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私を解放すること
「私は私である」――からの解放 そのⅠ
at 2003 06/10
【解放】をテーマにお届けした広場(ネット交流)論に続き、今回からは哲学を道しるべに【解放】をお届けしていきたいと思います。
どうか音をあげすに(笑)、ゆっくりおつきあい願いたいと思います。
そして、今月末にはアタシが一年かけて常に「関係性」という視点を貫いてまいりました集大成にもなるかと思います。
この関係性とはあなた以外の世界=対象(ひとであれものであれ・・)との関わりです、関わり方です。
今回は関係性という鍵を新たに「間(ま・あいだ)」という設定であらたに切り込んでみたいと思います。
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――私は私であるとは?――
アリストテレス哲学の系譜以来、「主語であって述語にならないもの」を「実体」として置き、その実体を中心に論理が構成されてきました。
「実体」とは「物」であり、「対象として捉ええるもの」です。
例えば、ここに「ある」ものをパソコンとして規定したとき、「これは私です」というように主語を述語の位置へもっていきます。
「このパソコンは白い」、「このパソコンは大きい」というときは主語の「向こう側」にありますよね。
そして、「これはパソコンです」ということを「パソコン性」とするならば、そのパソコン性というものは、「こちら側」にあります。
この主語的自己というのは、確かな同一性として考えうるものでしょうか?
ここで、同一性というものがとても難しい問題を含んでいることに気づくはずです。
――昨日の私と今日の私の、同じ保証はどこにもない――
毎晩のように深い意識の断絶で隔てられてますよね。
「私は私である」という自同律が成立する根拠に「自己の自己性」ということを考えなければその等式自身が単純に与えられた真理ではなくなります。
その都度その都度、瞬間瞬間に「私が私を私として見出して」いかねばならないのです。
「私」という「差異化」のはたらき自身が何らかのかたちで、それ自身をもう一つ前の時点での差異化のはたらきと連続的に結びついていないと、私の同一性も成立しないのです。
差異化・・・・というものを冒頭でパソコンを例えて擬似空間的に「こちら側」と「あちら側」という設定でお話させていただきました。
実は差異化というのは、「私と、一瞬前の私」という空間的な差異でもあります。
つまり歴史ですよね。
そして、これを統合あるいは積分すると、瞬間瞬間の私があり、図式的に申せば、頭のなかにある自己同一性というものはないことになります。
さて、デリダやドゥルーズ、ラカンといったフランス思想家が便利として使ってきた「差異化」ですが、私たちにもう少しわかりやすい言葉―「間」―と置き換えてみましょう。
間(あいだ)は空間
間(ま)は時間
次回は、ハイデガーの「存在的差異」を踏まえて、「間」の話を紡いでいきたいです。
アリストテレス他古代ギシリア思想家の存在論が、―物の存在―、―物がある―、という存在しか問題にしなかったことに対し、ハイデガーの場合は――物から自由とか、個々のものがあるない以前に、なにかそもそも「あるということ」――を考えてきたのです。
(つづく)
心地よい音楽会――「私」の解放
at 2003 06/12
このところ、「広場(広場という意味は解説ずみですよね)」のたくさんのお友だちと、手紙の交換をせっせとしています。
ネットにはない間(ま)とか間(あいだ)がかなりあるわけですが、その間(ま・あいだ)にあることばの重ねあいが、アタシには心地よい音楽会のように思えてならないのです―――。
BY フンコロガシ
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――自己性は自己の内部には成立しない――
ハイデガーは存在一般、あるいは存在そのもの「ある」ということそのものの「あいだ」を考えました。
(注:ハイデガーは「存在論的差異自身」が本当の存在だということを証明するために、様々な表現を用いていたのですが、アタシは―間(あいだ・ま)そのものが存在だ―と解釈いたしております)
「あいだ」、「ま」の説明をもう少しわかりやすく音楽会の「合奏」で例えてみましょう。
合奏がなされているとき、そこで「鳴っている音楽」を、演奏者一人ひとりは「自分」と「相手」の「あいだ」で聴いています。
もちろん、自分と相手のパートの演奏音楽は分かれているのですが、それは意識したときに分かれるのであって、それ以外のときはいつも一緒でどこか「自分自身でない場所でない」ところで聴いているはずです。
気のあった演奏とは一つひとつの音を相手の音に合わせるのではなく、音と音の間の休止符の部分で、相手の呼吸に合わせているはずです。
そして、このことは演奏者だけでなく、聴衆者もこのはたらきに参加するのです。
この演奏のなかでの休止符こそが、間(ま)とか間(あいだ)というのが、「差異を生む」はたらきとしての―差異―だと考えうるのです。
時間軸・空間軸どちらで捉えても、意識のなかでどちらに―投影―するかによるだけで、どちらも同じことといえるのです。
ハイデガーの存在論的差異はこのような要点にまとめうるのではないでしょうかー――。
これは自己と他者との【出会い】、人間関係にも当てはめることができると思うのです。
【気のあった演奏会】というのは、きわめて自然に経験されるなにか、ひとりでに、おのずから鳴っている音楽のように聴こえませんか?
そして、演奏者もそのように体験しているはずです。
そういう「体験」のなかでのみ、演奏者は自発性、自分が力を発揮した実感をもつのです。
「みずから」も「おのずから」も同じ漢字である【自】を用います。
おのずから、とみずから、は一見逆のようでも自力と他力みたいなものは実は一つなのです。
そこに本当の自己性が見出せ、成立するのではないか、――ということです。
アタシが口酸っぱく広場でやこの「幸せ帳」
で申してきた「自我」や「自己同一性」、「内面性」、「自己と向き合う」、、、という近代的幻想である旅路・道しるべに否定的で、「関係性を・・」と説くのはこのことなのです。
前者はアタシはひとまとめに「自己中心的ベクトル」とも言っています。
「関係性(ま・あいだ)」を――――。
自己性というのは、自己の内部に成立するのではなく、自己のどこか外部に成立する以外にないのではないか?
それが、自己の【解放】にも繋がるのではないか?
このことを広場のお友だちにもよく投げかけてきました。
アタシはこのことを自我ならぬ【他我】というアタシの造語で申しておりました―――。
心地よい音楽会のように―――
アタシがたどってきた(たどりつこうとする)道しるべなのです―――――。
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