し左に進む。前方に国道1号線の高架が姿を現した。前方左手の橋の手前に案内板が。「五軒茶屋道(ごけんちゃやみち)と古道(ふるみち)天和二年(一六八二)八月出岩地先で大洪水により東海道が流出して河原となる。 天和三年四月十八日、約半年後に新道を膳所藩本多氏が南側に着工するが、崩壊した前東海道より約二倍の二キロメートルの距離となった。 新道が山の中を通過するために安全を願って元禄二年(一六八五)五軒の茶屋が石部宿より移転することとなりました。 明治四年(一八七一)には新道の距離が長いために旧道が整備されて今までの東海道が復元された。」「広重二代立祥画 東海道五十三駅 石部 春の景」。山の姿は『三上山』。 【https://ukiyoe.yamabosi.jp/?cat=4&paged=3】よりここで2つの東海道に分かれるのであった。左折し『宮川』に架かる『五軒茶屋橋』を渡って進むと、これが旧東海道の『上道』。左折せず、直進するのが『下道』。『宮川』はこの先で『野洲川』に合流するのであった。直進して『下道』を進むと、『東海道 石部宿』と書かれた木札が右手に。真っ直ぐ進むと国道1号線の高架とその手前に『宮川』に架かる『宮川橋』が。国道1号線の高架を潜り進むと、道路脇に小さな朱の鳥居が取り付けてあった。この先の線路脇にも。街道の左右所々にあったが、その目的は?駅伝等の距離の目安か?いや、ここは、かつて伊勢参宮道が通っていたため、その案内なのであろう。右手に『三上山(みかみやま)』が再び見えた。『三上山』は滋賀県野洲市三上にある山。一般には『近江富士』として知られる。標高432m。石部北3丁目の旧東海道を進む。JR東海道線に沿って進み、名神高速道路下のカルバートを潜る手前で『栗東市』に入った。『栗東市』の汚水マンホール蓋。「古くから交通の要衝として発展を遂げてきた栗東市の市章はインターチェンジを図案化したものです。 この図案が外周に描かれたデザインが公募により選定されました。 内側には、まちのシンボルであるメジロ・貝塚伊吹・キンセンカが配置されています。 メジロは愛らしい姿と美声で親しまれる小鳥で、貝塚伊吹は各家庭で広く愛用される庭木です。 薬用植物でもあるキンセンカはその昔、自然の草花から道中薬をつくっていた旧和中散本舗「ぜさいや」の史跡がある本市の象徴としてふさわしい花です。」と。左手奥にあったのが『徳正寺』。室町時代には創建されていたと言われる『浄土真宗 本願寺派 辨天山 徳生寺』。広い屋敷に立派な旧家が右手に。ここは、かつて伊勢参宮道が通っていたため、伊勢大路が訛って『伊勢落』になったという。栗東市伊勢落地区の旧東海道を進む。この大きな荷車の使用目的は?昔、この荷車で、穀物、材木や石など重いものを運んでいたのであろう。そして牛や馬?に引かせていたのであろう。T字路の角にあった案内施設。栗東市『ここは伊勢落』。「伊勢落地区は、古代には東海道を下り伊勢へと向かう斎宮の禊場があったと伝わる。また、中世には後の真教寺や徳生寺につながる真宗の道場が開かれた。江戸時代には東海道石部宿に隣接する立地から、薬や酒などを扱う店が出来た。」と。『伊勢落』地区の旧東海道を更に進む。旧家が所々に残っている旧東海道。そして各民家の庭には立派な常夜燈が置かれていた。先に進むと街道左手奥に『浄土真宗本 願寺派 日向山 真教寺』があった。『当山16世真實院釋浄覺師記念燈』『真教寺 山門』。『鐘楼』。境内にあった『當山中興釋浄円師紀念燈』。『真教寺 本堂』。『勧学浄楠院釋尚邦和上顕彰碑』。旧東海道に戻ると左手の民家の前に地蔵堂』と栗太八景を詠んだ『素月漢詩碑』があった。素月は、今の栗東市大橋の慶宗寺の僧致遠であり、江戸時代中期の寛延3年(1750)に栗太地域の八景観を漢詩に詠んだ。栗太郡の名称は、栗太郡栗東町の市制により、平成13年に消滅したが、「栗太」 の地名を残すため『栗太八景』👈リンク漢詩碑を建立したものである。『素月漢詩碑』栗太八景 伊勢落晴嵐梅痩せ柳疎にて柴扉鎖す 簷外は半ば晴れ野草肥ゆ山色の末分の雲気は晴れ 一声鳥啼き霧破りて飛ぶ 寛延三年十二月 素月作 恵津子書漢詩の意味は「伊勢落で霧が晴れた梅は細く、柳は手入れをして透いているほうが趣きがあるらしいが、柴の扉を閉めている。のきの外は少しずつ晴れてきて、野草が生い茂っているのが見える。山を見ると、頂上の雲は晴れている。鳥が一声鳴いたかなと思うと、霧の中から飛び立っていった。霧が晴れると野草が生い茂っているのが見えたり、山の頂上は雲がないのがわかるように、隠しごとをしても後々ばれることを表見していると思った。鳥が一声鳴いて、霧の中から飛び立っていったように、後々逃げたくなるから、隠しごとをしない方がいいと思った。」とネット情報から。その左に『地蔵堂』。なぜかここに『東海道 中山道』と刻まれた石碑が。この先、草津宿から、中山道と東海道が二つに分岐することをここで知らせているのであろうか?再び『三上山』がはっきりと。旧東海道を更に進むと、右手筋角に『新善光寺道』と刻まれた道標が建っていた。新善光寺は、JR草津線を越えて4~500m程北に有る寺院で、鎌倉時代の中期、平重盛の末裔である小松宗定が、平氏追善のために信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢を感じて分身の阿弥陀如来像を請来したのが始まりと言われているのだと。更に道幅が狭い旧東海道を進む。このあたりは旧「林村」。屋号が掲げられた古い町並みが続いていた。右手前方に鐘楼が見えた。『浄土真宗本願寺派 楞巌山 長徳寺』が右手に。山門手前に『薬師如来堂』が。『薬師如来堂』寺標。『薬師如来堂』。御堂に掛かる『薬師如来』の扁額。ここにも『素月漢詩碑』があった。栗太八景 上野夜雨(かみののやう)茅屋寂寥上野郷 村前村後雨声長隠晴難定雲来去 疑是今宵尋月光慶崇蘭若桑門素月誌寛延三年(一七五○)十二月五日茅屋は寂寥なり上野の郷 村前と村後には雨声長し隠晴定難し雲来たりて去る 是疑い今宵月光を尋ねん漢詩の意味は上野の雨が降る夜茅葺の家がポツンとあって、ものさびしい。ここは上野の郷という。次の雨がやって来て、さっきの雨が通りすぎていくことが、雨音の長さからわかる。月に雲が隠れたくらいじゃ、明日雨が降るのか、晴れるのかを見定めることは非常に難しい。なぜなら、その雲が去ったとしても、また別の雲が来るからだ。それは心配にもつながる。今夜は、雲が月を隠すことなく、月の光を見ることができるだろうか。『従是東膳所領』と刻まれた領界石。『長徳寺 山門』。『山門』から『本堂』と『親鸞聖人像』が見えた。『長徳寺 本堂』。本堂に掛かる『楞巌山(りょうげんざん)』の扁額。『鐘楼』。『長徳寺会館』。『親鸞聖人像』。『地蔵尊』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.08
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次さらに旧東海道の石部宿を歩いて行く。『明治天皇聖蹟』の前には『小島本陣跡』の石碑が建っていた。『石部本陣跡碑』と『石部宿 小島本陣跡』案内板。「京立ち石部泊まり」と言われ、京を発った旅人の一泊目で繁盛したのだという。『東海道 石部宿 石部本陣跡』碑。「石部宿 小島本陣跡石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の2つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。 数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を許されました。」「東海道 石部 (御上洛東海道・行列)芳年画 角金版 14代将軍家茂御上洛版画」。 【https://ukiyoe.yamabosi.jp/?p=24929】より『真宗大谷派 浄現寺』道標があったが訪ねなかった。石部宿本陣跡から左手3軒目の筋に『浄現寺道標』があり、路地を進むと右手に真宗大谷派の『金谷山浄現寺』があった。浄現寺は、永正15年(1518)了法の開基であり、享保元年(1716)現地に移転したと。『浄現寺 本堂』をネットから。 【http://takemori-seizai.jp/shaji/jirei04_jougenji.html】より右手の「石部のぬし屋」は仏壇屋さん。続いて次の左手筋に『明清寺』寺標があり、奥に進むと浄土真宗本願寺派の『平野山 明清寺』が。『浄土真宗 本願寺派 平野山 明清寺』寺標。『明清寺 山門』と左手に『鼓楼』。『手水舎』。『鐘楼』。『明清寺 境内』には銀杏の巨木が。『明清寺 本堂』。『龍谷門主即如上人お手植の松』碑であるが肝心の松の写真が・・・。旧東海道に戻ると直ぐ左手の細い筋に『真明寺道標』があり、突当りに浄土宗の『青木山 真明寺』があった。『清明寺 山門』と『浄土宗 真明寺』寺標。『真明寺 本堂』。甲賀組第一部法然上人二十五霊場 第十六番。本堂に掛かる『青木山』の扁額。この建物は?『愛宕神社』。『鐘楼』。階段上から本堂を望む。『南無阿弥陀仏名号碑』。この石碑は?『寛政8年(1796)の芭蕉句碑』。『つつじいけて その陰に 干鱈さく女』句意 山から手折ってきたのであろうか、つつじを井戸端の手桶に、こぽれるばかりに 生けてある。その花の陰で女は食膳の用意であろうか、白い干鱈をさいている。季語 つつじ(春)松尾芭蕉(一六五四~一六九四)が近江を初めて旅した旅行記「野ざらし紀行』で貞享二年(一六八五)に湖南市石部に立ち寄った時の句。手折ってきたつつじの下で、活き活きと働く女を見事に切り取って見せている。石碑は寛政八年(一七九六)七月石部躑躅社中が建立。躑躅社は句の「つつじ」からっけた名称と考えられる。真明寺には芭蕉の位牌も残っている。『芭蕉翁句碑』。そして旧東海道の曲がり角にある『石部宿 田楽茶屋』が正面に。広重の浮世絵にも描かれている「田楽茶屋」を再現した建物。道標を兼ねた行燈のモニュメントが立っていた。京へ → 東海道 へと。ここで昼食を取ることにした。「石部宿 田楽茶屋石部宿は、東海道五十一番目の宿場町として栄えました。 歌川(安藤)広重が天保三年~四年(一八三二~一八三三)の時、東海道を五十五枚の風景道中画で表し、田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。 栗東の岡に、「京いせや」、「こじまや」、「元いせや」の三軒の代表的な田楽茶屋があり、ここは平成十四年旧石部町制百周年記念事業として再現されました。」「石部 目川の名物でんがく」。店内あった手毬が美しかった。メニュー。悩んだが、旅友Sさんと今日のランチを注文。店のオバチャンとしばしの雑談。オバチャンの作品であると。鳥の色からするとメジロであろうか。『石部宿 田楽茶屋』を後にし、右に折れた石部宿の旧東海道を進む。石部宿の旧家がここにも。突き当りが前方に。「鉤(かぎ)の手道京都方而から来て、見附を過ぎると街道が鉤の手に二ヶ所設置されていて、敵がむやみに侵入しにくい構造になっていた。石部宿には街道に八ヶ所の交差点があったが、宿内を見渡せない遠見遮断で防御の役割をはたしていた。」意味合いは「升形」と同じ。道が直角に曲がっていて見通しをきかないようにし、敵に進入されにくくするため。浮世絵を接写で。突き当りの『鉤の手』を左に曲がって進む。『鉤の手』を左折して直ぐ、右手の民家前に『石部一里塚跡』があった。ここは江戸日本橋から数えて、116里目の一里塚跡である。「石部一里塚跡慶長9年(1604)東海道が整備された翌年に、西横町宮道が東海道に出た所あたりに設置されていた。 北側には榎、南側には椋の木が植えられていたが、明治2年に宿駅制度が廃止された時に撤去された。 これより西は梅ノ木の立場にあった。」『石部西』交差点を渡る。「石部西」交差点を左折し写真の方向に進むと「湖南市 歴史民俗資料館」があるとの案内板が。石部西交差点を渡った右角に、『石部宿 西の見附跡』があった。「見附は桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見付」 といわれています。 東の見附より西の見附の間が石部宿であり、宿場の街頭の出入り口にも見附が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西2ヶ所にありました。 見附の西側には目見改場が設けられていました。」「浮世絵 西の見附跡」。先に進むと、右手の塀の中に『愛宕神社』があった。扁額『愛宕神社』。先に進むと街道の先に、標高432mの『三上山』が見えて来た。『三上山』は、山の形状から 「近江富士」 と呼ばれている。また、藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説があることから 「ムカデ山」 の異名もある。更に旧東海道を進む。左手の集落が切れる辺りに小公園があり、『石部宿』と記された行灯のモニュメントが建っていた。この辺りは立場から立場の間の道で、『石部宿』の西に当たることから『西縄手』と呼ばれた。江戸時代、『石部宿』に入る前に参勤交代の為の大名行列を整列した場所で、長い松並木があったとのこと。「石部宿 西縄手縄手とは立場から立場の道の事を言い、石部宿の西にあたることから西縄手と呼ばれていました。江戸時代、ここは宿内に入る前に参勤交代の為の大名行列を整列した場所で、長い松並木がありました。」『西の見附跡』と同じ広重の浮世絵・「東海道 石部」が添えられていた。小公園の奥にあったのが『東海道五十三次図』。『石部宿』もここで終わり、草津宿、大津宿を経て京都三条大橋に続いているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.07
コメント(1)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次石部東8丁目の旧東海道を先に進むと左手段上に、真宗大谷派の『清水山 西福寺』があった。浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、古くは「一向宗(いっこうしゅう)」・「門徒宗」などと俗称され、宗名問題を経たのち戦後は真宗10派のうち本願寺派が「浄土真宗」、他9派が「真宗」を公称とするのだと。『西福寺 山門』。『延命地蔵尊』。『親鸞聖人像』。『鐘楼』。『西福寺 本堂』。『西福寺 寺標』とその奥に『手水舎』。旧東海道に戻り進むと左手には赤、白、青の三色の縞模様・サインポール(signpole)のある店・『髪結床 かわなみ』。「サインポール「赤青白」三色の由来」👈リンク について関心のある方はアクセス願います。『髪結床 かわなみ』の手前右側にあった祠。路地には『報恩講(ほうおんこう)』の案内が。報恩講は、浄土真宗の宗祖(開祖)とされる親鸞(1173年 - 1262年) の祥月命日の前後に、救主阿弥陀如来並びに宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要のこと。先に進み変則十字路を左に入ると、ここも真宗大谷派の『上田山 蓮乗寺』があった。これほど県内に浄土真宗系の寺か多い理由は。浄土真宗中興の祖である蓮如が、北陸地方へ行く前に近江地域で布教したためだろう。その結果、日本全体でみても、滋賀県は北陸地方に次いで浄土真宗色の強い地域となったのだ。意外なのは、湖南に浄土宗、湖西に禅宗の一つである曹洞宗の寺院か多いことだ。湖南に浄上宗のお寺が多いのは、織田信長か総本山として近江八幡市に浄厳院を建てさせるなど、近江国で浄土宗を保護したことか影響しているのかもしれない。湖西の曹洞宗は34パーセントと浄土真宗系に次ぐ勢力だ。鎌倉時代末期に近江守だった佐々木信綱が曹洞宗の開祖である道元に師事していたからだろうとのこと。『山門前の地蔵尊』。『真宗大谷派 上田山 蓮乗寺』寺標。『鐘楼』。『蓮乗寺 本堂』。蓮乗寺は、弘仁年間(810-24)嵯峨天皇の願いにより善生上人が天台宗延暦寺派の上田山蓮浄寺を開基し、元和5年(1619)了達上人が茶臼山吉比女の地から鵜目ヶ澤十禅寺の地に御廟を遷し、真宗に改宗したと。右手に『勅願所上田山蓮浄寺碑』、左手に『勅願所』案内石碑。『勅願所上田山蓮浄寺碑』。「勅願所石碑正面 勅願所 上田山蓮浄寺横 嵯峨天皇 御由緒之地810年(弘仁年間)嵯峨天皇の願いにより善生上人(大塚善生)天台宗延暦寺派上田山蓮浄寺を開基。1619年(元和5年)了達上人(大塚了達)茶臼山吉比女の地から鵜目ヶ澤十禅寺の地に御廟を遷し真宗に転派、浄の字を乗に変更。嵯峨天皇勅願寺 真宗大谷派上田山鹿塩房蓮乗寺」『地蔵尊』。旧東海道に戻ると石部宿の面影を残す町並みが続いていた。石部宿は、「京立ち石部泊まり」 と言われ、京都を旅立って最初に東海道で宿泊するのがここ石部宿であった。最盛期には、216軒の商家や62軒の旅籠が軒を連ねており、伊勢路への街道として多くの旅人が往来していたという。右手の旧家の門の前には『犬矢来(いぬやらい)』👈リンク が置かれていた。犬矢来は、関東では見たことが無いので、京都近辺の独自の文化なのであろう。この民家の前の民家も旧家の造りであった。その隣に『古美術商』があった。鶴を抱く高砂人形の翁の如き人形。布袋様にしては若いお顔。右手には『竹内酒造』。竹内酒造は明治5年(1872年)創業、140年の歴史をもつ酒蔵。地域に根付いた清酒 香の泉(かのいずみ)が人気の酒と。『竹内酒造』の工場。そして『石部中央』交差点に到着。東海道『石部宿』碑。左 水口宿 五十番右 草津宿 五十二番この角地は小公園になっており、東屋が奥に設置され、高札場跡・石部城跡・お半長右衛門などの案内板や、壁面に歌川広重画などが掲載されていた。そして『石部中央』交差点の左角に『高札場跡』があった。「高札場跡高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、 現在の県道113号線(とんや道)と旧東海道の交差点の道路の中ほどのあたりで問屋場の横にあったと伝えられている。約80㎝程度の石垣の上にたっていた。元禄の頃は、みのや橋の横にあったが、いつの時代か問屋場の横に移転された。」「歌川広重 東海道五十三次之内 石部 」宿場の境に築かれた見附土手が描かれている。 【http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/museum/note/note47.html】より「石部宿 石部城跡享禄年間(1528-31)に築城され、城主は石部久綱。 佐々木承禎と織田信長の戦いで、信長の家臣佐久間信盛に攻め込まれ、元亀元年(1570)落城し、3年後の天正元年(1573)に廃城した。貞享元年(1684)城跡の北側に建立されていた菩提寺を移転し、現在の善隆寺として一部石垣が残っている。(ここより南へ100m行ったあたり)石部氏は約40年間城主であった。」「東海道五十三次名所古跡三宿続」「水口 弁けいせくらべ石」「土山 宿山の鬼」「石部 実盛手ばらみ村」。 【https://ukiyo-e.org/image/waseda/005-0623】より「お半長右衛門京都の帯屋の主、長右衛門がお伊勢参りに行く途中で宿泊した石部宿の旅籠(出刃屋)で、丁稚の長吉に言い寄られるお半をかくまったことから二人は結ばれることとなった。しかし、妻のいる長右術門との道ならぬ恋に苦しんだお半は死を選び、遺書を見た長右衛門もお半の後を追い心中を遂げる。この石部宿に伝わる悲恋の民話の舞台となった旅籠は、問屋場より西の方角にあったと言われている。(人形浄瑠璃作者菅専助の脚色)」「芳虎作 書画五拾三駅 伊勢石部 於半丁松」。 【https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=40095】より「安民米倉庫明治十三年に服部善七氏により、安民米(救済米)制度が創設されました。植付時に百姓は食べるものが無く、安民米を一農家に一俵ずつ貸付、収穫時に年貢として五升をおさめ、その五升は教育費に充てられました。現在は、雨山丈化運動公園内にある宿場の里に安民米倉庫が再現されています。」写真を接写で。制度は1941年(昭和16)まで存続したと。 1902年(明治35)には、松籟山に善七の功績を称える碑が建てられたのだと。『三枚の絵』左側には歌川広重の絵『東海道五十三次「石部」田楽茶屋にて』芭蕉の句『都つじいけて その陰に 干鱈さく女』。中央には『東寺 長壽寺』の絵、「 長壽寺は僧良弁によって建立されたといわれ、聖武天皇の御子降誕により子安地蔵尊を安置する国宝寺院です」。 右側には『西寺 常楽寺』の絵「千手観音菩薩を本尊とする常楽寺は、金粛菩薩の開基といわれ、本堂と三重塔が国宝建造物です」。『時計塔』。『石部中央』交差点を渡って小公園を振り返る。『石部中央』交差点を横切ると左手にも説明板が立っていた。「石部宿 常盤館跡石部中央道の辺広場より南へ約五○メートル行った殿城道あたりにあった。二階建てのかなり大きな建物であり、席は前列の左右が一等席、その後ろが二等席で中央が桝席になり、一番後は三等席で、その他は桟敷席になっていた。 二階は特等席であった。中央に回り舞台が設置されており、このような規模の芝居小屋はこの付近にはなく、遠方から観客が集まったと伝えられる。 大正八年に火災により焼失し、その為に当館の資料はなにも残っていない。」接写で。「石部宿 問屋場跡石部宿の問屋は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立事務)を行なうところを問屋と呼び、いつも役人が三名~五名程在中し人馬の継立をする必要な仕事を分担して賑わっていました。 場所は、石部中央の信号から北へ百メートル程の砂川の東側にあったが、後に信号の北西の角あたりに移ったと言われています。」接写で。広重の東海道五十三次のようであるが、原画は?歩いて来た旧東海道も入れて振り返る。『石部中央』交差点を渡って直ぐ右にあった歴史を感じさせる建物。『小笠原流いけばな教授 竹内秀◯』の表札が。『旧東海道 石部宿 ~東海道第五十一番目の宿場町~』案内図。この辺りには寺院・神社が多い事を実感したのであった。そして「現在、石部には15か所の「愛宕さん」があります。昔、「石部宿」では何度か大きな火事が起こり、二度と大火を出さないようにとの願いから愛宕信仰を強くしたのだと言われています。毎年7月23日にはお祭りが行われますが、その由来は愛宕神社の御神体である「将軍地蔵」さまの命日が7月23日であることからきています。」と。右手の「BARBER」の店の前にあったのが「三大寺本陣跡参勤交代の制が定められる七年前の寛永五年(一六ニ八)より明治三年(一八七〇)までのニ四ニ年間営業した。幕末の図面によれば、間口一八間半、(約33.5m)、奥行き東方ニ九間(約52.5m)、西方ニ◯間(約36m)であり、建坪数は小島本陣より少ないが、畳敷き室数では変わらず、収容数は同等であったと考えられる。焼失再建を繰り返し営業した。」歌川芳盛 末広五十三次 「石部」。左手に『歴史の道東海道』案内表示。ここが『石部宿驛』で「石部宿場の里」と呼ばれトイレがある休憩所になっていた。右手の道標には「草津宿 三里 水口宿 三里半」と。『江戸←→石部宿←→京』。内部に入ってみると囲炉裏が。旧東海道に向かって。石部宿街並図。『明治天皇聖跡』の手前にあった「東海道五十三次 石部 目川ノ里五十一番目の宿場として、二軒の本陣、六十二軒の旅籠、二百余軒の商家で栄えた所です。」『歌川広重 東海道五十三次 石部 目川ノ里』。「水口から9.3キロ.この間に広重の描いた目川ノ里があります.春の景色らしく、遠くに見える三上山も春霞の彼方に眠っているような穏やかさのなか、街道を行く伊勢参りの人々の賑やかな声が聞こえてくるようです。中央に大きく構えるのは菜飯や田楽が名物の伊勢屋。人々の描写が実に巧みで、風景と伊勢屋の旅情に彩りをそえています。賑やかな人々にかまわず、荷を負った二人の農夫の姿が村落の情緒を感じさせてくれます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.06
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次光林寺の西側に隣接して浄土宗の『白雲山 専称院 養林寺』があった。『養林寺 山門』。『養林寺 境内』。『木造阿弥陀如来立像』案内板。「養林寺(浄土宗)は、正暦2年(991)10月15日に僧心晃が創立した。応仁2年(1468)浄土宗鎮西派となり、西阿弥法師が再興して白雲山養林寺と号する。その後、天和7年(1621)に庵の口より現在の地に清玄が再興した。木造阿弥陀如来立像は、本堂の須弥壇上に江戸時代作の来迎形脇士を随伴して安置されている当寺の本尊で、像高39.1㎝、平安時代末期の作と推測される。尊像は、穏やかな作風で現状では古色を呈しているが、その下には漆箔が認められ、彫眼で材質は檜材製と推測される。また、頭体幹部は1材製とし、内刳りは行われていない。当寺には、「応仁2年戌子5月10日草庵再建」 銘の額が残されている。」『養林寺 本堂』。本堂に掛かる『白雲山』の扁額。旧東海道に戻り進むと変則十字路の左手に石碑が立っていた。『南無妙法蓮華経題目碑』。変則十字路の左手筋に『式内 上葦穂神社(かしほじんじゃ)』の社標とその先に『常夜燈』が建っていた。『常夜燈』。この筋を300m程入って「広野川」を渡ったところに社殿があると。「上葦穂神社孝徳天皇の白雉元年に阿星嶽ぷり五色の旗が降り、祀られたのが創祀と伝えられている。この御幡の降りた地を天神幡と言い、近くに「御幡塚」として現存している。祭神は伊邪那岐命、本殿はー間社流造り、神紋は左三つ巴、下り籐。」『上葦穂神社 拝殿』は訪ねなかったのでをネットより。 【https://rubese.net/gurucomi001/?id=829026】より更に旧東海道を進む。前方に橋が見えて来た。『落合川』に架かる昭和38年(1963)5月竣工の『落合川橋(おちあいがわばし)』を渡る。道が広くなったり狭くなったり。落合川橋を渡ると、『石部東』交差点で漸く『石部』の文字を目にする。ここを左折すると「石部歴史資料館」へ行けるようだがこの日は先を急ぐのでパスする。すぐ『石部宿』の案内板があり、『石部宿』の東の入口である。旧石部町の汚水マンホール蓋。「歴史民族資料館」をバックに、「町の花(サツキ)」を描いていた。祠に安置された石仏が左手に。『石部宿』の街道を進む。この宿場にも人の姿は少なかった。「東の見附跡東の見附跡は、目川屋より約30m東に行ったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた幅3mばかり、高さ2m程度の台場であり、石部宿場の両入口にあった。枡形城門の俗称で番兵が通行人を見張るところから 「見附」 と云われた。石部宿には東西2ヶ所に設けられていた。」『行書板(山庄板) 東海道五十三次之内 水口 歌川広重画』左手にあったのが『𠮷姫神社』。『𠮷姫神社』社標。石鳥居の扁額『𠮷姫神社』。『𠮷姫神社』参道沿いの石仏群。前方に太鼓橋、その先に二の鳥居。『二の鳥居』。『参集殿』。「吉姫神社祭神 上鹿葦津姫大神 吉比女大神配祀神 木花厨耶姫祠祭 五月一日勅使記念祭 九月二十{日由緒 創祀年代不詳。御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが 明応年度兵火によりこれを消失し天文三年に現在の地に祭祀された。 江戸時代に於いては社号を上田大明神社神としており、明治元年 許可を得て旧社の上田大明神社を改称して現在の社号の𠮷姫神社 となった。 明治元年九月明治天皇御東幸の際、神祇判官植松少尉を使いとして 参向せしめ幣帛料を下賜された。本殿 室町町時ぺ]夭文三年(一五三四年)の再建 一間社流造 間口一間三尺 奥行一間一尺拝殿 入母屋造 間口三問 奥行三間境内社 摂社 世継神社(天忍穂耳命) 末社 出世天満宮(菅原道賓公) 和田津見神社(水波之売命) 稲荷社(宇迦之御魂神)宝物 神輿(市文化財)」この石碑は「吉」が使われ、他の案内には「𠮷」(土のしたに口)が使われ統一されていなかったがどちらが本当なのであろうか?「敬神生活の綱領神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である。 神慮を畏み祖訓をつぎ、いよいよ 道の精華を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以である。 ここにこの綱領をかかげて向ふところを明らかにし、実践につとめて以て大道を宣揚することを期する。 一、 神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと 一、 世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと 一、 大御心をいただきてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること」『𠮷姫神社 舞殿』。少し高い場所に『稲荷社』。高床式の建物は宝蔵であり「神輿(市文化財)」を保管と。段上にある『神門(中門)』。『幣殿』。『幣殿』の天井。『𠮷姫神社 本殿』。白銀色のピカピカな狛犬(吽像)が透明アクリルケースに入れられて。黄金色のピカピカな狛犬(阿像)。『世継神社』。扁額『世継神社』。白銀色のピカピカの狛犬(吽像)。ここにも黄金色のピカピカの狛犬(阿像)。『出世天満宮』。『和多津見神社』。扁額『和多津見神社』。『舞殿』を『神門』前から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.05
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『西照寺』の南西山側に『松尾神社』と天台宗の『美松山 南照寺』が隣接していた。『松尾神社鳥居』。石燈籠が並ぶ参道を進む。この参道の桜は開花をはじめていた。参道を進むと左手前方に案内板が見えた。「南照寺・松尾神社桓武天皇延暦24年(805)宗祖伝教大師美松山麓に草堂を建立、これが南照寺の開基である。のち文徳天皇の仁寿3年(853)領主藤原頼平、山城の国より松尾明神を同所に勧請し、南照寺はその神宮寺となった。至徳年間(1384-87)火災により焼失、至徳3年(1386)現在地に再建、現在地は元岡之山城跡である。天然記念物の 「うつくし松」 は当明神のご神木として地域住民は信仰し山林を守っている。本尊薬師如来は秘仏で33年目に開扉、内陣には本尊を中心に十二神将、不動明王、神変大菩薩、十一面観世音菩薩等を祀り、他に本坊お内仏に阿弥陀如来を祀り、滅罪の道場を設けている。」『地蔵尊』。参道階段の先には近江湖南二十七名刹霊場第12番の標札が掛かる『山門』が。そしてその手前には『手水舎』が。正面に『芭蕉句碑』。『西行の 庵もあらん 花の庭』。「松尾芭蕉 句碑西行の 庵もあらん 花の庭 はせを元禄6年(1693)芭蕉51歳の句屋敷の庭には大きな桜があり、その見事さは吉野の山を想い出させる。西行もこんなところに居を構えていたであろうと想像し、招かれた人の庭をほめた句」『南照寺 本堂』。別の場所から『南照寺 本堂』を見る。『平松城阯の研究』。「平松城は松山の北東麓にあったとされる丘城。『嶋記録』によると田那部(田辺)式部丞の居城とされるが、詳しくは不明。田那部式部丞は今井氏の被官で、長沢城を本拠とした人物。平松地区の南照寺および松尾神社の背後の山中が城域と考えられる。松尾神社の周囲には土塁と思われる土盛りが確認できるが、城郭遺構であるかは定かでない。」とネットから。『松尾神社』の拝殿に向かう。『松尾神社 拝殿』。拝殿に掛かる『松尾宮』の扁額。『松尾神社 神門(中門)』とその奥に『本殿』。「松尾神社略記祭神 大山咋神 天忍日命 道臣命神紋 亀由緒桓武天皇延暦24年(805)宗祖伝教大師美松山麓に草堂を建立、これが南照寺の開基である。のち文徳天皇の仁寿3年(853)領主藤原頼平、山城の国より松尾明神を同所に勧請し、南照寺はその神宮寺となった。至徳年間(1384-87)火災により焼失、至徳3年(1386)現在地に再建、現在地は元岡之山城跡である。天然記念物の 「うつくし松」 は当明神のご神木として地域住民は信仰し山林を守っている。本尊薬師如来は秘仏で33年目に開扉、内陣には本尊を中心に十二神将、不動明王、神変大菩薩、十一面観世音菩薩等を祀り、他に本坊お内仏に阿弥陀如来を祀り、滅罪の道場を設けているという。」摂社 三宝社 天満宮 愛宕大権現 稲荷大明神 弁財天御神徳 醸造 開発 縁結び 交通安全例祭日 五月一日毎年7月31日に 『ぼんのこへんのこ』祭りが行われる。夏越しの祓・五穀豊穣・火難厄除けなどの祈願が混然一体となった祭り。直径2メートル余りの茅の輪(笹竹を荒縄で縛る)の前部に御幣1本と茄子三個(串刺し)を付け、その両者の間に、木製黒色の男根(約60センチ)をぶらさげる。 神殿儀式が終わると男子児童が『ぼんのこへんのこ、さあーくえもんのなーすびやーい』と囃しながら、男根をぶらさげた茅の輪をお旅所までかついでまわる のだと。『天満大自在天神・三宝大荒神』。『稲荷大明神』。『針塚』。『南照寺』、『松尾神社』を後にし坂道の参道を下る。先程訪ねた『西照寺』の『鐘楼』を再び見る。『西照寺』の『山門』を再び。『西照寺』の『山門』横の石碑。『南無阿弥陀佛百萬持書塔』街道に戻って進むと、左手の 「みよし酒店」 脇の筋に『天然記念物うつくしまつ自生地』の道標があった。うつくしまつ自生地は、ここから1㎞程先の標高227mの美松山(びしょうざん)の中腹にあり、自生するアカマツの変種である。みよし酒店の斜向かいにあったのが、真宗大谷派の『松香山 浄休寺』。『真宗大谷派 松香山 浄休寺』寺標。『山門』。境内に入れないと思ったが、旅友が脇門から入れると。『浄休寺 本堂』。浄休寺は、天正元年(1573)俊哲が中興し、元和5年(1619)現在地に移転したというが、現在、無住寺となっており、法事がある時のみ門が開けられると。『旧平松村』の集落には、旧家も点在しており、わずかに旧街道の面影を残していた。左手の空地の前に『高木陣屋跡』が。「元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年(1699)に平松を領するようになった。その後、文化年間(1804-17)に広壮な二階建てに陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有となり建物が取り払われた。しかし、陣屋の門は、その後所有者が転々とするが、現在は、三雲の郷内にあるレストラン入口の門として再移築されて、当時の面影を残している。」『高木陣屋跡』の板塀。旧家が続くが人の姿は・・・。更に進むと右手に真宗大谷派の『平等山 愍念寺(みんねんじ)』があった。『愍念寺 山門』。『鐘楼』。『愍念寺 本堂』。愍念寺は、もと天台宗の極楽寺と称したが、文亀元年(1501)大澤坊教西が、本願寺実如に帰依し、浄土真宗に改宗して愍念寺と改めた。本堂は、江戸時代中期の一般末寺の素朴で簡素に構成された外陣がそのまま残り、その頃の建立と推定され湖南市指定文化財に指定されている。「愍念寺 本堂愍念寺の前身は文治元年(1185)に大澤幽順によって八島より移り平等山極楽寺(天台宗)を再興し、文亀元年(1501)10代目になる大澤房教西(金ヶ森道西の次男で当寺の養子となる)が、本願寺実如に帰依し、浄土真宗に改宗し一宇を建立して平等山愍念寺と改称した。その後、元和5年(1619)に寺地を現在地に移して再建したと伝える。本堂の建立年代について明確な資料はないが、向拝の虹梁彫刻の様式が江戸時代中期の特徴を示しており、この頃に本堂が完成したと考えられる。本堂は間口5間に対して奥行が長い(7間)妻入りの平面。柱は面取り角柱、屋根は入母屋造の茅葺に見せかけた銅板葺(当初は茅葺)として地方の民家に近い外観を示す。正面には一間の向拝が付く。向拝の柱上は虹梁を架けた大斗・桧様肘木を組み、中備に蛙股を置いて寺院風に造る。内部は外陣と内陣に分かれる。外陣は中央に4本の角柱を立てて柱間に胴差を入れ、天井上の小屋梁を直接受ける。外陣は間仕切りのない一室として畳を敷き詰め、天井は竿縁天井に造られた惣道場を思わせる簡素な構成である。外陣の簡素に対して内陣は派手な意匠になっている。内外陣境は金障子に欄間は金箔の彫刻を飾り、内陣中央には丸柱の来迎壁に須弥壇を構え、漆塗りに金箔を押した華やかさである。このように内陣が派手になったのは、文化7年(1810)の改造修理によるものである。当時、一般末寺において「三つ並び仏壇」型式から、来迎壁に須弥壇を構えた「後門」式に改造することが普及した、後門式に改造するには来迎壁を設ける関係から内陣の奥行を大きくする必要があった。柱などの痕跡を調べると、内外陣境は半間外陣側に広げ、背面柱筋を半間後退して奥行を約一間(5尺7寸5分)大きくしていることが判明した。これによって当初の内陣は、奥行が一間(約8尺9寸)と浅く、背面側を三間に間仕切り床式の三つ並び仏壇形式であった。余間においても両側面を各一間拡張し、床の高さに上げた。屋根は明治14年(1881)の修理棟札に茅葺から桟瓦葺に変更したと記す。この修理によって小屋組は茅葺に適した屋根勾配の強い扠首組から勾配をゆるくした和小屋に変わった。平成17年(2007)に行われた解体修理では、当初が茅葺であったことが判明し、桟瓦葺から萱葺屋根に見せかけた銅板葺に変更された。本堂は、江戸時代中期の一般末寺の素朴で簡素に構成された外陣がそのまま残る。内陣についても、文化頃に普及した三つ並び仏壇から後門式への改造経過を知ると共に、今後においても部材に残る痕跡から当初の内陣形式の復原が可能である。奥行の長い平面に妻入、茅葺(防災上から銅板葺)の惣道場から発展した本堂の経過を知る上で貴重な建物である。」境内に居られた若い住職が本堂の扉を開けて下さり、本堂の内陣に案内して下さったのであった。『本堂』の鬼瓦。『鼓楼、太鼓楼』。『山門』の屋根を見る。旧東海道に戻ると左手に案内板が。「八島寺地蔵堂天平三年(七三一)、良弁僧正が夢のお知げにょって彫られ創建されたという。寿永の頃(一一八二)あの屋鳥の浦の戦いの後、平家の女官らが六道の態化、衆生済度のために建てたとも言われている。台座は四十ニセンチ、像高は百三十センチ、丸いお顔と胸部には白色が塗られ、清楚な感じがする。約四百年近く経っている地嵐尊である。」Iphonesで調べてみると、路地を入って150m程の場所にあるようであったが訪ねなかった。続いて右手に浄土真宗本願寺派の『紫雲山光林寺』があった。光林寺は建長4年(1252)青木民部の開基であり、もと天台宗であったが、文明9年(1477)蓮西により浄土真宗に改宗した。『浄土真宗本願寺派 紫雲山 光林寺』寺標。境内には、奥村志宇の句碑が。寛政7年(1795)の旧本堂鬼瓦。『光林寺 本堂』。本堂に掛かる『紫雲山』の扁額。光林寺寺標の向かいに建つ道標。『八嶋寺地蔵堂』と刻まれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.04
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次湖南市針の旧東海道を進んでいくと左手にあったのが、文化2年(1805)創業の『北島酒造』。『御代栄(みよさかえ)』と書かれた大きな木製看板が店頭に。鈴鹿山系の伏流水を使って昭和25年に売り出した銘酒 「御代栄(みよさかえ)」 は、万葉集第18巻・大伴家持の歌に由来するという。「天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く」 (すめろきの みよさかえむと あづまなる みちのくやまに くかねはなさく)菰樽酒『御代栄』。『杉玉(すぎたま、すぎだま)』。杉玉とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。「搾りを始めました」という意味である。『北島酒造』の工場を覗く。『北島酒造』の先に、『家棟川(やのむねがわ)』に架かる『家棟川橋』があった。『家棟川』は、かつては天井川であったと。家の屋根の棟ぐらいの高さの位置を流れていたのだろうか。『家棟川』の上流側。ここに『家棟川隧道』があったと。『奉両宮常夜燈』は伊勢神宮の外宮・内宮の両宮を指していると。「家棟川隧道遍額この場所から東約50m先の交差点付近には、以前天井川の家棟川があり隧道(トンネル・マンポ)がありました。旧東海道の家棟川隧道は、長さ21.8m、高さ3.6m、幅4.5m、欠円アーチ断面で両側壁とも花崗岩切石積みで、1886年(明治19年)に築造、 家棟川の平地化に伴い1979年(昭和54年)3月にその姿を消しました。当時のものとして、県令(知事)中井弘筆 「家棟川」 の遍額(題額)が、ここに残されています。現存する隧道は、1886年(明治19年)に竣工した由良谷川隧道と1884年(明治17年)竣工した大沙川隧道に2ヶ所で、国指定重要文化財に相当する土木遺産と評価されています。」昭和54年(1979)に河川改修工事により撤去された『家棟川』の扁額(題額)。「国指定天然記念物 うつくし松平松に自生する赤松の変種。 根から放射状に出て傘をひらいたような美形の松で、その名も「うつくし松」。 大小200本が群生し、日本でここだけしかなく、国の天然記念物に指定されています。平安時代、体が悪く弱々しい生活を送っていた藤原頼平という青年がこの地を訪れたとき、美娘が突然現れ、松尾神社のつかいで頼平のお供を命じられたといって姿を消した。 当たりを見ると周辺の木々が美しい松に変わったという。この地を頼平の平と美松の松をとって平松となったと言われています。」『東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ』の現在地をズームで。現在地はJR草津線『甲西駅』から300m程の場所。この写真の山の裏の滋賀県湖南市(旧甲西町)の南西に標高631.1mの阿星山(あぼしやま)がそびえている。そして阿星山の眼下の標高226.6mの美松山の南東斜面に不思議な松が自生しているのであった。アカマツの変種で、一本の根から地表近くで放射線状に枝が分かれた、笠や扇のような珍しい樹形をしており、地元の人はいつからか「平松のうつくし松」と呼ぶようになったのだ。自生地全体は特異な形態をなしており、その美しい景観は他に見ることができないと。しかし少々遠く訪ねることは出来なかった。これが『うつくし松自生地』とのこと。大正10年(1921)3月3日に天然記念物として国の指定を受け、現在約200本以上の「うつくし松」があり、樹齢300年以上、高さ約12.7mになるものもあると。独特の樹形の理由は、自生地の土質(砂が交じった赤粘土)のため、ともいわれているが、定かではないのだと。樹形は、扇型(上方山形)、扇型(上方やや円形)、傘型(多形型)、ホウキ型の四型式に分類されていると。 【https://ameblo.jp/buzz--yupphy/entry-12424175743.html】より家棟川を渡ると東海道の道筋は柑子袋(こうじぶくろ)という珍しい名の集落に入った。家棟川橋を渡って間もなく松尾神社、南照寺、西照寺の案内板が。左手筋を入ると浄土宗の『平松山 西照寺』があった。『浄土宗 平松山 西照寺』寺標。「木像阿弥陀如来立像西照寺(浄土宗)は、天文6年(1537)応誉明感の開祖で平松山と号する。阿弥陀如来立像は、正面の本尊(木造阿弥陀如来坐像)に向って右脇壇の厨子に安置されている。当時の什物帖には聖徳太子の作と記されているが、製作年時は、はっきりとしない。尊像は、上品下生の印相で、良<整った姿である。像高は84にて、室町時代の作といえよう。当寺は、平松の通称高木陣屋の領主である高木伊勢守の菩提寺で、高木家過去帳が残されており、九代・高木松雄公の墓かある。また、平松の代官で俳人としても知られている奥村亜渓と妻・志宇の墓及び句碑も境内にある。志宇女は、30年間にわたって知名士から集めた、うつくし松の吟詠集『千歳集』(町指定文化財)を残している。」『西照寺 山門』。『西照寺 本堂』。『西照寺』は、天文6年(1537)応誉明感の開基であり、本尊の『阿弥陀如来立像』は甲西町指定文化財である。境内には、俳句を通じてうつくし松を紹介した『奥村亜渓・志宇の句碑』や『芭蕉句碑』が。本堂に掛かる『平松山』の扁額。『奥村亜渓・志宇句碑』。「奥村亜渓・志宇句碑卯の花に すそすれすれて 更衣 奥村亜渓五月雨に 草木のこころ 引き立てる 志宇三雲村平松(現湖南市平松)代官奥村俊治と妻志宇は夫婦とも文芸を好み、俊治は亜渓と号して、自宅を「美松亭」と名付け風流韻事を楽しみ、客を厚遇したことから来客は絶え間なく、自ら美松亭亜渓・美松亭志宇女と称した。ここ西照時に夫婦の墓がある。」『地蔵尊』『鐘楼』。『芭蕉句碑』への階段を上る。この建物の名は?御影堂であろうか?『般若心経』『西照寺』の境内に『芭蕉の句碑』があった。「松尾芭蕉 句碑「ものいへは 唇寒し 秋の風 はせを」句碑の側面には「昭和五十五年庚申五月 美松山人建之」と。美松山人とは西照寺住職源信彦。自然石で高さ100cm、幅50cm、厚さ30cmの句碑。元禄四年(一六九一年)芭蕉四十九歳の句そして芭蕉の「座右の銘」にある句。人の短をいふ事となかれ 己が長をとく事なかれ他人の非をなじったり自分の優れたことなどをしゃべらないとの意味」別の角度から。この歌碑は?「花頂山大僧正〇〇上人」の文字が。石仏塚。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.03
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次夏見地区の旧東海道を進む。左奥にあったのが『湖南市立三雲小学校』。左前方に案内板が。「夏見一里塚一里塚とは、大きな道路の側に1里(約3.927km)毎に旅人の目印として設置した塚(土盛)である。一里塚か全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年に江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令が出iされ、徳川家康の命を受け大久保長安の指揮のもとに行われ、10年ほどで完了した。塚の大きさは5間(約9m)四方、高さは一丈(約3m)で多くは榎が植えられ.木陰で旅人が休息をとれるよう配慮されていた。この夏見の一里は、江戸の日本橋から115里の地点にあり.東の先は水口(泉)に.西の先は石部にそれぞれ一里塚があります.しかし.多くあった一里毒も明治以降は保護されず、道路の拡張や開発によってなくなり.そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のような跡地を示すだけになっています。この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺いちりつかで、このような塚がここにもあったと想像されます。」「東海道の一里塚」👈リンク「東海道の一里塚一覧」👈一覧 を参照下さい。そしてこの先の案内板で、道路にも□30cm程の黄色の『夏見一里塚跡』碑が埋め込まれていることを知り、引き返してカメラに納めたのであった。右手に真新しい『湖南市夏見会館』。夏見一里塚跡から70m程先の左手にある夏見診療所辺りが立場跡であり、石部宿一里塚と題された案内板が建っていた。「東海道五十三次 石部宿 一里塚この辺が夏見の立場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。名物トコロテンや名酒桜川を売っていた。又ここから約七十メートルばかり東に行った所に一里塚があった。道路南側に約三十センチメートル四方のコンクリートの枠が哩められている。一里塚に植えられた榎の木陰で旅人はトコロテンを食べながら一休みした場所である。」そしてこの心太(トコロテン)にまつわる歌が残っていると。「いさぎよき 菜摘(夏見)の茶屋のところてん 水からくりの まわす人形」この歌の意味は、「背後の山から湧水を引いて、その水で心太を冷やし、その冷やした水でからくり人形を動かして、旅人の目を楽しませた。」『三代歌川広重 東海名所 改正五十三驛 東海名所改正道中記《五十五》石部 目川の里 草津迄二り半八丁 』美しい屋根付きの板塀の民家が左手に。以前は石塀であったがその上に板を貼り付けたのであろうか?そして再び前方に天井川の隧道の姿が。立派な民家にはなまこ壁も。程なく右手にあったのが『真宗本願寺派 龍王山 報恩寺』寺標。『報恩寺 山門』。『報恩寺 本堂』。本堂に掛かる『龍王山』の扁額。『親鸞聖人像』。井戸のある『手水舎』。『報恩寺 掲示板』。『コロナウィルスに気をつけよう』と。そして『人間はみんな裁判官 他人は有罪 自分は無罪』👈リンク街道に戻ると、由良谷川隧道手前の右手筋に昭和10年(1935)の『新田道』道標が建っていた。トンネルの手前に、東海道と直角に野洲川方向に道が伸びていた。野洲川の方面にかって新田が開かれたのであろう。『由良谷川隧道』由良谷川隧道には、天井川の由良谷川が流れている。由良谷川は上流の竜王山に源を発し、曲流しながら北に向かい、野洲川に入る。川幅2〜6mで、平時は水が無い河川である。隧道は、明治19年(1886)3月20日の築造であり、この先の草津川の隧道も同日の竣工である。大沙川からは1.5km西側にあります。長さ16.0m、高さ3.6m、幅4.5m、欠円アーチ断面の隧道。隧道の入口上部には『由良谷川』と刻まれた石が。隧道を潜って進むと前方にあったのが『新由良谷川橋』。これが現在の改修された『由良谷川』。由良谷川隧道を抜けると、『旧針村』の集落に入って行く。旧甲西町のマンホール蓋。野洲川のさざなみと、 町の木「ウツクシマツ」が描かれているのだと。旧家が続く。緩やかに右にカーブする旧東海道。先に進むと左手の細い筋角に『子安地蔵尊碑』が建っていた。この筋を入って行くと浄土宗の和厳山西光寺の裏手に出る。西光寺は、文亀元年(1501)享阿弥の開基で、本尊は阿弥陀如来である。直ぐ先の右手に『針公民館』があった。公民館脇の「おやすみ処」には「ようこそきづな街道(東海道)へ」 の看板が掛かっていた。公民館前には、東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ、『針文五郎顕彰碑』案内板が。「天保13年(1842)10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓が幕府の不法検地強行に対し蜂起した天保一揆である。 この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。針の文五郎は十万日検地日延べ書持参の罪であった。 一番駕籠は文五郎で道中3人が死亡し、江戸の白洲で8人が拷問にあいながら不法検地を訴え続けた。しかし、全員獄死した。 針の文五郎は人一倍正義感の強い指導的立場の精農家であった。天保14年4月18日死亡 行年50歳」。石碑はどこにも見当たらなかったがどこにあったのだろうか?『針公民館』の先の左筋を入って行くと、真宗本願寺派の『西教寺』があった。『西教寺 山門』。『西教寺 本堂』。『本堂』に吊るされた大太鼓。『親鸞聖人像』。『西光寺』。『西光寺 山門』。『浄土宗 和厳山 西光寺』寺標。『西光寺 本堂』。更に旧東海道を進む。十字路左角に『飯道神社』社標が建っていた。飯道神社は、この筋を200m程進んだ林の中に有り、大同2年(807)の創祀といわれ、古来針村小字飯道の森に所在していた。祭神は素盞嗚尊である。静かな旧東海道沿いの住宅街が続く。右手に『敬應寺 山門』。『敬應寺』寺標。『敬應寺 本堂』。旧東海道に戻ると左手の御神木?の囲いの場所にあった石仏3体。その敷地内に建屋が背を向けており、回り込んでみると、建屋の中に小社が祀られていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.02
コメント(1)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次右手に民家の立派な門。門から車で出てくるオバチャンに聞くと、中には庭園があり見学可能とのことで、中に入らせていただいた。再び冠木門がありその先に庭園が。『今日是好日』と刻まれた石碑。『日々是好日』という言葉は知っていたが・・・。純和風庭園。大きな石灯籠が。旧東海道に戻り、左手に『吉見神社』社標があったが300m程先とのことで訪ねなかった。。『吉見神社』拝殿。 【https://shigajinja.shiga-saku.net/e1093432.html】よりその先、右手奥にあった祠。そしてしばらく進むと石積みの隧道が姿を現した。右手に『おもてなし処(休憩所)』があった。このあたりの町では旧東海道を「きずな街道」と銘打って休憩所を整備しているようであった。休憩所には、三雲城址の幟や猿飛佐助甲賀流忍者の里看板などがあり、壁面に 「戦国時代の六角と甲賀忍者」 解説などが貼ってあった。中には『三雲城址』と書かれた幟が。応仁の乱の頃以降に、三雲氏が比高約200mの山に築城した典型的な山城跡。1568年、織田信長の侵攻で、観音寺城が落城した後も、六角義賢・義弼父子はこの城に逃れ、再起を図った。1570年に佐久間信盛に攻められ落城し、廃城。城の石垣は、水口岡山城の築城の際に使われたとされる。遺構は、枡形の虎口や郭・土塁・壕・井戸などが、しっかりした形で残る。城内の一角には巨大な八丈岩があり、六角氏の家紋・四つ菱が彫られている。一帯は、ハイキングコースとして人気で、眼下に野洲川と、対岸の竜王方面の眺望が楽しめる。と ネット情報から。『猿飛佐助のふるさと 三雲城』「真田幸村に仕え、真田十勇士の猿飛佐助は「三雲城主で三雲新左エ門賢持の子、三雲佐助賢春」であり、幼少のころは三雲城で剣術や忍者の修行をしていた。小説家司馬遼太郎氏は、小説「風神の門」において、猿飛佐助は三雲城がふるさとであると実在説を支持している。」令和元年の『近江中世城跡 琵琶湖一周のろし駅伝』ポスター。23箇所の山城で一斉にのろしを上げる。その後スタート地点から順次のろしをつなぎ琵琶湖一周をし、ゴール地点までのろしをリレーするのだと。そして『大沙川隧道(おおすながわずいどう)』大沙川は東海道の上を流れる天井川である。 奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿山となり、大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がりいつしか家や田畑よりも高くなったもので、川の氾濫を防ぐため、土手を高く築き直した結果、川の方が、このように高いところを流れるようになったものである。 明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造され、花崗岩の切り石積みの頑丈な構造で地元では『吉永のマンポ』と呼ばれ親しまれている。「日本最古の石造トンネルが湖南市吉永にある『大沙川腱道』で明治17年外国人技師を招いて造られました。地元では「まんぽ」とトンネルのことを呼び『大沙川隨道』のことも「吉永のまんぽ」と呼んでいます,この「まんぽ」一説には鉱山などの「間歩(まぶ)」という穴から来たといわれます。またフランス人が話していた「メインフルー」というトンネルつまりマンホールから来たという説もあります。湖南では「まんぽ」ですが、地域により「まんぼ」「まんぼう」「まんぽり」などと変化しています。そして2年後の明治19年東海道の夏見一針に『由良谷川隨道』と『家棟川隨道』が造られ、大正6年野洲に『家棟隨道』が造られましたが、『家棟川隨道』は昭和54年.『家棟隨道』は平成18年に撤去され、天井川の石造隨道は『大沙川隨道』と『由良谷川隨道』のみになりました。」『大沙川隧道』の入口上部には『大沙川』の文字が。隧道の天井部の石積み。そして『大沙川隧道』を潜ると、左手には『大沙川の隧道』、『弘法杉』の案内板が。「大沙川の隧道大沙川は、旧東海道の上を流れる天井川です。奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿山となり、大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったと伝えられています。当時三雲地区には天井川が多く、大沙川、由良谷川、家棟川もそれぞれ旧東海道と交差していた。人々は、天井川に出会えば、土手を登り、小橋か浅瀬を渡って川越するという「人馬通行ノ難所タル衆人ノ熟知スルところ」であった。明治になると東海道を整備することとなり、その一環として天井川に隧道を掘って人馬の通行の便宜を図ることになり、明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造された。全長16.4m、高さ4.6m、幅4.4m、半円アーチ形天井、壁は花崗岩の切石積みという立派で頑丈な構造で造られており、地元では「吉永のマンボ」と呼ばれ親しまれている。また、このトンネルの上には弘法大師の伝説で伝えられている樹齢750年の「弘法杉」が聳えている。」天井川の『大沙川』は両脇をコンクリートで固め、幅約1m程度の水路になっておりこの日は全く水が流れていなかった。『八丈岩・三雲城址』にはこの山路を上って行くようだ。隧道の上には、推定樹齢750年の『弘法杉』が聳えていた。その下には『弘法堂』。石段を上って『弘法堂』へ。『大杉弘法堂』を正面から。『弘法堂』内部には『弘法大師像』が安置されていた。「弘法杉旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹令約750年の杉がある。 この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れたといわれている。 昔からこの地方の子どもが左手に箸を持って食事をするものは、この木の枝で箸を作って使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。 そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。一説によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽を出したとの説がある。 その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773)の台風でそのうち1本が倒れたともいわれている。」『弘法大師錫杖跡碑』。浄土宗の『吉祥山 西往寺』をズームで。西往寺は、貞享2年(1685)吉祥房が中興し、明治期以後知恩院に属した。また、西往寺は甲賀組第一部法然上人二十五霊場第21番であり、境内には一石六体地蔵尊などがある。『大沙川隧道』を振り返る。『大沙川隧道』を抜けた後、左に急カーブしており見通しが悪い場所となっていた。左手に『三雲城跡 1.7km』案内板。「東海道五十三次 石部宿 三雲城跡と八丈岩三雲城は山の中腹(標高三百四十メートル)の八丈岩付近に安土の観音寺城主佐々木六角高頼の逃げ込み用の本城として長亨二年(一四八八)三雲典膳に築かせた。 しかし織田信長の京都侵攻で、信長の家臣佐久間信盛に攻撃を受け、元亀元年(一五七○)山裾にある三雲屋敷と共に落城した。 城跡には石垣の枡形虎口や、石組の古井戸、八丈岩の背後の巨岩群の中に六角氏の家紋「四つ目結」が刻まれた岩も残っている。」『浄土宗 吉祥寺山 西往寺』寺標が左手に。更に旧家の続く旧東海道を進む。十字路の左手にあったのが『夏見の里(藤棚)』案内板。「この辺が夏見の里と言われ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。名物のトコロテンや名酒桜川が茶碗酒として計り売りされ、店先では水車を廻し旅人の目を楽しませていた。又、いなりやという茶店があり歌川広重が描く(藤の棚)の店として紹介されているが、平成二十一年に藤と共に棚も撤去された。」左手に折れ『盛福寺』を訪ねる。『観音寺』はその奥に。『浄土宗 盛福寺』寺標。『盛福寺 山門』。『盛福寺』境内。『せいし丸さま』。法然上人は平安の末、長承2年(1133)4月7日、美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄に押領使・漆間時国(うるまのときくに)の長子として生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)と呼ばれた。『水子地蔵尊』。『盛福寺本堂』。盛福寺は、元亀年間(1570-73)慶春が中興し、もと光明寺(現観音寺)の一院であった。境内には、愛宕神社の境内社のほか、地蔵菩薩半跏像などがあると。本堂に掛かる『金照山』の扁額。『地蔵菩薩半跏像』。『愛宕神社』。『愛宕神社』内部。『愛宕山常夜燈』。民家の壁には『夏美』地域の案内図が。『夏見案内図』。『夏見の里』。夏見の里は石部宿の「立て場」の役割を果たしていたのだと。立て場とは「江戸時代、街道で駕籠かきなどが杖を立て、駕籠や荷物をおろして休息した所」。下の絵は説明板に載る絵で「伊勢参宮名所図会」から引用していると。『夏見の里』「方丈記に行く水の流れは元の水にあらずといへども、この木偶(にんぎょう)の行衛は、元の水にして、しかも昼夜すてずただ過ぎにすぐる物と「枕草紙」にいひし類とやいはん」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.01
コメント(0)
全406件 (406件中 1-50件目)