宇宙は本の箱

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六次元講義(34) 細々と縁


講演会の夜も、主人と私はまだニ三回しかお会いしていないのに十年来の友人のように先生と歓談し、T教授らはかしこまってばかりいた。普通の者は皆そうだと言うが、私なんぞ、先生がそこにおられるというのに話をせず、折角の時間を無駄に過ごすほうがよほどおかしいと思うだが、その日の午後も、人らの視線は私を厚かましい異端者だと言っていた。

裕道氏の著書の話をし終えて席に帰ると、はじめて会う人が私に話しかけて来た。
「あなた何者?」それがSさんだった。
「どこかで会ったことがある。私はあなたを知っている」目をぐるぐるさせてそう言った。
後にも何度かそう言われ、親子二代、またそれ以上、仏教、神道、それぞれの勉強を重ねられた、しかも越の国の旧家の人にそう言われてはちょっと考えてしまったが、私を見たら菊理媛神を思い出したから石川の白山神社に行きなさいと云われたその夜を契機に、名古屋の人とも、また弥彦のおばあさんとも親しくなった。
殊に弥彦のおばあさんは息子さんの方には行かず、どこでも私についてまわるようになり、いつしか新潟から電話までかけて来られるようになったが、その時はまだ息子さんは少し大人しすぎるような人だとの印象しか持てないでいたのだった。
おばあさんは自分の家で採れたお米をお礼にと送って下さったりしたが、その二年の後亡くなったと葉書が来た。先生はその人達の家でしばしば起きる不思議をよく語られたが、その人達が由緒ある家の人達だと言うことだけで、まだその時は何も知らなかった。
知らないから、その人達と私が親しくなったことに時折首を傾げるだけで、それ以上弥彦のことを調べようとも思わずにいた。
気になったのは先生が講義に出られなくなってから。
その大人しさが病的に感じられた方の息子さんの声を聞いた時。

その声の美しかった事!
その声の清清しかった事!

私は一番最初からその人を知っていたけれど、初めてまじまじと顔を見た。
びっくりするほど目が澄んでいた!
時折読んでいた目を見張るようなその人の名の文章が、まごう事なきその人の文章だと知った。


さて、この人は一体どなたの子孫だったか?
「○○天皇の子孫じゃー」と、初めての日、顔を見るなり先生の方がそう言われたとか。
あの人達はそういうことは全然知らず、先生が言われたのだと。
歴史に詳しくない私は、うっかり聞き逃したその天皇の名が知りたくて、去年になって弥彦を調べる。
カモさんが私とは加茂、鴨のご縁だったように、
弥彦は・・・・実に実に楽しい!この繋がり!
天孫神社横でご兄弟お二方と話した朝。あの居眠りしてしまった朝。
私はまだ首を傾げるだけで何の興味もなかったけれど、
今は・・・その天皇の名が知りたい。
・・・けれど、知ったってそれは詮無いことだから、
いつか逢える日まで楽しみながら待つことにしよう。




おやひこさまは弥彦に下向される前は、紀伊半島の熊野にお住まいでした。和歌山県新宮市にある神倉神社(かんのくらじんじゃ)は、おやひこさまが当時、高倉下命(たかくらじのみこと)と呼ばれていた頃の杜(やしろ)です。その後、神武天皇が東征(九州から大和に向かった)された折、高倉下命は紀伊から大和へご案内され、やがて大和の地に大和朝廷が成立したのです。橿原の宮で神武天皇が即位して4年ほど後に、高倉下命は天皇より高志(こし) 〈越の国〉の国造りの命令を受けられました。

高倉下命たち一行は現在の寺泊町野積海岸に上陸し、その後弥彦の地に居をかまえた命は、天香山命(あめのかごやまのみこと)と呼ばれ、越後の国の開拓に力を注がれたのです。

野積浜には「弥彦神社御上陸地」と刻まれた高さ1メートルほどの石碑が建てられています。


大森利憲著「峰の桜」おやひこさま物語より一部要約


ホツマに近し?












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