SARSの思い出 <始まり>
中国の病毒肺炎がいったい何なのかよくわからないまま時間が過ぎ、それでも私達は対岸の火事のような感じで中国を眺めていた。ところが、ついに対岸の火事では済まされない事態になってきたのだ。
最初に危険を感じたのは、ある中国人ドクターが親戚の結婚式のために来港していたときに、発熱などのインフルエンザ症状が出たため自ら病院に行き、結局肺炎で命を落としたというニュースが伝えられたことだ。このドクターは2月22日に入院、3月4日に亡くなっている。しかしこの時点ではSARSという病名はなかったので非定型肺炎(Atypical Pneumonia)と呼ばれていた。後にこのドクターが佛山の病院で<兆し>に書いた中国での病毒肺炎患者と接触があったこと、そしてかなり時間が経ってから死因はSARSであったと認められている。危険を感じてはいるものの、このドクターがSuper Spreaderになるということはこのときは誰も考えていなかったと思う。
このドクターの事件を始まりにして、実はベトナムでも同じ肺炎で犠牲者が出た。しかしベトナムは唯一、犠牲者を最小限に押さえコントロールがうまく行った場所となった。それでもその当時はかなり大事になっていたし、その後まもなく、「えらいことになったな」と思えるニュースが毎日ニュースで報じられていた。
このとき一番印象に残った言葉といえば、なんと言っても「WARD 8A」だ。これはPrince of Wales Hospitalの病棟の番号だ。この病棟に入院していた患者から、医療関係者(医者、看護士など)11人が次々とAtypical Pnuemoniaに感染していったのだ。そう、香港のSARS地獄は3月10日、この11人から始まったのだ。
まもなく、このWARD 8Aは閉鎖され、当時働いていた人たちはその中に隔離されることになった。しかしそれでも感染者の数が減ることはなく、どんどん増えていったのだ。中には家で調子が悪くなった人もいて、もちろん家族への感染も避けられなかった。
当時の日記を振り返ってみよう
2003年3月18日
そうそう、今アジア各地で怖い病気が流行っている。病気の名前はSARS(重症急性呼吸器症候群)と名づけられた。細菌性の一般的な肺炎とは違って、たぶんウイルス性の「非定型肺炎」と呼ばれるものに属している肺炎だそうだ。今は抗生物質も効かないので病状がおさまっていくのを見守るしかないらしい。もともとこの病気で亡くなった米国籍の中国人が入院していた二つの病院で感染者が続出しているのでたぶんこの人が発生源になっている可能性が高いらしい。
ただこの人に接触していない人が感染している事実もあるので、別に感染源があることも考えられている。その人たちは発病前にアメリカに立ち寄った事実があるので、今アメリカ国内も詳しく調査しているみたい。
幸い空気感染はしないようなので一気にひろまることはないと思うけれど、とりあえずWHOの研究隊ができるだけ早くこの病気の正体を見つけてくれないことには解決にならない。香港はそれでなくてもインフルエンザ発祥の地として有名だし、現在もH5N1という鳥から人、そして人から人に感染することが最近わかった鳥のインフルエンザも発生している。
先月は中国で病毒肺炎が流行して大騒ぎだった。この病毒肺炎はどうもクラミジア肺炎だということだけど、この肺炎とSARSとがまったくの別物であることは証明されていない。
私はWHOのサイトを頻繁にチェックして何か新しい展開がないかを調べているけれど、こういうことは時間がかかるらしくそう簡単にいかないみたい。
何かわかったらまた書きます。
病気になんか負けないで頑張ろう。
2003年3月15日 WHOがこの病気をSARS(Severe Acute Respiratory Syndrome)と名づけた。HONG KONG SARのSARとだぶって悪いイメージなので文句を言ったらしいけど、結局この名前に落ち着いた。すごい皮肉な名前だと当時は思った。
名づけと同時にWHOがTravel Advisoryを発令した。後の4月2日、香港、広東エリアへの渡航勧告が出た。
「WARD 8A」が香港でのSARS Outbreakの始まりとなったわけだけれど、ここでも実はSuper Spreaderが存在するのだ。26歳の患者がインフルエンザに似た症状で3月の初めに入院してきて、その後、彼から何と!143人もの人間が感染したのだ。医者、看護婦などの医療関係者、医学生、見舞い客、そして彼の親戚達だ。しかし彼自身はSARSで命を落とすことなく、回復してその後退院している。
実はここに恐ろしい事実がもう一つあったのだ。この26歳の彼は、もう一人のSuper Spreaderである先にも書いた、中国の大学教授の親戚で、この大学教授に某ホテルで会ったときに感染したとされている。この某ホテル内では別の国から来ていた客にも感染して、その後シンガポールとカナダに飛んでいってしまうのだ。
カナダへ戻った中国人は命を落としている。
当時、Prince of Wales Hospital以外の病院でもSARS患者が増えていったのは、この26歳の親戚たちがあちこちの病院に行ったこと、そして某ホテルの同じフロアに出かけた香港人がそこで感染して、その後発病、そしてそれぞれのかかりつけの病院に行ったことで、どんどんSARS患者が入院している病院が広がっていったようだ。
そして、ベトナムでSARSにかかってその後香港の病院に転院してきた人も、後で調べてわかったことだけれど、大学教授が泊まっていた時期に同じ某ホテルに滞在していたのだ。
この一人の大学教授(Super Spreader)を通して、中国、アメリカ、シンガポール、カナダ、ベトナム、フィリピン、イギリス、香港へとSARSが感染を広げて行ったと言われている。
結局、Prince of Wales Hospitalだけではなく、香港中のあちこちの公立病院に多くの病人が入院して、医療関係者に感染して、どんどん感染者数が増えていったのだ。もちろんその間に死亡したケースもあり、そのニュースを聞くたびにぞっとしていたものだ。
3月27日の日記
今 世界中でブレイクしている非定型肺炎=Atypical PneumoniaまたはSevere Acute Respiratory Syndrome(SARS)のことで香港はえらいことになっています。この頃、肺炎の感染におびえた香港市民は、手洗いなどの衛生面にものすごく神経質になり始め、N95マスクという3Mのマスクが町に出回り始めた。このマスクが一番細菌を通さないマスクと言われ、似たようなタイプのマスクがかなり出回ったのだけれど、通気性が悪く、長くつけていると息苦しくなってくる。特に妊婦がこのマスクを使うと酸素不足になって危ないとも言われていた。その後は手術用のマスク(薄いタイプ)が一般的となり、ピンク、水色、緑、黄色などカラフルなマスクを町行く人、バス、MTRに乗る人のほとんどがはめていた。
マスクとともに売れたのが、簡易消毒液だろう。これは手にスプレーしたり、手にすり込むだけで殺菌できるというもので、多くの人がアルコールなどと一緒に、これをバッグに携帯していた。
しかし、SARSの感染被害は3月の終わりから一般市民に広がり、一気にピークに上り詰めていくのだった。この時期が一番恐怖だったと記憶している。
そして、私はこの時期、個人的にも母の病気の発覚などもあったので、精神的にものすごく弱っていて、母の病気+SARSで死のイメージがどんどん心の中で膨らんでいく状態にあっぷあっぷしていた。